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何も銑十郎元帥  作者: 神山
昭和13年 / 1938年 / 紀元二千五百九十八年
51/59

中野正剛の衆議院在職25周年記念式典における緒方竹虎挨拶 / 東京日日新聞 / 東京府東京市永田町 総理大臣仮公邸(日本家)/ 中央新聞(1938年11月20日)

「人生から返ってくるのは、いつかあなたが投げた球」


斎藤茂太(1916-2006)


 中野耕堂(正剛)代議士の林元帥批判は今に始まったことではありません。2・26事件直後に林内閣が発足した当初から「官僚主義的」であるとして林総理を批判していたという、筋金入りの反林派です。当時の2大政党である立憲民政党と立憲政友会に配慮した政権運営も、彼から言わせれば政権延命のための小細工であると手厳しいものでした。同じ官僚政治の権化とされる吉田総理を「人物である」と一定の評価をしているのに比べると「人間として決定的なものにかけている」とする、この国士政治家の元総理批判は、常軌を逸しているように思えるかもしれません。


 これを解説するためには中野耕堂の人となりを説明しなければなりません。中野君は多情多感の混血児です。熱血漢であり、不正と腐敗を憎み、誰よりも勇敢で国家権力ですら恐れない男は、しかし必ずしも言論の府たる政界においては成功したとは……本人を前にして言うのもなんですが、言えません(笑い声多数)…数々の思想を飲み込むだけの大気の持ち主ではありますが、あえて厳しいことを言わせていただければ、彼の熱しやすく冷めやすい精神は、彼を言論人として、そして政治家として大成させることを妨げたといえます。彼は言論界においても岳父たる三宅雪嶺先生を始め、頭山満先生や金子先生など多くの名士から愛されました。


 しかし言論活動への限界を理解した彼は、現実世界で直接自らの理想を実現しようと政治家を志します。犬養木堂(犬養毅)元総理や浜口雄幸、安達謙蔵君など多くの政治家の下を渡り歩きますが、誰も彼も中野君の雄弁家としての才能や性格を愛し、これを可愛がったものです。しかしこの悍馬を心服させるにはいたりませんでした。


 彼が常々批判しているのは有司専制の官僚政治であることは、列席者のご承知の通りです。憎悪といってもよいでしょう。官僚政治の否定、あるいはその弊害の是正は政党政治家に共通したものではありますが、中野君の特異な所は、官僚その人までも憎んでいることです。幼少期からの竹馬の友として付き合ってきた私は、個人攻撃になりかねない言動を何度もたしなめたものですが、彼は官僚的な行動や生き方をする人物は軽蔑されて当然であると、むしろボルテージを上げる始末。談論中において彼の口調が最も熱するのは官僚批判の時であり、生来の血に流れている不正義を憎む性質とあいまって、度々私を驚かせたものであります。


 彼が立憲民政党に所属していた時、浜口雄幸総裁が凶弾により倒れられました。その後、党籍を持たない幣原喜重郎外相が臨時総理代理となると、幣原代理は東京帝大卒の仙石(貢)や伊沢(多喜男)ら党外人とともに政治を行いました。この行為は官僚が党を乗っ取る行為であるとして、彼は誰よりもその非民主的なあり方を強く批判しました。彼が病状の浜口総裁に当てた手紙では「貴方を父とも思う」という言葉と同時に、浜口の友人である彼らの行為を、総選挙で民政党を選んだ有権者への裏切り行為だと痛烈に批判しました。彼は誰よりも筋を重んじた政党政治家でありましたが、しかし彼はその後、民政党を飛び出しました。


 彼は革命児でもあります。国内における現状の不正義-財閥専制や農村の疲弊、都市部と農村の格差、都市部での格差に怒り、その改革をしなければならないと本気で考えていました。最初は政党主義に殉じるかと思われた中野君は、伝統に基づく常識を尊ぶ議会政治では、その解決はあまりにも迂遠になりすぎ、遅すぎると考えるにいたりました。彼の不正義を憎む心が聊かの停滞も許さなかったのであります。官僚主義を憎みながら政党政治の限界に至り、彼は欧州流の国家社会主義を志向するようになりました。不正を正し国民経済を救うためという目的の前には、統制経済と自由経済という対立は、彼にとっては無意味な神学論争でありました。


 昭和12年から13年にかけて、彼は欧州を歴訪し、ドイツではヒットラー、イタリアではムッソリーニと会談しました。閣僚の経験もない政治家としては異例の厚遇であり、おそらく両国ともに、彼が何れは政権に参加すると考えていたのでしょう。私もそうなることを期待していました。当時、東西新聞社の社長であった私は、帰国後の中野君から独占取材を取り付けることに成功しました。彼はヒトラーとムッソリーニと面談した時の様子や、政治家としてのあり方、両国における国家改革の展開を熱心に語りましたが、同時に同じ文脈で第1次大戦のフランスの指導者であるクレマンソー元首相や、当時は失脚中であったチャーチル元蔵相の決断力も高く評価していました。


