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四月は鬼へ嫁入りの季節

 昔むかしのお話です。


 その山には、鬼がおりました。鬼は、田畑を荒らしたり、山崩れを起こしたり。

 村人は鬼を怖がって誰も近付きませんでした。

 そのため、鬼はひとりでした。


 あるとき、鬼は村の娘に恋をしました。名前は、()()()

 村一番の器量よし。


 鬼はおみつを嫁にしようと、あれこれと手を尽くします。

 あるとき、おみつは言いました。


 ──この種が眼を出したら、あなたの嫁になりましょう。


 鬼は大喜びで種を持ち帰ります。村人は、おみつを案じました。

 ですが、鬼はいつまで経ってもおみつを迎えには来ませんでした。

 おみつが渡した種は、炒った大豆。待っても待っても、芽が出ることはないのです。


 鬼が山から下りてこなくなってからというもの、村人たちはいつまでも幸せに暮らしました。



   *   *   *



 季節は春だった。桜が咲き、若葉が茂り、新入生や新社会人が初々しい季節。それでなくとも、どことなく背伸びをして真新しい気持ちになるのだ──が。

 園田(そのだ)美桜(みお)はだらだらと居間で寝転んでいた。

 パートに出掛ける母が慌ただしく用意をしているが、美桜にはそんなこと関わりもない。

「あんた、今日は職安に行ってきなさいよ」

「はぁーい……」

 そんな気の抜けた返事に、母は大袈裟なため息をつく。ぶつぶつと小言も添えられていたが、美桜は聞こえないふりをした。

 園田美桜、二十二歳。大学を卒業したばかり。大学在学中、近頃の就職率は良いという風のうわさに浮かれていた。二、三社受けてはみたが、特に強い興味があった訳でもなく、業界研究など全くしないままだったから見事に落ちた。それでもまあ、何とかなるだろうと楽観しているうちに、気付いていたら卒業式を迎えていた今年度の新卒。

 大学は県外。このまま実家を出て都会暮らしを満喫し、適当な年齢で結婚をするのだろうと思っていた。

 それが、気付けば田舎の実家に戻っているのである。学生の身分であれば頼れた仕送りも、社会人になれば打ち切られる。バイトだけではどうしようもできず、卒業式を待って実家に戻ったのだった。そして、それから職探しの日々が続いている。

「じゃあ、お母さん行ってくるからね」

 そう言い残し、母はパートに出ていった。


 何がしたいのだろう。

 何が出来るのだろう。

 実家に戻ってから、美桜はずっと考えている。

 特に何がしたい訳でもない。

 特に何が出来る訳でもない。

 面接の度に、適当な笑顔と決まりきった志望動機を口にしていた。

 だからといって、何もしないまま過ごす訳にもいかない。のそのそと起き上がる。

「出かけようかな……」

 自らの背を押す声は弱々しく、か細く途切れていた。



 美桜の住む町は、山に囲まれた静かな場所だった。バスは一時間に一本。静かで、静かで──静かなだけの町。商店街は居間ではシャッター街。コンビニなどというものはなく、夜になるとぽつぽつと立つ街頭の明かりだけが頼りだった。良く言えば風光明媚な──悪く言えば寂れた集落だ。

 職安に行くには、車かバスが一般的である。だが、今日は春の麗らかな陽気に誘われて──というのは表向き。二台しかない車は両親が使用しているため、美桜に残された足は自転車かバスしかなかった。

 そして、通勤通学の時間を少しずれただけでバスは皆無と言っていい。

「のんびり行きましょうか」

 そうなると、自然、自転車に跨ることになるのだ。

 春の心地好い風を感じながら、職安へ。肩までの長さの髪をなびかせながら、川沿いの土手を漕ぐ。白いブラウスと、花柄のパーカー。ジーンズは足首の辺りで折り曲げて、洗いざらしのスニーカーを履いて。職安よりもピクニックが似合いそうな格好だった。

