東京日日新聞(国際欄)/ 中外商業新報 / 東京府麹町区丸の内 東京商工会議所大ホール 創立60周年記念式典会場 / 神奈川県 足柄下郡大窪村 掃雲台(益田孝別邸)/ (1938年10月)
『規矩作法 守り尽くして 破るとも 離るるとても 本を忘るな』
千利休(1522-1591)
- 各地で相次ぐ蒋派の辞任、混迷さらに深まる大陸情勢 -
…(中略)これに続いて第4集団総司令官の蒋鼎文上将も辞意を表明した。当面は第31軍団軍団長の孫蔚如(陝西省政府主席)が臨時代理を務めるというが、孫氏は南京で殺害された楊虎城の側近であり、旧西北軍人脈の復権に反発する声は大きい。また同氏は西安事件における当事者であり、共産党との関係を指摘する声もある。しかし対抗するべき張治中(湖南省政府主席)は長沙市に流入した避難民保護に失敗したこともあり、これを推す声は少ない。そもそも党の中央執行委員でありながら軍司令官を辞任せざるをえないところに、現在の国民党の苦境が現れている。
- 長沙市の火災、治まる気配なし。英海軍が出動 -
(長沙飛行場に避難した市民を空から取った写真)上海派遣軍司令部提供
湖南省の省都である長沙市において同時多発的に発生した火災は、発生から3日が経過した今もなお鎮火する気配が見えない。混乱に乗じた略奪や暴行事件も相次ぎ、死者は2万を超えたとされる。長沙市の人口は約50万(4年前に市当局の行った統計人口調査による)であるが、すでに20万近い市民が郊外へ逃れた。しかし依然として市内に残る市民も多く、市当局は対応に苦慮している。また共産党系の青年団が放火しているとの噂も流れ、詳細は明らかになっていない。帝国陸軍及び海軍は長沙市並びに湖南省政府に支援を申し入れたが、拒否されたという。イギリス海軍の中国艦隊司令官であるパーシー・ノーブル海軍大将は居留民保護のために艦隊と陸戦隊に出動を命じたが、救出活動は難航している。
- 孫第4集団司令官臨時代理、日英の支援受け入れを表明 -
…(中略)工業地区で消火活動の指揮をとっていた警察局長の文重孚氏が殉職したこともあり、命令系統は混乱している。第4集団総司令官臨時代理の孫蔚如氏は、事態収拾のため追加部隊を(略)…上海派遣軍総司令官の伊藤政喜・陸軍中将、イギリス中国艦隊司令長官のパーシー・ノーブル海軍大将は協議の結果、牧野四郎大佐(歩兵第29旅団長)を司令官として日英救援部隊の指揮系統を統合することで合意した。
牧野大佐は「長沙警備司令部と協力し、避難民の保護を最優先に火災対応に全力を尽くす」と記者団に答えた。しかし陸路での長沙市入りは難航しており、長沙飛行場は避難民が流入したことで空港機能が麻痺。大規模な空挺支援は難しい状況だ。また旧西北軍主導の支援受け入れの決定に、湖南省政府の政治局からは強い不満が出ている。張治中・同省主席からのコメントはまだ確認されていない。
- 市庁舎襲撃事件、共産党によるテロか -
市役所庁舎に置かれた臨時司令部が武装勢力による攻撃を受けた。避難民救護活動の指揮をしていた牧野大佐は幸いにして銃弾が肩を掠めるだけにとどまったが、長沙警備司令の鄷悌、警察局長代理の徐昆の両氏が重体。実行犯4人はその場で射殺された。上海派遣軍及び帝国政府は、外交ルートを通じて南京国民政府、および湖南省政府に厳重なる抗議をした。共産党系勢力の関与を指摘する声もあり、軍事委員会政治局は調査団を派遣することを表明した。火災は鎮火したが、長沙市は市街地の約9割以上が全焼する被害を受け、春秋時代よりの古い歴史を誇る同市は廃墟と化した。避難民の間からは対応が遅れた市当局だけでなく、日本軍に対する不満の声も高まりつつある。
- 長沙市大火災関する義捐金のお知らせ -
…(中略)市街地の再建には10年以上掛かると見込まれており、この前代未聞の大火災によって焼け出された長沙市民に対して、哀悼の意と連対の意を表明するものである。また今回頂いた義援金は全額、日本赤十字社を通じて現地避難民の救護と救済にあてられる。振込先は下記の通り(以下略)
- 東京日日新聞(国際欄)10月6日から20日までの記事より抜粋 -
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- 貿易改善協会案、日商常議員会に付議 -
日本商工会議所(伍堂卓雄会長)で研究されていた貿易改善協会、並びに帝国貿易調整株式会社(仮称)の設立案が、20日の常議員会に付議することが決まった。同案は個人請求制を骨子としているが、日商関係筋は「商工省当局の理解を得ている」と述べた。しかし組織目的から「貿易の統制」の文言が削除されたのではないかという見方もある。東京商工会議所ビルでは同日、俵孫一商工大臣を主賓に迎え、前身である東京商法会議所創設から60年を祝う記念式典が予定されており、常議員会の成り行きを含めて注目されている。
