岩畔豪雄回顧録 / マンチェスター・ガーディアン / 東京府神田区駿河台袋町 旧薩摩治兵衛別邸(1938年11月17日)
「イギリス国王の臣下に、あるいはフランスの市民となるために、命を賭して戦ったのではない。彼らの目的は自分自身の戦いに勝利することにあったのだ」
トーマス・エドワード・ロレンス(1888-1935)
長沙大火の当時、私は参謀本部8課に所属しながら防諜研究所-後方勤務要員養成所を経て、中野学校の名前で知られる諜報要員育成の為の教育機関設立に関与し、第一期生の育成に携わりながら、教育カリキュラムについて折衝を続けていた。私や秋草(俊)、福本(亀治)などは謀略や破壊工作も含めた諜報活動に重点をおいていたが、直属の上司である辰巳栄一大佐は情報収集活動と分析に力点をおくべきという考えであり、たびたび激論を交わした。陸相秘書官であった影佐禎昭大佐の陸軍省軍事課や参謀本部など関係各所への支援と働きかけがなければ、辰巳案がそのまま通ることになっていただろう。
ところでこの間、影佐大佐は陸相秘書官として林総理の側に近侍しておられたが、林総理がこの件に関して何か意向を示されたということは聞いていない。しかしその言動からは謀略活動というものを、どこか胡散臭く思われていたのは確かだと思う。
土肥原賢二将軍(当時は第14師団長)を中央から遠ざけておられたのも、それが関係していると私は確信している。陸大卒業と同時に北京(北平)における坂西機関設立にかかわった将軍は、支那における裏も表も知り尽くした諜報畑の人物であり、幾多の謀略にかかわり、また数多の敵の陰謀を阻止されたことは、大陸にかかわる人間なら誰もが知ることであった。にもかかわらずその人物を親補職とはいえ師団長として遠ざけ、あまつさえ予備役編入が囁かれているなど、我らにとっては信じがたいことであった。
現に土肥原将軍が第14師団長として内地に帰還して、奉天特務機関を始めとする全ての特務機関から離れた途端、日本の大陸における防諜と謀略は後退と敗北が相次いだ。仮に土肥原閣下がいれば、長沙大火のような不審火は発生させなかったと思う。例えば昭和10年(1935年)に南京国民政府の現地軍と土肥原将軍との間で締結された土肥原・秦徳純協定により、河北省に設立した冀察政務委員会と冀東防共自治政府は、満洲国に隣接する河北を南京から切り離すことで日本の影響力を強め、治安維持向上を図ったものである(華北分離工作)。しかし肝心の河北自治運動へのてこ入れを前に、粛軍人事の煽りもあり、資金面での支援が断たれたことでこの動きは頓挫。折角現地に協力者を得たのに自然消滅の憂き目を見ることになった。
念のために明言しておくが、私は粛軍人事は2・26事件により失った陸軍の信頼を回復する為にはやむをえないことであったと思う。それでも機を逸したのは確かだ。特に私が痛恨だと考えるのは、蒙古軍政府への支援を日本が拒否したことである。昭和11年(1936年)2月10日に蒙古地方自治政務委員会が発展解消する形で成立した同軍政府は、その総裁にかのチンギス・ハーンの30代目の子孫である徳王(モンゴル名:デムチュクドンロブ)を向かえ、モンゴル民族主義者を糾合して内モンゴルに隣接する綏遠省に進出しようとしたが、現地軍に敗れて敗退した。
かつて清国の一角をなしたモンゴルは、辛亥革命とロシア革命によりモンゴル人民共和国が建国されていた。まさに徳王軍が敗退した当時、モンゴルは人民革命党の一党支配が続いていたが、スターリンの指示を受けた秘密警察の創設者であるチョイバルサンによる大粛清が始まろうとしてた。民族主義者を糾合して内蒙古に親日自治政府を建国しようとしていた蒙古軍政府の計画は、決して無謀なものではなかった。仮にこの時、日本が徳王を全面的に支援していれば、その後のモンゴル、および満洲国の命運はどうなっていたか。
しかし実際にはそのような事にはならず、国際関係および周辺事態を考慮したという理由で、徳王への支援は打ち切られた。一部勢力が内蒙古で活動を継続したが、徳王は昭和13年(1938年)10月には日本に事実上亡命することになった。林内閣と外務省は徳王への面会を拒否し、あくまで私人として扱うにとどめた。大陸関係の諜報畑に携わる人間は、この決定に激怒し、あるいは悔しがった。
