安倍源基回顧録 / 東京朝日新聞緊急声明 / 東京府東京市杉並区 荻外荘 / 静岡県静岡市興津 坐漁荘 (1937年8月ー10月)
『人間性について絶望してはいけません。何故なら私達は人間なのですから』
アルベルト・アインシュタイン(1879-1955)
・白上佑吉さんのこと
現在では都道府県や地方自治体の行政を監督するか、旧内務省系省庁の幹部人事のまとめ役程度の権限しかないが、省庁再編により分割される前の内務省といえば国家の中の国家、役所の中の役所であるという志に溢れていた。
護民官なる言葉は内務官僚たる己を高い位置にして国民を見下したものと批判されたが(一部そのような心得違いをした者もたしかにいたが)、本来は自分がやらねば誰がやるという意識を体現した言葉である。今でも優秀な人材は多いが、やはり当時の内務省には尊敬すべき先輩や同僚、優秀な部下が多数在籍していた。
中でも白上佑吉さんのことを触れないわけにはいかない。今ではもっぱら林銑十郎元総理の実弟として語られることが多いが、林さんが朝鮮軍司令官時代に越境将軍で有名になる以前は「白上の兄」として知られていた。それほど白上さんは内務省における名物官僚であった。
彼は私(筆者)の10歳年長である。東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、文官高等試験行政科試験に合格。明治43年(1910年)に旧内務省に入省。警視庁警部の第一部警務課を皮切りに、警察・治安関係のポストを歴任した。主だったものでも新橋警察署長と日比谷警察署長、麹町日比谷警察署長。これらは東京における重要施設がある地域の署長ポストである。
長野県では理事官、富山県では警察部長。外地では朝鮮総督府高等警察課長と京畿道警察部長。今で言う副知事の内務部長(千葉県)を経て、警視庁官房主事。内務省における警察官僚のエリートコースを歩まれた。
人柄は豪放磊落。人情味あふれる親分肌で煙草と賭博こそ嗜まなかったが、暇さえあれば部下を連れて職場近くの大衆居酒屋を飲み歩き、給料のほとんどを使いきってしまうという官僚らしからぬ人であった。何を隠そうこの私も富山県時代に同県の警務部長であった同氏には大変お世話になっている。いささか政治家への追従めいた言動もあったが、職務においては厳格な一線を画しており、親しい政治家であっても汚職事件があれば厳しく対処した。そのため味方は無論、敵対する派閥からも尊敬を集めたものだ。
白上さんの『地獄耳』は、こうした酒の席の付き合いによるところが大きい。
白上さんが警保局時代に可愛がったのが、情報通で有名な江戸前フーシェこと、民自党副総裁の川島正次郎氏であることはよく知られている。川島氏の座右の銘である「政治とは他人と飯を食うこと」は、白上さんが酒の席を渡り歩き、様々な情報を集めるのを傍で見ていたことに影響されたのであろう。
中でも白上さんの真骨頂は、その頑丈な胃袋を酷使することにより集められた玉石混合の膨大な情報から、ダイヤの原石を見つける審美眼にあった。私達には味噌も糞も判断のつかないのに、白上さんは平然と価値のあるものだけを確実に見つけ出していた。おそらくそれは他の誰にも真似の出来ない、白上さん独自の勘のようなものだったのだろう。
2・26事件の前日、現在の機動隊の前身である特別警備隊の武装警官を率い、斎藤内大臣と高橋大蔵大臣を救出されたことはあまりにも有名だ。もし空振りに終われば、白上さんは下手をすれば職権乱用で逮捕されていたかもしれない。それほど危険な行動であったのだ。しかし白上さんは「必ずやる。仮になければ、俺が腹を切ればよい」と泰然自若としたものであり、警備隊の指揮官らを心服させた。このあたりは警視総監としてお仕えした林元帥とよく似た組織統制術であったと思う。
白上さんは常々「私はカンニングしているだけだから」と謙遜されていた。カンニングという言い方は白上さんのユーモアにしても、確かにそうとしか思えない出来事も何度かあった。
忘れもしない。あれは昭和12年(1937年)7月-白上さんが内務次官、私が内務省警保局長で警視総監は大村清一(内務次官を経て現在は民自党代議士)の内務省三役であった時だ。
盧溝橋で武力衝突が発生した7月7日の早朝。警保局や警保局の幹部、そして保安課-特別高等警察の幹部まで一同に集めて開催された緊急会議。冒頭、珍しく険しい表情をした白上さんは、穏やかな凪の海のように静かな声色で-しかし内側に秘めた熱を隠しきれないといったような断固たる口調で宣言した。
