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何も銑十郎元帥  作者: 神山
昭和13年 / 1938年 / 紀元二千五百九十八年
42/59

東京陸軍軍事法廷判決・東西新聞・中央新聞 / 閣議速記録 / 東京市芝区芝公園五号地 立憲政友会党本部 / 川越法制局長官メモ / 東京市麹町区千代田 皇居内 枢密院本会議場(1938年10月)

「ワトソン、君は形式にとらわれすぎているよ」

「形式こそ社会だよ、ホームズ。君のやり方も悪くはないと思うがね」


サー・コナン・ドイル著『僧坊荘園』より


- 十月二十五日 陸軍省公表 -


 東京陸軍軍法会議においては、二・二六事件に関し(叛乱者ヲ利ス)被告事件として起訴せられし真崎大将について慎重審理中であったが、本日二十五日、禁固十三年の判決言渡しあり。


(メモ書き)死刑判決(磯辺ら16名)無期禁固(山口ら6名)は22日、関係者および背後関係(北ら3名に無期禁固)、支援者への判決は24日。真崎判決で公判終了。

   見出しどうする?帝都不祥事件判決(結審)、真崎有罪…

(取材メモ)磯部、香田ら16名を始め有罪判決の被告は軍籍剥奪処分になる見込み。野中四郎、河野壽ら自決した2人は事件前日、帝都事件前日の25日付で軍籍剥奪処分となる←真崎大将は?(わからん)(不明)


判決理由


 公訴事実に本づき審理の結果、真崎大将は明治三十一年六月二十七日に任官、昭和八年六月十九日に陸軍大将、同十一年三月六日待命、同月十日予備役となるが、その間各種の要職を歴任。特に士官学校在職中においては国体精神および皇室観念の涵養につとめ、あるいは学術併進などを主旨とする実行主義を指導方針の根本義となすなど鋭意生徒の薫育に尽瘁せるが、この間、恐れ多くも


 軍人勅諭の精神に背反し、現下の内外情勢を案ずると政府を批判。国防の欠陥は強力内閣とその実現をときわめて政治的な言動を行った。国内外の情勢を案ずるとして政権を批判、救国の途は一に国策遂行のための必要不可欠な気魄実力を具備せる、いわゆる強力内閣実現によるべしと公言し、生徒を煽動。退官後も彼らの精神的な後ろ盾として振舞った。これにより、かねて本人を深く欽慕崇敬せる一部青年将校の間にいわゆる特権階級を打倒し国家の革新を目的とする昭和維新の運動漸次濃厚となり、陸軍歩兵大尉香田清貞(死刑判決)、同村中孝次(死刑判決)、陸軍一等主計磯部浅一(死刑判決)、陸軍歩兵中尉栗原安秀(死刑判決)らは北輝次郎(無期禁固)、西田税(無期禁固)らより矯激なる思想の感化を受け、いわゆる昭和維新断行のためには非合法的手段また敢て辞すべきに非ずと決意した。


(メモ書き)士官学校長時代に青年将校らとの繋がりが出来たか。当時より政治的に取り込もうとしていた?

青年将校の後ろ盾が真崎


 ここに同志相結束して連絡会合を重ね、また同志の獲得指導につとめ陰に維新断行の機運促進をはかりいたる折柄、昭和十年七月本人が教育総監を免じ軍事参議官に転補せらるるや、村中孝次、磯部浅一らはこの更迭につき、頻りに当局非難の気勢をあぐるに至り。本人はこれらの情勢を推知しながらしばしば本人の許に出入せる陸軍少尉平野助九郎らに総監更迭の内情を語り、かついたく憤懣の情を表すと同時に、その手続上当局に不当の処置ありと力説。軍内政治に利用せんがために青年将校を煽動せり。これにより村中孝次、磯部浅一が当局を非難せる教育総監更迭事情などに関する不穏文書を頒布、青年将校同志の該運動一層尖鋭化するにいたれり。


(メモ書き)林陸相時代の真崎の教育総監更迭人事。教育の責任者がこれでは青年将校の増長

・やはり真崎大将が怪文書騒動の情報源

・相沢事件、同志が分断されることを恐れて決起

(記事にする際には文言に注意)


 次いで同年八月、陸軍歩兵中佐相沢三郎の陸軍省軍務局永田鉄山殺害事件(相沢事件)勃発するや、一部青年将校などは深くその挙に感奮するとともに教育総監更迭の背後に一部重臣、財閥などの陰謀策動ありとなし、しかも重臣などは超法的存在にして合法的手段をもってしては目的の達成不可能なりと考え、国法を超越するに直接行動をもってこれを打倒し、一部軍上層部を推進して国家を革新せんとするの運動日に熾烈を加えたり。


 かくて昭和十年十二月ごろより村中孝次、磯部浅一、香田清貞、栗原安秀および渋川善助(死刑判決)などが第一師団将兵の渡満前、主として在京同志により速かに事を挙げるの要ありとなしその準備に着手、相沢中佐の公判を機会に蹶起機運を促進せんとし特権階級に極度に非難攻撃を加え、また相沢中佐の行動精神を宣伝しもって同志蹶起の決意を促さんとするや、本人は同人などの間に瀰漫せる不穏の情勢を察知しながら


イ:昭和十年十二月陸軍歩兵中尉対馬勝雄(死刑判決)の来訪を受けたる際、同人に対し教育総監更迭問題については尽すべきところを尽したるのみならず、同更迭には妥協的態度に出でず最後まで強硬に反対せり。なお自分は近来その筋より非常の圧迫を受けているが、機関説問題については真面目に考慮するの必要ある旨を説き


ロ:同月二十四日ごろ磯部浅一および陸軍歩兵大尉小川三郎と自宅において面接せし際、興奮せる態度をもって総監更迭につき「相沢中佐は命まで捧げたるが、自分はそこまでは行かざるも最後まで強硬に反対」せし旨を告げ、それは小川三郎が国体明徴問題及び相沢公判にしてうまく運ばず、そのまま放置するがごとき場合には血が流れることあるやも知れざる旨を述ぶるや両名に対し「確かに然り、血を見ることあるやも測られざるが自分がかくいえば青年将校を煽動するがごとく認められるゆえ甚だ困る事態なり」と答え


ハ:同月二十八日ごろ香田清貞より国体明徴問題などにつき聴取し、青年将校のこれに対する努力未だ足らずと難じ、また憤懣の態度をもって教育総監更迭には最後まで反対せる旨を述べたり。なお相沢中佐の蹶起精神を称揚し、深く同情の意を表し同中佐の公判には統師権問題につき証人として起つべき旨および教育総監陸軍大将渡辺錠太郎が、その位置を退くことになれば都合よく運ぶ旨を説き


(メモ書き)渡辺大将を露骨に標的に指名したようなもの。ハはアウト


ニ:同十一年一月相沢中佐の弁護人陸軍歩兵中佐満井佐吉に教育総監更迭には最後まで反対せし旨その他更迭の経緯などにつきまた相沢の公判には喜んで証人となる旨を告げついで同二月同満井中佐の来訪をうけたる際、同人より現在軍の蟠り国家の行詰りなど甚だしきため青年将校の運動の激化せる状況につきこれを聴取し


ホ:同年一月二十八日ごろ磯部浅一が本人を自宅に訪ね、教育総監更迭問題についてはあくまで努力する旨を述べ金一千円または五百円の出資方を乞うや、都合する旨を答え


(書き込み)資金提供の約束?


