塔の上
それから三日、グレンは黒塔にやって来なかった。
どこにいるのか、何をしているのか、どうして来ないのか、連絡もないから一切判らない。
これまで顔を見せない日は一日もなかったのに。
忙しいのか、それとも、身体の具合でも悪いのか。
ヤナに頼んで探ってもらおうかと何度か考えたが、結局やめた。
だってそれではまるで、彼が来ないのを気にしているみたいだ。食事はちゃんと運ばれるし、グレンが姿を見せないからといって、別にティコにとって不都合があるわけでもない。それなのにこちらから行動を起こすことには抵抗がある。
ひょっとしたら、ティコに対して怒っているのかもしれない。結局、あの言い合いをした後、グレンとは直接口をきいていなかった。
彼はもともと役目としてティコの懐柔を命じられていただけなのだし、もう知ったことではないと放り出すことにしたのか──
「……別に、こっちだって知ったことじゃないけど」
独り言のように呟いて、窓台で眠っているヤナの頭を撫でる。チリチリという鈴の音を耳に入れながらも、ティコの目はガラス窓の外へと向いていた。
高い塔からは、眼下の景色がよく見渡せる。
ここは城の敷地の端にあるのと、不気味な外観をした黒塔はそもそもいわくつきの建物であるから、滅多に人は寄りつかない。やって来るのはよほどの物好きか、この塔に用事がある者くらいだ。
長いことじっと見つめていたが、いつまで経っても窓の下に人影が現れる気配はなかった。
ふ、と息を吐き、今度は視線を城壁の先へと向ける。
ここからは遠すぎて、城下町はまるで小さな箱の集合体のようにしか見えない。
あそこでは今日も、多くの人が行き交い、子どもが走り回り、住人らが仕事や商売に精を出しているのだろうか。
女の子たちはもう安心して外に出て、笑えるようになっただろうか。
乾燥した空気。入り混じる数多の匂い。圧倒されそうなほどの賑やかさと、人々の活気溢れる声。
楽しいこともあれば苦しいこともあるのだろうが、住人たちは皆、生きることに貪欲だった。
グレンが町へ連れ出して実際にこの目に見せてくれるまで、ティコはそんなことを考えたことはなかったし、想像することもなかった。
ずっと森の中の小さな家で暮らし、ほとんど他人とは関わらず過ごしてきたティコは、「世界」というものを頭の中でしか理解していない。
人よりも知識はあるつもりでいたが、それは本当に「知っている」ということにはならないのだと痛感した。
どれだけ本をたくさん読もうとも、実際に経験し、体感しなければ、どうしても知り得ないことはある。
──自分だけが高く美しい場所から他人を見下ろしているとでも思っているなら、それは大間違いだ。
グレンに投げつけられた言葉が、棘のようにティコの胸に引っかかっている。
それと似たようなことを、以前、マルティンも口にしていたのではなかったか。
『私は心配なんだよ、ティコ』
長く白い眉を垂れさせて、彼はティコにそう言った。
『まだまっさらな子どもの時に、酷い悪意に曝され、人間の負の面だけを目の当たりにしてしまったおまえは、それが人というものだと深く心に刻みつけてしまった。そして今も、その傷に強く縛りつけられている。いいかねティコ、人というものは確かに、醜く浅ましいところもあるけれど、そうではないところも多くあるのだということを、おまえは少しずつでも認めて受け入れていかねばならないよ。どんな人間も清濁を併せ持っていて、どちらが表に出るかは、その者の心の強さ弱さによって決まる。おまえもそうだし、私もそうだ。私は弱いが、おまえはもっと強くなれる』
そんなことはない、とティコはその時、躍起になって否定した。マルティンが弱いなどということがあるものか。彼は偉大なる魔術師で、その術を私欲のために使わない清廉な人格者だ。普通の人とはまったく違う。
ティコの反論に、師は困ったように首を振った。
『そうではない。私は多少特異体質ではあるが、それでもやっぱり人間であることに変わりはないのだよ。だからこの齢になっても、進むべき道に迷い、惑い、悩み、時に足を止めることもある。……ティコ、魔術師を特別だなどと思ってはいけない。他の人と違うことができるというのと、自分が他の人と違う存在だと考えるのは、まったく別のことなのだ。それはすぐに、危険な思想に繋がりかねないということを、常に肝に銘じておきなさい。魔術師もまた人だ。人は人の枠からは出られない。人だからこそ、人を必要とするのだ。人と交わり、人を知りなさい、ティコ』
マルティンのその言葉が、ティコの頭の中で反響している。
高い塔から眺めるだけの遠い景色は、自分に何も与えてはくれない。
***
そんな調子で悶々としていた四日目、ランベルトがまた突然やって来て、ティコは塔から出された。
そしてそのまま宮殿内のどこかの一室に放り込まれたと思ったら、侍女らしき女性たちに一斉に囲まれた。
