南華早報 / WSJ社説『反骨のクリスチャン・ジェネラル』 / 4ch(政治・歴史板)雑談スレ / 東京府東京市 三宅坂 陸軍省軍務局軍事課長室(1938年12月中旬)
『情報は知識にあらず』
アルベルト・アインシュタイン(1879-1955)
- 四川軍クーデターに新広西派の影? -
13日未明、成都において抵抗を続けていた四川省政府委員会の王纉緒主席代理は、四川軍(川軍)に投降した。王氏は主席代理の辞任を表明すると、家族や側近と共に重慶へと脱出した。8月には前任の政府主席である張群も辞任しており、これで四川省から蒋派は一掃されたことになる。
四川省は南京国民党政府に帰順しつつも、四川モンロー主義を掲げて高度な自治体制を要求。中央集権を目指す南京と政治的緊張関係にあった。こうした中、今年1月に四川省の劉湘主席が急死。蒋介石総統は、その後任に「日本との戦争を続けるには中央と地方の緊密な連携が必要」という理由で、自らの側近の外交部長であった張群氏を送り込んだ。
こうした中央の強引な姿勢に加えて劉主席の「急死」にも疑念の声が出る中、張は川軍からの支持を得ることに失敗。英米外交筋と浙江財閥からの圧力により南京政府がワシントン条約への調印を余儀なくされると、張は「外交問題に専念する」という理由で南京に引き上げた。
後任には川軍の中で蒋介石に近かった王纉緒が主席代理として指名されたが、反蒋派の反発は収まらない。蒋介石の軍事委員会主席の辞任を契機に、クーデター部隊が四川省各地で決起。10月には王を成都まで追いつめるに至った。この間、幾度となく援軍を求められていた南京政府であったが、後継問題で政府内部の有力者同士の角逐が続いており、有効な対応がとれなかった。
王纉緒の降伏と辞任、重慶への撤退という「政権交代」の筋書きを描いたのは、国民党革命臨時政府(広東省臨時政府が改称)を率いる新広西派の李宗仁総統(安徽省主席)であるとする見方が強い。現在、新広西派は本拠地の両広(広西省・広西省)、李が首班を務める安徽省とその周辺地域を中心に華南で勢力を拡大しつつある。
四川反乱軍の盟主である鄧錫侯は、1937年に始まった日本との戦争初期に李の下で山西省を転戦した経験がある。王の重慶撤退直後、四川臨時政府樹立を宣言した鄧は「国民党革命臨時政府を支持する」と宣言。同時に李宗仁総統も「四川省の高度な自治を支持する」とする声明文を発表した。
新広西派は四川省という有力な同盟者を得たことになるが、この「臨時政府」の拡大路線に反発を強めるのが、安徽省と両広から挟み撃ちになる江西省の熊式輝だ。国民党最高幹部である中央執行委員の熊は、新広西派の「侵略行為」に激怒。南京と上海に隣接する江蘇省、台湾対岸の福建省、および重慶市長に対して「新西広派に対する統一戦線」結成を呼び掛けており……
- 福建省が「武装中立宣言」 江蘇省も賛同 -
福建省主席の陳儀主席は17日、閩侯県の省政府庁舎で外国人記者団との会見に応じた。陳主席は「福建人民は統一中華を断固として支持する。これを分断せんとする内外の諸勢力の侵略行為には、福建人民は断固として反撃する」と発言。福建省の「武装中立」を宣言した。
陳主席は日本陸軍で教育を受けた旧北洋軍閥系の直隷派出身の外様であり、国民党内における地位と立場は強固ではない。南京政府の政局が不透明な中、独自勢力として自らの存在感を内外にアピールする狙いがあると思われる。
現在、福建省政府が後ろ盾として期待しているのは日本軍のようだ。陳主席は「福建事変(1933年)の如き革命反動政権の樹立が試みられた場合は、断固として阻止する」と述べ、反共姿勢を鮮明にすることで日本側の協力を得たい考えを匂わせた。
一方で上海市と隣接する江蘇省の顧祝同主席は(略)……
- 張自忠天津市長、日本の支那駐留軍新司令官と駐留協定の改定で合意 -
新しく日本の支那駐屯軍司令官に就任した前田利為中将は、日本の軍人貴族である。エド時代と呼ばれたサムライ支配が3世紀近く続いた徳川軍事政権において、前田家は将軍に次いで広い領土を治めた辺境伯(marquess)であった。王政復古後に領土を返上して侯爵の地位を与えられたが、それでも日本において最も裕福な貴族の一つである。前田中将はその家柄にふさわしい威厳を兼ね備えた紳士であり、天津市民の注目を集めている。