接触してはならないという陸軍省の意向にもかかわらず、当時、宇都宮の第14師団長であった土肥原中将は、中央から度重なる警告をうけていながら「正式な通達がない」とすっとぼけたふりをして、徳王と面会。失意のモンゴル民族主義者に温かい対応をした。かつて関東軍参謀長として親交がありながら、来日したヒュー・トレンチャード卿との会見があるという理由で会談を拒否した東條英機・航空総監とは対照的なものであった。
このように土肥原賢二将軍とは謀略家のイメージとは程遠い至誠の人である。私も含めてだが謀略・諜報に関わる人間というものは、どうしても人の暗部を見なければならないため内省的になりやすい。しかし閣下は東洋的な大人としての朗らかさと、器量の大きさを兼ね備えた稀有の人物であった。だからこそ「満蒙のロレンス」(あるいは満洲のロレンス)と南京政府や欧米各国から恐れられたのだ。しかし閣下はそのような名声も「謀略に携わる者としては、恥ずかしい限りである」と、心底嫌そうな顔で語るのが常であり、その態度は大陸の特務機関に携わるすべての人間を心服させたものだ。
閣下の名声が高まったことを喜んでいた我々であったが、すぐさまその真意に気がつかされる。「満蒙のロレンス」の名声とは、閣下の行動を阻害するための謀略であったのだ。至誠の人である閣下が陰謀家として流布されたことで、閣下は交渉相手や現地の有力者との信頼関係を築くことに、これまで以上の労力を必要とすることになった。相手を誹謗するのではなく褒め称えることで手足を縛る。私達は謀略の先進国たる欧米の諜報機関や、自国民の殺害すら躊躇わない南京政府の軍統を初めとするテロ組織の実力を思い知らされた。ただ一人、閣下だけがそれに気がついておられたのだ。
閣下は、自分の名前が出ることを嫌っておられた。軍紀に厳しく、部下には厳しくそれを守らせ、自分をより一層厳しく律した。強きを挫き弱きを助ける。そのような閣下だからこそ謀略渦巻く大陸において、謀略の人であると知られながらも現地の住民から多くの信望を集めたのだ。
「謀略とは、一見すると何も起きていないかのようであることが望ましい」
けだし名言である。
- 岩畔豪雄回顧録(機密指定により公開は2001年以降) -
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- カタルーニャ自治政府首相「軍は崩壊しつつある」と発言 -
スペイン共和政府を支持するカタルーニャ自治政府のリュイス・クンパニィス首相(カタルーニャ共和主義党左翼ブロック)は、自治政府閣僚との緊急閣議後、記者団との会見に応じ「エプロ川における政府軍の攻勢は失敗したといわざるを得ない」と発言した。「政府軍は敗北したという認識か」という問いかけにクンパニィス首相は「敗北は敗北だ」と応じた。これに対してバルセロナ政府のマヌエル・オルロバスク国務大臣(バスク民族党)は「政府軍は敗北していない。第35軍団と第11軍団は、今この瞬間もセラデパンドルスにおいて、英雄的な戦いを続けている」と発言。政府軍敗退を否定した。
- セラデパンドルス陥落は確実。共和政府軍大壊走 -
(中略)…2週間以上前にはカタルーニャにおける重要拠点は陥落していたことになる。第35軍と第11軍の壊滅を認識していながら政府が隠蔽していたのか、政府が前線の状況を把握できていなかったのかは定かではないが、11月16日には全域において共和政府軍は壊走。司令部機能は完全に失われた。7月末から10万以上の兵力を動員して始まったエプロ川攻勢は、その半数以上の兵力を失うという敗北に終わった。ファン・ネグリン首相(国防相兼任)は辞意を表明したが、アサーニャ大統領により慰留された模様である。
カタルーニャからはフランス側へ亡命が相次いでおり、政府機関の多くは機能不全に陥っている。9月末にはソビエト連邦が中心となり存続していた国際旅団司令部が解散を宣言したことで、国際的孤立を深めていた人民政府にとっては、致命的な軍事敗北である。共和派のバルセロナ市民の間では動揺が広がっている。
