トルコ共和国大統領国葬への弔電 / 東京府東京市 三宅坂 陸軍省大臣室 / 対ドイツ緊急抗議大会の新聞広告 (1938年11月26日)
「私を殺すことはトルコ国民の未来を奪うことだ。はっきり言おう。現在の時点においては、私がトルコだ!」
ムスタファ・ケマル・アタテュルク(1881-1938)
日本の良き友人であり理解者であられた父なるトルコ人、共和国大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルク閣下の訃報に接し、日本国民は深い悲しみをトルコ国民と共有する。閣下はその生涯を通じて勇敢な軍人であるのと同時に、卓越した戦略家であり、また偉大なる民主政治家であられた。否応なく訪れた時代と国家の激変期にあり、閣下は新生トルコの指導者として、命尽きるその瞬間まで国民と共に国家の再建に邁進され、大統領としての職務を全うされた。私は同じ軍人宰相として、閣下と国民との間で結ばれた強い信頼関係に、改めて敬意を表するものである。
大日本帝国内閣総理大臣 元帥陸軍大将 林鉄十郎男爵
- トルコ共和国初代大統領(11月10日死去)の国葬に際して、総理官邸がトルコ大使館に宛てた弔電より -
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王政復古により明治維新政府(大日本帝国)が成立して約70年。帝国の守護者である帝国陸海軍も紆余曲折がありながら、おおよそ同じ年月を重ねてきた。その決して短くはないが長くもない歴史の中で、今年の3月にまた新たな記録が達成された。
現・陸軍参謀総長である寺内寿一陸軍大将(陸士11期・陸第21期)の元帥府入りである。
彼の父親は寺内正毅元総理。日露戦争当時の陸相であり、初代朝鮮総督を始め軍政家として大いに辣腕を振るった長州閥の大物軍人であり、彼もまた元帥陸軍大将であった。親子2代の元帥府入りがどれくらい異例かといえば、皇族軍人ですら前例がないというのだから、長州の専横極まれり…なら話は簡単なのだが、そうではないからややこしい。
大体において「悪い人ではないんだけど」という枕詞は、その後に当人の欠点が長々と続くものである。そもそも枕詞からして「いい人」ではないのだ。寺内寿一は「悪い人」ではないというのは、誰もが否定出来ない。士官学校でも陸大でも親の七光りと白い目で見られたものの、育ちのせいか本人の性格なのか、有象無象の他人にどう思われようが特に気にしない寺内は、のんびりと大佐から少将に昇進し、元総理である父親の死を受けて襲爵した。翌年の大正15年(1925)9月23日、東京発下関行きの下り特別急行が脱線して34人の死者が出た山陽本線特急列車脱線事故において、寺内は同急行に乗車しながら難を逃れている。確かに運がいいといえばいい。
またこの頃、宇垣一成陸軍大臣より予備役入りの内示が出たものの「私は母親の胎内にいた時からの陸軍軍人」と縋りつくように懇願して(宇垣談)、なんとか現役にとどまることに成功したという。宇垣-というよりも陸軍中枢の総意として、伯爵である寺内を貴族院議員に送り込めば心強い味方になるし、もう少し肩書をつけてやろうという程度の考えだったのかもしれない。父親が総督を務めた朝鮮軍参謀総長などを歴任しているうちに宇垣体制が崩れ、荒木・真崎派のいわゆる皇道派の専制が始まった。
宇垣派とその前身である長州閥を憎むこと甚だしい彼らが上司になっては、これはもうだめかと寺内もあきらめかけた。ところが第4師団長時代に発生したのがゴー・ストップ事件。信号無視がどうしてこれほど拗れたのかはともかく、警察と陸軍とのメンツをかけた一大政治問題に、父親譲りの、それでいて父親ほど緻密ではない単純な寺内は「絶対引くな!」と厳命。寺内以上に単純な荒木陸相はこうした対応を大いに評価するので、長閥の御曹司を皇道派の領袖が評価するという、何が何だかわけのわからない状況が発生する。事件そのものは自殺者が出るという痛ましい結果になったが、もともと寺内は瞬間湯沸かし器ではあっても、根に持つタイプではない。どう思ったのか事件の政治決着後に軍と警察を含めた関係者を全員、行きつけの料亭に招待して、自腹を切ってどんちゃん騒ぎをして慰労した。何せ金には困ったことがなく、人を接待するのが大好きな性格である。
