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何も銑十郎元帥  作者: 神山
昭和13年 / 1938年 / 紀元二千五百九十八年
56/59

岩畔豪雄回顧録 / 東西新聞 / 上州新報 前鉄道大臣の政界引退関連記事 / 熊本県上益城郡甲佐町 西住家(1938年12月初頭)

「日本人が何をするにも明確であることが、私にはうらやましい」


フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(1853-1890)


 昭和初期の陸軍内部には、中堅幹部を中心としたいくつかの勉強会という名前の派閥が存在した。有名どころでは参謀本部の佐官を中心とした木曜会(資源開発と満蒙問題の研究)、陸士第16期三羽烏の筆頭格である永田鉄山閣下を中心とした二葉会(国政の諸課題と人事刷新の検討)、両者の合同勉強会である一夕会、支那通の軍人による桜会(満蒙問題と国内問題を検討。筆者も情報収集のため参加していた)などである。


 これらの派閥は第1次大戦以降に既成政党の推し進めた国防費削減に対する反発と、現状の国防に対する危機感を共通認識としていた。そして多くは昭和恐慌や大陸の混乱、ソビエト連邦の強大化を前に、高度国防体制の確立(陸軍の抜本的な改革と、軍を通じた国家改造)が必要であるとの考えに至った。


 目指す方向性は満蒙確保や総動員体制の確立、コミンテルン対策や南方での資源確保など様々な各派が、唯一共通していたのが宇垣一成とその一派による陸軍支配の打倒である。


 山縣元帥-桂・寺内-田中と続いてきた長州閥は、大正末期に岡山出身の宇垣大将が相続していた。中堅幹部らは宇垣大将が既成政党と組んで陸軍を私物化しているとの批判を強め、反宇垣の空気は次第に陸軍内部に広がりつつあった。


 それが決定的となったのが、昭和6年(1931)の三月事件である。宇垣大将が土壇場で見せた言動は、大将の政治的な人格への強烈な不信感と嫌悪感を桜会だけではなく、それ以外の陸軍軍人にも植え付けた。これに長州閥の継承者という潜在的な不満、民政党内閣との結びつき(幣原外交への批判)が合わさったものだから、顔を見るのも嫌だという話になる。


 私が所属した桜会は、同年の十月事件を契機に解散させられた。そのため以後の反宇垣=ポスト宇垣の擁立運動における中核となったのは一夕会であった。


 同会は主に陸士14期から25期生を中心としており、後に「皇道派」「統制派」「満洲派」と呼ばれた各派閥の領袖クラスや幹部を網羅していた。15期からは河本大作(満洲派)と山岡重厚(皇道派)の両氏が顔をそろえていたし、16期では決裂前の永田鉄山閣下と小畑敏四郎閣下が顔をそろえている。


 こちらも犬猿の中となる17期の東條英機氏と21期の石原莞爾「将軍」が同じ勉強会にいたのだから面白い。派閥政治とは無縁の岡部直三郎閣下(18期)が顔を出しているのが逆に目を引くが、それだけ陸軍内部には現状の宇垣体制に対する危機感なり不満が募っていたのだ。あるいは筆者と同様に情報収集のため、同期との顔繋ぎが目的だったのかもしれない。


 一夕会は3つの政治目標を掲げていた。すなわち「人事の刷新による陸軍改革」と「満蒙問題の根本的な解決」、そして「新たな指導者として荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の3将軍を擁立する」である。


 何故この3将軍だったのか。


 まず真崎将軍と荒木将軍。長州閥と旧薩摩閥は田中義一将軍と上原勇作元帥に代表されるように、伝統的なライバル関係にあった。その旧薩摩閥を中心としたのが九州閥である。荒木将軍は東京出身だが九州閥と親しく、陸軍士官学校の名校長として名高かった真崎将軍は佐賀出身。共に陸士9期・陸大19期の同期でもある。


 石川県出身の林将軍(陸士8期・陸大17期)が選ばれたのは「越境将軍」としての知名度と、真崎将軍との交友関係だろう。むろん長州閥とは関係が乏しかったことも大きい。


 つまりは一夕会を中心とした反宇垣派が担ぐ神輿としての役割を期待された人選だ。


 宇垣大将と近い民政党内閣の崩壊後、成立した犬養政友会内閣(昭和6年12月組閣)による新たな陸軍首脳の人事を見てみる。


・陸軍大臣-荒木貞夫

・参謀総長-閑院宮載仁親王殿下(元帥陸軍大将)

 参謀次長に真崎甚三郎

・教育総監-武藤信義(陸士3期・陸大13期)留任


 畏れ多くも宮様は幼年学校を御卒業になられた後は、フランスで軍人としての教育を受けられた(サン・シール陸軍士官学校、ソーミュール騎兵学校、フランス陸軍大学校)。不敬を承知で申し上げれば、陸軍内部に手足となる人物をお持ちではないし、就任当時すでに66歳という高齢であった。


 武藤大将はこれも佐賀出身で真崎の同郷。人格高潔ながら政治力はないので、宇垣大将としては正面から戦うよりも自分の政権に取り込もうと考えられたのか、昭和2年(1927)から教育総監の地位にあった。そのため結果的に九州閥の後見人のような立ち位置になったが、この人も神輿である。


 陸軍の最高意思決定機関を三長官会議(陸軍大臣、参謀総長、教育総監)としたのは宇垣大将である。ここに宮様総長が入ったことで、三長官会議は形骸化した。


 多数決で皇族総長の意見を否定することは出来ない。同時に自分達への批判は宮様批判と同義であると主張することで反対派を黙らせることも出来た。


 かくして真崎-荒木体制は確立した。


・真崎-荒木派の時代


 ではその荒木大将の陸軍大臣としての評価はどうか?疑いようもなく史上最低だろう。着眼点や問題意識には見るべき点、あるいは評価するべきところもある。


 だが、とにかくやる事なす事、ここまで的外れなのも珍しい。


 政治とは人事であり、人事権こそ権力の源泉である。宇垣派を一掃して拍手喝采を浴びた荒木大将。その人事は宇垣大将も真っ青になる度の過ぎた情実人事であった。


 先にも見たように、荒木大将と真崎大将は宮様を参謀総長にすることで陸軍首脳の意思決定を行う三長官会議を形骸化させ、真崎参謀次長-荒木陸相ラインであらゆる事を決定した。宇垣大将ですら他派閥に配慮しながらの政権運営だったというのに、これでは誰も止めるものがいない。