「近衛公爵に国防保安法、軍機保護法、軍用資源秘密保護法、そして治安維持法違反の疑いがある」
日本史上最大のスパイ事件とも言われる、ゾルゲ事件の捜査が開始された瞬間であった。
- 『昭和動乱から内務省解体まで-安倍源基回顧録-』より抜粋 -
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- 本紙記者逮捕に抗議 -
本日未明、東京朝日新聞(以降本紙)の東亜問題調査会勤務・尾崎秀実記者が、警保局保安課に逮捕された。容疑は治安維持法に抵触した疑いがあるというものである。逮捕理由はきわめて曖昧で、物的証拠に乏しく、本紙はこれに厳重に抗議し、尾崎記者の即時解放を求めるものである。
そもそも治安維持法はかねてから言論の自由を弾圧する恐れがあるとして、本紙は田中内閣での改定も含めて、その成立過程を厳しく反対してきた。この際、政府には厳重なる反省を求めるのと同時に、治安維持法の再改正を求める次第である。以上。
- 東京朝日新聞社の緊急声明 -
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「盛りおって…馬鹿が!現場を知らぬ経営陣らしいわ!馬鹿が!」
- 尾崎記者逮捕を受けて開催された緊急取締役会議の席上、声明発表に反対して解任された緒方竹虎主筆が、退出後にした発言 -
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「いわゆる鴨葱というやつだな」
- 緊急声明を受けて白上次官が安倍警保局長に対して発言 -
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後藤隆之介という人物がいる。明治21年(1888年)生まれなので、この年49歳になる。
彼は民間において社会人として働いたわけでも、官僚や軍人として公の組織で働いたこともない。まして学者として何か目立った研究成果を残したわけでもない。ひょっとしたらあるのかもしれないが少なくとも公言はしていない。
当然ながらこれという実績があるわけではないのだが、行動力だけは人一倍。それを生かして学生時代から在野の政治活動家として活動し、左派にも右派にも幅広く個人的な人脈を広げたという、いかにもこの時代らしい人物である。
その後藤の政界人脈の中でも、特に有力なものは貴族院議長の近衛文麿公爵である。
近衛と後藤は一高時代の同級生である。学生時代から政治活動に熱中して度々留年していた後藤と、インテリ学生の近衛に接点があるわけもなく当初は疎遠であったが、後に急速に意気投合した。後藤が将来の総理候補としての近衛に目をつけたのか、近衛が後藤に興味を持ったのかはわからない。気が合ったことは確からしい。
ともかく後藤は欧米遊学の後、昭和8年(1933年)に帰国。社会大衆党の亀井貫一郎から勧められるまま、独自の政策研究会の立ち上げを決意する。
昭和研究会である。
近衛としては将来自分が総理に就任した際の私的シンクタンクにするため、資金援助を行ったようだ。後藤も「近衛内閣が出来れば組閣参謀」のつもりで、両者の利害は一致していた。
その綱領によれば「非常時局を円滑に収拾し、わが国力の充実発展を期するため、外交・国防・経済・社会・教育・行政等の各分野にわたり、刷新の方策を調査研究する」というものである。
何とも総花的なものでコメントの仕様がない。
とはいえ近衛人気を当て込んだ将来の先物買いの意味もあって、豊富な政治資金を抱えていたことから、政官民の改革意欲に溢れた優秀な人材が集結した。政党の政策調査会のように分科会が設置され、その下であるべき政策を自由闊達に討議した。その結果は一般向けに書籍という形で公表し「なにかやってくれそう」という近衛人気をますます高めることになった。
昭和11年(1936年)。折りしも2・26事件により政治情勢が緊迫し、近衛政権が現実味を持って語られるようになる頃、昭和研究会は3つの政策的な柱を決定した。
すなわち(1)憲法の範囲内で革新政治を目指す、(2)既成政党を排撃、(3)ファシズム反対。この3点である。
3と2は対立しているように思えるが、1とあわせてみれば、近衛とその側近の考えが窺える。既成政党を排除して新たな政党により国内改革を行う-当時の革新とはすなわち社会主義のことであり、社会主義政党による改革といえば、つまりはそういうことである。