前田中将はさっそく駐留軍本部が置かれている天津市の張自忠市長と面会した。天津市関係者によれば、トップ会談は終始和やかな雰囲気で進み、香月前司令官時代から交渉が続いている駐留協定の改定について速やかな合意を目指すという点で一致した。ただ日本側が打診した駐留軍拡大の構想に関して、市長は回答を慎重に避けたとのことだ。
- 南華早報(12月10日‐25日) -
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- 反骨のクリスチャン・ジェネラル -
18世紀のイギリスにおいて発生した国教会における信仰覚醒運動は、国家権力と結びつき堕落した教会や聖職者の現状を批判し、よりストイックな信仰を求める大衆運動の側面が強かった。メソジスト(几帳面な奴ら)とあだ名された信徒達は、ベットカバーの折り目にすら気を遣うような細かい日課や規則正しい生活習慣を自らに課すと同時に、少人数グループの相互監視によって自分達の生活と信仰を厳しく律していた。そのためメソジストは軍隊組織や教育機関との相性がよいという特徴がある。
新大陸にも勢力を拡大したメソジスト達であったが、アメリカ独立戦争の際にイギリス本国との関係は強制的に断たれた。そこで彼らは新たにメソジスト監督教会を立ち上げた。個人を通じて社会改革を目指すとする大衆運動の性質のために、彼らは奴隷制度や教会の在り方などで幾度となく分裂と離合集散を繰り返したが、それでも全体としては長老派に次ぐまでに勢力を拡大した。
社会をより良きものにしようという信仰と改革の情熱に燃えた彼らは、太平洋の東で近代改革が進む日本に渡り、さらに海を越えて動乱と内乱が続くチャイナへと至った。より厳しい環境に自ら身をおいてこそ、神に対する信仰心を証明する事が出来る。実際に彼らは古い国家体制や宗教に飽きていたチャイナにおいて多くの信徒を獲得することに成功した。
馮玉祥将軍もその1人である。
クリスチャン・ジェネラルの異名を持つメソジスト監督教会に属するプロテスタント系クリスチャンであり、幕僚全員を洗礼させた逸話を持つ彼こそが、いまや日本の対チャイナ戦略における最大の障害といってよい。
チャイナは辛亥革命(1911年)により共和制になったが、全土で絶えることなく内紛や紛争が続いてきた。簡単に説明すればチャイナは南北に分断されたのであり、北の北京政府は清朝の北洋軍閥の流れをくむ袁世凱の部下たちが政権を握り、南は孫文の国民党系勢力が離合集散を繰り返していた。
蒋介石が1920年代に北伐を成し遂げるまで南北分断は続いたが、蒋介石の敗北によってふたたび大陸は南北に分断されつつある。
馮玉祥は北京政府の中核をなした北洋軍閥の流れをくむ直隷派の、さらに一派を率いる将軍であった。世代的には革命第3世代になる。革命の中で出世した彼は原理的な共和主義者であると同時に、チャイナから諸外国の影響力を排除することを主張する国粋主義者であり、チャイナ特有の儒教とよばれる宗教(哲学?)の影響を受けた父性主義者であり、政治的にはキリスト教社会主義に近い立場を示した。
彼はあらゆる反動政治に反対した改革者だった。古いチャイナ軍閥の影響を引き継いでいた自分の軍隊を、馮玉祥はメソジスト流のストイックな規律と管理教育を導入することで、チャイナ国内でも有数の規律ある軍隊に生まれ変わらせた。売春・ギャンブル・麻薬は禁止された。信仰心で結び付いた馮の軍隊は、味方には勇猛で慈悲深く、敵には無慈悲で残忍な私兵として有名となった。彼は自分の軍を「国民軍」と名付けた。
彼はあらゆるチャイナの分割に反対した国家主義者だった。チャイナは一つでならなければいけない。それは馮玉祥に限らず清朝末期から続いた対外戦争と国辱を経験した多くの政治家や軍人、国民の希望であったが、彼はそれをより強固に支持していた。古く腐った王朝末期のトラウマが、彼を熱烈な共和主義者にした。
彼はあらゆる勢力と敵対した軍閥の指導者だった。寝返ったこともあるし、寝返らせたこともある。買収したこともあるし、買収されたこともある。クーデターを起こしたこともあれば、クーデターを起こされたこともある。謀殺されそうになったこともあれば、謀殺したこともある。生き残るためには誰とでも手を結び、誰とでも敵対した(これは馮玉祥に限った事ではない)。
彼はあらゆる勢力と手を結んだ腐敗した政治家だった。直隷派と呼ばれた名前の通り、彼は北の大都市である北平や天津を抱える直隷省とその周辺地域を政治的な基盤としていた。交通の要所である直隷省は守るに難しく、攻めるに易い地形だ。彼は自分の軍勢を拡大・維持するために、外国勢力と手を結ぶことをいとわなかった。アメリカともイギリスともドイツともソビエトとも手を結んだ。