 彼は政治学者が細かく分類するような政治思想は、結局のところ興味がないのでしょう。現に戦後になっても、彼は独仏の両指導者は官僚主義に堕落したがゆえに敗北したと批判はしましたが、人物としての評価を変えてはおりません。その為に今でも一部新聞には「ファシスト」と批判されておりますが、私からすれば、彼ほどファシズムが似合わない政治家もおりません。自らの目と耳で直接判断した上で、人として尊敬に値するかどうか。その一点に中野君の評価の基準はあります。その意味において是々非々で相手を評価できる彼こそ、私は真のリベラリストであると評価したいと思います。私としては与党の政治家として大成した彼の姿を見てみたかった思いもありますが(笑)


 彼が敬愛しているのは、大楠公(楠木正成)と西郷南洲(西郷隆盛)であることは有名です。私は以前、酒の席で中野君に「城山で死にぞこなった南洲翁、あるいは湊川で生き延びた大楠公」と評したことがあります。同席しておられた野田俊作(貴族院議員)君や長谷川代議士(峻)…今日もいらっしゃいますが(笑い声多数)は顔を真っ青にしておられましたが、当の本人は闊達に笑って「そのとおりだな」と気恥ずかしげに左足の義足の付け根のあたりを掻いていました。この25年、彼はその不自由な足を引きずりながら官僚主義を批判し続け、常に国民とともにあり続けました。私は長い友人として、そして1人の有権者として、この愛すべき一言居士の毒舌が国会議論を活性化させることを、期待します。


 長くなりましたが、これにて乾杯の挨拶と代えさせていただきます。それでは……中野正剛君の政界における益々のご活躍を祈念したしまして、乾杯!


- 昭和30年(1950年)、福岡県の振武館で開催された中野正剛代議士の衆議院在職25周年記念式典における緒方竹虎(東西新聞社顧問)の乾杯挨拶 -



- 蓑田氏「文部省と財界の圧力があった」と告発会見 -


 原理日本社の川合貞一会長(慶應義塾大学亜細亜研究所顧問)が、内務省に団体解散届けを提出したことをうけ、同団体を主催していた前代表の蓑田胸喜氏(国士舘専門学校教授)は国士館専門学校の大講堂で緊急の記者会見を開き「これは政治弾圧である」と怒りをにじませた。同団体は蓑田氏が慶應義塾大学在職中に設立した精神学研究会が源流であり、同大学の右派学生団体の中核団体として活動しながら、対外的な活動を強化。大正14年(1925年)に現在の組織となった。


 解散に反対していた蓑田氏によれば、川合会長の「団体設立当初の目的をおおよそ達した」とする理由は到底納得出来るものではなく、容共赤化意思の廃絶に向けた運動は途上であるという。これを裏付けるように、同団体が中心となり8月に結成されたばかりの帝大粛正期成同盟は、平賀譲東京帝大総長への赤化思想取締りの申し入れを行ったばかりであり、11月には日比谷公会堂での大規模な大会を予定していた。


 蓑田氏の言うように団体解散には不可解な点もある。帝大粛正期成同盟の申し入れに対して、平賀総長が「東京帝大の関係者でもない蓑田の申し入れは、大学自治への介入であり断固として許容出来ない」と反論したとされる。平賀粛学による同大学経済学部の正常化を急ぐ文部省が、直属の国民精神文化研究所の嘱託研究員でもある川合会長に圧力を掛けたのではないかとする見方だ。


 また蓑田氏は「川合会長と三井財閥との間で密約があったのではないか」との見解を述べた。慶応義塾大学は三井財閥との関係が深く、同大教授である川合教授に、研究資金引き換えに解散をする密約を結んでいたのではないかというものだ。三井財閥出身の池田成彬氏が現内閣の内閣参議である。反共かつ超国家的な愛国主義を掲げる原理日本社の理事には荒木貞夫元陸相ら、いわゆる皇道派系の人物が理事に名を連ねており、現内閣にとって疎ましい存在である。故に文部省ルートと財界ルートから圧力をかけたのだと蓑田氏は主張するのだが、川合教授は「ありえない」と蓑田氏の説を否定した。蓑田氏は今後も「滅共のための容共赤化分子の排撃活動」として、国際反共連盟の機関紙である『反共情報』を中心に活動を継続すると表明した。


- 国際反共連盟、臨時総会で小磯國昭氏を総裁に選出。総理に申し入れ -


 19日、国際反共連盟は横網町公園内の震災復興記念館において臨時評議員総会を行い、前朝鮮軍司令官の小磯國昭氏(陸軍大将)を総裁に選出した。同団体は昨年4月に近衛文麿公爵(当時)を総裁にして結成されたが、近衛氏辞任後は総裁空席のまま集団指導体制が続いていた。井田磐楠理事長(貴族院議員)は評議員全体の決議によるものと説明したが、顧問である平沼男爵(枢密院議長)や、田中伯爵(元宮内大臣)の推薦によるものと見られる。