近衛公爵が京都帝国大学時代に社会主義思想の影響を受けたことはよく知られており、日本における上流階級である華族の中でも、帝大を卒業した「革新貴族」と呼ばれる有馬伯爵や木戸侯爵、織田子爵などが彼の友人であった。
また昭革新官僚と呼ばれた官僚達(昭和研究会に参加した)も、大学において多かれ少なかれ社会主義の影響を受けている。近衛の政治的な同盟者である枢密院副議長の平沼騏一郎は「アカを近づければ、政権が遠のくぞ」と近衛に珍しく忠告したとされるが、本人は聞く耳を持たなかった。
近衛からすれば、林内閣に代表される既存の政治体制や既成政党を中心とした体制では、妥協のために大胆な国内改革が出来なくなっているように思えたのだろう。経済界への統制を弱めれば経済は弱くなるし、粛軍人事により軍は弱体化する。このままではアメリカやソ連、ドイツはおろか、国民党政権にすら勝てなくなる。一刻も早く林内閣を退陣に追い込み、国内革新を始めなければならない。
このように近衛は近衛なりに日本を憂いていた……と思われている。
実際この飽きっぽい青年貴族が、どこまで真剣に政権獲得を狙っていたかはわからない。林内閣が安定すれば自分の政権が遠のくと言う意識はあったと思われるが、それは代表世話人たる後藤も共通した認識を持っていた。
林内閣の内閣参議(経済財政)に就任した高橋是清は、内閣府に政府の支援の下で経済財政に関する調査会(高橋調査会)を立ち上げ。官民から優秀な人材を集めて独自の経済分析や政策立案を始めていた。昭和研究会からも高橋亀吉や中山伊知郎・東畑精一といった経済学者が引き抜かれており、このままでは研究会の価値=後藤としての立場が危うくなりかねない。
後藤の思惑はともかく、近衛文麿からすれば林が失敗すれば、来るもの拒まずという気持ちだったのか。少なくとも表面上は貴族院議長という立法府の長であることから内閣とは等距離を守った。そのくせ昭和12年(1937年)5月。林内閣の内閣改造にあわせるかのように貴族院議長を辞任。世間は「すわ、近衛公爵がついに政界再編に乗り出すのか」と色めき立った。
枢密院副議長である平沼騏一郎が東京市杉並区の郊外にある荻外荘で静養していた近衛文麿の元を訪れたのは、国民政府軍が上海租界を空爆した翌日。昭和12年(1937年)の8月15日のことであった。
*
「……尾崎君が逮捕された?」
旧知である新聞記者逮捕の一報を聞いた近衛文麿は、公家風というか瓜実顔というか、むしろ幼さすら感じさせる顔の表情を面食らったように弛緩させた。これに親子ほども年の離れた平沼男爵は、驢馬のような面長の顔を小刻みに動かしながら「いかにも」と短く応じた。
「逮捕容疑は何です?まさか女風呂でも覗いたとか?」
「公爵。冗談を言える状況ではない。今の段階でわかっているものだけで国防保安法違反、軍機保護法違反、軍用資源秘密保護法違反、そして治安維持法違反。このほかにも幾つか引っかかるものがある」
「……は?保安法?機密保護法?え?尾崎君が?は?」
突如として平沼の口から飛び出した物騒な単語の数々に、近衛はしばらくの間「理解出来ぬ」と怪訝に首をかしげていたが、ようやくそれが意味するところを理解すると滑稽なほどに取り乱し、挙動不審な態度を顕わにした。
大審院院長と司法大臣、検事総長の3職を歴任した唯一の人物である平沼は、今もなお法曹界の重鎮として君臨し続けている。思想検察の後ろ盾ともされ、現在でも司法省に絶大な影響力を持つ平沼がその事実を自分に語る意味。
近衛は震える声で聞き返した。
「……つ、つまり尾崎君は」
「スパイだったということになりますな」
「馬鹿な!」
近衛は狼狽して籐製の椅子から立ち上がった。主のただならぬ気配に公爵家の用人が慌てて駆け込んでくるが、平沼がその温かみのない視線を無遠慮に向けると、慌てて回れ右をして退出していく。
平沼はいつものように感情の窺えない陰気な顔のまま、陶器の茶器-ティーカップと呼ぶべきなのだろうが、平沼は頑なに茶器と呼ぶ-を口元に運びながら告げた。
「特別高等警察の捜査結果だ。よほどの確証がないと彼らも動くまい」
放心状態の近衛に淡々と事件に関する経緯を語る平沼騏一郎は、この時71歳。国本社なる政治団体を立ち上げ、早くから政治活動にも熱心なことで知られている。元老の西園寺公望元首相などは国本社を背景に「反政党、反共」を唱え、政党政治を攻撃し続ける平沼を「検察ファッショではないか」と蛇蝎のごとく嫌悪していた。