関係各所はこの粋な手打ちに拍手喝采「さすがは寺内総理の息子」と手のひらを返して褒め称える。これはもう中将のままではなく、ぜひ大将にして貴族院に送り込もうとなる。陸軍人事の調整弁として活用されていた台湾軍司令官となり、軍事参事官として呼び戻されて陸軍大将。なんだか腑に落ちないが、それでもこういうめぐり合わせの人はいるものである。
そうこうしているうちに遭遇したのが2・26事件だ。
実は事件後、かなり早く参内していた寺内は、真崎前教育総監の奇妙な言動に首を傾げたりしていたが、前陸相の林銑十郎参事官と、渡辺錠太郎教育総監と示し合わせた阿部信行参事官に巻き込まれる形で、寺内本人が意図せぬうちに早期鎮圧派に組み込まれていた。そして誰もがその適性に疑問を持ちながら、宮様総長がまさかの引責辞任で、誰も引き受けたがらなかった陸軍参謀総長を打診されると、なんのためらいもなく当然のように就任。誰もが唖然としたが、さすがの寺内も陸大を卒業しているとは言え作戦部門が長いわけでもないため「作戦屋をつけてくれ」と林陸相に要望する。この時、参謀次長としてつけられたのが皇道派の残党であり、能力は折り紙付き、性格の悪さは札付きと評判の小畑敏四郎である。
「もっとましなのはいないのか」と断っても良さそうなものだが、寺内としては別に荒木・真崎派と直接喧嘩をしたわけでもないし、丸投げできるなら丁度良いと、これを受け入れた。三長官として粛軍人事に反対するでも賛成するでもなく、衛生省構想をぶちあげたりする参謀総長を誰もが憂慮していたが、結果的には第2次上海事変の功績で元帥府入りだ。
ここまでくると本人の能力は特に問題にはされなくなるのが、陸軍出世双六である。人徳というべきかもしれないが、寺内の性格は儒教的な徳目に最も似つかわしくない。幸運と片付けるのにも首をかしげる。もっとも本人は自分の能力と素質によるものだと毫も疑わないだろう。
遠目で見ているうちには面白いが、一緒に仕事をするには面倒極まりない。士官学校では寺内の1期後輩になる教育総監の杉山元(陸軍大将)は、溢れんばかりのため息を飲み込んだ。
杉山の視線の先では、寺内が胸元の元帥徽章を光らせ、鞘に菊花紋が鮮やかに蒔絵された元帥佩刀の柄を両手で持ちながら、体の正中線に合わせるように杖のようにして、鞘の鐺を床につけている。副官に刀を預けないのは元帥としての威光を必要以上に周囲に強調するためとも受け取れなくもないが、おそらく本人はそこまで深く考えていないだけだろう。
部屋の主である林銑十郎総理(陸相と外相兼任)は、閣議が押したためにスーツ姿のままであり、林桂(陸士13期・陸大21期)陸軍次官や小畑参謀次長(陸士16期・陸大23期)らその他の出席者が全員、国防色の軍服姿であるのに比べると、いかにも奇異な印象である。そして寺内が三長官会議の度に林に食ってかかるのも、いつものことであった。
「このような一方的に都合のいい要求など、受け入れられるはずがないだろう!いったい佐藤全権は何をやっているのだ!松井(石根)の爺さんは昼寝でもしていたのか!!」
先ほどから苛立たしげに鐺を床で叩きながら林次官の説明を聞いていた寺内は、それが終わると、ひときわ高くカツンと叩きながら、ブリュッセルの全権団への怒りをあらわにした。会議に陸軍の意向を代弁させるために上海攻防戦における指揮官として「上海の守護神」と英仏で評価が高く、支那通として大陸情勢に精通したフランス語も堪能な(この当時国際会議はまだフランス語が主流であった)松井石根元帥を参加させたのにもかかわらず、全権団からの中間報告は英仏を始めとした南京政府と日本政府以外の6カ国にとって都合のいい要求ばかりが並んだものと、寺内には感じられたからだ。