- フランコ将軍、12月中のカタルーニャ制圧を目指すと宣言 -
スペイン反乱軍を率いる元参謀総長のフランシスコ・フランコ・バアモンデ将軍(頭領を自称)は、国内に向けたラジオ演説においてエプロ川における軍事的な成果を誇示した上で「カタルーニャの分離独立勢力に対する掃討作戦を開始する」と宣言した。
- マンチェスター・ガーディアン (11月17日) -
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その煙草に火をつけた瞬間、総理首席秘書官の溝口直亮(伯爵)は鼻腔の奥を針で突いたかのような檄臭に、思わず顔をしかめてしまう。何とか表情を取り繕ろうとしてシガレットホルダーに挿した煙草を、形ばかりでも吸おうとしたが、その独特のにおいに耐え切れず、思いっきり咳き込んでしまった。それを見て溝口の隣に座っていた山田英夫伯爵は「言わんこっちゃない」とでも言うように顔をしかめる。そして屋敷の主であり異臭の元となる黒煙草を溝口にすすめた壮年の男性は、心底愉快そうに笑い声を上げた。
「ゴール人の煙草は、お口に合いませんか」
「……いや、噂には聞いておりましたが、これ程のものとは思いませんでしたな…失礼を承知で申し上げますと、馬小屋に積んである馬糞の山に鼻を突っ込んだかのような臭いがしますな」
「はっはっは!馬糞ですか、それは傑作だ!」
「バロン・薩摩」の異名で、パリ社交界においてその名を轟かせた旧薩摩商店の代表である薩摩治郎八は、自らが愛好する煙草を貶されたにも関わらず、むしろ愉快だといわんばかりにかっかと大笑した。
10年にも満たないフランスにおける生活の中で、彼の祖父と父が残した5億近い資産を食い潰したと自慢する放蕩児らしい、実に豪放磊落な笑い声に、溝口は毒気が抜かれる思いであった。彼の義父である山田伯爵などは苦々しい表情を隠そうともしていない。そして溝口は今のやりとりで、おそらく総理からの打診を大人しく受け入れるような人物ではないことも改めて認識した。溝口の思惑を見透かしたかのように、薩摩は深く黒煙草の煙を吐き出しながら口を開いた。
「これはフランスの黒煙草で、GAULOISESといいます。乾燥させた煙草葉を堆肥発酵させたものですから、馬糞の臭いとは言いえて妙ではありますがね。葉巻と同じように、肺まで飲み込まずに口腔で香りを楽しむ人が多いですが…ま、最もシガレットホルダーもつけずに直接吸う人間は、フランス人でもめったにおりませんが」
そう言いながら懐中から愛用するシガレットケースとホルダーを取り出した薩摩であったが、当人はホルダーもつけずに直接口で吸うと、五臓六腑を燻製するかのように深く吸い込んでいる。「無理をせずに」という薩摩の言葉に素直に従い、溝口はもう一度咳払いをすると、火のついたばかりの煙草をケースから外すと、目の前の机の上に置かれている大理石の灰皿に押し付けるようにして消した。
それを見た薩摩は2、3服ほど、またその香りを楽しんでから灰皿に上から押し付けるようにして消す。ようやくこの悪臭から解放されるかと内心安堵した溝口と山田であったが、今度は薩摩がシガレットホルダーに挿したそれに火をつけるのを見て閉口した。
「直接吸うのもたまりませんが、これをじっくりと味わうのならやはりホルダー越しが一番ですな。私はもっぱらこれが好きなのです。直訳すると『ゴール人の女』という意味なのですが、同時に慣用句として『陽気』で『好色』、そして『あけっぴろ』という意味としても使われることがあります」
「まさに好色であけっぴろな君が吸うには、ふさわしい煙草というわけだな」
「義父さんには敵いませんな」
山田伯爵の皮肉に薩摩が笑って答える。
「古代ローマ人はゴール語を話すケルト人とガリア人をほぼ同一視したようですが、実際には異なる民族のようです……ま、それはともかく古代フランス人をゴール人と呼んでもそれほど奇異なものではありません。この煙草のパッケージデザインである羽のついた兜も、カエサルのガリア戦記に記されているようにフランス人にとっては伝統的なもの」