政治思想的には社会主義にかぶれた新しいもの好きの近衛と、国粋主義というか復古主義というか、それとも神権政治とでも呼ぶべきか。なんと表現すればよいのかわからないが-とにかく独自の政治観を持つ平沼はかなりの点で異なる。むしろ相性が悪いように思える。
しかし両者は政党政治に批判的な立場では共通しており、何より政治基盤が重らないことから政治的な同盟関係を築いている。例えば西園寺が猛反対する平沼の枢密院議長就任を近衛は政治的に後押ししており、平沼も近衛の総理就任を支持する具合だ。
しかし今の平沼は政治的な同盟者としてではなく、思想検察の責任者として接している。
疲れて草臥れた驢馬のような顔をしてはいるが、この顔で平沼は実際に危険主義者を何人も取り調べ、実際に絞首台に送り込んできたのだ。そしてその列に自分のよく知る人物が送られようとしている。その冷徹な事実が、近衛にとっては何よりも恐ろしかった。
肝心の尾崎秀実は東京朝日新聞の記者として大陸駐在経験が長く、満洲鉄道の調査部に所属。社内における大陸問題の専門家として知られていた。西園寺公望公爵の孫である公一の親友であることから、昭和研究会には昨年参加。すぐさま頭角を現し、今では近衛の外交政策ブレーンの中でも重要な地位を占めている。仮に近衛内閣が出来れば、政権においてそれなりの地位を占めることは政界観測筋の間では確実視されている。
或いは自分自身に対する政治的な影響を懸念したのかもしれない。近衛は矢継ぎ早に疑問をぶつけた。
「尾崎君はいったい、どこのスパイだと疑われているのですか。アメリカですか。それともイギリスですか。確か彼は英語とドイツ語に堪能だから、まさかドイツだとでも」
「リヒャルト・ゾルゲという人物をご存知でしょうか」
「……?いや、どうでしたか。そういえば尾崎君が連れてきたことがあったような」
近衛公爵はそう言うと椅子から立ち上がり、手を後ろで組んでうろうろと部屋の中を二度ほど往復した。そして突然「そうだ、あいつか」と、素っ頓狂にも聞こえる甲高い声を上げた。
「思い出した。ドイツの、何とかという新聞社の特派員だ。今の駐日ドイツ大使は臨時代理だが、彼とドイツ本国情勢について伺った際に同席していた記憶がある。そういえば尾崎君が何度か研究会にも連れてきていたぞ」
その時、一種の興奮状態にあった近衛公爵が平沼の顔を見ていなかったのは幸いというものであろう。一瞬ではあるが往年の鬼検事としての地金を見せた平沼の表情は、まさに悪鬼の如きものであったからだ。
しかし平沼はすぐさま「政治的同盟者として憂慮している」という顔を取り繕うと「ではご存じないのですな」と続けた。
自分に縋るような視線を向けてくる近衛に、平沼はきっぱりと告げた。
「コードネーム『ラムゼイ』。コミンテルン-すなわちモスクワから直接の指示を受け、対外諜報網の中のひとつを差配していた人物。それがリヒャルト・ゾルゲの正体です。早い話がアカですな。尾崎なる記者は利用されていたのではありません。ラムゼイ機関の重要人物-というよりも当事者、工作員そのものだったのですよ。ドイツ大使館と昭和研究会を通じて、日本から情報を盗み出すためのね」
もはや近衛は言葉を発することも出来ず、酸欠の金魚のごとく口をパクパクと動かすばかりであった。
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(もう二度と会うこともなかろう)
荻外荘から自宅へと帰る車中において、平沼は先ほど別れた-そしておそらく二度と会うことはないであろう貴族政治家との決別を決意していた。
平沼は周章狼狽する近衛に対して「事件が公になる前に昭和研究会を解散し、家督を嫡子か親族に譲るべきだ」と彼なりの友情と打算から忠告した。
これに対して近衛はたっぷり5分ほども逡巡した後、「後藤や有馬と相談する」とだけ応じた。目の前に父親が届かなかった総理の椅子があるのだ。迷う気持ちはわからないでもない。
とはいえ平沼からすれば、政治的なリスクを冒してまで忠告した。にも関わらず近衛はその手を振り払った。救命ボートに乗るのを拒否したとあっては、あえてそれを助けてやる義理も道理もないし、まして沈没船に同乗し続けるつもりもなかった。
平沼は車の窓から流れゆく景色を見るともなしに見ながら、知らず笑いがこみ上げてくるのを抑えるのに苦労していた。
