中央公論11月号 / 大阪日日新聞 / 兵庫県神戸市神戸区 旧居留地内 オリエンタルホテル / 東西新聞 / 東京府東京市 赤坂元町3丁目 高橋是清別邸(1938年11月)
「京阪神は鉄道省にやって貰わんでもよろしい。そんなことは大きなお世話です。我々がどんなものにでもして御覧に入れます」
小林一三(1873-1957)
- 「神戸銀行」実現に立ちふさがる壁とは -
(中略)…いわゆる「一県一行」構想は、日本勧業銀行総裁であった故・馬場鍈一氏の発案であり、中小銀行の整理再編を国主導で推し進めようとするものである。度重なる恐慌により再編が進んだとはいえ「銀行が多過ぎる」(高橋亀吉氏談話)状況は続いており、中小銀行が乱立する状況は、平時に至れば競争の激化を招き、新たなる金融危機の原因となりかねない。また経営不安から預金者が既存の財閥系金融機関に集中する一極集中の傾向は続いていた。
このような現状認識のもと、大蔵省は銀行局が中心となり馬場構想を支持していた。
この馬場構想によれば、府県単位か、もしくはそれに準じる地域毎に資本金1000万円程度の銀行を設置することを目的としていた。これにおける政府の役割は、銀行法の改正や日銀融資を通じた後押しであった。
晩年の馬場氏は高橋是清元蔵相(現・内閣参議)の公債の段階的な漸減には否定的であり、むしろ国債増発を含めた予算の拡大を含む、大胆な財政出動論者として論陣を張っていた。しかし五大銀行(三井・第一・三菱・住友・安田)を筆頭とする財閥系金融機関は国債引き受けに消極的であり、当然のように財閥系から支援を受ける既成政党や、一刻も早い金融政策の正常化を図りたい日本銀行も、予算の拡大に否定的であった。そのため馬場氏は新たな引き受け先として中小銀行の再編による受け皿を考えたものと思われる。
当初、大蔵省において予算編成を担う主計局が馬場構想に否定的であったのは、ここに繋がる。斎藤内閣発足以来続く挙国一致内閣において、いわゆる高橋財政を影で一貫して支え続けたのは大蔵省主計局である。無論、政局の中で予算編成の主導権について閣内で暗闘が続いていたわけだが、主計局が蚊帳の外であったことはない。この主計局を押し切る形で銀行局が馬場構想支持で省内を取りまとめることが出来た(あるいは同意させた)理由としては、表看板は「金融危機再発防止」であり、実際には銀行再編の主導権を握ることで、新たな天下り先の確保することにあった。大蔵省としては再編を通じてOBや出向を送り込むことで実質的な監督権限を強化し、財閥系金融機関、あるいは日本銀行の金融行政への発言権を削り、自らを頂点とする金融政策を構築する狙いがあると思われる。
・三和モデル
大蔵省銀行局の念頭にあるのは三和銀行であろう。大阪の旧鴻池銀行を本店とする三和銀行は、昭和8年(1933年)に三十四銀行・山口銀行・鴻池銀行の3行が合併して発足した。それぞれ大阪に本店を構えていた3行であったが、営業基盤が重なるとはいえ山口銀行と鴻池銀行は山口・鴻池両財閥の中核であり、三十四銀行は繊維関係者が出資する長期金融と堅実経営をモットーとする銀行と、企業風土は異なっており、資本金でもそれほど大差があったわけではない。このままではジリ貧であることは3行の経営陣も了承していたが、いかんせん資本において明確な差がないことが合併を難しくしていた。この3行合併を主導したのは日本銀行の大阪支店長であり理事であった中根貞彦氏であり、中根氏はそのまま三和銀行の初代頭取に就任する。当時の日本銀行総裁である土方久徴は旧経営陣から構成される創立準備委員会を納得させるために「将来の総裁候補」である中根を送り込む必要があったと述べているが、実際には新銀行は日銀の植民地に成り果てたと批判する声も多い。
大蔵省銀行局が三和を念頭において馬場構想を推進するように、全国地方銀行協会は三和銀行を念頭において大蔵省主導の再編に慎重な姿勢を崩さない。喉元過ぎれば何とやらで、景気回復の恩恵を受けた各行の経営陣からすれば、誰が好き好んで経営の主導権を自ら手放すであろうか。まして成功モデルとされる三和銀行にしても、華々しい船出とは裏腹に旧3行間の内紛が相次ぎ、それが中根会長による日銀支配をもたらした結果、預金残高は合併前より減少傾向にある。これでは関西財界に根強い官僚嫌いが顔を出すのは当然であるし、政権に強い影響力を持つ民政党総裁であり前の商工大臣である町田忠治氏がよい顔をするわけがない(町田翁は元山口財閥出身である)。
町田総裁の推薦で新しく内閣参議に就任した三井財閥出身の池田成彬氏も、銀行再編-より正確に言えば大蔵省主導の再編には消極的である。国内最大の金融機関である三井銀行は、かつての古巣である第一銀行との合併が囁かれているが、池田氏は「吸収合併ならともかく、対等合併などありえない」と猛反対している。一県一行の馬場構想にも「大蔵省の天下り先確保でしかない」とつれない。第一銀行を除けば個別具体的な話に関して池田参与が発言したことはないが、かくして三井銀行のドンと、全国各地の資本金が10万にも満たない中小銀行経営陣との、奇妙な共同戦線が成立する。
・岡崎忠雄の神戸銀行構想
そこで再び注目が集まっているのが神戸銀行(仮称)構想である。元々、兵庫県は明治初頭に玄関港であった神戸港を財政的に支えるため、攝津の一部と播磨を中心に、太平洋から列島を横断して日本海に通じるという、不自然なまでに広い広域行政となっている。そのため県内には現在41の金融機関が存在しているが「神戸銀行」はそのうち、神戸岡崎銀行(神戸市)を中心に、姫路銀行(姫路市)、三十八銀行(姫路)、灘商業銀行(御影町)、高砂銀行(高砂市)、五十六銀行(明石市)、西宮銀行(西宮市)の7行を合併して「神戸銀行」を発足させようというものだ。昭和11年(1936年)に発足した設立委員会には神戸商工会議所の会頭(当時)である岡崎忠雄氏や、牛尾健治(牛尾合資会社代表)など神戸財界の代表的な人物が顔をそろえている。
