フリー百科事典より「日比谷事件」/ 東西新聞社説 / 都新聞 / 東京市淀橋区西大久保 阿部信行私邸(1938年11月)
『有の侭に言は不敬なり。言はざるは又不忠なり。此の故に独夫、罪を憚らずして以て書す』
林子平著『海国兵談』より
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(日本の暴動事件一覧より)
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・日比谷事件
日比谷事件は、1938年11月27日、東京市麹町区(現在の東京都千代田区)日比谷公会堂で行われた対ドイツ抗議国民大会に参加した群衆の一部が、無許可で駐日ドイツ大使館へのデモ活動を行おうとしたため、これを阻止しようとした警視庁の特別警備部隊と衝突した日本の暴動事件。第2次日比谷騒擾事件とも。
概要
11月27日、日比谷公会堂で行われた対ドイツ緊急抗議大会に、事前の予想を大幅に上回る参加者や見物客が集まり(主催者発表1万人、警視庁発表では8500人)、公会堂に入りきらなかった参加者の一部が日比谷公園内において無許可のまま示威活動を開始。持ち込んだ薪に火をつけて暖をとり始めるものも出始めた。大会終了後も見物人や野次馬が次々と集まり、その規模は2万人近くまで膨れ上がった。
群衆がドミノ倒しになる、あるいは火災発生の可能性があるとして、事態を深刻に見た大達茂雄・東京府知事からの要請を受けて出動した警視庁の特別警備部隊が警備に加わり、大会主催者とともに解散を呼びかけたが、参加者の一部が駐日ドイツ大使館への直接的な抗議活動を呼びかけたことから、これを阻止しようとした警官隊と揉み合いになり発砲。デモ隊から死者9名、重軽傷者113名、警官隊からは重軽傷者23名を出した。事件後、逮捕・拘留された者は500名以上にも上ったが、実際に起訴されたのは34名である。
事件直後から暴動の激化には対外工作機関や、陸軍における反林派とされた特務機関の関与がささやかれたが、現在(2001年)に至るもなお、それを裏付ける証拠は発見されていない【要出典】。またこの事件は東京府庁と市庁の対立(都構想議論)、警視庁令布告の是非、特別警備隊の装備編成や、警察官のサーベル携帯の是非、銃砲火薬類取締法の強化による一般市民の銃器携帯の制限論争など、政局や社会に大きな影響を与えた。
(写真)
一般市民にサーベルで切りかかる(とされた)特別警備隊員(写真中央)。
東西新聞社提供
この写真が海外報道機関で『野蛮な取締り』と紹介されたことから、警官の帯刀の是非が政治問題となったが、実際には一般市民とされた人物(写真中央)は、同警官を背後から木刀で襲撃して後頭部に重傷を負わせており(モノクロ写真でわかりにくいが、流血がみられる)、防御のために抜刀して振り返ったところを写真に取られたものである【要出典】(異説あり)。
推移
11月9日から10日にかけてドイツ国内で発生した水晶の夜事件と、近衛秀麿公爵の逮捕拘留により、沈静化しつつあった国内の反ドイツ感情は再び沸騰した。11月23日に東横映畫株式會社がニュース映画として『伯林之奇跡』を放映し、大反響を呼んだことも、反ドイツ運動を後押しした。すでに同月13日に対独同志会を中心とした大会が開催されていたが、同会の中心人物である河野一郎代議士(政友会)らは、通常会前に政府に圧力をかける目的で再び大規模な国民大会をすることを計画していたが、大会終了直後ということもあり資金不足に陥っていた。
そこに2・26事件による失脚からの復権を図る久原房之助(元政友会幹事長)が接触し、資金面での支援を約束したことから日比谷公会堂での開催が決まった。また反ドイツ運動の潮流に乗りたい各種政治団体が次々と参加を希望したことから、久原が両者の仲裁に入り、共同で委員会を設置することになった。また対独同志会の政友会鳩山派の色を薄めるために、大会委員長には林総理とも親しい末次信正(予備役海軍大将)を迎えた。ただ久原の資金源には不透明なところも多く【要出典】、実際に久原の「ポケットマネー」であったかどうかは異論が残る(後略)…
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- 【社説】暴動の責任を問う -
