安江仙弘のユダヤ人論 / 対ドイツ抗議声明草案 / 東西新聞政治コラム / 対ドイツ国民大会における河野一郎演説 / 東京府東京市永田町 総理大臣仮公邸(日本家)(1938年11月)
「貴方が正しい時、過激になりすぎてはいけない。貴方が間違っている時、保守的になりすぎてはいけない」
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア)(1929-1968)
昔から猶太人は国際的金融業者として知られて居る。殊に十九世紀の頃は、欧洲諸国の帝王は、猶太人に相談なしには戦争は出来なかった。日本に於ても日露戦争の時、遼陽会戦以後の戦闘は、米国猶太富豪ヤコブ・シッフ(ジェイコブ・シフ)が五億の外債を一手に引き受けたことによって継続されたことは皆人の知る所である(中略)斯くて今日に於ては猶太一族による銀行組織は、網の目の様に地球表面に張り渡さるるに至った。
ユダヤ人の財界に把持する勢力は単に金融方面許りではなく、世界のめぼしい有らゆる事業に及んで居る。例えば宝石類の取引は殆ど猶太人の独占である(中略)其の活動方面は銀行、金貨、公債債券業、宝石類、デパート等は申すに及ばず我々日本人に直接関係ある活動写真工業、新聞通信、運送業、製糖業、煙草工業毛皮、棉花取引、穀物取引等は全然猶太人の独占業である。又缶詰業の五割余も既に其の掌中に帰し、特に農産物の取引には驚くべき怪腕を振って居る。
(中略)猶太仲買人が農民間に介在して、其の利益を独占し問題を起した例は波蘭にもある。波蘭は初め西暦一三三三年、カジミル大帝(注:ポーランド国王カジミェシュ3世)が大いにユダヤ人を歓迎入国せしむることによって、波蘭の商業を隆盛ならしめんとした所に発するが、猶太人は商業方面のみならず、之と共に農産物の方面に逐次勢力を伸長し、遂には波蘭の農産物の利益は挙げて猶太人の手に帰して了った。之が為め波蘭の一部保守党は猶太人排斥の必要を認め(中略)対猶太ボイコットを為し、猶太仲買人の農産物の利益独占防止に努めた程であった。
さて翻って極東に於て一昨年(1930年)来支那の銀が大暴落を来し、我が国でも満鉄あたりが非常の傷手を負い、財界の大問題であった。この時、銀専門家の研究によると、此の銀の暴落は周期的自然現象でなく人為的であり、而してこの人為的大作用は紐育・猶太人の画策であるとのことであった。紐育といえば亜米利加猶太人の中心で、猶太人は約二百万、彼等自ら新エルサレムと称し、猶太金権の大根拠地である。
欧洲諸国の猶太金権の勢力は大は英仏より小は巴爾幹の小国に至る迄、其の富の大部は猶太人の手中にあると見て支障はないであろう。而して其の活動方面は米国と大同小異である。独逸は米国と反対に世界大戦の敗戦国であるが、此の戦争で独逸・猶太人の富力は戦前に倍加し、独逸全財産の七十五パーセントを占むるに至ったという。又同じく敗戦国の土耳其は、世界で最も貧乏な猶太人を収容して居ると称せられて居るが、それでも土耳其人と猶太人一人との資本の割合は一に対し一、〇〇〇の割合で、君府商業の中心地スタンブール(イスタンブール)の市場は僅に四人の猶太人資本で動いて居る。
昔から地獄の沙汰も金次第というが、金は力の凡てでなくとも、大半の力である。斯くて事毎にある点までは金が物をいう。猶太金権の勢力が各国の政治、外交其の他有らゆる方面に如何に作用しつつあるか、恐らく想像以上であろう。従ってこの作用が我が日東帝国に大影響なしと何人が断言し得よう…
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…とまあ、これが昭和7年(1932年)の3月、時事新報に安江仙弘・陸軍大佐が寄稿した文章です。後に中東歴訪の中で自らのユダヤ人理解をあまりにも一方的な見方であったと自己否定した大佐ですら、当時はシオン議定書の存在を前提にして語っていました。御覧のように古典的なユダヤ人陰謀論を補強するように都合のいい事実や数字を列挙しています。
あえて肯定するわけではありませんが、日本人にとってユダヤ人とは全く異質の存在でありました。ユダヤ人問題を学ぼうとすれば、欧米の既存の研究や言論が基盤となります。優秀な生徒であった日本はユダヤ人陰謀論も、そのまま受け入れてしまったのです。特に当時の日本は満洲事変直後であり、日本の軍事行動を侵略と批判されることに対して、非常に敏感でした。そのため上海経済界のユダヤ人の資本家や、イギリス政界のユダヤ人政治家の存在、あるいは国際金融資本なるものを牛耳るメンバーに原因があるとする陰謀論も受け入れやすい土壌があったのでしょう。
しかし安江大佐のように大陸において実際にユダヤ人問題に関わるようになると、亡国の民への同情から親ユダヤ派にころっと「寝返って」しまう人間が多いのも特徴的でした。良くも悪くも単純といいますか……その点では機会主義者のユダヤ人利用論者であったとされる犬塚惟重(海軍大佐)とは対照的な存在ではあります。さて、この2人はほぼ同時期に予備役編入となり、満洲国へと渡ります。
ちょうと林総理の訪満直後、張景恵・国務院総理(外交部長兼任)と会談した頃のことです。当時の張内閣は労働力不足と、大陸からの難民流入と日本人移民の上限規制という、相反する問題に頭を悩ませていました。
当時、満洲経済は日本の庇護の下、北部朝鮮とともに圧倒的な繁栄を謳歌していました。本土からの重点的な資本投資に加え、産業統制と特殊企業への重点投資、資本と経営の分離といった、本土では不可能な計画経済が極めて効果的に働きました。もっともこれは経済成長の阻害要因であった治安を回復させ、北洋軍閥内の抗争による行政機構の混乱を関東軍を背景にして強制的に一元化させたという側面も見逃せません。元々の潜在力を発揮出来る環境を整えただけで、実際には計画経済は経済成長の阻害要因になったのではないかという見方もありますが、少なくとも張作霖や張学良には出来なかったことを、日本や関東軍という存在が成功させたのは事実です。
ともあれ満洲では比較的高い経済成長が続いていました。主要な貿易相手国であった中華民国が事実上の内戦に突入しましたが、むしろ内戦需要は満洲経済の後押しとなりました。英独の満州国の承認に伴い、満洲経済部は更なる投資増加を見込んで外資規制の緩和を行いましたが、実際には期待されていたほど直接的な投資は多くなく、上海や香港などの既存の金融資本が一時的な避難先として新京や大連を利用するに留まりました。それでも国際的な投資環境が改善されたのは事実であり、満洲は昭和21年頃まで極東におけるマネーゲームの中心地となります。
このように労働力の需要に供給が圧倒的に追いついていなかったのにもかかわらず、満洲国政府は大陸からの難民流入と日本人移民の上限規制に取り組まなければならない事情がありました。大陸からの難民は国内の人口比が変わることで満洲人が政治的に圧迫されることへの懸念であり、この点は関東軍も同意していました。しかし実際に水際での規制がどこまで効果があったのかは不明です。内戦期を通じた不法移民問題は、満洲の政治的な課題であり続けました。