 爾来青年将校同志は東京市内各所に会合を重ね実行に関する諸般の計画および準備を進める一方陸軍歩兵大尉山口一太郎および民間同志北輝次郎、西田税、亀川哲也(無期禁固)などと連絡をとり、蹶起直後、亀川哲也は真崎甚三郎および山本英輔(海軍大将)などに対し、また山口一太郎(無期禁固)および西田税はそれそれ要路に対し蹶起の目的達成のため工作をなすべく手筈を定め、遂に昭和十一年二月二十六日払暁村中孝次(自決)、磯部浅一、香田清貞、安藤輝三、対馬勝雄および栗原安秀などが近衛、第一師団の一部将兵とともに兵器をとりて一斉に蹶起し反乱を決行。


ヘ:その間において本人は


(走り書き)これはあかんだろ!どう考えても!

自分が表に出ないのは狡猾さの表れ、磯部らも公判中に真崎に裏切られたと批判していたとの話あり。

  →真偽不明。記事にするか?/←伝聞は危険、編集の判断仰ぐべし


一、昭和十一年二月二十六日午前四時三十分ごろ自宅において予て二、三回本人を訪ね青年将校の不穏情勢を伝えいたる亀川哲也の来訪を受け、同人より今朝青年将校らが部隊を率いて蹶起し内閣総理大臣、内大臣らを襲撃するにつき青年将校らのため善処されたく、また同人らは大将が時局を収拾せらるるよう希望しおれば自重せられたき旨懇請せられ、ここに皇軍未曾有の不祥事態発生したることを諒知しこれに対する処置につき熟慮しいたる折柄、陸軍大臣よりの電話、招致により同日午前八時陸軍大臣官邸に至り。同官邸において


①、磯部浅一より蹶起の主旨および行動の概要につき報告を受け、蹶起主旨の貫徹方を懇請せらるるや「君達の精神はよくわかっている」と答え

②、陸軍大臣川島義之と村中孝次、磯部浅一、香田清貞など反乱幹部との会見席上において蹶起趣意書、要望事項および蹶起者の氏名表などを朗読し、香田清貞より襲撃目標および行動の概要などにつき報告を受けたるのち同人などに対し「諸君の精神はよくわかっている、自分はこれよりその善後処置に出掛ける」と告げて官邸を出で


(記者メモ)この間に林銑十郎参事官と渡辺教育総監が陸相官邸に出仕。陸相告示に反対。


二、同日午前十時頃参内したる際、侍従武官長室において陸軍大臣川島義之に対し「蹶起部隊は到底解散せざるべし、この上は詔勅の渙発を仰ぐのほかなし」と進言し、またその席に居合せたる他のものに対し同一趣意の意見を強調。陸相官邸に戻り、反乱軍として即座に軍籍剥奪し、鎮圧すべきと主張する林銑十郎参事官、渡辺錠太郎教育総監と激論


(書き込み)越境将軍は陸相時代にそれをやっとけよ!!

青年将校の逮捕要求メンバー筆頭故の行動か?


三、同日夜、陸軍大臣官邸において前記満井中佐に対し「宮中に参内し種々努力せしもなかなか思うように行かざるをもって彼らを宥めよ」と告げ


四、翌二十七日叛乱将校らは陸相布告の約束履行を求めるも、北輝次郎、西田税より「人なし勇将真崎あり、正義軍一任せよ」との霊告ありとの電話指示により、時局収拾を真崎大将一任に決し、林、渡辺の即時逮捕請求を求めて軍事参議官に会見を求むる。本人は同日午後四時ごろ陸軍大臣官邸において会談に応じる意向を示すが、林大将がこれに強硬に反対。真崎と再度激論。荒木貞夫(元陸相)沈黙して語らず。慎重論多しとみるや、ひそかに官邸を抜け出して叛乱将校と会見。この際、同将校より事態収拾を本人に一任する旨申出で、かつこれに伴う要望を提出したに対し「無条件にて一切一任せよ、誠心誠意努力する」云々の旨を答えたり。


五、戒厳令布告に関して文面を巡り、賊軍認定を求める渡辺総監に、真崎は戒厳軍司令部への編入を求める。阿部信行参事官の折衷案(時限設定により原隊復帰を認める)に、寺内寿一、西義一らの中間派参事官が賛成し、阿部案に決す。真崎は一転して戒厳令反対に回る。


(メモ書き)林参事官が川島陸相と参内。「即時鎮圧」の聖慮を確認(←美味しいところだけもっていきやがった!

東京警備司令部の香椎浩平中将に賊軍として扱うよう圧力。渡辺?阿部?


 以上の事実は本人においてその不利なる点につき否認するところあるも、他の物的証拠ならびに証言により、これを認むるに難からず。これらが叛乱者を利せむとするの意思より出でたる行為であると認定した。当法廷は退役陸軍大将真崎甚三郎に、陸軍軍法会議法第四〇三条により、禁固十三年の言渡しをなせり。



- 真崎大将に禁固13年、久原元逓相は無罪 -


(教育総監時代の真崎大将の写真)


・陸軍省軍務局の鈴木貞一報道官談話


 陸軍は先の事件禍根を招来に絶滅せんことを期し、実行犯だけではなく、関係ありと認められた者、あるいはこれに関し疑いあるものは悉く検挙しその取調べの結果に応じて、これを東京陸軍軍法会議の審理に付した。軍法会議審理の結果についてはすでに数次にわたり、その都度公表したところであるが、いよいよ本日をもって真崎大将に対する判決言渡しを終り、ここに東京陸軍軍法会議における被告事件一切の処理を完了した次第である。


 久原元逓相に関しては証拠不十分と判断した。真崎、および久原両氏の判決について政治的な圧力によるものではないかという一部報道があるが、陸軍省としては、これに断固として抗議する。また所謂皇道派の真崎大将以外の将官が関与しているのではないかという疑念があるのは承知しているが、陸軍省としては警察当局とも協力し、事件に関して叛乱軍の主張に心情的に理解を示す言動をした、あるいは行動をした者を含め、全ての将官を聴取した。その結果、直接的に関与した物証及び証言は得られなかった。陸軍としては今後共、信頼回復の為に誠心誠意、努力するつもりである。