7行合併といっても、これは事実上の神戸岡崎の6行吸収合併である。神戸岡崎の資本金は1000万、姫路・三十八・灘商業が20万代であり、高砂は5万、五十六と西宮は3万でしかない(われわれ庶民にとっては、それでもとんでもない金額だが)。さらに付け加えれば、7行は別に合併せずとも単独で経営できるだけの体力も資本もある優良銀行ばかりである。つまり経営が苦しくなったわけでもないし、三和のように時の氏神として大蔵省なり日銀が介在する余地などない-というのが岡崎氏始め、神戸財界の意見である。歴史に「仮に」はないが、仮に故・馬場氏が健在であり、昭和11年当時、その一県一行構想を支持する人物が大蔵大臣の地位にあれば、あるいは日銀が土方路線を継続していれば、神戸銀行はすでに発足していたはずだ。
・結城大蔵、深井日銀総裁と関西財界の反発
ところが2・26事件の後、今の内閣で大蔵大臣に就任したのは結城豊太郎氏。奇しくも同君は中根三和銀行頭取と同じく日銀大阪支店長から、先代の安田善次郎翁の不慮の死を受けて安田財閥に入り、日本興業銀行総裁を経て大蔵大臣に就任した経歴の人物である。高橋門下といえば聞こえはよいが、その実はどうか。五大財閥の中で「金融の安田」とはいうものの、その規模は他の4行の後塵を拝している。その安田銀行副頭取として善次郎翁の暗殺後に立て直しに奔走した結城蔵相からすれば、中小銀行がいくら合併しても、国債の引き受け先になりえるかと、疑問を持っていてもおかしくはない。まして結城氏を支える大蔵次官は、大蔵三羽烏と呼ばれる主計局出身の賀屋興宣氏である。
さて日銀はどうか。三和銀行誕生に暗躍した土方日銀総裁のあとを継いだのは、これまた高橋直系で金融ジャーナリスト上がりの深井英五氏。日銀からすれば外様の人物であり、三和銀行の生みの親を自負する日銀生え抜きの土方氏にとっては、それに異議を唱えるかのような深井総裁の言動を快く思うはずもない。深井総裁からすれば金融正常化のために尽力している最中であるのに、詰まらぬことに奔走している暇はないと、こちらもそっけない。神戸財界と日銀と大蔵省、噛み合っていたはずの歯車が外れて、これはどうにもならなぬ。時旬は過ぎ去り、こうして「神戸銀行」は2年近く漂流することになった。
これに激怒しているのが京阪神の財界の雄である小林一三氏である。甲州財閥に人脈を持ちながら、自らは関西財界において押しも押されもせぬ確固たる地位を築いたこの山梨出身の老人は、根っからの官僚嫌いとして知られているが、同時に道理の通らぬことを蛇蝎のごとく嫌うことでも知られている。元々、現在の林内閣の官主導の政策に否定的であるだけに「日銀や大蔵の権益争いで、神戸財界を潰すつもりか!」と怒髪天を衝く勢いだという。これに震え上がっているのは関西選出の代議士であり、民政党の兵庫県連会長である田中武雄(兵庫4区)に至っては「兵庫県連が空中分解しかねない」と党本部に泣きつく有様だ。
結城蔵相としては今となっては身動きが取れない。自らが当事者であることに加えて、銀行局内部で「民間主導の銀行再編など認めない」という意見が沸騰しているからだ。これが非財閥系の新銀行に反対する(安田銀行出身の、あるいは日銀出身の)大臣の意向を代弁したものではないかという流言飛語が流れるから、話が更にややこしくなる。結城大臣としては、何の疚しいところがあるわけでもないのだが、お世辞にも国会答弁が巧みとはいえない大臣が、社会大衆党を始め、連立与党の反林派の名だたる論客の追求に耐えることが可能だと考える大蔵省首脳はいない。政府としても来年度の予算審議を前に、不安要素は一つでも排除しておきたい。そして深井日銀総裁はといえば、土方前総裁や日銀OBへの反発から先延ばしにしてきたものを、いまさら認めてしまっては自分の政治的な面子が立たない。まして大蔵省当局よりも先に新銀行を承認することなどありえない。加えて兵庫県内の反岡崎派の銀行や財界人が地元代議士を通じて働きかける始末なので、さらに収拾がつかなくなる。新銀行から外された=経営に不安があると言われたに等しい彼らとしては「神戸銀行」が発足すれば死活問題となるので必死である。
神戸商工会議所会頭の地位を退き、非財閥系の新銀行発足という長年の悲願を実現するために駆け回る岡崎忠雄の執念が実るか。それとも既成財閥、あるいは大蔵や日銀など反対派の巻き返しがなるか。行く末が注目される。
- 中央公論11月号『神戸金融戦争』より抜粋 -
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- 林総理が大阪入り。大阪財界人と懇談 -
京都府の視察を終えて9日に特別列車で大阪入りした林銑十郎総理は、中ノ島の大阪商工会議所会館において安宅弥吉(大阪商工会議所会頭)が主催した懇談会に出席した。同会には池田清(大阪府知事)と坂間棟治(大阪市長)を始め、中根貞彦(三和銀行会長)、山口吉郎兵衛(山口合資会社)、野村徳七(大阪野村銀行社長)ら多数の政財界の要人が出席。総理との懇談を深めた。