日本からの移民の規制は、イギリスやアメリカからの要求でもありました。内実がどうであれ満洲が独立国でなければ承認は難しい。日本の政治的な影響下にないことを対外的にアピールする必要があったからです。関東軍は外資規制緩和と並んで反対意見が根強くありましたが、これを日本政府が押し切る形で承認しました。
経済成長を続けるには必要であるにもかかわらず、政治的な要因で自らの手足を縛らざるを得ない。人手不足に対応するためにも満洲国は「色の付いていない」労働力を求めたのです。安江・犬塚を総理顧問とした張景恵には、すでにその答えが出ていたのでしょう。国際的にはエビアン会議の失敗によってユダヤ人排斥の流れが強化されつつあったこと、また国内におけるユダヤ人ロビイスト団体として活動していた極東ユダヤ人会議の存在も、張総理を政治的に後押ししたと思われます。
同団体は「河豚計画」-満洲国内でのユダヤ人自治区構想に協力していたことが知られています。しかしさすがの張景恵も、これが日満における外交問題に発展するとは、想像していなかったでしょう……
- 『ユダヤ人問題と満洲国』中央新書(1980年)より抜粋 -
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十一月十二日、帝国政府ハ、独逸政府ニ対シテ大使館ヲ通ジテ以下ノ通リ申入レタ。
帝国政府ハ十一日九日カラ十日ノ間ニ独逸国内デ発生シタ一連ノ『ポグロム』ト疑ワシキ暴動ニ関シテ、改メテ深イ憂慮ト遺憾ノ意ヲ表明スル。帝国政府ハ今回ノ暴動ニヨリ貴国ノ警察当局ノ治安維持能力ニ関シテ、重大ナル懸念ト疑念ヲ持タザルヲエナイ。法ニ基ヅカナイ個人的ナ復讐ヤ制裁ハ断ジテ容認出来ズ、邦人保護ノ観点カラモ極メテ憂慮スルベキ事態デアル。帝国政府トシテハ事実関係ノ調査ト、此ノ犯罪行為ニ関与シタ人物ヘノ法ニ基ク取締ト処罰ヲ要請スルモノデアル。又、留置サレテイル近衛秀麿公爵ノ早期釈放ヲ重ネテ要請スル。以上。
- 独逸国内で発生した暴動に対する日本政府の抗議声明草案 -
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- 対独同志会に鳩山氏の影、第3回対ドイツ国民大会 -
11月13日の日曜日、晴天に恵まれた日比谷公会堂には、事前の予想をはるかに上回る1万人以上の聴衆が詰めかけ、演説者を食い入るように見つめて、その内容に聞き入った。今大会を主催する対独同志会は、故・山本悌二郎農林大臣(政友会)が創設したもので、議会において対ドイツ抗議決議案を可決するために超党派の議員連盟とも連携して国民運動として展開したものである。昨年11月には日比谷公会堂で第1回大会が開かれ、衆貴両院の有力者や、民間の経済人や政治団体が多数参加し、盛大に開かれた。しかし対支那の停戦合意が成立したことで、あえてドイツの反発を買う必要はないとする見方が広まったことや、山本氏が急逝したこともあり、運動は下火となった。山本氏亡き後は代表は俵孫一(民政党)が対独同志会の代表に就任したが、内閣改造で商工大臣に就任したことから、実際の運動は幹部の砂田重政(政友会幹事長)や山本氏の秘書であった河野一郎代議士(政友会)らが中心となり、辛うじて続けてきた。
今回、ドイツ国内で発生した未曾有の反ユダヤ暴動や、近衛公爵の拘束事件が大会の追い風となったのは否定出来ない。大会主催委員を見ると、官界や経済界、政界と幅広く網羅している(表1)。委員長は本来であれば代表の俵なのだが「現役閣僚ではドイツ政府を刺激する」として内閣官房から横槍が入ったため砂田が引受けた。政界委員は政友会から山崎達之輔、松野鶴平、大口喜六。民政党からは小泉又次郎(前幹事長)と川崎克(総務)、国民同盟の安達謙蔵……中野正剛(東方会総裁)は流石に安達氏と同席するのをはばかったのか辞退である。これに加えて財界の宮島清次郎(日清紡績会長)、白石元治郎(日本鋼管社長)、貴族院の宮田光雄や山岡萬之助、民間委員の小川平吉(田中内閣で元鉄道大臣)などの顔ぶれを見れば、旧常盤会メンバーの同窓会の如き趣すらある。
常盤会はポスト林には宇垣大将がふさわしいと考える政友会や民政党の議員が集まった料亭であり、いわゆる宇垣新党派の隠語だ。宇垣の駐英大使が長引くに従い、メンバーは政民連携運動(政友会と民政党の協力内閣運動)に尽力してきた。故・山本が宇垣新党派であったことを考えると驚くに値しないし、常盤会メンバーが宇垣と並んで総理候補と考えていた元連合艦隊司令長官である末次信正(退役海軍大将)が大会の委員に名を連ねているのも、むしろ当然である。
・鳩山派の決起集会?
ここでは幹事長が河野一郎であることに留意しなければならない。故・山本氏の秘書官であった河野だが、政界入りした後は同じく山本派であった砂田重政と共に鳩山一郎の門下となり、党内有数の武闘派として頭角を現している。砂田委員長と河野幹事長の背後に、政友会筆頭総務である鳩山一郎の影が見え隠れしている。「宇垣新党はともかく鳩山新党に加わるつもりはない」と望月圭介(元内相)や清瀬一郎(元国民同盟)が席を立ったが、それも当然である。
下火になりかけた対独同志会を資金面で援助し続けてきたのが、ほかならぬ鳩山である。政友会の総裁争いで中島より優位に立ちたい鳩山は、自分を自由主義者として批判していた民族団体や右派政治団体と、対ドイツ強硬路線で共同戦線を張ることにより関係改善を図ってきた。2・26事件以降に資金面への監視強化など、締め付けの厳しくなった民間政治団体も、鳩山からの資金支援により体制を立て直せると、両者の利害が一致した形だ。鳩山としては2年以内に行われる第20回衆議院総選挙において政友会内における主導権を確保し、次の内閣で主流派入りを図りたい狙いがあると思われる。あるいは政友会総裁となり、総理の座も狙っているのかもしれない。
少なくとも鳩山としては総選挙後に予想される内閣首班は、林銑十郎ではないと考えているようである。そうでなければあそこまで激しい政府批判を河野にさせるはずがない。しかし決定的な対立は避けたいのも確かだ。前総理として、あるいは陸軍の重鎮として何らかの主導権を発揮出来る可能性は当然ながら残されているからだ。対独同志会幹部の建川美次(退役陸軍中将)らを通じて、陸軍中央との関係改善を図っている節もみられる…
- 東西新聞政治コラム『古今東西政界展望』より -
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…戦慄すべき被害、恐るべき蛮行、そして受け入れることの出来ない理由から行われた、組織的な犯罪行為と言わざるを得ない!
