大日本帝国 東京府東京市 三宅坂 陸軍参謀本部庁舎 大会議室 / 芸備日日新聞 / 永田町 総理官邸2階 閣議室(1937年7月)
『思うままに生きよ、そして他人の生き方に口を出すな』
- イタリアの諺 -
荒木貞夫元陸相は帝国陸軍を皇軍と称したが、実際には国軍である。
軍と警察の最大の違いは、装備の面もそうだが、長期的な作戦行動能力を組織単独で保有している点にある。だが平時の軍隊には食糧に武器弾薬はおろか余分な人員も存在しない。事前に正規の手続きを経なければ、軍隊は戦える組織になれない。
では何故、2・26事件における反乱軍が動員を完了していたのかといえば、所属部隊が朝鮮半島への派遣が決まっていたため、事前に食料や武器弾薬が付与されていた為である。盗人に追い銭というわけではないが、憲兵隊が監視していた割には、あまりにも不用意だったことは否めない。
ともかく近代における戦争とは、膨大なペーパーワークと、それを処理する官僚機構がなければ成り立たない。大蔵省に予算要求しただけでは、まだ絵に描いた餅だ。議会(衆議院と貴族院)の承認を得られるように務め、予算案が承認されて、初めてスタートラインに立つ。
国家戦略や外交政策に基づき作戦計画を練り、実戦を想定した訓練を繰り返して有事に備える。その兵士は有権者であり納税者でもある国民だ。
本来なら即応態勢である部隊がある程度あることが望ましいのだが、現状では最前線となりうる朝鮮半島の師団などを例外として、そのように体制にはなっていない。徴兵される側の国民の負担が大きくなりすぎるからだ。
個人の負担感だけの問題ではない。徴兵される青年層は職業軍人ではなく、それぞれの職場で働く労働者であり納税者でもある。徴兵期間が長引けば、それだけ負担が経済界に重くのしかかる。
米国海兵隊のように志願制ではない弱みだが、師団の管区が固定化されていることから連隊や師団の中で郷土意識が形成されやすいという利点もある。
「こんなことで国家総動員体制が出来るか!」
「チンタラ議会で予算案審議をしている間に、敵が動員を終了させていたらどうするのだ!」
「政争にかまける政党政治では、来るべき戦争はのりきれん!」
荒木貞夫は陸相時代の評判こそ最悪であったが、それまでの作戦屋としての経歴は極めてまっとうなものである。先の欧州大戦には連合軍の観戦武官として従軍。ケタ違いの大規模会戦と、それを支えた欧州各国の国力を目の当たりにした。
ところが帰国してみれば、祖国の陸軍では相変わらず長州閥が実権を握り、議会は軍縮なる大いなる幻想により予算を徹底的に締め上げている。大正デモクラシーと呼ばれた時代は、軍人が軍服を着て通勤することすらはばかられる冬の時代であった。
自分達が経験した欧州大戦の悲惨な現実と、平和を謳歌した日本国内の深刻なギャップ。欧州大戦を経験した将校の中から反動で精神論に走った者が出たのは、同情の余地がある。給与も低ければ待遇も悪く、国民から敬意も持たれず、職業軍人には嫁はやらんと平気で公言された時代にあって、士気を維持し続けようとすれば、必要以上に兵士達の愛国心に訴えかけるしかなかった。
しかしテロリズムだのクーデターだのに走ったのは、流石にどうやっても擁護は出来ないのだが。
「結局のところ、配られた手札で勝負するしかない」
参謀次長の小畑敏四郎陸軍中将は、各部局の主要幹部を集めた会議の冒頭、重々しい口調で宣言した。
わかりきったことではあるが、あえてそれを言葉にして共通認識としなければならないほど、粛軍人事の影響は大きい。
小畑の人事はその象徴的なものだ。
かつて荒木陸相と真崎参謀次長の下で陸軍を牛耳った小畑の部下や派閥の同僚は、その多くが予備役に編入させられた。唯一残った真崎派とされる小畑であったが、現にこの場において彼に向けられる視線は極めて冷ややかなものである。