 だから、だろうか。いつも通らない道を選んだのは。遠回りになるけれど、ここしばらく家に引きこもっていたから気分転換をしたかったのだ。

 橋を渡って、山沿いの小路に入る。アスファルトはところどころ、大きく凹んでいてサドルの上で美桜の身体が跳ねた。

 ふと、ペダルを漕ぐ足が止まる。右手の山の中に石碑らしきものを見付けたのだ。

「なんだろ」

 自転車から降り、膝のあたりまで伸びた雑草を掻き分ける。

 幼い頃、祖母から山の中には決して入るなと言われていた。山の中には、怖い怖いオバケが棲んでいるからね、何があるか分からないからね、と。子どもの頃は本当に信じていたが、今ならば危ない場所に立ち入らないための方便だと分かる。

 今の美桜は二十歳を過ぎた大人である。山中深くに入ってしまっては遭難もあるだろうが、車道からほんの少し入っただけならば問題ない。

 そうして──石碑に触れられる距離まで近づいた。何か文字が彫ってあるのかと触れてみたが、雨風に晒されたのだろう何かしらの溝はあったが判別はできなかった。

「……あれ?」

 雑草の中に、石段を見付ける。それはやはり石碑と同じく角が丸くなっていた。ひとつひとつ目で追うと、それは山の中へと続いていた。

「階段?」

 この先に、何かあるのだろうか。生まれてこの方、この辺りに何か──人家だとか、仏閣だとか──があると聞いたことはない。

 振り返り、車道を見る。見咎める人は居なかった。まだ午前中の明るい時間、幽霊が出るような時間帯でもない。実家に戻ってきて楽しいことは何もなかった。

「ちょっとくらいなら、いいよね」

 誰に許可を求めるでもなくそう口にして、一歩を踏み出した。雑草に紛れて何かを踏んだ気がしてスニーカーの裏を確かめる。とりあえず、動物ではなかったからほっと息をつく。

 石段は、緩やかに山の中へと続いていた。木漏れ日が筋になって行先を照らす。かさかさと音がするのは鳥か、もしくは狸か。

 視界は緑に染まっていた。濃い緑、若々しい柔らかな緑。息を吸い込むと、春の匂いが肺に満ちる。

 石段を上りながら、ふと思い出す。祖母から聞かされた昔話。


 それは、村娘に恋をした山に棲む鬼の話。どうしても村娘を娶りたかった鬼は、ある提案を受け入れる。

 この種が芽を出したら、嫁になってやる。

 鬼は大喜びで種を受け取り山へと帰る。だが、その種は炒った大豆。いくら大切に育てようとも芽が出ることはない。


 祖母からその話を聞かされる度に、鬼が可哀想で仕方がなかった。鬼は悪いことをしていたという。だからといって、騙すようなことをしていいのか。芽の出ない種に水をやる鬼の姿を想像して悲しくなったのだった。

「昔話に、涙を流すなんて……私も、純粋だった、よね」

 今ならば泣きはしないが──しかし、それでも可哀想だとは思う。



 石段を上り詰めた先には、ぽっかりと木の生えていない広場があった。石畳が続き、朽ち果てた建物がある。

 それは、まるで──

「神社?」

 そう、神社の社殿のようだった。

 こんな所に、こんなものがあるのか。アリスよろしく、不思議の国に迷い込んだかのようだ。

 けれど、まあ神社ならばすることはひとつしかない。

 社殿──恐らく──の前で手を打つ。静かな空間に、乾いた音が響いた。

「就職先が決まりますように」

 本来ならば声煮出して言うものではないけれど、ここは鈴も付いていない。誰も居ないのだし、声に出した方が祀られている神様に伝わる、ような気がした。

 その時だ。


 ギイ、と音を立てて眼の前の戸が開いたのは。


 人間は驚いた時には声も何も出ないものらしい。一歩、後退るので精一杯だった。

 誰も居ない、つまり咎める者もない場所なのだから、住む場所のない人が棲み着いている可能性がある。なぜそれにすぐ気付かなかったのだろう。ここは圏外だろうか。ポケットの中に突っ込んだスマートフォンを探る。職が決まらないままぼんやりと過ごしてはいるが、まだ死にたくはなかった。