 武藤大将が5・15事件の責任をとって辞任した次の教育総監は、真崎と個人的に親しい林鉄十郎大将だ。2・26事件以降はともかく、当時の林大将に歯止め役を期待するのは、八百屋で魚を求めるようなものだ。


 荒木大将は国軍を「皇軍」と呼称したが、この時に真崎-荒木体制で要職を務めた人物を一般的に皇道派と呼称する。陸軍省や参謀本部の主要人事において、自分たちと個人的に近い人物を優先的に登用する一方、それの派閥を露骨に冷遇したのだから大騒ぎだ。


 あまりにも低次元な話ではあるが、百歩譲って論功行賞だとしても主流派なり組織や体制の強化に繋がるのならばよい。旧桜会参加者は、荒木体制が出来た途端に「三月事件・十月事件に関与した」という理由で(実際に関与していたのだが)、中央から遠ざけられた。私も親しくしていた小磯閣下に声をかけられなければ、満洲ではなく地方のどこかに飛ばされ、予備役入りとなっていたかもしれない。


 こうして外から見れば、同じ方向を向いている同士で醜い争いが始まる。


 真崎・荒木派を熱狂的に支持する青年将校(ちょうど真崎大将の士官学校時代の生徒にあたる)は尉官が中心であり、上がいなくなれはその穴を埋めるのは自分達だという野心を隠そうともしない。新体制に期待していた一夕会の中堅幹部は失望して距離を置き始め、いつしか「統制派」と呼ばれるようになる。


 いなくなって初めてその偉大さがわかる。荒木将軍は政治手腕では宇垣閣下ほどの手練手管を望むべくもない。そのため強権的に押さえ込むしかやり方を知らなかった。


 荒木将軍と真崎将軍は青年将校の理解者としてふるまいながら、彼らを別働隊として陸軍内の政敵批判に利用した。荒木閣下の退陣後になるが、意図的な軍規の破壊が下克上の風潮を煽り、白昼堂々の陸軍省内部での永田鉄山軍務局長暗殺事件(相沢事件)に繋がった。


 加えて荒木閣下は憲兵隊司令官の経験から、憲兵隊の機能を悪用して政敵を監視させる。荒木・真崎派の後ろ盾である武藤信義元帥が死去したことで、暴走に歯止めがかからなくなった。


 これに声を上げたのが、良識派の代表格である渡辺錠太郎閣下であり、阿部信行大将(旧宇垣系中間派)が蠢動を始める。いつの時代も組織における圧倒的多数は中間派という名の日和見主義者なので、中央省部勤務の一夕会に属さない中堅幹部も「これでは宇垣よりも悪い」と、次を睨んで動き出した。


 経験も知識もある中堅幹部からそっぽを向かれては、手足のない達磨のようなもの。肝心の荒木大臣を支えるべき省内を見てみれば、陸軍次官は柳川平助(陸士12期・陸大24期)、軍務局長に山岡重厚(陸士15期・陸大24期)。前者は無口で偏屈と名高い騎兵、後者は教育総監部一筋、共に軍政の経験がほとんどない。


 知識もなければ経験もなく、交渉のやり方すら知らない。そのため満洲事変以降の陸軍予算拡大の好機にも拘らず、荒木閣下が閣議の席で予算要求をしても、基礎的な経済知識の乏しさから老練な高橋是清蔵相にあれこれ理由をつけてやり込められる。


 同じ達磨でも相手は大蔵省と財界、既成政党の全面的な支援を得ている。荒木大臣はドン・キホーテのごとく突進を繰り返して、その度に無残な敗北を繰り返す。どうにかこうにか駆けずり回って必要な予算は認めさせても「大臣が子供扱いされた」という怪文書が三宅坂で流れて、また大騒動。


 非主流派の時代が長かったことが、そのまま派閥の政治力の弱さに直結していたのだろう。またもや問題になったのは荒木人事だ。


 真崎次長に荒木陸相、ついでに山岡軍務局長は人事好きで有名であり、人事局長の松浦淳六郎を差し置いて荒木陸相が人事に直接介入する事態が続いた。それも高級幹部人事だけでなく、佐官に尉官の人事まで注文をつけたというのだから尋常ではない。


 陸軍省内の疑心暗鬼は遠く満洲にまで聞こえ、これでは大蔵省主計局の相手など出来るわけもない。また荒木陸相の面子が潰れる。


 ちょうど同時期に海軍大臣だったのが岡田啓介氏であり、陸軍のごたごたを尻目に海軍予算の大幅拡充に成功している。そんな馬鹿な話があるかと我々陸軍は、日頃の内紛を忘れたかのように怒る。5・15事件で犬養総理を暗殺したのはどこの誰だったのか(陸軍はあくまで士官候補生が参加しただけだという理屈である)。


 岡田氏は予算案成立後に自ら陸軍省を訪問して、荒木大臣に対して閣議における海軍予算獲得の「協力」に感謝したというのだから、これはもうとんでもない強心臓だ。皮肉というには、あまりにも毒が過ぎる。


 大体海軍はいつもそうだ。政治には関心がないという顔をしながら美味しいところだけもっていく。大正初期に陸軍の第3次桂内閣が倒閣すれば、海軍の山本権兵衛内閣。満蒙権益を死守するために陸軍が大陸で血を流している中、海軍尉官のテロで現職総理を暗殺しておいて、その後釜が海軍の斎藤実による挙国一致内閣。そして肝心の予算は必ず確保していく。こんなふざけた話があるか!


