消えた子ども
しかし気持ちが緩んだのは、町の中心部へ進むまでの話だった。
建物の密集度が高くなり、それに伴って人の多さと喧騒が増すにつれ、ティコの精神は明らかに変調をきたしてきた。
顔から血の気が引き、額には汗が滲み、息苦しさがどんどんひどくなってくる。
ゆったりと町の案内をしていたグレンも、ティコのその変化に気づいたらしい。気分でも悪いのかと何度か訊ねられたが、ティコはそのたび首を横に振った。
「大丈夫です」
「大丈夫って顔色じゃないだろう。疲れるほどは歩いていないはずだがな……とりあえず、少し休もうか」
「平気ですってば」
「君は自分の体調も把握できないのか? さっきから身体の震えが止まらないこと、判っていないわけじゃないんだろ。ほら、こんなに──」
震えてる、と見せようとしたのか、グレンがティコの手を掬い上げた。
指先同士の軽い接触だったのに、そこから伝わる自分のものではない熱と感触が、ティコにぞっとするほどの恐怖心をもたらした。
「やめて!」
激しい調子で言葉を出し、グレンの手を叩くように払いのける。
グレンは少し驚いたような顔をしてから、ぐっと眉を寄せた。
「……ティコ。何をそう怯えているのかは知らないが」
「わたし、別に怯えてなんて──」
「何がどれくらいつらいのか、本当の『大丈夫』と『我慢できない』の境界はどこなのか、きちんと言葉にしてもらわなければ、俺も対処できない。断りなく触れられるのが苦手なら、言ってくれれば決してそういうことはしない。そんな調子ですべてを撥ね除けるばかりでは、何の解決にもならないぞ」
その声にわずか怒気が混じったが、ティコは頑固に口を引き結んだ。
……何を言っているのだ。
本心からそんなことを言っているわけではないくせに。どうせこれも「懐柔」のための作戦なのだろう。絶対にそんなものに騙されたりはしない。
人間は皆、自分のことしか考えておらず、身勝手で浅ましい。
ティコにとって、マルティン以外の他者から向けられる手はいつだって、自分に差し伸べられるものではなく、自分を追い詰め捕捉しようとするものでしかなかった。ティコの中には、幼児体験で刷り込まれた人間に対する嫌悪感と不信が、すでに抜き去りがたくしっかりと根を張ってしまっている。
人は嫌い。人は信用できない。人は怖い生き物だ。
自分ではない他人に周りをぎっしり囲まれると、途端に昔の恐怖心がぶり返し、震えが止まらなくなるくらいに。
「ティコ──」
ため息をつきながらグレンが名を呼ぶのと被って、
「ちょっと、あんたたち!」
と、後ろから怒鳴りつけるような音量の声がかけられた。
ティコはビクッと身を竦ませ、グレンが顔を上げてそちらを見る。
あたふたと足早にこちらに向かってやって来たのは、白い前掛けをした中年の女性だった。
「なにか?」
グレンがさりげなくティコの前に出て、上っ面だけの愛想のいい返答をする。
女性は顔にまだ血の気の戻っていないティコの様子にも頓着せず、まくし立てるように声を張り上げた。
「ねえ、このあたりで女の子を見なかったかい?! マリエっていう、赤みがかった茶色の髪で、黒いスカートを履いた、十歳の子だよ! あたしの娘なんだけど、ちょっと目を離したら姿が見えなくなっちまって! 頬に小さな痣があるから、見たらすぐ判ると思うんだがね!」
女性はそれ以外にも身長や肉体的特徴を早口で並べ立てたが、「いや、見てないな」というグレンの返事も早かった。
「俺たちは大通りを通ってここまで来たが、そういう子はいなかったと思う」
「ああ、そう……」
女性は目に見えて肩を落としたが、すぐに気を取り直してまた飛び立つようにその場を離れた。近くにいる人を片っ端から引き留めては、同じ質問を繰り返す。
グレンは無言でその様子を眺めているが、涼しげな目元にはなんとなく険しいものが表れていた。
「なに……どうしたの?」
女性の勢いに呑まれて、ティコの気も削がれてしまった。自分の娘の姿が見えないというだけで、少し大げさすぎるのではないかと、ぽかんとしたのもある。外はまだこんなにも明るく、あちこちから子どもが騒ぐ声もよく聞こえてくるというのに。
グレンがこちらを向き、上体を屈めて声をひそめた。
「──城からの道すがら、あまり女の子を見ないとは思わなかったか?」
「あ、うん……外に出ているのは男の子が多いなとは思ったけど」