 暗い社殿の中から姿を見せたのは、黒い髪を長く伸ばした人物だった。切れ長の双眸は、ルビーのように赤く輝いている。纏うのは着物。大学の講義で使った源氏物語の公達が着ているような。

 何より特徴的だったのは、その額から伸びる二本の──


 角。


 美桜の見間違いでなければ、確かに、しっかりと、はっきりと、角が伸びている。

 近頃はハロウィンの仮装が流行っているが、しかし今は春。ハロウィンなどまだ先の話だ。

 逃げたいのに、足は石畳に貼り付けられてしまったかのように動かない。そうしている間にも、角の生えた怪しげな人物は美桜へと距離を詰める。手が伸び、逃すまいと美桜の手首を掴んだ。


『そなたから訪ねてくれるとは思わなんだ』


 漏れた声は、低いものだった。恐らく、この怪しげな人物の性別は男性なのだろう。見れば、喉仏もある。手は大きく、硬い。戸惑う美桜を見て、相手は嬉しそうに双眸を細めてこう呼んだ。

『おみつ……久しいのう』

 悲鳴をあげるのも忘れていた。相手が、あまりに嬉しそうだったからかもしれない。不審者にしては身なりも整っていたのもあるし、顔立ちも美丈夫と呼んで差し支えなかった。よく世間で言われる“ただしイケメンに限る”は本当らしいと身をもって知ることになるとは思いもしなかった。

『待ちくたびれたのだろう。……すまぬ、まだ芽は出ておらぬのだ』

 美桜がこの場に全く関わりのないことを考えている間、相手はなおも話を続ける。そこでようやく、返事ができた。

「いや、あの、感激のところすみません、人違いです」

 それでまじまじと確認してくれるものだと思ったが、しかし相手は引かない。

『何を言う、我だ。蘇芳(すおう)だ。覚えておらぬのか』

 相手──蘇芳はなおも美桜を“おみつ”と思い込んでいる。

「だから、人違い! 私はおみつじゃありません!」

 力任せに手を振り払い、回れ右をする。後はもう一目散に駆け出した。走り出すと、じわじわと恐怖心が湧き上がってくる。石段は苔むして、ところどころで滑ったような気がした。何かに引っかかった気がしたが、構っていられない。

 肩で息をしながら車道まで下りたときには、髪はばさばさ、脚にはなにか綱のようなものが絡みついて、散々な有様だった。

 恐る恐る振り返ってみる。

 足音は聞こえてこなかった。ただ生い茂った雑草と木々が見えるばかりだ。

「……何だったの、あれ……」

 汗がどっと吹き出す。

 今は何よりもこの場から離れたくて、自転車に跨ると急いでその場から逃げ出した。


 誰も居ない家よりも、誰かが居る場所に居たかった。母からも言われていたから、ととりあえず向かった職安で求人情報を検索した。職安の中は職を探す人、案内をする職員、ごく当たり前の日常があった。

 あの、山の中での出来事は何だったのだろう。

 職安の求人パネルを操作しながらも、あの出来事が頭から離れない。ポケットからスマートフォンを取り出し、検索欄に文字を入力する。


《山の中 不審者 角》


 思いつく単語を並べるが、出てくるのは登山中に出会った不審者についての記事が主だった。

 春は不審者が増えるというし、あの蘇芳というひともそれだったのだろう。そう納得をさせた。



 何の収穫もないまま職安を後にし、行きとは別の道で帰る。空腹で疲れ果てて、右に左にとよたついていると、後ろからクラクションを鳴らされた。

「どこの年寄りかと思えば、美桜じゃないか」

 白い軽トラの運転席には、日に焼けた男。

「……ナオ兄」

 恨めしげに、運転手を見る。倉橋(くらはし)直人(なおと)。町で農業を営む青年である。美桜よりも年上で、小中高、と先輩だった。快活で豪快。さっぱりとしていて頼りがいのある、昔からガキ大将だった。