 という具合に陸軍内部で海軍への遺恨と不満が積み上がる。同時にそんな状況を許しているのは誰の責任だという話にもなる。この状況では青年将校の荒木・真崎擁護など誰もまともに受け入れるはずもない。


 機能不全の陸軍省をなんとかしようと、口八丁手八丁の真崎参謀次長があれこれと動いてみせるが、この人は荒木陸相のような人徳を持ち合わせていない上に、箸の上げ下ろしに至るまで事細かに口を出すタイプ。


 経験の浅い青年将校からすれば面倒見の良い頼もしい親分なのだが、次の陸軍は自分が担うのだと自負する陸大出身の幹部は「俺達は子供ではない」「参謀本部が陸軍省に口を出すな」と反発する。真崎閣下は性格的にそうした反論を許容出来ないので、陰湿じみた嫌がらせで報復する。


 お飾りだったはずの宮様参謀総長が「一体、何をしているのか」と批判されたという話が、どこからともなく漏れ始める。「皇道」とは名ばかりで、畏れ多くも宮様の権威を使い好き勝手な人事をしていた事実が明らかになる。


 騎兵として日露戦争の最前線をくぐり抜けてこられた武人肌の宮様と、才気走った政治好きの真崎次長との相性の悪さが露見し始める。そもそも真崎将軍だけで大勢が動かせるほど、帝国陸軍は小さな組織ではない。


 荒木陸相は「皇道主義」だの「非常時の打破」だのという精神論を唱えるだけと批判されたが、この状況では精神論を唱える以外に何も出来ないといったほうが正しい。「あの男が陸軍大臣でいることが非常時だ」と陰口をたたかれる。


 細事にこだわらない江戸っ子も、流石に嫌気が差した。正月の各宮家への挨拶周りで酒を勧められて、挨拶程度に口をつければいいものを見栄かハッタリか自棄糞か、とにかく馬鹿正直に全て飲み干した。二日酔いから風邪をひき、肺炎となったあげくの大臣辞職である。


 この時の陸軍首脳部である三長官は、荒木貞夫陸相に閑院宮参謀総長、そして教育総監の林銑十郎。宮様の意見はこの状況では聞けるわけもなく、荒木将軍は後任陸相に真崎次長を推し、真崎将軍と個人的に親しい風見鶏であった当時の林閣下もこれを追認する。


 ところが宮様総長が待ったをかけられた。さすがに宮様も真崎では拙いと気が付かれたのか。あるいは騎兵閥の宮様に入れ知恵をした同じ騎兵出身の陸軍高官がいたのか。元陸相の南次郎のとぼけた顔が思い浮かぶが、証拠はない。


 ならばと消去法で出てきたのが林大将である。真崎-荒木派ではないが、真崎と親しい中間派というのは何かと都合がいい。反対派の突き上げを食らったところで、極端な政策変更は教育総監だった林自身の首を絞めることになる。年次が繰り上がるのも暫定政権としては好都合と算盤を弾くと、宮様総長留任のお目付け役兼次の陸相候補として真崎が教育総監に就任し、林陸相が誕生した。


 そして林将軍は同期の渡辺錠太郎閣下、同郷の阿部信行閣下のアドバイス、さらに斎藤内閣と岡田内閣の与党を形成した各政治勢力の後押しを受けながら、真崎・荒木派を一掃した。


 真崎教育総監更迭問題に永田軍務局長暗殺、林の敵前逃亡のような辞任で川島義之氏が陸相になり、さてどうするかで前陸相の林大将が脳卒中で倒れる。大変だ、どうするかというところで2・26事件……と、ここまで来ると話が脱線しすぎだろう。


・荒木貞夫


 「何故そんな人物が陸軍大臣になれたのか!」と読者はお叱りになられるだろう。素人の犬養総理はともかく、どうして同じ陸軍軍人でありながら、その素質を見極められなかったのだと。


 言い訳のようだが、陸軍大臣就任までの荒木閣下の軍歴は、作戦屋としてはきわめてまっとうなものであった。


 作戦課を所管する参謀本部第1部長、参謀を養成する陸大校長、教育総監部のナンバー2である本部長等々。長くロシアに駐在し、欧州対戦では東部戦線もロシア革命も現場で経験した。連隊長も旅団長も師団長も全て経験している。


 確かに軍政家の、例えば参謀本部の総務局や陸軍省軍務局との関係は薄いから軍政家としての手腕は未知数といえたが、決定的に疑問符がつくというものではない。政友会の犬養木堂氏が組閣の際に民政党との関係が深い宇垣将軍とその一派を退けて、荒木閣下を陸相に選んだのは、必ずしも見当違いだったとは言えない。


 結果的には間違いだったのだが。


 一夕会がとりあえずの神輿として荒木大将をかついだのは、政治力がなければむしろ扱いやすいと考えたからか。


 実際には悪い方向に政治力と行動力を持ち合わせていたのだが。


 とはいえ荒木将軍は当初から出世コースであったわけではない。


 契機となったのは梅沢旅団である。


 日露戦争(1904-05)において、近衛後備歩兵第1旅団は八面六臂の大活躍から「花の梅沢旅団」としてその名を陸軍内外に轟かせた。この旅団は名前からわかるように弱兵とされる近衛兵の、さらに一度兵役を終えてから再度召集されたという後備兵が中心の部隊である。


 この誰にも期待されていない2等部隊を見事に指揮したのが梅沢道治少将(当時)。旧仙台藩士として戊辰戦争の五稜郭攻防戦を経験したという古豪で予備役編入目前の将軍である。荒木閣下はその梅沢将軍の副官兼参謀役として、寄せ集めの部隊の運営や人事のやりくりに苦労しながら、花の旅団の活躍を大車輪で支えた。「梅沢旅団に荒木あり」というので、注目されるようになる。


 精々が後方での警護任務程度が関の山であるはずの後備役部隊の副官では、どうひっくり返しても軍功など望めない。貧乏籤がとんでもない万馬券に化けたようなものだが、果たしてこれが閣下にとっても陸軍にとってもよかったのかどうか。


 戦後に再開した陸大に戻った荒木氏は、首席で卒業を果たす。それだけが理由ではないだろうが、梅沢旅団の副官という経歴が最終的にものを言ったのは確かであろう。


 直後に荒木氏は参謀本部付としてロシア駐在となった。日露戦争後も陸軍の仮想敵は依然として帝政ロシアであり、参謀本部第2部では欧米課や支那課を差し置いて筆頭である。長閥だがロシア通として陸相から総理にまで上り詰めた田中義一氏という先例もある。