あらゆることを経験したクリスチャン・ジェネラルが、唯一手を結ばない国があった。
日本である。
馮は革命前から日本に対して批判的だった。日本こそはチャイナの統一に対する最大の障害であるという信念の持ち主であり、日本を武力で打倒しなければ大陸統一はありえないと考えていた。そのために蒋介石の北伐に協力した。軍権を取り上げようとした蒋介石と敵対して失脚したが、彼の部下たち-鹿鍾麟や宋哲元を筆頭とする彼の育て上げた精鋭達は直隷省周辺を中心に革命政府の要職を占め続けた。
満洲事変により日本が冒険的な外交政策に軸足を置くと、彼は「日本の本心が出た」としてモンゴルや満洲で独自に戦い続けた。満洲を追われた張学良を保護し、ソビエトや現地勢力とも組んで日本軍に対抗した。しかし彼は負け続けた。ついには蒋介石から更迭され、彼の軍隊は部下の宋哲元の第二十九軍に再編された。
その宋が率いる第二十九軍は、先の日本との戦争において重要な役割を担った。上海周辺における国民党軍の動員計画を欺瞞するための陽動部隊として行動。クリスチャン・ジェネラルが鍛え上げた軍隊は、北平や天津に駐留する日本のチャイナ駐屯軍と互角に戦って見せた。
馮玉祥の生涯をかけたチャイナ統一という悲願は、ようやく達成されようとしていた。
しかし蒋介石は敗北した。
日本のチャイナ駐屯軍は北平や天津周辺での現地政府の崩壊を恐れ、第二十九軍の追撃を最小限にとどめた。そのため今でも馮玉祥の系列に属する張自忠は天津市長であり、一時は逃亡して北平を日本軍に明け渡した秦徳純も、今では何事もなかったかのように北平の庁舎に帰還して踏ん反り返っている。宋哲元ですら北平に居住を許されている始末だ。
しかしクリスチャン・ジェネラルはまだ諦めていない。軍事委員会副委員長という肩書を背景に、アメリカと結ばれたワシントン条約を「売国条約」と批判。共産党が下野し、条約調印反対派だった唐生智が折れた後も、日本軍に対する徹底抵抗を呼び掛けている。チャイナ共産党を除けば、彼はソ連と直接パイプを持つ数少ない有力者だ。
かつて彼に期待したアメリカやイギリスは、この老将軍の頑なさに匙を投げた。すでに米欧各国からの支援はなく、往年の部下達は日本軍と妥協するか、自分の立場を守ることに忙しい。それでも老人は大陸各地で抗日の旗を振り続けている。
彼は真の愛国者なのだろうか?それとも時代の趨勢に乗り遅れた遺物なのだろうか?
- 『The Wall Street Journal』(12月20日)社説 -
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445 帝都新聞です…東西に部数で勝てんとです 2019/06/6(木) 17:34:00.14 ID:JRYbYm2s
カイゼル髭「わけがわからないよ」
蒋介石が雲隠れしてからの大陸情勢について総理レクを受けた林総理の発言らしい(ソースは緒方竹虎回顧録
そして政友会の御家騒動についても同じ見解を述べた模様(ソースは町田忠治回顧録
ついでに二航戦における海軍不祥事についても(ry
446 亡命政府副首相代理補佐 2019/06/6(木) 17:39:56.32 ID:AwMo0xJ
>>445
緒方は林に批判的だったから割引く必要あるとしても、あながち嘘じゃねえんだよなそれ
勉強するならこのあたりの概説書がおすすめだ
つ『中華民国三国志』『本当は難しくない近代支那史』『萌えちゃいな!近代編』
447 第4帝国 2019/06/6(木) 17:45:43.22 ID:44jpnTF
>>445
壊れたレコードかな?
>>446
おい変なの混じってるぞw
448 えぇー今川ぁ?田楽オワコンじゃねえか 2019/06/6(木) 17:49:18.02 ID:XVJpWWGp1
>>447
いや、あれ意外と真面目な概説書なのよ>萌えちゃいな!
447 名無しの帝国軍人 2019/06/6(木) 17:55:12.54 ID:JRYbYm2s
そりゃそうだろ。だってあれ国防省の関係者が書いたやつだし
>>446
降格してるwww
448 第4帝国 2019/06/6(木) 17:57:41.11 ID:44jpnTF
>>447
え?
