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何も銑十郎元帥  作者: 神山
昭和13年 / 1938年 / 紀元二千五百九十八年
59/59

ロサンゼルス・タイムズ / 『日墨国交樹立50周年記念式典』関連 / 東京日日新聞 / 東西新聞 / 東京府麹町区永田町 国会議事堂貴族院本会議場 / 報知新聞コラム(1938年12月末)

『成功の秘訣とは、当たり前の事を、誰よりもとびっきり上手にする事だ』


ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー・シニア(1839-1937)


- 旧メキシカン・イーグル石油国有化問題 下院司法委員会が公聴会実施へ -


 連邦下院司法委員会のハットン・W・サムナーズ委員長(民主党・テキサス5区)は、メキシコ政府による米国企業の石油関連施設接収問題の影響を調査するための特別小委員会を設置することで、下院共和党と合意したことを明らかにした。またサムナーズ委員長は同問題における連邦政府側の対応を検証するため、現職閣僚を含む34名を証人として出席させるように政府側に求める考えを明らかにした。この中にはカミングス司法委員長、ローパー商務長官が含まれている。


 1934年のラサロ・カルデナス大統領の就任以降、メキシコ政府は民族主義と資源ナショナリズムに基づく社会主義政策を推進。農地解放や鉄道国有化を実施してきた。こうした急進的な政策に対して、アメリカ連邦議会の南部選出議員や産業界からは米国企業に対する悪影響を懸念する声が上がっていたが、中南米に対する善隣外交を掲げていたルーズヴェルト民主党政権は、基本的にはメキシコ政府の内政問題として静観する姿勢を崩さなかった。特別小委員会ではこうしたホワイトハウスの姿勢も焦点になると思われる。


 カミングス、ローパー両長官は、政権内部でニューディール政策を推進して来た主要閣僚であり、特にカミングス長官は「最高裁改革の失敗によって中間選挙敗北をもたらした戦犯」として民主党保守派のみならず中間派からも強い批判を受けている。


 公聴会決定を主導したサムナーズ下院司法委員長は南部石油業界との関係が深く、「サボテン・ジャック」こと民主党保守派の領袖であるガーナー副大統領と近しい関係にある。民主党全国委員会の関係者は匿名を条件に本紙に対して「この公聴会は1940年の民主党大統領候補指名争いにおいて、反ニューディール候補を擁立するための保守派の先制攻撃だ」とする見解を明らかにした。


 こうした共和党と連携するかのような保守派の行動には、大統領派の新人議員はもとより中間派にも眉をひそめる向きもある。すでにカミングス司法長官は辞任する意向を明らかにしており、ローパー商務長官は駐カナダ大使への起用が内定している。現段階では下院司法委員会への証人出席は不透明だ。ただ上院指名人事公聴会ではローパー長官に対して共和党のみならず民主党からも同問題への厳しい質問が予想される。


【ニュース用語解説:旧メキシカン・イーグル石油国有化問題】


 英蘭資本のロイヤル・ダッチ・シェル石油傘下の旧メキシカン・イーグル石油は、1935年から労使交渉の斡旋案についてメキシコ政府と交渉を続けてきた。メキシコ合衆国最高裁判決の是非を巡り交渉は決裂。3月8日にラサロ・カルデナス大統領は憲法第27条の適応を宣言し、メキシカン・イーグル石油を含めた17社の施設と不動産の接収に踏み切った。旧メキシカン・イーグル石油に出資していた米国系石油会社の精製施設やパイプラインも差し押さえを受けたことから、米墨の外交問題に発展した。


 ホワイトハウスと国務省はメキシコ政府の姿勢を強く批判したものの、石油資源国有化そのものについては「メキシコ国内の政治問題」との判断から、接収した米国資本の施設に対してメキシコ政府が必要な補償金を支払うのであれば問題視しないとする姿勢を維持している。これに対してテキサス州のスタンダード・オイルを中心とする南部石油業界と、業界と密接な関係にある南部選出の民主党保守派議員は、「現政権のメキシコに対する消極的な外交姿勢が国有化を招いた」として批判を強めている。