 とにかく前述のように荒木氏は省部の幹部職を順調に駆け上がり、連隊長(第32連隊)に旅団長という現場部隊や実戦部隊の指揮官も経験した。非長閥の戦上手である梅沢の後継者という立ち位置も、長州閥の専横(非主流派の見解)を憎む勢力には都合が良かった。


 昭和4年(1929)には梅沢が最後に師団長を務めた第6師団(熊本)の師団長に任命されている。男・荒木貞夫としては感慨無量であったことだろう。


 そんな荒木閣下がいつから政治にかぶれる様になったのかは、よくわからない。ロシア革命がひとつの転機になったのは確かだと思われる。大正13年(1924)には、荒木閣下は現職の憲兵司令官でありながら、司法界の大物である平沼騏一郎が立ち上げた国本社に参加。当時の宇垣陸相と共に理事を名を連ねている。


 荒木氏は平沼男爵の思想に心酔したとされるが、司法官僚である平沼男爵の独特の国体観念や政治観を、荒木氏がどこまで理解していたかは定かではない。素直な反共主義以外は、発言するたびに内容が変わると揶揄された皇道主義なるものが、平沼男爵の思想が複雑骨折したかのような国体観念と一致しているとは、到底思えないからだ。


 それはともかく長州閥を継承した宇垣将軍に、反長州閥の九州閥(皇道派の前進)に支援される荒木氏。主催した平沼男爵が意図したわけではないのだろうが、なにやら両者の因縁めいたものを感じさせる。


 盟友・真崎氏ほどわかりやすく嫌われていたわけでもないが、陸軍中央ではこの頃から(あるいはそれ以前から)「荒木はよくない」とする声はあった。私もいくつかは承知している。


 そう考えると憲兵隊司令官という「欧州大戦でロシア革命を経験しているから知見があるだろう」という、一見すると正論に思えるが、実際にはまるで畑違いの意味不明な理由でなされた人事も、省部の中央から巧妙に遠ざけようという意図があったのかもしれない。失敗すれば何の問題もなく予備役編入が可能になるからだ。


 当人もそれは意識していただろう。何事もなければ、自らが仕えた梅沢中将と同じく第6師団長で終わっていたかもしれない。


 ところが満洲事変により旧宇垣派の体制が動揺する中、過激派の青年将校を抑える切り札として教育総監本部長として中央に呼び戻され、次いで陸軍大臣として華々しく国政の中央に躍り出た(実際には青年将校を抑えるどころか、無意識に油をまいて回ったわけだが)。


 辞めたら辞めたで、途端に意気軒昂になるのが荒木貞夫という人である。連座する形で実弟の貞亮(海兵35期)海軍少将も予備役入りとなったが何のその。東京陸軍軍事法廷の真崎裁判に証人として出廷し、外国人記者相手に持論である皇道主義とは何であるかを講演するなど、むしろ大臣時代より精力的だと評する声もあった。


・そして林銑十郎が残った


 ここまで語れば、沈思黙考にして優柔不断の後入斎たる林大将が陸軍の実力者に上り詰めた理由がわかっていただけるだろう。三将軍のうち最後まで生き残ったのが林元帥であり、かつ消去法で陸軍大臣に登板しただけの話だ。


 林閣下の出身である石川の金沢藩が脳裏に浮かぶ向きも多いだろう。かの大藩は幕末維新に右往左往している間に、維新に乗り遅れたからだ。もっとも加賀藩は戊辰戦争の功により最大級の加増を受けている。そのあたりも何やら既視感を覚える。


 ともかく林大将は2・26事件で皇道派と青年将校に引導を渡し、陸軍によるクーデターで内閣が総辞職した後にも関わらず、現役陸軍大将のまま組閣を行った。綱紀粛正を名目に荒木人事以上の強烈な人事を連続しながら、宇垣大将のような老練な組織統制。


 倒れそうで倒れないその姿からは、右往左往しながら真崎教育総監に引導を渡し、相沢事件を理由にさっさと陸相を辞任した御人と同一人物とは思えない。一体あの後入斎閣下のどこに、そんな政治的な図太さとバランス感覚があったのか。


 やはり人事ほど難しいものはない。


- 岩畔豪雄回顧録 (機密指定により公開は2001年以降) -



- 政府専用機にダグラス・エアクラフト社のDC-3を購入へ -


 以前から検討が進んでいた海外訪問及び地方視察に使用する政府専用機に、アメリカの大手航空機メーカーであるダグラス・エアクラフト社のDC-3を採用することで、関係閣僚が大筋合意に至った。政府関係筋が本紙の取材に明らかにした。閣議による正式決定後、阿部信行官房長官が記者発表する予定である。


 同筋によると、ダグラス・エアクラフト社からは予備機も合わせて4機を一括購入するが、来年度予算に計上するかは流動的な情勢。また専用機の操縦士や整備などを行う担当官庁を決定するため、年内をめどに佐藤市郎(海軍中将)総理補佐官を中心に各省庁間で調整が行われる。


 逓信省某幹部によると、政府専用機の導入は林総理(外相兼任)の意向によるところが大きい。9月の満洲公式訪問及び朝鮮半島視察において総理一行は鉄道と海路を利用したが、警備計画やダイヤの再編に手間取ったために、視察時期の正式決定がずれ込んだ。こうした経緯も専用機導入を後押ししたとされる。


 政府専用機導入はこれまでも検討されてきたが、中島飛行機がライセンス生産を行うダグラスDC-2を始め既存旅客機は定員が10名前後であることが最大の障害と見られていた。政府関係筋によるとダグラスDC-3は定員が34名と大幅に増加しており、同型機の機体としての信頼性も高い事から採用が決まった。


 ただ与党内部からは、政府のこれまでの航空関連産業の振興政策に反する決定であるとしてダグラスDC-3の導入を疑問視する声も出ている。また社会大衆党や東方会は導入決定の選考過程が不透明であるとして、次の通常会において追及する構えだ。


- 東西新聞(12月10日) -



・中島知久平氏の略歴 (写真)


