東西新聞政治評論 / 東京府東京市 芝区 三田綱町 渋沢敬三子爵邸内 屋根裏美術館 Attic・Museum(アチック・ミューゼアム)内 2階展示スペース(1938年11月16日)
「お前がいつの日か出会う禍は、お前がおろそかにしたある時間の報いだ」
ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)
- 北代議士問題、町田総裁の『名裁き』 -
兄の罪は弟の罪。そんな前時代的な考えにノーを突きつけたのは、文久3年産まれの老人だというのだから、すこぶる振るっている。
先の第19回総選挙で新潟2区から無所属で出馬し、並み居る強豪を押し退けて当選した北昤吉氏は、当選後に民政党への入党を表明したが、選挙の翌日に発生したのが2・26事件である。すなわち北一輝こと輝次郎は同君の実兄であり、北氏自身も兄とは別に政治運動を行い、言論人として頭角を現す中で幾多の国家主義団体を渡り歩いていたのは周知の事実だ。その中には実兄と関与していた団体もあった。
2・26事件は直前に行われた総選挙における民政党の大勝利を吹き飛ばし、結果的に与党であった岡田啓介内閣を総辞職に追い込んだ。如何に兄弟が別人格であるとはいえ、北一輝が逮捕された以上、弟の活動を認めてよいものかという話は当然湧き上がる。これを老練なる大麻唯男総務会長が「判決が出るまで」と預かってから2年。北代議士は謹慎を続けてきたが、ようやくこの10月に東京陸軍法廷の判決が下り、北一輝は無期禁固となった。
党内からは、再び除名なり離党勧告をすべきだという声が起こった。なにせ民政党の面子と直近の民意をクーデターは否定しようとしたのだから、2年前の事件直後ほどではないとはいえ、どうしても感情的な意見も出てくる。総務会から対応の一任をとりつけた町田忠治総裁は、さっそく北代議士と会見した。
その後に行われた町田総裁の会見は、ノントウには珍しくすこぶる浪花節なものであり「兄の罪が弟に及ぶ法律は、帝国日本には存在しない」として問題視しない意向を明らかにした。この人情裁きには党内も反論するわけには行かず、皆が平伏。一件落着と相成ったわけである。
最もこの名裁きを党執行部が受け入れた背景には、北代議士の個人的な国家主義団体との人脈を、次期総選挙に利用したい思惑があるという。何とも興ざめな話ではあるが…まぁ、永田町とは得てして、そういうものである。
- 混迷の社大党から仰天の麻生構想。ピーターはピーターでもピーターパン? -
360度、一週回って元の鞘というわけだろうか。社会大衆党の麻生久書記長が突如として発表した東方会との合流構想に、議員わずか18人の小政党が大揺れだ。
麻生久書記長(幹事長)は先日、東西新聞との単独インタビューに応じ「日本において社会主義政策を断固として進めるために国家社会主義勢力とも手を組むことをいとわない」と発言。それは国民同盟、あるいは東方会との選挙協力を意味するのかという記者からの問いかけに「国民同盟は既成政党であるが東方会は違う」「選挙協力の論理的な帰結は新党しかない」と述べ、大衆党と東方会との新党構想を突如として発表した。
これには大衆党内も猛反発である。ただでさえ東大経済学部のお家騒動の余波と労農派の攻勢に巻き込まれている同党内からは「あまりにも時勢が読めていない」「反ファッショの日本無産党に票を食われるだけだ」と悲鳴のような声が上がる。麻生発言直後、離党を模索す議員がいるとの情報が流れたことで、犯人探しに上を下へ下を上へ、右を左の左が右への大騒動。ただでさえ少ない支持者を幻滅させている。単一無産政党とされる大衆党内でも旧日本労農党系を率いる麻生氏は、近衛新党構想を支持することで党内多数派の支持を受けていたが、ゾルゲ事件以降は西尾末広ら旧社会民衆党系勢力の批判を受け、指導力に疑問符が吹いている。党首の安部磯雄老人(旧社会民衆党)は人格高潔な人物なるも、床の間の置物でしかない。
麻生氏が合流を呼びかけた東方会は、いわずと知れた国会の暴れん坊こと中野正剛率いる国家社会主義政党である。民政党を離党した安達謙蔵元内相率いる国民同盟、そこからさらに自派を率いて脱党した同君。かつて浜口総裁時代には民政党の遊説部長として全国各地を訪問したこともあり、全国的な知名度を誇る人気政治家の1人である。先の総選挙後の5月には、自らを総裁とする東方会を結成。ナチス流の一国一党を目指して精力的に活動していたが、反英運動が反ドイツ運動の波に飲まれてからは、いまいちぱっとしない。
実は中野君も何を隠そう近衛新党派。つまりは麻生書記長と夢破れた者同士の、バツ1同士の再婚だと、こちらも評判がよろしくない。そもそも、まだ選挙の洗礼も受けないうちに離合集散とはどういうことかと、至極最もな批判が東方会内から出る。
あえて麻生氏を擁護すれば、大衆党は単一無産政党とは名ばかりで、さらに過激な日本無産党という政党がある。労農派系の支持を受ける同党は、一時期、その過激な政治主張から内務省において治安警察法による結社禁止令が検討されるも、いつの間にかお流れになったことで勢力を拡大。大衆党に飽き足らない無産党支持者を取り込み、次の選挙では台風の目になるのではないかと見る向きもある。