昨日の日比谷公園で発生した暴動事件は、警視庁発表によると現在(27日午後11時)の段階で死者3名、重軽傷者43名。この数は今後増えることが予想される。暴動事件の直接原因については今後の捜査が待たれるが、いかなる理由があろうと暴力行為による政治主張は許されるものではなく、本紙はこれを厳しく批判する。
日比谷公会堂で行われた近衛公爵解放を求める対ドイツ緊急国民大会の委員長を務めた末次信正(予備役海軍大将)氏は「責任は大会委員長を引き受けた自分にある」として警視庁に自ら出頭した。同氏の対応に一定の評価をしたい。しかし同委員会が日比谷公会堂を管轄する東京市に提出した事前の大会計画があまりにもお粗末だったことに、今回の事件の責任の一端があることは否定出来ない。わずか2週間にも満たない準備期間で大規模な国民大会を実行することは、誰が考えても無理があった。政治的な示威行動を優先した結果、参加者を危険に晒した点について、同大会委員会は批判を免れないだろう。
また理由はどうあれ一般市民に死者を出したという点で、警察当局及び、東京府と東京市の対応についても問題が多いと言わざるを得ない。日比谷公園内において群衆からライフル銃が発砲されたという目撃証言が、本紙取材を含めた複数の報道機関でなされている。とはいえ「天皇陛下の警察官」を自認している安倍源基警視総監としては、陛下の赤子たる国民に銃とサーベルを向けたこと、暴動鎮圧の過程で死者が出たことへの責任を、どう考えるのか。警備体制の命令指揮系統の一元化を優先するあまり、東京府や市との連携が後回しになっていたとの声もある。警視庁令による強硬策に転じる前に、やれるべき事があったのではないか。
- 東西新聞(11月28日)社説 -
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- 三土内務大臣が異例の謝罪 -
大臣が最敬礼で深く頭を下げると、詰め掛けた記者で騒然としていた大臣室前が静まり返った。暴動事件発生直後から内務省庁舎に詰めていた三土忠造内務大臣は27日深夜、記者団の囲み取材に応じ「死者が出たことは真に遺憾であり、深く国民にお詫びする」と謝罪。記者団の中から驚きの声があがった。また三土内相は「警備にあたった警官隊にも負傷者が出ていると報告を受けている。どうか国民各位には現場で職務を遂行せんとして負傷した警官に、深い同情を賜らんことを、この場を借りて切に願うものである」と発言。「暴動の責任は現場の警官ではなく警備体制にあると考えるのか」との記者からの問いに、三土大臣は「死者が出たという厳正なる事実に対して、治安当局を管轄する内務大臣として深く責任を感じる。暴動発生に関しては捜査の進展を待った上でないと回答が出来ない」と答えた。
- 内務次官「対応は正当なものであった」と主張 -
三土発言に内務省内から反発が広がる中、内務次官の白上佑吉氏は28日の次官会議出席後、報道陣との会見に応じた。白上氏は「死傷者が出たことは遺憾であるが、内務省警保局および警視庁の警備行動は非常に抑制されたものであった」として、対応に問題がなかったという認識を明らかにした。また発砲はデモ隊より行われたと主張。警官隊にもライフルによる銃撃と思われる重傷者が出たことを指摘。「言論の自由とは、銃を市街地で乱射する自由ではない」と暴徒を批判した上で、現行の鉄砲火薬類取締法の改正に向けた検討委員会を発足させる意向も明らかにした。
また白上次官は記者団から安倍警視総監の責任論を指摘されると「全く考えていない」と明言。内務省として警視庁令による暴徒鎮圧の正当性を強調する狙いがあると見られる。
- 大達東京府知事が辞意?府市対立激化 -
東京府知事の大達茂雄氏は29日深夜、日比谷公園周辺で発声した一連の暴動事件において死傷者が出た責任を取る用意があると述べ、事後の対応に一定の目処がついた段階で辞任する意向を示した。また大達知事は事前に府庁への相談もなく国民大会の挙行を認めた市当局にも責任があるとして、日比谷公園を管轄する東京市の対応を「無責任極まりない対応」であると批判した。
