その2
バスに揺られている間中、鈍重な文鎮が匠の心に圧を加えていた。母親を憐れんでいるのである。今の自分はピカソの『泣く女』さながらであると自嘲した。キュビズムという圧縮された多重時間と無限空間の中で、好き勝手に泣いている。もっとも匠は涙を流していないわけではあるが。この憐れみにひたすら構造的なものを匠は見出していた。善人の構造である。死人に情けをかけたらおしまいだと思い、匠は文庫本を開いた。
駅に行き、国鉄に乗った。腰かけると、パンクな服装をした女性、身を寄せ合ってスマホを見ている女子高生、隣には英語で論文を書いている若い男性が座っていた。窓からの光はまぶしく、平日の昼下がりは彼に憂鬱そのものを与えた。更に気の毒なこととしては、神奈川県警が何故かあちこちで無線機を持って張り込んでいるのである。自分のことだと思うほど匠は愚かではなかった。母殺し程度でこんなに大人数の警官を投入することはない。よしんばもしそうなら匠はとっくに確保されているはずである。
ランドマークタワーが見えてきた。そこで彼は自由を勝ち取った感慨に改めてふける。この日本一高いビルが、勝利の象徴に思えてならなかった。一方港は断頭台へ続くような静謐さを持ち、匠をぞっとさせた。
「現実はどこだって現実を集約させる」
と、彼は嘯いてみせた。その言葉を耳にする者は誰もいなかった。
桜木町駅に着き、席を立ちあがる。与謝野晶子展に行く気は失せてきた。その矢先、服の裾を誰かに掴まれた。心臓を握られたような恐怖を立体的に感じた。振り向くと、
「大口……?」
大口皆子という、随分前に生れて初めて告白してきた女性が、服の裾を掴んでいた。口を真一文字にし、降りる屋いなやこちらに身体をおしつけてきた。
「助けて」
挨拶もなしに、彼女はそう切り出した。彼女はレースの白い服にスカートをはいており、化粧をしていたせいか細かった目が濃く見える。まったくここまで舵を迷わず取っていた彼にとってのこの予想外の出来事は、計画を狂人じみたように暴走させようとしていた。
「どうしたんだ」
目をしばたたかせながら尋ねる。皆子は唇を震わせて恐怖を主張してきた。まるで肩を抱きしめて欲しいといわんとばかりに。電車は通り過ぎていき、轟音と共に彼女のレースのスカートをはためかさせる。車輪はきりきりと高い音を立ていく。
「殺人犯が横浜を逃走してるってニュース、知ってるよね?」
「ええ?」
死を感じたのはどうしてだろう。死刑に相当する罪を犯したわけでもないのに。その逃走犯はこのとき、自分のことだと思い込んでいた。世間の関心が匠に向けられること、殊に、白い眼で向けられることは、死より恐ろしいことだった。
「犯人の名前は?」
「森田孝行っていうガソリンスタンド店員だよ。知らないの?」
「え?」
匠の緊張はほぐれ、水没した船から脱出し海面に上昇して空気を得たような心地になった。
「それで、どうしたんだ」
皆子は目を涙で輝かせて言った。小学生の時に告白して楽しい日々を過ごしてきた彼女の懐旧のなかからはどこにも見いだせない表情だ。
「その森田と、目が合っちゃったの。殺されるわ、わたし」
殺人犯がいう目で見られるのかを思い知り、視線を遠く遠くへやって、青空の向うの月まで見渡そうとした。
「ひとまず、喫茶店に行こうか。久々に会ったんだし、話でもしよう」
「そうね」
すると皆子は顔を赤らめた。遠い昔で、もう過去の自然消滅した恋愛だというに。匠たちは駅を降り、ランドマークタワーを横目に見ながら、モールに入って適当な喫茶店に入店した。
アイスコーヒーにストローを通し、二人席に向かい合って座った。
「あれからどうしてた。結婚したのか」