懇談会の冒頭挨拶で林総理は、明治維新後に大阪財界の復権のために尽力した初代大阪商工会議所会頭の五代友厚の名前を挙げ「官民連携の手本となるべき偉大な先達である」と賞賛した。翌日の兵庫県入りを前に、神戸銀行問題について何らかの政治的な意思を示したものではないかと指摘する声もある。総理一行は11日には兵庫県に入り、阪神大水害の被災地視察、および被災者との懇談を行う予定である。
- ヒトラー・ユーゲント団歓送会、林総理が登場も「ポグロム」への発言なし -
12日にヒトラーユーゲント団が離日するのを前に、神戸オリエンタルホテルで関屋延之助・兵庫県知事が主催する歓送会が行われた。勝田銀次郎(神戸市長)、駐日ドイツ大使のオイゲン・オット氏を始め、榎並充造(神戸商工会議所会頭)や、神戸岡崎銀行の岡崎忠雄(前会頭)ら神戸財界・日独文化協会関係者が出席し、和やかな空気で歓送会は開かれた。
関屋知事が歓迎挨拶を終える直前、サプライズの賓客として林銑十郎内閣総理大臣(外相兼任)が紹介され、いささか戸惑い気味ながらも出席者から拍手をもって迎えられた。前日来のドイツからの報道もあり出席は難しいとする見方が大勢であるにもかかわらず、林総理はシュルツェ団長、レデッカー副団長を始め30名全員と時間をかけて言葉をかけながら握手を交わし、3ヶ月に及んだ日本滞在をねぎらった。林総理は乾杯の挨拶で「この青年団の来日が、今後百年の日独友好関係の礎となることを期待します」と発言。奇しくもホテルの外では右翼団体を始め一部の労働組合が、ドイツ国内で発生したポグロムに抗議する抗議活動をする最中のことであり、一連の対応はドイツ側を大いに驚かせるものであった。歓送会とはいえ、ドイツ大使が出席する公式の式典において抗議はおろか、何の発言も行わなかったことは、政治的に問題となる可能性がある。
- 大阪日日新聞(11月9日から13日) -
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明治30年代末までに治外法権が撤廃されるまで、日本国内には居留地というものが存在していた。そこは日本国内でありながら日本の法律が及ばない地帯であり、支那でいう上海や香港に類するものであった。船により世界が結ばれていた時代であったため、居留地はその多くが港湾施設近くの一等地を占めていた。日本の主権の及ばない地域があることは、日本国民の神経とプライド、そして国防上の危機感を刺激し続ける。
そして明治27年(1910年)に締結された日英通商航海条約を皮切りに諸外国と領事裁判権撤廃で合意したことにより、居留地は順次、日本政府に返還されることが決まった。幕末以来の政治課題を、日本は非合法のテロではなく外交交渉によって西欧列強に認めさせたのだ。もっとも外国人の所有する私有地(永代借地権)をめぐる課税問題は、昭和13年(1938年)の今もなお係争中であるが。
かつては欧米列強の出先機関として国粋主義勢から目の敵とされた居留地であるが、近代的な都市計画に基づいて開発されたこともあり、その立地条件の良さと日本国内のしがらみにとらわれない一種の経済特区と化していたこともあり、日本の商社や銀行が多数進出した。旧神戸居留地はその最たる成功例であり、異国情緒と地元の資本が結びついたことで、独特の活気をこの港町にもたらしている。
京町のオリエンタルホテルもそのひとつである。創設当初は外国人専用ホテルであったが、今では日本の政財界の要人も利用する社交場として利用されている。神戸港メリケン波止場近くの海岸通に面する風光明媚な立地のよさに加えて、そのサービスと食事は日本最高と賞賛された。昨年来日したヘレン・ケラー、そしてつい昨日にはヒトラー・ユーゲントの青年たちもこのホテルに滞在し、世界に名高き神戸ビーフを堪能している。
「いやぁ、神戸に来ますと、実家に帰ってきたような気分になりますなぁ」
深紅の液体で満たされたワイングラスを左手にもち、右手の箸でステーキを持ち上げながら、内田信也逓信大臣はいつも以上に上機嫌な口ぶりで、神戸市長の勝田銀次郎に笑いかけた。ミディアム・レアで焼き上げた極上の神戸牛サーロイン、それも相撲取りの草履ほどもあるそれを、沢庵を齧るかのように平らげていくかつての好敵手の食欲に、勝田は半ば呆れながら応じた。
「白々しいことを言わんでくれるかね」
「いやいや、勝田さん。これは本心やって。私は神戸の気風と土地に育まれた男やと、つくづく思う。生まれ故郷茨城の納豆臭い空気よりも、この潮風の香る神戸の空気のほうが性に合っとる…あ、これは私の後援会には内緒にしといてくださいよ」
どこまで本気かわからないが、ここまでくると返って清々しさすら感じる。勝田は何も答えずしかめっ面で、わざわざ用意させた湯飲みで白湯を口に運んだ。酒類を断っているのは、いまだ阪神大水害からの復興途上である市民の苦境を思えば、自分だけが酒類を口にすることは出来ないという信念からである。
今は神戸市長の重責を担う勝田だが、かつては勝田汽船という船会社を率い、神戸の海運業界において、目の前で肉を食らう内田と勢力を2分する存在であった。欧州大戦勃発によるチャーター便の空前の暴騰により、東京日本橋の山下亀三郎と合わせて「3大船成金」と呼ばれるまでになったが、多角化による財閥化に成功した山下、戦後不況を見越してさっさと事業を清算した内田とは対照的に、勝田汽船は反動不況の波に真っ向から飲まれた。勝田の陣頭指揮によりある程度は持ちこたえたものの、昭和4年(1929年)にはついに倒産の憂き目を見る。
それでも神戸の政財界は大戦後の不況下でも雇用の存続に尽力した勝田の尽力と手腕を忘れておらず、その声に推されるかたちで、勝田は昭和8年(1933年)からは神戸市長の職にある。