449 名無しの帝国軍人 2019/06/6(木) 17:59:10.12 ID:JRYbYm2s
時系列にまとめてみた(細かい事件は省略
3月
・蒋介石がワシントン条約に調印。軍事委員会主席(政府代表よりこっちのほうが重要)辞任
・西山会議派(右派)の林森主席が各派調停しようとするも失敗
・この時期に新広西派が本拠地に帰還
4月
・共産党がワシントン条約調印を批判して下野。独自の対日闘争を続けると宣言
5月
・南京を中心に散発的に軍事衝突と共産党系によると思われるテロが相次ぐ
・林森主席が調停をあきらめて重慶に(重慶市の中立化
・蒋介石の動向不明に
6月から7月
・汪兆銘の左派と旧蒋派との間で断続的に会談
・唐生智の自薦運動
8月
・西山会議派が呉佩孚擁立運動(失敗)
9月
・宗子文の左派と旧蒋派に対する仲介工作失敗
・新広西派が「広東省臨時政府」樹立を宣言
・四川省で蒋派と反蒋派閥の内乱発生
11月
・長沙大火で日英軍が出動。上海郊外に難民流入始まる
・ブリュッセル国際会議
450 亡命政府副首相代理補佐 2019/06/6(木) 17:59:11.09 ID:AwMo0xJ
>>449
長い三行
451 名無しの落ち武者(試用期間中) 2019/06/6(木) 18:03:36.16 ID:AwMXjKo
・蒋介石雲隠れ
・南京政府分裂!
・えらいこっちゃ!
>>447
貴方が書いたんじゃないでしょうねw
452 第4帝国 2019/06/6(木) 18:05:32.00 ID:44jpnTF
・蒋介石逃亡で南京政府が三国志末期の漢王朝状態に
・新広西派が「俺が正統政府だ」と言い出す(袁術ポジ
・みんな日和る(全員劉表ポジ
453 えぇー今川ぁ?田楽オワコンじゃねえか 2019/06/6(木) 18:06:11.45 ID:JRYbYm2s
・劉備のいない蜀(五虎大将軍と諸葛亮はいない)
・曹操のいない魏(曹一門と五将軍がいない)
・孫一族のいない呉(中小豪族しかいない)
454 帝都新聞です…東西に部数で勝てんとです 2019/06/6(木) 18:09:11.54 ID:JRYbYm2s
もう三国志と何の関係もないな
結果的には蒋介石は雲隠れして正解だったのかこれw
455 名無しの落ち武者(試用期間中) 2019/06/6(木) 18:10:34.43 ID:AwMXjKo
言っておくがこれは華南だけの話だからねw
華北はクリスチャン・ジェネラルの部下を筆頭に、山西省の閻一族、陝西省の共産党系軍閥、甘粛省や青海省には馬家軍閥
ほんま大陸は魔界やでぇ…
456 名無しの帝国軍人 2019/06/6(木) 18:15:11.46 ID:JRYbYm2s
だから華北分離工作続けてりゃよかったんだよ
それをあのカイゼル禿が人も金も切ったものだから、大陸とのパイプが壊滅状態
結果的に苦労したのは渡辺将軍に前田侯爵というオチ
457 第4帝国 2019/06/6(木) 18:17:32.30 ID:44jpnTF
ほんま禿は人使い荒いでぇ…
- 電子掲示板4チャンネル(政治・歴史板)雑談スレ第456弾『労働基準監督署はありません』より抜粋 -
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前支那駐屯軍司令官であり、新たに東部軍司令官の発令を受けた香月清司陸軍中将(陸士14期・陸大24期)は、香月と書いて「かつき」と読む。
「こうづき」「かげつ」「かづき」と様々な読みがあるこの名字は、北九州が起源だ。熊襲討伐に下向したヤマトタケルノミコトが、滞在した土地を「花香月清」と称賛したことを由来としているとされる。土地の名前を名乗ることはよくあることなので、この「香月」は北九州を中心に多い。香月中将も出身は佐賀県だ。
つまり「あの」真崎甚三郎と同じ出身なのだが、香月中将はいわゆる旧皇道派とは関係がない。
香月は満洲駐屯の第12師団長から、2・26事件の直後に近衛師団長に任命されている。近衛師団はいわゆる「一等師団」であり、なおかつ事件の参加者を出した曰くつきの部隊だ。まかり間違っても真崎の関係者が抜擢されるわけがないし、事件後に妙な人物を師団長に指名するわけにはいかない。第12師団長としての香月の手腕が評価されての人事なのだろう。
ともかく師団内部の綱紀粛正に努め、近衛師団長の重責を過不足なく務め上げた香月は、昭和12年(1937年)7月に支那駐屯軍(天津軍)の司令官に任命された。