- 東西新聞号外 (10月26日) -



- ゾルゲ、尾崎の上告棄却。死刑判決確定へ -


 大審院大法廷はゾルゲ事件に関する一連の上告を棄却した。一審判決が確定したことで、リヒャルト・ゾルゲ、尾崎秀実両被告の死刑判決と、その他の判決が確定したことになる。同事件は両被告を中心に組織されたコミンテルン防諜網が昨年7月から8月にかけて摘発されたことにより発覚した。尾崎はもともと社会主義思想の持ち主であり、大阪朝日新聞(現・東西新聞)の記者として上海特派委員時代にコミンテルンの諜報員となった。帰国後に正式にゾルゲ・グループに加わり、次期総理候補として有力視されていた近衛文麿公爵(当時)の政策ブレーンとなった。西園寺公爵家や満洲鉄道、朝日新聞などマスメディアまで政官民に広がっていたコミンテルン諜報網の存在は、世間に衝撃を持って受け止められた。ドイツ大使館は関係性を否定したが、ゾルゲ被告はドイツ大使館に自由に出入りを許されており、反共を掲げながらコミンテルンの関与を許した(中略)


- 白上内務次官、思想犯罪に関する新法について検討を開始 -


 白上佑吉内務次官は、司法省の岩村通世次官と会談し、東京陸軍軍事法廷の結審とゾルゲ事件の控訴棄却による判決確定を受けて、思想犯の監視に関する新法制定に向けた検討を始めることで合意した。2・26事件直後、思想犯の監視強化のための新法制定が枢密院や司法省から提議されたが、治安維持法および既存の治安関係法との整理がされていないとして、特別高等警察を抱える内務省が慎重姿勢を崩さなかった。ゾルゲ事件の摘発の際、阿部内閣書記官長(当時)は「2・26事件の捜査を精査した上で検討を開始する」としていた。両事件の判決が結審したこともあり、内務省も同意したと思われる。枢府筋からは現内閣の治安に関する姿勢を疑問視する声も出ており、同法案の行く末が注目される。


- 喧嘩両成敗?平賀譲総長の裁定下る -


 泥沼化した東京帝大経済学部の人事抗争の決着なるか。新総長に就任した平賀譲は喧嘩両成敗の裁定を下した。辞職勧告を拒否した河合栄治郎、土方成美両教授に対して、平賀総長は総長権限で休職処分を永井柳太郎文部大臣に具申した。22日に文部省を訪れた平賀総長は、記者団に対して「学問的な問題ではなく、綱紀粛正の観点から判断した。論争は大いに結構だが、これ以上の混乱が続くことは学生のためにならない」とその理由を述べた。文部省内には同学経済学部教授会の頭越しでの平賀裁定に慎重論もあるが、永井文相はこれを受け入れる姿勢だ。


 早速、河合派・土方派からは、この裁定に反発する声も出ており、すでにそれぞれの派閥で両教授と行動を共にする動きがある。中間派ではあるが土方派に近い本位田祥男教授も抗議して辞職する意向を示した。また両派と対立する大内兵衛教授と舞出長五郎経済学部長は、教授会を無視した総長裁定を「学問の自治に関する干渉」であると批判する声明を発表しており、法学部にもこの動きに同調する動きがある。


 裁定が返って混乱の長期化に繋がりかねない情勢だが、平賀総長は文部省の支持を背景に一切妥協する様子はなく「辞めたければ辞めればいい」という姿勢だ。両派を追放することで経済学部を正常化する機会とみなしている様子もあり、大学当局の強硬な態度に、河合派からは妥協を探る動きも出るなど、流動化する情勢に学生は振り回されている。


- 矢内原忠雄・東京帝大経済学部教授(植民地政策学担当)の談話 -


 世間を学問上以外の論争でお騒がせしていることに、経済学部教授として申し訳なく思う。一刻も早く学生諸君が本分たる学問に専念できる環境を作るために、学部を挙げて努力するつもりである。土方・河合両教授も混乱の長期化は本意ではないと思う。河合三羽烏だの土方四天王だのという言葉が雑誌や怪文書に踊っているが、学問上の見解の相違はやむを得ないとしても、それを実際の学部運営に持ち込んではならない。教授会の審議なく総長権限で休職処分の具申が行われたことは残念だが、大学当局にも正常化に向けた協力を求めたい。


- 中央新聞(10月26日) -



昭和13年(1938年)10月26日 閣議速記録 (記録者:総理秘書官の溝口直亮伯爵によるものと思われる)


出席者は下記の通り


 林銑十郎(内閣総理大臣、元帥陸軍大将。外務大臣と陸軍大臣兼任)

 三土忠造(内務大臣)政友会総裁(衆)

結城豊太郎(大蔵大臣)貴族院議員

 米内光政(海軍大臣、元帥海軍大将)

宮城長五郎(司法大臣)貴族院議員

永井柳太郎(文部大臣)民政党(衆)

 内田信也(逓信大臣)政友会・中間派(衆)

 松野鶴平(鉄道大臣)政友会・鳩山派(衆)

小川郷太郎(拓務大臣)民政党(衆)

  岸信介(国務大臣)商工官僚


 阿部信行(内閣官房長官)


櫻内農相、俵商工相(ともに民政党)は地方出張により欠席。


・昭和11年国軍クーデター事件(帝都不祥事件)事後処理に関して阿部長官より説明あり。

・続いて東京陸軍軍事法廷の判決、ゾルゲ事件の結審について宮城司相より説明。

・林総理より発言あり→質疑応答

 (三土内相より真崎大将の軍籍剥奪に関して→現在検討中「直接指示、あるいは支援したわけではない」

 (永井文相より久原元逓相の判決に関して→宮城司相より「明確な物証なし」

 (小川拓相より粛軍について→「過激分子を軍籍より外す、渡辺総監による真崎色の一層の監督強化」

 (内田逓相より「専任陸相の設置は?」→「時期を見て判断する」


・宮城司相よりゾルゲ事件の判決について説明あり

  →思想犯に関する新法制定について内務省と協議開始(←枢府筋より要請

・三土内相より検討会を設置するべきとの発言。異論なく了承さる。


・永井文相より東京帝大2教授の休職に関する報告


・宮城司相より与党事前審査について提議あり。閣僚間で議論

 (宮城司相「事前審査は国会審議の形式化にならないか、あるいは大衆党などの反発が国会審議の障害にならないか」

  →三土内相「事前審査により論点整理が出来る」

  →小川拓相「通常会の会期が3ヶ月ではどうにもならない。失敗が出来ない一発勝負ではやむを得ない」

  →松野鉄相「憲法により3ヶ月と規定されている。勅命による延長も可能だが政治的ハードルが高い」

 (林総理「この件に関してはまた議論したい」


・阿部長官より内閣情報員会に関する審議について、これまでの経緯の説明あり。

・同長官から内閣所属職員官制の改正案(勅令)に関して説明あり。以下の通り。


①内閣官房長官の勅任官から親任官に(国務大臣と同格に)

②内閣官房副長官(勅任官・2名)の新設(事務取扱)(政務取扱) 

③内閣情報局、内閣企画局に関する勅令草案について。


・結城蔵相から内閣企画局の権限内容について質疑あり。

・宮城司相から勅令に関して枢府の了承得られる見通しを尋ねる。


閣僚より異論なく、閣議決定。

ほかに議案なく閣議終了/全閣僚、枢密院本会議に出席のため退席(櫻内、俵両国務相は枢密院本会議へ直行)