一方、東京市はこの批判に対して、府庁が特別警備隊に動員を求めたことがデモ隊を刺激したとした上で、すでに警備にあたっていた地元警察署と相談なく警視庁幹部が一方的に特別警備隊へと指揮権を統一しようとしたために、命令指揮系統に混乱が生じたことで発砲事件への対応が遅れたことが暴動激化の原因であると反論。その意見は真っ向から対立している。府庁幹部が「うちの親玉の首を差し出しても、小橋(小橋一太・東京市長)だけは何としても詰め腹を切らせる」と発言すれば、東京市の某幹部は「腹を切るなら一人で切れ」と突き放す具合だ。
もとより職務権限がぶつかることの多い府知事と市長が折り合いが悪いのは言うまでもないが、小橋一太市長と大達茂雄府知事はそれが激しい。両者は共に東京帝大を卒業した内務官僚だが、小橋市長は原総理時代に政界に入り、政党を政変と共に渡り歩いて民政党に流れ着き、浜口内閣で文部大臣になるも越後鉄道疑獄事件で失脚。無罪判決を得て東京市長として返り咲いたという曲者政治家である。一方の大達知事は徹頭徹尾、道理に合わぬことを嫌い、福井県知事時代には県議会と、満洲国出向時には関東軍や商工官僚と衝突して辞表を叩きつけたという硬骨漢。政治思想も手法もまったく異なる2人では、これでは合うはずもない。皇紀2600年記念式典や東京五輪まで1年半を切ったというのに、両者の対立は深まるばかりだ。
- 駐日ドイツ大使が外務省に抗議 -
駐日ドイツ大使のオイゲン・オットー氏は29日、外務省を訪れ、谷正之外務事務次官、大橋忠一欧州局長と会談し、一連の日本国内の反ドイツ運動に遺憾の意を示した。オットー大使は会談後、記者団との囲み取材に応じ「ドイツと日本との長い友好関係を意図的に阻害しようとする、あらゆる謀略に反対する」ことで日独当局が合意したと述べた。欧州局幹部はこの件に関してノーコメントを貫いたが、近衛公爵の釈放をめぐり激しいやり取りがあったものと予想される。
- 大阪・名古屋・福岡での抗議大会開催を巡り閣議紛糾 -
日比谷事件の後処理をめぐり、来年度予算編成真っただ中の林内閣が大揺れだ。弊紙を始め東西、東京日日、讀賣、國民、中外商業といった主要各紙が死傷者の責任を警備体制の不備に求め、府市当局者の連携の不手際を指摘する中、政権内部や省内からも三土内相、白上次官ら幹部の責任を問う声が上がりつつある。
また今週末に大阪と名古屋、福岡の三都市で予定されている対ドイツ国民抗議大会の開催をめぐり、開催中止を求める閣僚と、世論を刺激して逆効果になると主張する閣僚とが真っ向から衝突している。阿部信行内閣官房長官、司法官僚出身の宮城長五郎司相、内田信也逓相(政友会)の3閣僚が中止派であり、永井柳太郎文相、櫻内幸雄農相、小川郷太郎拓務相ら民政党出身閣僚が反対している。前者は治安維持こそ最優先課題であると考えているが、内田逓相の場合は政友会内部における権力闘争に利用しようとする意図が見え見えである。後者は民政党出身の東京市長への責任論への波及、あるいは院内活動に基づかない院外活動による政局への悪影響という前例を作りたくない党執行部の思惑が働いている。
対独同志会との関係が深い政友会鳩山派の松野鶴平鉄相、同志会幹部の俵孫一商工相は事件への責任論に波及することを恐れて口をつぐんでおり、当事者である三土忠造内相(政友会総裁)も省内の把握でそれどころではない。そのため結城豊太郎蔵相、米内光政海相、岸信介国務相の3閣僚が中間派とみられる。いつも通りというか、3・3・3・3で綺麗に対応が別れ、相変わらず林総理の真意は見えない。民政・政友両党も今後の対応を決め兼ねており、阿部官房長官は閣議後の記者会見で「各党各会派の意見も伺いながら、政府において対応を協議している」という玉虫色のコメントを繰り返すに留めた。
- 安倍警視総監、催涙剤手榴弾の暴徒鎮圧導入を検討 -
安倍源基警視総監は28日の定例会見で、三土内相から特別警備隊による暴徒対応の見直しを指示されたことを明らかにした。その上で安倍総監は「催涙剤の使用など非殺傷型兵器の導入や、大型重機による道路封鎖を検討している」と具体例を挙げ、大陸における暴徒鎮圧活動に実績のある陸軍やシャン陸とも連携して装備の近代化に取り組む意向を明らかにした。政党出身の三土内相と、白上次官との間で意見対立があるのではないかという質問に、安倍総監は「本人に聞いてほしい」とコメントを避けた。