その前に麻生氏は大衆党書記長として何らかの新機軸を打ち出したかったのであろうが、結果はご覧のとおりだ。かつて麻生氏が東京日日新聞に連載していたロシア通史の表題「ピーター(ピョートル1世)からレーニンまで」を文字って「ピーターパンからレーニン廟まで」と揶揄する声が出る始末だ。つまり夢の国の住民から、政治的あるいは生物学的な死者までを抱合した新党という意味であろうか。どちらにしろ、ろくなものではない。
- 三土総裁体制2年目の評価は? -
(中略)もっぱら影の薄くなったのは旧近衛新党派である。近衛新党派の中における政友会総裁候補という相反するものを唯一代弁出来た中島知久平氏(前鉄道大臣)は、今や中島飛行機の経営に御執心だと陰口をたたかれる有様。まあこれは陸軍や海軍のお得意先を考えれば無理もない。下手に動けば陸軍内閣への倒閣運動と受け取られかねないからだ。近衛前公爵という誰もが納得する総理候補(虚像だったわけだが)がいなくなったことで、政治経験の浅さという同君の弱点がもろに出たとする向きもある。大将がこれでは、元々「反鳩山」以外の共通点のない中島派(そんなものが存在していたかどうかはともかく)の漂流は続き、消極的な林内閣支持派とならざるをえない。
ならば次の総裁は鳩山一郎氏かといえば、これにはナチスの武装親衛隊(SS)ならぬ鳩山親衛隊(HS)と揶揄される鳩山系以外の全勢力が一致結束して否定する。旧政友派、革新系の政策を掲げる議員集団に加えて鳩山氏の義兄である鈴木前総裁に除名された出戻り組である旧昭和会勢力も、鳩山だけは嫌だと声を揃える。田中・犬養、そして鈴木の3総裁の下で延々と主流派であった鈴木派への反感と、やりすぎた「ツケ」である。最近は反ドイツ運動に肩入れして、林総理の外交政策を批判している点もマイナスだ。結果、林総理という暫定政権が長引くのと同様に、党の分裂を防ぐという名目で発足した中間派の三土忠造氏の暫定総裁も長引きそうである。しかし暫定総裁で選挙に勝てるか?と聞かれると、これがわからない。
次の総選挙は少なくとも任期満了の昭和15年(1940年)の2月までに行われる予定だ。改めて各党の状況を見てみよう。民政は党内若手を完全に押さえ込んだ町田忠治というノントウ老人、政友は指導力はないが閣僚としては及第点の三土忠造。どちらも不安定要素を抱えており、勝てるとは言い切れない。しかし積極的な負ける原因も見当たらない。少なくとも大衆的な魅力はなく、まして両党総裁を総理候補とみなす者は、同党幹部の中でも少数派である。
一時は次期総選挙における台風の目と目された社会大衆党はあの体たらくで、国民同盟も東方会も内紛続きでぱっとしない。反ファッショを掲げる極左の日本無産党は、国政選挙に望む前から労農派系と労働組合系の主導権争いをしている始末。口の悪い馬場恒吾が「永田町で光るものといえば、総理の頭」と言うのも尤もである。
昨年のうちにでも総選挙があれば、まだ勢いのあった社会大衆党が勢力を拡大することで既成政党も含めた政界再編が進み、永田町の風景は大きく異なったかもしれないが、それこそ死んだ赤子のなんとやら。故・原敬総理は選挙をして大政友会をつくりあげたが、選挙をせずに自分の地位を固めたとあっては、これはもう前代未聞であろう。
誰の事とはあえていわぬが武士の情けだが、念のために付け加えておこう。褒めているわけではない。
- 東西新聞政治評論『古今東西政界展望』より -
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かつて歌川広重が月見の名所として江戸百景として浮世絵に描いた三田は、現在では東京府東京市の芝区と麻生区に分割されている。旧大名屋敷跡地の再開発により明治中期にはすでにその名勝はなくなっていたようだが、それでも綱町の三井倶楽部を始め、慶応義塾の三田キャンパス、あるいは華族の中でも指折りの資産家として知られる蜂須賀侯爵邸など、東京の中でも格式の高さを誇る。
三田綱町の渋沢子爵邸はその中でもひときわ広大な敷地面積を有している。何せ屋敷の内部に「屋根裏部屋」を称する民俗学に関連した私設博物館を運営している位だ。
これは当主の渋沢敬三が、第一銀行副総裁の家業の傍らで手がける個人的な趣味の一環であり、全国各地の郷土玩具から民具、古文書に実地研究の資料など収蔵物は多岐に渡る。その総数は渋沢本人にすらわからないという。渋沢子爵の招待-という体裁により三田の屋敷を訪問した若槻禮次郎と幣原喜重郎の両男爵は、当主自慢の屋根裏部屋を称する木造美術館の2階展示室へと通され、第一銀行に関する陳情とは名ばかりの収蔵品に関する説明を受けていた。
「……ということですな。つまり史料に傾倒した歴史学的なアプローチでは、史料批判に基づく研究では限界があるというのが柳田(國男)さんの考えなのです。確かに地震や火災、台風などの天変地異は記録に残りますが、何もなかった日常というものを記録することはない。紙自体が貴重品だということもあるのでしょうが。だからこそ現地における調査が重要なのですな。この点では考古学にも通じるものがありますが-」