 「末は博士か大臣か」-起業家として成功するか、あるいは官僚として閨閥なり地位を築いたあとに政治家に転身するのは後者のパターンである。


 政治という職業はとかく金がかかると昔から言われているが、制限選挙が実施されるようになると、その額は増えた。そして一定の納税を果たした男子のみに限られていた選挙権が、25歳以上の男子全員に解禁(普通選挙)されると、さらにその額は跳ね上がった。これはあくまで政治に参加するため、スタートラインに立つための参加料に過ぎない(おまけに必ずしも参加出来るというわけではない)。選挙区に還元するため、あるいは何か政策を実現しようとするには多数派を形成する同志が必要である。地元後援会のスタッフは無論、秘書官や政策顧問等々に支払う給金、党への貢献……とにかく金が必要だ。どうせ実現出来ないからと、綺麗事なり大言壮語するものは多い。


 しかし政策なり政治的理想を掲げた公約を実現しようとする誠実な政治家であろうとすればするほど、金がなければどうにもならない現実の壁にぶち当たる。一代議士でさえこれなのだから、全国に支部を抱える国政政党であればなおさらだ。これらをすべて自分の財産で賄うのは、いかなる富豪でも不可能である。政治に金(政治献金)が必要という体質そのものが、一人の人物に権力を集中することを防いでいるとも言える。逆説的だが金権政治こそが、独裁の歯止めになっているのだ。


 2・26事件に関与した疑いをかけられ、政友会の元幹事長であった久原房之助が逮捕されたと知った時、彼をよく知る者も知らない者も、誰もが政治家としての彼は終わったと判断した。企業家出身の代議士であった久原は、その豊富な政治資金に集る者を通じて各界から情報を集め、政友会で瞬く間に有力派閥を形成。更なる高みを目指そうとしていたのだが、その一部が付き合いのある右翼活動家を通じて青年将校に流れた嫌疑をかけられ、憲兵隊に逮捕されたのだ。


 まさか拘留が2年以上になるとは本人も思っていなかっただろうが、金で集めた久原派はそのほとんどが離れてしまった。軍や警察からも睨まれたことで、これで終わりと誰もが判断したのも当然であった-当の本人以外は。


「やぁ幹事長。お元気ですかな」


 ノックもなく突如として開け放たれたドアの向こうにいた人物に、政友会幹事長である砂田重政は、思わず我が目を疑った。ほんの数年前まで自分の席に座っていた人物が、胡散臭い笑みを浮かべてそこに立っていたからだ。


 どこで着替えてきたのかはわからないが、ご丁寧にも上下揃いの仕立ての良いスーツを身にまとっている。廊下からは「困ります」だの「どこへ行った」だのという声が聞こえている。党職員や警備を怒鳴りつけるべきなのかもしれないが、つい数時間前まで拘置所にいたはずの人物がいきなりやってくれば、誰でも混乱するであろう。砂田は血相を変えて幹事長室を覗き込んだ職員に「大丈夫だ」と応じると、部屋の中央のソファーセットの椅子を薦めた。あえてお茶を出す指示をしなかったのは、少しばかりの意趣返しである。


「うん、私のいた頃のままですな。おや、私の写真もまだあるのですな」

「えぇ、一日千秋の想いでお待ちしておりましたので」


 ソファーに座ると、久原は懐かしそうに部屋を見回す。歴代幹事長の肖像写真に自分の顔を見つけると、児戯のように指をさして笑った。心にもないことを口にしながら、砂田は久原の表情を観察する。流石にいささか頬がやつれた気はしないでもないが、血色は良い。知らない人物が見れば、別荘で療養してきたと言われても信じるだろう。死刑になりかねない状況で2年以上も拘置されていた人物の顔色には思えない。まさに超人、あるいは怪人・久原の面目躍如である。


 久原房之助という怪人は、政治と金の限界に真っ向から挑戦したという点でも特異な存在だ。


 金の力により政権を獲得することを公然と目指した人物であり、今もなおその目標を諦めていない。より正確に言えば、この人にとっては金は手段である。長州の元勲・井上馨と親密な関係にある藤田財閥(藤田組)出身であった久原は、同財閥のお荷物であった小坂銅山をリスクの高い最新技術の導入により見事に再生させた。これを契機に久原鉱業を設立すると全国各地の銅山を開発し、銅山王と呼ばれる。


 欧州大戦時の好況の波に乗り、鉱業は無論、造船・開運・総合商社などで莫大な利益を叩き出し、財閥を急拡大。一時は四大財閥に迫るほどの勢いを見せ、久原関連の株を上場すれば全てが市場最高値の記録を更新。莫大な資金を集めると溜め込むことなど考えもせずに、アラスカやオランダ領インドネシア、帝政ロシアなど海外での資源採掘にも蝕手を伸ばした。将来的には東南アジアにおける石油採掘にも着手するつもりであったらしい。銅山王の経済人としての最盛期である。


 しかし戦後恐慌により拡大路線は破綻。久原は付き合いのある政界の伝を頼り、負債を整理すると義理の弟である鮎川義介に久原財閥の後処理を任せて第一線から退いた……押し付けたと行ったほうが正確かもしれない。なにせ返済が終わるのが、まともに解釈するなら百年単位でかかるという計算になる。一体どれほどの政治献金をしていたものか、それは当人しかあずかり知らぬことだ。ただ銅山王の献金は大正期の原内閣でも問題になったことは確かである。


 元々は国民党系の革新倶楽部出身で、当時は野党議員であった砂田ですら、原金権内閣の数ある醜聞のひとつとして聞き及んでいた。しかも関東大震災をめぐる震災手形処理に関して、なぜか全く関係ない久原房之助名義の手形が入っていたとかいう話に至っては……震災手形を処理した内閣は第2次山本権兵衛内閣(挙国内閣)であり、その後の憲政会内閣だ。銅臭のする政治献金がどこまで及んでいたのかを窺わせる話である。


 それでも普通の人間ならこれでおとなしくなるものだが、そうはならないのが久原房之助という怪人である。


 政治と金の力関係を実際に経験した久原は、今度は政界への進出を目標と定めた……何故、天文学的な借金があるはずの彼に政治資金があるのかは砂田にはわからないが、少なくともこの人は初当選の頃から一度も政治資金には困らなかった。初めての男子普通選挙である第16回衆議院選挙(1927年)に山口1区から政友会の公認を得て出馬。初当選を果たすと、なんと当選1回で逓信大臣になる。同郷である田中義一総理には陸軍軍人時代から政治献金をしていたとか、総理になってからも献金していたとか、政界工作に惜しみもなく投入していたとか……露骨な論功行賞と政友会内部からも批判されたが、本人はどこ吹く風といわんばかりに野党切り崩しに現ナマをばらまいた。