貿易改善協会組織要項(組織大綱取り纏め時点)
・参加予定団体:日本商工会議所、日本経済連盟会、全国産業団体連合会、東京手形交換所、大阪手形交換所、全国地方銀行協会、全国信託協会、生命保険会社協会、輸出組合中央会、商業組合中央会、工業組合中央会、日本貿易協会
・役員案-会長(日経済連盟会会長)、副会長3人(日商会長、東京手形交換所理事長、輸出組合中央会長)、理事8名(貿易局長官他)
・目的:政府との協力のもとに相互協定の締結、輸出振興及び貿易調整に関する一切の応急的対策の審議及び、実行の衝にあたると共に、これに必要なる各般の調査をなすこと。
- 中外商業新報 (10月19日) -
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財界なる存在は、日本独特のものらしい。この言葉ほど、その一般における知名度と反比例するかのように、よくわからない存在もない。
欧州大戦(1914-18)により日本経済は空前絶後の成長を遂げたが、それは同時に経済界に大きな変化と摩擦をもたらした。成金と呼ばれた新興企業と既存財閥の対立に代表されるように、個別の企業同士、あるいは業界間、個別業界と産業界全体、あるいは同種の業界においても大企業と中小企業の対立などが深刻化した。深刻化する労働争議は社会問題化しており、労働法制や規制の追いついてない数々の商法改正に経済界の意見を反映させるためにも、また戦後に予想される大規模な反動に備えるためにも、政治と経済界との関係が益々重要になることは、多少目端の利くものには容易に想像出来た。しかし既存の経済団体は、例えば日本工業倶楽部は関東沿岸部の企業と重工業企業に参加団体が偏っており、倶楽部の意見を産業界の意思とするのは説得力に欠けていた。既存の各経済団体を参加させ、かつ財界のロビイスト団体として活動できる中央経済団体の結成が急務であった。
こうした経緯もあり、大正11年(1922年)に結成されたのが、日本経済連盟-通称:経済連盟である。発起人には井上準之助(日本銀行総裁)、團琢磨(三井合名理事長)らが名を連ね、法人団体には日本工業倶楽部、東京・大阪銀行集会所、大日本紡績連合会等々、法人会員には三井合名、三菱合資会社、住友合資、安田保善社の四大財閥の中核法人を始め、個人会員も含めて資本金500万以上の大資本はほとんどが参加。その目的である経済界全体-いわゆる財界としての方向性と意思を調整すること、財界としての意思を政界や官界に組織的に働きかけるというものに、ふさわしい規模「には」なった。
しかし経済連盟は期待されたような「財界総理」-財界としての意思を統一するという役割が十分果たせたとはいえない。無論、日商にしろ工業倶楽部にしてもそれは同様であり、絶対の指導者なるものは存在していない。まして無産政党が主張するように、国際金融資本だの独占資本だのという存在があるわけでもなかった。
例えば昭和6年から7年(1931-32)にかけて金輸出再禁止を見越して三井銀行が主導したドル買いは、井上蔵相(当時)や経済連盟会長が苦言を呈しても、全く止まらなかった。多かれ少なかれ多くの銀行が同じことをしていたとは言え、ドル買いは資本の論理に従えば全く法的な瑕疵はなく、道義的な責任や世論の反発という曖昧な理由では、ドル買いを指揮した池田成彬(当時の三井銀行常務)は眉一つ動かそうとしなかったし、政府や財界首脳から自重を促されても、あるいはマスメディアや国民からの批判にも、これを「非論理的である」と無視するだけに終わった。
「皆が皆、成彬さんのように考えるわけでもないし、それこそ清貧に生きられるわけでもない」
「池田さんは自分の生き方を人に強要するようなことはせんだろう」
「確かにしないだろう。しないだけだがな。あの人の場合はそれだけで十分に威圧的だ」
煉瓦造りの瀟洒な東京商工会議所ビルの大ホールでは、立食形式の大規模な記念式典が開かれていた。しかし会議に出席した商工会の会員、あるいは招待された各経済団体の参加者にしても、乾杯の音頭を取った俵(孫一)商工大臣や村瀬(直養)商工次官などの来賓も、手にしたグラスを早々に机の上に置くと、あちらこちらを渡り歩くか、ひとつの場所で立ちながら渋い顔をして顔を付き合わせている。そしてその多くが復権を果たした元商工官僚か、あるいは7年前の三井のドル買いの主役を話題にしていた。