ドイツ国内で発生した暴動に関して具体的な被害はいまだ不明ではあるが、少なくとも暴動が発生したのはドイツのほぼ全域、併合されたばかりのズデーデンや旧オーストリーでも発生している。現地の駐在特派委員や大使館が確認しているだけでも100以上のシナゴーグと、1万近い商店や企業が被害にあった。おそらくこの数は増えることはあっても減ることはないと思われる。商業区画だけではない。住居、病院、学校、そして墓地……全てが暴行、殺人、強姦、破壊、略奪、そして放火の対象となった。おおよそ考えられる全ての犯罪行為が、パリの三等書記官を暗殺したテロリストと同じユダヤ人だからという名目で行われたのだ!
このような人種差別以外の何者でもない荒唐無稽な理由で、犯罪行為が正当化されるわけがない!!!(歓声多数)…死者は100人前後とされるが、これはあくまでドイツ政府の公式発表である。瀕死の負傷者はこの中には含まれていないのだ!そして満足な治療行為も行われないまま、「生命を保護する」という名目で彼らは政治犯と同じ収容所に護送された!なぜ犯罪を犯したものではなく、被害者が収容されるのか!!(拍手多数)
これは明らかにドイツ政府の組織的な関与があったと言わざるを得ない!何故か?…手際が良すぎるのだ!!今回の一件により、ドイツの政府与党に所属する突撃隊なる民兵は、単なる犯罪集団であることが明らかとなった!(拍手多数)…類は友を呼ぶという。なるほど、彼らが南京の、先に辞任した蒋介石を支援していたことは何ら驚くべきことではなかったのだ(そうだ!という声)…省みよ!先の第2次上海事変において、我が帝国陸海軍はドイツの支援を受けた国民政府軍と戦い、ドイツ国防軍の将校を捕虜としたのだ!我らが友を、家族を、そして同胞を殺害したテロ行為を、ドイツは一貫して支援してきたのだ!!!(歓声と怒号多数)
ドイツは捕虜となった彼らの同胞を切り捨てた(野次多数)…ベルリンは関係ない。彼らの独断による行動であると表明したと聞く。悪党には悪党の、テロリストにもテロリストの流儀があるはずだ。彼らは悪党ですらない。純粋な悪というものが、この世に存在するのであれば、それはナチス・ドイツのことである!(歓声と野次多数)…にも関わらず、現在の内閣はドイツに対して抗議することもなく、この恐るべき忌わしい理由で行われた組織的な犯罪行為を、まるで黙認するかのような態度をとっている。事実関係の調査、そのような曖昧な外交辞令を弄ぶ段階は既に過ぎ去った!!(歓声多数)…今は言葉ではなく、行動するべき時なのだ!!(歓声多数)
考えてほしい。先の上海事件、あるいはゾルゲ事件においてドイツ政府に厳重な抗議をすることもなく、曖昧に処理した結果が、今日のこのような事態をもたらしたのだ…近衛(秀麿)公は何故、拘留されているのか!!!(歓声多数)ドイツ政府は帝国を侮っているのだ!…近衛公爵が拘留されているのは、諸君もご存知の通りである。何故、内閣は即時引渡しを要求しないのか!(歓声多数)…釈放の要請?生ぬるい!!正当な理由なく逮捕監禁されていることに、謝罪と賠償を要求して然るべきだ!(歓声多数)
…おそらく彼らはこう主張するに違いない。現実を見るべきだと。国際社会の現状を踏まえての判断だ、やむを得ないのだと。安政の不平等条約を受け入れた江戸幕府の大老や老中も、同じことを言っていたに違いない(笑い声多数)…しかし、国際社会を理解していないのは我々ではない!今の内閣こそ、厳しい現実から目を背けているのだ!!人種差別がまかり通り、白人でなければ人でない、金髪碧眼のアーリア人以外は奴隷であり家畜であるという(怒号多数)…そう、あまりにも荒唐無稽な思想が、圧倒的な軍事力により黙認されている。それが今の国際社会の現実なのだ!(怒号多数)…私は諸君に問おう!!今、戦わずして、いつ戦うというのだ?!(野次多数)…我々日本人が、亜細亜の民衆が白人の奴隷になってから、その中で名誉白人になるための外交をしているとでもいうのか!!!(歓声多数)
維新の偉業を省みよ!僅か70年前、我らの父や祖父は江戸幕府より莫大な負の遺産を受け継いだ。当時、欧米列強は帝国主義全盛期。丁髷と刀を捨てた我らは圧倒的な国力の差を前に戦うことも出来ず、不平等条約の改正は無理だと考えた…我らは一生、欧米の経済的な奴隷になるしかないと、誰もが考え、先の見えない未来に絶望した。しかしそれからわずか半世紀、偉大なる明治大帝の下、我らは治外法権を撤廃した!関税自主権を取り戻したのだ!!(大歓声)…今や日本は亜細亜の雄である。我らの父や祖父が明治の御代で出来たことが、どうして昭和の我らに、亜細亜の雄たる日本に出来ない理屈があろうか!!!(大歓声)
…諸君、先のパリ講和会議を思い出せ!世界平和の為に、日本の全権団は人種差別撤廃を提起した。しかし気高き理想は国際社会の現実の前に敗れ去った。非白人国家として、白人文明の現実を見せつけられたのだ。しかし帝国はその後も、人種差別撤廃のための普段の努力を続けてきた…林内閣の現在の外交は、果たしてその努力にふさわしいものか?(違う!という声相次ぐ)
…そう、断じて否だ!義を見てせざるは勇なきなり。生まれ持った人種を理由に、故なく迫害される彼ら亡国の民を見捨てることが、果たして帝国日本の武士道に恥じないものと言えるのか!(怒号相次ぐ)そうだ!断じて否なのだ!…否と言わなければならないのだ!!
ユダヤ人であるがゆえに殺害しても良いというのであれば、日本人であるがゆえに殺害してもよいという理屈が、どうして成り立たないと言えようか!!(怒号多数)
…私は断言する!!明治維新を成し遂げた先人は、刀は捨てても、その魂は捨てなかった!!!(歓声)
…我らは迫害されている有色人種や、ユダヤ人のために戦うのではない。他のどの民族でもない、我ら日本人が人として、人間として生きる為に、人種差別撤廃という理想を実現するために、今こそ立ち上がり、声を出さなければならない、そして戦わなければならないのだ!!!(歓声多数)
…そう、我らの子孫に人種差別という重荷を背負わせてはならない!!現実外交という美名の下に、小手先の弥縫策を繰り返した江戸幕府の過ちを繰り返してはならないのだ!!!