2・26事件に部下が連座しているにも関わらず、岳父が鉄道大臣や衆議院議長を経験した立憲政友会の重鎮であったことから「同志を売り飛ばし、身内のコネで残った卑劣漢」との怪文書がばら撒かれる始末だ。柳川平助(元陸軍次官)、山岡重厚(元軍務局長)、松浦淳六郎(元人事局長)といった旧真崎派が徹底的にパージされている以上、そう言われても仕方がない側面はあった。
実際には「作戦屋がいなければどうにもならん」という寺内総長の要望に、林陸相が「ならば小畑しかおるまい」という鶴の一声で決まった人事だ。そのような上層部の思惑は三宅坂まで伝えられることはない。
針のむしろでありながら小畑がこの人事を受け入れたのは、かつての派閥の主である真崎退役陸軍大将(2・26事件への関与の疑いにより裁判中)に「あの髭を助けてやってくれ」と言われたから……
ではない。
そのような手紙が送られてきたのは事実であるが、彼はそれを一読もせずに火鉢にくべていた。
『このままでは永田は勝ち逃げだぞ。君はそれもいいのかね』
小畑の盟友であり政敵であった士官学校同期の永田鉄山は、昭和10年(1935年)に陸軍省内で不慮の死を遂げた。
岡村や自分が脳みそから汗をかきながら必死に参考書をめくる横で、鼻歌交じりに授業と関係のない洋書の原書を読みあさりながら士官学校を首席で卒業した男は、軍の出世争いでは常に自分の前にいた。小畑が荒木や真崎の派閥に属したのは思想や人柄に共鳴したというよりも、真崎派は自分より明らかに能力の低い連中しかいないため、自分を優遇せざるをえないであろうという打算。そして将来の陸相間違いなしとされた永田を追い越したいという、士官学校時代からの宿願を叶えるためでもあった。
それは永田の死により、永遠にかなわぬものとなった。
小畑からすれば「死に逃げ」である。永田のいない陸軍には未練も興味もない。2・26事件に少なからず関与していたこともあり、さっさと退役させるなり何なりすればいいと腹をくくっていた小畑であったが、かつての政敵であるはずの林銑十郎陸相-今や首相と外相を兼任し、陸軍に君臨する-小畑に言わせるなら『偉大なる凡人』に参謀次長のポストを打診された。
さすがにその人事を聞いた瞬間は、永田と自分以外の人間を等しく見下している小畑も頭に血が上った。
よりにもよってこの自分に長州のドラ息子の下で働けとはどういうことだ。人を嬲るのは勝手だが、軍の人事を弄ぶ事は許されることではない。どうにでもなれとやけっぱちな気持ちで陸相官邸に林を訪問し、その真意を問い質した。
林はその無礼をとがめるでもなく、滔々とその理由を列挙して見せた。
『死人はこれ以上何かを成すことは出来ない。しかし君にはそれが出来る。永田が出来なかった陸軍改革-総力戦体制の構築や、軍の近代化に対ソビエト戦略の策定、兵站部門の拡充に空軍の創設。やるべきことは山ほどある。しかし君も承知しているように、今の陸軍には人がいない。それは死んだ永田には出来ないが、君には出来る事だ……それに』
林は言葉を区切ると、髭をねじりながら決定的な問いを突きつけた。
『今、貴様が退役すれば、未来永劫にわたり永田の路線が日本陸軍の規定路線となるぞ。君はそれを看過出来るのかね』
そう語り小畑を現役に慰留した当人は「人がいない」と言いながら粛清人事を断行。林陸相-寺内参謀総長-渡辺教育総監の三長官体制を確固たるものにした。そして引き換えに、帝国陸軍をボロボロにした。
さすがに前線の司令官や参謀を即座に解任するような真似こそしなかったものの、少しでも過激思想があると判断された将校や佐官は、部隊の入れ替えと同時にすぐさま予備役へと編入された。