勝田からすれば憎たらしいかつての商売敵でしかない内田だが、いまや閣僚として造船業界を取り仕切る逓信大臣。日本有数の貿易港を抱える復興途上の神戸市長としては、疎かには出来ない相手であり、こうして昔の伝を伝い接待している。しかしそれはそれとして勝田には別の思惑もあった。勝田は内田の個人的な人格は女郎の千枚証文ほども信頼していないが、その政治的な嗅覚に関しては、それこそ対価を払ってでも聞く価値があるものと評価していた。
長い腐れ縁で、勝田は目の前の人物が投資家として対価に支払う商品を用意する手間を惜しんだことがないことを承知している。その経験則はやはり正しく、2枚目のステーキを平らげながら、内田は「ステーキ代になるかどうかは知らんが」と口を開いた。
「総理同行中やった池田(成彬)内閣参議が、途中で別れて雅俗山荘を訪問したそうや。うちの党の田辺(七六)総務と、大蔵省と民政党からは矢野(庄太郎)参与官」
「オールスターなのは結構だがね。問題は小林さんは納得したのかどうかだ」
「どっちやろうなぁ。私も出戻り組やから、そないにすぐさま情報はいってくるわけやないですし。カミソリの考えることはわからんが、へそ曲がりの小林の爺さんの考えることはよけいにわからん」
内田は顔の前でぞんざいに箸を振る。
大阪府池田町の雅俗山荘は、阪急電鉄グループを率いる小林一三の邸宅である。
小林は神戸銀行問題の関西財界側のキーマンと目される人物。そして田辺七六は小林の異母兄、池田成彬は小林の三井銀行時代の上司(小林が東京本店の調査課主任であったときに池田は同じ本店の営業部長だった)。
とくれば普通に考えれば何らかの結論を得たと考えてもよさそうなものだが、そう一筋縄でいかないのが小林一三という人物である。
三井銀行退職後、関西の私鉄に入り阪急電鉄を一代で作り上げた彼は、大の官僚嫌いの統制嫌いで知られている。阪急の前身たる箕面有馬電気軌道は、新たなドル箱路線として大阪梅田から兵庫県までの路線を拡張しようとしていたが、国有化された阪鶴鉄道との競争で計画前から経営破綻寸前の状況であり、それを小林が孤軍奮闘して立て直した。
徹底した顧客主義と経営の合理化、沿線沿いの宅地造成と販売、観光施設の整備による乗客の誘致などは、今や日本の私鉄経営の雛形となっている。当然ながらぬるま湯に浸かりきった国有鉄道への評価は厳しく「料金ばかり高くてサービスが悪い不採算路線ばかり」「乗客を家畜のように一等だの二等だのランク付けすることがおかしい」と手厳しい。
そんな鉄道家に、民間資本中心の神戸銀行構想が、中央の理論による横槍で漂流しているという現状が逆鱗に触れないわけがない。今回、林総理の地方視察において経済人との会談がいくつか設定されたが、小林はその悉くを理由をつけて辞退したとのもっぱらの噂だ。勝田としても頭の痛い問題である。
「田辺さんが出てきたから、一応は会ったということか」
「いや、むしろ池田さんの顔を立てたんでしょうな。さすがの阪急も三井と正面から喧嘩売るほど体力があるわけやないでしょうし。兄弟だからという理由で会うような爺さんなら、話は簡単なんやけど」
内田の指摘に勝田はため息を漏らす。小林は山梨県の田辺家から小林家に養子へ出ており、先にも述べたとおり政友会代議士の田辺七六とは異母兄弟の関係である。田辺は異母弟と同じく切れ者で鳴らし、地方政界出身のたたき上げながら「カミソリ将軍」の異名で知られる。山梨県政界の実力者に上り詰めると国政に進出。弟と同様に実業界でも活躍している。政治的には同じく謀将タイプの前田米蔵と共に、中島知久平(前鉄道大臣)を次期総裁に担ぐ勢力の参謀格と見られていた。
単に神戸銀行構想だけの話し合いならよいのだが、田辺という人物をいささかなりとも知る勝田や内田は、口にせずとも「ありえない」という立場で一致を見た。
「いまさら小林さんが宇垣大将を担ぐと思うか?」
勝田の問いかけに内田はにやっと笑うだけで応じる。それを見た勝田は指を鳴らしてウェイターを呼ぶと、ステーキとワインの追加を命じた。無論その胸中では思いつくかぎりの、あらんばかりの悪態と罵声を目の前の男にぶつけることを忘れない。「悪いですなぁ」と言葉と態度が天と地ほどもかけ離れた態度で内田は頭をかくと、ウェイターが離れるのを待つ。
宇垣一成(退役陸軍大将)を首相候補とする、いわゆる宇垣新党構想を関西財界が支持していたのは有名な話だ。宇垣大将が岡山県出身だったことも関係しているのだろうが、近衛新党が革新系の統制経済色を強めたため、一種の保険として宇垣新党を支援していたと思われる。近衛文麿がゾルゲ事件で失脚し、宇垣大将が駐英大使として渡英したことで消えたかに思われた。
しかし暫定政権と思われた林内閣が長引くに連れて、また異なる様相を呈し始めている。旧近衛派の革新官僚が高橋是清内閣参議の勉強会に流れ、また同じく旧近衛新党派の政治家が林内閣の支持を強めたのを受け、旧宇垣新党系が一種の政治勢力として終結しつつあった。閣僚数で言えば勢力は拮抗しているのだが、もともと旧近衛新党系は多数派を占めていたことから、一部を除いて林総理から政党に「丸投げ」される政務次官や参与官人事で、旧宇垣派はどうしても劣勢にならざるをえない。
金の流れは正直であり、内田や勝田は、旧宇垣新党-中でも政友会の鳩山一郎系の勢力に関西財界から政治資金が流れていることを承知していた。小林に代表されるように国家による統制経済を蛇蝎のごとく嫌う関西財界からすれば、今でこそ高橋是清参議の元で押さえ込まれているものの、旧近衛派の復権によって将来的には統制経済の強化がなされないとも限らない。
