その3
港の見える丘公園で降りて、花園に立ち入った。
「綺麗だね。ねえ、手を繋がない?」
「いいだろう」
匠はぎゅっと皆子の手を握った。ネイルをしていない、深爪の、幼い、あの頃の生々しい手──。
何かが掌の内側から広がる感じがした。はっとして手を離すと、バラの花弁が一枚、握らされていた。彼女は歯をにっと見せ、微笑んでみせた。
「このやろう」
こともなげにそう呟き、彼女の手を引いて、薔薇園の中二人で歩き、静かに匠たちは愛し合った。
近代文学館に行くと、休館日だった。月曜は休館とのことだ。匠は必要以上に嘆いて、しばらく右往左往した。
「どうすんの」
「まあ、元町歩くか」
皆子の手を引いて、異人館をめぐることにした。空は病気みたいに晴れ渡っていた。
元町公園の辺りは、お気に入りのスポット。異人館が集まっていて、異国情緒という言葉で一括りするのがもったいないほど、近代の外国に来た気分になる気がする。中華街にしてもそうだが、横浜は文化に恵まれている。
「たくちゃん、あれ」
皆子が指さしたのは、エリスマン邸だった。看板に、「名物 生プリン」とある。喫茶店のようだ。元町に来た回数が少ないわけではないが、これは初めて見る。
「800円か。金持ってる?」
「うん。せっかくだし行こうよ」
もう人殺しに怯えている表情ではない。匠も人を殺したことに怯えている表情ではない。入ってみることにした。
醤油の匂いがきつい。古電話を見たとき、意味もわからず皆子は爆笑した。店内に入ると、鉄板でまだ垢ぬけたばかりの青年が鉄板で肉を焼いていた。必要以上の高級感に浮足立つ。
ガラス張りの窓からは、散り終りそうな桜が見える。黙っていなければならないような感じだったが、桜は日常性をもたらし、匠をくつろがせた。
「いい雰囲気ね」
「ああ」
生プリンを注文。
皆子と向かいあって座る。
「ほんとに死んじゃ駄目だからね」
「もう死んでるよ」
皆子は悲しい笑みを浮かべた。
「出所するまで待ってるから」
「そいつは悲しいね。きっと出所するころは冬だな」
「そしたらうちにおいで。鍋作ったげる」
青々とした感傷に引きずられているとき、プリンが運ばれて来た。白い形の崩れたプリンと、カラメルソースと、ひよこのゴム製の人形が並べられてきた。
「どうやって食べるんですか」
店員に聞くと、
「こちらのカラメルソースをお好みの量かけ、ひよこの人形を容器の上で押し潰しますと、生卵が出てくるので、あえて召し上がってください」
ひよこを潰すと、本当に生卵が出て来た。
「なにこれ、面白い!」
皆子ははしゃいだ。匠も、不意をつかれた笑い声をあげた。混ぜてスプーンを口に運ぶ。すごくどろどろしていて、生卵の味を判別するのが苦難した。
匠は、日常を恨めしく思った。特に目の前にいる皆子を最も、恨めしく思った。スプーンが形状を変えて、ナイフに変形しようとしている。するとこのプリンが、血まみれになったかのようにさえ思える。ああ、罪人には石打ちが待っている。世界がもし覆ったのなら、きっとすべての愛はひしゃげる。そして過ちが市民権を得るだろう。世界などもう要らない。緑の壁によりかかって眠りたい。
皆子を駅に連れていった。皆子は、雲ひとつない表情で、「もう大丈夫」と言った。
「今日はありがとう。私のほうが楽しんじゃったね」
「俺も楽しかったよ」
皆子は口を真一文字にして、黙っていると、頭を俺の胸に押し付けた。
「……死んじゃ駄目だよ?」
匠は腕を彼女の背に回そうとしたが、やめた。彼女の肩をつかみ、偽りに満ちた「ありがとう」を言った。彼女は去っていき、死についての深淵にそっと身をなげだそうとしていた。
匠は、皆子と反対方向のプラットフォームへ向かう。
そのとき、後ろで悲鳴があがった。振り返ると、刃物を持った男が次々と人を刺していた。
「皆子!」
すんでのところで男は捕えられた。と同時に非常停止ボタンが鳴った。目の前には線路に身投げし、泣き崩れている皆子の丸い背中があった。
これを乖離と呼ばずして何と呼ぼうか。温かい涙で眼球はこのときも潤っていた。匠は文庫本を、駅のゴミ箱に放り投げた。
了