 総裁選出後、小磯氏は記者団との会見に応じ「反共国際連合など海外の反共国際組織とも連携し、国際的なコミンテルン勢力との戦いを続ける」との初心を明らかにした。また小磯大将の要請により荒木貞夫(元陸軍大臣)が評議員に名を連ねた。元皇道派である同男爵の入会には会内部から慎重意見があったが、小磯大将がこれを押し切ったと見られる。


 小磯大将はその後、総理官邸で阿部信行官房長官と会談し、同団体評議会が決議した要望書を提出した。その内容は①国際的な反共連携の強化、②国内における過激思想人物の取り締まり強化、③国民運動としての反共運動の展開からなり、阿部官房長官は「内閣において検討したい」と前向きに取り組む姿勢を明らかにした。


 内閣は次期通常会に思想犯保護観察法を提出する意向を固めており、この中で容共思想を対象とするかどうか、与党の政調会において検討と調整が進められている。同法案の制定は平沼枢密院議長への配慮ともされるが(省略)-


- 東京日日新聞(11月20日) -



 日当たりの悪さからか、それとも元は池だったという立地ゆえか、総理官邸敷地内の南にある木造2階建ての公邸は、新築して3年も経過していないのに幽霊屋敷のような陰鬱さを政府関係者や官邸職員にあたえている。屋敷の主は泰然自若としたもので、平気で居住している……というわけでもない。


 現に総理は、いささか官邸から距離はあるが荻窪の旧近衛公爵家別邸である荻外荘を総理公邸として借り受けられないかと、阿部官房長官に折衝を命じたばかりだ。日用衣服やハレの日に着用するはずの着物にカビが生えても我慢に我慢を重ねていた総理夫人も、末の娘の布団にカビが生えたことで、とうとう堪忍袋の尾が切れた。金沢第一高等女子を卒業した才女であり4男4女を育て上げた賢夫人から、13歳の娘に対する責任を家長としてどう考えるのかと、理詰めのひざ詰めでゴリゴリとやられては、さしもの総理も降伏せざるを得なかったらしい。


 と、そこまで考えてから、総理秘書官の久保田貫一郎(外務省)は首を振り、警護の警官と挨拶を交わしながら総理公邸の玄関を潜った。内閣参議の高橋是清に池田成彬、同じく内閣参議で民政党総裁の町田忠治、出身母体である陸軍の南次郎(朝鮮総督)や、小磯につながる陸士12期人脈といったうるさい連中に、宇垣派残党、宮中とタッグを組む海軍、頑迷な平沼枢密院議長、そして老い先短いが気もさらに短くなった興津の西園寺老人……久保田が今ざっと思いつくだけで、今の総理の小姑役はこれだけ数え上げられるのだ。


 ひょっとすると自分の岳父である石井子爵(石井菊次郎元外相)も、その中の1人かもしれない。総理というよりも婿養子のようだが、それでも平気の平左と問題を先送りにするのも器量の内かと考えて、久保田は再び首を振った。


「奥様、総理は」

「応接間で谷(正之・外務次官)さんとご一緒です。先ほどまで来客と面会しておりましたので」


 久保田の問いかけに加賀士族の出身である初治夫人が、凛とした態度にふさわしい明快な口調で応じる。しかしその眉間には皺が縦にはしり、不機嫌さがにじみ出ていた。


「……失礼ながら、その先客は何方かはわかられますか」

「あの前科者の大川とかいう、頭の螺子が外れた男ですよ!」


 食いつき気味に返されたその名前に、久保田は思わず苦笑した。大川周明なる異端の学者は、かつては国家革命を唱える北一輝と並ぶ革新右翼団体の領袖であったが、釈放後は林鉄十郎総理の支援を受け、海外と日本を行き来しながらムスリム研究や社会学に没頭している。いわば総理の私的顧問といった位置付けであり、つい先日もハンガリーから帰国すると、総理官邸で山のような勲章の数々を胸にぶら下げて総理に自慢していた。


 居合わせた久保田は、官僚組織の枠に当て嵌まらないであろう怪人の独演会に辟易とさせられたものだ。久保田は上司には悪いと思いつつ、大川とすれ違いとなった事を感謝した。


「私は政治はわかりませんが、あんな素っ頓狂な人が国政において何の役に立つというのでしょう。新しい世界線がどうとか、運命石がどうとか。少なくとも娘の教育に悪影響だということだけはわかります。久保田さんからも主人に言ってはいただけませんか」

「……総理には総理のお考えがあると思いますよ」

「久保田さん、最近は娘が大川さんの真似をしだして困っているんです!えるぷさ何とかとか、機関がどうとか!この間には急に右手を押さえたかと思ったら、緊急要請がどうとか叫びだして大変だったんですからね!」