「宇垣大将はこの際関係ないわな。シャッポがなくとも胴体だけある人形のようなものやけど、シャッポが同じである必要はない……少なくとも脅しにはなる」
「つまりは保険というわけか。保険料としてはいささか高くないかね」
「それでんがな」
内田はいささか興奮した調子で机に右肘をついて身を乗り出す。それは掘り出し物を見つけた商人のようであり、勝田はやはりこの男は政治家というよりも投資家なのだという思いを新たにした。
「そこが小林の爺さんの上手なところで、思想的には爺さんと財政整理で気が合うはずの民政党には手を出していないんやな。最大政党に喧嘩を売るリスクは避ける。第2党の、それも少数派の鳩山系の面倒を多少見るぐらいなら、保険料としては安いものや。あそこは結束がしっかりしとるし、支払った分の取り立てもしやすい……最も、素直に言うことを聞く連中かどうかは知らんが」
「いまさらだが、君はよく古巣に戻れたものだな。それも除名された党に」
「そりゃ、すぐに動かせる金と政党の議員は、少しでも多いほうがええに越した事はないということで…お、こっちやこっち!」
嬉々として運ばれた3枚目のステーキに齧つく内田。もうすぐ還暦だというのに元気なものだ。それにしても-勝田は内田のよく動く顎と頭を見ながら考える。内田は大正末期に政友会の代議士に当選したが、岡田啓介内閣発足を支持したことから、当時の鈴木喜三郎(鳩山一郎の義兄)総裁の執行部から党を除名された。すると同じく政友会除名組の床次竹二郎鉄道大臣を担いで新党結成の動きを見せるも、床次急死により頓挫。党首不在の昭和会なる政党「もどき」に加わる。
それが2・26事件後にあっさりと復党し、今やなんと大臣だ。昭和会の財布役と期待された内田がさっさと復党したことや鈴木総裁の辞任、近衛公爵失脚による当面の政界再編はないという見方が広がったことから、内田と同じように政友会を除名された望月圭介(元内相)や山崎達之輔らも次々に復党の意を示し、実際にその多くが復党する。総選挙で敗北して第2党に転落した政友会はもろ手を挙げてそれを歓迎したが、しれっと内閣改造により入閣した内田は、双方から胡散臭い目で見られていたが、誰も表立ってそれを批判することはない。
勝田の視線に今頃気がついた振りをしながら、ナプキンで口をぬぐって内田は続けた。
「実際のところな。中島航空ちゅう新興軍需企業を経営しとる割りには、中島(知久平)さんは政治的には腰が重すぎるんやな。経験がないから慎重になるのは仕方ないとしても、石橋を叩きまくって渡らんというタイプでは、前田はんも田辺さんも辟易とするぐらいやからな。まあ近衛新党論者やった中島さんとしては、いまさら身動きとれないというところやろうけど。なにせお得意先の陸軍が、お題目やった陸軍航空の拡充に乗り出したとあっては余計に下手なことは出来ん。中島さんを担いでいた連中からすれば面白うないけど、中島さん以外の金主もおらんし、鳩山は敵役ときとる」
「それで田辺さんが中島派の名代として、小林さんに釘を刺しにきたと?」
「逆効果としか思えんけどな…あのへそ曲がりの小林の爺さんが」
池田内閣参議の意向はともかく、田辺は神戸銀行構想への中央からの支援を楯に鳩山系への支援を断てと約束を取り付けに来たのではないかと勝田が暗に尋ねるが、内田はワインを口に含んで唇を舌でなめる。牛が反芻するかのような口の動きから、勝田は意図的に視線をそらしながら頷いた。
「それこそ私のあずかり知らぬはなしですな。まぁ、小林の爺さんのことや。素直に話を聞くかいな。なんやかんや理由をつけて、追い返した可能性かってありえる話やし」
「爺さん爺さんというが、君より7歳年長なだけだろう」
「還暦過ぎれば爺さんですやろ」
「……私も小林さんと同じく明治6年産まれなのだがね」
「いやあ、さすが鉄腕市長はお若いですな。私もあやかりたいものです」
一切の躊躇いもなく高速で返された掌に、勝田は再びため息をついた。いまさらこの男と哲学なり人生観を話し合うつもりもないし、そんなことをするぐらいなら箕面の日本猿に礼儀を教えるほうがまだ現実味があるというものだ。勝田はようやく本題を切り出した。
「神戸銀行のほうだがね。君のほうからも少し動いてはくれないかね。このままではどうにもならない」
「そりゃ私かで神戸で育った男や。それにここの御代分ぐらいは働いて返さねばと思いますがね…それこそ取り越し苦労というもんでっせ」
内田は瞬く間にステーキの残りを胃に納めると、顔の前で手を振りながら続けた。
「内閣もやけど、大蔵かって日銀かって、今はどこも手柄がほしいですからな。それも民間のお膳立てがある。2年近く放置された案件とはいえね、誰だってやりたがるというもの」
「だからその放置された責任と、その間に拗れたものは誰が責任を持って解決するかと聞いているのだ!」
苛立ちを抑えきれずに勝田は乱暴に大臣の言葉をさえぎったが、内田はさして気にした様子もなく続けた。
「まあ、心配はいりませんで。総理はようわからんけど…高橋是清っちゅう、煮ても焼いても揚げても喰えん爺は、人の欲望というものに理解があるお方ですからな」
「悪いようにはしまへんで」と親指と人差し指で銭の形を作った大臣に、勝田は三度、深い息を吐いた。
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- カナダ銀行国有化法案、議会で可決 -
(写真)
議会での法案可決後に与党自由党幹部と握手を交わすマッケンジー・キング首相(向かって右)