皆子は照れて、握り拳を作り、かつ申し訳ないという陰影を作り、うなずいてから、目をうるませた。彼女のそれは憐憫でなくドライアイだった。
「たくちゃんは。平日にこんなとこに何でいるの」
「ああ、メンヘラになって、毎日ニート生活だよ」
匠はその告白が自己救済にさえ思えた。いや、内容はどうあれ、誰かに口を開いてものを言うこと自体がすべて自己救済につながるようにさえ思えた。
「俺と別れてよかったな」
「……そんなことないよ」
「だって俺──」
空気が張り詰め、酸素が毒を持ったようにさえ感じられた。その毒をめいっぱい吸収して、俺は言った。
「俺も殺人犯なんだよ。母親を殺したんだ」
皆子はぽかんと口を開けてから、くすくす笑った。ローズマリーのオーデコロンが、匠の鼻腔をつく。清楚な印象を持って。皆口はおしなべて清楚な少女であることに変わりはなかった。そこにずっと幸福感を抱いていた。
「そんなに怯えなくてもいいのに」
ひどく軽蔑されたような気がした。まるで妻に陰部が小さいことを小ばかにされた情事の前の亭主のように。
「お前は俺を知ってるから、そういう口が利けるんだし、森田とか言う奴とやってることは変わらない。命の重さなんてクソだとは思うが、世俗的には尊いらしい。どう思う、その世俗的に尊いとされている命を奪った俺のことを、どう思う」
皆子は匠の右手に、そっと自分の手を重ねた。
「事情があったんでしょ。たくちゃんすごい勉強できたもんね。きっとそれで、病気になっちゃって、人殺しちゃったんだよね」
匠は目尻から涙をこぼした。咽頭が熱い。明らかに泣いていた。鼻を啜ってティッシュでかんだ。匠の左手も皆子の上に重ねた。これは愛恋でなく、友情であるということをつくづく思い知らされた。
「これからどこ行くとこだったの。警察署に自供に行くの」
「与謝野晶子展を見たら、死ぬ予定さ」
皆子は匠の頬を叩いた。
「私が好きだったたくちゃんはそんな腑抜けたことは言わない!」
肩で息をする皆子。匠は自嘲した微笑を浮かべ、
「家まで届けてやるよ。旦那さん悲しませたくねえだろ」
逃走犯が蟻のように思えた。それほど些末なことであった。背負っている十字架に比べれば、じつに些末なことである。
「付き合ってあげるよ。自殺なんてさせない。旦那と別れて、たくちゃんと結婚する!」
ひきつった笑みを皆子は浮かべた。匠は身を乗り出し、皆子の頬に口づけした。
「なにするの」
「おまじないさ」
匠は目を閉じ、少し体を傾け、余韻に浸った。胸が温まる。皆子は国連大学で、ストイックに活動していたらしい。このおまじないは、彼女と匠を差別化するものであった。彼女を差別することで、胸がほどよく温まるのであった──。匠は自分で自分を許したに過ぎなかった。次元をずらし、異なる回廊で彼女と手をつなぐのだ。
「その展示、どこにあるの」
「元町だよ。異人館があるところさ。神奈川近代文学館ね」
「いいね」
屈託のない笑みを浮かべる皆子。静かに胸の裡で、チェックメイト、と呟いた。
二人並んで、港の見える丘公園へのバスの座席に座った。
「旦那さんはどんな人?」
皆子は悲しそうに微笑して、
「ハムスター好きな人」
とだけ言ってから、
「ずっとたくちゃん以外の人と恋に落ちるなんて、思ってなかった。けれど、現実は現実たらしめるものね。年が経てば、私も現実的な恋愛をするのね」
皆子は意味もなくハンカチを取り出し、折り紙のようにくしゃりと握った。匠はたちまち、何か言いたげな青年に仕立て上げられた。匠は、
「甘美だ」
とだけしか言えなかった。「甘美」という言葉以外のすべての言葉は、新聞紙の燃えるようにインクの香りを残して消えて行った。