人種差別に否を!ハーケンクロイツに否を!!『石川幕府』を叩きつぶせ!!!
- 日比谷公園公会堂で行われた「対ドイツ国民大会」における河野一郎代議士の演説 -
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内閣総理大臣とて人間である。外交安全保障や危機管理に休みはないが、1年365日24時間を通じて公人として働けるわけでもない。しかし総理とその一家が居住する官舎が「公邸」と呼ばれることからもわかるように、公人としての性格をまったく無視するわけにも行かない。だからこそ総理大臣官邸と公邸は隣接している。現在の総理大臣官邸と公邸は関東大震災後の区画整理により、昭和4年(1929年)に旧鍋島侯爵家の敷地に建てられたものである。
総理官邸は延床面積が約7千平方メートル、鉄筋コンクリート製の地上3階・地下1階の建物には、震災の教訓も踏まえて防火設備や臨時の指揮機能も備えつけられている。大正末期から昭和初期に一世を風靡したアールデコ風のしゃれた概観は「無駄な金を使って」と批判されたりもした。
渡り廊下で連結していた総理大臣公邸も、官邸と同じく洋風のしゃれた概観でありながら内装は和風建築という、いかにも日本らしい佇まいをしていた……2年前までは。2・26事件-帝都を震撼させた陸軍の一部将校によるクーデターにより、総理公邸は、もはや人の居住が不可能と判断せざるを得ないほどに破損させられた。反乱軍の将兵も、さすがに総理官邸を踏みにじることはためらわれたらしい。岡田総理一行を捜索する拠点として、あるいは深夜より降り出した雪をしのぐために、公邸は土足の反乱軍将校に使用された。
事態収拾後、総理となった林銑十郎は、公邸を修復することをあきらめて取り壊しを決定。総理官邸の南庭に木造2階建ての仮公邸となる日本家屋を新築した。しかし考えてみれば当たり前の話なのだが、池のある庭をつぶして立てた公邸は水捌けが悪く、日差しは地上3階の官邸にさえぎられ、当然ながら風通しも悪い。夏は湿気が酷く、冬は寒さが厳しい。だから畳は直ぐに腐るし、洗濯物は乾かない。食べ物は腐りやすいし、柱は傷む。
「公邸に来る余計な客を相手にしたくないが故の建築ではないか」と穿った見方も出るほどの酷い環境であり、出没するのは大きなゴキブリと丸々と太ったドブネズミばかりとくれば、当然このような話も出てくる。
『幽霊ですか?』
駐日アメリカ合衆国大使のジョセフ・クラーク・グルーは、公邸の主人の言葉にあっけにとられた。いかにもスマートな東部のエスタブリッシュメントという顔つきをした彼は、自分のもう片方の耳も難聴になったのではないかと考えた。いかに非公式な会談とはいえ、まさか『ここには幽霊が出るのだよ』と心霊現象を持ち出されるとは思わなかったからだ。しかし床の間を背にして座る現在の公邸の主人である林銑十郎元帥陸軍大将も、グルーの対面に座る前の主人であった前総理の岡田啓介海軍大将も、いかにも真面目くさった表情で頷いているので、ようやく自分の耳で聞いた内容が正確であることを理解した。
『犬養総理が射殺されたのは隣の官邸だし、5・15でも2・26でも警官が射殺されている。幽霊が出ても不思議ではないだろう』
「しかし総理、事件があった当時、ここは庭だったのでしょう」
『アメリカはどうだか知らないが、日本では幽霊が出るのならジメッとした薄暗い場所と相場が決まっている。いかにも出そうな場所だという思い込みが深層心理に影響して、そう見せるだけかもしれないがね。川べりの柳の木の下とか、墓場とか…少なくとも白昼堂々と公道を歩く幽霊など見たことも聞いたこともない。出るにしても雰囲気というものがあるのだろうな』
「総理はご覧になられたことがあるのですか?」
『それが生憎……どうにも人間だけではなく幽霊からも嫌われているようで。それに私は生きている人間の方が怖い』
林は自らの禿げ頭をぴしゃりと叩いて笑った。和装姿でくつろいでいる姿は、さながらラクゴカなる1人で何役も演じ分けるという演芸家のようだ。
11月だというのに、やはり湿気を含んだ畳の上に、薄い座布団を敷いて林と岡田は胡坐をかいている。グルーは軍事教練以上の厳しい訓練を経て正座という拷問的な座り方を習得していたが、あえて好き好んで自らの足を痺れさせる趣味などないので、両者の好意に素直に従い、同じように座布団の上で足を崩した。
「岡田大将はどうなのです」
『生憎だが私も見たことがない。酔っ払って物が二重に見えたことはあるが』
『……それはそれで不安になりますが、程々にしてくださいよ岡田さん。ところで大使、君はそもそも幽霊を信じるのか』
グルーは一旦、首をかしげると「そうですな」と自分の考えをまとめるためか口を噤んで拳をあてた。愚にもつかないと思える質問を真面目に考え込むあたりに、この東部出身の職業外交官たる彼の気質が現れている。そしておそらく同じ質問をされたエリートが共通して答えるような、極めて面白みのない考えを口にした。
「幽霊という概念がある以上、現代科学においては説明出来ない事象が存在しているのは事実なのでしょう。しかし暗闇の世界を人類が文明の光によって開拓していったように、多くの説明されていない不可思議な現象も、科学の進歩により解明されると考えます」
『ふむ、では科学の進歩により錬金術における神秘的な部分が否定されたように、いずれは幽霊も否定されると?』
「科学がどれだけ進歩して、事象が解明出来たとしても、人の心が全て解明されるとは思えません。幽霊を迷信と切り捨てることは簡単ですが、それではあまりにも味気がない」
途中の回答はともかく、最後の結論には林も「グルー君は詩人だね」と笑う。それを見て先程から茫洋としていた岡田が何かせっつく様に咳払いをした。日本の固有種というタヌキなる、アメリカ人のグルーからすれば謎の生き物に例えられるこの海軍大将は、朴訥とした喋りで口数は多くない。
見た目からは想像も出来ないが、海兵の中でも最も気の荒い連中が集まるという水雷屋を率いたこともあると、グルーは親交のある日本海軍の重鎮である斎藤実内大臣から聞いていた。決して無理はしないが、獲物を仕留めるまでしつこく食い下がる水雷屋気質は首相在任中に十分に発揮されたし、グルーも大使として信頼出来る交渉相手であった。
それに引き換え……グルーは咳払いを気にした素振りも見せず、埓もない話を続ける林に視線を向けた。自己主張の少ない東洋人-とくに日本人は何を考えているかわかりにくいとされるが、グルーからすれば斎藤にしろ岡田にしろ、口数は少ないが尊敬出来る政治家や軍人は数多くいる。彼らはそれぞれ確固たる信念の持ち主であり、またアメリカ社会においても一流のレベルで通用するだけの教養と知識も兼ね備えていた。