- 『Los Angeles Times』国際面(12月22日) -



- 日墨国交50周年記念式典挙行さる 林首相が基調講演 -


 東京九段下の軍人会館において、旧仙台藩の伊達興宗伯爵と堀口九萬一(元メキシコ公使)が主催する「日墨国交樹立50周年記念式典」が開催された。明治21年(1888年)の日墨修好通商条約調印から50年を迎えた本年は、「日本・メキシコ交流年」として宮城県仙台市や横須賀市浦賀を始めとした各地で多くのイベントが開催されたが、本式典はその掉尾を飾るにふさわしい盛大なものとなった。


 こうした中で注目されたのは、堀口元公使に「日墨関係悪化の元凶」と批判された林銑十郎総理の基調講演である。3月のメキシコ政府が行った石油国有化に対して、総理は兼任する外務大臣として「深い憂慮」を表明。これに駐日メキシコ公使が抗議したことで、両国関係は冷え込んだ。外務省関係者によれば、堀口元公使は「交流年に水を差した張本人ではないか」という理由で総理官邸の申し出を一度断り、斎藤実内大臣に基調講演を打診したが、これは内大臣府から断られたということだ。


 そして肝心の林総理の演説である。総理は16世紀のスペイン副王領時代からの両国の歴史的繋がりについて触れた上で、「メキシコ銀と日本の石見銀山から採掘された銀が、太平洋を越えて北米と亜細亜を経済的に結び付けた」として「日本とメキシコは太平洋を隔てた隣国である」と指摘。両国関係の重要性を説いた。


 また日本がメキシコと締結した日墨修好通商条約は「初めて亜細亜以外と締結した、治外法権の含まれない関税自主権を有する平等条約」であるとして、その歴史的意義を強調。「国際社会において新参者であった日本を、友人として温かく迎え入れたメキシコ政府と国民に深く感謝する」と謝意を明らかにした上で、「共に次の100年に向けた第1歩を踏み出そう」と語りかけた。総理の演説に駐日メキシコ公使も含め、会場は大きな拍手に包まれた。


- 越田公使、メキシコ外相と移民問題で会談 -


 越田佐一郎公使(駐メキシコ公使)はメキシコのエドゥアルド・ヘイ外務大臣と会談を行い、メキシコ政府が日本からの移民受け入れ枠拡大を表明したことに対する林銑十郎総理からの謝意を伝えた。越田公使によればヘイ外相は「大統領に伝える」と応じたという。


 メキシコ・ペソは石油国有化発表以降、ポンドやドルに対して値下がりを続けており、ラサロ・カルデナス大統領が国民に約束した石油資源国有化による恩恵よりも、対外債務の増加に苦慮している。またアメリカ政府が国有化の黙認の見返りに求めた保証金の総額は、メキシコの年間予算をはるかに超える規模になることが予想され、これがさらに投資家のメキシコに対する印象を悪くしている。メキシコとしては、イギリス政府のポンド経済圏に加盟した日本政府との連携強化に活路を見出したい考えだ。


 日本政府としては満蒙移民事業が停滞する中、南米各国への移民事業に新たな活路を見出したい考えだ。現在、メキシコ国内の日本人移民は北部のハバ・カリフォルニア州を中心に約5千人近くと推計されている。これはペルー(約2万)やブラジル(約20万)といった南米諸国と比べても極端に少ない。現在、メキシコ経済は農地解放政策による小作農拡大に伴う都市部での労働力不足に悩まされており……


- 都新聞(12月23日) -



- スペイン反乱軍がカタルーニャ州全域で攻勢を開始 -


 スペイン反乱軍は12月23日からアラゴン、バレンシアからカタルーニャ州にむけた攻勢を開始した。動員兵力は約25万から30万程度とみられている。カタルーニャ州の州都バルセロナにはマドリードから逃れた共和派政府の臨時政府が置かれており、反乱軍を率いるフランシスコ・フランコ将軍としてはフランスに隣接する同地域を確保することで、マドリードなどスペイン国内で孤立する共和派勢力支配地域に対する圧力を強めたい構えだ。


 昨年のエプロ河攻勢の失敗による共和派政府の閣僚辞職が相次ぐ中、アサーニャ大統領は政府の統制に苦しんでいる。一方、カタルーニャ自治政府のリュイス・クンパニィス首相は徹底抗戦を宣言し、各地の民兵組織に対する動員令を発令……