「駐屯はいやだが、困ったら助けてくれだと?酒屋の御用聞きではないのだぞ。相手の言い分をただ黙って聞くばかりで、判断は本国に丸投げでは、子供の使いではないか!連合軍や多国籍軍とは名ばかりで、陸上戦力のほとんどが帝国陸軍頼りだというのに、なぜこちらの要求を反映させない!帝国陸軍は上海市参事会の下請けではないわ!」
「まぁ、総長。そうかっかせずに。これはあくまで中間報告だ。まず最初に各国の要求を提示させてから、個別具体的な交渉を諮ろうという佐藤大使の考えなのだろう。実際具体的に賛否を伝えたわけでもないし、こうして陸軍に可能かどうか打診してきているのだから。松井さんの出番はまだこれからだよ」
海外勤務の長い杉山には頷くところもあったが、寺内の手前、それをおくびには出さない。林が、これもいつものように髭をねじりながらなだめるが、参謀総長の顔は朱色を濃くするばかり。目元や鼻は母親似だが、短気さはビリケン宰相と揶揄された父親譲り。とはいえここで自分が何か言えば士官学校での失言問題に飛び火しかねないと、杉山は腕を組んで黙り込んだ。
「上海だけでも手いっぱい、北平郊外の天津軍(支那駐屯軍)の規模を拡充するべきかどうかすら、まだ結論を得ていないというのに、何かあれば香港、澳門に兵を出せだと?!今の帝国陸軍にそのような余裕があるわけがないだろう。参謀本部にいわれずとも、その程度の理屈は子供にでもわかる…そうであろう、教育総監!」
「……内地と外地の独立旅団等を含めて考えても、現状の24個師団体制では交代要員の確保すら困難かと思われます。幸いにして今の文部大臣(民政党の永井柳太郎)は陸軍に対して理解があり、昨年改正した幹部候補生制度への集合教育の実施協力等は進んではおりますが、彼らが第一線に導入出来るようになるまでには時間が必要です」
相撲部屋の親方と見まごうばかりの巨躯である杉山はいかにも威圧感を与えるが、この場の三長官(陸相・参謀総長・教育総監)の中では一番、立場としては弱い。寺内の問いかけに、杉山は慎重に言葉を選びながら短く答え、組んでいた腕を解くと、視線を陸相に向けた。
戦傷は軍人の風貌に何かしら威厳を与えるものだが、日露戦争中に砲弾の破片の直撃を右瞼に受けた杉山は、顔に力を入れると左顔だけが見開かれる。一種の異相なのだが、林や寺内などには見慣れたものであり、これという反応はなかった。杉山は咳払いをして続ける。
「お忘れになっていただくと困りますが、先の上海での6個師団という数と質を、そのまま現段階でも確保出来るとお考えでしたら、それは難しいと言わざるを得ません。朝鮮半島の2個師団を除けば、あれは大演習を名目に、相当無理をして人員と物資を集中的に集めた結果であります」
「総監の失言をかばうわけではないが、国内の師団(GD)長や、部隊の高級参謀に管理、あるいは育成能力に長けた人材を当てるように手配はしているが、実戦部隊を指揮する大隊長や中隊長は2年や3年で育つものではない。先の2・26以降の人事規定を見直してでも予備役に編入した士官や尉官を呼び戻さないことには、24個師団すべてを戦時編成に移行させる、あるいは以降可能な体制にすることは困難だろう」
暗に粛軍人事で定められた各種の人事基準の見直しをする気はあるのかと問う杉山と寺内に、林はネクタイを緩めながら応じた。
「予算一つとっても、国民からの信頼回復は依然として陸軍の最優先課題であることに変わりはない。無論、ソビエト極東軍と満蒙国境及び朝鮮半島の関東軍・朝鮮軍の戦力との対比を考えるのなら、現状において日本が極めて不利だとする参謀本部の見解を私は支持する」