しかしこのカイゼル髭の元帥陸軍大将に限っては、何を考えているかわからないし、確固たる信念や見識があるようにはどうしても思えない。その内閣も陸軍における自らの基盤を強化するばかりで、単なる機会主義者ではないかとグルーは疑っていた。
番町皿屋敷と鍋島猫騒動を語り終えたあたりで2度目の岡田の咳払いに尻をつつかれたのか、林はようやく本題を切り出した。
『例のニュース映画ですが、大使はご覧になりましたかな』
「生憎、直接には。それでも報告は受けております。ロンドンでは相当な反響だということも。ところでユニバーサルですか?それともマーチオブタイムズ?」
グルーの回答に『……BBCのものだけではないのか』と岡田が渋い表情で両腕を組む。
主に映画館において同時上映された映像による時事ニュースは、先の欧州大戦頃から定期的に放映されるようになる。大画面で流れる大迫力の戦場は、観客の度肝を抜き、愛国心を大いに掻き立てた。トーキー映画時代の到来とともに音声が同時上映で流れるようになると、各国政府もプロパガンダ戦略の一環として重視するように……いや、国民に与える影響を重視せざるを得なくなった。
戦場だけでなく、ありとあらゆる事象が大衆に消費される素材となる「スクリーン・ジャーナリズム」時代の到来である。
ドイツ国内でのポグロム騒ぎが終結した直後、英国放送協会(BBC)が「ベルリンの奇跡」としてテレビ放送で流したニュース映画は、ロンドンで少なからぬ反響を呼んだ。昨日までユダヤ人の受け入れを断固として拒否していた世論は、日本の指揮者が成し遂げた奇跡に驚き、特に傲慢なナチス政権の鼻を明かした点を大いに称えた。
「部外者が余計なことをするな」という冷笑的な意見も存在してはいたが、関係のない第三者が娯楽として消費するものとしては、格好の素材であったことは確かだ。BBCに各国のニュース映画やテレビ放送を行う制作会社から、映像と音声の提供依頼がひっきりなしに舞い込んでいることは駐英大使館を通じて林も報告を受けているはずである。グルーへの質問は単なる確認である。
「おそらく来週か再来週にはロンドン、12月中にはアメリカや、この日本においても映画館で流れているでしょう。無条件に愛国心を肯定する戦争を素材としたものではないのに、メッセージ性とドラマ性を兼ね備えているという稀有の素材ですからね」
『……これを遅いと見るか、早いと見るかだな』
林の言葉に岡田とグルーが怪訝そうに顔を見合わせる。その言葉の意味が単純に理解出来なかったからだ。
『総理。それはどのような意味でしょうか。これ以上、早いことなどありえないと考えますが』
『うん、まあ……あくまで現段階では、物理的にありえないだろう。私が言いたいのは、これが…例えば収録と同時に全世界に流れる情報機器があると仮定したとしよう。そうなると燃え上がった大衆の感情を沈静化させることは、至難の業だと考えたのだ。ラジオや映画は電波や映像で世界をひとつにするというが、世界を一つの流れに押し流しかねない懸念もある。実際、満洲事変の時がそうであった』
グルーは言葉にはしなかったが、その当時に越境将軍として煽てられて持ち上げられた男が、どの面を下げてという思いに駆られた。同意を求めるかのように前総理に視線を向けたが、岡田は我関せずと目をつむり腕組みをしている。さすがの林も気まずい雰囲気を察したものか、照れ隠しのように頭を掻いて『私が言えた義理ではないがね』と続ける。まったくもってその通りだとグルーは頷いた。
『そんな世界など考えたくもないが、あながち遠くない未来に来るやもしれんな』
「総理の懸念は理解しました。ですが今はマス・メディアの将来予想よりも……」
『それもそうだ。それに、仮にそのような状況であれば、河野君の批判はあの程度で済まなかっただろう。それにドイツの抗議も……』
そこまで言いかけて林は口を噤んだが『まぁ、かまわないだろう』と苦笑して続けた。最初から聞かせるつもりであったにも関わらず、白々しいことだとはグルーも感じてはいたが、それを指摘することはしない。如何にバカバカしい形式主義であったとしても、それをすること自体に意味があるということも長い外交官経験の中でグルーが学んだことの一つだ。
『近衛公爵の路上コンサートは、保安警察の目を集めるためのものだったようだ。警備の手薄となった満洲公使館に、政治犯の疑いもある相当数のユダヤ人が駆け込んだそうだ。東郷君(東郷茂徳駐ドイツ大使)は、近衛公爵の身柄引き渡しを求めて保安警察と相当厳しくやり合ったが、相手は満洲公使館に踏み込むぞと脅す始末。近衛公は同時に検挙されたユダヤ人とともに収容所に送られたと聞く』
「よろしいのですか?」
『よろしいわけがない。無許可の路上コンサートを指揮することが、ドイツ国内のいかなる法律に違反しているのか説明されたわけではないのだからな』
「……揚げ足を取るようで何なのですが、無許可という点でかなり違反しているような」
『私的な制裁を国家で追認するより、よほど良心的だろう』
それにしてもこの面の皮の厚さは前任者の岡田や、その前の斎藤にも通じるものがあると、グルーは感嘆していた。それでもここまでふてぶてしくはなかったと思うがと、目の前の駐日大使が考えていることなど知る由もない林は、ドイツ側の対応を一つ一つあげつらい、批判した。
『しかしこちらが駐ドイツ大使を呼び出して抗議しても、関東大震災の時に貴国の戒厳司令部が朝鮮人を保護したのと同じだと開き直る始末。さすがに命はとられぬと思うが、相手の面子は丸つぶれだからな……こちらからすれば、あのような暴動を看過しておいて、警察の面子もなにもあるかと思うが』
珍しく率直な皮肉を口にした総理に、岡田前総理は『それはナチスは怒るわけだ』と得心したように頷く。公衆の面前で演奏会を鑑賞した挙句、取り締まりの対象をまんまと見過ごしたのだ。挙句、その不始末を世界中に流されようとしている。今回のポグロムを主導したのが内閣の宣伝担当大臣であるというのも、皮肉がきいているとグルーは心中で嘲笑った。
殴り合いや単純な武力を背景にした脅迫だけで物事が解決するのなら、外交官など必要ない。武力や経済力の裏付けのない外交が無力であるという点は認めるが、その意味においてはグルーのみならず国務省の官僚はナチス政権のやり方を快く思っていない。おそらくそれは多くの諸国の外交官の共通した考えであろう。グルーの知る限り、林の前任者の外務大臣である広田弘毅も、そのような人物であった。
「広田さんも心配しておられました。今の近衛公爵を音楽大使に推薦したのは間違いだったかもしれないと」