山陰地方の旧庄屋敷にわざわざ人をやって収集させたという竹製の籠、そこに詰め込んだ児童向けと思わしき玩具をひとつずつ熱心に説明する姿は、ひょっとすると本業の銀行業よりも熱心かもしれない。その渋沢の民芸熱にあてられたものか、幣原は本題に入る前からくたびれきってしまっていた。閣僚時代は傲岸不遜で他の閣僚から不評を買った幣原も、縁戚関係にある渋沢を無下にするわけにもいかず、その説明に耳を傾けさせられている。
もう11月だというのに幣原がスーツを脱ぐと、シャツには汗がにじんでいた。いくら情報保全のためとはいえ、渋沢邸を選択したのは失敗だったかと考えつつ、かつての上司に視線を向けると、若槻元総理はケロリとしたもので、椅子に腰掛けることもなく、20畳はあろうかという広大な展示スペースを歩き回り、渋沢自慢の民芸品や考古学的遺物、あるいは何のものかも定かではない化石等を見物して回っていた。
この夏目漱石を貧乏臭くしたかのような男のどこに、そんな体力があるのかと幣原は呆れながら、渋沢の話が途切れるタイミングを見計らっていた。
「……というわけですな。この常民と庶民の違いについては、柳田さんは確固たる定義をまだ示されておられませんが、確かに日本は大規模な民族移動や海外勢力の侵略を経験しておりません。つまり常民の活動が地方においては継続的に営まれてきたと考えられるのです。豊臣秀吉の兵農分離により旧来の土豪勢力の内、帰農を選んだ旧支配層の多くは江戸時代を通じて庄屋や名主として存続したわけでありますし……」
「ま、渋沢さん。その辺で勘弁してはもらえませんかね」
陳列物の中から木製の独楽と思しきものを、透かすようにして持ち上げながら言う若槻に、渋沢は一瞬、きょとんとした表情を浮かべ、恥ずかしそうに頭をかきながら笑った。
「いやいや、これは失礼しました。どうにも民芸の事となると熱が入りましてな」
「むしろ安心しましたよ。体調も本復されたようで何よりです」
先代の渋沢子爵こと渋沢栄一を晩年に介護したことで、渋沢敬三は肉体的にも精神的にも疲弊して糖尿病を発症。一時は人事不省となったが、ようやく貴族院議員としての政治活動や財界活動、あるいは日本民族学会の活動に復帰出来るまでに体力が回復した。それでも第一銀行の業務は、渋沢栄一の娘婿である明石照男に任せてはいるが。祖父によく似た柔和な顔で、渋沢は首をかしげながら気恥ずかしそうに答える。
「いえ、まだ本調子というわけではありませんがね」
「それだけ話されるのなら大丈夫でしょう…これ、座ってもよろしいので?」
展示物である小鼓のような形をした籐製の椅子を指す若槻に、渋沢は「無論かまいませんよ」と鷹揚に頷いた。幣原も年代ものと思しき折りたたみ式の床机を勧められたが、果たしてこれに腰掛けてよいものか戸惑っていると、渋沢があははと笑って手を振る。
「椅子は座るためのものですからな。これらは陳列して鑑賞するための美術品として作られたものではありません。無論、そう乱暴に扱われても困るのですがね。椅子としてつかってやらねば、道具に対して失礼というもの」
「子爵がそうおっしゃるのでしたら……」
幣原がおっかなびっくりといった様子で腰掛けるのを見て、渋沢が三度笑う。場の雰囲気が納まるのを待っていたかのように渋沢は自らも床机に腰掛け、ちょうど若槻や幣原と三角形になる位置に陣取る。
そこから先の渋沢の所作は、思わず若槻や幣原が見入ってしまうほど洗練されたものであった。背後から竹製の床机台を取り出し、それを中央に置く。すると自身の胸ポケットから赤いハンケチーフを取り出し、毛氈のようにそれを広げる。即席のテーブルの上に、先ほどから持ち歩いていた籠の中から、銀色をした象のマークがついた円筒形の筒と、ティー・カップのセットを3つ取り出して並べる。ただそれだけの所作であるというのに、皮肉屋の幣原ですら、実に見事なものだという感想を抱いた。
「魔法瓶ですか」
「実地調査には必要不可欠なものです。冷たい水は腹を冷やしますからな」
若槻の問いかけに、渋沢は象のマークのついた市川兄弟商会のそれを見せる。蓋が開かれ、まだ暖かい湯気とともに、薔薇のような紅茶の香りが展示室に広がる。「あえて日本茶にこだわる必要もないでしょう」と渋沢が悪戯っぽく笑うと、若槻は闊達に、幣原はいささか戸惑い気味ながらも口元を緩めたが、すぐさま仏頂面を浮かべた。
「……これは、セイロンですか」
「えぇ、良いものが手に入ったので」
さらりと答えた渋沢は、カップを利き手で口元に運ぶ。セイロン島といえばかつてはオランダ領であったが、ナポレオン戦争を経て英国領となり、現在では大英帝国のインド洋支配における重要な拠点である。
分割して統治するというインドで行われた統治がここでも行われ、プランテーション農業が鉄道網の整備とともに推し進められた。この紅茶もその商業作物のひとつである。英国に対してさほど…というよりも、かなり良い感情を持っていない幣原にとっては、当て付けにしか思えない。考えてみれば象印の魔法瓶を使った事すら隠喩的ではないか。そういった感情を視線に乗せてぶつけてみれば、渋沢は「考えすぎですよ」と、こちらの考えを呼んだかのように手を振った。