「そんなフラフラしてると轢かれるぞ」

「そうそう車通らないし」

「で、どこ行ってたんだ?」

「……職安」

 その答えに、ああなるほど、と直人はにやにやという形容詞が似合う笑みを浮かべた。

「そうだったな。美桜はまだ職が決まってないんだったか」

「余計なお世話です」

「もうすぐ田植えだ、働きに来るか」

「私がオタマジャクシ苦手なの知ってて言ってるでしょ」

 美桜が睨むと、直人はからからと笑った。

「なに、噛みつきゃしねえよ」

「誰のせいだと思ってんの。小学生の頃、オタマジャクシ投げつけたのナオ兄でしょ! 服の中に入ってほんっと気持ち悪かったんだから!」

 洋服の中で動く柔らかな感触は今でも思い出しても鳥肌が立つ。

 あまり続けたくない話題だったから、早々に切り上げて別れようとしたのだが。

 ふと、思い出す。

「ナオ兄は、ずっとここだったよね」

「まあな」

「だったら、山の中の神社って知ってる?」

 もしかすると、美桜が町を出ている間に何かあったのかもしれない。少し前のめりになりながら訊ねると、直人の眉間に皺が寄った。

「神社? 山の中に? 何だそれ」

「知らない? あの、あっちの山の中。神社があって、そこに──……」

 そこに居たのは、角の生えた──角。

「狸でも居たのか?」

「いや……なんでもない」

 あれは、確かに角だった。角が生えている人形の生き物といえば。

 鬼。

 鬼といえば、虎柄の腰巻きと金棒。赤い顔、青い顔をした絵本に出てくる典型的な姿しか思い浮かばなかったが──あれは、鬼だったのか。

 昔話の鬼。


 ──……すまぬ、まだ芽は出ておらぬのだ。


 祖母に聞かされた昔話は、作り話でなく事実だったのだろうか。

 いや、まさか。

「そういえば、うちの田んぼが踏み荒らされたんだけどさ、美桜、犯人見なかったか?」

「いや、知らない」

「そっか。見つけたら教えろよ」

 じゃあ、とひらひらと手を振って車が動き始める。軽トラなのだから荷台に自転車を乗せて送ってくれれば良いのに、と思いながら見送ったのだった。

 その思いは、程なくして真逆に振れることになる。

 送ってもらわなくて良かった、と。



 玄関の前に、あの蘇芳と名乗った人物の姿があった。後ろ姿でも分かるのは、あの平安風の出で立ちだった。あんな酔狂な格好、祭事以外で着る者は居ないだろう。

 とりあえず、美桜に気付いていないようだったから、玄関前の壁に隠れて様子を伺う。

 山の中で見た時は、あのぼろぼろの社殿には似つかわしくないほどに埃ひとつ付いていなかったが、今は足元が汚れている。泥で。直人の言っていた、田んぼを踏み荒らした犯人は、ほぼ間違いなく蘇芳であろう。

 家の駐車場に車は停まっていない。両親はまだ戻っていないようだった。

 玄関扉を横に引こうとしたが、鍵をかけているから開かない。なぜここに辿り着いたのだろう。

 ストーカーだろうか。なぜ。初対面の美桜をどうしてストーキングしなければならないのか。

 しかし、鬼──ならば。

 ……いや、鬼であってもどうして美桜の家まで来るのか。

 仕事が決まらなくて、そこまで逃避しているのだろうか。早く職を見付けて、ごくごく普通のありふれた社会人生活を送りたい。

 手を合わせて、蘇芳が立ち去ってくれることを祈る。そこに聞こえたのは、ミシッという嫌な音。

 見ると、玄関扉を力いっぱい引き開けようとしている。そして、あろうことかガラス部分にヒビが入り始めているのだ。

「ちょっと待った待った待った!」

 隠れて様子を伺うのを忘れて飛び出してしまった。扉の修理代が惜しかったのだ。

 美桜を見て嬉しそうに笑う蘇芳に、ああしまった、と思わなくもなかったが。

『おお、おみつ。探しておったのだ』

「いや、どうしてここに……」

『そなたの匂いがしたのだ』

 そんなに臭うだろうか。パーカーを嗅いでみたが、洗剤の匂いしかしなかった。

 いや、問題はそこではない。蘇芳が何者で、何をしに来たのか。そこである。ポケットからスマートフォンを取り出し、110番を押して発信ボタンを押す。呑気な田舎の警察も、さすがに駆けつけてくれるだろう。