『広田さんは心配性だからね。正直なところ…まぁ、こういうと適切ではないかもしれないが、近衛公については私はあまり心配していないのだ。あのドイツの現政権からすれば、恥さらし以外の何者でもないニュース映画が流される前に釈放しなければ、恥の上塗りだろう』
「……こう申し上げては何ですが、移送中の事故が起きる可能性は?」
『可能性はあるだろうね』
あっさりとその可能性を認めた林に、自国民の生命保護の義務を軽んじるのかと咄嗟にグルーが顔色を変えるが、岡田が視線でそれを制する。当の本人はグルーの態度を気にした様子もなく、髭を捻りながら続けた。
『無論、その時にはそれなりの対応をとるとも伝えてある。貴族の音楽指揮者を一人殺したところで、得られるのは彼らの自己満足だけだ。反共のナチス政権にとって、ソビエトを東から牽制できる日本の地政学的な重要性は不変である。ただでさえ彼らは日本において不人気なのだし、それがわからないほど無能ではあるまい』
『今回のように、現地の配下が暴走という形で処理する可能性は?』
『岡田さん、それは4カ年計画の責任者であるゲーリング元帥が認めないだろう。無論、ナチス政権内部の権力構造についてはよくわからないところも多いという点は認めよう。それに東郷君は反ナチス派とされるが、保安警察のハイドリヒ長官とパイプが太い。直接話せる間柄だからね』
「東郷大使を評価されているのですね」
『出来ないことは出来る人間に任せるが私のモットーでね……ま、それよりも問題なのが』
林はいったん言葉を区切ると、ため息を吐きながら今日の東西新聞の朝刊を取り出す。そこでは旧朝日新聞記者であった河野代議士が古巣に圧力をかけたのか、一面で昨日の対ドイツ国民大会を取り上げていた。
翻訳させたものについてグルーは大使館で目を通しているので、その内容は承知している。「軟弱外交を痛罵!」だの「三国干渉を忘れるな」だの勇ましい言葉が並ぶが、その中に小さく、しかし太字で「石川幕府をたたきつぶせ」という河野代議士の言葉が印刷されていたそうだ。今の内閣は挙国一致という名の、事実上の民政党と政友会の連立政権である。そしてそれぞれの党内には連立政権に反対している勢力も存在していることをグルーは承知している。河野代議士の属する鳩山派は、政友会における非連立派(反・林ではない)の重鎮だ。
『近衛公爵の一件が詳しく伝えられていない現状ですら、これだけの反響がある。先代がしくじったとは言え、日本において近衛の家名にはこれだけの影響力があるのだと、実感させられたよ……率直に言って、1ヶ月前後の冷却期間があるのはありがたい。政府としてはドイツを必要以上に刺激することは避けたいのだ』
『新聞はいずれ嗅ぎ付けるでしょう。緒方さん(東西新聞社社長)に要請されるおつもりですか?』
『不可能ではないが、下手に要請すれば河野君や鳩山さんの思う壺だからね。それに緒方さんは柔軟に見えて、自分の納得出来ない筋の通らぬことには、猛犬のように噛み付く人だから、逆効果かもしれない。とにかく無関心を装う間に、何らかの対応策を考えるしかない。それに岡田さん、文字で読む印象と、映像を見て感じる印象は違うものだよ。真面目に新聞を読む人間は少ないが、ついでとは言え映画館で流れるニュース映画とでは、与える影響が大きく異なる』
もっともらしくマス・メディアの特性を説明した後に『もっとも河野君の演説は、新聞で読んでもいささか暑苦しいが』と付け加えた現総理は、前総理にかっかと笑いかけた。そのやり取りは、先ほどからグルーに、そして報告書を通じてワシントンDCに伝えさせる意図があるのか、あえて英語で行われている。そしてグルーは報告書のもうひとつの要点となるであろうことを公邸の主に尋ねた。
「つまりユダヤ人避難民問題に関して、満洲国政府は河豚計画に従い自治区でこれを受け入れを続けるが、日本政府はこれまで通りに不干渉政策を貫かれる。こう考えてもよろしいのでしょうか」
グルーの問いかけに、林は『本音と建前というものがあることは認めよう』という答えを返した。日本の政治家のもったいぶった言い回しになれたグルーは「それで、どうされるのです」と改めて尋ねた。
『チェンバレン首相と同じく私も個人としては彼らの境遇に同情する。不干渉というよりも黙認と言って頂けるとありがたい』
「シベリア鉄道経由での難民は満洲で受け入れる、あるいは食い止められるとお考えなのですか」
『欧州から避難船を出したところで、寄港を受け入れる国は中々見つからない。エビアン会議でも実際に見つからなかったのだからな。そうなるとシベリアルートしかない……偶然だよそれは』
日本はエビアン会議に参加しなかったことで、主要国で唯一、ドイツが人種政策を正当化する理屈から自由な立場でいた。そして満洲国は未だに日本の保護国と思われている(実際にその通りなのだが)。今回の一件で、これまで築き上げた財産や生活基盤を失うことを恐れていたユダヤ人も、命には代えられないとシベリアルートに流れ込むことが予想された。実際、事件前に日本が赤十字を通じてドイツ国内の旧ボーランド国籍を持つ15歳以下の児童の引き受けを申し入れたことも、この流れを後押しするだろうとグルーは見ていた。
『大使。ここだけの話にしていただけるかね』
自分を通じてワシントンDCに伝わることを前提に話す日本の総理に、グルーは「もちろんです」と深く頷く。本音を打ち明けて話してくれていると思うほどグルーは楽観的な性格をしてはいないが、内々の話とはいえ日本政府の首班の公式な見解を聞いておくことは、アメリカの国益にとって損にはならない。同席する岡田前総理の表情からは特に何も感じることが出来なかったが、この老人が同席しているということは海軍も了承しているということを意味する。
『旧ポーランド国籍であり無戸籍となった2万人。これは構想中だが満州国内の自治区で、あるいは一部は日本で引き受けざるを得ないだろうと考えている。近衛公爵の一件が広まれば、ユダヤ人を救済しろという声が政府を突き上げるだろう。政府としてもその声を無視するわけにはいかない。しかし……』
林は言葉を選びながら慎重に答えた。声と表情からは苦悩の色が窺えた。
「……ニュルンベルグ法なる不愉快な法律で規定された完全ユダヤ人は、ドイツ国内だけで80万近くになるという。ユダヤ教の信仰と関係なく血縁関係で定義されているのだからな。ポーランド国内には200万から300万のユダヤ人がいるとされる……この1パーセントだけでもどうなる?新京の人口は約30万前後でしかない。確かに満洲には荒野があるが、誰も好き好んでそんなところには住まない。都市部に受け入れるにしても限界というものがある。旧来の住民は必ず反発するだろう』