- 政友会府議が安倍構想を批判。東京府議会大荒れ -
臨時召集された東京府議会において、立憲政友会系の府議が暴動事件をめぐる府庁の対応を厳しく追求した。言うまでもなく東京は政友会総裁候補である鳩山一郎代議士が父親の代からの地盤であり、鳩山派としては日比谷事件は対独同志会ではなく、警備や当局の対応に問題があったと印象づけたい狙いがある。ともかく水面下で辞意を伝えることで議会からの批判を回避しようとした大達知事を支える府庁幹部のもくろみは敢え無く破綻に追い込まれ、また再来年の府議会議員選挙をにらんだ得点稼ぎの場にしようとする政友会系府議は大いに燃え上がった。
花村四郎議員(中野区選出)は特別警備部隊の出動要請について、大達知事に法的根拠とその妥当性に関して再三にわたり答弁を求め、審議は度々停止。鈴木仙八議員(王子区選出)は28日の定例会見における安倍警視総監の特別機動部隊の再編案を「警察組織を軍閥化する試みである」と批判した。
再三にわたる厳しい追及に大達知事が答弁に詰まると、議場から「さっさとそこをどけ、この人殺し」との野次が飛び、議場は騒然となった。
野次を飛ばした犯人は、その特徴的なダミ声からすぐさま広川弘禅(目黒区選出)議員と知れ渡った。
名前の通り正真正銘の僧侶である広川議員だが、東京市電で自らが立ち上げた労組を率いて旧社会民衆党(現在の社会大衆党)の公認を得て市議になるも、東京市会のドンである鳩山一郎に寝返って現在の地位に上り詰めたという、絵に描いたような生臭坊主である。
この野次には、政友会鳩山系が多数を占める東京市会における小橋市長の立場を悪くしたくないと黙り込んでいた民政党や、日頃から権力に擦り寄る広川の言動を苦々しく見ていた古巣の大衆党系会派も激高。「あの破戒僧を除名しろ」と議長席に詰め掛ける騒ぎになったが、当人は自分の席で合掌しながら「南無阿弥陀仏」と聞こえみよがしに大声で唱える始末。「禅僧の癖に念仏を唱えていいのか!」とわけのわからない野次が飛ぶが、当の本人は「犠牲者追悼である!この不届き者めらが!」と逆に開き直る始末で、収拾がつかない。ついに府庁知事室も議長と相談の上で3日の停会が決まった。
- 都新聞 日比谷事件関連の記事(11月28日から30日まで) -
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「寛政の三奇人」にその名を連ねる林子平(1738-1793)は、仙台藩士のイメージが強いが、実際には幕臣の子として江戸で生まれた。姉が時の仙台藩主の側室となったことで仙台に下り、藩政改革に自身の献策が受け入れられなかったことから、再び江戸で在野の名士と交流を重ねた。研鑽を磨く中で、幕府の海防政策に危機感を持った林は、蝦夷地から東北にかけて自らの足による実地調査により、その懸念を確固たるものとする。その彼が著したのが、世に名高き『海国兵談』である。
林としては幕府の海防政策に警鐘を鳴らしたものだが、当然ながら当時の幕府としては看過できない重大な幕政批判である。とはいえ士分でもあることから仙台藩での蟄居処分にするにとどめたのが、いかにも君子たらんとするを気取る松平定信流の当時の幕府らしい沙汰であるというべきか。林の著作は独自調査であり、また同時代の地理学者からも「事実に即していない」と批判されるなど、どうしても事実誤認などの限界が見られる。幕府がまともに受け入れなかったのもむべなるかなだが、それでも著作の中で示された「四方を海に囲まれながらも、あまりにも海防がなおざりにされているのではないか」という、素人ながらも的を射た懸念は、幕末の黒船騒動によって現実のものとして日本に突きつけられることになった。
海軍省軍務局長の井上成美(海軍少将)は宮城県の生まれであるが、彼の父親も林子平と同じく幕臣である。「奇人」とは突出して優れた人との意味で使われたそうだが、義兄の阿部信行官房長官からすれば「海軍左派三羽カラス」として悩みの種であるこの義理の弟も、一種の奇人には違いない。