「理解と支持をされても。予算がなければ話にならんだろうが!」
杉山が何かを言う前に寺内が食い気味に反論する。昭和10年(1935)の段階でソビエト赤軍の極東軍の兵力は約25万前後と推定されており、日本陸軍の総数に匹敵する数であること、また戦時編成の朝鮮軍2個師団や関東軍含めて大陸と朝鮮半島に展開する日本軍は約8万前後でしかないことは、この場にいる全員にとって周知の事実である。あの傲岸不遜な石原莞爾(参謀本部作戦課長)の顔面が蒼白となった数字であり、満洲内陸部に赤軍を誘引して叩くという小畑敏四郎参謀次長の対ソ作戦案に、関東軍の一部将校を除いて特に反対が出なかった理由でもある。
無論、これは満洲国境付近を戦時になれば一時的に切り捨ているということであり、政治的な理由からこれに反対した満洲組(満州事変に参加した将校)らの多くは軍を追われた。それ以外にまともに戦える方法がないのだからある意味当然なのだが、満洲国務院総理の張景恵としてはそれを当然受け入れられず、日本の満洲防衛義務負担を定めた「日満議定書」を根拠に何度も防衛義務についての確認を求めている。こうした日満の「外交」問題はもとより、陸軍にとって目下の課題はどうすればこの危機的な数字を明らかにせずに、必要な軍事費に議会と国民の了解を得るかであった。
そんな時に2・26で陸軍は日本国中の嫌われ者と成り果て、陸軍としては信頼回復のために粛軍という形で自分の肉をそぎ落とすような真似をせざるをえなくなった。まもなく3年が経過するが、依然として戦力比は極めて日本に不利な状況が続いており、先の杉山総監失言問題を見る限りでは、第2次上海事変の勝利も「簡単に勝ちすぎた」「相手が弱兵の支那兵」ということもあって陸軍の信頼回復につながったわけではない。
満洲国の防衛義務負担と、大陸沿岸部の治安維持活動という重荷を抱えながら、対ソ戦にむけた装備の近代化。予算がいくらあっても足りるものではないが、概算要求の根拠を軍機を理由に説明を突っぱねれば「予算獲得のためのデモンストレーション」とされるし、具体的な戦力比なり数字を明らかにすれば、ソビエトの諜報機関に手の内を明かすことになりかねないと陸軍省と参謀本部の情報部門からの猛反発が予想される。三長官にとっては頭が痛い話だ。
「陸軍の人事関連の予算拡充及び、装備品の近代化に関しては各党の理解も深まりつつあることは間違いないのだ」
「理解が深まったから、どうだというのだ」
「参謀総長の懸念は理解するが、装備の近代化も人材育成も直ぐには成果は出るものではない。一時的な予算ではなく、恒常的かつ段階的な確保こそ重要であると陸軍省としては考えている」
「ふむ」と寺内が鐺で床をひとつ叩く。伯爵総長は短気ではあるが、道理の理解出来ない愚物ではない。すかさず小畑次長が寺内総長の耳元で一言二言囁く。林陸相の後ろには林桂陸軍次官が立ち、その横で小柄な後宮淳(陸士17期・陸大29期)軍務局長が、これまた小さく頷いているのが、杉山の目にとまった。共に管理能力に定評があるが、前の人事局長である後宮は粛軍人事の中、ありとあらゆる立場の人間からの怨嗟の声を一身に集めながら、高級人事のやりくりに頭を悩ませた人物だ。元々、人がいないのにそれを奪い合ったのだから、誰が人事局長でも恨まれただろう。
もっとも後宮は自分の悪評を冷笑して気にしないという性格なので、誰も同情しなかったが。
「とにかくブリュッセル全権団からの報告について検討したい。揚子江沿海部、あるいは華南の治安維持活動に関しては英仏とポルトガルから特に要請があった。先の上海のようなことが起これば、連合軍-つまり上海に設置することになる連合国軍司令部に対して出動を要請したいということだ。北平に関してはイタリア軍が共同での軍司令部を提案してきている」
「イタリアは無視しても構わんだろう」
「そういうわけにもいくまいよ」