 中島氏は当選3回。海軍兵学校機関科を卒業後、海軍機関尉官として長く航空部門に携わり、航空先進国のアメリカやフランスに学んだ。海軍機関大尉の時に「帝国の空を守るは国産航空機であるべきだ」との結論に至り、「大艦巨砲主義から航空優先への大転換」を主張して海軍内部で問題となった。


 大正6年(1917年)、ついに持論を実現する為に自ら予備役に入り、産業界に飛び込んだ。幾多の失敗と倒産危機を乗り越え、中島飛行機製作所を設立。当初は従業員わずか十数名で始めた同会社を、東洋一ともされる民間航空メーカーに育て上げた。現在の代表取締役は弟の喜代一氏。


 昭和5年(1930年)、第17回衆議院総選挙に出馬して当選、政界に入る。産業報国を掲げる立憲政友会に入党し、以後3回連続当選。鈴木喜三郎総裁に反発する中間派や反鈴木派を糾合する形で中島派を結成。近衛新党派として活動しながら、商工政務次官(犬養内閣)、鉄道大臣(林内閣)を歴任した。現在は総裁委員。次期政友会総裁候補と目されていた。


- 前鉄道大臣の中島知久平氏、政界引退を表明 -


 立憲政友会総務の中島知久平(群馬1区)は、東京市芝区の立憲政友会本部で記者会見を行い「思うところ之有り」として、次期総選挙に出馬せず、政界を引退する意向を明らかにした。また同氏が主催する国政一新会を初めとした党内勉強会も年内に解散するという。


 同氏は近衛文麿公爵を総裁とした新党設立を目指していた近衛新党派であり、内閣発足以来、近衛公爵と政治的な緊張関係にあった林鉄十郎総理とは必ずしも近しい関係にあるわけではなかった。近衛公爵の失脚による鳩山派(自由主義経済派)の巻き返しもあり、党内からは中島氏の指導力に対する疑問の声が相次いでいた。同氏に近い政友会関係者は、総裁への展望を欠く現状や、党内の混乱に嫌気が差したのではないかと語っている。


 引退後の活動については「限られた余生ではあるが、帝国航空産業の発展に尽力したい」と述べており、財界活動に専念すると見られる。会見前には国政一新会に所属する若手代議士や、参謀格である前田米蔵氏が強く慰留を申し入れたが、中島氏の意向は固い模様だ。


- 県連会長「何も聞いていない」と困惑顔 -


 突然の引退表明に、地元群馬県の政友会関係者には困惑が広がった。中島氏は当選3回ながら中島飛行機の経営者として地元における雇用創設にも尽力してこられた。内外に幅広い人脈を有する中島氏の群馬県初の宰相を期待する声も大きかっただけに、落胆の声は大きい。


 政友会群馬県連の篠原義政会長(群馬2区選出)は、地元事務所で記者団の取材に応じ「何も聞いていない」と困惑の表情を浮かべた。群馬県は中選挙区制度導入以降、政友会と憲政会(民政党)が拮抗し、総選挙に勝利した政党の候補がわずかに当選者で上回ってきた。昭和3年(1928年)に政友会の重鎮であった武藤金吉代議士が死去した後は、民政党優位の状況が続いている。政友会としては次期総裁候補の中島氏を中心に選挙戦の用意を続けてきただけに、突然の引退表明に途方にくれるばかりだ。


 一方の民政党県連は、まさかの敵の総大将引退に喜びを隠せない。最上政三県連会長(群馬2区選出)を始め、表面上は殊勝な態度を崩さず、中島氏の国政と地元経済界への貢献を称えている。同時に水面下では、政友会系の県議や後援会に所属する企業や農業団体の切り崩しに着手。民政党王国の確立に向けた動きを見せている。上州戦争の行く末が注目される。


- 上州新報(12月10日から12日) -



 地誌『人国記』に曰く「意地は熊本(肥後)、気は薩摩」という。この組み合わせが実に巧みだ。後者は精悍にして勇猛果敢、理屈よりまず行動という薩摩隼人の質を端的に言い表せているし、その対比で「わまかし」あるいは「もっこす」と呼ばれる熊本県民の気質を想像しやすくさせている。


 日本三大頑固なる、名誉だか不名誉だかよくわからない称号を与えられている肥後もっこすの特徴は、まず頑固。勤勉で人情味があるが、独善的で自己主張が強い。それでいて口下手だから思ったことを直接口にする。勤勉にして上下関係の重視を重視する保守的な土地柄……とまぁ、ここまでは田舎の保守的な地域にありがちな気質かもしれない。


 ここに議論好きで新しい物好きが加わると、途端に話がややこしくなる。


 議論とは、そもそもが異なる意見を戦わせて組織や集団が共通の合意や意思決定を行うための手段のはず。それが勤勉にして自己主張の強いもっこす同士が議論を始めると、意見がとにかくまとまらない。駆け引きや妥協を嫌う率直さがむしろ仇となり、やたらめったら意見を戦わせる。


 結果として相手への批判の矛先が鋭くなり、感情的にもつれる。手段が目的となり、議論のための議論が延々と続く。新しい思想に柔軟なのはいいが、それも議論の種になるばかり。


 結果として幕末維新において熊本藩は「ああでもない、こうでもない」と議論をしている間に、とりあえず後先を考えずに行動を起こした薩摩や長州の後塵を拝する結果となった。熊本藩出身の儒学者である横井小楠(1809-1869)は、むしろ福井藩の政治顧問として後世に名を残している。「肥後の議論倒れ」といわれる所以だ。


 そんな熊本に衛戍地を置く第6師団長は、まさに荒木貞夫にとっての天職だった。前述した様に激情家ではあっても陰湿ではなく、小細工や陰険さとは程遠い。保守的なのに意外と新しい物好きで、それに輪をかけた議論好きという風土も、いかにも荒木好みであった。


 荒木は陸相時代がそうであったように、師団長時代も積極的に部下と交流を持った。汽車と船と車を乗り継いで丸1日。東京から押し掛けたこの家も、そうした古い付き合いのある家であった。