林子平と同じく父親が幕臣の出身である点や、伊達氏と縁戚関係にある事(井上の母親は仙台藩伊達氏の一門出身)などもその類似性に数えてもいいだろう。違いがあるとすれば縁故や地縁血縁、出生に縛られざるをえなかった身分社会の江戸時代とは違い、明治維新における学制の恩恵により厳格な競争社会を実力で勝ち上がり、海軍という巨大な官僚組織の中でのし上がったという点であろうか。
連日連夜の閣議の対立や、記者団からの追及で疲弊しきった頭で、ソファーに座り込んだ阿部はそのような埓もないことを考えていた。先ほどまでの論争というにはいささか一方的な会話の疲労感と苛立ちが、脳の中心に重く居座っている。もとより円満な性格の彼にとって、義弟の容赦のない舌鋒は非常な精神的負担になる。今日の来客はもう断ろうかとの考えが阿部の頭をよぎるが、それを実際に行動に移す前に、正力松太郎の小柄だが恰幅のいい体が部屋に入ってきた。
「お呼びと聞きましたので。お疲れなら日を改めてもよろしいですが」
「君の新聞にこれ以上悪口を書かれたくないのでね。遠慮するよ」
疲労か酒色か区別のつかない顔色の官房長官に、正力は遠慮もなく体面のソファーに座りながら声をかける。宮仕えも経験したはずの男が新聞屋になるとこうもあつかましくなるものかと内心呟きながら、阿部が胡乱気な表情で顔を上げて、その理由を告げた。
「先ほどまで義弟がいたのでね」
「あぁ、軍部大臣の補任資格の一件で、手ひどく苛められたというわけですか」
「苛められたとはいささか外聞が悪いが、まぁそういうことだ」
眉間を右手の親指と人差し指で揉みながら、阿部は溜息を吐いた。今の自分の頭は通常の半分ほども働いていない。しかし感情の赴くままに怒鳴り散らしては、あたら新聞社の社長に特ダネを与えるようなもの。疲れきった脳細胞に鞭を入れて、阿部は口を開いた。
「軍部大臣の補任資格を現役将校に再度制限する、陸軍省及び海軍省官制の再改正は既に決定事項だと伝えたのだが、閣議決定ではない以上、受け入れるわけには行かないと言いよった。海軍は陸軍とは違い内閣の決定事項には従うのではないかと口にすれば、国家と国民のためにならないことに、賛成する理由にはならないと反駁する始末…」
「それは手厳しいですが、海軍省としてはむしろ当然の立場でしょうな」
正力はいっそ素っ気無いまでの口調でそう答えた。建前や正論を口にするだけで満足する手合は多いが、井上の場合は異なる。彼の父親はオランダ留学もした能吏であり、維新後は宮城県庁に出仕。事務方を統括する幹部にまで上り詰めた。後妻に迎えたのが旧仙台藩一門の石川氏であり、井上の生母である。母方を通じて仙台藩伊達氏とその一門に連なるわけだが、井上が海軍軍人としてそれを利用した気配はない。林子平や工藤平助、あるいは高野長英の遺伝子が継承されたのかどうかはわからないが、旧仙台藩領域の岩手や宮城は、斎藤実元総理や山梨勝之進(元海軍次官)など多くの海軍将校を輩出した海軍王国として知られている。しかし井上自身は山梨の遠縁であるというのにも関わらず、こちらも同様に気にした様子も窺えない。有限実行なのだから、妥協点を探る役割の阿部にとっては最もやりにくい手合いだ。
東京特別軍事法廷の結審後、2・26事件で失脚した旧皇道派(荒木・真崎派)の復権を防ぎたいという名目で、陸軍首脳や総理官邸から軍部大臣(陸軍大臣と海軍大臣)の有資格者を現役武官に再度改正したい意向が示された。それに真っ向から反対しているのが、海軍省の井上軍務局長であり、前海軍次官にして現在の連合艦隊(GF)司令長官の山本五十六、そして海軍大臣の米内光政だ。推進派からは「海軍左派三羽カラス」と揶揄されている。
米内は反対とは明言していないが賛成とは決して口にせず、彼が重用する山本次官(当時)や井上がその意向を代弁して、陸軍軍務局長や参謀本部と真っ向から対峙していた。山本がGF長官として転出し、後任に政治軍人の豊田貞次郎が就任したため、陸軍としては何らかの政治的妥協が測れるのではないかという声が上がったようだが、最強硬派の井上が軍務局長留任ではどうにもならないと、義兄である阿部ですら半ば匙を投げかけていると、もっぱらの「噂」だ。そして正力はそのような噂で記事を書かせるような真似はしない。
「豊田(貞次郎)次官との間で、何らかの話し合いが持たれたと聞きましたが」
「その件に関しては答えない」
「あったと考えてもよいので?」
「先ほど言った通りだ」