おりしも同月初頭の北平郊外の盧溝橋における衝突で軍事的緊張が高まりつつあった時期での司令官交代だったが、これは前任の田代皖一郎中将が重病に陥った為だ(退任して直後に死去する)。田代も佐賀県出身なので佐賀県出身者が2代続くことになったが、おそらく関係性はない。満洲駐屯の第12師団長を経験した香月であれば即戦力になると考えたからであろう。
天津に駐留する支那駐屯軍は、旧清国駐屯軍の流れをくむ。北清事変(1900年)の後に締結された北京議定書により、連合軍8か国は北京(当時)と天津に駐留することが認められたが、その権利を今でも行使しているのは、日本とイタリアだけだ。
そして支那駐屯軍は同じ大陸駐留にもかかわらず、遼東半島の関東軍とは対照的に大陸政策では穏健な立場をとることが多かった。実際に前任の田代中将は第1次上海事変(1932年)において白川義則大将を参謀長として支え、早期終結に尽力したことで知られている。そして北平にほど近い敵中であるという地理的要件も、駐屯軍の立場を自制的なものとしたのだろう。
とはいえこの場合の穏健派とは、あくまで「関東軍」と比べた時の話だ。
例えば田代の前任である多田駿(陸士15期・陸大25期)はよりにもよって支那駐屯軍司令官中の昭和10年(1935年)9月の記者会見において「華北における住民自治を支持する」という、当時関東軍が中心となって行われた華北分離工作を支持する声明を発表した。
これは幕僚の用意したペーパーを読み上げただけであり多田は内実反対であったともされるが、これを(自分の事は棚に上げて)問題視したのが、再登板した林陸相(総理・外相兼任)である。
そのため多田は粛軍人事で真っ先に予備役編入となった。張作霖爆殺事件の河本大作(予備役大佐)と縁戚関係(多田の妻が河本の妹)であることも、マイナス材料に働いたのだろう。そしてよりにもよって多田の前任は梅津美治郎(陸士15期・陸大23期)だ。何かと林総理の人事に注文を付けていた梅津陸軍次官も、自分のメンツがつぶされたこともあって反対しない。
陸軍士官学校の同期の桜ではないかという情緒的な理由による情実人事が、この明哲保身の御仁に期待出来るわけもなく、多田は寂しく陸軍を去った。
ともかくそういった意味での「穏健派」なので、先の日中での武力衝突-盧溝橋事件に端を発する宋哲宗の第二十九軍との戦闘では、参謀本部の方針に従って戦線不拡大を主張する着任間もない香月司令官と、田代中将が指揮を取れない間に司令部を掌握した拡大方針を主張する幕僚が対立した。
これを問題視した中央の人事介入により反対派参謀は一層されたが、香月は「師団の掌握と統制に難あり」(阿南人事局長)という評価を下された。
それでも参謀本部の方針を遵守したことを中央は評価したようであり(林陸相はともかく、寺内総長は単に自分の意向に逆らった生意気な幕僚が気に入らなかっただけだろうが)、そのまま支那駐屯軍司令官に在職。この12月に東部軍司令官に任命されたことで、晴れて中央へと帰ってきた。
この東部防衛司令部は再編により廃止された東京警備司令部の後継組織である。2・26事件において時の東京警備司令官が反乱軍に同情的な対応を示して更迭されたことも記憶に新しい。その点では中央の意向に忠実な香月は適任であった。
理由はともあれ帝都に帰還出来たにもかかわらず、香月の心は晴れなかった。早期に第二十九軍との停戦に持ち込んだことで問題視されてはいなかったものの、あれは支那駐屯軍司令官として失敗した男だという烙印は消えるものではない。
そして香月をかくも憂鬱にさせているのは、自身のこれからの陸軍における栄達というよりも、陸軍の現体制そのものへの疑念から来るものだから深刻であった。
支那駐屯軍司令官は親補職であるため、香月は帰朝したその足で宮中に参内。帰途に三宅坂の陸軍省において林桂陸軍次官ら陸軍省首脳と面会してから、香月は同じ省内の軍務局軍事課を面会のために訪問した。
相手は軍事課長の柴山兼四郎大佐(陸士24期・陸大34期)である。この時代の陸軍将校らしく、薄い口髭を生やしたほかにはこれという特徴のない顔立ちだが、いかにも陸軍将校という風貌をした人物だ。
陸軍省軍事局は軍政をつかさどる陸軍省の花形部署であり、平時の国防政策立案に始まり、編成や動員計画の立案、予算要求に関する大蔵省主計局との折衝、高級将官人事に関する参謀本部や人事局との折衝(根回し)、軍需関連企業や商工省との調整等々、軍政に関するありとあらゆる事柄が舞い込む。