 そのやり方は「政友会は銅臭を輸入した」「政治工作に必要な金の桁を一つ増やした」と言われた。このような批判はあっても、一時は田中総裁の後継者かと噂されるほどだったのだから、その功績は誰も否定出来なかった。犬養総裁の下でも幹事長として政民連携運動に着手。わずか5年ばかりで政界のキーマンにまで上り詰めた……2・26事件までは正に順風満帆だったのだ。


「ともあれお元気そうで何よりです」

「政治家なんぞという商売では規則正しい生活など望めませんが、強制的に健康に気をつけた食生活を送れたおかげでしょうかな。それに臭い飯とはいいますが、これがなかなか」


 銅山王と言いながらも、面の皮の硬さはダイヤモンド並みである。久原の拘留長期化は、明らかに真崎と抱合せの政治的なものである。叩けば埃だらけ……というよりも埃しかない久原が逮捕されたのは、陸軍当局にとっては勿怪の幸いだったのだろう。関係のない事まであれやこれやと取り調べたと聞いている。にもかかわらず以前と同じように意気軒昂に見えるこの老人は、一体なんなのか。砂田は辟易しながら続けた。


「とにかく無罪判決はなによりでした。政友会幹事長としてお祝い申し上げます」

「党として何か声明を出されるつもりはないのですかな」

「……目下、検討中であります」


 足を組んで膝の上で両手を組む久原に、砂田は冷や汗をかきながら答えた。仮にも党役員まで務めた人物を無下には出来ない。それに議席こそないとはいえ、未だに党籍は残されているのだ。5・15事件により野党に転落した政友会では、鈴木喜三郎前総裁とこれを支持する鈴木・鳩山派(鳩山一郎は鈴木の義弟)は挙国内閣に反対し、これに参加した高橋是清元総裁を始め、望月圭介、床次竹二郎ら有力幹部を次々と排除、あるいは除名した。


 その鈴木・鳩山派ですら最後まで除名出来なかったのが久原だ。非主流派でありながら、反鈴木・鳩山ではないという絶妙な立ち位置で両方に高く自分を売りつけようとして、そしてそれは実際に成功した。2・26事件で久原が逮捕・拘留されても、久原は「判決が確定していない」という理由で除名されることもなく残り続けた。


 そして2・26事件から2年あまり。党内は鳩山派と反鳩山派で分断され、両派の緊張関係の上に中間派の三土忠造総裁を擁立する新体制が、ようやく昨年成立したばかりだ。若干、前者が不利な情勢が続いているが、後者に決定打があるわけでもない。前者の鳩山派に所属する幹事長の砂田としては、いまさら久原の出る幕ではないし、大人しくしていて欲しいというのが本音であった。そんな思いを知ってか知らずか、久原は「ところでですな」と話題を切り出した。


「私は鳩山さんを次の総裁にしたいのですよ」

「それは……私の一存でお答えしかねます。鳩山総務にも伝えておきますので」


 否定的な言葉をぐっと飲み込んでから、砂田は言葉を選びながら慎重に答えた。鳩山派の代理人として幹事長を預かっているとは言え、久原の提案は独断で答えるには、あまりにも重大すぎたからだ。金はあるが足場がない、勢力が若干鳩山派不利の形で拮抗しているのも好都合、総裁に鳩山を担いで復権を図りたい-という思惑までは砂田にも読み取ることが出来た。あえて意図的に自らの手の内を晒しているのだから当然なのだが。目的が明確であれば怪人と組むのも、鳩山としてはやぶさかではないはずだ。しかしその判断をするのは自分ではない。鳩山だ。


 それに……砂田は相変わらずとぼけた顔をした久原の顔を見ながら考える。


 確かに目的と利害は一致する。しかし叩き上げの経済人で手段を選ばない、ナチスを賞賛する一国一党論者の久原と、2世政治家で政友会の嫡出子であり、ナチス嫌いの自由主義者の鳩山とは肌合いが違い過ぎる。むしろ久原は思想的には反鳩山派-中島知久平(元鉄道大臣)を担ぐ中でも統制経済を支持する革新派に近い。仮に野合が成立したとしても、反鳩山派を同じく野合と批判しているのだから、その点からも具合が悪い。特に前田(米蔵)か、田辺(七六)、堀切善兵衛あたりが見逃すはずがない。


 これらの点を領袖たる鳩山がどう判断するかだ……砂田がそう判断するのを待っていたかのように、久原がにんまりと笑った。するはずのない銅臭が空気に混じったかのような感覚に、砂田は全身が泡立つ感覚に陥る。


「2年ばかりの臭い飯も無駄というわけではありませんでした。陸軍に知己も出来ましたからな。これをどう使われるかは鳩山総務次第。どうそよろしくお伝えのほどを」



●枢密院官制及事務規程●


第一章 組織

・第一條:枢密院ハ天皇親臨シテ重要ノ国務ヲ諮詢スル所トス

(第五条まで省略)

第二章 職掌

・第六條 枢密院ハ左ノ事項ニ付会議ヲ開キ意見ヲ上奏シ勅裁ヲ請フヘシ

  一:憲法及憲法ニ附屬スル法律ノ解釋ニ關シ及豫算其他會計上ノ疑義ニ關スル爭議

  二:憲法ノ改正又ハ憲法ニ附屬スル法律ノ改正二關スル草案

  三:重要ナル勅令

  四:新法ノ草案又ハ現行法律ノ廢止改正ニ關スル草案列国交涉ノ條約及行政組織ノ計畫

  五:前諸項ニ揭クルモノヽ外行政又ハ會計上重要ノ事項ニ付特ニ勅命ヲ以テ諮詢セラレタルトキ又ハ法律命令ニ依テ特ニ樞密院ノ諮詢ヲ經ルヲ要スルトキ


→枢密院による六條改正案


第六條 枢密院ハ左ノ事項ニ付諮詢ヲ待テ會議ヲ開キ意見ヲ上奏ス

 一:皇室典範及皇室令ニ於テ枢密院ノ權限ニ屬セシメタル事項竝ニ特ニ諮詢セラレタル皇室令

 二:帝国憲法ノ條項ニ關スル草案及疑義

 三:帝国憲法ニ附屬スル法律及勅令

 四:枢密院ノ官制及事務規程ノ改正

 五:帝国憲法第八條及第七十條ノ勅令

 六:国際條約ノ締結

 七:帝国憲法第十四條ノ戒厳ノ宣告

 八:教育ニ關スル重要ノ勅令

 九:行政各部ノ官制其ノ他ノ官規ニ關スル重要ノ勅令

 十:榮典及恩赦ノ基礎ニ關スル勅令

十一:前各号ニ掲ゲタルモノノ外特ニ諮詢セラレタル事項


(注意書きメモ)(内閣法制局長官の川越丈雄が書き込んだものと思われる)


 ・枢府の権限明確化が目的か / 了承も閣僚間から不満の声

 ・施政には関与しないはず、有名無実化するのかという声あり

 ・林総理「あの驢馬面」←阿部長官より厳重注意


    ↑逆じゃないのか?そのママ/なんだそりゃ…

      発言注意!!