1935年カナダ銀行法により設置されたカナダ中央銀行を、国有化することを目的とする改正案(カナダ中央銀行法案)が、11日にカナダ庶民院(下院)で可決された。財務省から銀行券発券業務の委託と引き換えに、同銀行総裁は政府の指名となるが、グラハム・タワーズ総裁は留任するとみられる。カナダ王立銀行協会も同法案を歓迎する声明を発表した。
中央銀行設置を政策課題として掲げたのは、大恐慌における自由党政権の経済政策を「自由放任政策であり政治的に無策である」と批判し、1930年に保守党政権を誕生させたベネット首相(当時)である。カナダでは複数の市中銀行が銀行券を自由に発券し、モントリオール銀行が外国債券業務の財務省からの委託と引き換えに総額の調整をすることで、中央銀行業務を代行していた。ベネット首相はこの民間銀行中心の金融システムが金融恐慌を長引かせたとして批判。市中銀行から紙幣発行権限を取り上げ、カナダ中央銀行の設置を表明した。金融不安の直撃を受けた農村や大規模農家は、保守党の有力な支持層であり、自由党は都市部の給与所得者を主な支持基盤としていた。アメリカとの経済的な結びつきが強く、自由貿易の恩恵を受ける都市部の住民は既存の金融システムに問題を感じておらず、農村部や製造業からすれば都市部のエリートが、自らの利益のために地方に犠牲を強いていると感じていた。
中央銀行導入を金融業界において熱烈に支持していたのはカナダロイヤル銀行である。同行はそれまでカナダの中央銀行の役割を代行していたモントリオール銀行と熾烈な勢力争いを繰り広げる中で、モントリオールの「特権」を批判していた。しかしベネット首相の経済政策は集権的過ぎるとして各州政府や民間資本の反発を浴び、35年の総選挙で敗北。マッケンジー・キング率いる自由党が再び政権の座に就いた。保守党政権が統制経済を主張して敗北するとは、皮肉な話ではある。この突出した才能に欠けると自他ともに認める老練な政治家は、両銀行の対立を仲裁すると、民間の市中銀行発券の政府保証と段階的な縮小などの妥協案を提示。成立にこぎつけた。同法案の成立によりベネット前首相(保守党)時代から続いていた政治懸案を、マッケンジー首相が清算したことになる。
- 東西新聞 (11月13日) -
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米英関係、いや英米関係は一言で説明できるようなものではない。
例えばカナダだ。アメリカ合衆国の隣人であるこの王国には、決して少なくはないケベックのフランス系住民という爆弾を抱えている。内戦の危険性をはらんだ国家が1938年の今もなお、世界悠々の陸続きの国境を隔てた民主共和制のアメリカの隣人として、それもよりにもよって英国王を君主と仰ぐ議院内閣制のイギリス連邦加盟国として存続出来ていることそのものが、両国関係の複雑さを物語っている。
アラスカを帝政ロシアからアメリカが買収したのは1867年のことだが、アメリカ国内では「スワード(当時の国務長官)の馬鹿げた買い物」として嘲笑の対象になったこの買収は、カナダ国内では「カナダ併合のための準備だ」として騒動になった。
13州による独立戦争(1775-1783)を経てアメリカ合衆国が独立した後も、当時の覇権国家たるイギリスは、北米のカナダやカリブ海に点在する島嶼部の植民地を通じて、大陸への影響力を残していた。鉄道網が未整備の段階では海軍こそが力の象徴であり、アメリカ政府は何度も苦渋を味わった。英米戦争(1812-15)では英米軍は実際に戦火を交えたが、五大湖を越えてカナダに侵攻したアメリカ軍は返り討ちにあい、ワシントンの大統領官邸が焼き払われたが、それでもアメリカは何とか痛み分けに持ち込んだ。
18世紀・19世紀を通じて両国の緊張関係は続き、米国がカナダ植民地を併合する構えを見せれば、東部諸州の沖合にイギリス大西洋艦隊が軍事演習を名目に展開したことも数度ではない。イギリスと敵対関係にあった帝政ロシアがアラスカをアメリカに売却したのも、イギリスへの嫌がらせの一環と説明する向きもある。
カナダの首都オタワは、北米工業地帯の五大湖周辺、オタワ川とオンタリオ湖を結ぶリドー運河の河口沿いに位置する。すなわちアメリカとの国境とは目と鼻の先であり、アメリカ陸軍がその気になれば数時間で制圧出来る位置にある。時の女王ヴィクトリアにより「英語系住民とフランス語系住民の地域圏の中間点である」という理由で選ばれたというこの都市は、アメリカとの経済的な結びつきなしには成り立たない。
政治的にはケベックを含めた統一を維持するために親英でありながら、経済的には潜在的な仮想敵であるアメリカを頼らなければならないカナダの(あるいは後見人たるイギリスの)政治的な知恵とも言える。
もっとも植民地人の子孫どもに、そのような高度な政治的配慮など通じるかどうかは極めて疑わしいものだがと、駐日英国大使のロバート・レスリー・クレイギーは、たった今、こちらを見もせずに退出していった駐日アメリカ大使のジョセフ・グルーの背中を見送った。
それを見ていた屋敷の主人が呆れたように言う。
『少しは仲良く出来んのかね』
「仕事には支障がありませんので問題ありません」
『それ以外では問題があるという風にしか聞こえんがな』
内閣参議という日本の現内閣の顧問的な立場にあるコレキヨ・タカハシは、そのふくよかな体躯をソファーに預けながら首を傾げた。
柔和な風貌とは裏腹に、頭の冴えは年々鋭くなるこの老人は、日本語よりもむしろ英語のほうが言葉尻が鋭くなる傾向があった。それもこれもアメリカ人がこの老人を奴隷として扱ったからだが……とクレイギーがいささか無理筋な恨み節を、かつての植民地に向ける。
タカハシは『それにしても』と、この老人にしては珍しく、素直にカナダ首相の手腕を賞賛した。