若い頃から西園寺公に引き立てられ、国民的な人気があると煽てられた結果があの様である。危機においてその人間の地金が出るというが、挫折を知らない世間知らずの華族がありもしない理想を目指して、現実の政治をやろうとしたこと自体が失敗だったのだ。
平沼と近衛はそれなりの長い付き合いである。確かに頭はいいし、個人的には魅力ある人物といえる。だが民間で働いたこともなければ、自分のように官僚として、あるいは軍人として国家に奉仕したこともない。学者や研究者として専門の真理を追求したわけでもない。電信柱にまで頭を下げる卑しい代議士とて、近衛よりは世の中を知っている。
そんな意志薄弱の貴族に改革を期待をした国民も愚かとしかいいようがない。
だがもっともおろかなのは、その近衛を宮中における自分の後継者にしようとしていた興津の老人であろう。
考え方によっては近衛もあの老人の-西園寺公望の犠牲者なのだ。
(大体、西園寺さんがいかんのだ)
西園寺公望は近衛を自らの貴族政治家の後継者として期待していた。現にそれを裏付けるかのように早くから自分の秘書のようにあちこちを連れまわして人脈作りに手を貸している。
そうやって甘やかされた結果が今の様だ。
頭が良いというのなら、金のかかる政治家ではなく学者にでもすればよかったのだ。聞くところによると、西園寺の孫である公一も協力者として捜査線上に浮かび上がっており、上海時代に中国共産党と接触していたことから逮捕は確実だとか。全ては西園寺老人の自業自得だ……
そう結論づけた平沼の顔は、もはや隠しきれない歪んだ愉悦に満ちていた。
これであの妖怪も総理推薦から辞退せざるを得なくなるだろう。そして自分の枢密院議長就任を阻む存在が晴れて消えさる-その事実は平沼をひどく喜ばせた。
かつて西園寺は5・15事件の直後に平沼内閣や平沼枢密院議長をちらつかせて、自分に事態収拾への協力を強いておきながら、空手形と不渡りを連発した。面目を潰された平沼は西園寺を政敵と位置づけ、憲法の枠外にある権威として元老の存在そのものを批判してきた。
ところが80を越えてもなお老人に迎えがくる気配はなく、このままではジリ貧とさすがの平沼も慌て始めていた。年齢的には近衛はともかく、自分に残された時間はさほど長くはない。
まさにそんな時期に突如として降って湧いた政治的スキャンダルである。
それにしても西園寺の老人も人生の最後に政治的なツケを、自分の実の孫と、一時は自分の政治的な後継者として育成しようとしていた人物に精算させられようとは……
近衛が潰れるのは計算外であったが、考えようによっては近い将来、総理候補を自分と争うライバルが消えたのだ。
現職の総理である林銑十郎は近衛の政治行動に表だって何も発言してはいないが、内心疎んじていたことは確かである。近衛に引導を渡したことで、林首相に恩を売ることにもなった。そう考えると近衛に対して西園寺共々、自爆してくれたことに感謝するべきなのかもしれない。
滑稽ではないか。1世紀近く生きてきた挙句、必死に守ろうとしていたことすべてが無意味になってしまうとは。
平沼はもはや堪えきれなくなり笑い出してしまった。
「……なんしょんならーのう。あの老人は」
運転手は珍しく独り言を漏らした主人の姿をサイドミラーで確認し、そしてそこに映った嗜虐と陶酔感に満ちた笑みを浮かべる老人の姿に、思わず運転を誤りかけ、あわててハンドルを切った。
対向車から罵声が浴びせかけられる中、後部座席に深く腰掛けた平沼はそんなことは気にもせず、自らの前途に思いをはせたのか、一人低く嗤い続けていた。
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「何の用だって?西園寺公爵のご機嫌伺いだよ。老人はあまり干渉されると『年寄り扱いするな』と怒り出すが、放置されると拗ねてしまうから厄介なんだな、これが。まるで女と一緒だな……あ、記者諸君。これはオフレコで頼むよ」
- 興津詣の帰途に地元記者団の囲み取材に応じた林銑十郎総理の発言メモ -
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南極環流やメキシコ湾流と並んで世界最大規模の海流に数えられる黒潮は、東シナ海を北上してトカラ海峡から太平洋に入り、日本列島南岸に沿って北上。最後は房総半島沖を東に抜ける暖流である。