 憤懣やるかたないといった調子で語り続ける夫人に、久保田は確かに教育にはよくはないなと引きつった笑みを浮かべる。ぷりぷり怒る夫人をどうにかなだめて一礼すると、逃げるが幸いと足早に応接間へと向かった。庭から「ら、そうだよ!すき焼き大好き!」と総理に食事をたかる大川の口癖を真似する少女の声が聞こえた気がしたが、久保田はそれも当然のように無視した。


 どこか靴下を通しても湿っている気がする木張りの廊下をせかせかと歩き、目的の部屋の前につくと、久保田は障子越しに声を掛ける。返事を待ってから部屋へと入り、そして総理と谷次官の顔を確認すると、座卓の上にあるものを見て絶句した。


「……失礼ですが総理、それは一体なんですか」


 床の間を背にして座布団の上に座る和装姿の林は、部屋の中央にある座卓の上に巻き取り型のトイレットペーパーのような分厚い書簡をでんと広げていた。外務次官の谷正之は、その地蔵のような顔にいささか疲れた色を浮かべて、総理の正面に胡坐をかいて座っている。


 老眼鏡とルーペを持ち替えながら、クルクルと器用に読み進めていた総理は、久保田の問いかけにその手を止めることなく答えた。


「赤尾先生からの激励文だよ」

「……あぁ、建国会の」


 赤尾敏という異端の(自称)政治家の名前で、久保田にはその書簡の内容におおよそ見当がついた。


 赤尾は大正期を通じて社会主義者として活動した後、運動にかかわる人物の言動に失望して民族系の国家社会主義に転向したという、よくあるタイプの民族主義者である。行動力も抜群で、左派系団体の勢力誇示の場となっていたメーデーに対抗するための建国祭を企画立案。これを平沼騏一郎(当時枢密院副議長)の国本社に持ち込み、その全面的な支援を受けて昭和元年(1926年)のメーデーにぶつける形で全国規模で大々的に挙行した。国本社の別同部隊として利用された側面もあったが、赤尾自身は意気軒昂たるもので、そのまま組織委員会を建国会として再編すると、頭山満や上杉慎吉など名だたる名士に、この成果を元に自らを積極的に売り込み、または左派勢力を徹底的にこき下ろすことで知名度を拡大。平沼が国本社を解散(1936年)して、建国会から手を引いた後も、その一部を引き継いで(乗っ取って)政治活動を続けている。


 民族主義者としては、その手法や経歴も含めて典型的な存在とも言える赤尾であったが、この人物が特異なのは、その外交姿勢にある。赤尾は民族運動家としては珍しく徹底的な親英米派なのだ。


 多くの右翼団体が明治の対外硬派運動にその起源をもち、大亜細亜主義や反植民地を掲げることで、被植民地との連携や欧米列強の植民地政策を痛烈に批判する中、赤尾はそのスタートがロシア革命後だったことも影響していたのか「コミンテルンと戦うには英米と組む以外に道はなし」と主張を展開。反英運動家から「ユニオンジャックに魂を売った」と批判されると「俺の旗は日の丸だ、この赤旗野郎」と殴りかかるといった始末である。


 「反共のためには悪魔とでも手を組む」という点においては、多くの民族主義者が活動のための活動家に堕落、あるいは機会主義的な世間の風潮に沿うのとは対照的である。林は久保田にも座るように促すと、書簡から顔を上げた。


「赤尾先生からすれば、今回の日英経済交渉の妥結は持論が証明されたと有権者に誇示する絶好の機会だからな。次の通常会では他の法案-それこそつまらぬ銭勘定の国民健康保険法案など差し置いてでも、これを何としてでも両院で可決することで国家としての意思を全世界に示すべきだというお考えを、この私に伝える為に、こうして長々と書簡を送りつけてこられたというわけだ」


 「無論、健康保険法案をないがしろにすれば、今度こそ私の首が今度こそ飛んでしまうがね」と、林は右手で自分の首を掻き切るような仕草をした。「3度目の正直」を成功させねば「仏の顔も3度まで」となりかねないことは、すでに総理官邸では共通認識だ。その為にジョーカーともいってもよい岸信介を、更迭から半年も経過せずに大臣として再登板させたのだ。久保田は谷次官の横に座ると、すすめられるままに足を崩した。


「第2次上海事変以来、反英運動は反ドイツ運動に主役を奪われてしまいましたからね。赤尾さ…いや、赤尾先生としては相手がいないと、独り相撲になりかねません」

「うん。それに反ドイツ運動に加担していないが、親ドイツでないというのもいい。人間、好きか嫌いかを抜きに物事を判断するのは困難だが、一貫した反共という背骨があるからこそ、今のナチス・ドイツを客観的に判断出来る。戦略目標に戦術を従属させられるという点では、赤尾先生は盆百の自称・政治活動家とは比べ物にはならんよ」