寺内の皮肉混じりの冗談に、こちらも林が苦笑しながら応える。
北清事変(1900年)と翌年の北京議定書で、戦勝9カ国は当時の首都である北京(現在の北平)郊外への駐屯権を確保した。現在でもその権利を保持しているのは日本とイタリア王国の2カ国である。先の日本軍と中国国民政府軍との盧溝橋における軍事衝突でも蚊帳の外であり、一体何をしているのかと日本陸軍の物笑いのたねとなっていた。
「常駐を拒否して困った時には守ってくれとは、いささか虫が良すぎるだろう」
「参謀総長、これは考えようによってはむしろ好都合ではないか。仮に現地の市当局が要請をためらって死者が出た場合、あるいは要請をしても間に合わなかった場合。どちらでも責任は連合軍司令部にはないと言うことが出来る」
「大臣、それはいくらなんでも」
「その後に駐留してほしいという要請があれば、連合国軍司令部で検討することになるだろう。しかし利害が交錯する中、多国間で意見を調整するのは難しいだろうね」
潔癖さのある寺内は、生ごみの腐ったにおいを鼻先に突きつけられたような表情で、その発言をした林の顔を見返した。町内会が頼りにならないのなら警察組織に袖の下を渡せというに等しい。あるいは自分で火を着けないだけましかもしれないが、沖仲仕あがりの任侠組織のやり方にも思える。
「遠くの親戚より近くの他人だよ」という総理の発言に、寺内がより一層、顔面をしかめている間に、杉山が口を開く。
「総理、その前に確認しておきたいのですが。最も現場から近い日本が連合国軍の主力になるのは理解します。その司令官が日本になるのも道理でしょう。ですが、これでは軍の負担が大きすぎます。朝鮮半島の2個師団の即応体制は解くわけにはいきません」
「現行の上海派遣軍を拡充し、3個師団で輪番制。平時から即応体制への移行、即応体制での訓練、派遣軍として大陸への展開。3×3で9個師団、朝鮮半島2個師団も同様に考えて2×3の6個師団。6+9で15師団。現行は24個師団体制なので、これで残りが8個師団…どうだね?」
このくそ禿げ、兵士を何だと思っているのだ、九九の覚え文句ではないのだという罵倒が喉元まで競りあがったが、杉山はそれを飲み込む。平時編成の師団はそもそも教育訓練が主要任務である。渡辺前総監あたりの入れ知恵であることは明らかであったが、杉山はあくまで総理兼陸相(外相も兼任)からの提案として受け取り、それに応じた。
「澳門や香港に関しては?」
「上海派遣軍を拡充し、該当地域での有事の場合は、まず海軍の支那方面艦隊の第3艦隊とシャン陸、あるいはイギリスの支那艦隊に出動してもらう。状況に応じて師団を派遣し、あけた穴は輪番制を前倒しする」
「しかしシャン陸は精々が3連隊、旅団程度の規模です」
「現在海軍において規模の拡充を進めているそうだ。第3艦隊司令部一同、野蛮な陸軍に負けてはいられないと張り切っているそうだよ。装備品や訓練への協力は固辞されたがね」
あははと笑う林に、大臣室内の高官や将校らが不穏な視線を向けるが、当人は「わが陸軍も航空総監部には海軍の手を借りずともよいと米内さん(米内光政海軍大臣)に言ってやったがね」と言ってのけた。杉山としては、この場に東條英機・航空総監(陸士17期・陸大27期)が地方視察中でこの場にいないことに安堵していた。あの神経質な男がいればまた面倒なことになったことは想像に難くないが、むしろいない時を見計らってあえて発言したのではないかと、杉山は胡乱な視線を陸軍大臣に向けた。
「とりあえず半島を入れて5個師団。後は天津軍の増強だな。12ヶ月を3分割すれば4ヶ月。後方で人事異動を行い募集と動員をかけ、部隊を再編成するのに4ヶ月、教練と訓練に4ヶ月、計8ヶ月を内地で、外地に4ヶ月。どうだね?各師団の拡充もこれなら支障なく可能だろう。何とかならないか」
「平時ならそれでよいかもしれませんが……」