「あとで迎えを寄越すから。じゃあ、せいぜい磨いてもらってね」
と言い置いて、ランベルトはすぐに出て行ってしまった。
何がなんだか判らず茫然と立ち尽くしていると、今度はあっという間に服を剥ぎ取られ、洗われ、ドレスを着せられ、髪を結われて化粧された。
つまり今日が例の舞踏会なのか、と合点がいったのは、すっかり身なりを整えられた後のことだ。
侍女らが下がって一人になると、それならそれで説明くらいしたらどうなの、と腹が立ってくる。彼女たちは彼女たちで、ランベルトから言い含められているのか、何を聞いても答えてくれなかったのだ。
この城にいるのは、そういう人間ばかりなのかとムカムカしていると、扉がノックされた。
「誰?」とつっけんどんに返事をして、ランベルトだったら絶対に文句を言ってやろうと息を吸う。
「俺だよ、グレン」
扉越しに聞こえた声に、吸い込んだ息が止まった。
たった三日空いただけなのに、ずいぶん久しぶりなように思えて喉が塞がる。
ぎゅっと唇を結び、自ら歩いていって扉を開けた。
グレンは普段とは違い、きっちりとした衣装に身を包んでいた。形は先日ランベルトが着ていたものに近い宮廷服だが、あれよりもずっと装飾が少なく、色味も抑えめだ。
でも、よく似合う。すらりと引き締まった長身と整った顔立ちが、いつもよりもずっと凛々しく見えた。
「……よく似合う」
一瞬、心の声が漏れてしまったのかとドキッとしたが、その言葉を出したのはグレンのほうだった。
目の色よりももう少し深い紫のドレスをまとい、黒髪をふわりと結って控えめな飾りを施したティコの装いを、上から下までざっと眺めて、目元を和ませる。
「綺麗に仕上がったな。そのドレスは俺が選んだんだ。……君には、そういう落ち着いた色が合うと思った」
その唇がいつもよりも優しげに綻んでいた。
小さな針が胸に突き刺さるような痛みが走る。これもやっぱり打算から来る上辺だけの顔と台詞なのかという気持ちと、でも少しは本心から出されたものなのではないかという気持ちとが同時に生じて、どうしても心が揺らいでしまう。
どちらなのだろう。
そして自分は、どちらであって欲しいと願っているのだろう。
その内心を悟られないように、ティコはいつもよりも不愛想な顔でつんと顎を上げた。
「……元気そうですね。最近姿を見せないから、どこかで野垂れ死んでいるのかと思ってました」
思いきり憎まれ口を叩いたつもりなのに、自分の唇から出たのはやけに拗ねたような声だった。すぐに恥ずかしくなり、むっとして口を閉じる。
「ああ、すまなかった。殿下に黒塔に行くことを禁じられていて」
グレンが申し訳なさそうに言って頭を掻く。ここでランベルトが出てくるとは思っていなかったので、ティコはびっくりした。
「禁じられてって……どうして?」
「そのほうが面白いから、と言っていたな。鍵も取り上げられたし、こっそり行かないよう見張りまでつけられた。意味が判らなくて何度も聞いたんだが、なにしろああいう人だから」
どうやらあの王子は、多方面でいろいろと企んでいるらしい。彼に対するティコの好感度は下降線を辿る一方だ。
「それに、なんだかんだと用事を申し付けられて、ほとんど時間が取れなかったのもある。君を舞踏会場に入れるための下準備も必要だったんだが、それ以外にも次から次へと」
小さく息をつくグレンの顔には、よく見ると憔悴が滲んでいた。よほど多忙だったらしい。
自分は優雅に寝そべりながら、命令ひとつでグレンを右に左にとこき使う王子の姿が、容易に想像できる。
「でも、ずっと気になっていたんだ。変わりはなかったか?」
毎日のようにグレンの口から出ていた問いかけをされ、ふいに胸が詰まった。もしかしたら、自分はずっとこの言葉が聞きたかったのかもしれない。
一日のうち塔の窓から何度も下を覗いては、誰の姿を捜していたのだろう。
「別に……何も、変わりはないです」
小さな声で答えて、視線をわずかに下に向ける。自分の内側で変わったものがあったとしても、ティコはまだそれを直視できない。強情だ。自分でも少しイヤになるけれど。
「それならよかった。俺が行かないから、寂しがっているんじゃないかと思ったんだが」
その言葉は、故意にからかうような調子を含んでいた。以前と同じ顔と声には、何のわだかまりもないように思える。
それでティコの心も軽くなって、「まさか」とそっぽを向いた。
グレンが笑って、わざとらしく恭しい仕種で手を差し伸べてきた。
「じゃあ、行こうか。よろしかったらお手をどうぞ」
おどけるような態度だが、その手は空中で浮いたまま一定以上近づいてはこない。ティコを怖がらせないためだろう。
少しためらってから、ティコはそこにそうっと手の平を重ねた。
今は、恐怖も不快さも湧いてこない。逆に、強張っていた何かが解れていくような安堵感だけがあった。
自分は「寂しかった」わけではなく、「不安だった」のではないか──と、今になってようやく気づいた。