「とんでもない伝統だな」
フランス贔屓の娘婿を揶揄するような言い方をする岳父に、薩摩は否定することなく「その通りです」と頷いた。
「この悪臭こそがフランスの国民性をよく現していると思いますよ。フランスに漠然たる憧れを持った『御上り』さんは、フランス農村部の後進性と、パリの臓物をぶちまけたような人間活動の生々しさに勝手に絶望して帰国していく事が多いですが、私から言わせれば、それこそがフランスなのですな」
「それはまた、大胆なお考えで」
「そうでもありませんよ溝口秘書官。かの国の歴史を振り返ればわかります。王を殺し、皇帝を追い出し、神を踏みにじり、同胞家族と血みどろの戦いを繰り返す…それでもなお青臭い理性を信じ、人間性とは何かを追求する。この矛盾した有り様こそフランスの弱みであり、強さなのです。現に大革命後のフランスは幾度となく政情危機をむかえ、何度となく敗戦を繰り返しましたが、イギリスと並ぶ大国としての地位を確保したではありませんか」
「まあ、たしかにそうかもしれませんが」
溝口は言葉を濁した。林総理の秘書官として欧州情勢の一次情報に日々接する身としては、フランス国内の政治の混乱に幾度となく辟易とさせられていたからだ。それを見透かしたわけでもないのだろうが、薩摩は首を振った。
「幾度となく海外勢力に踏みつけられましたが、フランスはその度に立ち上がってきました。目先の政情不安でフランスを理解しようとするのは、大きな誤りといわざるを得ませんな。かく言う私自身、エディ先生からよく言われたものです。フランス人を侮るなとね」
「……?誰のことだねそれは」
「トーマス・エドワード・ロレンス氏ですよ。アラビアのロレンスのほうが通りがよいかもしれませんがね」
義父の疑問に、薩摩はとんでもない名前をさらりと告げる。
アラビアのロレンスといえば欧州大戦中にオスマン帝国領だったアラブにおける大反乱を支援したイギリスの伝説的な情報将校であり、元陸軍将校である溝口と山田からすれば、日露戦争中にロシアで暗躍した明石元二郎将軍のような存在だ。ロレンスは3年前に交通事故により死去したが、その発言や提言は戦後イギリスの中東政策に大きな影響を与えていたとされる。何ゆえその人物と知己があるのかと視線で問う元陸軍将校達に、薩摩はあっけらかんと答えた。
「オックスフォード大への留学中に考古学者だった先生と知己を得ましてね。彼のフィールドワークは元々、十字軍に関する研究が始まりでして、フランス各地を自転車で走り回り、研究していたそうです。戦後は旧オスマン帝国領をめぐる関係でフランスとの関係に苦慮されていたようですがね…それはともかく、先のミュンヘンにおけるだらしなさや、スペイン内戦における優柔不断な対応で、フランスを欧州におけるメインプレイヤーから脱落したとするのは、私からすれば大きな誤りですな」
「君はフランス贔屓だからな」
「説得力に欠けると?それもそうでしょう。私は家をつぶした男ですから」
「だったらすこしは申し訳なさそうな顔をしたらどうだ」
山田伯爵が気色ばみながらいうが、薩摩はまったく堪えた様子もなく黒煙草をふかした。
昭和恐慌や世界恐慌により経営が悪化していた薩摩商会は昭和10年(1935年)に経営破綻。さしもの放蕩児も一時帰国を余儀なくされたが、莫大な負債を整理してもなお、まだ多くの金融資産や不動産が残されている。これでは堪えるはずもないのだが、仮に一文無しになったとしても生き方を変えるような男ではないだろうと、義父である山田は半ば諦めていた。
「義父さんには悪いですが、今の私にはいささかなりとも余生を妻と楽しく過ごせるだけの財産と、この煙草さえあればよいのです」
「では爵位はご辞退されると」
どこがささやかなのだと山田が反論する前に溝口が今日の本題を切り出した。薩摩は10年近くパリに滞在する中、多くの日本人芸術家を支援するパトロンであり、日仏両政府からの依頼を受けて様々な企画に私財を投じて貢献してきた。林内閣は長年の日仏関係への貢献に報いるためとして、薩摩治郎八に男爵位を授爵することを検討していた。