- カタルーニャ州から避難民の脱出相次ぐ 緊張高まる仏西国境 -


 ……すでにフランス南部のスペインからの移民は8万を超えた。フランコ将軍は無条件降伏以外を受け付けない姿勢を示していることから、共和派政府の地元有力者は相次いで脱出を続けている。早ければ年内にも共和政府が崩壊されると予想される中、国際連盟の難民問題専門機関であるナンセン国際難民事務所は「カタルーニャ州からの最終的な難民の数は30万から60万前後になる」というレポートを発表した。これはあくまでカタルーニャ州とその周辺からの難民であり、スペイン全体からの脱出者はさらに増加する恐れがある。


 フランスのダラディエ首相は国会答弁で「イベリア半島の共和派すべてを受け入れることは不可能である」と答え、希望する難民受け入れを迫る共産党議員団と社会党左派から激しいヤジを浴びた。首相の急進社会党は基本的に政府方針を支持しているが、一方で対ドイツ融和外交を主張する保守派や極右の間からは、共和派政府関係者の亡命受け入れは独伊との関係を悪化させるという理由から、受け入れを拒否するべきだとする意見が出されている。


- 東京日日新聞(12月24日) -



 この頃すっかりと古巣での評判を落としているのが岸信介国務大臣である。政府専用機の選定で国産機導入を主張した中島知久平代議士(政友会)の陳情を「管轄が違う」として突っぱね、商工省燃料局が提案した大華石油設立構想を総理が却下した時も動かなかった。「統制経済論者であっても大臣の椅子に座ってしまえば、こうも主張を簡単にひっくり返すのか」という具合にすこぶる評判がよくない。


 もっとも岸国務大臣にも言い分はある。3度目の正直と国民健康保険法の成立に向けて各界の折衝に駆けずり回っている最中、「俺のところに持ってきてもらってもどうしようもない」というのは当然かもしれない。それとも内閣参議の町田翁(民政党総裁)がそんなに怖いのか。


 近衛秀麿公爵拘束問題や満蒙移民問題など、林内閣の外交政策に対する国民的不満が高まりを見せる中、これを支える与党第1党の民政党は町田総裁を中心に結束を保っている。満蒙移民問題では同じく政府方針に不満を持っているはずの永井柳太郎文部大臣も、少なくとも表面上はダンマリだ。親分がこうなのだから永井派も不満はあっても黙り込む。何故なら今のままなら、次の政権も民政党が中心になることは確実だからだ。ひょっとすると単独与党もあるかもしれないと、獲らぬ狸のなんとやらの算盤を弾いている。


 安心して民政党議員に皮算用をさせる材料は、実に華やかな政争を繰り広げている政友会の存在だ。中島氏の政界引退と三土忠造総裁(内務大臣)の辞任表明を受けて、鳩山-久原連合は今や意気盛ん。我こそはと攻勢を強め、バラバラのはずの旧中島派は「鳩山だけは嫌だ!」と奇妙な結束を強める。衆院事務局に別会派の届け出をしようとするのを、砂田重政幹事長は必死に押しとどめているが、当の鳩山がイケイケなのだからどうしようもない。


 通常会に2つの政友会が並立するのを避けたい党の長老会(旧中島派に近い)は、望月圭介(元内相)が中心となって党内の収拾に乗り出した。鳩山を「党が分裂したらその責任をとれるのか」と脅しつつ宥めすかして、すったもんだの末に合意に至ったのが12月25日。


 だから「クリスマス停戦」なのだが、国会開会の前日まで決着がつかなかったのだから、到底威張れたものではない。


 その内容はといえば、三土暫定総裁により通常会に臨み、閉会後に総裁選挙を実施。その規定は国会開会中に幹事長を中心に決定するというものだ。実際に規定を定めたとして実際に運用出来るかとは別問題であり、立法府の議員でありながらそこまで発想力がないのかと愕然たる思いがする。あるいはどうせ実際に総裁選をやることはないと高を括っているのか。