「これでは戦えない」という悲鳴が関東軍や朝鮮軍から聞こえてくるが、人事権を握られていてはどうすることもできない。「安政の大獄以上だ」との批判も出た。もっとも、そういった批判も小畑へのそれへと比べると生易しいものであったが。
針の筵でありながら、小畑はそれらに全く関心を寄せようとはしなかった。
一方的に敵視していた寺内総長は作戦に関しては殆ど一任という有様で、衝突が起きるはずもない。寺内の全権代理として単身で参謀本部に乗り込んだが、当然のように周囲は敵しかいない。
小畑にすれば、自分に向けられる感情はどうでもよかった。かつての真崎派にいた低能集団に比べれば、少しは使えそうな人間がいるという程度の認識でしかない。当然ながら永田の足元にも及ばない連中ばかりだ。であるならば、何を恐れる必要があろうか。
居並ぶ帝国陸軍の頭脳集団を前に、小畑は膨大なペーパーワークの始まりを告げた。
「さて諸君。戦争を始めよう」
*
- 陸軍特別大演習 8月15日より広島において実施 -
陸軍省は定例である陸軍特別大演習を、8月15日から27日にかけて広島県において実施すると発表した。通常4日程度の期間が12日間と大幅に延長されたことに、県内では驚きの声が上がっている。相川勝六広島県知事は取材に対して『大元帥閣下の臨席を賜る機会を得られることは、広島県民にとっても光栄である』としている、県庁では突然の発表に混乱が見られた。
- 芸備日日新聞(7月12日) -
*
「何のための動員でしょうか」
「動員ではありません。あくまで特別大演習を少し大規模にやろうというだけのことです。時期は前倒しとなりますが」
閣議の冒頭、米内光政海軍大臣が詰問するような口調で林銑十郎内閣総理大臣(外相と陸相を兼任)に問うと、林は陸軍特別大演習の前倒しの事実を認めた。
米内はただでさえ細い糸目をさらに絞るようにして林の顔を見据えたが、当の本人は髭をねじるばかりである。いきなり火花を散らす陸海のトップに、内閣改造により入閣したばかりの三土忠造内務大臣が取り成す様に、予備役陸軍大将でもある阿部信行内閣書記官長に発言を求めた。
「書記官長。私の記憶が確かなら、特別大演習は毎年10月に行われるのが通例と記憶しておりますが」
「政党出身の閣僚の方々はともかく民間出身の大臣もいらっしゃいますので、御説明いたします」
突然の問い掛けにもかかわらず、阿部は資料を見ることもなくすらすらと答えて見せる。
「陸軍特別大演習はその名の通り、陸軍における演習の中でも最大規模のもので基本的に年1回実施されます。最低2個師団による対抗演習が行われ、その日数は4日。教練効果を検証し、かつ大元帥たる陛下に統監して頂くのが通例となっております」
さすがに仕事に厳しい宇垣元陸相のもとで如才なく次官を勤め上げたことはある。顔に似合わない緻密な頭脳から導き出される明晰な語り口は、百戦錬磨の政党出身の閣僚達にすら「この世に知らないことがないのではないか」と思わせた。
書記官長の説明が終わると、鉄道大臣の中島知久平(政友会)が疑問を投げかけた。
「大演習については理解しました。しかし時期を2ヶ月近くも前倒しにして、大丈夫なのですか」
「多少の事務的負担は増加すると思われますが、動員自体に問題はありません。鉄道院や広島鉄道局にはご負担をかけると思いますが、ご協力をお願いしたい」
「動員自体は毎年のことですので、それ自体を問題としているわけではありません。しかし時期前倒しの上に6個師団となると……それも広島で、ですか」
普段は茫洋としている中島鉄道大臣が、あからさまに渋い表情を浮かべた。
陸軍における師団とは、それ自体が小さな政府のようなものだ。
現在は朝鮮半島や台湾などの海外に展開するものも含めて17個師団体制。その権限は基本的に師団管区に限られているものの、軍政と人事権を陸相から、動員・作戦計画を参謀総長から、教育(教練)を教育総監から一定の範囲で委譲され、陸軍次官や参謀次長よりも上位として扱われる。