授爵により平民籍から華族籍へと移ることになるが、これは社会的地位を保証するだけなく、数々の特権が与えられることを意味している。たとえば財産面においては華族世襲財産法により一定の世襲財産が認められたし、民事裁判出頭の義務免除、貴族院議員の被選挙権(あるいは議席)などである。
叙爵に関しては宮内省の管轄であるとはいえ、時の内閣の意向がまったく無関係であるわけではない。また宮中においても、いくつかの問題を差し引いても長年日仏関係に尽力してきた西園寺公望元総理の意向もあり、意見のすり合わせはそれほど問題はなかったのだが、まさか当の本人がそれを辞退するとは誰も思っておらず、宮中や政府を大いにあわてさせた。
そのため総理秘書官である溝口は同じ伯爵家の当主であり、かつ陸軍士官学校の関係(山田は8期、溝口は10期)を使い、その義父を引っ張り出した。義父である山田としても、異母弟であり宮中入りが囁かれている松平恒雄の面子が丸つぶれになりかねないとして、共に当人を説得するために赴いた。しかし薩摩は相変わらず書面において宮内省や内閣と何度もやり取りした時と同じように「辞退する」と繰り返すばかりであった。
「私は徳川ライテイ(徳川頼貞侯爵)さんほど勤勉ではありませんのでね。それに家業をつぶした人間が世襲財産など、徳球さんに笑われますよ」
政府特使として訪欧中の徳川侯爵を揶揄したことよりも、日本共産党の結党メンバーであり治安維持法違反により逮捕された徳田球一の名前が出たことに溝口と山田の顔色が変わるが、薩摩は如何にもめんどくさそうに「勘違いしないでもらいたいが」と続けた。
「私は共産主義者じゃありませんよ。意見の多様性を認めない共産主義ほどつまらない思想はありませんからね。それにまさか、20年以上も前に共産主義者と付き合いがあったからといって、逮捕する法律があるというのなら話しは別でしょうが」
「では何ゆえ交流があったのだ」
「それは義父さん。おもしろい男だったからですよ。主義者にありがちな理屈っぽさがない男でしてね。ジャガイモのような顔をしているくせに教養はあるし『馬鹿の金持ちから収奪してやる!』と私のワインセラーを空にするような愛嬌のある男でしたから」
往年の若き活動家との交流を思い出してか懐かしそうに笑う薩摩に、溝口が窘めるように言う。
「薩摩さん、その点は宮内省でも問題になったのですよ。貴方はいたずら半分だったかもしれませんが、パリにおける徳田との接触は陸軍でも問題になったのですから」
「ならばそのような人物に爵位を与えようとするのが、そもそも間違いでしょうな」
薩摩は何がおかしいのか自ら声を上げて笑うが、険しい表情を崩さない義父と総理秘書官に「参りましたな」と頭をかいて姿勢と態度を正した。
「簡単な話ですよ。お上にはお上の流儀があるように、遊び人には遊び人の流儀がある。私は唐様で空き家と書いた三代目にしかすぎません。件の日本館にしても、私がやりたいからやっただけのこと。お上に誉めてもらうような上等な人間でもないし……何より、男爵なんぞという肩書きをもらえば、気楽に遊べなくなります」
「しかしレジオンドヌール勲章は、もらっておられるではありませんか」
「いやそれは、言い訳がましいかもしれませんが個人が対象だからですよ。私の放蕩の結果で薩摩の家にもらうというのもね。亡くなった祖父や父は喜ぶかもしれませんが、むしろあの世で怒られそうで…だからといって私から勲章をよこせというのも、これもまた違うでしょう」
「勲章に関してはお答えできませんが、バロン・薩摩が薩摩男爵になるだけではありませんか。爵位の相続がお嫌いでしたら、板垣伯爵(板垣退助)のように相続手続きをしないという先例もあります」
腕組みをして黙り込む義父とは対照的に尚も食い下がる溝口に、薩摩は顔の前で手を振る。
「林総理が私如きに何を執心されているのかはわかりませんが、誰がその場にいたところで、フランスと周辺諸国の現状はかわりませんし、得られる情報にも大差はありません。スペインは相当厳しいようですし、フランス政界は相変わらずの揉め事ばかりだ。態々、人と金を拠出して情報を収集するほどの価値があるとは思えません」
「先ほど貴方は遊び人には遊び人の流儀があるとおっしゃった」