 政友会はこれでいいとして、これで納まるはずがないのが社会大衆党や国民同盟などの少数野党である。日比谷事件の責任を取るために治安担当閣僚の内務大臣が辞任を表明したのに、政友会の御家事情で大臣に居座るのはどういうことかと憤慨する。三土内相の慰留を強く求めたのは、経済財政政策を牛耳る高橋是清内閣参議であり、その背後には当然ながら林総理の存在がある。


 陸軍大臣と外務大臣を兼任する陸軍元帥の内閣総理大臣かつ男爵。これほど肩書を並べても、なぜか首をかしげたくなるのが林銑十郎という人なのだが、その総理もさすがに内務大臣の兼任はためらわれたらしい。今の内務次官は総理の実弟である白上佑吉だし、枢密院での内務省再編に関する審議も控えている。体がいくつあっても足りるものではない。阿部信行官房長官に兼任させる案もあったが、これもあれやこれやと理由をつけられて撤回となった。


 関係筋によれば、総理は「政友会の総裁が内務大臣であることに意味がある」と三土内相に伝えたという。だから鳩山内相-三土暫定総裁で通常会を乗り切り、その後に三土「前」総裁の指名で鳩山総裁の誕生というシナリオも長老会から提案されたが、これは鳩山氏が拒絶した。


 かくして内外の懸案と政権内部の不安要素を多々抱えながら、第73回帝国議会は本日招集される。


- 東西新聞『政局を展望する』(12月26日) -



 貴族院の多額納税者議員は、同院で最も「民主的」に選出される議員と言えるかもしれない。


 その名の通り30歳以上の多額納税者に立候補資格があり、同じ多額納税者が有権者となった選挙で選出される。選挙区は各府県ごとに設置され、任期は7年(多選制限なし)である。大正4年(1925年)に衆議院選挙法(男子普通選挙)が成立するまで、衆議院議員の選挙権は一定の税金を納付した男子に限られていた。そのため貴族院の多額納税者議員には、衆院の上位互換の側面があった。


 多額納税者と言っても役員報酬や株式配当によるものは含まれないので、株式配当や役員報酬を受け取るだけの投資家や金融資本家、財閥当主は候補から除外されている。そうなると候補者は実業界か産業界における創業経営者か代々の大地主ということになる。


 当たり前といえば当たり前だが、経済成長をすれば多額納税者は年々増える。彼らばかり選出されるのは貴族院としても困りものだ。そこで男子普通選挙法の成立と同年、貴族院は多額納税者議員は多額納税者100人に1人を目途に、最大定員66人と定めた。それと同時に多額納税者議員選挙には、衆議院議員選挙法を適応することが定められた。


 かくして衆院の上位互換であったはずの多額納税者議員選挙が、最も「民主的」な選挙法の適用を受けるという逆転現象が生じた。とはいえそれ以前から、すでに多額納税者議員の選挙には既成政党の地方県連が関与していた事例も見られた。つまり名目を実態に合わせただけともいえる。


 なぜ既成政党の地方組織が、不偏不党を掲げる貴族院の多額納税者議員選挙に関与する余地があったかといえば、いかに立候補資格と選挙権が限られているとはいえ、選挙という要素があるからである。


 地元財界人は既成政党の地方支部と深いつながりがあり、そうなると選挙の調整役として地元県連や支部の出番となる。こうした理由から政友会と憲政会(その後進たる民政党)は、不偏不党を掲げる貴族院に少しでも政党よりの議員を送り込もうと、あの手この手で多額納税者議員選挙において候補者の選挙活動をサポートすることになる。時には本人に事後承諾で勝手に選挙に担ぎ出すこともあった。


 政友会系の貴族院議員が所属する院内会派の交友倶楽部に所属する出光佐三も、自分の意思とは関係なく多額納税者議員選挙に担ぎ出された。


 昭和12年(と言っても昨年のことだが)福岡県選出の多額納税者議員枠で1名の補欠が生じ、政友会県連会長の野田俊作が門司商工会長の出光に目を付けた。野田は父卯太郎譲りの交渉力と押しの強さで出光の父親を説き伏せ、出光が大陸から地元に帰ってみれば、出馬は既定路線となっていた。伝統的な家族観を重んじる出光としては親の顔をつぶすわけにもいず、補欠選挙に出馬。2位に圧倒的大差をつけて当選を果たした。


