僕は『演者』(修正版)
母さんの病室へと続くリノリウムの廊下を歩いている。
まるで誰もいない世界に迷い込んでしまったかのように、病棟は静寂に満ちていた。
仕事が思った以上に長引いたこともあって、時刻は六時半を過ぎようとしていた。
面会時間は七時までだ。
急がないと。
歩くスピードを上げる。
305号室。ここが母さんの病室だ。
大きく息を吸い、そして吐き出した。
扉を開ける。
「来たよ。ばあさん」
「あら、善仁さん。毎日すまないねえ」
母さんの目元には大きな隈ができていて、頬はこけてしまっている。その死んだ魚のように荒んだ瞳は僕を捉えていないようだった。
「体調はどうだい?」
「見ての通り元気じゃよ」
母さんはいつも元気を装っていた。
どんなに辛いことがあっても、人前で涙を見せることはなかった。
母さんがこうして病気で衰弱してしまった今でもそれは変わらない。
「ただ、たまには外に出てみたいねえ。こんな狭苦しい場所にいたらおかしくなってしまいそうだよ」
「ばあさんは病気なんだ。仕方ないだろう?」
「ここに来て一ヶ月は経ったかのう」
「まだ二週間だよ」
窓から差し込む夕陽が母さんを染め上げていた。
その陽は母さんの輪郭を溶かして、曖昧な像をつくりだしていた。
何だか母さんがどこか遠いところに行ってしまうような気がして、僕はその陽を遮断しようと窓際のカーテンをつかんだ。
窓には燃えるような夕焼け空が映っていた。夜になろうとしているとは思えないほどの明るい空だった。
「そういえば、今日は夏至だったね」
思い出したように言って、僕はカーテンを閉めた。
「これから陽が短くなっていくんだねえ」
母さんは昔を懐かしむかのような口振りでそう言った。
「これから」という言葉が僕の心を突き刺した。
母さんが脳梗塞を患ったと診断されたその日、僕は医師に母さんの命はもう永くはないと聞かされた。
一日一日陽が短くなっていくにつれ、母さんの命の灯火は小さくなっていく。
二人の間に沈黙が生まれた。
この静かな空間に音をもたらそうと母さんは洟をずずっとすすり、僕はうんっとせき払いをした。しかし、また無音の世界がやって来る。
「アンタ、もの静かな人間になったねえ」
沈黙に耐え切れなかったのか、母さんが言った。
「そう‥‥‥かい?」
声がうまく出なかった。
「‥‥‥善仁さん。アンタ、何か隠しているんじゃないかね?」
その言葉に思わず、ビクッと肩が震えた。
「おや? 図星だね。アンタは昔から変わらないねえ」
「‥‥‥」
「あたしらが十七歳のときだったかのう。学校帰りに、二人で土手を歩いているときじゃった。アンタ、ぎこちない歩き方はするわ、神妙な面持ちをしているわで、私が不審に思って『何か隠しているんじゃないかね?』って言ったら、まさに今アンタがしたみたいに肩をビクッて震わせてなあ。観念したんか、『ちょっと来い、映画館連れてったる』とか言って。それで、連れられた先は、アンタの家でなあ。『ここが映画館や』って、けったいなこと言って。家の中に入ってみたら、アンタの部屋に8ミリ映写機があってなあ。それでアンタの撮った映画を見せられて‥‥‥」
扉が開く音が聞こえ、母さんは話すのを中断した。
看護師が少し驚いたような表情をして立っていた。
時刻は七時をさしていた。面会終了の時間だ。
「あ、すいません。もう帰ります」
看護師に軽く会釈をして、僕は急いで帰る準備をする。
「もう帰るのかい?」
「うん。また明日」
母さんから逃げるように速足で病室を出た。一切振り向きはしなかった。
「あの‥‥‥、内海さん。辛くないですか?」
看護師が心配そうな顔をして、近づいてきた。
彼女の言う『辛い』の意味をすぐに理解できた。
「辛い‥‥‥ですね。でも、これでいいんです」
と、ぎこちない笑みを顔に貼り付けて、僕はその場を去った。