「単に良い茶葉を手に入れたので、提供したまでの事です。次の通常会において、日英経済、関税協定に関する一連の諸条約の調印が行われると、このすばらしい紅茶も手に入れやすくなるでしょうな」
「帝国軍はイギリスの憲兵ではない。経済交渉で相手が妥協したからといって、イギリス人のために揚子江で血を流す必要性などあるものか」
幣原は嫌悪感を隠そうともせずに吐き捨てた。
ワシントン体制の下で国際協調外交を推進し、保守派や右派からは「日露戦役で得た権益を欧米に売り渡す売国奴」として批判された幣原であったが、実際には幣原は対米協調論者ではあっても、イギリスに対しては複雑な思いを抱えていた。幣原からすれば、アメリカの警戒感を解消するために日英条約を廃棄して4カ国条約を締結するのはやむをえないと考えていたが、イギリスが率先してそれに賛成した事は「日本よりもアメリカを選択した」と不愉快極まりない行為であった。
また9カ国条約による支那大陸への単独行動主義を牽制しておきながら、イギリスが一方的に中華民国政府に関税交渉を持ちかけたり、北京政府内部での主導権争い(安直戦争)では日本の敵対陣営を応援したり、果てはポンド排斥運動を日貨排斥運動に摩り替えるが如き動きをしたりと、ことごとく日本の神経を逆撫でしたことを、幣原は外交当局の責任者として忘れてはいなかった。
おまけに日本国内ではそれら一連の行動は「幣原の売国外交」と批判されるのである。南京領事館事件における日英米の共同軍事行動を拒否したのは、幣原にとっては当然の事であり「今まで散々日本を利用しておいて、虫が良すぎる」というものである。
日時を始め細かな事例や交渉相手の個人名までを列挙して、イギリスに対する憤懣を語る幣原に、若槻はいつもの澄まし顔で紅茶を含むばかりだ。渋沢は苦笑しながらこれに応じていたが、経済人としては自国民の保護や経済権益の保障に関心がないかのような元外相の発言には思うところがあったが、この件に関しては平行線になることがみえていたので、何も言わずに若槻男爵の発言を待った。
「しかしだ幣原君。この経済協定には君も反対というわけではないのだろう?」
「実際に英国に良いように利用されているではありませんか。ブリュッセルでは9カ国条約に基づく会議の開催が決定されたようです。上海および揚子江流域の治安維持活動、そのための多国籍軍編成。実に結構なお題目ですが、その実は日本が中心とならざるを得ません。それも、満洲事変を引き起こした陸軍が!」
幣原の剣幕に若槻も黙り込む。日本政府が各国に呼びかけ、当事者である南京国民政府を除く8カ国により開催されることが確実視されている9カ国条約会議では、日本が提案する予定の治安維持のための多国籍軍の結成が承認される見込みだ。
当然ながら地理的要件から多国籍軍の中核となる日本の意向に沿い、司令官は日本が推薦する前教育総監の渡辺錠太郎(陸軍大将)ということになる。北清事変(1900年)では最も地理的に近くにありながら、連合軍の足並みをそろえるためという理由で援軍が遅れたことを考えれば、ようやく日本の実力を欧米に認めさせたということにもなるのだが、幣原は「つまらぬ感傷だ」と切って捨てた。
「あの時もそうだった。ボーア戦争でまともな兵も送れぬイギリスが総司令官、そもそも山東省で清国と問題ばかり起こしていたドイツも、自分が行くまで動くななどと……」
「日本単独での援軍という選択肢はなかったのですか?」
「……渋沢さん、日露開戦の4年前ですよ」
呆れたような幣原の口調に、渋沢は「そうでしたな」と頭をかく。日本としては南下政策を進めるロシアを防ぐためにはイギリスを総司令官とする必要が何としてでも存在した。ドイツが我を張ったのを幸いにロシアの単独行動を牽制しなければ、いま頃、満洲はどうなっていたか。日本が単独で北京(当時)に兵を進めれば、ロシアもそれを口実に兵を進めただろう。そうなれば日本単独ではどうしようもない。
当時の情勢を渋沢に解説する幣原に、黙り込んでいた若槻が口を挟んだ。
「多国籍軍ということとなれば、陸軍も好き勝手は出来ないだろう。幣原君の心配も理解するが、渡辺大将は、福島(安正)大将に劣らぬ知性の持ち主であるし、国際政治にも理解のある男だ」
「私はそこまで楽観視出来ません」
幣原は再び吐き捨てるような調子で、若槻の見解を否定して続けた。
「どうも陸軍内部では、2・26事件の判決が出た事をきっかけに、軍部大臣の現役武官制度の再改正を検討しているようなのです。総理官邸においても検討が進められているとのことで、総理補佐官の佐藤(市郎)中将を通じて海軍にも打診されたと」
「聞いている。現に林総理から私に直接、打診があった」
「無論、反対したがね」と答えた若槻は、ティーセットを持ったまま立ち上がると、背後にあった南方の民芸品がぎっしり詰まったガラスケースを覗き込みながら、何でもないかのように続けた。幣原は顔から色を消すと「よろしいのですか」と、かつての上司の背中に問いかけた。
