伝説の魔術師
ヴィラ城は、起源を遡るとおよそ八百年も前に及ぶという歴史ある建造物である。
土塀に囲まれた素朴な城塞として造られた建物は、しばらくするとその堅固さを認められ、王の居城として使用されることになり、時代の流れとともにスパニア王国の中枢としての役割を果たすようになっていった。
そして今現在、貿易で大いに繁栄したこの国の威光と栄華を誇るがごとく、ヴィラ城は他国の建築様式をふんだんに取り入れた、絢爛豪華で美麗な城へと変貌を遂げている。
ひとたび城門をくぐれば、誰もが贅を極めたその美しさに息を呑み、重厚かつ繊細な素晴らしい外観に圧倒されるという。
またこの城は、様々な国の文化が入り交じり非常に先進的なことでも有名で、宮廷には多くの芸術家や科学者、占星術師、錬金術師などが集められ、国王の保護のもとそれぞれの活動や研究に勤しんでいる。
宮廷人たちがこの世の春を謳歌する、華やかなそのヴィラ城の広大な敷地の片隅に。
──ほとんど人が寄りつかない、高くそびえる黒い塔がある。
***
「伝説の魔術師マルティンを知っているかい? グレン」
黒塔内部の長い螺旋階段を上りながら、ランベルトが言った。
このあたりは滅多に人が来ないからか、しんとした静寂の中で、二人分の足音とその問いの声はよく響く。
薄暗い塔の中にかろうじて陽の光を届けてくれる壁の小窓から空を眺めていたグレンは、前を進む自分の主人の後ろ姿に視線を戻した。
「知っていますよ、もちろん」
その名前なら、このヴィラ城内だけでなく、町の子どもでさえ知っているだろう。何をまた突然言い出すのだと訝ったが、後ろを振り向かない今のランベルトがどんな表情をしているのか、こちらからは見えない。
「百年以上前、その不可思議な力で多くの奇跡を起こし、当時のスパニア国王を助け、繁栄をもたらしたとされる人物でしょう?」
「そのとおり。スパニア王国を一気に大国へと押し上げた名君カミル三世に仕え、ある時は天変を起こして敵襲を防ぎ、ある時は予言によって莫大な富をもたらしたという『魔術師マルティン』。彼はその力で若きカミル王を助け、導き、まだ不安定だったこの国の礎を強固に築かせた。マルティンの存在がなければ、現在のスパニアはなかったとも言われている」
「……という、『物語』ですよね」
要するに一種の英雄譚だとグレンは思っている。どの国にも、大体そのテの話がひとつやふたつは転がっているものだ。
それらは所詮、国と王家に神性や箔をつけて偉大さを強調し、民に崇拝させるために作られたものに過ぎない。
「いや、そうとも限らない」
そこでようやくランベルトが足を止め、後ろを振り返った。母親譲りとされるその儚げな美貌には、ほんのりとした微笑が乗っている。
「過去マルティンという人物が実在し、宮廷に名を連ねていたのは紛れもない事実なんだ。その男は百年前、ある日ふいに姿を消した。理由も事情も不明だが、一説では醜い権力争いに嫌気が差したとか──まあ、それは昔も今も変わりはないけど」
権力争いの当事者の一人でもあるのに、ランベルトは他人事のように肩を竦めた。
「そのマルティンが実際に魔術師だったのか、はたまた何の力もないただの男であったのかは判らない。『魔術師マルティン』の名はこの国に広く知れ渡っているが、それが創作なのか多少は史実に沿っているのか、未だ意見が分かれるところだ」
現在においても、それについて真面目に考察し、研究している者は多くいる。
それは知っているが魔術にもマルティンにも関心の薄いグレンが「はあ」と曖昧に頷くと、ランベルトは微笑んだまま声を低くした。
「……でも実はね、現在も国のあちこちで、マルティンらしき人物を見た、という情報が上がっているんだよ」
「は?」
グレンは目を瞬いた。
「……百年以上前、すでに成人だったというマルティンが?」
「そう。本物だとしたら、今は百四十歳くらいになるかな」
「あり得ませんね」
「相変わらず、ロマンというものを解さない男だね。そんな頭ごなしに否定するものじゃない。今もってその話の真偽は不明だ。確認しようと思って手を廻しても、件の人物はいつも煙のように消え失せて、決して捕まらないらしい」
「はじめから見間違いだったという話でしょう。そもそも、その『マルティンらしき人物』がすべて同一であるとは」
「場所は遠く離れ、目撃者も異なるのに、その証言はどれも酷似している。絵姿を描かせれば細部に至るまで一致点が多く、しかも十年前と二十年前のその容姿にはほぼ変化が見られない。そんな偶然があるものかい? だからね、かの人物については、ずっと囁かれている噂があるのさ」
人差し指を唇に当て、少しだけ声をひそめた。
「……『魔術師マルティンは不老不死なのだ』、という」
返答に迷ってグレンが口を噤むと、ランベルトはますます笑みを深くした。
「不老不死なんてのは、いつの世でも権力者にとって最高に甘い夢だ。スパニアの現王アーモスもまた例外ではない。そんなわけで、この国の上層部は今まで長いこと、あらゆる手を使ってマルティンを捜し続けていたんだよ」
ランベルトは、決してスパニア国王を「父」とは呼ばない。
「──つまり」
グレンは眉を寄せて、ランベルトの向こう、階段の先に目をやった。
日頃から主の唐突な言動には慣れているので、何の説明も聞かないまま黒塔まで供をしてきたのだが、この話の行き着くところはひとつしかないように思える。
「そのマルティンを、ついに見つけることができた、と?」
口にしてから、首を傾げた。
何から何まで胡散臭い話だが、せっかく捕らえたその人物を、なぜこんな場所に置いているのかも理解できない。
「いや、違う」
ランベルトはグレンの言葉をあっさり否定した。
「マルティンは未だ見つかっていない。見つかったのは、彼の『弟子』だ」
「弟子?」
「そう。マルティンが自ら魔術を教えたという、唯一の弟子。国王はその存在を探り当て、秘密裏に捕獲することに成功した。しかしその人物は、マルティンなる人間とは無関係だと言い張るし、魔術なんて使えるわけがないと断固として首を横に振る。仕方がないので塔に入れたが、今に至るまでひたすら大人しい虜囚のままだ。もちろん奇跡なんて片鱗も窺えない。もうひと月近くもそんな調子だから、飽きっぽい国王はすでにその存在に関心を失いつつあってね。実際、もう『処分』してしまおうという方向に話が進みかけていたのを、僕が無理やり割り込んで、猶予をもらったんだ。だって、国の一方的な都合でこんな場所まで連れてこられた上に、役に立たないと判ったら殺されるなんて、なんとも気の毒すぎる話だろう? そう思わないかい、グレン」
にこっと笑いかけられて、グレンは諦めたように大きく息を吐き出した。
「そうですね。──で、俺に何をせよと」
ランベルトが目を細めて頷く。
「国家の思惑に巻き込まれて黒塔に閉じ込められてしまった『ティコ・メイヤー』。当面の間、その人物は僕の庇護下にある。いいかいグレン、おまえはこれから常にティコの傍らでその身を守り、他からの介入・干渉を防ぎつつ、困ったことがあれば手を貸して、せめてこの場所で心安らかに過ごせるよう尽力してやるんだ、いいね?」
「……承知しました、ランベルト王子殿下」
グレンは胸に手を当てて頭を下げ、返事をした。