旧新発田藩主の武家華族である溝口は、その軍人らしい風貌に似つかわしい重い口調で続ける。
「同じように軍人には軍人の、外交官には外交官の流儀と言うものがあります。たとえ同じ情報であったとしても、分析や検討の仕方によって見出せるものは異なるものです。多角的な検討の為には特にそうです」
「ならば尚の事です。ピレネーを越えて流れ込む避難民が、更なる政情不安要因となることぐらいは私にもわかります。しかしカタルーニャ経由でパリに亡命したバスク亡命政府が、スペインの政情に決定的な影響を与えることが出来ていないように、カタルーニャ政府が亡命しても同じことです」
昭和11年(1936年)7月から始まったスペイン内戦は、翌年の昭和12年(1937年)にはドイツとイタリアが支援するフランコ将軍率いる反乱軍の優位が確立しており、最後まで共和政府を支援していたソビエトも、この9月には最後の大攻勢になると思われていたエプロ川攻勢中に国際旅団を正式解散してしまった。
当然ながらそれは共和政府を支持していたフランスにとっても問題となる。ただしフランスの場合は外交問題ではなく、この問題が極めて内政問題として扱われることに特徴があった。反ファシズムの人民戦線内閣を支持していた勢力は共和政府を熱烈に支持し、その亡命を受け入れろと主張するが、中道派や右派は戦争に巻き込まれるとこれに反発している。薩摩のような軍事の素人にも、共和政府の敗北は明らかであった。
「フランスからすれば西のドイツ、南のスペインと挟み撃ちにされるわけですな。だからこそカタルーニャ自治政府だけでなく、人民政府の亡命をパリで受け入れろという話も出てくる」
「……そこまで理解して頂いているのなら話が早い。で、今の政府はどうされると思われますか」
「国境封鎖は人民戦線内閣時代から続くこと。それを今の国防政府が封鎖を解くとは思えませんし、カタルーニャ亡命政府は受け入れたとしても、アサーニャを受け入れるとは思えませんね」
「なによりフランス人は外国人嫌いだ」と締めくくる薩摩の解答は、おおむね外務省欧州局の見解と一致しており、溝口はわが意を得たりと頷く。このフランスを病的に愛する放蕩児がいつまでも日本に残るとは誰も考えてはいない。ならば政府としては超一級の情報源とは何らかのパイプを維持しておくべきである。そう考えて身を乗り出そうとする溝口に、しかし薩摩はそっけなく応じた。
「情報を得たいというのであれば、国内にはもっと適任な人物がいるでしょう」
「少なくとも私には思いつきませんが、何方でしょうか」
「あの河童ですよ」
首を傾げる溝口に、薩摩はいかにもめんどくさそうに続けた。
「ほら、フランスで持て囃されたことをいいことに、自分より25も若い嫁を迎えて、日本で遊びほうけている画家がおるでしょう」
「あぁ、藤田画伯ですか」
従軍画家協会に名を連ねる奇妙なおかっぱ頭をした画家の名前に、溝口だけでなく山田も頷く。
フランスにおいて1920年代から始まったとされる国籍はおろか既存の芸術運動にも芸術理論にもとらわれない自由で大胆な創作活動と生き方で知られるエコール・ド・パリ(パリ派)の寵児として、同国内だけではなく世界的な名声を誇った藤田嗣治は、パリ時代の薩摩が支援した画家の1人である。薩摩とほぼ時を同じくして帰国していた藤田は、昨年の第2次上海事変では陸軍省の依頼により従軍画家として大陸に渡った。上海派遣軍の報道官(当時)であった鈴木貞一大佐は、この世界的な知名度を誇る画家を活用しようとしたが、すぐに主要な戦闘が終了したため、これという絵を描くこともなく帰国している。
「藤田さんは従軍画家協会の席は残っているでしょう。陸軍からも依頼しやすいでしょうし、親父さんは軍医総監もしている。うってつけの人材ではありませんか」
「しかし、こうした表現は失礼かもしれませんが一画家に」
「一破産人に依頼するよりも、よほどまともな人選だと思いますがね」
薩摩は黒煙草を大きくふかして続ける。
「ご存知の通りフランス人は排他的な人種だ。私も今でこそ、上流階級相手にそれなりの付き合いは出来るようになったが、当初は東洋からやってきた成金扱いで、まともに相手されていなかった」