 本会議が始まるちょうど1時間前、田中隆三が枢密院本会議の会場に入ると、コの字の形をしたテーブルには既に何人かの顧問官が着席していた。口の開いた場所である部屋の奥には、暗い金色の屏風を背にして、カバーのかけられた一人用の机と背凭れのある造りの良い椅子が置かれてあり、数人がその周りで会議に使用する書類や文箱の用意をしていた。彼らは枢密院の書記官ではなく、宮内省から出向してきた侍従や職員である。日本において、その席に座る資格がある人物は、ただ1人しかいない。


 田中はコの字の角、末席に近い自分の席を確認すると、臨席される陛下に最も近い席に座る枢密院議長に歩み寄って挨拶をした。副議長の原嘉道は田中の存在に気がつくと軽く頭を下げたが、平沼騏一郎議長は一瞥だけすると、興味もなさげに面長の顔を頷かせ、書類に再び目を落とす。田中もこの2年ばかりの経験で、この気難しい議長の性格を嫌というほど味わわされていたので、さして驚きもしない。


 原副議長の斜め後ろでは、窓を背にして河合操・鈴木操六の陸軍参謀総長経験者と、元の侍従武官長である奈良武次男爵が肩を寄せ合って何かを話し込んでいる。ネクタイを締めたスーツ姿だと、退役陸軍大将には見えない。無論それは自分も同じことで、当選7回の元代議士で文部大臣経験者だとは言われなければわからないだろうが。


「こちらです」

「ご苦労様」


 枢密院書記官長の村上恭一から議事に関する書類を受け取ると、田中は自分の席へと向かった。宮中席次では内閣総理大臣に次ぐ枢密院議長は、平沼男爵が長らく執着しただけのことはあり、国政に隠然たる影響力を誇っている。それは議場の席順にもあらわれており、御上の席の側から枢密院議長と副議長、そして在職の長い枢密院顧問と席順が続く。金子堅太郎伯爵、黒田長成侯爵、櫻井錠二博士……国務大臣を経験した田中であっても、ここでは2年前に顧問官となった「新人」に過ぎない。故に田中の席は遥か末席だ。そして平沼議長の正面には内閣総理大臣と閣僚の席が続く。現役の内閣を国政のOBが包囲するような席順は、後者が意図的に前者を威圧しているような趣すらある。


(国政の最高諮問機関か)


 果たしてそれにふさわしいものだと言えるのであろうか。田中はふと頭をよぎった疑問を抱いたまま自分の席に座った。左隣は南弘の席。内務官僚で台湾総督や逓信大臣を歴任した大物官僚であり、同じ日に指名された同期ということもあって、それなりに親しくしている。


 田中の右隣は自分より1年後輩である奈良武次男爵の席だ。南を探そうとしたが、その前に「田中さん」と自身を呼ぶ声が掛かった。見れば元商工大臣である藤沢幾之輔が右手を上げて、親しげに此方に歩み寄ってくるところであった。


「御苦労様ですな藤沢さん」

「お互い様でしょう。元田さんが亡くなられて寂しくなりましたな」


 互いに顔を見合わせて苦笑する。この10月の頭に死去した元田肇は、政友会出身の大臣経験者でありながら初めて枢密院顧問官となった人物であり、この人事が発表された当初は驚きを持って各所で受け止められた。その2年後に藤沢が、翌年に田中が選ばれている。枢密院顧問官の定員は議長と副議長を除いて24人。その中の2人とはいえ政党関係者がいるのは、隔世の感がある。ましてこの自分が……


 田中も藤沢もこの場であえて口にはしなかったが、平沼議長は決して時勢のわからない頑迷な保守派というわけでも、まして観念右翼とも呼ばれる思想の先走る理想家というわけでもない。国際社会の情勢や社会的な風潮というものを十分理解した上で、あえて自分の信念のもとに、それに反する旗を轟然と掲げている。その点では外野で騒ぐ国家主義団体や社会主義勢力などよりは、よほど厄介な存在だ。特に憲政会、あるいは民政党で閣僚を経験した2人にとっては。


 かつて(あるいは今でも)枢密院は藩閥政府、官僚勢力の代理人として政党内閣の前に立ちふさがる存在であり、普通選挙にも否定的な見解を最後まで続けた。政党も憲法の番人たる枢密院を、軍部や内務省と並んで「抵抗勢力」として徹底的に批判。特に体制との妥協を選択した政友会とは対照的に、憲政会とその後継政党である民政党内閣は、枢密院と正面から対立。実際に第1次若槻内閣では政変にまで結びついた。


 藤沢が一礼して自分の席に戻るのを見送ると、田中は太い首を撫でて、ぐるりと会議室を見渡す。会議室の入口近くでは、こちらも古株の顧問官である石井菊次郎子爵(元外相)が、松井慶四郎男爵(元外相)、林権助男爵(元駐英大使)と書類を手に何か話をしている。同じ外交官同士、話の内容は大陸情勢か先の長沙市への災害派遣の是非かと考えていると、その後ろを石塚英蔵(元台湾総督)が南と談笑しながら通り過ぎた。この光景こそが枢密院の実態を表していると、田中は独りごちた。


 この議場においては、内閣総理大臣といえども国務大臣の有する枢密院の資格によって出席しているに過ぎない。枢密院顧問官は議長と副議長を除いて定員は24名、現在は20人。療養中の鈴木貫太郎前侍従長(海軍大将)を除いても19名だ。対して現内閣の国務大臣は総理を含めて11……いや、1人増えたので12人。議決に参加する顧問官だけでも内閣を圧倒出来る-形だけを見ればの話だが。


 顧問官はそれぞれの出身の背景を背負っている。外交官OB、大蔵省OB、内務省OB、司法官僚出身、貴族院元議員に、衆議院の元代議士、医学会の権威に法曹界出身と多種多様だ。現に今でも顧問官は其々のOB同士で話し込んでおり、一体化して政府に何か一致して要求を突きつけるなり、多数派を形成するのは難しいように思える。特に大正末期に旧山縣閥-山県有朋元首相を中心にした官僚や軍部を中心にした派閥がなくなって久しい。


 しかし……田中は再び枢密院議長の席に視線を向ける。


 平沼の風貌は冴えない老人という以外に表現のしようがない。それが白髪を几帳面に七三分けになでつけ、長身痩躯の風体に老眼用の丸眼鏡。口髭ですら一分の、それこそ1ミリの隙もないほどに整えられている。歩く姿は、背骨に樫の木の棒が刺されたかのように伸びており、頭の先から靴先まで平沼騏一郎という人物の性格が表れていた。


 岡山の小藩の藩士の次男から、ろくな閨閥もないのに自身の能力と努力だけで司法界のトップに上り詰めた立身出世を絵に描いたような人物であり、結婚もせず、ただひたすら日本の司法のために尽力し続けてきた。検事総長、大審院長、司法大臣をすべて経験したのは彼しかいない。明治以来の日本の司法は平沼なくば語れず、平沼がいなければ成り立たない。枢密院に入ってからも司法の番人として、あるいは代理人として忠実に振る舞い、枢密院副議長、そして議長に上り詰めた。