「それで……何しに来たの。うちの玄関壊して、何するつもりだったの」

 手に持ったスマートフォンに声が届くように、大きな声を張り上げる。強盗。ストーカー。人違いの殺人。どんな返事でも驚かないつもりだった。

 だが、返ってきたのはそんな予想していたものではなかった。


『そなたを娶りに来たのだ』


 それ以外の答えなどないと言いたげに。蘇芳は穏やかに微笑んで、確かにそう言った。

「め──……」

 娶る。美桜の記憶が間違っていなければ、妻として迎える、の意。

『まだ芽は出ておらぬがな。我にしては充分に待った故な。もう良かろう?』

 手の中のスマートフォンから何か声が聞こえているような気がしたが、答える余裕はなかった。



 日が暮れて、夜になった。

 場所は区の公民館。集落の年寄り連中が中心になり、侃々諤々の議論が続いている。問題の中心であるはずの美桜は完全に部外者となっていた。最初に配られたペットボトルのお茶を飲み、息をつく。


 あれから大騒ぎだった。駐在員が自転車で駆け付け、それを見た近所の青年団や老人連中が後に続く。静かな町では、駐在員が大慌てで自転車を漕いでいる、それだけでもう大事件なのだ。

「何があった」

「どうした、園田さん」

 わいわいと家の周りに人垣ができる。

『そなたら、祝いに来たのか。おみつの嫁入りを』

 その人垣を見て、蘇芳は嬉しそうだった。集まった人たちは蘇芳の姿を見て、驚いたようだった。驚くのも当然だろう。

「いや、そもそも私は“おみつ”じゃなくて美桜! 別人!」

『今は、そう名乗っておるのか。おみお──』

「お、は要らないから。み、お! 美しい桜で美桜!」

『美しい桜か。良き名だ。それで、美桜。このまま我の処に連れて行っても構わぬか』

「だから、人違い──」

 そこで割って入ったのが、近所の老人。

「嫁ぐには支度が要るからの。とりあえず、今日のところはお引取り願えんか」

『ふむ、それもそうか』

 素直なのか単純なのか、蘇芳は頷いて踵を返す。泥だらけの足のまま帰ろうとするものだから、さすがの美桜も見かねて呼び止めた。

「ちょっと待ってて」

 そう言って家の中に飛び込むと、大急ぎでタオルを取ってくる。

「これ。足、ちゃんと拭いて。あと、帰りは田んぼの中通っちゃ駄目だから」

『そうなのか』

「……知らなかったの?」

『知らなんだ。嫁御の言う通りにしよう』

 タオルを受け取り、泥だらけの足を拭いた蘇芳は静かにこの場を立ち去る。誰も、止めることはできなかった。


 問題は、そこからである。さて夕飯の支度でも、と思った美桜は野次馬連中に会釈をして家に戻ろうとしたのだが。

「美桜ちゃん、ちょっとおいで!」

 有無を言わさぬまま引っ張られ、公民館へ。何をしたのか、根掘り葉掘り聞かれ、昼間、山の中に入ったことを明かした。

 老人連中はため息をつき、そのまま対策会議に突入──今に至るという訳である。

 老人連中の話を組み立ててみると、蘇芳は大昔、この辺りを荒らしていた鬼なのだという。田畑を荒らし、川を氾濫させ──人の娘に恋をした。

「……ん?」

 それは、つまり祖母が昔話で聞かせてくれた鬼ではないか。

 確かに、まだ芽が出ていない、と言っていた。いや、しかし鬼など──現実に居るものか、と笑い飛ばせなかった。実際に、角の生えた蘇芳を見たのだし、家の玄関扉も壊されかけた。