 クルクルと書簡を巻き取りながら林は谷と久保田に笑いかける。公職についた経験が一度もない23歳も年少の政治活動家を、総理は一度たりとも「政治家」として扱ったことがない。その上でわざわざ先生と敬称をつけて呼ぶあたりに、この石川県人の性格の悪さが見て取れる。


「中野(正剛)君や蓑田教授は、私に手厳しいからねえ。売国外交だの、ユニオンジャックの片棒を担ぐだの。読売の馬場恒吾君なんか、日曜日になる度に私の悪口だ。清沢(洌)君や、東洋経済新報の石橋(湛山)さんは、大陸政策でけちょんけちょんだし。私のやることを頭から尻尾まで評価してくれるのは、それこそ赤尾先生ぐらいのものだよ」


 「もっとも、悪口を言われる内が華というものかもしれんがね」とカイゼル髭を揺らしながらあははと笑う総理に、久保田は総理夫人に向けた時と同じような曖昧な笑みを返した。上司である谷は無言で何も答えない。林は赤尾先生への返書を書くためか便箋を取り出しながら、ここ最近毎日のように外務省関係者に尋ねていることを問うた。


「それでドイツ側の対応に変化は?」

「取調べ中の一辺倒で変わりません。即時釈放はおろか、近衛(秀麿)公爵との面談要請も拒否されております」

「で、あろうな。私でもドイツ側の当局者であればそうする」


 谷の報告にゆっくりとした口調で答えるように努めてはいたが、再びその髭をねじることで気を紛らわせようとしているのが久保田には見て取れた。以前読んだ行動心理学の本には髪を弄る行動は自己愛の表れと書かれていたが、髭を弄る行為もそれに当てはまるであろうかと、久保田はいささか見当はずれなことを考えていた。


「スペインのフランコ政権承認、ICPC(国際刑事警察委員会)の委員長ポストをドイツ警察に認めるという、こちらからの提案に対する回答は?」

「ありません。また相手側の対応に特段の変化はないようです。やはりこちら側がドイツ側からの防共協定の呼びかけを黙殺していた件に関して、外務省-特にリッベントロップ外相が、相当不満を持っているようです。また今回の暴動に関する事態収拾をヒトラー総統より委任されたゲーリング空相が政権内部における主導権を確立するために」

「この一件を利用しているか」


 事務次官の報告を途中で奪うようにして続けると、林は腕を組んで天井を睨んだ。防共協定の呼びかけはドイツ政府-特に今のリッベントロップ外相が就任してからは何度も呼びかけられていたが、林内閣は意図的にそれに対する対応をはぐらかしてきた経緯がある。満洲国承認を始め幾度となくアプローチが続けられてきたが、第2次上海事変における国防軍の対応を理由に、これを先延ばしにしてきた。


 日本側としては反共協定を持論である対英強硬外交に利用したいというリッベントロップ外相の思惑が透けていたことも理由である。久保田の岳父である石井元外相も「放置しておけばよい」と林内閣の対応を支持していた。しかし完全に拒否することは対ソ外交を考えれば不可能であるのも事実である。


 張鼓峰での軍事衝突はわずか3か月前の出来事である。内蒙古への進出を赤軍が強めている現状ではドイツ側の提案を完全に拒否することも出来ない。日本側の意図的なサボタージュにしびれを切らしたドイツは、イタリアと2国間で防共協定を締結(1937年)したが、本来であればソビエトを東側から牽制する役割を果たすはずの日本が参加しなければ戦略的な意味合いは半減する。


 ついにドイツは満洲国承認カードを切ったが、日本側は日英間での経済関税交渉に着手し、リッベントロップ外相のメンツは丸つぶれとなる中、ドイツ国内で発生したのがユダヤ人を対象とした官製暴動だ(水晶の夜)。


「東郷大使からの報告によりますと、ナチス党政権内部での主導権争いにより引き起こされた可能性が極めて強いということです。本件を主導したとされる宣伝大臣はユダヤ人問題の責任者から解任され、5カ年経済計画の責任者であるゲーリング元帥が指揮をとっています」

「対英外交穏健派のナチス政権高官か。モスクワの穏健派と何の違いがあるというのか」


 珍しく皮肉を口にした林総理だが、その口調はいささか投げやりなものである。近衛公爵拘束の一件はすぐさま総理官邸に伝えられたが、BBCのニュース映画に関して官邸において最初に反応したのは、そうしたことに最も疎いとされる総理自身であった。首をかしげる官邸幹部であったが、件のフィルムを取り寄せて確認した幹部は、その理由をすぐさま理解した。対ドイツ外交に不満を持つ右翼団体の格好の攻撃材料になることは目に見えていた。