林と陸軍省は今年の特別大演習を8月開催に前倒しの上で、その規模を6個師団にまで拡充。期間も3倍の12日とすると説明した。
たった17個しかない師団のうち、6個師団を臨戦態勢で動員しようというのだ。
兵士の糧食や武器弾薬に人員、馬に兵舎等の資材の搬送。船舶にある程度割り振ったところで、兵員や物資の主要な輸送手段が鉄道であることに変わりはない。日常のダイヤに何の調整もなしに数万単位、下手をすれば10万以上ともなりかねないものをねじ込めばどうなるか。
「無茶であり無理、不可能です」
陸軍にとってはたかが2ヶ月の認識なのかもしれないがとんでもないと、中島鉄道大臣は首を横に振った。
「広島鉄道局だけで対処できるような規模ではありません。演習参加予定の師団の地元鉄道局と連携するのは当然ですが、鉄道院全体で取り組まなければ。ひょとすると私鉄と連携する必要も出てくるかもしれません。民間鉄道への経営介入は経済界がよい顔をしないでしょう」
逓信大臣の頼母木桂吉(民政党)が補足するように付け加える。
「民間商船を借り受けるにしても、こうも急では大型船の空きがあるかどうか。あったとしても足元を見られます。少なくともあと2ヶ月でどうにかなるものではありません」
造船業の積極振興策の旗振り役として業界事情を知り尽くす頼母木逓相が「難しい」と発言したことは、閣議全体の空気を重いものとした。林内閣の成立と粛軍人事により、ようやく大人しくなったかと思われていた陸軍が、再び無理難題を言い出したのではないかという疑いである。
「発言よろしいか」
「どうぞ商工大臣」
「書記官長ではなく、総理にお伺いしたい」
重苦しい空気の中、閣僚を代弁するかのように、最年長である商工大臣の町田忠治(民政党)が発言を求める。
この老人は明治の御世より代議士として活躍した経済通であり、経済人としても山口財閥を再建した豪腕の持ち主である。それに似つかわしくない、なんとものんびりとした風貌が当時の日刊紙に掲載されていた四コマ漫画のキャラクターと似ていたことから「ノントウ」とのあだ名されていたが、同時に骨の髄からの経済的自由主義と自由貿易の信奉者としても知られていた。
「何ゆえ特別大演習の時期を前倒しにするのか、何ゆえ規模をこれほどまでに増やして行う必要があるのか……」
林を見据えながら疑問点を列挙していた町田は、静かながらも確固たる口調で詰問した。
「南京政府と戦争を始められるおつもりなのか」
戦争という単語に阿部書記官長と米内海相、そして発言者である町田商工大臣を除いた全閣僚に緊張が走る。
町田の持論からすれば、排他的な経済特権など中長期的に見れば地域全体の衰退にしかつながらない。そのため今の満洲の経済的繁栄にも否定的で、本土のようなしがらみのない環境において、あそこまで莫大な資本を投資すれば成功するに決まっていると疑問視をしていた。
そもそも最大の懸念である治安や安全保障に関して、日本が丸抱えしているのだ。
張学良が南京国民政府に降伏した昭和3年(1928年)を持って北伐完了を宣言。旧清王朝の支配地域にほぼ匹敵する大陸を統一した。しかし中央政府も地方政府も治安を維持する能力を持つことはなく、むしろ排外テロを煽る始末。中でも日貨排斥運動は大陸に進出していた紡績業を中心とする日本企業に莫大な損失を発生させた。
日本軍が制圧した満洲や上海などの外国人居留地はともかく、その外では私有財産は保障されず、何の根拠もなく税がみかじめ料のように徴収され、生命の保証すらない。これではまともな産業や民族資本が成長するわけがないし、いくら人口が多くても中間層が育たない。中長期的に衰えていくばかりだ。
