その1
筆者は母親を殺してないので。そこだけ勘違いなさらぬよう。また、勝手に題材にした小学校時代の恋人に、謝罪を。
手記
緑の壁を想起する。あれは安寧の眠りの裡にあった。ことごとく私の幼少期は、安寧と漠然と暴力が入り混じり、幼少期の私の方が今の私よりも世界の本質をとらえていたように思う。漠然。私にとっての幸せ、幼少期の幸せは漠然でしかなく、量感が感じられない。不仕合せな幼少期ではなかったが、追憶というものは意味を無意味にする役割を果たす。母からの虐待、母による家庭の破壊――すなわち暴力にカテゴリされる。追憶によって無意味に解体されたそれらは、映像によって脳裏に青写真のまま焼き付けられている。過去に罪はない。堆積された今に罰のみがあるのみ。イエスは私の裡におられ、忍耐せよと私の最も救いの教義を与え続けてくださる。母親からの虐待はおしなべて恥辱でしかない。無意味に解体された恥辱である。ゆえに私は精神病になった。赤緑青に激しく明滅し、私の脳に毒をばら撒く。逃避する者には拘束、束縛があるのみ。私は母親に今でさえ追憶による無意味への解体――それは恥辱と同義になる。緑の壁は私の原点である。回帰点である。そこは子宮ではなかった。追憶のとどかないところとはどこか――すなわち最初の記憶とはなんだったか。これは身近な暇人の命題である。デジャヴは聖なるところにありて、私にとっての聖なるところとは緑の壁に他ならない。それから後はすべて現実なのだ。現実は私の価値をことごとく下げてきた。現実とは母親の暴力の勢力範囲内だからにほかならない。
この小説においての私――小林匠と私の決定的に違う所は、彼がキリスト信者でないところである。ゆえに、彼は大罪を犯したのである。私に追憶による過去の無意味への解体のプロセスの精査結果に全て恥辱を塗りたくった大罪者である私の母を殺したという大罪を。
◇◆◇
小林匠は、ワープロで遺書をタイプした。彼は昨日七色に輝く富士山を夢で見た。小学校時代、虹色の富士山を見た者は、ある選択を迫られるという都市伝説がはやった。それは何であったかは忘れたが、選択次第では死か、なにかが不具になるというものだ。
窓の外の富士山は、澄み切って真っ青であった。春のイースターの日である。桜は平凡な洗脳を解くよりも圧倒的に早く散り、月が傾いて白ずんでいた。住宅街の群れは何かの足跡のようにさえ見える。匠は伸びをして、一階に降りた。
「ふう」
窓からの朝もやを通り抜けて差し伸べている陽光がリビングを照らす。水道の蛇口は意味もなく出しっぱなしになっている。それは恐怖を奏でていた。テーブルの縁に、赤黒く滴る血。出所を辿っていくうちにそれは狂気に達するであろう。サマーセーターを着た老婆が目を剥いて青い静脈を顔じゅうに浮かべ、その胸もとには固結した血を食い破るように包丁が刺さっている。
匠がこの横たわっている老婆、つまり彼の母を殺したのは、今後の人生、未来永劫、母親のご機嫌をうかがい、ご機嫌をうかがい、ご機嫌をうかがい――過去の虐待にあえぐ幼少期の私を人質にとられ、檻の中で揺り動かす、この、揺り動かす、揺り動かされるという言葉が彼にとって億千万の多義を持つことが、拷問以外の何物でもなかった。ゆえに、殺したのであった。
自首したとて、執行猶予などつくはずもなく、懲役刑は免れない(※)。ただ、最低で五年と刑法にはある。情状酌量を抜きにしての話ではあるが。五年という歳月以前に、殺人とは如何ことかと考えるほど彼はストイックではなかった。
※注釈 小林匠は執筆者の投影であり、私も何度も母親を殺そうと考えたことがあるため、殺人罪の法定刑にまで思惟が至ったことを記しておく。だが断っておくが、決して私は母親を殺していないし、イエス様に仕える者として、未来永劫母も誰も殺さないと誓っていることもご承知を。
匠はいろいろ悩んだ末自殺を考えた。精神病院での入院生活の辛酸を思うと、死後病院に殺されたと吹聴されてもよかった。むしろそれを望んでいた。なんと潔癖な死だろう! 匠は遺書に病院での看護婦の暴力も余すところなく綴っておいた(遺書の全文は省く。執筆者の精神的苦痛を理解していただきたい)。2018年の今年、与謝野晶子生誕140周年を記念する展示が神奈川近代文学館にあると知っていたので、死ぬ前にそれを見にいきたいというのがあった。断っておくが匠は信徒ではないが、これは彼にとっての最後の聖餐であり、与謝野晶子は彼にとってのパンであり、葡萄酒であった。彼の死の間際のすべての行為は、死から逃れようとするすべての行為は意味と神聖さを持つ。ところが彼の場合は死ななくともよいのだ。ゆえにその神聖さによって要請されたものを余すことなく満たすというわけだ。彼は殺人を犯したのだから。罪は死を要請し、罪と死は同時に聖餐的なものを要請する。
インターネットでアクセスを調べる。どうやら桜木町からバスで発つ必要があるらしい。ジャケットを羽織り、牛乳を飲んだ。静寂の中母親の死体が転がっているのを見ると、罪が許されたかのようにさえ思う。永遠にここにいようか? いや、そんな紙一枚の冗談はもうよそう。出かけなければ。鍵を開けたままにして、家を出た。パトカーをひどく恐れながら、彼の逃避行は始まった。