 経歴だけを見れば模範的な人物である。実際に政敵であっても、平沼が人物であることを否定する者はいない。そして同様に狷介な性格であることを否定するものもいない。そしてこの老人が山縣閥亡き後の枢密院を主導しているのもまた事実なのだ。


「また随分と厄介な案件ばかりですなぁ」

「だからこそこちらに回ってきたのでしょう」


 田中に負けず劣らず恰幅のよい南が、どっかりと椅子に腰掛け、議題を見ながらうんざりといった口調で呟くのに答える。


 内閣官房副長官(仮称)の創設と、内閣情報局(仮称)と内閣企画局(仮称)の設立に関する勅令草案。内閣官房の強化と拡充、情報機関の一元化に、経済政策の一元化。言葉にすると簡単にまとめられるが、これ以上ない厄介なものばかりだ。内閣書記官室が内閣官房に改称されたのは大正13年(1924年)。加藤高明内閣以来の政治主導体制確立の一貫であり、内閣府を強化することで内閣の首班たる内閣総理大臣の実質的な権限強化を目指したものだ。元々、書記官長は事務方のトップ。内閣書記官長を官房長官に改称した段階で林内閣の思惑は窺えたが、それを国務大臣待遇に引き上げ、事務方の長を新設する。


 理屈はわかるが、それに政務を担当する副長官まで引っ付けるとは。平沼男爵の渋い顔が容易に想像出来る。


「あちらはこれの話し合いでしょうかな」と南が顎で陸軍出身の3顧問官を示す。


 情報機関の一元化は早くから課題として指摘されていた。内閣情報部の源流である各省庁横断の勉強会は、満洲事変直後の昭和7年(1932年)に結成されている。陸軍と海軍、そして外務省。経済交渉で独自のルートを持つ経済官庁たる商工省に農林省、内務省は警察同士のつながりがある。それぞれの情報当局は問題意識を持っていたが、だからと言って自分の権限を委譲することには消極的であった。権限争いや縄張り意識だけではなく、自分の仕事にプライド(この仕事は自分以外の人間には出来ない)も絡んでいるために余計に難しい。ましてこの最初の勉強会に参加したメンバーは満洲事変を強硬に支持した外務省情報部長にして革新派筆頭格の白鳥敏夫が中心で、陸軍省や参謀本部の中堅若手が推進しているとあっては、経済官庁や海軍がそっぽを向くのは当たり前であった。


 しかし既に器を作ってしまった以上、それを潰して新しく作り直すのはどうか。林内閣は海軍や経済官庁をなだめすかして「新組織は情報の集約と分析のみを行なうだけであり、各省庁の具体的な情報収集には介入しない」と確約して、ようやくこぎつけたのが内閣情報局であり、田中の手元にある書類というわけだ。


 理想としては国家の根幹に関わることだからこそ国会において「揉む」ことが必要ではないかという思いは田中にもある。大臣経験者としては硝子細工のような各省庁の調整を国会審議にぶつけることで壊されてはかなわないという内閣の思惑も窺えるがゆえに、正面から異議を唱えるつもりもないが……


 田中は3度、平沼に視線を向けた。高齢の金子堅太郎伯爵に対して立ち上がり、自ら出迎えている。金子伯爵は伊藤公爵らと共に現在の憲法を起草した生き字引だ。わかりやすいとも言えるが、それを公私に関係なく徹底して出来るのが平沼の凄みである。だからこそ法を限りなく恣意的に解釈したことで司法の信頼性を揺るがせた帝人事件のような横紙破りをしても、親分を売る子分が現れないのだが……


「それにこれは、平沼さんはどうだろうかね」


 暗に自分も不愉快だという感情を含めて、南は次の議案を指差す。企画局(仮称)の基本となる現在の内閣調査局は、情報局の一卵性双生児ともいえる存在だ。統制経済思想を根底に一元的な国策調査機関、あるいは政策立案機関を目指したもので、元々は内閣資源局を含めて調査局を再編し「企画院」(仮称)として中長期的な予算編成まで含めた、一元的な重要政策の立案を目指していた。しかしこれは林内閣が早々に否定。あくまで国策調査機関と総合的な政策調整の役割のみに縮小されていた。


 それでも電力国有化法案や産業合理化政策を推進した革新官僚の牙城であることは確かであり、自由主義経済-つまりお上からの干渉を嫌う経済人やその支援を受ける既成政党は無論、既存の経済界には批判的な平沼ら伝統的な保守派も「アカの手先」と蛇蝎の如く嫌っている。


 南は無論、農商務官僚を経て経済人から代議士となった田中も、革新官僚は好んではいない。しかし思想的に合わないからといって、必要な局面で使わないことは国益に反する。それは自分が政友会から民政党に転じたからそう感じるだけかもしれないが。


 田中はそこで一旦脈絡のない自らの思考を切り替え、政党出身の枢密院顧問官の所属に考え事を変えた。自分は官僚出身から民間を経て政友会から民政党、藤沢は弁護士で宮城の地方議員から叩き上げの憲政会→民政党、つい先日亡くなった元田肇は当選16回を誇る政友会所属の元衆議院議長だが、同時に離党経験もある党内有数の保守派。官僚、弁護士、地方政治家に二大政党たる政友と民政、思想まで含めてそれぞれにバランスが取れている。選んだ政府、あるいは枢密院の思惑が窺える人選だ。


そもそも枢密院は元々は伊藤博文元首相が自らがその設計図を書いた憲法の運用を監視するために設けたものだが、今では各省庁や軍部、学会のOBが合法的に現役に口を出す場となっている。そのため官制では現役大臣以外との接触禁止を定め、必要以上の影響力を及ぼすことを防いでいるとされるのだが……


(では今、自分がここにいる意味とはなんなのだろうか)


「いやはや、どうにもこうにも」


 どうにもまとまりのない自分の思考とその方向性を田中が持て余していると、その右隣に「後輩」である奈良元侍従武官長が首を傾げながら席についた。田中が再び窓側に視線を向けると、河合と鈴木の両元参謀総長はまだ険しい顔で何か話し込んでいる。


「情報局ですか」

「それもあるが……まぁ、陸軍の話だ」


口ごもりこれ以上は話すつもりはないと書類に目を落とす奈良に、それでは答えを言っているようなものではないかと田中は口の中だけでつぶやいた。


 実戦経験もあり省部で幹部を歴任し、士官学校長として教育者として評価の高かった真崎甚三郎であったが、南次郎陸相とコンビを組んだ金谷範三参謀総長(在職1930-31)は真崎を毛嫌いしており、予備役編入を強行しようとした。これを金谷の前任である鈴木と河合が陸軍内部の人事秩序が乱れるとして、やめさせるように働きかけた経緯がある。金谷はアルコール中毒の気があり、三長官会議でも酒気を漂わせていたとされるなど信望に乏しく、その真崎批判は誰も真剣に受け止めなかった。