いくら疲れきっているとは言え、「戦わない軍人」と揶揄されつつ宇垣陸相の下で鍛えられた阿部の官僚的な答弁や修飾には乱れがない。結果的に嘘をつくことになるのなら、何も答えないというのは正しい。しかしこの場合は答えを言っているのも同然である。警察官僚から新聞屋に鞍替えした正力は、その点をよくわきまえていた。
「稲垣生起と阿部勝雄の名前に聞き覚えは」
「『あべ』といっても色々あるだろう。安い安部もいるし、こざと偏の阿倍もいる」
「これは失礼しました。長官と同じ阿部です」
「そうか。では後者は少なくとも私の親戚ではないな」
「では稲垣少将が航空本部の総務部長を解任された一件や、阿部大佐の少将昇進が取り消されたという話もお聞き及びではない」
「正力君、君いったい、わが帝国陸海軍に何人の大佐がいると思うのだね。将官ならともかく佐官の人事など一々目を通している暇などないことは、君にもわかるだろう」
木で鼻をくくったような阿部の回答に気分を害したそぶりも見せず、正力はさらに質問を重ねた。
「第2次上海事変当時の、航空母艦・加賀の艦長と、その後任です。艦内の軍規紊乱問題について、来る通常会で追求する動きがあるそうですが、ひょっとすると長官。この一件を交換材料に海軍省の豊田海軍次官と、政治的妥協を図ろうとされましたか」
「陸軍であろうと海軍であろうと、軍規の乱れがあるとすれば遺憾である。海軍としても不祥事が事実とすれば厳正に調査した結果、再発防止に全力で取り組むことだろうね」
「調査結果が出るのは国会前ですか」
「そうでなければ予算案の審議にならない……あくまで一般論だが」
「なるほど。自分の尻は自分で拭くというわけですな。井上少将の言いそうなことだ」
「もっとも貴族院の退役軍人が、海軍省の処分に納得するかどうかは別の問題でしょうが」と正力が付け加えると、阿部は露骨に嫌な顔をして見せた。予備役に入り、貴族院あるいは衆議院で議席を得た軍人は、陸海軍にとって心強い理解者ではあるが、同時に厄介な存在でもある。こちらの手を知り尽くしている上に、陸士あるいは海兵同期の繋がりで、古巣にいくらでも情報提供者の獲得は可能だ。そもそも素直に天下りや再就職を受け入れずに、政治家になろうという人間に、現役にいる後輩の代弁をするだけの浄瑠璃人形になれというのが、無理な話である。
この問題を追及しようとしている貴族院の公正会(退役軍人が主導権を握る会派)にしてもうるさ型がそろい踏みである。この一件を追求しようと、すでに各紙の息のかかった記者を集めて情報提供と収集をかねた勉強会を開始している。海軍が素直に責任を認めても、素直に引き下がるとは思えない。そう語る正力に、阿部は「あくまで一般論だが」と断ってから続けた。
「陸海の協調なしに、帝国の国防という崇高なる使命は果たせないと考えている。そしてそれは両者の不断の意見交換と努力によってのみ、為し遂げられるものだ」
「いずれは海軍は頭を下げてくるとお考えで」
「先ほども言ったように、あくまで一般論だ。それ以上でも以下でもない」
面倒だというのを隠そうともせずに顔の前で手を振る阿部に「では個別具体的な話をしましょう」と正力は話題を変える。身に纏う雰囲気が新聞屋としてのものから、かつて治安の鬼と言われた元警視庁警務部長としてのものに代わり、阿部は再び溜め息を漏らす。
「随分と手厳しく書いてくれたものだね」
「本来、論評にすら値しませんがね。内務三役(内務次官・警保局長・警視総監)を懲戒免職といわなくとも、即座に停職にしてしかるべき不手際です」
かつて暴徒に投げつけられた瓦礫で負った左頭部の傷跡を撫でながら、正力は切り捨てる。虎ノ門事件で懲戒免職処分となったとはいえ、大正デモクラシー最盛期に米騒動を始め、各地の労働争議、関東大震災で陣頭指揮をとり、あるいは特別高等警察で社会主義者や共産主義者の取締りに辣腕を振るった正力に、四面楚歌の内務省としては擁護を期待していたのだが、讀賣の社説は古巣の警察を知り尽くしているだけに、どの新聞よりも的確かつ激しい批判に満ちていた。
「写真を撮られたのが痛い。これから最低でも10年、あるいはそれ以上かもしれませんが『これが帝国主義者の本質だ』とプロパガンダをやられますよ」
「しかしだ正力君。暴徒から発砲してきた以上、抜刀もやむをえないのではないか」