「よろしくはない。あれは抜かないことに意味のある伝家の宝刀だ。いざとなれば予備役から大臣を出せるのだと現役を威圧し、その政治行動を抑制することに意味がある。抜いてしまえば、その段階で内閣はつぶれてしまうだろう。つまりそれほどの劇薬だからこそ、使わない事に意味があるのだ」
「では何故、林総理はそのようなことを?やはりかの越境将軍は、基本的な政治のイロハすら理解していない、陸軍の神輿に過ぎないと」
幣原の詰問するような口調に若槻は振り返ると「陸軍には陸軍の言い分があるということだ」と他人事のように続け、立ったままで紅茶を口に含んだ。
「真意はわからぬが、たしかに陸軍の意向を受け入れたと考えると話の筋は通る。無論、表向きは粛軍人事、あるいはそれ以前に追放した過激派将校の復権を防ぐためのもの。たとえば荒木(貞夫)君、次官だった柳川(平助)中将とか、そういった連中を復活させないための措置だ」
「理由になっていません。それはあくまで陸軍の理屈でしょう。テロやクーデターで国体を危うくした陸軍に。政権に対する拒否権を与えることなどあってはならないことです。第一、海軍が賛成しないでしょう」
「確かにそれはそうだが……」
部屋のちょうど中央にある柱時計にまで歩み寄った若槻は、そこで言葉を濁した。
軍部大臣現役武官制の改正は、海軍の長老であった山本権兵衛が、第1次内閣(1913-14)で成し遂げた功績である。当時の山縣閥支配の陸軍の政治的な干渉に対する歯止めであるのと同時に、海軍の陸軍に対する挑戦である。いさかいの絶えない陸軍に比べれば、海軍一家とも呼ばれる団結を誇る海軍の中長期的な政治力を拡大する-実際にその目論見は成功したといってもよい。海軍軍令部の地位を引き上げ、参謀本部とほぼ同格にまで引き上げることが出来たのだから。
ならばその再改正に海軍がイエスというわけがないという幣原の指摘に、柱時計を見つめていた若槻は「他言はしないでもらいたいのだが」と渋沢の方を見ながら言うと、重い口を開いた。
「幣原君は加賀の噂を聞いたことはあるか」
「……いえ。初耳ですが。航空母艦の加賀ですか?」
「それはそうだろう。聞いたことはないはずだ。私も牧山代議士(牧山耕蔵・第2次若槻内閣の海軍政務次官)から聞くまでは知らなかったからな。風評を気にしない陸軍と違い、体面をひどく気にする海軍はそうした点では抜かりがない。陸軍に比べて優秀であるし…」
政治家らしからぬ-むしろ官僚としての優秀さとしての裏返しでもある直截な物言いの若槻には珍しく、もって回った言い回しをすることに、幣原も渋沢も内心首をかしげていた。ようやく踏ん切りがついたのか「緘口令がしかれていたようだが」と誰に言うとでもなしに呟くと、再び籐製の椅子に腰掛けた。ただでさえ冴えない若槻の顔色に、陰気なものが浮かんでいる。
「第3艦隊は支那方面派遣艦隊だ。第2次上海事変当時、赤城は改装中であり、行動可能な空母は3隻-つまり加賀と鳳翔、そして龍驤だった。海軍は3隻すべてを第3艦隊に派遣した」
「ええ、鳳翔と龍驤を多段式空母である彼女が引き連れた写真は、新聞各紙も大きく取り上げていましたな」
「しかし虎の子の空母を良く撮らせましたね?」
渋沢の問いかけに、幣原ではなく若槻が「イメージ戦略ですよ」と短く答える。
航空戦力の拡充と空母戦力の重視は海軍の最重要課題のひとつであり、国民に広くその重要性を訴えかける狙いがあった。その点でいえば活動の機会が限られるとはいえ、上海という戦場は格好の舞台であったと若槻は言う。さすがは文官でありながらロンドン海軍条約の全権として獅子奮迅の活躍をしただけのことはあり、その説明は文民である渋沢にもわかりやすいものであった。
だからこそ、何ゆえ武官制の問題でそれを取り上げるのかが、渋沢にはわからなかったが、その理由は直ぐに若槻の口から説明されることになる。
「問題はその艦内における軍規紊乱問題だ」
「見過ごせるレベルものではなかったらしい」とする若槻元総理に、幣原がごく当たり前の疑問を差し挟んだ。
「若槻さん。私は何も海軍の肩を持つわけではありませんが、洋上艦内の閉鎖的な環境では、軍規の乱れは問題は往々にして起こりうる事と聞いています。それを防ぐ為に厳しい訓練が行われている事も周知の事実ではありませんか。なんでしたか……そうそう、鬼の山城に地獄の金剛、音に聞こえた蛇の長門、でしたか?それに、それが武官制度の再改正と、何の関わりがあるというのです」
「古参兵による私的制裁や集団暴行により、自殺者や逃亡兵が出ていても、かね?」
「賭博に官給品の横領、そして不祥事の組織的な隠蔽」と元総理の口から列挙される言葉に、さしもの幣原や、門外漢である渋沢も口を閉ざす。
政界において統帥権なる言葉が暴風雨のように暴れまわったことで、軍に関する問題は一種タブー視されるようになった。そして2・26事件における陸軍の対応があまりにもお粗末だっただけに、海軍はそれと比較して良心的な存在とみなされ、予算に関してもそれほど政治問題化することはなかった。