「つまりは防波堤としての河豚計画ですか」とするグルーの疑問に、林が眉を顰める。
『人聞きの悪いことを。しかしまったく異なる文化を持つ人間が集団で移住すれば摩擦が起きるのは避けられない。だからこそある程度まとまったコミュニテイで集住できるようして、段階的に満洲に帰属させるというやり方は間違いだとは、私は思わない。そこから先、他国に移住するのは彼らの自由だ。だからこそ安江らの専門家を満洲に派遣したのだが』
「それに集住しているほうが、各国のコミュニテイに支援を呼びかけやすいというわけですね」
『それは否定しない。元々、河豚計画はそのための-満洲における日本の優先的な地位を国際社会に認めさせるための手段の一つだった。河豚を食べるリスクを冒しているのだから、見返りがないことには。しかし何の見返りもなく人道主義だけで受け入れるほうが、却って信用出来ないとは思わんかね。日露戦役におけるジェイコブ・シフ氏の日本国債引き受けも、帝政ロシアにおけるユダヤ人政策への牽制の側面があったと高橋さん(高橋是清内閣参議)から聞いている』
『むしろ割り切った関係のほうが、話が進めやすいとは思わないか?』と問いかける林に、グルーは曖昧な笑みを浮かべた。道義面で日本の姿勢を批判するのは簡単だが、アメリカ政府として、その役割を肩代わりすることは現段階では政治的に困難である。またこれが満洲を国家として早期に承認してほしいという日本政府の政治的なメッセージであることも理解した。
しかし現実に満洲国承認に向けた調整と交渉を開始しているとはいえ、当初は満洲事変を9カ国条約違反と批判していたアメリカの大使であるグルーとしては、そう簡単に言質を与えるわけにはいかない。ましてこの8日には本国では中間選挙を終えたばかり。タイミングとして悪すぎる。
「満洲は防波堤であると同時に、テストケースになるわけですか。ところで念のためにお尋ねするのですが、本土で引き受けられるつもりは」
『本当に人聞きの悪い言い方を……何度も繰り返しになるが、人情としては受け入れたい。しかしだ。勘違いしてもらっては困るが、日本は余剰人口を南米に移民として出している貧しい国なのだ。摩擦が起きてから出て行けというのは、ナチスとかわらないし、人口過疎地帯に押し込めるというのならゲットーと大して差はないではないかと批判されかねない。確かにナチスの人種政策は日本として受け入れがたいのだが』
林はそういうと両手を横に広げた。袖が垂れ下がるが、物がよくないのか皺が目立つ貧相な生地である。
『生憎、この手が届く範囲は限られている。自分の分限以上の寄付は出来ないし、自分の能力以上の仕事も出来ない。出来る範囲でやるしかないのだが、その範囲がどこまでなのか。河野君のように現実を無視すれば受け入れの表明は出来る。極めて近い将来の破綻を無視すれば、実際に受け入れることも可能だ。しかし私は行政の長として、予想される混乱を最小限にしなければならない』
『さしずめ総理は、桜田門外で切られた井伊大老というわけですか』
『切られかけたのは私ではないし、私の家は加賀藩です。むしろ私は国許で引きこもって実権を握り続けた斉泰公(前田斉泰)のあり方に憧れるのだが……そうなると旧福井藩士の岡田さんは松平春嶽ということになるのかな』
黙り込んでいた岡田が口を挟み、林との間でアメリカ人であるグルーにはよくわからない政治的なジョークが繰り広げられるが、雰囲気は決して和やかなものではないことだけはわかった。一通りのやり取りを終えると、林はグルーに前総理を同席させた理由を告げた。
『実はね。この岡田さんを駐ドイツ大使に考えているのだよ』
「……では、あの噂は本当でしたか」
グルーが岡田の様子を窺うが、この老人は再び沈黙する。つまり海軍との間で根回しも終えているということかと、グルーは判断した。
外務省の定期人事において注目されたドイツ大使は相変わらず東郷のままであったが、いずれ移動するという噂は聞き及んでいた。東郷の同期や大使級の人材がことごとく移動した後、誰を指名するのか。これではわからないはずである。グルーの沈黙をどのように解釈したものか、林は『勘違いしないでいただきたいが、東郷君の手腕を評価していないわけではない』と続けた。
『泳ぎの達人に山登りをさせても仕方がないし、機織職人に斧を持たせて木を切らせても、能率が上がらないということです。この時期だからこそ、職業外交官でない海軍軍人の岡田さんを大使にしたい。ドイツの現政権もパーペン元首相をオーストリーの大使に抜擢しているのだから、問題はない。前総理にして海軍の大御所であるから、カウンターパートナーとしては悪くないと思う』
「確かに悪くはないと思います。他国の人事に注文を付けるわけではありませんが、重量級過ぎませぬか」
『体重のことかね』と交ぜっ返す林の言葉を、グルーと岡田は無視した。それを予想していたのか林はわずかに肩をすくめただけで続けた。
『簡単な話だよ。日本においてドイツとの接近を最も嫌う政治勢力は海軍だと、相手も理解している。海軍が仮想敵と戦う上では、陸軍国であるドイツなど役に立たない。この重量級の狸を説得出来ないようなら、あきらめて貰うしかない。これは言い方を変えれば、慎重派をあえて大使とすることで、本格的に日独交渉に乗り出したとする見方も可能だろう』
反ナチ派の東郷大使の人事異動ですらカードとして高く売りつけたと嘯くことに呆れるべきなのか、対米戦という単語を避けたことを評価するべきなのか、グルーには判断がつきかねた。確かに合衆国海軍がそうであるように、帝国海軍が合衆国海軍を仮想敵としているのは自明の理。
報告書にどう書くか頭を悩ませつつ、グルーはさらに尋ねた。
「時間が経過すればするほど、極東における貴国の安全保障環境は悪化するのではありませんか。満洲の防衛義務負担に加え、半島の維持、チャイナの内戦への対処。ドイツとの関係改善が切れない手札であるとクレムリンが解釈する可能性はどうお考えです」
『その可能性は否定できない。こちらの思惑通りに何もかも推移するのなら、誰も苦労はしないしな。カードを切るにもタイミングというものがある。少なくとも近衛公の一件が片がつくまで動かせないが……そこで東郷君を駐ソビエト大使に考えている。重光(重光葵)さんは中央に呼び戻して内閣参議に。いくら自分の直系とはいえ、教え子の下で大使をするにしても、重光さんはよしとしても重量級過ぎる。それにコミンテルンのやり方を知り尽くしている重光さんに、いろいろと助言も願いたい』