『優先順位が明確にして的確、かつ必要とあれば大胆な措置をとれるだけの政治力を兼ね備えている。マッケンジー・キングは優れた政治指導者のようだ」
「議院内閣制というものは意思決定に迅速さと果断さを欠くものと、植民地人は考えておったようですが、共和制であろうと君主制であろうと、制度は人の運用するものです」
『君は一々、アメリカ人に嫌味を言わなければ気がすまんのかね』
もとより陰口はクレイギーの流儀ではない。現に「その気になれば議会を無視できる民選独裁者の大統領制でありながら、中央政府を信用出来ない国民の悪癖のために、連邦準備制度という極めて非合理的な中央銀行の形しか取れないとアメリカ人に、議院内閣制の何たるかを語れるのか」と、先ほど入れ替わるように退出する前のグルーに直接批判したばかりだ。
その直後に「なるほど、さすがは世界に冠たる大英帝国ですな。インドといいエジプトといい実に合理的な制度だと感心します」と反論されたのには、クレイギーも閉口したが。
『アメリカ人にはカナダ人の気持ちはわからんのも無理はない。アメリカ人にとってカナダ人が隣人であることはなんら脅威ではないのだからな』
「だからこそベネットではなくマッケンジー・キングが成功しているのでしょう。声高な御題目や綺麗ごとを掲げる理想主義者よりも、実際に目の前の問題を解決できる現実主義者こそ、カナダ国民は求めているものかと」
グルーのかけていた席に代わって座ったクレイギーの言葉に、タカハシは丸い老眼鏡の奥の目を細める。
『なるほど……敵か味方かを峻別するアメリカ人には理解しにくいだろうし、白か黒かを意図的に明示しないイギリス人には、それが理解出来るわけか』
「国益を追求するのが外交官の任務ですので」
『少しは綺麗ごとの風呂敷で包む努力はしてほしいと思うがね…どうだね一杯?』
「喜んで」
タカハシはアイリッシュ・ウィスキーの瓶を開け、手酌でグラスに注いだそれをクレイギーに手渡す。酒を飲みながら話すような話でもないが、タカハシは午後の8時を過ぎてアルコールもなしに労働を強要することはない(いわゆるタカハシ・スクールの生徒は例外だが)。
『明日には正式に林総理からグルー大使初め各国大使に申し入れる予定だが、9カ国条約加盟国の内7カ国、すなわちアメリカ、オランダとベルギー、イタリアにフランス、ポルトガル、そして貴国の7カ国に9カ国条約会議の開催を要求する』
「念のためにお尋ねしますが、チャイナの政府には?」
『いまだに駐日大使の後任が決まっていないのに、誰に打診すればよいのか教えてほしいものだ……通達しているが、議題が議題だ。参加はせぬだろう』
南京における国民政府主席の地位は、雲隠れした蒋介石に倣ったかのように蒋介石派の下野が相次いだことで、党内左派の汪兆銘(元鉄道大臣)にお鉢が回ってきた。
しかし南京軍事参議院院長の唐生智はいまだに強硬に反対しており、これに呼応した反汪運動に対する対処もあって身動きが出来ていない。その結果が先の長沙大火における対応の遅れ……というよりも、何も出来ない無政府状態につながった。
結果、死者は3万人以上、50万近い市民が焼け出され、20万から30万近い避難民が上海方面に流れ込んだ。上海に租界地を持つ各国政府は悲鳴を上げたが、真正面からそれに向き合う日本の上海派遣軍は、更なる悲鳴を上げた。物資も人も、無論兵器も何もかも不足している。日本単独ではどうにもならない。
かといって南京政府は輪をかけてあてにならない。湖南省政府や長沙市当局が機能不全であったため臨時に消火活動の指揮をした第4集団司令官臨時代理の孫蔚如は、日本の上海派遣軍とイギリス中国艦隊からなる救援部隊を独断で受け入れたことで失脚に追い込まれた。
クレイギーの見るところ、この官僚国家であるところの日本は、珍しく迅速に国家としての意思決定を行った。
それが9カ国条約会議の開会要請と、上海派遣の多国籍軍結成の提案である。同条約はワシントン条約会議(1922年)で締結された条約の一つであり、日本のチャイナへの単独進出を抑止し、門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を確認したものだ。これに不満を持った日本が対中強硬路線に転じたことはクレイギーにとっても不満であったが、今はそれは関係ない。
ともかく満洲事変においては同条約に基づいてブリュッセルで国際会議が開かれ、対日包囲網および牽制の役割を果たした同条約が、今回は対チャイナへの圧力として使われようとしているとは……外務省における親日派として肩身の狭い日々を送っていたクレイギーにとっては、感慨深いものがある。
『それに君もノーブル大将(中国艦隊司令長官)から聞いているだろうが、長沙大火に派遣された日英の臨時混成軍では指揮権や命令系統で混乱が相次いだそうだ。英軍が牧野大佐を立ててくれたから何とかなったが……』
「わが国への感情はいまだ良からず、ですか」
『貴国であろうとアメリカであろうと同じことだろうよ。統帥権-つまり軍事作戦の指揮権において他国の優位性を認めることに関して、わが国には伝統的な不信感がある。北清事変ではうまく日本の軍事力だけが利用された、シベリア出兵ではアメリカに出し抜かれて日本だけが批判されたとね』
それは日本が立ち回るのが下手だったからではないかとクレイギーは考えたが、それを今、目の前の老人に指摘しても始まらない。何よりそのようなことはタカハシ自身が誰よりも理解しているだろうと判断してのことだ。