 もとより政治嫌いの出光である。とはいえ政治音痴ではないので、石油業界とは違って一匹狼では何も出来ないことを理解している。出馬の経緯から交友倶楽部に所属して議員活動を続けてきた。


 それでも出光は、現下の政友会の御家騒動にはほとほと嫌気がさしていた。闘争そのものは嫌いではないが、理性やルールの介入する余地のない剥き出しの権力闘争は、彼の性に合わなかったからだ。


 お椀を半分に切ったかのようなすり鉢状の貴族院本会議場では、畏れ多くも陛下御臨席による国会開会式を控えているにも拘らず、彼方こちらで正装に身を包んだ議員達が噂話に花を咲かせている。まったく、このような時ぐらい噂話を慎んだらどうなのだと怒りを滲ませながら足早に自分の席に向かおうとする出光を、背後から「ちょっと」と呼び止める声がした。


「下出さん。何か?」

「いやちょっとね」


 出光が振り返れば、議場の階段脇で同じ多額納税者議員であり同じ会派の下出しもいで民義たみよし(愛知県選出)が「こっちこっち」と手招きをしている。下出は出光とは干支が2回りほども違う文久生まれ。経済人としても政治家としても自分とは格が違う老人の呼びかけを無下にするわけにもいかず、出光は「何でしょうか」と足を止めた。


「餅は餅屋、石油なら出光さんだと思ってね。例のメキシコの……えーと、けめ、けめ……」

「ぺメックスですな」

「そう。そのぺめっくすだけど。それについて君の見解を聞きたいと思ってね。で、あれはどうなの?」

「現時点では、我が出光商店でメキシコ産石油を取り扱う予定はありません」


 きっぱりと否定した出光に、来年喜寿を迎える下出老人は「おや」と意外そうな顔をした。


「私はてっきり、君のことだから義侠心を発揮してメキシコシティにでも乗り込むかと思ってたんだが」

「内戦中のメキシコの弱みに付け込むように採掘権をむしり取り、現地の労働者の賃金を意図的に安く抑えこんで利益を貪ったイギリスのやり方を、私はひとりの人間として許しがたく感じていますが、それとこれとは別です。人の蓄えた米櫃に手を突っ込むようなメキシコ政府の手法には、虫唾が走ります」


 メキシコの主張に理解を示しながらも、出光はそれでも自分の自由主義者としての節は曲げられないと、明確に線を引いた。


 メキシコ経済の3本柱は鉱山と鉄道、そして石油である。この3つはすべて権威主義的なポルフィリオ・ディアス長期政権(1876-1911)において外資を積極導入したことによる近代化政策の成果だ。


 特に1900年ごろから本格化したメキシコにおける油田開発は、アメリカ国内において対メキシコ投資ブームを発生させた。調査の結果、メキシコ湾岸側に点在する原油埋蔵量はアメリカ南部の石油の埋蔵量をはるかに上回ると推計された上に、多くが自噴油井(何もせずとも自然と噴き出す)であったからである。これほどわかりやすい投資対象もなく、メキシコへの投資はメキシコ内戦(1910-19)でディアス政権が倒れた後も続いた。


「現在の与党……つまり今の大統領のメキシコ革命党ですが。彼らは1917年憲法においてメキシコ国内の鉱山資源の所有権を宣言しています。1917年以降のアメリカ企業や、メキシカン・イーグルス石油の親会社であった英蘭のロイヤル・ダッチシェルは、それを前提にメキシコに対する資本投資を続けたのです」


 出光は下出の理解を確かめるように、メキシコ石油国有化に至る経緯について語る。だがそれを聞く老人の表情から、その考えを読み取ることは難しかった。


「メキシコ政府はメキシカン・イーグル石油の労働者の待遇改善を理由に、経営陣に要求を突きつけましたが、この騒ぎを起こした労働組合がメキシコ革命党の扇動を受けていたことは明らかです。そして経営陣が同意すれば、さらに要求を吊り上げるということを繰り返しました。最初から最高裁判決の不履行を理由とした関連施設の接収が目的だったとしか思えません」