※
帰り道。
もう陽が沈んでいた。
夜気はすっかり暑い空気を溶かしていた。
それと同時に、僕の被っていた『父さん』の顔を溶かしていった。僕は『僕』になった。
母さんの前では、僕は『父さん』を演じることにしている。
母さんが認知症を患ったのは、今から二年前、父さんが不慮の事故で亡くなった年のことだった。
父さんの葬儀の間、母さんは涙を流すことなく、ただずっと俯いていた。
現実を受け入れきれていないようだった。
葬儀を終えた次の日から、母さんは僕のことを『善仁』と呼ぶようになった。『善仁』というのは、父さんの名前だ。からかっているようには見えなかったし、第一、母さんはそういうことをする人ではなかった。病院に連れて行くと、認知症だと判明した。
最初は母さんに僕は息子であり、父さんはもう死んでしまったんだということを伝えようとした。しかし、僕を父さんだと思って話しかける母さんの幸せそうな顔を見て、その顔を壊したくないという思いに駆られ、僕は『父さん』を演じるようになった。
僕には当時妻がいたが、妻はそんな僕を見て、『おかしいよ』という言葉を投げつけ、家を出ていった。 しかし、僕は彼女を追うことなく、母さんと暮らす決意を固めた。
母さんとの同居生活が始まって、一年が経ったころ、母さんは脳梗塞を患い、入院した。
※
家に着き、鍵を開けた。
「ただいま」
僕の虚しい声が廊下を走った。当然、「おかえり」なんて声は返ってこない。
父さんと母さん、妻と僕の四人で暮らしていたこの家には、もう僕しか住んでいない。
一人で暮らすには大きすぎるこの家の中には、底の知れない寂莫感と巨大すぎる虚無感が漂っている。
いつもなら自分の部屋に直行していたが、今日は違った。
母さんの部屋に入ろうと思ったのだ。
母さんが言っていた『父さんが撮った映画』というものを見たくなったのだ。
母さんが入院してから、僕は一度も母さんの部屋に足を踏み入れていなかった。
妙な緊張感を持ちつつ、僕は部屋の扉を開けた。
アンティークな鏡台、年季の入ったサイドボード、背の低い本棚‥‥‥。
どれも埃をかぶっていた。
この部屋の中に、映画を映すフィルムのようなものがあるかもしれないと思い、隈なく探した。探して始めて十分くらい経ったころ、本棚の奥の方から、正方形の白い箱を見つけた。その箱の表面にはきれいな文字で『善仁さん』と書かれていた。その箱の中には、車のハンドルのような円い形をしたものが入っていた。
僕はその後、インターネットで昔の映像メディアについて、詳しく調べ、その円い形をしたものは映像を映す『8ミリフィルム』であることや、それを映すには映写機が必要であることなどが分かった。
映写機については、父さんが持っていたと、母さんが言っていたので、父さんの部屋を探してみたが、結局は見つからなかった。
そこ以外の場所も隈なく探したが、徒労に終わった。
そのためレトロな商品のレンタルを行っている店を見つけ、そこで借りることにした。
僕は『父さんが撮った映画』を母さんの部屋の壁に映してみた。
映写機の使い方がいまいち分からず、時間がかかったが、何とか映像を映すことに成功した。音はなく、ただ映像だけが流れている。それを見ていると、母さんに見せてあげたいという思いが湧いてきた。
病院に映像を映す部屋はないか、また、そこを少しの間だけ利用させてくれないかと病院に問い合わしたところ、幸運にも承諾を得ることができた。
会議室を使っていいとのことだった。
その日、会社が休みだったので、僕は昼間に病院に行くことにした。
映写機を持って、指定された会議室の前まで行くと、そこに看護師が立っていた。どうやら親切にも映写機の設置をしてくれるというのだ。
僕は彼女に礼を言って、母さんの病室へと向かった。