しかし不祥事の揉み消しが事実とあれば、話はまるで異なってくる。ロンドン海軍条約から正式に脱退して約2年。各国が建造を中止していた新造艦に着手する中、日本もその例外ではない。噂ではこれまでの常識を覆す大規模新造戦艦の建艦が決定されたとの噂も流れてはいるが、ドックの建設なども考えれば予算要求はこれからということになる。
そんな状況でこの事実が明るみになればどうなるか。まして今は、いわゆる機関課問題と呼ばれる海軍の長年の人事不均衡を解消するための将官一系化に取り組む最中にある。政治の素人である渋沢にも、それは理解出来た。
「いや、しかし陸軍とて私的制裁は日常化しているそうではないですか。調査すれば海軍よりもひどいものが出てくるのではありませんか」
「それはそうだろうが、今は海軍の問題だ」
若槻は幣原の反論をあっさりと否定して続けた。
「班や分隊レベルの問題ではなく、少なくとも艦長クラスは私的制裁を黙認していたようだ。ただ自殺者に関してはまだ私もわからない。牧野君が調査中だ。加賀についての軍規の乱れは相当深刻であり、大規模な戦闘が終了したという名目で第3艦隊から外してGF(連合艦隊)司令長官直轄の第1艦隊に呼び戻し、綱紀粛正が図られた。しかし前任の艦長らは特に責任を問われることもなかったらしい…内々ではあるが、海軍からは再度調査と再発防止に取り組むという回答が、党に来ている。つまり現状は是正されているともいえる」
「問題なのは」若槻は頭に左手をあてて、頭が痛いといわんばかりに目を瞑った。
「次の通常会で公正会がこれを取り上げるつもりらしい。畏れ多くも陛下の赤子を見殺しにし、皇軍の資材を横領した犯罪艦としてな」
「陸海の戦争になりますよ、それは!」
渋沢は絶句し、幣原は悲鳴のような声を上げた。
不偏不党を掲げる貴族院には政党が存在しないが、互選団体である研究会や政党の別働隊である勅撰議員ごとの会派などがいくつか存在している。公正会はかつては憲政会(民政党の前身)系の別働隊であったが、今では退役軍人が主導権を握る親軍的な会派として存在感を発揮している。天皇機関説で美濃部博士をつるし上げた菊池武夫男爵(退役陸軍中将)を始め、在郷軍人会を代表する井田磐楠(退役陸軍少佐)など、うるさ型がそろっている。
「井上議員(井上清純・退役海軍大佐)などの、公正会内部の海軍OBに働きかけは」
「機関説問題で美濃部博士を非国民扱いした井上大佐が、今の海軍首脳部に協力するとは私には思えないがね。それに事がことだ。これが加賀艦内の問題に留まるのなら……それはそれで問題だが、なんとかなるかもしれない。問題はそこに留まらなかった場合だ」
若槻が憂慮するのは、この問題が艦隊司令部や海軍上層部に波及した場合だ。当時の第3艦隊司令長官である長谷川清中将は、今の横須賀鎮守府司令長官で次期海相の有力候補。前GF長官の吉田善吾中将は海軍参事官として海軍省本省に席をもつ。「前GF艦隊司令部が組織的に自殺者の一件を隠蔽した疑いがある」と、知名度のある菊池が声を上げれば、即座に国民皆兵の根幹を揺るがす重大問題になりかねない。
それに横領に関しては、政治と金の問題に嫌悪感を持つ議院の多い貴族院にとっては見過ごす事が出来ない案件である。何より自殺者が出たとあっては国民が納得しない。
「あるいは前の海軍次官で、今のGF長官である山本五十六中将、海軍大臣の米内君の責任問題にも波及しかねない」
「しかしそれは悪魔の証明ではありませんか。報告があったことを握りつぶしたのなら、どこかに痕跡が残ります。海軍とて行政官庁のひとつなのですから、文書もなしに口頭だけですまされることなどありえません。ですが報告がなかった場合、これを証明するのは不可能です」
「確かにその通りだ。行政に携わった人間としては、幣原君の言うことは正論ではある。だがその正論を、国民がその理屈を受け入れると思うかね?」
幣原はこれに身を乗り出して訴えた。
「今、海軍が政治的な発言権を失えば、誰が大陸における陸軍の横暴をとめるというのです。渡辺大将はよいとしましょう。その次の司令官も穏健派である保障はどこにあるというのです?海軍に問題があるとしても、陸軍の政治干渉と、内閣に無断で行う軍事行動ほど深刻だとは私には思えません。統帥権干犯というのなら、先の満洲における行動こそ、まさにそうではありませんか」
「君は目をつぶれというのかね。民政党が海軍と一緒に沈没しろとでも?」
「しかしですな……あぁ、その…」
あえて日常的に無理を押し通さない事と同時に、道理に合わぬことは嫌うのが若槻流である。不正義と隠蔽に加担しろと促すかのようなかつての部下の言に、若槻は険しい表情をする。幣原はそれでもごもごもと口の中で何かを繰り返す。それを見かねたのか、幣原ではなく渋沢が代わって口を開いた。
「若槻閣下は陸宗輿を覚えておいでですか」
「陸閏生(宗輿)?」
その名前を伝えられた若槻元総理は、奇しくも幣原が自身の甥からその人物の来日を知らされた時と同じような、呆れとも感心ともつかぬ声を上げた。少なくともその反応は懐かしい知友の消息を伝えられたというよりも、「まだ生きていたのか」という単純な驚きのほうが大きいように、幣原と渋沢には聞こえたが。