「ふむ。どこかで聞いたような話だの」


 石炭販売業者から電力業界の大立者に上り詰め、現役を引退した今もなお東邦電力や大同電力を中心に電力業界に対する影響力を維持している下出は、かつての電力国有化法案の審議に例えて見せた。


「油井を含めた不動産と施設だけを抑えても、意味はないか」

「技術者が足りなくても、さして苦労せずとも採掘可能な自噴油井がある以上は、一定の採掘は可能でしょう。ですが掘り出したところで買うものがいなければ……」

「誰も買わぬ石油に商品価値はないな」


 出光が頷く背後で、同和会(民政党系会派)の幣原喜重郎(元外相)と出淵勝次(元外務次官)が歩いて通り過ぎる。大臣と次官としてタッグを組んだ外交官は、この世の終わりといわんばかりに暗い表情で顔を突き合わせているが、下出は特に関心を寄せなかった。


「手持ちの在庫ばかり増えても、ペメックスの不良在庫となるだけ。かといってセブン・シスターズの協力なく、設備の近代化や改修の資金や技術を独自に行うだけの余力は、現在のメキシコには望めません」「何より最大の得意先だったアメリカの石油業界を完全に敵に回したか。八方塞だな」

「いえ、アメリカは買うでしょう」


 出光の回答に下出が「はて」と首を傾げるが、直ぐに柔軟性に欠ける性急さを見せて頷いた。


「それは矛盾……いや、だからこそか」


 出光は小さくうなずく。


「国際シンジゲートからペメックスが排除されている以上、実際に購入せずとも、そのカードを持ち続けることがメキシコに対する圧力となるからです」


「アメリカの理屈は単純明快なようでいて、実際にしていることはそれと相反することも多いですから。今の政権も1917憲法に基づくメキシコ政府の対応に理解を示してはいますが、実際には巨額の補償金支払いを公然と要求しています。メキシコが大人しく補償金を支払うのならそれでよし。支払わない、あるいは支払いが遅れる場合は買わないと圧力を掛ける」

「同時に国内開発や、ベネズエラやサウジアラビアなど新たな油田開発に着手することで、メキシコに揺さぶりをかけるというわけか」


 下出は「なるほど道理だな」と穏やかに答える。


 メキシコ国民が国有化を強く支持している以上、外交圧力や軍事圧力は効果に乏しい。むしろメキシコ国内を結束させる可能性がある。ならば石油国有化という「名」を獲得した代償を、「実」により支払わせる。それもあくまでアメリカは自由な経済活動として値下げ圧力を掛けつつ、補償金を支払わせる担保とする。


 確かに直接的かつ効果の乏しい圧力を掛けるよりも、よほど効果的なやり方だ。


「まったく、つくづくアメリカが隣国でなくてよかったと思うよ」

「林総理の言い方に従うのなら、日本は太平洋を挟んでアメリカと隣国ということになります」

「それでも陸続きのメキシコよりはましだろうて。ところで君が総理の演説内容を知っているということは。君も例の記念式典に参加していたのだな」


 下出老人は自らの額をハンカチで拭いながら続けた。


「確かに顔を繋いでおくことは大事だ」

「今現在取り扱う予定はなくとも、先のことはわかりません」


 出光はそう嘯いて見せたが、下出は特にそれに対する反応を見せずに続けた。


「豪胆で知られる君であっても、日本が現段階でメキシコ産原油に手を出すのは早計という考えなのか」

「アメリカの裏庭どころか玄関先ですからな。火遊びをするには危険過ぎます」

「君は商工省燃料局と石油連盟による、大陸の石油産業を統括する国策会社の設立に対して、アメリカを刺激するという理由で反対したと聞く。だが今回、日本は上海と天津の派遣軍を拡大して、大陸に関する治安維持を請け負うことになった。ならば少しばかりの冒険をしても許されるのではないかね?」


 大華石油の一件を持ち出す下出に、出光は閉口した。「普段から私益や企業益よりも優先するべきことがあると主張しながら、いざとなれば情勢が厳しいと逃げるのか」という老人の安い挑発であることは出光も理解していたからだ。