こういう場合の林は思い付きを話しているようでいて、組織の要所や根回しは完了していることが多い。後宮軍務局長などの反応を見る限り、少なくとも局長クラスはおさえているのだろう。杉山はその巨躯に似つかわしくない緻密な頭脳を回転させながら、その場で可能な教育総監部としての指摘をした。
「仮に……あくまで仮定としての話ということをご理解いただいた上で、聞いていただきたい。ソビエト極東軍との戦端が開かれた場合、莫大な戦死者と負傷兵が出ることが予想されます。そもそも現在の陸軍士官学校卒業生の偏在も、大幅な欠員と戦死者の出た陸士19期以降、20期と21期で大量採用をした結果、組織としての、一種のゆがみが出ているのです」
「それは現状でも続いているというのが、教育総監部としての見解だな」
杉山は苦い表情でうなずく。
あえてこの場で付け加えなかったが、山梨半造と宇垣一成の陸相時代におこなわれた2度の軍縮の結果、士官学校の規模が大幅に縮小されたことも、その傾向に拍車をかけた。人事体系は理想としてはピラミッドが望ましいが、結果的には独楽のように先細りとなっている。軍近代化の予算のために師団や連隊ポストが廃止されたため、中長期的には軍人のポストが失われただけでなく、動員計画への支障と教育任務に支障をきたす結果にも繋がった。
無論、宇垣大将としては軍近代化の予算を緊縮財政下でひねり出した苦肉の策と反論するだろう。若槻元総理は「骸骨が大砲を引く」と軍事費拡張を批判したが、杉山からすれば骸骨どころか大砲(おまけに弾数制限あり)しかないと批判したいところだ。
これで宇垣長期政権が続けば組織として歪まないはずがなく、中堅若手に根強い宇垣元陸相への警戒論も、その点だけは決して的外れなものではない。宇垣は軍縮にあわせて行った人事で自分に敵対する、あるいは潜在的な競争相手を予備役に編入し、その配下も同じく地方へ飛ばしたりした。反宇垣派や良識ある中間派からすれば、人事を捻じ曲げることで自分の派閥による陸軍の独占を図り、同時に政党に媚を売ったと受け取り、こうした潜在的な怒りが荒木・真崎派(皇道派)の台頭を後押しする結果に繋がる。宇垣派として自身も地方に飛ばされながらも、皇道派と政治的に妥協することで中央に返り咲いた杉山としても、他人事ではない。
「つまりは予算だ。予算がないのがいけない」
林はわかりきったことを2度、繰り返した。「だから、それを引っ張ってくるのが貴様の仕事だろう」と寺内が鐺で床を突くが、林は「しばらく」とでも言いたげな格好でそれを制して続けた。
「諸君らも十分に痛い目にあっているので承知していると思うが、民政党執行部は、幣原外交の後遺症が残っている」
「あの腰抜け外交の後遺症がな!」
「まぁ、寺内総長。最後まで……陸軍は信頼出来なくても、英米との協調という言葉に弱いのが民政党だ。永井文相ら中堅若手の大陸積極派は、干渉を強めたいと考えているし、もとより積極派の政友会でも同じ考えの人間が多い。共通しているのは大陸との交易拡大ぐらいだろうが、肝心の治安を維持する能力が南京政府にはない。どれもこれも陸軍の概算要求にとっては好都合だとは思わんかね」
「総理、それは矛盾しておりませんか」
杉山が身を乗り出して応じた。民政党内閣期の幣原外交は親米ではあっても反英であり、かつ外務省が統制出来ない軍事行動を蛇蝎のごとく嫌った。大陸積極派とした民政党の永井派や政友会にしても内部はバラバラであり、陸軍の主張に理解をもつものばかりではない。特に政党勢力は選挙もにらんで健康保険法改正など社会保障の充実に得点を見出そうとしており、陸軍予算の拡大に賛成するとは限らない。そう指摘する杉山に、林は自らの口元を指すと、何故か舌を出した。
「ここは英国流に三枚舌といこうではないか。対欧米協調論者には連合軍編成への協力を、大陸積極論者には日本の影響力拡大という実利を、人権論者や大亜細亜主義者には難民保護の重要性を、陸軍の跳ね返り共には、予算がほしければ、おとなしくしていろとね」