「陸軍大臣というポストは私にとってはとんだ貧乏籤だった。結果としては私としても非常に不本意な結末となり、君たちにも大変迷惑をかけたと思っておる」


 今は亡き友人の仏前に手を合わせた荒木は、その息子相手にさっそく皇道なる持論について一席ぶち始めた。


「だが私は確信しておる。林のような風見鶏政治はいつまでも続くものではない。その時こそ私が高らかに掲げた皇道の理想が、必ずやこの非常時において再評価される時代が来ると私は確信しておるわけだ」


 荒木は長旅の疲れを見せることもなく、かっかと笑い声を上げた。カイゼル髭をねじるその姿は、今や彼が悪口しか口にしない総理大臣の振る舞いと瓜二つである。


 いくら温暖な南九州でも、師走の寒さは骨身に染みるはずだ。しかしロシア駐在経験の長い荒木は「浦塩ウラジオストック」に比べれば大したことはない」と嘯く始末。むしろ諸肌を脱いで乾布摩擦でも始めんばかりだ。


 荒木の上機嫌な理由は、今や中央では腫れ物扱いされる自分の扁額が、和室の応接間に堂々と飾られていることにある。漲る生気のままに筆を走らせた「滅私奉公」の文字は、全体のバランスもなにもあったものではないが、いかにもこの男爵閣下の気質が顕われていた。


 和装に身を包んで座布団の上に胡坐をかき、黒々とした口髭を得意げに捻る姿は、軍人というよりも江戸落語に出てくる長屋の御隠居を思わせる。知らないことでも強弁しながら取り繕って見せるあたりなどは特に……と、机を挟んで下座に控えている西住小次郎(陸士46期)が考えているかどうかはわからない。


「相変わらず口数が少ないの。私を見習えとまでは言わないが、記者諸君に愛嬌を振りまくのも軍人の仕事のうちであるぞ」

「……善処、致します」


 顔面の銃槍を撫でながら、無口というよりも無愛想にも思える態度の西住小次郎陸軍歩兵中尉は、ぽつぽつと途切れそうな口調で答えた。


 緊張故に強ばっているというわけではない。この長身の熊本県人にとっては、これが平素の態度と口調であった。本人からすれば、荒木に対しても同じように接しているだけなのだろう。鈍感というよりも豪胆と評するべきかもしれない。


 寡黙にして温厚篤実な陸軍中尉と、多弁にして中身がないと揶揄される元陸軍大臣。両者の接点は、荒木が熊本の第23連隊長だった時の部下が西住の父親であった時に遡る。


 小次郎の父である西住三作は陸軍教導団(現在は廃止)から叩き上げた軍人であり、個人的に荒木と馬が合った。この交友関係は三作が死去するまで続き、息子である小次郎が陸軍士官学校に入校する際に、荒木は友人の息子の保証人を快く引き受けた。


 真崎が2・26事件を審議した特別軍事法廷で実刑判決を受けて収監された今、荒木は話し相手にも事欠いている。そんな彼からすれば、旧友の息子の活躍は数少ない喜びだ。


 先年の中国国民党軍の上海攻勢(第2次上海事変)において、西住は上海派遣軍の戦車隊小隊長として従軍。停戦合意の成立まで大小合わせて30以上の戦闘に参加し、幾度となく重傷を負いながら一度も後方に退かずに戦い抜いた。


 公式文書で「撤退」の文字の使用を禁止(陸相に再登板した林によって解禁される)にした荒木からすれば、彼の活躍こそが自身の理想を体現したように思えたのだろう。もっとも荒木個人からすれば、友人の息子が軍功を立てたことを素直に喜ぶ感情の方が大きかったようだが。


 つまるところ荒木貞夫という人は、善人と呼ぶにはどうにもはばかられるが、根は単純な人物である。地縁、あるいは血縁関係にない九州閥の一癖も二癖もある連中が担ごうとしただけあり、荒木には妙な将器とでもいうものがあった。それは才気走る傾向の強い真崎には逆立ちしても出てこない。「よくわからないが人望がある」と評され、行く先々であだ名が山ほどつけられた西住と、その点では似ているかもしれない。


 時計の長針が一周するほどの時間、西住中尉は自身の経験した上海郊外の戦闘の経緯を、控えめながらも率直に語った。荒木はそれに対して三者面談で興奮する父親の如くに目を細めながら、我が子のように喜んで聞き入った。


 続けて荒木が再び持論である皇道について話を始め、西住中尉がそれに付き合わされること約1時間。早くも日が暮れ始めるが、元陸相の話題は戦車そのものへと及んだ。


「八九式中戦車はどうだね」

「……どう、とおっしゃられますと?」

「私としても直接開発に関わったわけではないが、記念すべき皇軍最初の量産戦車だ。率直なところを、現場の意見を聞かせてもらいたい」

「……歩兵を火砲により支援しつつコンクリートで固められた要塞線を攻略する、あるいは突破して無力化するという作戦目的は、十分に達することが出来た……そう考えています」


 自分の後見人でもある予備役陸軍大将の性格をよく知る西住中尉は、言葉を慎重に選びながら答える。ある事ない事を現場の意見として、あちこちで言われてはたまったものではないという思惑からではないはずだ。


 西住としても愛車に不満がないわけではない。本音を言えば不満しかない。


 無限軌道という大仰な名前の割には、履帯や転輪を含めた足回りは依然として不安定で、いつ脱輪するかわからない。機動性と運動性の強化のためのディーゼルエンジンへの転換はいいとして、海外でも運用経験がないものをいきなり使えと言われても運用する側も整備する側も体制が整っていない。結局はガソリンエンジンも併用して使用されているため、現場の負担は増える一方で、どちらも長時間の使用には不安が残る。


 肝心の装甲は17ミリと心もとなく、被弾すればリベットが車中を飛び回って乗員を傷つける。そもそも長身の西住には内部が狭い。度重なる現地改修が加えられているとはいえ、到底十分とは言い切れない。


 自分だけならともかく、部下の命を預ける代物である。西住としては妥協するつもりはないし、帰国してから関係各所に自ら直接要求をぶつけもした。


 それでも戦車の国産化というとてつもない難題に陸軍技術本部が総力を挙げて開発に取り組んだことや、限られた予算や技術的制約の中で最善を尽くしたという事実が、彼に直接的な批判をためらわさせた。