直近の事件や出来事だけでも、この3月には広西省で日本人追放令が出され、日本政府がこれに抗議をすれば「内政問題だ」と逆にこちらを批判する始末。5月には日本領事警察が暴行を受ける事件が発生しており、このためイギリスから要請された財政基盤強化のための借款供与を林総理(外相兼任)が即座に断ったばかりだ。
借款を断ったこと自体は町田も間違っているとは思わない。テロや反日運動に誤ったメッセージを送りかねないからだ。
同時に町田は今までの軍のやり方も間違っていると考えている。
中国政府が排外主義を扇動している状況では、テロへの軍事的報復や懲罰はやむをえないだろう。軍事力を背景に取締りを要求することは当然であるし、そうでなければ安心して商売など出来ない。
問題なのはそれ以上の行為。華北の分離工作など国民政府の主権を否定するような陸軍の振る舞いにある。
たとえ相手から挑発されたからだと主張しても、ルールを破ったのは日本ということにされかねない。国民政府は喜んで対外的な宣伝に利用するだろう。
何とか満洲事変を軟着陸させ、国際連盟脱退などの代償は払いながらも経済制裁などを免れることが出来たというのに、クーデター未遂事件に続いて国民政府への先制攻撃など、町田からすれば論外だ。アメリカが対日経済制裁をカードとしてちらつかせるだけでも、一息ついた経済は奈落の底へと転がり落ちる危険性がある。
例え実際に戦争をするつもりがなく外交カードとして使用するつもりだとしても、それはそれで問題といわざるを得ない。実際に戦争をする気がないと国民政府が理解した段階で、反日暴動やテロが激化することは目に見えている。
安易な想定で動員を推し進めるのならこちらにも考えがあると、町田は懐に忍ばせた辞表に手をかけた。
「ま、そんな怖い顔をしないで頂きたい」
老人の切っ先をそらすかのように、林は気の抜けたような声を出し、町田を始めとした閣僚達の雰囲気はより一層険悪になる。
それに気がついているのかいないのか、林首相はカイゼル髭をねじりながら続けた。
「日清も日露も欧州大戦もそうだったからといって、次もそうなるとは限らない。戦争とは片方がしたくなくとも、もう片方が戦争の決意をすれば始まるものです」
「……それは、つまり」
「高橋さん(高橋是清内閣参議)にも口をすっぱくして言われましたが、残念ながら我が国の経済はまだ本調子とはいえませんからな。町田大臣が懸念しておられるアメリカやイギリスを始めとした国際社会と協調する必要性は、私としても十分に承知しています。ですが……いや、そうですな。もっと簡単にお答えいたしましょう」
林はそこで言葉を区切ると、髭から手を離して両手を膝の上で組んだ。
「私が戦争を避けたいと考えているからといって、蒋介石が同じ考えとは限らぬのですよ」
・「人がいないんですよ」とかいいつつ粛清して足場固め。あれ?どこか北の国にそんな人いたような…
・お髭仲間の荒木と林。元々帝政ロシアの専門家で、革命でごちゃごちゃになったのを見て反共になったそうな。小畑もロシア畑なのでそのつながりと思われる。皇道派と近衛公爵が近かったというのも、その点では納得できるんだけど、しかし反共はともかく……色々突っ込みどころ満載の取り合わせ。
・そもそも近衛が接触した段階でいろんなフラグたってる。しかしこいつはいったい何なんだ。
・生きてたら陸相間違いなし。でも生きてたら「なんであそこで死んでなかったんだ!」といわれたかもしれない永田鉄山。ある意味東條よりヤバイやつ。
・永田が死んで繰り上がりの東條閣下。まあこの人はこういう星の巡り会わせなんだろうなあ
・日中戦争は時系列が複雑すぎてわっけわからん。
・なんで昭和初期が舞台の仮想戦史なのに、いまだに戦車や戦艦や戦闘機が出てこないのかって?私がわかんないからですよ(開き直り)