この影響もあったのだろう。いわゆる戦国時代においてもミニ氷河期から明けたばかりだというのに、南海道から東海道沿岸は一年を通じて温暖な気候であり、海産物も豊富に採れるという恵まれた環境にあった。徳川家康は地政学的な観点や幼少期にすごした経験以外にも、この点を評価して駿府を隠居地としたと思われる。
元々武術は何でもござれの体育会系であった家康は年を重ねて健康オタクへと変化していた。それに加え、自らの体をいたわり健康で長命を保つことが、最大の政治的な財産になると経験的に学んだのだろう。現に織田も豊臣もそれが理由で滅んでいる。温暖な気候で旬に応じた美味なるものを食べて療養し、政治の中心である江戸から地理的にも距離を保ちつつ、政治の実権(決定権)を確保する。
こうして家康は豊臣家を滅ぼした(1615)。
明治以降、日本にも避暑地という概念が輸入されたが、徳川家康と似た理由で全国各地に別荘を持ったのが元首相の山縣有朋(1838-1922)である。
山縣は体力的な限界から政治の第一線を退くと、京都の無鄰菴を始め各地にある別荘や別宅で体を労わった。さすがに時代が違うために最終的な決定権を保持することはなかったが、自らの派閥の手入れと世話を怠らず、大正期に亡くなるまで政官財に絶大な影響力を保持し続けた。
このスタイルを真似したのが西園寺公望である。
明治末期に2度首相を務めた西園寺であったが、若い頃から病弱であった。20代でリウマチを発症して以降、さまざまな合併症や病気により何度も死にかけた彼は、山縣からの勧めもあり静岡県興津に宿を借り、後に実弟が養子となった住友財閥からの支援を受けて別宅の坐漁荘を完成させた。
別荘完成後、西園寺は東京駿河台の本宅にはほとんど帰らず、1年のうち4分の3ほどをここで過ごすようになった。仕事が趣味といってもよい平沼が「普段は働きもせず、いざという時にだけしゃしゃり出てきて!」と激怒するのもむべなるかなである。
最後の元老として天皇を輔弼し、政変の際には首相推薦をすることが慣例となっていた老人の下には、意向を探るために政財官民問わず多くの人が訪れた。
マスコミはこれを『興津詣』と揶揄した。
しかし老人は老いても老人なのだが昭和初期に相次いだ政変により次第に権威は衰え、元老ですら批判やテロリズムの対象とされたことから、訪れる人も減少傾向。何より老齢を理由に西園寺側が会談を断ることも増えた。
元々西園寺は平沼に「憲法外機関」と批判されるまでもなく、自分を最期の元老として憲法の外側にある超越的な権威を終わらせ、憲法の枠内で首相を選ぶ制度作りを最後の使命としていた感がある。自由主義と漸次的な政治手法こそ、この老人の真骨頂であった。
「あの馬鹿孫がどうなろうと私の知ったことではない。八郎(娘婿)に任せているからな……が、知らせてくれたことは感謝する」
先ほどまで縦横無尽に振り回していた堅の木で出来たステッキを杖のようにして、西園寺公望はその体を支えながらソファーに座り込んでいる。西園寺は荒い息を吐きながら感謝の言葉を口にするが、相対する林銑十郎総理は顔が引きつっている。部屋の中は先ほどまでの老人の暴挙によりすっかり荒らされており、まるで台風が通り過ぎたかのようだ。
林総理から大陸情勢の説明を受けた後、西園寺は本題であるゾルゲ事件の途中経過の報告を受けた。かつてパリ講和会議に出席した際、フランスの新聞から『東洋のスフィンクス』と揶揄された老人(当時も老人であった)は、そのあだ名に似つかわしく黙して林の報告を聞いていた。
そしてそれが終わるとステッキを持って立ち上がり、洋書がぎっしりと詰まった本棚を、その皺がれた手で掴むや否や、とてつもない力でひっくり返した。
林が唖然とする中、西園寺は無言で部屋の中の調度品を片っ端から叩き壊し始めた。置時計のガラスを叩き割って引き倒すと、飾り棚ごと中国製の磁器を粉砕。部屋の隅にある盆栽を丁寧に右端から左端まで順番に叩き壊し、襖を背後に控えていた警護官や首相秘書官ごと蹴り倒す。
これには駆けつけた西園寺家の熊谷執事と原田秘書官(原田熊雄男爵)が、慌てて老人を取り押さえようとする。
しかし西園寺は「やかましい!」と今度は二人をステッキでぼこぼこに殴り始める始末。さすがにこれは林もあわてて立ち上がると「公爵、公爵!」と止めに入った。
「無様な真似を見せたな」
「いえ、お元気そうで何よりです」
「……皮肉か?」
「……どうでしょう。おそらく本心だと思います」