「ここ六年くらいかな、この町では時々、女の子どもが忽然と行方不明になる事件が起きるんだ。突然ふっと姿が見えなくなって、それっきり。戻ってきた子は一人もいない」
台詞の中身もそうだが、なによりグレンの暗い表情に、背中が寒くなった。
「攫われる……ということ?」
「だろうな。しかし犯人も、女の子ばかりを狙う理由も手口も、一切が不明だ。毎回、住人たちが躍起になって捜すんだが……骨の一本すら見つからない」
不穏な言葉にはかえって真実味が込められて、悲愴さを際立たせる。ティコはさっきの女性が向かったほうへ目をやった。
彼女は半狂乱になって、通行人に娘を見なかったかと問いただしている。皆、気の毒そうな表情はしているものの、差し出せる答えは誰も持っていないようだった。
「だからこの町では、女の子どもは滅多に一人では外に出ない。大概、親と一緒にいるか、複数で行動するよう強く言い含められる。女の子は気軽に遊び回ることもできないんだ。それでもこうして消える子は後を絶たない。一体どうなっているんだか」
「そう……」
ティコは、娘を案じて懸命に捜し回る女性に視線を向けたまま返事をした。
ただひたすら心配し、泣きそうになりながら無事を願い、必死になって我が子を助けようとしている母親の姿が、こちらの心までも激しく揺さぶってくるようだった。
「ああ、マリエ、一体どこにいるんだい! 早く母さんにその姿を見せておくれ!」
──ティコ、ティコ、私の可愛い娘。あなただけはどうか逃げのびて。
おかあさん。
思い出すたび胸の痛くなる記憶が蘇り、ティコは手を拳にして強く握りしめた。
あそこにいるのは、子を想う「母親」という生き物だ。最後の最後までティコを守ってくれた母と同じだ。ティコは自分の母を救うことはできなかったが、あの「母」に手を貸してあげることはできるかもしれない。
でも──
ぐっと歯を食いしばる。
でも、それをしては駄目なのだ。自分が魔術師であると知られるわけにはいかない。
たとえ、いなくなった子どもを見つけるすべを持っているのが、この場にティコしかいなくとも。
他人を助けるためにこの力を使い、結果として彼らから糾弾されて非業の死を遂げた母。
決してそれと同じ道は選ばないと、あの夜、自分は誓ったのだから。
「……ティコ」
ティコと同じように、子どもを捜し回る女性を目で追いながらずっと黙っていたグレンが、そちらを向いたまま名を呼んだ。
「一緒に来てくれ」
そう言うと、返事も聞かずに歩き出す。
ティコはここから離れられることにほっとするような、後ろ髪を引かれるような気分で、足を動かして彼のあとに続いた。
てっきりそのまま城に戻るのかと思ったら、彼の足は大通りから外れ、別の方向へと進んでいく。
入り組んだ道を迷いもなく歩いていくが、周りの景色はどんどん雑然としたものになっていった。建物が小さく路地もさらに狭いこのあたりには、物売りの姿もない。
身を寄せ合うようにして並んでいるそれらの建物のうちのひとつに、グレンは入っていった。
ティコが開かれた間口から中を覗いてみれば、どうやらそこは鍛冶屋であるらしく、中央には勢いよく炎の上がる火床があり、壁には種々の器具や鉄製品が並べられている。
「イヴァンじいさん」
グレンが声をかけると、椅子に座って小槌を振り上げていた老人が振り返り、驚いたような顔をした。
火の前にいたためか頬が炙られたように赤らんでいるが、皺に埋もれた細く小さな目は穏やかで、見るからに実直さが伝わる風貌をしている。
「グレンじゃないか。おまえさん、一体どうしていたんだね。この数年、ちっとも顔を見せないから心配していたんだぞ」
「すまない、いろいろと忙しくてね。じいさん、突然で悪いんだけど、少しの間、この娘を預かってくれないか?」
「はあ?」
その言葉を出したのは老人だけでなくティコもだが、グレンはティコのほうはまるっきり無視して、老人にだけ笑いかけた。
「ちょっと事情があって、俺が面倒を見ているんだけど」
「誰がいつあなたに面倒を見てもらいました?」
「少しだけ野暮用ができて、彼女から目を離さなきゃいけない。田舎から出てきたばかりでこの町には不案内だし、放っておくと迷子になってしまいそうだから、その間だけここで見ていてもらえないかな。ほんの一時間くらいでいいんだ」
「人を子ども扱いしないでくれませんか」
「礼はするから」
ティコの反論など聞く耳持たずで頼むグレンに、老人は戸惑っているようだった。