長沙大火では上海派遣軍総司令官の伊藤政喜・陸軍中将とイギリス中国艦隊司令長官のパーシー・ノーブル海軍大将の協議の結果、牧野四郎大佐(歩兵第29旅団長)を司令官として日英救援部隊の指揮権を統合した。
タカハシは意図的に日本側の反応のみを語ったが、イギリス側でもそれこそ緊急事態でなければ納得させられなかったであろう猛反発が巻き起こったという。
仮に次の「長沙大火」のような事態が発生した場合、再び指揮官の選任から相談していて、資産がきえていくのを見つめていてはいけないという点で、日英両軍は共通の経験と見解を得た。
『つまり名目と前例がほしいのだよ。他国の大統領や国王の名前には従いたくはないが、彼らが日本を認めていると形として見せてやれば、よほどの偏屈な連中でなければ納得する』
タカハシは一旦グラスをつけて唇をぬらす。芳しい香りが老人の下を滑らかにしたわけでもないだろうが、タカハシはすらすらと続ける。老いによる耄碌はまるで感じられない。
『貴国にしても、それ以外の6カ国にしてもだ。ただ日本に金を出せ、指示に従えでは無理だろう。まだ満洲の前科があるからな。しかし今の南京政府にチャイナの治安に責任をもてないという点では、わが国をふくめた8カ国で同意出来るでしょう」
クレイギーは手にしたコップの中身に口をつけずに頷く。
大陸に権益を持つ各国にとって、現地に最も近いのは日本であり、もっとも迅速に兵を出せるのは日本である。現状でも2個師団と支那方面派遣艦隊、上海特別陸戦部隊の駐留を南京政府に認めさせている。そして南京政府と現地政府にもはや治安維持の能力が欠如していることは証明された。先の大火での被害総額はいまだに計算すら出来ていない。
つまり用心棒は欲しいが、そのまま日本に強盗になられては困るというのが本音である。都合がよすぎるといわれても実際に合法権益がある以上、1ポンドたりとも粗末にすれば、即、世界中で身包みをはがされることにもなりかねないのだ。
イギリスの中国艦隊以外に実戦部隊の派遣は難しくとも、駐在員なり連絡員を各国が多国籍軍司令部に派遣することで「多国籍軍」の形式は作れるだろうというのが、これまで受けた日本側からの事前説明であるし、タカハシのそれと照らし合わせても齟齬がない。そうなると問題なのは……
『あるいは資金面だけでもいい。とにかくどのような形でもいいから支援して頂きたいのだ』
「ずいぶんと直截な要求ですな」
『金がなければ何も出来ませんからな』
他の人ならいざ知らず、個人的には奴隷として辛酸をなめ、鉱山開発で無一文となり、日銀副総裁としては日露戦争中にロンドンで戦時国債引き受けに尽力したこの老人が言うと、同じ言葉でも重みが違う。この老人の活躍がなければ日本は奉天会戦を戦えたかどうか。さすれば満洲や半島は今とはかなり異なった歴史をたどったはずだが、そのような歴史の可能性を老人と話すことがクレイギーの目的ではない。
『ご心配なさらずとも、渡辺錠太郎大将は多国籍軍の司令部から意図的にユニオン・ジャックを外すようなことはしません』
「General・ワタナベですか」
意図的に漏らされた9カ国条約加盟国の上海派遣軍司令官の名前に、クレイギーも思わず頷いていた。先のクーデター後に陸軍の教育部門のトップとして綱紀粛清に尽力したワタナベの名前は、各国に知れ渡っている。日本の総理とは士官学校の同期で個人的に親しいとも聞いているし、現役では最長老といっても良い重鎮だ。彼に並ぶものといえば、第2次上海事変で上海を守りきったイワネ・マツイぐらいのものである。
『マツイさんにも打診したのですがね。チャイナはもう懲り懲りだと。それに彼も60ですからね』
「ワタナベ閣下は64歳ではありませんでしたかな」
クレイギーからすれば日本における陸軍大将の定年が65歳であることを暗に指摘したつもりであったが、グラスを高く掲げた老人がいたずらっぽく返した言葉に、さすがの大使も呆れた。
『私に比べればまだまだ、苦労が足らぬよ』
・久しぶりに難産でした。いつも以上にああでもないこうでもないといじくり返し…
・馬場さん、一度登場しただけでしたね。でも残される影響力
・中央が統制を強めたからこそ出来えたものも出来えなかったものもあるわけで…
・馬場財政やってないので余裕あるということで…予算と国債に関しては捏造するぞ!(おい)
・華麗なる一族が前倒し。
・関西財界の東京への対抗意識というか官僚嫌いは、そもそも明治維新で大阪の特権つぶされて衰退した事への遺恨が残ってるのかも。というかそもそも商都ではなく、幕府の意図的に設定した経済都市だったわけで。
・ヒトラー青年団帰国
・内田さん…なんでこんなキャラになってもうたん?
・ヘレン・ケラー来日を1939年と勘違いしてたのは内緒ね、内緒!(おい)
・関西財界が宇垣新党のパトロンだったという話はありますが、ここまで実際にどうだったかはわからない。つまり創作なので注意してね(おい)
・マッケンジー・キングというよくわからないカナダ首相。わかんないけど地味にチートな爺。一国に一人ほしいね。
・長沙大火は史実は11月ですが10月に
・北清事変の鎮圧にした9カ国のうち、北京郊外への駐留権がありましたが、各国政府は次々撤兵。盧溝橋事件(1937年)の時にそれを使っていたのは日本とイタリア…なんでイタリア?
・9カ国条約にしても、ポルトガルはわかるよ。マカオで。ベルギーやオランダもまだわかるよ、中継港のアントワープのあるベルギー、インドネシアのあるオランダも、アメリカもイギリスも、まあフランスもベトナムあるし…イタリア?なんでいるの?
・もうこの人出てきたら問答無用でなんでも解決な高橋是清。いやー便利だわ。
・それをいっちゃあ、おしまいよ!