額をひっきりなしにハンカチでぬぐいながら、林は直立不動でソファーに座り込む西園寺の前に立つ。西園寺が襖をすべて蹴り倒したために妙に開放感のある部屋の真ん中で、老人の沈んだ声だけが妙に甲高く響いた。
「馬鹿はどうでもいい。八郎が育て間違えたのだろう。八郎を婿に選んだのはお前だろうといわれると、返す言葉もないが」
「この一件で政府が西園寺公爵家を処分することはありません。それだけは断言しておきます。宗秩寮総裁の木戸侯爵(木戸幸一)にも確認はしております」
「重ね重ね申し訳ない」
西園寺は生涯結婚はせず、事実婚の形で何人かの妻を娶っている。何人かの娘があり、跡取には旧長州藩主の毛利公爵家から娘婿を取った。
つまり件の事件に関与した公一は正確には外孫ということになる。娘の死後、政治的見解の相違から西園寺は八郎と疎遠になり、公一と接することもほとんどなかった。
「公一君は処分せざるを得ないでしょう。むしろ彼が対日工作の本筋ではないかと捕らえる向きもあります」
「当然だ。それに私もいい加減、近衛には愛想がつきた。しかし、あれが今でも有力な首相候補であることに変わりはない。」
長年続いた清華家の伝統も影響しているのか、それともこの老人独自の家族観からか。西園寺の家庭や家族に関する考え方は極めて独特である。現に今でも実の孫のことよりも、近衛文麿のことを憂慮するような発言を繰り返している。
「林君、君は政治的なライバルを消すために今回の事件を利用しているわけではないのだな」
その言葉に林は一度唾を飲み込んでから、西園寺に力強く断言した。
「正直申し上げて、この報告を受けた私に、その考えがなかったわけではありません。しかし彼は選択を誤りました。小火で済むところを大火事にしたのは公爵自身です。私が今、総理として考えていることは、昭和研究会の中の優秀な人材をどうやってこの延焼から守るか。そして近衛公爵家をいかに存続させるか。その2点のみです」
「……よく率直に話してくれた」
西園寺は再び視線を床へと落とした。おそらく近衛公爵家の家督を誰に相続させるかについて、考えをめぐらせているのだろう。そしてそれは欧州でオーケストラ楽団を渡り歩いている弟の秀麿ぐらいしか候補者はいない-という意見で林と西園寺は意見が一致した。
近衛文麿にはほかにも弟はいるが、このような事件の後に公爵家の当主がつとまるほど図太い神経はしていない。その点、指揮者として世界的な知名度を誇り、かつ日本人離れした自己主張の強さで自ら立ち上げた楽団から追放されても一向にめげない秀麿は、ある意味適材適所といえた。
「文麿もあれぐらい図太い神経をしておればな。秀麿が仮に当主を引き受けたとしても、どうせまともに日本に帰っては来ないのだろうが。それでもヴァイカウント(子爵)よりデューク(公爵)の方が海外王室や上流階級の受けがいいとわかれば、喜んで引き受けるだろうよ」
「失礼ながらずいぶんと近衛家の内情にお詳しいですな」
「先代の篤麿さんからの付き合いだからな」
西園寺と先代の近衛篤麿は、同年代の貴族政治家として明治時代に鎬を削った。西園寺が伊藤博文系の欧米派の自由主義者であるなら、近衛の先代は中国との関係が深い大アジア主義者として著名な存在だった。篤麿は貴族院議長を辞任して、日露戦争直前に対外硬派運動を展開。清と連携してロシアと対抗しようとしたが、大陸滞在中に感染した病により40歳で死去している。
その死後、近衛家には篤麿の政治運動により莫大な借財が残された。当時、跡取りの文麿は13歳である。幼心に借金取りがつめかけ、昨日までの政治的な同志が手のひらを返すのを見て聡明な文麿少年がひどく傷ついたであろうことは、想像に難くない。
そうした事情を西園寺の口から聞かされた林は得心したように頷いた。
「……なるほど、公のお話をお聞きしてようやく理解できました。近衛公爵のどこか地に足のつかない政治活動は、他者への根本的な不信感からくるものなのですな」
「不信感か、そうだな。総理の言う通りかもしれない。政治とは一人では出来ない。人を信じなくても任せるだけの器量がなければ、大きな仕事は出来ない。それを私は彼に教えたつもりであったが」
「幼少期のトラウマが根っこにあれば難しいでしょう。私も外相と陸相を兼任しておりますが、ある程度部下に丸投げしないことには仕事が進みません。丸投げとは部下を信じ、責任を自分が取ることです。そうでなければ部下も働きませんからな」
「言いえて妙であるな」
