誘い水
「やあ、元気だった?」
と軽い口ぶりで挨拶して黒塔の部屋に現れたその人を見て、ティコは呆気にとられた。
グレンと少々気まずい別れ方をしたのは昨日のことだ。今日彼がここに来たらどんな顔をしようかと悩んでいたため、その屈託のない明るい笑顔と突然の再登場には、余計に唖然とさせられた。
ランベルト王子に続いて部屋に入ってきたグレンは、主人の傍だというのに非常に渋い顔をしている。
「あ……ええと、ランベルト王子殿下、ごきげんよう……?」
胡散臭いこと極まりない人物だが、一応この国の第三王子である。
下手なことをして不敬と騒がれても困るのでソファから立ち上がって頭を下げたが、こういう場合、どんな言葉が適切なのか、田舎育ちのティコにはとんと判らない。
そういえば、最初に彼がここに来た時は、ティコに挨拶させる間も与えずに、自分の言いたいことだけを言って去ってしまったのだった。
一体どうしてまた今になって姿を見せたのか──ティコは立ったまま、ちらっと丸テーブルに目をやった。
ランベルトはこちらの様子にはまったくお構いなしで、さっさと向かいに腰掛け、朗らかに笑った。
「あはは。気にしないで、グレンにするように話したらいいよ。君の本性はすでに知れてるし、そもそも王族相手の礼儀作法なんて知らないに決まっているしね。お猿さんが人間ぶって気取ってみたってただ滑稽なだけだよ、そうだろう?」
ニコニコ顔をしているのに、言っている内容はえげつないくらい毒がある。グレンも性格が悪いほうだと思っていたが、この人物はその比ではなかった。
猿呼ばわりをされても平伏して畏れ入ってやるほど、ティコは大人物ではない。お言葉に甘えて無礼な田舎者として相対することにして、ソファに座ってふんぞり返った。
「本性が知れているのは、お互い様かと」
「うん? グレンはともかく、僕ははじめから何も隠してはいないけど? 僕はいつもこんな感じだし、嘘も言っていない。言う必要のないことを黙っていただけさ」
「さようで……」
あっけらかんと返されて、ひくひく引き攣る唇で相槌を打った。
ランベルトと会うのはこれが二度目で、再会してまだほんの少ししか経っていないが、すでにティコはこの王子を好きになれそうにない予感でいっぱいだ。
文句を言うようにグレンを睨みつけると、ランベルトのすぐ後ろに立っている彼は、すまん、というように軽く頭を下げた。
グレンはいつもと同じさっぱりとしたシャツとズボンといういでたちだが、ランベルトのほうはこれ見よがしに装飾の多い煌びやかな衣装を身につけている。立ち襟の宮廷服は、前面と袖先に凝った刺繍が施され、窓から射し込む光に反射して輝いていた。
性格は最悪だが顔は美形なので、よく似合っているのがまた腹立たしい。
「グレンから聞いたよ。町では活躍したそうだね?」
「ただ単に偶然と幸運が重なった結果です。それに、まったく問題の解決には至らなかったようですし」
楽しげな問いに、嫌味なくらい殊勝に返す。
その言葉に含まれる皮肉をきちんと理解したらしく、ランベルトの唇が弧を描いた。
「町の子ども十人の命よりも、今日一日の楽しみを取る。それが今のアーモス王の考えだからね。国民のことは、金を生み出す鶏の群れとでも思っているんじゃないの。まあそれでも、このあたりはまだいいほうさ。中央に富が集中しすぎているから、国の端のほうなんて酷いものだ。ここまで無策でもなんとか体面を保っていられるのは前時代の財産があるからだけど、それを食い潰したら他国から一斉に叩かれるだろうね」
容赦のない国政批判に、ティコは眉をひそめた。
確かに、自分が母と住んでいた小さな村は非常に貧しくて、多くの住人は毎日の暮らしに喘いでいた。
グレンも言っていたし、城下町に行った時に自分でも実感したが、あちらとこちらでは激しい貧富の差がある。
生活が困窮し、未来への展望もまるで見えない。その暗く荒んだ感情とやり場のない怒りが、彼らをあそこまで凶暴にさせた一因だったのだろうか。
「……殿下ご自身のお考えは、また別ということですか?」
「当たり前でしょ。あんな豚と一緒にされたら困る」
猿の次は豚ときたか。彼の毒舌は、身分が下の者に限るわけでもないらしい。
「お父上ですよね?」
「うん、残念ながら。血が繋がっているというだけでほぼ他人だけどね」
「それでも国王陛下に諫言できるのは殿下だけなのでは?」
「そんなことであれが真人間になったら苦労しないよ。諫言なんて手間のかかることをするくらいなら、殺しちゃったほうが早いし。まったく、とっとと死んで玉座を空けてくれるといいんだけどねえ、そう思わない?」
綺麗な笑顔のまま、さらりととんでもないことを言う。
ランベルトは平然としているが、ティコのほうがげんなりしてきた。
なんでこんなのを連れてきたの、ともう一度グレンを睨みつけると、今度は目を逸らされた。
「というわけで、早いところあの男を蹴落とすために、僕はひとつでも多く手駒が欲しいんだ」