軍事課はさらにその中核組織であり、歴代の軍事課長には宇垣一成、田中義一、畑英太郎(畑俊六の兄)、そして永田鉄山と錚々宇たる顔ぶれが並んでいることからも、この役職の重要性がわかるというものだ。
陸軍全体に対する影響力という点では、東部軍管区の司令官たる香月中将は柴山大佐の足元にも及ばない。何せ柴山のハンコがなければ、陸軍では兵士1人はおろか鉛筆1本すら自由に動かす事が出来ないと来ている。
派閥を作らない偏屈な梅津に見込まれるだけあり、柴山は自分の役職に与えられた権限を自分の権勢であると誤解するような軍人ではなかった。柴山は礼節を尽くして新しい東部軍司令官を迎え入れた。
「総理が何をお考えなのかがわからないのだ。その点に関する軍事課長の見解を聞きたいと思った」
自分より後輩の柴山に対して、香月は自らの疑念と懸念を率直に伝えた。こうした九州人特有の率直な物言いも参謀から侮られる原因になったのだろうと柴山は推察しつつ、その口を開いた。
「何とおっしゃいますと」
「外務省東亜局の作成した対支外交の基本方針に関する声明文の発表を、総理が見送ったと聞いた」
すすめられた応接用の椅子に座るや否や、香月が静かながらも断固たる口調で尋ねると、柴山は自らも腰掛けながら「その通りです」と答えた。
香月の言う対支外交の声明文は、外務省東亜局の村井倉松局長が中心となって作成した、通称『林声明』のことである。この声明文は善隣友好(協和外交の精神の確認)、防共活動での協力強化、経済提携の強化という3原則からなり、ワシントン条約後の日本の対大陸外交の基本方針を内外に明らかにすることを目的としていた。
「見送りではなく却下されたという表現が正確と思われます。陸相は現下の大陸情勢と華南における現状を分析した結果、日本側からの声明文発表は悪影響を与える可能性が高いと判断された様です」
「決断を先送りすることは、決定とは違うと思うが」
「手厳しいですな中将閣下」
「茶化している場合ではない。現下の大陸情勢の急速な悪化については、軍事課長も承知しているはずだ」
香月は真剣な目で柴山を睨むように見返しながら、その足を組んだ。
「外務省東亜局はまだ南京国民政府を中央政府として認識しているようだが、そんなものは最早存在していない。未だに軍事委員会主席の後任が決まらぬ中、新広西派の主導する臨時政府は福建省や江蘇省に対する圧力を日々強めている」
これは客観的事実であるので、柴山は黙って頷いた。
華南の広東省と広西省を総称して両広と総称する。清朝の時代から貿易拠点である広州を抱えることから対外戦争や交易紛争の最前線であったが、同時に温暖な気候で土地は豊であり、また対外貿易や対外資本の直接投資の影響を受けることで大陸の中でも新進の精神に満ち溢れていた。
その代表が辛亥革命で清朝を打倒した孫文(1866-1925)だ。
両広は革命後の戦乱において基本的には孫文、次いで蒋介石の国民党を支持したが「自分達こそが孫文の出身地である」との意識が非常に強く、また経済的にも豊かであることから強力な軍閥を組織していた。
幾多の内乱と再編の末に両広における主導権を確立したのが新広西派だ。彼らは現在、李宗仁を盟主に現在「国民党革命臨時政府」なる組織を立ち上げ、南京国民政府の正統性に対する挑戦を挑んでいる。
「彼らからすれば、孫文の後継者である自分達が革命政府を相続するべきだという認識なのでしょうな」
「今は20世紀だぞ。春秋戦国時代じゃあるまいし……とにかく奴らは蒋介石流の中央集権改革を否定し、緩やかな連邦体制の支持を掲げることで各省を支える軍閥勢力の支持を急速に集めている。そして南京を目指すにしても、背後の海岸部を押さえておかなければならない」
特に江蘇省は安徽省と隣接している上に、上海にほど近い。仮に武力衝突が発生すれば上海が再び戦火に巻き込まれる可能性があると指摘する香月に、柴山は「承知しております」と頷いてから続けた。
「陸軍大臣は命令指揮系統の統一されていない軍閥がいくら集まったところで、多国籍監視団の脅威にはならないとお考えのようです。必要に応じて追加派遣を行う用意はありますが、現段階ではまだその予定はありません」
「仮に戦闘で避難民に被害が出れば、海外メディアはまたぞろ日本バッシングを始める可能性もある。市街地での住民を巻き込んだ戦闘は、どうしても市民に犠牲者が出る。渡辺大将にその覚悟はあるのか?」
香月には珍しい上層部批判とも受け取れる発言であったが、梅津も評価した慎重居士の柴山はそれを直接咎めずに記憶にだけ残してから、その疑問に応じた。