 ……それにしても自分は政府の電力国有化法案を骨抜きにしておきながら、よくも抜け抜けと言えるものである。


「下出さんの言われる冒険が大陸におけるものなのか、それともメキシコへの直接投資か。それともその双方なのか。私にはわかりませんが……」


 出光は老人の面の皮の、鋼鉄の如きぶ厚さに呆れながらも反論した。


「私が大華石油による大陸の石油統制に反対したのは、その周辺で天下り目的の、あるいは商工省の補助金目的の下らぬ連中が跋扈していたからです。志はともかく、あれではものになりません」

「出光くんのような技術と熱意を持つ企業が参加しても難しいか」

「油田開発と油井技術、そして石油精製技術は全て似て非なるものです。出光単独ならば如何様にでも暴れて見せましょう。たとえ相手がセブン・シスターズであっても」


 はったりでも虚勢でもない。今この瞬間にも出光商会は、満洲や上海や香港でセブン・シスターズ系列と、激烈な販売競争を繰り広げている。そして彼らと真剣試合をするからこそ、出光はその等身大の実力を理解していた。


「国策企業という美名に隠れた統制では、彼らに対抗することは不可能です。挙国一致オール・ジャパンの聞こえは良いやもしれませんが、商工官僚の統制によるバランス重視の横並び経営では、10年経とうと20年過ぎようとも日本に勝ち目はありません……現段階で国際シンジゲートを敵に回せば、連合艦隊は1年を絶たずに、海を漂う鉄屑になり果てるでしょう。幕尻が横綱と戦うには、戦略と戦術の双方が必要です」

「こちらが幕尻で相手が双葉山か。それでは国内需要分ですら十分に供給することは難しいな」


 下出がこれ見よがしにため息をつくと、出光はムッとして「あくまで現段階の話です」と付け加えた。現在ならともかく、将来に至るまで彼らに跪き続けるつもりは、出光の将来展望には含まれていないからだ。


 独占体制が続くようであれば、必然的に企業としての競争力低下は避けられない。そうなれば日本のような後発国にも巻き返しの余地はあるが、それは商工省燃料局や石油連盟のような統制志向では不可能。需要と供給の見極めが困難な油屋だからこそ、出光は自由主義者という自らの原点に忠実であらんと心がけていた。


 そして出光の石油業界と同じく、経済活動の根幹である電力業界に創成期から関わった下出老人も、その生来の真面目さ故に出光と同じ考えであったらしい。出光の言に一つ二つと首を振ると、しわがれた声で言った。


「この間、帝大の矢内原(忠雄)教授と会う機会があったのだが、かの先生曰く『植民地は宗主国の劣化コピー』だそうだ」

「劣化コピー、ですか」


 出光は文久生まれの老人に、怪訝な視線を向けた。


「宗主国が旧支配体制を解体するなり、温存して利用するにしても、その基本となるのは宗主国の法体系であり、その根底には宗主国が積み重ねてきた歴史や文化、民族性というものがある。しかし植民地は宗主国でないため、たとえ同じ法体系を導入したところで劣化コピーにしかならぬ……たしかそういう話だった」

「メキシコもそうですが、シモン・ボリバルの大ベネズエラも分裂と内戦の繰り返しですからな。その理屈でいえば宗主国たるスペインが内戦に陥ったのは学問的必然だと?」

「さてな」


 スペイン内戦において、ソ連に続いて共和派政府を強く支持しているのがメキシコの現政権である。噂によれば亡命政府の受け入れを打診しているとのことだが、それをアメリカが了とするか。コミンテルンが目の色を変えて追うレフ・トロッキー(元革命軍事委員会委員長)の亡命受け入れといい、バランスをとりつつ独自性を追求する。


「対立しつつ利用しあい、独自性を追求する。君の理想とするところかな?」

「御冗談を」


 顔を顰める出光の背後を、坂西利八郎(予備役陸軍中将)が「いよう!」と、同じ陸軍出身の同僚議員に声を掛けながら通り過ぎた。いやに機嫌がいいが、あの支那通の大家は大陸情勢について立て続けに各社から意見を求められているので気分がよいからだろうと下出老人は解釈した。