 結果的に真崎は台湾軍司令官として生き延びたのだが、参謀次長となり荒木貞夫陸相とコンビを組んで金谷を追放。専横をふるって陸軍省内の人事秩序を徹底的に無視、あるいは破壊した。結果論だがアル中の退役大将の予言は正しかったのだ。


 竹橋事件以来の不祥事である2・26事件に、陸軍は真崎個人の責任に全てを押し付けた格好だが、向けられる視線は依然として厳しい。そもそもそんな人物を士官学校長にした挙句、三長官のひとつである教育総監につけて教育の責任者にしたのは陸軍なのだ。粛軍をアピールしようとも、現に襲撃された鈴木貫太郎顧問官(前侍従長)は療養のため今日の会議も欠席である。同じ海軍出身である有馬良橘は元々の政治嫌いに加え、この一件で完全に陸軍を無視するようになった。これでは現役の林陸相-米内海相との間で共同歩調をアピールしても、むしろ寒々しくなるばかりである。


(だからこその内閣官房の強化のはずなのだが)


 官僚主導から政治主導。多くの政治家が何度も手をつけたことで垢にまみれ、幾多の言論人に言い古されて凡そ考えられる表現では言い尽くされて、有権者が耳にタコが出来るほど聞かされて、一周回ってむしろ目新しいのではないかと勘違いするほどに繰り返された政治スローガンだ。総論のうちなら誰も反対しないが、各論になると全員が反対して収拾がつかなくなる。


 現にある程度の基盤がある情報局(仮称)、企画局(仮称)ですらこの有様-国会審議に諮ることもなく、最小限の根回しで済む勅令に頼る始末である。最小限というには、いささか手間が掛かりすぎる気もするが。その手間賃が枢密院の権限強化……


「総理と閣僚が到着しました」


 村上書記官長の言葉に、田中を含めて出席した顧問官全員がぱらぱらと立ち上がって敬意を示す。枢密院の主としてふるまい続け、ようやく議長の椅子に上り詰めた老人も同じように行動した。右手を掲げて愛想よく入室する林銑十郎総理を筆頭に、閣僚11人が続いて入室する。田中の席からは、閣僚達はちょうど斜めから見ることになるが、特に緊張しているようにも見えない。顔見知りの小川(郷太郎)拓務相がかすかに頭を下げたような気がしたが、議長や他の顧問官の手前、目礼を返すだけにとどめた。


 枢府と内閣が対立する議案ばかりというわけでもない。杓子定規に枢密院で本会議が開かれるたびに大名行列よろしく閣僚を引き連れてくる必要などないのだ。それでも必要な時にだけ出席すればいいとは、少なくとも今の総理は判断していないらしい。その点だけは平沼議長も評価しているらしいのだが、プライドの高い老人を適当にあしらっているように見えなくもない……といっても大した年齢差ではないのだが。


 この会議場の主である老人が欲しているのは形式的な名誉ではなく、実質的な権限である。だからこその枢府の権限強化案、つまりは今回は引き分けというところだ。


 いささか内閣に有利な気がしないでもないが、相手が現役であることを考えると枢密院としても決して悪い取引ではない。海軍はともかく、それ以外の組織なり学会を背負う顧問官にとっては(個々の性格にもよるが)現役の内閣を通じて、政策や予算に影響力を及ぼさなければならないため必死である。ではそう考えると、自分の、田中隆三の拠って立つ立場とは何であろうか。民政党か、今は無き農商務省か、それとも秋田の経済界か。


「御到着です!」


 形式は本質ではないが、形式の軽んじられる社会は少なくとも成熟したものとは言えないだろう。式部官が到着を知らせると、閣僚も顧問官も含めて全員が即座に起立する。


 2・26事件において誰にもご下問されることなく御自身の意思で迷うことなく決断を下されたことで、この青年君主を侮る風潮や、宮中重臣の傀儡であるという見方は、日本の中枢部から綺麗さっぱりと消え去った。些かざわついていた空気が凛として張り詰める。平沼が「太平楽を聞きながら酔っぱらい政治をしている」と批判した林総理ですら、緊張しているのが田中の席からも窺えた。形式に本質が伴ってこそ、初めて伝統は意味をなすのだ。


 合図を待つことなく、一同は一糸乱れずに最敬礼をして、統治権を総攬する大元帥が入室するのを待った。


 さて、本質を形式に落とし込み、互いに妥協を探る時間である。


 つまりは政治であり、それが田中隆三の仕事だ。


・なんであれで無罪になったかわからない真崎判決。

・魔王様は死刑回避、ついでに西も

・基本的に判決理由は読まなくても飛ばしてもOKです。間違い探しみたいですが、一部だけカイゼル禿の数少ない活躍があります。暇なときに探してみよう!

・大事なことをうやむやのうちに解決してしまう…つもりなんて林総理にはないよ。偶然だよ。ホントウダヨ

・話を先に進めるためにいろんな課題一挙に片付けたわけではないよ、ホントウダヨ

・細かく書いていたらキリがないから新聞にしたわけではないよ、ホントウダヨ

・報道官なる役職はオリジナル。いずれその辺も書きたい。

・鳩山一郎の政治的な価値というもの、昭和初期の政友会・民政党の総裁候補に困っていたという点をなしには語れない。政友会は特に生え抜きでタマがいない。なんせ外から田中に犬養とひっぱってくるぐらいだから。民政党だってほかに候補がいないから70代の町田が引っ張り出された。だから外様の人気のある近衛さんがもてはやされたのだし、宇垣待望論がくすぶり続けた。このあたりを理解しないと昭和初期の政党再編は理解しにくいかもしれない。政友会と民政党の連携運動でも、大政翼賛会の直前までは鳩山が町田のカウンターパートナーだった。ただその時々の主流派に取り込むという意味で離党経験もあるため、生え抜きの人には嫌われていた。

・でもその政治的な価値に胡座かきすぎたんだよね、結局…

・久原房之助。怪人であり化物。大風呂敷の広げ方は後藤新平以上。全盛期であり猜疑心に溢れたスターリンを捕まえて2時間ばかりひざ詰めで談判したりと、とにかくわけがわからないけど人を問答無用で引き込む力がある。本人曰く小坂銅山(秋田県)立て直しの時に、鉱山夫と一緒に働いた経験で培われたものだとか。ところで一体この人の資金源はさっぱりわからない。義弟にたかるにしても限度があるだろうし。

・なんか鮎川義介が気の毒に思えてきた。

・枢密院。要するに口うるさいOB会、あるいは小姑のお茶会

・東郷平八郎のマブダチの有馬良橘

・直接的な現役組織の利害関係から離れて大所高所の判断が出来る点はある。三国同盟に反対した石井菊次郎とか、日米開戦に疑問を呈した原嘉道議長とか。

・内閣企画局は実際には企画院。情報一元化はともかく旗振り役が白鳥さんではね…

・でも倉富議長にしても伊藤巳代治にしても平沼さんにしても、ねえ…小姑は結局小姑で。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 読み返しても味のある作品ですね、久しぶりの更新に最初から読み直しております。 [気になる点] この42に出てくる川上丈雄氏ですが、川越氏の間違いですか?
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