「そもそも警備計画が杜撰だから、このような事態になったわけです。警備とは常に最悪の事態を予想して行うべきもの。にもかかわらず今回は最も少ない警備費用で終わらせることのみを優先して、警備計画と大会実行を許可したのでしょう。事前参加者の予想に失敗したと東京市は繰り返していますが、理由になっていません。大会参加者の所持品検査をすれば、発砲は防げた可能性は高い。当初から警視庁警備局に命令指揮系統を一元化しておけば、混乱は防げた。今となっては過ぎたことですが、それでも当時やれることはあった」
かつて米騒動の際、東京米穀取引所を取り囲んだ数千人の群衆の前に負傷しながら立ちふさがり、その間に警官隊に扇動者を優先的に検挙させることで、命令指揮系統を失った群衆を一斉検挙した自らの事例を上げた正力は、理路整然と事前計画、そして命令指揮系統一元化による情報共有の重要性を説くと、事後の対応の不手際も批判した。
「非殺傷性の手法導入と言う考え方そのものはいいでしょう。不肖、この私も要請があれば自分の経験を伝える用意はあります。しかし問題は事後の対応です。少なくとも死者が出たという点を、安倍(源基)総監は重く受け止めるべきだった」
「いや、正力さん。三土さんはそれで省内から責められているのだ。現場の警官が死線に立って治安を維持したのに、その不手際を上司が認めるとは何事かとね」
阿部の発言に「陸軍のやり方は警備では通用しない」と正力が皮肉交じりで返した。
「三土大臣が謝罪したからこそ、各地に飛び火せずに済んだと考えるべきですな。米騒動のように、直接的な国民生活に直結する議題ではないという点も大きいのでしょうが、山猫ストならぬ山猫デモの無届集会をやられていたら、それこそ治安当局の面子は丸つぶれでしょう」
「遊び半分でデモ活動をされては、政府としては、たまったものではない」
「遊び半分だからこそ、この程度の死者で留まっているのです。むしろこの程度の規模のデモ活動への警備行動に失敗したという点を重く見るべきです。今のつまらない林総理の政治に、優柔不断に思える政府の対外姿勢や、内輪の理屈で社会保障整備が遅れていることに、国民が潜在的な不満を持っているのは確かなのですから」
治安警察として長年携わった経験と、倒産しかかった讀賣新聞を10年足らずで東西や東京日日に並ぶ新聞として再建させた経営者としての視点から、現内閣への国民の潜在的な不満感を指摘する正力に、阿部は再び顔を顰めた。
「国家と民族を永続させるために政治があるのだ。演劇や映画のように起承転結がはっきりとしていて、勧善懲悪になるわけがない。それに国民の憤懣や精神的な苛立ちを解消させるために政治があるのでもない」
「もっともですな。だからこそ数年前には先代の近衛(文麿)公爵が期待視され、今では当代の近衛(秀麿)公爵への過度な同情に繋がっているわけです。あの兄弟は非現実だからこそ、国民にうける。適度なガス抜きをしてやらないと、風船は破裂してしまいます……ところで」
正力は眼鏡を外して胸元から取り出したハンカチでそれを拭き出す。阿部から意図的に視線をそらしながら、声色だけで判断するかのように質問を投げかけた。
「誰に詰め腹を切らせるつもりでしょうかな」
「捜査の進展次第だ」
内務大臣と同じ公式見解を繰り返す官房長官に、正力は眼鏡をかけて黙り込む。
安倍総監は定例会見後は口をつぐんでいるが、代わって白上次官が連日連夜の正当化発言を繰り返しており、東西新聞などは「ストルイピン(帝政ロシアの首相)のような男だ」と批判している。しかしあの地獄耳も林総理の弟だけに、腹の読めぬ男である。社会大衆党を監視しつつ労農派を放置することで党運営を混乱させた手腕といい、飴と鞭を使い分けることが出来る男と正力は判断していた。
各省庁から内務省衛生局を中心に社会保障関連部門を集めて衛生省(仮称)を設置することはほぼ確定しているが、土木局等を分離独立させる動きがある。白上次官はその急先鋒だ。無論反対派は大臣官房や総務局といった各道府県知事と密接な関係にある部署。47道府県は建前上は対等とはいえ、600万都市の東京の影響力は大きい。実際「白上は転んでもただでは起きない男ですからな」という発言を、阿部は否定しなかった。故に正力は諌言の意味合いも含めて口を開いた。