305号室の扉を前にして、僕は『父さん』の仮面を被った。
「善仁さん。今日も来てくれたのかい。すまないねえ」
弱っているのが一目で分かる母さんのその姿は、まるで枯れ木のようだった。
「ちょっと見せたいものがあるんだ」
母さんは少し驚いたような顔を見せたが、すぐに優しい笑みに変わった。
会議室の中に入ると、一台の長机の上にポツンと置かれた映写機が視界に入り込んだ。
映写機のレンズは白い壁に向いていた。
窓から差し込む陽光が壁に陽だまりをつくっていたので、それを遮断するためにカーテンに手を伸ばした。ふと窓の外を見てみると、そこには梔子の花が無邪気に咲き誇っていた。
カーテンを閉じると、この部屋はほんのりと暗くなった。
「善仁さん、これって」
母さんは映写機をなめるようにジロジロと見ながら、言った。
「映写機だよ。今から、わしが撮った映画をばあさんに見せてあげるんだ」
言って、僕はフィルムをセットした。
そして、稼働させる。
モーターが回転する音が部屋の中に小さく響いていた。
映像が壁に映し出された。
そこには一人の若い男が映っていた。
この男は僕が大学生のときの姿によく似ている。
そう。この男こそが僕の父さんだ。
『戯曲 ロミオとジュリエット』と書かれたボードのようなものを持っていた。
しばらくすると、父さんは人が変わったように踊りだした。
ロミオとジュリエットのストーリーを踊りで表現したのだ。
父さんはロミオを演じ、マキューシオやティボルト、パリスなどは父さんの友達らしい人たちが演じていた。しかし、ジュリエットを演じる人はスクリーンに映っていなかった。皆、あたかもそこにジュリエットがいるかのように演じていたのだった。ジュリエットがパリスの下に行こうとするのを、ロミオが制止し、ジュリエットの手を握り、走り去るシーンで終わっている。
「ジュリエットはあたしなんだよねえ、善仁さん」
母さんが言った。
「映像が終わって、アンタはこう言ったねえ。『この映画は未完成だ。ヒロインが映っていないからな。そう、文香さん。僕のヒロイン、ジュリエットになってください』ってね。それで、あたしが意地悪く、『ロミオとジュリエットは悲しい結末を迎えるんだよ』って言ったら、アンタは『だったら僕たちが喜劇に変えればいいじゃないか』って答えてくれてねえ。‥‥‥あたしはアンタの言葉に胸打たれちゃったよ」
「‥‥‥」
「あたしとアンタの映画はまだこうして今も続いている。でも、始まりがあれば終わりもある。エンディングはもうすぐそこじゃ」
「‥‥‥ジュリエット、わしはうまくロミオを演じられたかい?」
僕の声はかすかに震えていた。
「ええ。すばらしい演技じゃったよ。ロミオさん」
母さんは屈託のない笑顔を見せた。
眉間や口元に集まる皺が、父さんと歩んできた歴史の刻印に見えた。
そして、衰え切ったその顔の奥には、無邪気に咲き誇る白い梔子の花のように純粋な心が隠されているように思えた。
「にしても、善仁さんはこんなにもあたしのためにしてくれているというのに、晃弘ときたら」
晃弘とは僕の名だ。
「‥‥‥仕方ないよ、仕事が忙しくてなかなか会えないらしいからさ」
「それでも、手紙の一つや二つくらいはよこしてくれたっていいじゃないかね?」
「‥‥‥そうだね。手紙送るよう言っておくよ」
「親不孝もんよ」
母さんは寂しそうな顔をして、言った。
「‥‥‥ほんと、親不孝な子だよ」
映写機のように僕は僕自身に『父さん』という像を映してきた。
しかし、その像は虚像である。
偽物の『父さん』を演じ、母を騙してきたのだ。
僕のしてきたこと、そして今、していることは、まさしく親不孝なことなのだ。
父さんを純に愛する母さんの心を冒瀆しているのだ。
「何だい? 泣いているのかい?」
かぶりを振った。
「‥‥‥目にゴミが入ったんじゃ」