「あの駐日公使だった、陸かね?あの忌々しい中華匯業銀行の総経理だった陸宗輿?」
「彼以外に陸宗輿という名前の人物は、少なくとも中華民国政府の要人には私の知る限り存在しません。先月末に来日したそうで、私の甥である加藤厚太郎と一緒に私のところへやってきまして…」
「加藤元総理の息子さんか。さすがに岩崎家は閨閥が広い」
若槻は彼が総理時代もそうであったように、淡々とした口調でそれを指摘する。
明治維新後に苦学して官僚なり政財界に地歩を得た人物の多くは、一族を動員してでも閨閥関係を積極的に結ぶことで、その地位を固めた。しかしこの若槻禮次郎という島根県出身の風采の上がらない元大蔵官僚は、そのようなことをした形跡がまるでない。しいて言えば娘婿である元大蔵官僚を自分の内閣で総理秘書官にしたことぐらいだが、あえて娘婿を積極的にどこかに押し込んだこともなかった。しかし若槻の口ぶりには岩崎なり幣原の閨閥を揶揄するような響きもなかった。
三菱財閥は言わずと知れた岩崎兄弟が明治時代に起業したものだが、創業者の岩崎弥太郎の長女が憲政会の総裁であった故・加藤高明元総理の妻であり、加藤厚太郎伯爵の母。岩崎弥太郎の妾腹の娘が幣原喜重郎元外相の妻なので、加藤と幣原は義兄弟の関係になる。三菱が憲政会-民政党の後ろ盾であるというのはこうした閨閥や歴史的な結びつきが背景にある。
「東亜火災海上保険は澳門に支社があります。その関係で接触してこられたようです」
幣原に代わり、岩崎家経由で加藤伯爵家と縁戚関係にある渋沢がその関係を説明する。
幣原の甥である加藤厚太郎は三菱銀行を経て、系列保険会社の東明火災海上保険の取締役だが、その加藤を通じて接触を図ってきたのが、ポルトガル共和国が統治権を持つ澳門に本店を構える中華匯業銀行の顧問である陸宗輿。今は失脚したとはいえ、かつては北洋軍閥の流れを汲む北京政府内部で新交通系を代表する大物政治家であり、駐日公使も務めた。
当然ながら若槻もその名前は承知している。つまり北伐により支那大陸を統一した(ことになっている)今の南京国民政府には、まったく影響力のない過去の人物であることも若槻は理解していた。
「生憎だが、私は当代の加藤伯爵とはさして親しくはない。いまさら匯業銀行の顧問が何の用があって。まさかビリケン宰相(寺内元首相の渾名)の貸し出した金を少しばかりでも返してくれるとでも言うのかね?」
「あれは無駄金でしたな」
幣原が履き捨てるようにいう。そもそも陸が今顧問を務める中華匯業銀行は、大正期に寺内正毅内閣における西原借款により北京政府に貸し付けられた1億5千万弱にも及ぶ資金を運用するために設立された日中合弁会社である。正当なルートではなく総理個人の怪しげな特使を代表にして行われた交渉に基づく貸付に、若槻や故・加藤などの憲政会は議会で批判したが、案の定そのほとんどが不良債権となり、その後処理は昭和初期まで長引いた。幣原や若槻の憲政会とその後継政党である立憲民政党の軍閥外交批判の背景にある苦い記憶だ。
「鉄道敷設事業や山東省における林業等へ出資するはずが、ほとんどが政治資金として、それも新交通系の派閥を維持するためだけに使われたのですからな」
「匯業銀行の総経理だった彼には、それに関する説明なり釈明があってしかるべきだと思うがね?」
「若槻さんのお怒りは尤もです。私としても外交の責任者として苦労させられた案件ですので。ですが、ここはひとつそこを抑えて、抑えていただいた上で」
プライドの塊のような外交官の癖に、妙な俗っぽさがあるのは大阪出身故かと若槻が妙な考えにふけるのを、肯定とみなしたのか、幣原は眼鏡をハンカチで拭くと、それを掛け直しながら口を開いた。
「国民党の西山会議派を中心に、南京国民政府の主席に呉佩孚を推す動きがあるそうです」
「馬鹿な」
若槻は、この人には珍しくあからさまな冷笑を浮かべて、かつて自分の内閣で外相を務めた人物の言を否定した。それは幣原というよりもその話を彼の元に持ち込んだ元公使に向けてのものであったが。
「北京政府の陸軍総長経験者を南京政府が受け入れるわけがあるまい。それに現に、党内左派の汪兆銘が就任するだろうと君も見通しを語っていたではないか」
若槻が言うように、現在の中国国民党はかつて辛亥革命直後に宋教仁が指導した議会政党の国民党とはまったく異なる存在である。袁世凱との抗争に敗れた孫文によりソビエト共産党をモデルとした革命政党に生まれ変わった同党は、党と政府、そして軍を一体化させた。しかし孫文の死後には党内における共産党系勢力の伸張に反発した党内右派が、新たな党内派閥を結成して蒋介石主席や汪兆銘らの左派、中国共産党系勢力と対抗した-それが西山会議派である。
彼らは中央とは別に中央執行委員会全体会議を挙行。反共と容共左派勢力の追放は本来あってはならない重大な反党行為であるにもかかわらず、これが見過ごされたのは、彼らの背景に、上海の浙江財閥における反蒋介石グループが存在していたからである。