「喧嘩両成敗か、三法一両損か。どちらでも結構ですが、国民感情もそのようにすっぱりと割り切れると思ったら、大いなる勘違いですぞ。知識人が夢想するほど大衆は賢くなく、革命家が勘違いするほど大衆は愚かではない」
「まぁ、君ならそう言うと思ったが」
「先日の米国の火星人襲来騒動は、正確な情報に欠けた群集がどのような行動を起こすかを如実に証明して見せました。米騒動もそうでした。新聞の不確かな記事に踊らされ、最終的には100万人以上の参加者が全国各地で暴れ周った。大隈侯の尻拭いで内政外交ともに一定の成果を上げた寺内内閣を倒閣に追い込んだ」
「今回の一件を深刻に反省して、各地の警備体制を見直さないと、同じ運命をたどるでしょうな」とする正力の指摘に、阿部はどこか諦観したかのような表情を浮かべて答えた。
「あれもひとつの才能だよ。自分の他になり手がいないと開き直っているのだから。先代の寺内に自分が及ばないと認識しているのに、永田町に原敬がいないことも、米内さんが引き受けたがらないことも、誰よりも十分に理解している。むしろ加賀の一件で海軍内閣が潰れたと考えている節すらある」
「今、何時でしょうかな」
強引に話題を変えるためか正力が時刻を尋ねると、阿部は「人を時計代わりにするな」と不満を口にしつつ、懐中から時計を取り出して答えた。
「フタフタマルマル、午後10時だ」
「グリニッジ標準でパリと東京との時差はちょうど8時間なので、現地時間は午後の2時ですか」
正力の指摘に、阿部は「あぁ」と得心したような表情を浮かべた。
今日は11月30日。フランス国内の労働組合の全国組織-日本で言う総同盟の、労働総同盟(CTG)執行委員会がフランス政府に労働時間延長の緊急勅令撤回を迫り、公務員も含めた全国規模の総同盟罷業を宣告していた日だ。人民戦線内閣から正式に離脱したダラディエ内閣は要求を拒絶し「参加した公務員は全員罷免する」と宣言。にわかに政治的緊張が高まりつつあった。しかしそれも極東の日本から見れば、実に奇異なものに思えた。
「東の果ての日本で反ドイツ暴動が発生しているというのに、パリでは自分の労働時間と給与の心配とはね。普通は陸続きで国境を接するフランス国内でこそ反ドイツ運動が起きるものだと思うが」
金鵄勲章を持たない貴方には実戦に従軍した兵士の反戦思想は真の意味では理解出来ないであろうと考えながらも、さすがに正力はそれを目の前の疲れ切った元軍人に直接ぶつけることは躊躇われた。故に正力は別のことを口にして、迂遠な回答をするにとどめた。
「人間は本来、怠惰に傾きやすいものです。だからこそ長官の義弟さんのような真面目な働き者が重宝されるのでしょうな」
「……どこかの誰かに爪の垢でも飲ませてやりたいものだ」
正力はさすがに苦笑いするしかなかった。
・当然ながらオリジナル事件です。
・これを真面目に書くと、おそらく4話ぐらいいくので百科事典形式で省略。
・末次さん。断じて出すのを予定しつつ、忘れていたわけではない(小声)
・大達知事は本来東京都になってからの人。よく知らない人だと話し膨らませにくいのでヒトラー・ユーゲントの時にこの人にしておいたんだけど、いやー話が膨らんでよかったな(おい)
・ちと話が膨らみすぎたかなー(おい)
・広川弘禅。察しの良い訓練された方はもうお分かりでしょうが、私が大好きなタイプですw(尊敬できるという意味ではない)さいとうたかお先生が漫画化した小説吉田学校で、三木武吉よりも広川さんに親近感を覚えるのが私
・林子平を、みなもとたろう先生の漫画で知った人。手を上げて
・明治憲法下の政治的タブーに近い汚職事件。政治生命が絶たれやすい(完全ではない)。だからこそ…何なのこの人→斎藤実
・海軍三羽カラス。本来は日独伊三国同盟反対派
・正力松太郎。いわずと知れた讀賣中興の祖にして、大巨人軍創設者。虎の門事件でやめたこの人に出資したのが、後藤新平。後藤と同じく、この人も一種のスーパーマン。自分の特高時代の部下を讀賣に引き連れてきたけど、検閲対策の側面もあるんだろうなあと。ある意味、同時代の大衆真理に最も詳しい人種でもある。と言うかそうでないと勤まらない>特高。だからこそ新聞経営でも成功したんだろうけど
・さあ、ゼネストの時間だ!労働者の敵を打倒しろ!!!