国際的には未だに反乱軍として扱われることの多い独伊の支援するスペインのフランコ政権の承認、オーストリー併合でナチスドイツが強制的に接収した国際刑事警察委員会の委員長ポストを、保安警察(Sipo)のラインハルト・ハイドリヒ長官の就任を認める日本側からの申し入れは、慎重論の根強い外務省や、政治警察に刑事警察を従属させてよいのかという内務省からの不満を、総理官邸が抑え込んで提案したものだ。それもこれも近衛公爵の早期解放のためのものであったが、回答すらないとは…総理からすれば面子を潰されたも同然なのだが、その顔色には怒りよりも困惑の色が強かった。


「……省内を説得するのに白上(佑吉)次官は苦労したそうだが、ドイツには関係ないといえばそれまでだな。つまりドイツの政権内部における権力闘争なり序列闘争に決着がつかない限りは、何をしても無駄だというのが東郷君の見解か」


 谷がまたもや無言で頷くと、林は渋い表情で再び腕を組んだ。ゲーリング空相は対英穏健派として知られてはいたが、だからと言ってリッベントロップ外相のメンツがつぶれたことは喜んでも、日英関係の改善を歓迎するような人物ではない。スペインとICPCのカードを切るタイミングを誤ったことで、近衛公爵の一件がこちらのアキレス腱であることは相手も理解したはずだ。カードを切るのが早すぎたか。それとも相手を焦らしすぎたか。どちらにしても…久保田は林と谷の表情をうかがう。


「……私の責任だな。東郷君には責任はない」


 久保田としては答え様のない設問であり黙り込むしかない。自分の横にいる谷正之も事務次官として、スペイン問題で省内の慎重意見を押し切っておきながら東郷大使に責任を押し付けるような外務大臣であれば、何らかの考えがあったとしてもおかしくはないが、無論この場において久保田がそれに触れることもない。


 林も谷や久保田の回答を期待していなかったと見え、腕組みをとくと「しかたあるまい」と、自らの膝をパシン!と叩いた。


「東京からあれこれタイミングのずれたことを命じたのが誤りであった。東郷大使にタイミングも含めて解放交渉を任せよう。妥協のタイミングを急く様なこともしない」

「しかし総理、それでは例のニュース映画の放映により、国会が混乱するのではありませんか」


 いささか秘書官としての権限を逸脱していることを自覚しながらなされた久保田の指摘に、林はわずかに黙り込むが「しかたがあるまい」と、それを追認して見せた。


「何れは放映されることだ。隠していても仕方がないし、近衛公爵の行動は英雄的なものだ。それを政府として批判するわけにもいかない。それに批判されることは慣れている」


 林はにやりと笑いながら髭をねじりつつ嘯く。危機感に乏しいというか、腹が据わっていると評価するべきか。久保田には判断しかねた。谷は相変わらず感情を顔に浮かべることなく、何を考えているかわからない。


 林は「それに」と便箋に書きかけの下書きを脇によけると、座卓の上に中東欧の地図を広げた。Československoチェコスロバキアと赤いインクで書き込まれた国は、今はもう存在していない。


「それにだ。ドイツとしても今はこちらのほうが忙しいだろう。チェコスロバキア解体を軟着陸させねば、英仏だけでなく欧州全体でドイツのメンツは丸つぶれだ。大川君によれば、ハンガリー政府もウィーンの国際委員会による調停案には不満だというし」

「……大川さんですか」


 その名前を語る次官の口調に、初めて感情の色が見えた。前ハンガリー公使であった彼ですら、ハンガリー滞在中の大川周明の目的は不明であるという。しかしこの奇人はハンガリー王国首相顧問なる肩書きを得て、なぜか戦争記念メダルを直々に摂政から与えられる栄誉まで得ていた。文民としての貢献だというのだが、その理由は誰にもわからない。重光門下の三羽烏に数えられ正統派の外務官僚として歩いてきた谷からすれば、そのような人物を外交に関わらせること自体が大きな不満だろうが、少なくとも直接の上司である林にそれを指摘するようなことはしない。


 先の大戦後に二重帝国を解体して発足したチェコスロバキア(1918年)は、周辺国から、本来であれば歴史的関係性に乏しいものまで領土を獲得しており、戦後のベネシュ外交による強硬姿勢もあって、すべての周辺国から嫌われていた。ズデーデンはドイツの軍事力により「解放」され、ポーランドが要求していた北部のテッシェンは人民投票によるポーランド編入が確実視されており、チェコスロバキアあらため、チェコ=スロバキア共和国の臨時政府もこれを渋々承認している-次官である谷の口から語られるこれまでの経緯を鉛筆で地図に書き込みながら、林は口を開いた。