「……ただ、単独での作戦行動は……運用に関して改善点はあるかと思われます。対戦車戦の検討は、まだこれからかと」


 意図的に不安と言う言葉を使わなかったことは正解だったらしい。それでも胡乱な眼差しをした荒木は、口髭を捻りながら続きを促した。


「……戦車単独での兵科としての運用は、先の欧州大戦でも課題となりました。在り来りな結論となりますが、歩兵科や砲科を始めとした他の兵科との緊密な連携、前線部隊と後方司令部との通信確保……それと航空隊による偵察と支援が鍵になると思われます」

「なるほど。実戦経験者の意見は金塊以上の価値がある。私からも中央に伝えておこう」


 余計なことをしないで頂きたいという代わりに、西住はわずかに首を傾げた。


「それにしても実に頼もしい。君は東西新聞の上海攻防戦に関する従軍記事を読んだかね?」

「……いえ、残念ながらまだ」

「撃てば必中、守りは固く、進む姿に乱れなし。鉄の如き軍規と鋼のような不屈の闘志と讃えていたぞ。君達の活躍こそ皇軍戦車隊はかくあるべきとする見本だよ」


 進む姿はともかく、89式の主砲ではベトンに命中しても効果が知れているし、17ミリの装甲では守りが硬いとは言えない。大体、前線で記者を見かけた記憶はないのだが……とでも考えたのか、西住中尉はわずかに眉間にしわを寄せる。


 荒木は高揚して上ずった声で続けた。


「君のような一騎当千の武者がいれば、赤軍との戦いでも皇軍は必勝間違いなしだ!」


 その言葉に西住は瞬間、修行僧のような苦悶の表情を浮かべたが、自分の後見人と元将軍に対する敬意を微塵も崩すことはなかった。


「……実際に部隊を指揮した経験に関しては申し上げることが出来ますが、赤軍の戦力分析に関しては、未知数な部分も多く……大陸における軍閥諸勢力や、国民党軍との戦闘経験だけでは、判断材料とするには乏しいと考えます。参謀本部における6月の朝蘇国境における武力衝突の詳細の検討も、まだ十分ではないと側聞しています」

「それでは君は、皇軍の誇る国産戦車ではアカ共のそれに対抗出来ないと?そのような気弱なことでは困るよ君」

「……確たる根拠のないことを、閣下に申し上げるわけにはいかないという意味です。ただ……戦場で相対した場合には、最善を尽くします。相手が事前情報に乏しい赤軍であろうとも」

「それならば結構。常に万全の体制であるとは限らないし、たとえこちらが劣勢でも戦わねばならない時もある。常在戦場!皇軍の軍人たるものは、そうでなくてはいかんよ」


 荒木は満足げに頷くが、被後見人の意図するところを正式に理解した上での回答かどうかは定かではない。


 欧州大戦(1914-18)において、塹壕を挟んで膠着した戦線を突破するために登場した新型陸上兵器。昭和4年(1929年)に八九式軽戦車(当時)として仮採用と量産化が決定されるまで、陸軍は技術本部を中心に試行錯誤を繰り返した。


『大陸での馬賊や軍閥相手の治安維持活動ならば、それほど高性能でなくとも良いのではないか』

『1から開発していてはどうにもならない。実戦を経験している旧連合国製の戦車をライセンス生産するべきだ』

『ライセンス生産するにしても、複数の分野に跨る最先端技術の塊だ。技術面で不安が残る』

『いっその事、完成品を輸入して頭数だけでも揃えてしまえばよいのではないか。フランスは交渉次第で応じてもよいと言っているのだろう?国際協調とやらにも適うではないか』

『いやそれは違う。周辺に差し迫った脅威のない今こそ、中長期的な国防体制確立のためにも国産戦車の開発にこだわるべきだ』


 結局は技術本部の強い意向で独自開発が始まったが、開発陣は頭を抱えた。整地された道路を四輪駆動で走る国産の自動車産業ですら満足ではないというのに、砲を積載し、かつ無限軌道で不整地を突破する能力を持ち、装甲を有する戦闘車両を開発しろというのである。


 普通ならポップして、ステップ、それからジャンプのはずが、準備運動もなく高飛びをしろというようなものだ。


 時代は大正デモクラシー全盛期。軍縮を求める輿論が盛り上がる中、開発のリミットは2年弱。最大の仮想的たるロシア帝国は革命で消え去り、支那大陸は混乱が続いている。この状況下で限られた軍事予算の中から装甲戦闘車両の開発に予算を投入する必要があるのかという批判は、常に付きまとった。


 そうした陸軍を取り巻く冬の時代に欧州大戦の最前線を観戦武官として経験し、帰国後は予算圧縮要求に悩まされたのが荒木である。当時の状況を苦々しい口調で振り返りながら、往時を西住に語った。


「皇軍はいかなる敵にも単独で対処出来るだけの実力を常に兼ね備えておかねばならんのだ。連合艦隊だけではそれは不可能。最終的に陸軍には陸軍を、歩兵には歩兵を、戦車には戦車でなければな」

「……赤軍の実力は未知数です。ですが、満蒙の馬賊や軍閥より弱体だということは、可能性として低いかと考えます」

「その通りだ。相手を侮ってはならない……勘違いしてもらっては困るが、私としても八九式が世界最強の戦車だと思うほど、自惚れてはおらんよ」


 人知れず安堵する西住に、荒木が瞑目して続ける。


「技術的に難しいという前提を無視するならば、大型であればあるほど硬い装甲も大口径の砲身も大型の駆動部も搭載可能となるだろう。現場の不満も解消出来るということも理解はしているが……」


 日本陸軍の仮想敵国は日露戦争後もロシア、次いでソ連であったが、実際には大陸における軍閥及び国民党政府軍が最も差し迫った脅威である。だからこそ歩兵部隊との共同作戦による敵陣地の突破を想定して、イギリスの中戦車をモデルに独自開発がすすめられたのが八九式中戦車だ。


「あれは歩兵支援と共同作戦を前提にした戦車だからな。フランスやイギリスでいう歩兵支援用の歩兵戦車になるか。名前を中戦車と呼び変えたところで、英仏は無論、赤軍の機甲部隊と渡り合えるとは、私も思っておらん」