「最初に言った通り、餅は餅屋、石油なら出光だ。私としては石炭以外にも、新しい発電の燃料を探しておかなければならないのでね。頼りにさせてもらうよ」

「……私の立場としては、今の段階で石油火力発電を導入することには賛同出来ませんな」

「だが長期な可能性はゼロではないのだろう?」


 老人は人を動かすのが巧である。安い挑発だが悪くはない。


 出光はニヤリと口角を吊り上げた。



- 閣僚毒殺未遂事件に見る林内閣 笑えないジョーク?総理の本音? -


 自身の世間知らずを明らかにするようで恥ずかしいが、私(記者)はフグの卵巣糠漬けなる食品の存在を、この事件(?)を知るまでは知らなかった。猛毒のフグの卵巣を食用にするために、長期間塩漬けにした挙句に糠床に漬け込もうと考えた加賀の先人達の知恵に感謝するべきなのか、それとも食への飽くなく探求心に呆れるべきなのか。それは本題から外れるので、後日文化面で改めることにする。


 12月20日に総理から各閣僚に対して、この石川県名物が「御歳暮」として贈られた。総理秘書官からわっぱの弁当箱の中に2本詰めでそれぞれの閣僚の秘書官や副官に手渡されたそれには「フグの卵巣糠漬け」であるとはどこにも明記されてはおらず、閣僚達は見慣れぬ糠漬けを変わった食べ物(実際に食べ物なのだが)と解釈し、それぞれ酒のあてとして齧ったり、ご飯の友として食したりしたそうだ。三土内相に至っては辞意を伝えたその日に慰留されながら渡されたということである。


 来年度予算案が決定した25日の閣議において、結城豊太郎大蔵大臣が「そういえば」と総理に尋ね、その「正体」が総理の口から明らかにされた。一同絶句して言葉も出ない中、林総理は高笑いと同時に、その正体とタネを明らかにした。


 この毒はないが毒がある御歳暮の真意を巡り、永田町は話題騒然だ。「政友会の内紛に対する意見表明」(社大党幹部)、「政党勢力には後継指名するつもりがないことを明らかにした」(政友会某議員)、「単に何も考えていないだけだろう」(海軍省高官)等々。意見百出である。


 世論の関心が集まる国民健康保険法に関しても、これぐらい熱心な議論を期待したいものである。


- 報知新聞(12月26日) -


・冒頭の国有化に関する公聴会はオリジナルです。史実よりも反大統領に勢いがあるかもしれない

・メキシコ大使館が永田町一等地にある理由。そしてその関係をぶち壊すカイゼル禿

・サムライ大使こと堀口九萬一。内戦中に暗殺されたメキシコ大統領の家族をかくまったりと、よく例えればゲートの菅原浩治なんだが……

・満洲が駄目ならメキシコが(ただしほとんどキャパはない)

・ラサロ・カルデナス。傀儡大統領から実権を握って国有化政策を推進。カナダのマッケンジー首相とは対照的なキャラクターだが、強かな政治家って感じがして好き。だってアメリカと陸続きの隣国というだけで難易度半端ない。

・スペイン内戦佳境

・そしてスペイン内戦ですら成立しなかったクリスマス停戦が政友会で成立。まあ国会開会が迫ってるからしょうがないね(棒読み

・下出民義。東邦学園の創業者としてのほうが通りがいいか。名古屋市政を自派閥で牛耳ったりとなかなかの曲者

・出光佐三。いわずと知れた海賊。石油関係はもう本当に複雑で魑魅魍魎だらけでどう書いても……メキシコ国有化問題への発言は書いてて「これでいいのか」とも思いましたが。

・外務省コンビと支那通の大家

・そしてようやく伏線だったフグの卵巣付け御歳暮ネタを拾う

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― 新着の感想 ―
[一言] ちなみにこの話の国会議事堂のくだりで出てくる板垣利八朗中将さんは板垣征四郎中将の間違いとかではないですか?
[良い点] 三日前に見つけてドはまりして全部読んでしまいました。めっちゃ面白かったです! [気になる点] おかげさまで寝不足です。お恨み申し上げます。
[一言] 久々に読んで、最近の競馬へのハマりからこの世界 の歴史見るとこの年1938年は三冠馬セントライトが 産まれた年だった…この世界だと戦前日本が存続 するから戦前の御料牧場の流れを汲む小岩井農場…
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