「問題は旧南スロバキアというよりも、スロバキアそのものか」

「10月のウィーン裁定は文章だけは整っておりますが」

「実質が伴っていないし、強制力も今のところはない」


 手にした鉛筆でチェコスロバキアの地図に書き込みを入れていた林であるが、赤字のslovenskoスロバキアだけをぐるりと丸で囲った。


 チェコ=スロバキア南部に位置し、ハプスブルク家出身の国王帰還もあって民族意識が高揚しているハンガリーは、かつての大戦により奪われた旧領回復を国民が熱狂的に支持していた。親ドイツ派の前首相が失脚し、穏健派のテレキ・パールが再登板していたが、領土問題ではむしろ彼は強硬派である。南スロバキアにおける人民投票の結果が、マジャール人が多数派とはいえ必ずしもハンガリーに有利になるとは限らない状況であることを誰よりも理解していた新首相は、即時割譲を求めて10月中旬には国境に軍を動員。慌てたドイツのリッベントロップとイタリアのチャーノの両外相が仲裁に入り、【ドイツ領】ウィーンで4者による国際会議を開いたが、その結果はドイツの意向を示すどころか、先のミュンヘン会談の成果を帳消しにしかねない無残なものであった。


「まさかそういう手があるとは思わなかったが……ヤン・スィロヴィーだったか、あの男も曲者だな」


 林が感嘆するように、チェコ=スロバキアの臨時政府の対応は実に-よくいえば老獪、悪く言えば小ずるいものであった。最初から裁定に従うとしてドイツのメンツを立ててはいたが、実際にはハンガリー寄りの裁定を下すことは目に見えていた。実際、会議でドイツはハンガリーを取り込みたい狙いから、ハンガリー側の領土割譲要求をチェコ=スロバキアにほぼ丸呑みさせた。


 ところが会議終了直後に、臨時政府でスロバキア政策を担当するヨゼフ・ティソ国務相(スロバキア人民党党首)がスロバキア自治政府樹立を宣言し、それからわずか半月の間に人民党に共産党以外の政党を合流させたうえで、11月9日には実際に自治政府を立ち上げた。


 まさにドイツ国内で反ユダヤ人暴動が発生したその日にである。国外向けの保険金支払い問題に頭を悩ませているとされるゲーリング空相からすれば、たまったものではない。そして谷が外務省としての見解を総理であり外務大臣である林に告げた。


「事前に用意されていたとする見方もありますが、分割されるカルパティア・ルテニアにおいても暴動が相次ぎ、独立運動が激化しております。こちらでも自治政府を作る動きがあるとか。少なくとプラハの中央政府が介入出来る状況ではありません。当然ながらハンガリーが介入できるような情勢でもありません」

「弱者の兵法だな。何もかも臨時政府の思惑通りというわけではないだろうが、サボタージュ、あるいは嫌がらせとしては悪くはない。何より政権内部からスロバキア系の不穏分子を切り離し、問題を自治政府に押し付ける。責任は自治政府にありプラハにはないとでもベルリンには伝えているのだろう。

「ベルリンの足元を見ていると」

「民族自決を利用するのはドイツ人の専売特許ではなかったということだな。スロバキア自治政府について伝えられた総統閣下の顔を見てみたい気持ちもあるが……英仏への約束もあるし、ドイツ軍が直接軍事介入できる状況でもない。ズデーデンならともかく、南スロバキアをハンガリーに割譲させるために国防軍を動かすわけにもいくまい」


 久保田の問いかけに、林はどこか愉快気な調子で語る。確かにナチスドイツは民族自決を都合よく利用し、領土を拡張してきた。しかしその結果、今度はチェコ=スロバキア国内の民族運動に巻き込まれることになったのだ。周辺国に「チェコスロバキア解体」という餌をちらつかせて協力させた以上、その配分をする責任がドイツにはある。しかし実際には臨時政府のサボタージュの前に有効な手段をとれない状況に追い込まれている。長期化すればハンガリー政府だけでなく、中東欧の諸国に「ドイツ頼りなし」との印象を与えかねない。


「ウィーンの調停会議ではゲーリング元帥が外務省の尻を叩いたそうだが、その結果があの様だ。今の外務省に任せておけないと、あの元帥閣下が考えても不思議ではない」

「やはり近衛公爵の拘束は長引くと」

「さてそれは……むしろ厄介事はさっさと解決してしまえと考えるか、対日外交のカードとして保留するか。こちらとしてはポーランドのユダヤ人孤児の引き受け問題もあるし」

「近衛公爵の問題で妥協はできないと」

「自国民を保護するのは国家として当然の義務だろう」


 そう一般論でかわすと、林は地図のスロバキアから北を鉛筆で指した。


「ポーランドとソビエトはどうだ」

「不可侵条約の破棄をちらつかせて、ミュンヘン会談へのワルシャワの参加を恫喝しておりましたが、今となっては」

「継続もあり得るか」

「重光(葵)大使からは可能性は大であると」


 ソビエトは英仏両国の拒否によりチェコスロバキア問題に関する直接的な軍事介入はあきらめたものの、周辺国への圧力は強めていた。特にポーランド政府にはチェコスロバキア分割に参加した場合の不可侵条約の廃棄をちらつかせてけん制。しかしポーランドの現政権はこれを無視し、モスクワの政府と神経戦が続いている。