西園寺は意図的に柔らかい物言いをする林に、ようやく寂しげながらも笑みを見せた。
苦境にあえいでいた近衛家に手を差し伸べたのは、政敵である西園寺である。政治的なライバルの遺児がなぜか西園寺には引っかかったらしい。
いずれは西園寺が近衛を自分の政治的な後継者にしようと、若い頃から目をかけていたことはよく知られている。しかし近衛は政治的な父親の西園寺流の自由主義ではなく、実の父親の政治路線へと回帰していった。
「10代や20代ならともかく、もうすぐ不惑になろうという中年ですぞ。にも関わらず、あちらへこちらへとフラフラしているのは公の責任ではないでしょう」
「であるな……で?」
西園寺は再び視線を上げ、林の顔をねめつけるように見上げた。先ほど見せた怒りは不肖の孫と、優柔不断な政治的後継者が見せた失態ばかりが理由だったわけではないようだ。生憎ではあるが身内の情や親しい者への感傷に浸り続けるような柔な神経を、明治維新と世界大戦を生き抜いてきた老人は持ち合わせていない。
「平沼を枢府(枢密院)の議長にするという考えに変わりはないのだな」
「失礼ながら申し上げますと、手形を切られたのは公爵御自身であります。相手の思惑に乗るのが癪だというのは理解しますが、ツケはいずれ清算せねばならぬものです」
林の言葉に「私は切った覚えがないのだがね」と西園寺は吐き捨てた。
帝人事件の時といい、機関説問題の時のやり方といい、この老人は平沼のやることなすこと全てが気に入らないらしい。
確かに陰険なやり方なのは林も認めるが、ここまでくると理非曲直を差し置いて感情の問題だ。政治において「あいつが嫌い、こいつが気に食わない」という要素は案外馬鹿に出来ないものだが、それだけが理由ではいかにも情けない。林は自らの秘書官に椅子を持ってこさせると、西園寺の正面に座った。
「公爵。ご安心ください。平沼男爵に切った首相手形を決済せずに済む方法があります」
「だから私は切った覚えがないのだがな……で?どんな方法があるというのか」
不機嫌さを隠そうともしない西園寺に、林は自慢のカイゼル髭を捻りながら、得意そうにその解決策を宣言した。
「簡単なことです。私が総理をやり続ければよいのですよ」
次の瞬間、西園寺は手にしたステッキを林の顔面めがけて投げつけていた。
*
上海攻防戦が終了した直後、ドイツ国防軍の軍事顧問団が日本軍の捕虜となった事実は、従軍していた海外記者によって全世界に報道され、逆輸入の形で日本国内でセンセーションに報道された。大陸でのテロ事件に対するフラストレーションが積み重なっていたこともあり「あれだけ日本へ連携を呼びかけておきながら、水面下で国民党政権を支持していたとは何事だ」という怒りが日本国民の中から噴出した。
ゾルゲ事件はよりにもよってそうした時期に摘発され、日本国内におけるソビエト警戒論と、それに利用された間抜けなドイツ大使館への反感が更に強まる結果をもたらした。結果、日本政府は長く国内の反ドイツ運動に悩まされることになる。
*
記者逮捕に関して緊急声明を発表した東京朝日新聞は「テロリストを雇っていた」と世間から痛烈に糾弾され、不買運動が発生。そのため解任した緒方竹虎を三顧の礼で再招聘。主筆兼代表取締役として迎え入れた。
昭和13年(1938年)、緒方は大阪朝日新聞と東京朝日新聞を合併させ、体制一新の意味合いも含めて社名を変更。
新社名には「東と西、東日本と西日本、東洋と西洋を繋ぐ新聞社でありたい」(緒方談)という意味がこめられているという。
ここに現在まで続く『東西新聞』が誕生した。
「…え?本当に?え?え??」
東西新聞への名前変更に、最も動揺したのは現役記者や社員ではなく、何故か当時の林首相であったというが、その理由は現在に至るまで不明である。
・史実より3年ほど早いゾルゲ摘発。そして近衛退場
・地味にいろんなところで影響与えている高橋是清。経済面と合わせて政治面でも大変便利です。
・何でこんなに平沼騏一郎は悪役が似合うんだろう。大体、写真写りが悪すぎるんがいけないんや。だから私は悪くない!
・暴れん坊西園寺公望(88)
・意外と同情できる面もある近衛文麿。だけど20代までならともかく30過ぎてもそれはあかんやろ。
・おそらく胸中複雑な秀麿。戦時中を除けば意外と兄弟の仲はよかったらしい。
・きっと東京日日は帝都新聞に社名を変更して、グルメ対決が起こるに違いな(ry
・この小説を書いたのは誰だあ!!!