 作戦屋として荒木は率直に現実を認め、そして更に顔を顰めた。


「だが赤軍機甲師団が南下した場合、国民に対して戦えぬとは言えぬだろう。だからこそ不屈の皇軍精神が必要なのだ!」


 最後を除いて西住には頷く点が多かった。目の前に、あるいは背後に守るべき日本国民がいる以上、戦わずに撤退することなど許されるはずがない。


 6月に満洲に亡命した元NKVD極東局長のゲンリフ・サモイロヴィチ・リュシコフ大将がもたらした情報は、陸軍中枢に衝撃を与えた。特にソビエト極東軍の強大化とモンゴル人民軍へのテコ入れは、仮に事実だとすれば日本の対ソ戦略は根本から見直さなければならないほどの重要機密ばかりであった。


「このようなことは考えたくもないが……例えば仮に皇軍が満洲やシベリアなど外地で敗れるか、海軍が敗北して敵に上陸を許した場合はどうなると思うか」

「……考えたくはありませんな」

「それを考えるのが士官の仕事だ!」


 作戦屋としての琴線に触れたのか、荒木は瞬時に顔を赤くすると握った拳で机の上を叩いた。


「日本国内で戦車を展開させようにも、道路も鉄道も港湾施設も整備がほとんど手付かずのまま!狭軌線路では輸送はすぐに限界を迎えるだろう。貨物船での輸送も港湾施設や大型ガントリークレーンが限られていて荷揚げも難しい。予算を度外視して海外から大型戦車を購入したところで、動かすことすらままならないときている」


 「なのに政治家どもは、その現実を理解しようとせぬ!!」と、荒木はボルテージを上げた。


「だからこそ皇軍は撤退などという文字を使ってはならんのだ!日本人には撤退する場所などない。自分達だけ逃げるというのなら、話は別だがな。それにも関わらず林は本質から目を背けて小細工ばかりを弄し、挙げ句は政治家に媚びへつらう……君は最近の新聞を見たかね!」

「政府専用機の件でしょうか?」

「論外だよ君!あれは論外だ!」


 バンバンと机をたたく荒木は、自分の言葉に興奮したのか鼻息が荒い。


「林の愚か者は中島知久平さんの苦節十数年の血の滲むような努力を一顧だにせず、政府専用機をアメリカから購入すると決めおった!あやつは堕落した政党と腐敗した財界と組んで、アメリカに日本の空を売り渡したのだ!」

「政府専用機だけに留まらないと閣下はお考えなのでしょうか」

「今は貨客飛行機だけかもしれんが、そのうち奴らは戦闘機も買えと言い出すに決まっておる!そうなれば日本の空の守りは、アメリカ人とアメリカ企業に乗っ取られることになるのだぞ!!」


 西住には長期的な国防体制を見据えた自主開発か、それとも目の前の危機に対処するための国防体制を睨んだ装備の拡充を優先するべきなのか、判断がつかなかった。


 まして目の前の自らの後見人が、かつての盟友だった林総理を批判したいのか、国産開発こそが国防の根幹であるという考えのどちらで感情を高ぶらせているのかもわかるはずがない。


「それもこれも国民が国防の何たるかを理解していないことが問題なのだ!宇垣は軍事教練だの小手先の協力体制だけでお茶を濁したが、それでは何の役にも立たぬ!」

「なるほど」

「わかるかね!もっと奇抜で斬新な、国民の愛国心を湧き立たせるような攻めの姿勢の世論宣伝が必要なのだ!そのためにはこれまでの一部の人間に支配された陸軍ではない、新しい陸軍でなければいかん!だからこその皇軍なのだよ!わかるだろうね!?」

「はい」

「何か君もアイデアはないかね!」

「……アイデア、ですか」


 西住はこてんと首を傾げた。長身の彼がそうすると、奇妙な愛嬌がある。


「そうだ!ソビエトの脅威を過小評価する国民の目が覚めるような、目新しくて斬新で奇抜な、これまでにないアイデアだよ!」

「奇抜な、これまでにないアイデアですか……」

「そうだ!銃後の守りも前線と一体となるような!そういうものだよ!」


 ふと西住の脳裏に「女学生を馬に乗せて薙刀の模擬試合をさせる」という考えが浮かんだが、何故かこれを口にするのは躊躇われた。


・東條憲兵政治よりも早い荒木陸相時代の秦真次による憲兵政治。後者よりも前者の方が印象が悪いのは、大雑把な荒木と緻密な東條というトップのキャラクターの違いかもしれない。あとは後者が大戦中ということも大きいかもしれない。

・書いていて思いましたが荒木みたいなタイプは個人的に嫌いじゃありません(ちと贔屓し過ぎた気もしますが)。荒木主役でも面白かったかもしれません

・「中島引退で政友会議員は不安よな。鳩山動きます」

・軍神西住。日中戦争が早く終わったので存命(というかこのためだけに上海だけで終わらせたまである)荒木に予備役編入された多門二郎は「実戦で勇敢な兵士になる者は、普段はおとなしく優しい人間だ」と言ったが、まさにその言葉を具現化したような人。傷だらけの熊の人形を集める趣味はおそらくない。

・自主開発か輸入か。他国と共同開発という概念がこの時代にあったかどうかは断言出来ません。ですが現代でも揉める以上はなかなか難しいかなと。

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[良い点] お久しぶりです そうなんですよね、宇垣は確かに長すぎたリーダーなんですが、いざ荒木・真崎・林にやらせてみると瞬く間に力量不足を露呈するんですよ ある意味それ自体が宇垣政権の問題なのかもしれ…
[良い点] 技術開発について具体的な議論があったのは初めて?なので新鮮でした。 DC-3のライセンス生産機である零式輸送機は1936年に設立したばかりの三井系企業(創業者が團琢磨の娘婿)「昭和航空機工…
[良い点] 久しぶりの更新きたー! やったぜ [一言] 荒木は将軍としては優秀だし、部下にも 尊敬される典型的な親分系ですけど、この人 陸軍大臣の器としては確実に向いてません でしたもんね…。 政治信…
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