 しかしポーランドはモスクワの協力なくしてはドイツと対峙出来ない。モスクワとしてもドイツに対する防波堤としてはワルシャワを支持せざるを得ない-という外務省の見解を、林は黙って聞いていた。


「……所詮、カンニングはカンニングでしかない、か」

「は?」

「いや、こちらの話だ。結論から過程を類推することの愚はコミュニストや社会主義者の失敗で散々見てきた。しかし、それを他ならぬ私がやっていたのでは、笑い話にもならぬと思ってな。それこそ大川君の神がかりな話を誰が信用するかということにもなりかねない」


 軍人宰相の言わんとすることが理解出来ず、久保田は上司と視線を合わせる。林は「気にするな」と手を振ると、独り言のように続けた。


「だからこそ神にでも縋りたくなるか」



- 大日本回教協会設立大会が挙行さる -


 16日に東京九段の軍人会館において大日本回教協会の設立大会が挙行された。名誉総裁に就任された閑院宮載仁親王殿下の台臨を仰いだ設立大会には、国内外から招待された約1千人以上の関係者が出席。神戸や大阪など関西地方のモスクの関係者も集まった。会長に就任した林銑十郎総理(陸相・外相兼任)は祝辞の中で、ムスリムと非ムスリムとの相互理解の重要性を説き、同時に非白人国家である帝国日本がムスリムとの相互理解を深めることが「もって東洋と世界の平和に貢献することにつながる唯一の道である」と演説し、出席した在日回教関係者や、日本国内の回教徒・研究者から喝采を浴びた。


 式典後、林総理は東京市代々木の回教教会開堂式典に出席。同式典に出席するため来日中であったサウジアラビア王国駐英公使のハーフィズ・ワフバ氏と会談し、日本と同国との関係強化で一致した。サウド王家に反発する一部勢力が式典をボイコットするなど波乱含みの展開となったが、特に混乱は発生しなかった。


 ムスリム研究は陸軍が中東政策の根幹として後援を続けており、参謀本部ではムスリム研究の強化のための専門科を創設したとされる。また陸軍省では新たにムスリム関係の研究者を対象とした奨学金を検討中だ。サウジアラビアを始めムスリム諸国との関係を強化することで、資源開発に協力を得たい狙いがあるものと思われる。外務省からは「また軍人外交だ」と反発する声も出ているが、林総理が外務大臣を兼任しているため、目立った声とはなっていない。


- 社大党書記長、「祭政一致」と批判 -


 社会大衆党の麻生久書記長は16日の定例会見で、大日本回教協会の会長に林銑十郎総理が就任した件に関し「祭政一致の復古政治」と批判した。麻生氏は回教との相互理解を深めるという同協会の意義は認めながらも「戦没慰霊者追悼の靖国参拝や神宮参拝とは根源的に異なる問題である。現職の総理が、特定の外来宗教を肩入れするかの如き言動は、国民に誤解を与えかねない」と指摘。その上で畏れ多くも憲法で定められ、歴代内閣が踏襲してきた信教の自由の精神に反する行為ではないかと批判した。「祭政一致」とは、いかにも麻生流らしい言い方だが、与党内からも現職総理の特定団体への関与を疑問視する声も出ている。


- 中央新聞(11月20日) -


・中野正剛。遠くで見ているにはいいんだろうけどw。むしろ緒方竹虎の雑食性に驚く。

・緒方「いいのかい。俺は相手がどんな思想であろうと平気で付き合っちゃうんだぜ」

蓑田みのだ胸喜むねき。あの胡散臭いという文字が人間に化けた佐藤優の本で知った口。しかしすごい名前w。三井甲之はなんか出しづらかったので省略。

・近衛文麿はいろんなところに顔出してるのに本当に驚く。

・ネタキャラ化のとまらない大川周明。

・大川「助手ぅ!」総理夫人「今度は何を吹き込んでるんですか!!」

・四女「かっこいい!」(なお黒歴史確定)

・数寄屋橋の名物男。この人の逸話で個人的に好きなのは「おお、そこに行くのは福家君(翼賛会時代の同期の代議士)ではないか!隣にいるのは細君ではないね!」とやったという話w。最近はマスコミ批判で取り上げられることも多いそうですが、個人的にはなんか俗っぽいところが好き。

・いやね、ICPO(当時はICPC)といいアラビア半島といいね。まさかかぶるとは思わんじゃないですか。だから私は悪くない。

・どこまで把握できていたかはわからないが、チェコ=スロバキアの嫌がらせは大したものだと思う。ただしナチス・ドイツが遠慮しなくなると効果はなくなる。

・なんだかんだでゲーリングは汚れ仕事もやり嫌われ役もやりと苦労してるんだなあと。

・カンニングの限界。試されるカイゼル禿。

・史実の祭政一致をここでひろう。

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