彼らにとって資本の国有化を掲げる共産党との連携などあってはならない。国民党の分裂を望まないまでも共産党系を牽制したい思惑と党内右派との思惑が一致したからである。国民政府の前主席であった林森が西山会議派であったように、蒋介石も党内融和のために形式とはいえ政府代表の地位を与える必要があった。
つまり彼らはどこまで言っても国民党内の右派勢力であり、国民党と敵対していた北洋軍閥系の北京政府の残党と手を組むことなどありえない。まして旧直隷派の呉佩孚は、北京政府の中で南北軍事統一に反対したことで全国的な知名度を誇ってはいるものの、大正末期の1923年には北京-漢口間を繋ぐ京漢鉄道の労働者のデモを武力弾圧(2・7事件)したことで、その名声は地に堕ちた。最終的には北伐軍に破れ、かつての部下の元を転々とした後、1930年ごろにようやく北平(旧北京)に落ち着く。確かに旧北京政府内部では数少ない正当な軍事教育を受けた人材ではあるし、陸軍総長や巡閲使の経験がある人物ではあるが、そのような人物を西山会議派が担ぐわけがない。
言葉を極限までそぎ落として端的にその事実を指摘した若槻に、幣原は「そうではないのです」と首を振る。そして貴族院における最大会派である研究会に所属する渋沢がある人物の名前を挙げた。
「坂西議員(利八郎)が英国との経済協定に反対する方向で、議会工作で動いています」
「研究会の陸軍出身議員にも接触がありました」と続けた渋沢の言に、若槻が幣原に確認のための視線を向けるが、幣原は首を横に振った。そもそも貴族院における民政党系官僚の所属する同和会に所属する幣原であったが、現役時代の評判の悪さから議会では孤立した存在である。そんな人物に議会内部の情勢を尋ねた自分が馬鹿であったかと、若槻は自嘲し、再度渋沢に尋ねた。
「公正会の菊池男爵に、海軍の入れ知恵をしたのも坂西かね」
「おそらくは」
「第2次上海事変における共同作戦中に、情報を入手したのでしょう」
小さく頷く渋沢と幣原に、若槻は腕を組んで低いうなり声を上げた。陸軍シナ通の創設者とも呼ばれる坂西利八郎(後備役陸軍中将)は、現在では第一線を退いて勅撰貴族院議員として活動しているが、現役の-特に大陸関係の諜報関係者には、いまだに影響力を持っているとされる。粛軍人事において過激派分子が相当数、陸軍を追放されたが「大陸における諜報関係が困難になる」という理由から、支那通や、その流れを汲む満洲事変を企画した満洲組の完全追放には至らなかった。
若槻の脳裏にはある人物の顔が思い浮かび、点と線とがつながり始める。イギリス側からすれば支那大陸における日本の軍事力をあてにしての経済協定である。呉佩孚の擁立運動はそれに対する重大な裏切り行為と捉えるであろう。
つまり日英関係の改善を望まない勢力-たとえば現在の上海における日本軍の優位な体制を保ちたい勢力にとっては、成功しても失敗しても損がない。今でこそ世間においては反ドイツ運動が盛り上がっているが、それまでは反英運動-支那大陸における英国の経済特権の打破が、日本の在野右翼団体、あるいは対外硬派運動の中心だったのだ。伝統的に親英派の多い海軍の面子をつぶし、あわよくば現在の林内閣を打破出来るかもしれない。
その後継を選ぶ際には、現役武官制度の再改正により手にした発言権を利用する。少なくとも林内閣の足を引っ張る事で利益が得られる勢力。これだけの絵図を描くことの出来る人間は、それも陸軍内部においては限られている。点と線を遡るまでもない…奇しくも若槻と幣原は同じ人物に思い至った。
「大陸の在外公館からも同じ報告が。呉佩孚擁立運動の背景には、土肥原中将が動いています」
「坂西機関の残党か。よくよく祟ってくれるものだ」
2度目の内閣を関東軍の引き起こした軍事行動により投げ出した元総理は、諦めの含まれた声で呟いた。
・磐石に見える林体制…だと思った?残念!土肥原ちゃんでした!
・暴風雨の前は無風に思えるものです。
・北代議士問題はオリジナル。しかしよくも民政党はこの人を受け入れたものだよな。
・史実でもあった社大党と東方会の合流構想。37年の総選挙で勝ってても起きたということは、それなりに両党とも限界が来てたんだろう。
・暗躍する鳩山。めんどくさくなった中島。
・貧乏くさい夏目漱石こと若槻禮次郎。われながら気に入ってるフレーズ。
・嫌なやつとして書こうとした幣原喜重郎。もうちょっと憎たらしく書きたかったなあ。
・渋沢敬三。放蕩で廃嫡された親父さんを飛び越して家督相続した。大体この時期の財閥当主の良い見本みたいな人。第一銀行副頭取だったのは体の関係もあったんだろうなあ。
・市川兄弟商会。象さん印のあそこですね。なおスリランカにも象はいるそうです。
・加賀「……(激怒)」
・まあ時代が今とは違うとはいえ、自殺者と横領は当時の基準でもアウトだろうなあということで。
・菊池武夫がアップを始めました。
・あんまり人の顔であれこれいいたくありませんが、何かみょーにむかつく顔をしておられる菊池男爵(参考・ウィキペディアの写真)。たぶん悪い人じゃないんだろうけどね(褒めてない)