「そのための多国籍軍監視団司令部です。あれは日本軍のみをスケープゴートにさせない枠組みですから」
「とにかく情報だ!情報!」
柴山の回答が不満だったのか、香月は組んだ足の上で、苛立たし気に両手を打ち鳴らした。
「私が大陸から帰ったばかりだからそう感じられるのかもしれんが、私は現在の情報屋が対ソビエトに偏りすぎているように感じられるのだ。人材や資金が限られていることは理解しているし、ソビエト極東軍に対する備えを軽視してはならない点に関しても同意はする。だがあのちょび髭リシュコフの言うことを全て信用出来ると思うのか?リシュコフの二重スパイ説も囁かれると聞くが」
元がコミンテルンの恐怖政治を支えた秘密警察の高官であっても、リシュコフは今や陸軍省の反共活動の偶像だ。柴山の立場としてそれに答える事は出来ない。香月も軍事課長の見解を期待していたわけではないらしく、彼の回答を待たなかった。
「満洲組や支那通の諜報活動も問題が多かった事は事実だろう。予算は好き勝手に使うし、上官や中央の命令には従わない。外ならぬ私もそれで統制に苦労させられたのだからな……だが、あの連中を根こそぎ切った結果はどうだ?」
天津を始め各地の特務機関が機能不全に陥っている現状を、個別具体的な事例で列挙していく香月中将に、柴山大佐は短く答えた。
「中将。お忘れかもしれませんが、私もその支那通です」
その回答に香月は虚を突かれたように目を丸くするが、「そういえば貴官は張学良の顧問であったな」と頷いた。
輜重兵科一筋の柴山は、参謀本部出向中の昭和3年(1928年)11月、奉天軍閥の張学良顧問として赴任した。
いわゆる満洲某重大事件により張作霖が暗殺されたのは、この年の6月のことである。
事件を手引きした日本軍顧問と張学良の関係悪化が続く中、5か月近い空席を経て赴任した柴山は、奉天軍閥の針の筵の中でも着実に自らの仕事に取り組み、何をどうしたのか疑心暗鬼の塊だった張学良の信頼を獲得。個人的な友好関係を構築することに成功した。
むろん彼個人だけの力ではなく、張学良の国民党政府帰順表明による失地回復を図った陸軍参謀本部の支那班の全面支援があってのことだろうが、この関係改善は柴山なくしてはありえなかったことは間違いない。
「あれは実に輜重兵科出身者らしい粘り腰だった。謀略はテクニックではなく誠の心という土肥原将軍の言葉を体現していた」
「光栄であります」
「だがその張学良も殺害されてしまった」
上げて落とすつもりだったわけではないが、香月は冷徹な現実を突きつけた。
9月17日。西安事件のクーデターが失敗してから南京に軟禁されていた張学良は、楊虎城(元第17路軍司令官)と共に刑場に引き出され。正規の方法で処刑された。ところがこの根拠となった「法務委員会の命令書」なる文章は真っ赤な偽物であり、その犯人を巡って南京市内は流言飛語の巣窟と化した。
この政治テロを契機に、南京市からは林森主席を含めた国民党政府の重慶市への脱出が相次いだ。その結果として今や南京市は汪兆銘率いる国民党左派の独壇場と化しつつある。
いくら穏健派であっても、香月も陸軍将官である。結局のところ香月の不満は、大陸情勢の急変に関する中央の対応があまりにも緩慢であることに尽きた。
「例のクリスチャン・ジェネラルが、孫科を担ぎ出そうとしている事については?」
支那駐屯軍前司令官から馮玉祥将軍が進めている孫科擁立構想について尋ねられた柴山は、あっさりと「承知しています」と答えた。
昭和8年(1933年)から国民政府の立法院議長を務める孫科の父は、建国の父である孫文である。
コロンビア大学で経済学を修めた孫科は、革命後政府で重要ポストを歴任。広州市長として旧市街地の再開発に辣腕を振るい、親の七光りではない有能な行政官としての名声を確固たるものとした。自らへの権限集中を進める蒋介石と敵対し、反蒋活動を展開したこともある。
その孫科は親ソ派の抗日民族派として知られていた。政府要人の重慶脱出が続く中、「一人でも南京に留まり続ける」と宣言するなど、肚の座り方は父親譲りである。同じ親ソ派・抗日民族派の馮玉祥が擁立するにはうってつけの人材だろう。
「確かに孫科ならば広東省でも支持を得られるかもしれません。華南をまとめるには格好の神輿となるでしょう。クリスチャン・ジェネラルの私兵の精強さはいまだに健在です……ですが問題はクリスチャン・ジェネラルの地盤は、直隷省を中心とした華北であることです」
「華南では手足となる勢力が存在しないからな。今のままでは糸のない凧のようなものだ」