林は独り言のように外務省の人事案を詳述する。他国の大使に伝えるような内容ではないが、何らかの意図があることに間違いはない。駐日大使の顔を立てることで自分に連なる国務省人脈の立場を強化する狙いがあるのかとも考えたが、グルーはその考えを自分で否定した。つまらぬ政治的思惑に巻き込まれて、職業外交官としての本質を見失っては本末転倒である。
他国の人事ながら外交官としての職業病なのか、グルーはその適性について考えた。東郷大使の在職は2年半に及び、反ナチスであることを公言しつつ政権とのパイプを築いた。親政権派と反政権派で機能不全に陥った同大使館を立て直した手腕もある。後任大使の岡田は外交官経験こそないものの、手堅い仕事をする人物である。何より前総理というネームバリューは大きい。ドイツにも、あるいはソビエトにも政治的なメッセージとなるだろう。そして前任者の重光を本省に呼び戻して睨みを効かせる。突拍子もないように思えるが、要点は外さない手堅いとも言える人事だ。
それに……グルーは岡田の顔を見やりながら思考を続ける。
いささか政治的になるが、今の内閣は岡田内閣の政権基盤をそのまま受け継いで発足した。2・26事件の結審により政界に復帰したばかりとはいえ、前総理が本国で政治的に動かれるのは現職にとって面白くない事態であることは、グルーにも想像出来た。だからこそ、この人事を素直に受け入れた海軍の思惑がよく理解出来ないが……それとも海軍として「ポスト林」を見据えて、ここは受け入れたほうが良いと判断したのか。確かに海外にいれば政治的には傷つかない。しかし駐英大使の宇垣の様に浮かされる可能性もある。
グルーの考えが一定の方向性でまとまるのを待っていたかのように、林は再び口を開いた。もっともそれは彼の外交官としてのの古傷をえぐるようなものであったが。
『選挙とは怖いものです。大統領閣下も先日の中間選挙では手ひどく共和党にやられたようですな』
「勝つときもあれば負けるときもある。選挙とはそのようなものです」
『72議席も減らしては、バンクヘット下院議長も続投出来るでしょうか。サボテン・ジャックに先導された中西部の保守系議員が突き上げていると聞きましたよ』
これだからこの禿げはと、グルーは内心舌打ちをした。それともこれはワシントンDCの似非英国紳士の入れ知恵か。前任の広田外相は戦争を嫌う平和主義者であり、いささか指導力には疑問符がついても率直な職業外交官としてグルーとも馬が合った。しかし今の林(外相兼任)は、交渉の中で政治的に危険な癖球を平気で投げ込んでくる、いかにも日本陸軍らしい政治的な軍人。グルーの最も苦手とするタイプである。
先週の火曜日、11月8日に行われた中間選挙において、ルーズヴェルト大統領の与党である民主党は、下院において72議席減、上院においてもわずか数議席差でかろうじて多数を維持するという歴史的大敗を喫した。「平和の薔薇」を掲げた大統領としては、外交面の成果で多数派を維持出来たのだと主張するが、いかにも説得力に乏しい。最優先課題としていた最高裁改革の失敗が響き、むしろ当初の内政重視を放棄したものと有権者に受け止められたからである。民主党が多数派である現状に変わりはないが、『サボテン・ジャック』ことガーナー副大統領を領袖とする党内保守派はニューディール政策の転換を訴え、アルバン・W・バークリー上院院内総務や、ウィリアム・B・バンクヘット下院議長らの執行部を「敗北の責任を取れ」と突き上げている。
いかにグルーが職業外交官として振舞おうとしていても、宮仕えのつらいところで、本国の政治情勢をまるで無視するわけにはいかない。ましてアメリカの外交は内政の延長線上である側面が極めて強い。グルー自身、国務次官として人事改革に消極的であるとみなされて上院外交委員会で批判され、トルコ大使に左遷されている。内心の不快感を勤めて表に出さないように、グルーは物分りの悪い振りをしてやり過ごそうとした。
「プライム・ミニスター。合衆国の国益を代表する大使として、国内政治についてコメントすることは適当ではないと考えております」
『まぁ、そういうことにしておきましょう』
本来であれば自分の政権基盤を心配しなければならないはずのカイゼル髭の宰相は、さもわかっていると言わんばかりに2度、3度と大きく頷くと、さも今思い出したと言わんばかりに付け加えた。
『ユダヤ人社会からの支援と支持は、今後の大統領閣下の政権運営にとって損にはならないと思います。ま、余計なおせっかいだとは思いますが、是非ともお伝えください』
本当に余計なおせっかいだと、グルーは辟易とした。
・ロータス様よりファンアートロゴを頂きました。感謝・感激!
・なんだかこう書きたいことが二転三転して、とっちらかって長くなってしまった。反省。
・現実は情報が溢れすぎて混沌としており、当然ながら未来はわからない。だからこそ「●●が悪い!」という単純明快でわかりやすいもので、過去を解釈し今を説明して、未来はこうあるべきだとする愚に陥りやすいのだと思う。これは今も昔も同じ。
・常盤会。まあ実際には活動していた時期が日中戦争頃なんだけど(ポスト近衛で末次か宇垣を擁立しようとしていた)…細かいことは気にしない(おい)。反独同志会は、反英同志会。繰り返しになりますが、この世界線ではゾルゲ事件や第2次上海事件により反英運動が反ドイツ運動になっています…無理があるのはわかっているんですが。
・実は林と親しい末次信正。ここ重要。決して書き忘れたわけではない(おい)
・まさか河野一郎がここまで暴れるとは思っていなかった。
・史実では第1次の近衛(またお前か)がうかつな受け入れ方針を示したことで「お前ええかげんにせいや」と欧州の在外公館から雨あられの悲鳴が届いたそうな。
・ててーん!東郷茂徳はソビエト大使の内示が下りました。なお近衛のやらかした始末をしなければいけない模様、そして新天地は赤の巣窟。
・ててーん!岡田啓介前総理に駐ドイツ大使の内示が下りました。なお新天地はナチの総本山。
・ててーん!ルーズヴェルトは史実通りゲーム(中間選挙)に負けました(勝てる理屈が思いつかなかった)。なおサボテンジャックは祝杯をあげた模様。
・当たり前なんだけど、あまりにも当たり前過ぎて忘れ去られていますが、ユダヤ人は独立した人間の集団であって、様々な組織が有り、多種多様な思惑がある。援助したからといって、こちらに感謝して都合よく働いてくれる労働力でも、気前よく資金を援助してくれるスポンサーでもない。個々の事情は千差万別。歴史的に散々搾り取られてきたから、ある意味、世界一シビアな集団。だからこそ居場所がなければ国を作ってしまう。そして受けた恩も恨みも、文字通り石に刻む。
・難しいという単語で説明した気になるのは、私は個人的に無責任だと思う。というわけで信託統治領パレスチナのウィキを読む…うん、難しいね(おい)