相変わらず豪快な笑い方をしていた薩摩であったが、その時だけは表情に影が差し込み、地蔵のような顔になる。
「それをフランスの社交界に紹介してくれたのが藤田さんだ。彼がいなければ、私は今でもパリの田舎者のままだっただろう」
薩摩は顔色を対面に座る2人から隠すように下を向くと、根元近くまで吸った黒煙草をホルダーから外して火を消した。念入りに火が消えたことを確かめるように何度も押し付ける仕草にどのような意味があったのかは溝口にはわからないが、顔を再び上げた時には、いつもの傲岸なものに戻っていた。
「最近、パリで評判の映像があるのをご存知ですか?ナチスの面子を丸つぶれにしたと、極めて評判なのですが」
血の気の引いた表情で何か言葉を続けようとした溝口に、薩摩は「お気持ちのお返しというところです」と肩をすくめる。断られると知りながら足を運んだことへの謝礼としては、いささか支払いすぎな気がしないでもないが、放蕩児たる自分にはなんとも似つかわしい散財かもしれない。自分でもひねくれた性分だとは思うが、薩摩はそんな自分が嫌いではなかった。
「さすがに三越の買収を計画して三井財閥に喧嘩を売ろうとした男は、私のような人間とは考え方が違いますね。東横映画は松竹や東宝に比べれば後発だ。それも渋谷のような田舎のニュース劇場に注目を集めるためには、手段を選ばないとは、さすがに強盗と呼ばれるだけはありますね」
「いや、しかし近衛公爵の動画に関する一連の権利はBBCにあるはずでは-」
「満映(満洲映画協会)が、とんでもない高値で買い取ったようです。私も見ましたが、あれは聴衆にはうけますよ。編集次第ではいくらでも化けます」
「……いったい、何の話をしているのだ?」
明らかに異質な会話を平然と交わす娘婿を幽霊でも見るような視線で見つめる義父に、薩摩は「ニュース映画の話ですよ」とだけ答えて続けた
「新嘗祭の前後、大々的に新聞広告をうつようですよ。ナチスの人種主義と音楽で戦った指揮者、ヒデマロ・近衛を見殺しにするのは一体誰か。実に扇情的なCopie de captureですな」
・華北分離工作。日中戦争までにこの種の陰謀が山ほどあって何が何やらわっけわからん。というわけでしれっと省略していきます(おい)。
・一番最初のは英国の日刊紙でリベラルより。なので人民戦線政府より…という言わないとわからない話。
・今のゴロワーズはEUの規制によりあまり強いものが作れないそうで、昔とは比べ物にならないぐらい「軽い」んだとか。それでも相当きつい様です…私は煙草を吸わないから知らないけど(おい)
・溝口直亮。伯爵・貴族院議員で貴族院における宇垣新党派だった人。その人を総理秘書官としているという意味。
・なんだかんだで松平容保の子孫は繁栄している。なんせ今の徳川宗家の当主がその流れだし。山田伯爵家は山田顕義の家。日本大学創設者といったほうが通りがよいか。
・バロン薩摩(男爵じゃないのに)。虎は死して皮を残し、人は死して名を残すを体現した人物。3代目で家を潰した放蕩児ということになるが、これだけ豪快に遊んだ人もそうはいないと同時代の人からですら、呆れた様な感心したような妙な評価をされた人。まあパトロンだから悪口いうわけないんだけど、金遣いにも器というものがあるのだなと。仮に自分(作者)に同じ資産があっても、同じことは絶対に出来ないと自信を持って言える。だからこそ一種の憧憬を持って語られるのだろう。
・徳田球一のワインセラーのやつは創作。だけど薩摩と交流あったのは事実。もし日本で成功していたらたぶんフルシチョフのポジションか。靴で机をたたくという逸話での共通性しかないけどw
・スペイン内戦はそのままですけど日本のフランコ政権承認は先延ばしにしています。
・東映は満映系人脈を引き継ぎましたが東急系のも引き継いでいます。この段階では関係ありませんが。五島慶太は三越乗っ取りに失敗したばかりで三井系への敵愾心ぷんぷん。つまり三井銀行の池田成彬が内閣参議である現内閣には…という説明しなければ書いている私もわからなくなる(おい)かけなかったら困るのでここで書いておきます。