声は掠れて、上手く出なかった。
「‥‥‥ごめん。母さん」
ぽそりと呟く。
きっと何度言っても、母さんへの罪悪感は拭えないだろう。
そして、その罪悪感はこれから一生僕の中を居座り続けるだろう。
※
三日後。母さんは死んだ。
僕が母さんに宛てた手紙を書き終えた次の日のことだった。
『自分は息子の晃弘であるということ』、『ずっと僕は『父さん』を演じ、母さんを騙してきたということ』など、母さんに伝えられなかった思いを綴った。
母さんの葬儀の際、僕は喪主を務めた。
参列者はみな黒い衣服を纏い、母さんの死を悲しみ悼んでいた。並大抵でない厳粛な空気が漂う中、僕は 母さんの棺の前で挨拶をした。そして、母さんに宛てた手紙を読んだ。誰も彼も黙然と僕の口から流れる言葉を聞いていた。
手紙を読み終え、顔を上げる。
葬儀に参列した人たちが大きな闇となって、僕の前に立ちはだかった。
これほどの多くの人たちと繋がりがあった母の晩節を汚してしまったという事実が重くのしかかって来たのだ。
葬儀を終えて、僕を咎めた人はいなかった。
みな、母に忘れられてしまった息子として、僕を憐れみ、優しい言葉をかけてくれた。
どんなに同情されても、救われた気にはならなかった。
※
八月のある日の夕方、僕は母さんに宛てた手紙と梔子の花の造花を持って、母さんの墓の前に立っていた。
「母さん。葬式のときに聞いたかもしれないけど、僕は母さんを騙してたんだ。父さんのふりをしていたんだ。でも、母さんが僕のことを父さんだと思って話しかけているとき、何だか幸せそうだったから‥‥‥。これでいいのかなあって思って‥‥‥。だからといって、母さんを騙すのは間違っているよね‥‥‥」
母さんの墓は夕陽に染め上げられていた。
「僕は親不孝者でどうしようもない息子だったけど、母さんはいつも優しかった。そんな優しかった母さんが、僕の顔を忘れたときは少し寂しかったよ」
沈黙。
その沈黙を埋めるように僕は洟をすすった、うんと咳払いもした。
「それでね、母さんに渡したいものがあるんだ。これ。梔子の花。造花だけどね。梔子の花言葉は『喜びを運ぶ』。天国で母さんに喜びに満ちた暮らしをして欲しいんだ」
あと少しで日没だ。
ずいぶん陽が短くなったなと思う。
「じゃあね、母さん。また来るよ」
涼しい風が吹き抜ける。しかし、あの頃のように『父さん』としての顔が溶けることはない。僕は『僕』だから。
墓の前で手を合わせる。
帰り道。
陽は完全に落ち、すっかり暗くなっていた。
暗い路地を速足で歩いている。
まるで誰もいない世界に迷い込んでしまったかのように、あたりはしんとしていた。
近くの街灯の光が突然、消えた。
僕は思わず立ち止まった。
単に電気が切れてしまっただけのようだったが、僕の心臓は警鐘のようにドクドクと低い音で鳴っていた。
僕はゆっくりと空を見上げた。真っ暗な空を。あまりに真っ暗な空を。
「あ‥‥‥ああ‥‥‥」
母さんの葬儀に参列した人たちが見せたあの大きな闇を思い出した。
その瞬間、夜空が欺瞞者である僕に罪を下したかのように思われた。夜の闇が僕を飲み込もうとする。じわりじわりと僕を追い詰めてくる。
「‥‥‥」
空にはぽつんと満月が浮かび上がっていた。その月は次第に絞首台の縄に見えてきた。この夜の闇が僕に死を催促しているように思えたのだ。
「‥‥‥死ぬべきなのか、僕は」
――親不孝もんよ
いつしか、寂しそうにそう言った母さんの顔が脳裏を掠めた。
僕が親不孝のまま、母さんは死んだ。
ここで死んだら、僕はどこまでも親不孝になってしまう。
「生きるんだ」
僕は生きなければいけない。
たとえ、闇に飲まれ込まれそうになっても。
それに抗って、生きなければならない。
誰でもない『僕』として。
「絶対生きる、生きるぞ」
夜の底で一人、僕は小さく叫んだ。