「それでは4枚舌ではないか」と寺内は呆れた様に声を上げた。
「巧詐は拙誠に如かずだ。下らぬ策謀に陶酔しているようでは、その足元すくわれるぞ。何ならその舌、引っこ抜いてやろうか」
「これでも努力しているのだが、中々如何して理解してもらえないのだな」
肩をすくめる林に、それは普段の言動に原因があるのではないかと杉山は考えたが、それを口にはしなかった。少なくとも士官学校での失言を早期に政治解決するように努力したのは総理官邸の阿部信行官房長官であることを承知していたからである(林ではない)。寺内は鼻を鳴らして続けた。
「実際に上海郊外の難民がどこまで増えるのか、参謀本部でも見当がつかない。現状で上海郊外に滞在しているとされる難民だけでも20万近い。市街地にも相当数の不法滞在者が流れ込んでいるようだし、治安の悪化も深刻だ。赤十字等を通じた救援活動も展開されているようだが、到底、数が足りていない。それに将来的にはシベリア経由でのユダヤ人難民にも対処しなければらない」
「無論その点も承知している」
林は必要以上に重々しくうなずき、外務大臣としての立場から答え始めた。
「駐スイス大使の杉原千畝を通じて、現在、ジュネーブの国際連盟本部にナンセン国際難民事務所の極東支部の設置を呼びかけている」
「……あれは確か組織改変で、ドイツ難民問題の事務所と合流するのではありませんでしたか?」
杉山の指摘に「新たな難民高等弁務官の事務所は、ロンドンだそうだ」と応じる林に、参謀総長と教育総監は顔を見合わせた。確かにロンドンは歴史的に大陸からの政治的な亡命者を受け入れてきた都市であるが、この段階でその極東支部開設を打診するか。舌の数では一時的にジョンブルを上回ったのではないかという杉山の視線に気がついているのかいないのか、林が続ける。
「ナンセン事務所は今年度のノーベル平和賞を受賞している。話題性としては十分だが、アヴェノル事務総長はどうにもこの問題では腰が定まらないそうで、事務次長のショーン・レスターを交渉相手としている。偉大なるナンセンの名前が消えるのは、連盟としても勿体無いと考えているのだろう」
ナンセンことフリチョフ・ナンセン(1861-1930)はノルウェー王国の冒険家であり外交官。先の欧州大戦(1914-18)後に、国際連盟難民高等弁務官として、旧帝政ロシア領内-ソビエト国内の捕虜を、赤軍相手の粘り強い交渉の末に、50万近く解放した名外交官だ。ウクライナ飢饉からの避難民救済などにも携わり、彼自身もノーベル平和賞(1922年)を受賞している。
ナンセン事務所は彼の死後に設立され、難民救済事業に携わったが、世界恐慌による資金欠如や各国での民族主義の台頭、そして故・ナンセンのような老獪な政治手腕と人道主義を兼ね備えた人物を欠いた事により、必ずしも満足できる成果を挙げているとは言いがたい。
「離脱国が相次ぐ連盟としては、少しでも存在感を発揮するには、故人の名前でも、連盟脱退国でもいいから、すがりたいというところか。まぁ、わが国が言えた義理ではないかもしれんが、ノーベル賞とやらの名声は日本国内では使えなくても、欧米の裕福なリベラル層には一定の効果があるだろう。こちらとしても利用出来るものは利用すればよい」
「名称はともかく、連盟組織をかませることで世界各国から難民救済事業の資金を集めると?」
「正当性は一つでも多いほうがいいし、日本の負担は少しでも少ないほうがよい。それに今回に関して言えば連盟とも利害が一致しているだろう」
「何よりナンセンの名前がつけばモスクワへの嫌がらせになる」という思惑が林の表情に透けて見えた。職務以外のことでは何も指摘しようとしない杉山を忌々しげに睨み付けて、寺内が口を開く。
「船頭多くして船山に登るに、なりはしないか?」