 ありがちではあるが、試しに頬をつまんでみる。じんわりと広がる痛みに眉を寄せた。

「だからなあ、美桜ちゃん」

「これから何されるか分からんから」

「はい?」

 話の矛先はいつの間にか美桜に向いていた。にじり寄ってくる老人連中から逃げるように腰を浮かす。だが、田舎とは怖いものだ。がっしりと肩を掴まれて逃げ道を塞ぐのだから。

「大丈夫だから」

「あんた、嫁に行き」

「……は!?」


 原因は、美桜にある。だからまあ、分からないでもない。

 だがしかし、白無垢は好きな人との結婚式で着たかったと思うのだ。農協で取り扱っている白無垢をレンタルし、あれよあれよという間に婚儀が執り行われることになった。

 鏡の中の美桜は、これまでにないくらい気合の入った化粧を施されている。


 ──まあ、安心しなって。な。本当に嫁に行く訳じゃないから。

 ──嫁に行くふりをしてな、鬼をとっちめれば良いんだ。

 ──鬼はな、昔から酒に弱いから。


 大江山鬼退治の要領だ、と言った。

 源頼光が酒天童子を酒で酔わせ、首を取った昔話。それをそのまま流用しよう、というのだ。

「そんな、無茶苦茶な」

 死んだらどうするのか、と訴えた美桜に、ならば鬼の住処に踏み入ったのは誰か、と返された。そこを突かれると弱い。


 ──全部片付いたら、仕事は保証する。


 その言葉に流されてしまったのだ。職は欲しい。背に腹は代えられない、とはこのことか。この件を聞いた両親は寝込んでしまうし、散々である。

 町の人々で蘇芳との婚儀は滞りなく進められた。


 婚儀は夕刻から。角隠しを被った花嫁と、紋付を着た町の人々の列が続く。一昔前にタイムスリップしたような光景だった。

 婚儀の場は、蘇芳の住まい。山の中の石畳には点々と灯りが灯されていた。

 提灯ではなく、まるで人魂のような──灯り。さわさわと声だけが聞こえる。こちらに来いと案内するように。

『お嫁さま』

『お嫁さま、こちらへ』

 それは、蘇芳の手下──だろうか。姿は見えなかったが、以前のように足元の悪さはなかった。雑草もきれいに刈り取られていた。

 石段を登った先には、戸が開け放たれた社殿。

『待ちわびたぞ、嫁御。どれ、早う顔を』

 美桜の手を取ると、蘇芳は角隠しの中を覗き込む。赤い瞳に覗き込まれ、どきりとした。同時に、この鬼を騙すのかという罪悪感も覚える。

 この鬼は、騙されてばかりだ。

 人の娘に──おみつに恋をした時も、今だって。確かに人の暮らしを荒らしはした。だが、騙されて、命を奪うまですることはあるのだろうか。

 婚儀は、時代劇で見るようなものだった。神様の前で永遠の愛を誓うこともなければ、指輪を交換することもない。

 三三九度の盃を交わし、あとは飲めや歌えの宴。拍子抜けしてしまうほどだった。

『さあ、今宵は好きなだけ飲むといい』

 蘇芳が用意したのだろうか、金屏風が背後に立てられており、室内の灯りは燭台の蝋燭。

 蘇芳の側の参列者は、影はあるが姿はない。町の人々は表情を引きつらせながらも計画を悟られないよう懸命に盃を傾けていた。

「あの。お酒を、どうぞ」

 とりあえず飲ませろ、ひたすらに飲ませろ、と命じられていた。蘇芳に大きな盃を差し出す。

『嫁御は、飲まぬのか』

「私は──その、弱いから……」

『愛らしいことだ』

 本当は、学生時代は仲間内でザルどころかワクと呼ばれるほどに酒は強い。今日は大吟醸が樽で振る舞われているから喉から手が出るほど飲みたいのだが、我慢。いくらワクとは言っても、何かあっては困るのだから。