何が「というわけで」なのかまるで判らないが、ランベルトは当然のごとく会話を続行した。
「手駒って言いましたね。もう白々しい建前を通す気もなくなったということですか」
「さっきも言ったけど、僕ははじめから嘘も建前も言っていない。よく考えてごらん、『もしも仮に』君が本当の魔術師だとして、脅したり押さえつけたりすることに、一体何の意味がある? 下の者には命令すればいいとしか考えていないこの城の連中は、どいつもこいつも頭が空っぽなんだ。魔術というものが本人の意志によって使われるなら、双方納得の上で手を結ぶのが最上の方法だと思わないかい? 僕には僕の望みがあるように、君には君の望みがあるのであれば、互いに協力すればいい結果が出るのではないかな」
ティコは無言を貫いた。
昨日のグレンの言葉が頭の中を廻り、頑固な拒絶とわずかな迷いがせめぎ合っている。
さんざん利用されて裏切られた母のようにはなりたくない。ランベルトは間違いなく、「利用する側」の人間だ。
でも、自分だって──
「君は魔術師マルティンの弟子?」
「……何のことだか」
「だったら、縁者?」
「違います」
「魔術って実在すると思うかい?」
「わたしに訊ねられても」
「実は最近、宮廷内に、魔術を成功させたという人物が現れてね」
「知りま──は?」
唐突な内容に、続けて否定しようとした言葉が宙に浮いた。
その意味を呑み込んでから、改めて表情を引き締める。
魔術を成功させた人物──もう一人の魔術師?
ティコがどんなに探っても、その存在について掴めたことは未だ何もない。それがこんな形でランベルトから情報を与えられるとは思ってもいなかった。
彼の言い方だと、その人物は「文化と芸術の間」にいたような研究者なのだろうか。
ティコはマルティンのように魔力の気配を感じ取ることはできないから、もしかしたらあの時あの場にいたという可能性もある。
「興味ある?」
目を細めたランベルトに問われて、はっと我に返った。
「まあ……わたしがこんなところに来る羽目になった理由でもありますし……魔術というものが本当にあるのなら……」
「だよね。というわけで、今度の宮廷舞踏会に、君を連れて行ってあげることにしたから」
「は?!」
曖昧に首を傾げてぼそぼそ言うと、また意味の判らない「というわけで」から突拍子もない結論が導き出されて、ティコは驚愕した。
グレンも聞かされていなかったのか、同じく「は?!」と面食らっている。
「ぶ、舞踏会って」
「ああ、心配しなくても衣装その他はこちらで用意するから大丈夫。あまり目立たないように──なんてわざわざ言わなくても、元からそんなに目立つような容姿でもないか。国王が物好きだから、舞踏会にはいろんな種類の人間が集められることだしね」
あははと笑いながらいちいち腹の立つことを口にする。カチンとするのは後回しだ。
「どうしてわたしがそんな場所に行かなければいけないんですか」
「察しの悪い娘だね。だから、その人物が今度の舞踏会に招待されているんだよ。完成した魔術とやらを披露するために。ま、余興のひとつかな。君も直接見たいでしょ?」
金色の瞳がティコの顔を覗き込む。
きらきらとした子どものような無邪気な光をたたえながら、その目はどこか得体の知れない不気味さを孕んでもいるようで、出そうとした声が喉の奥で止まった。
「殿下、どういうつもりです。俺はそんなこと聞いていませんでしたよ。ティコをこれ以上衆目に曝すような真似をするのは──」
言葉を呑み込んでしまったティコの代わりに、食ってかかるように問いただしたのはグレンだった。目つきがいつもよりも険しくなっている。
「グレンがそれを言うのかい? 今までにも、おまえがついていながら、彼女はさんざん注目を浴びる事態になっているじゃないか」
「それとこれとは別です。今度の舞踏会には、宮廷のおもだった顔ぶれが出席するんでしょう? 貴族だけでなく王族も勢揃いするような、そんなところに」
貴族だけでなく王族も勢揃い。その言葉に、ティコはぴくりと反応した。
束の間、頭に浮かんだのは、窓にカーテンの引かれた黒馬車と、それを見つめるグレンの横顔だった。
「だったらおまえがぴったりティコに張りついて、彼らの視線を遮ってやるんだね。別に最初から最後までその場にいろなんて言いやしない。田舎育ちの娘に、ほんの少しだけ華々しい宮廷の雰囲気を味わわせてやるのさ。いい思いつきだろう?」
ランベルトはグレンの意見などまったく取り合わず、軽く手を振った。
「僕はね、興味があるんだよ。何が起きるのか、何も起きないのか。いつ誰がどう動くのか。……というわけで、これは決定事項だ。反論は許さないよ、グレン」
最後は有無を言わさない口調でそう決めつけて、悦に入ったように笑う。
その美貌がまっすぐこちらを向いて、挑むような表情で訊ねた。
「どうする? ティコ」
ティコはまだ何かを言おうとしているグレンを一瞥してから、頷いた。
「──行きます」