「寺内総長、そこはほら、渡辺さんだから」
「なら大丈夫だな」
即座に納得した寺内の素直さに杉山は苦笑したが、確かにあの底意地の悪い爺さんなら問題あるまいと彼自身も得心したが、次の林の言葉で3度、顔を曇らせた。
「難民問題に注目が集まるほど、陸軍としては予算要求をしやすくなる。対ソ戦のための軍備拡充も『難民保護』の大義名分を前にすれば、霞んでしまう。協調外交とやらがお好きな民政党も反対しづらくなるという寸法だな」
「そう上手くいけばよいがな」
しかめっ面という言葉がこれほどふさわしいものはないという表情をして、寺内は総理に切り出した。
「あの渋谷のニュース映画、三宅坂でも相当評判になっている。ドイツ国内の反ユダヤ暴動を時系列で追いかけ、最後の最後で肩を組んで大合唱というドラマ仕立てだ。あれではただでさえ燻り続けている反ドイツ感情にガソリンをぶっ掛けるようなものだぞ」
「参謀総長、まさか直接、渋谷の片田舎まで見に行かれたのですか」
椅子の肘掛に右肘をついて手の甲に顎を乗せて尋ねる林に、寺内は「部下からの報告だ」と、クスリともせずに続けた。
「難民保護も結構だが、自国民の保護を優先するべきではないかね。舌が何枚あろうと結構だが、貴様は中華民国の指導者でも、ドイツ国の指導者でもなく、大日本帝国の総理大臣だというのを忘れてもらっては困る」
「……承っておきましょう」
林は顎だけを動かして肯定の意を示した。
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- 近衛公爵の解放を求める対ドイツ緊急抗議大会のお知らせ -
日時:昭和13年11月27日(日曜日)午前10時-正午
場所:日比谷公会堂
問題は人種、宗教、政治思想ではない!
問題は人種差別にノーと考えるか否かだ!
人種平等を信じ、己の血潮が日の丸と同じく赤いと確信する者は来たれ!
(主催):近衛秀麿公爵の即時解放を求める11月27日国民大運動
(協賛):対独同志会・信州郷軍同志会・大日本生産党他21団体
- 11月26日の新聞広告より -
・ムスタファ・ケマル。近代の独裁者は勤勉じゃないと務まらないが、その中でも飛び切り勤勉。最後はほとんど討ち死に。いつもぎりぎりな状況で勝ち抜いてきた優秀な軍人であることは言うまでもないが、とにかく演説、演説、演説。それもラジオよりも直接民衆に語りかけるスタイル。イスラム政策や外資規制などで反ケマル運動が高まり、ついに暗殺未遂事件が勃発。その後、議会でぶっ続け6時間演説。最後の締めが上。演説はネットに転がっているので探してみれば出てくると思います。
・独裁を正当化する民主政治家という究極の矛盾だが、国家と民族への責任感、これまでの国家への貢献でそれを押し通した。んでこの後反対陣営を粛清して一党独裁確立。昭和維新の将校がモデルにしていたそうだが、少なくとも青年将校は国民を信じていなかった。戦後もそうだが、少なくとも国民なり有権者なりに語りかける努力をせずに自分たちの世界に閉じこもった革命勢力が勝てるわけがない。
・長々とケマルをとりあげた意図はというと。さてわれらが主人公は(ry
・寺内寿一。改めてまあ…なんというか。
・徹底的に陸軍の言い分。軍事はわからんので間違ってたら(ry
・いびつな人事採用と極端な締め付けを繰り返して、こうだんだんと組織としておかしくなっていった感じ。書ききれませんでしたが、下士官のインフレ人事も日中戦争のお行儀の悪さの原因だった気がする。
・ナンセン国際難民事務所。何せ第一次大戦の国境線があれなものだから仕事たくさんあるんだけど、景気苦しくなるとよそのところにかまってられないというのもよくある話。ロンドンに事務所を間一髪で移す。
・アヴェノル事務総長をいたぶる杉原千畝。
・ショーン・レスター。アイルランド人事務次長。史実じゃ最後の連盟事務総長だが…