 蘇芳は勧められるままに飲んでいた。酒ではなく水なのではなかろうか、と疑ってしまうほどに。

「美味しい?」

『ああ。美桜のために大盤振る舞いだな』

「……あのう」

『うん?』

「私、おみつさんと似てるの?」

 見間違えるほど似ていたのだろうか。それほど恋しい娘と、美桜が。

 しかし、返事は意外だった。

『さあて、どうだったかのう』

「……は?」

『もう、おみつの顔も忘れてしもうたわ』

「何、それ」

『おみつは、我との約束を違えるはずがない。だから、そなたをおみつと思うたのだ』

「……人違いだけど」

『そうであったなあ』

 そう言って、蘇芳はからからと笑った。酒が入り、笑い上戸になっているのか。その笑顔は、どうしても憎めなかった。



 宴は、日付の変わる頃に終わった。町の人たちが去り──これは、美桜が提案したことだった。何かあって、怪我をされては困るから、と──蘇芳とふたりきりになった、社殿。

 手下の影はいつの間にか消えている。ただ蝋燭の灯りだけが暗がりの中で踊っていた。

 蘇芳は、無防備に身体を横たえて眠っている。ただただ、静かだった。

 胸元を探り、黒鞘の懐剣を取り出す。小さいが、良いものなのだとお大尽の家を継ぐ家から託されたものだ。これで寝首を掻き切れ、と。

「静かになったなあ」

 独り言を口にしたのは、気持ちが萎えてしまいそうだったのだ。

『酔うたからな。我の神通力も、酔うてしまっては効かぬ』

 だが、蘇芳が聞いているとまでは思わなかった。びくりと肩が跳ねる。取り出した懐剣を取り落とす。ガチャン、と重い音がした。

『その刃で、我の首を掻き切るのであろう?』

「──……」

『何を躊躇っている。そなたならば不満もない』

「どうして。……私を娶りに来た、なんて言わなかったらこんなことにならなかったのに」

『そろそろ、待つのが辛くなったのだ。……終いにしたかった』

 全てを終わらせるために──山から下りれば、人々が命を奪いに来るだろうから、娶りに来たというのか。

 そんな寂しいことがあって良いのか。

 恋をして、約束をして、それを果たそうと長い月日を待って──待って、最後に死に果てるのを望むなど。

「やめた!」

 膝の前に落ちたままの懐剣を握り、脇に退ける。蘇芳はゆっくりと身体を起こす。その赤い瞳には戸惑いと驚きとが滲んでいた。

『なぜ。我は鬼だ。殺生にはならぬよ』

「……鬼でもなんでも、夫を殺す訳にはいかないわ」

 夫。それは自然と口をついて出ていた。蘇芳は驚いたようだったけれど。

 形だけとはいえ、三三九度の盃を交わしたのだ。ならば間違いなく蘇芳は美桜の夫。

「蘇芳さん、意外と良い鬼だと思うの。この前、畑荒らしたのも、そこを歩いちゃいけないって知らなかっただけだし」

『だが、困らせたのは事実であろう』

「私は、蘇芳さんのお嫁さんになったから。だから、蘇芳さんがこの町で暮らしていけるようにサポートする」

『さぽおと?』

「あ、えーと、その……補助? 介添? とにかく、蘇芳さんを助けるの」

『鬼を助けるのか、そなたは』

 蘇芳は笑い飛ばそうとしたが、しかし美桜は本気だった。冗談のつもりなどない。

「そして、蘇芳さんを幸せにするから。だから」

 そこで少し言葉を切る。じっと蘇芳の顔を覗き込む。

 最初は蘇芳が押し切るようにして始まった結婚の話が、今は美桜が前のめりで話している。妙なこともあるものだ。

 だが、放っておけなかったのだから仕方がない。金屏風の前で、鬼を相手に約束を迫る姿はさぞ滑稽だろう。

「蘇芳さんも、私を幸せにして」

 そう言うと。酒が入って上機嫌だからか。迫る美桜の姿が可笑しかったのか。蘇芳は笑いながらこう言った。


『我は、天下一の嫁御を貰うたなあ』

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