柴山大佐の回答に、香月中将はわが意を得たりと大きく頷く。それは自身の見解に軍事課長の賛同を得られたことを喜ぶものではなく、陸軍省の見解が見当はずれではないことに安堵したものであった。
クリスチャン・ジェネラルは確かに共和制と民族主義の信奉者ではあるが、狂信者ではない。旧北洋軍閥の流れをくむ自分が大陸をまとめる看板にはなれないことを理解しているらしい。だからこそ孫科という「孫文の息子」の看板を利用しようとしているのだろうが、華南で地盤のない彼に出来ることは限られている。
滔々と現在の陸軍省の見解を語り続けていた柴山軍事課長は、一つ息を挟んでからなおも続けた。
「どちらにせよ華南は三極構造になることが予想されます。両広を拠点とする新広西派、武装中立を唱える福建省を中心とした勢力、重慶市の中間派。跡は形ばかりの南京の国民政府と少数勢力に過ぎません」
「ならば話が早い」
香月は椅子から上半身を乗り出して続けた。
「君の功績を否定するわけではないが、張学良『程度』のパイプすらなくなりつつあるのが、今の現状だと考えるが、君の見解はどうだ」
「支那通に限ったことではありませんが、個人のコネクションを重視するあまり無意味に機密費を垂れ流す事例が横行していました。情報収集に確実なリターンを求める事ほど無意味なことはありませんが、実際に集めたものが主観的なノイズばかりで使い物にならないのでは意味がありません」
「その通りだ。必要なのは何を知りたいか。どのような情報を集めるかという明確な目的意識がなければ話にならない」
「公式情報で垂れ流される情報を集めるだけならば、商社の社員でなくとも学生にも可能でしょう」
「その目的意識が今の陸軍省全体で共有されているとは思えないのだよ。総理官邸に目的意識があったとしても。それが政府全体で共有されていない。だからこそ今回の外務省東亜局の声明文却下のような事態が発生したのではないかね?」
支那駐屯軍前司令官から突如発せられた痛烈な皮肉に、柴山は眉を顰める。
「内閣情報局の創設も結構だが、すでに決定した政策の意思決定に沿うような情報ばかりをかき集めては意味がなかろう。君が先ほど述べた通り、垂れ流すだけの情報を機械的に集めるだけならば新設する意味がない……自ら瞼を閉じて耳と鼻をふさいで、食事の味が判断出来るかね?」
「陸軍省としても満洲組と支那通の抜けた穴を埋めるべく、鋭意取り組んでおります」
「取り組む前に、すでに尻に火が付きそうだと言っているのだ。外務省の肩を持つわけではないが、声明文の発表見送りは……」
流石にそれ以上の直接的な批判は避けるべきと考えたのか、香月は咳払いをして口籠る。それでも自分には後任の司令官である前田を始めとした支那駐屯軍に対する責任があると考えたのか、香月は再び話し始めた。
「問題はだ。総理が大陸政策にいかなる知見をお持ちなのかということなのだよ柴山大佐。確かに拙速な決断は避けるべきだろう。だが慎重という美徳は、必要な時に万難を排して決断をするからこそ評価されるのだ」
「今がその時であると?」
「対立や亀裂を恐れて現状を引き延ばすのは、判断であって決断ではない。それに思考の長さは、決断の正しさを保証するものではない」
話しながら支那駐屯軍時代の記憶がよみがえったのか、香月中将は落ち着き払った口調とは裏腹に、苦み走った表情で自らの口を真一文字に結んだ。
・中華民国の離合集散の歴史は結構面白い。誤解を恐れずに言えば離合集散の節操のなさは日本の戦国時代を思い起こさせるものがある。日本が当て馬あつかいなのは大変複雑だが、それでも面白い。
・支那通が大陸にはまったのもなんとなくわからんでもないようになってきた(まさかこんなことを書く日が来るとは思ってもみなかった)。
・困ったときのネット掲示板方式。書いてて楽しい
・クリスチャンジェネラル。こういう人がいるからアメリカ人は中国人を応援したくなるんだよなあ。アメリカ人目線でかなり美化して書いていますが、実際にはほとんど他の軍閥指導者と変わりません。
・香月清司。早い話が牟田口の上官。それどんなバツゲー(ry)盧溝橋事件の発生が7月7日、田代の引退(香月着任)が7月11日。これじゃ部隊把握しろっていっても無理だよ……意図して強硬派っぽいことを言わせてます。
・柴山兼四郎。輜重兵科出身の軍事課長という異例の経歴の人物。後でネタにするかもしれないですが「輜重兵の歌」(作者不詳、1937年作成)の時の軍事課長。だれが作らせたんだろ(棒読)