考えの読めない微笑を貼りつけたグレンを見てから、不満げにむくれたティコを見る。
「礼なんてどうでもいいが……その子は一体……いや、おまえさん、あれから何を」
分厚い前掛けを手でこすりながら言い淀む老人の言葉を、グレンは手を上げて遮った。表情は変わらないが、彼のその目の中に何かを見つけたのか、老人が口を閉じる。
グレンはそれからようやく、ティコのほうを向いた。
「ティコ、悪いがここで少しの間待っていてくれないか。なるべくすぐに戻る。心配しなくても、イヴァンじいさんは信頼できる人だよ。仕事の様子でも見物しているといい」
ティコは思いきり文句を言ってやろうと口を開きかけたが、グレンの顔を見て、言葉を飲み込んだ。
いつも飄々としているこの男が、今はずいぶんと頑なな空気をまとっている。何を言ってもそのまま壁に当たって跳ね返ってきそうだ。
グレンはティコの監視役も担っているはず。それを放り出して遊びに行くような性格だとも思えない。旧知であるらしい老人を頼ることにしたのは、どうしても一人で動きたいが、ティコを放置しておくわけにもいかない、という苦肉の策なのだろう。
「……女の子を捜すつもりですか」
ため息交じりにそう訊ねると、グレンは何も抗弁はせず、「悪い」と謝った。
「時間を置けば置くほど、いなくなった子どもを見つけられる可能性は低くなる。人手は多いに越したことはない。結果がどうあれ、必ず一時間で切り上げるから、君はここで大人しくしていてくれ」
「その隙にこっそり逃げ出して、森に帰るかもしれませんよ」
「一時間程度だと、君の足じゃこの町から出ることもできないぞ。その間に俺は馬で市門に向かい、そこで君を待ち受ける」
「役目の放棄で、あとで叱られるんじゃありませんか」
「処罰は甘んじて受けるさ」
グレンは少し笑ってそう言うと、身を翻し足早に建物から出て行った。
その背中を見送るティコの隣に立って、老人が「やれやれ、忙しない」とぼそりと言う。
「──また、子どもがいなくなったのか」
呟く声には、痛ましさとともに不安と諦めが滲んでいた。驚き、焦る段階は、もうとうに通り過ぎたということだろう。
それほどまでにこの町では、子どもが姿を消す事件が相次いでいるのだ。
「こんなことがいつまで続くんだか。すぐ近くに兵がたくさんいるというのに、城の連中は何もしてくれやしない。もうこれ以上泣く親を見るのは御免だよ。グレンもきっと、あれこれ思い出さずにはいられないんだろうねえ……」
そこで彼は言葉を切った。小さな目には、何かを案じる色がある。どうやらそれは、グレンの過去に起因するものであるようだった。
「イヴァンさんは、グレンさんのことをよく知っているんですか」
「まあ、昔はしょっちゅうここに来ていたからね。鍛冶の仕事に興味があったのか、長いこと飽きもせずに眺めていたよ。将来はこういう職に就くのもいいかななんて言うから、そんなこと軽々しく言うもんじゃないと説教してやったもんさ。あの頃のグレンは、家を出ることばかり考えていたからなあ」
グレンは自分の家が好きではなかったらしい。貴族には貴族の悩みがあるということか。そんな贅沢な悩み、ティコにはさっぱり理解できないが。
「以前は、考えていることがすぐ顔に出るような、感情豊かな子だったんだがね……あの件以来、すっかり変わってしまって」
「あの件?」
ティコが聞き返すと、何か苦いものを飲み込んだような顔をしていた老人は、そこで我に返ったように目を瞬いた。ティコのほうを向いて、取り繕うような笑みを浮かべる。
「いや、なに、なんでもないよ。……さて、グレンに頼まれたからには一時間しっかりとおまえさんを預かっていなけりゃな。しかしどうしたものかね、若い娘さんは鍛冶場を見ていたって何も楽しくはないだろうし、そもそもここは暑いからなあ」
ぐるりと自分の仕事場を見回して、困ったように言う。
彼の言葉どおり、間口が開放されているにも拘わらず、ごうごうと音を立てて炎が燃え盛っている火床が真ん中に据えてある室内は、むっとした熱気で充満していた。
「狭くて悪いが、あの小部屋の中にいてもらってもいいかね?」
老人の指す方向に目をやると、隅に小さな扉があった。たぶん、休憩する時などに使う場所なのだろう。
ティコは「はい」と素直に頷き、足を動かした。
そこに向かう途中、火床の傍らに転がっていた木炭を拾うことも忘れずに。