「要するに人に共感する能力がないのだよ、成彬さんは。だから團男爵をむざむざ血盟団の餌食にしてしまった。井上(準之助)さんだって、あの人が殺したようなものではないか。井上さんはドル買いを批判していたというのに」
「そりゃそうだろう。井上さんの場合は自分の政策が破綻することを前提にしたものだったからな。どちらにしろあの仏教テロリストのおかげで、日本はあたら貴重な人材を失う結果となった。民政党の総裁候補としても惜しい人だった」
「馬鹿な。日本を不景気に叩き落としたあの男が、総裁候補だと?」
「しかしあの人以上の弾も民政党にはいなかっただろう。だから町田翁が70を越えても未だに総裁なのだから……話が脱線したな。池田さんは想像力が欠如していたという話だったか。テロの対象となり、北一輝のような神がかりのテロリストに恐喝される破目になったのは池田さんのせいだとも言える」
「毎月10万か。安いと考えるべきか、番犬代だと思えば安いものか」
一見すると人目を憚りながら話しているようではあったが、公式の場で三井批判とも受け取れる内容を公然と話すなど、普通は考えられないことである。しかし列席者の視線と関心は、日商会頭たる伍堂卓雄を独占して話し込む車椅子の老人に向けられており、三井関係者はといえば、会場の隅で居心地悪そうに肩を寄せ合っているか、老人の顔を見るや否や、そそくさと退席するばかりである。
彼らの視線の先にいる老人は枯れ木のように痩せた体であるが、一分の隙なく和装を着込んでいる姿は、さながら伝承のある日本刀のような趣があった。実際その老人は伍堂会頭を時折叱責するような態度をしながら、周囲を油断なく見回している。その後ろで車椅子を押している-おそらくその老人の息子が、甘いマスクに優しげな眼差しをしているのとは対照的であった。
「しかし池田さんほど資本の論理に忠実な人もいない。あの人は間違ったことはしていないし、法に背いたこともしていない」
「正論が必ずしも正解とは限らない。だがあの明治一桁生まれの老人は、それを疑うことすらしない。他者に配慮する能力の欠如と取るか、徹底した合理主義精神の長所と見るか。三井家を経営から遠ざけ、君臨すれども統治せずという番頭経営を定着させた功績は否定できないだろう。自ら導入した定年制に従い、潔く退かれた」
「そりゃ三井(高広)男爵が偉かったんだろう。何が退いただ。物産の向井(忠晴)社長に後始末を押し付けただけではないか」
「それはいくらなんでも池田さんを軽く見すぎだよ君。池田さんの改革なくば三井はいつまでも大番頭頼りの前近代的経営だった。人ではなく組織を作るという意味では、三井は三菱のように組織経営に転換できたという功績はある」
「人材こそ三井の宝ではないか。グループ内の持ち株企業であっても組織の独自性が高い。故に組織として活発だったのだ。今のままでは三菱の真似事にしかならん。だいたい池田さんが三井銀行をあまりに自由に動かしすぎたから財閥批判で跳ね返ってきたのではないか」
「だからこその組織化だろう」
商工会とは基本的に地域のあらゆる商工業者が構成する組織であり、財閥や大資本にはない公共団体としての強烈な自負心がある。自由闊達な意見交換と討論こそ持ち味であり、中央団体である日商もその影響を受けている。それでも普段は柵や付き合いの関係もあり、遠慮や配慮によって言えないことも多い。老人の存在をいいことに、普段は言えない三井への本音、あるいは財閥や大資本への不満をあちらこちらでぶつけ合うのに時間はかからなかった。
「……人の顔を見てから話し始めるとは、みっともない事だ」
「恐縮であります」
老人-藤山雷太が不機嫌そうに言うと、伍堂会頭はハンカチで汗を拭いながら頭を下げた。しかしその態度も老人には気に入らなかったらしく、手にした杖で絨毯の敷かれた床をトントンと強めに叩きながら「その場しのぎの謝罪など結構だ」と吐き捨てる。
文久3年生まれの町田忠治内閣参議と同じ75歳。佐賀藩の庄屋の息子から、三井財閥を経て一代で大日本製糖を中心とする藤山コンツェルンを築き上げた傑物である。日本商工会議所の初代会頭であり、海軍造兵将校から満鉄関連の製鋼所を経て日本商工会会頭(東京商工会議所会頭兼任)となった、いわば「天下り」の伍堂には頭の上がらない老人である。
これは伍堂が無能というわけではなく政府関連の、あるいは半官半民の特殊会社の経営者に求められる行政官や政治家としての能力と、純粋な民間企業の経営者にもとめられるそれが異なっているだけなのだが、伍堂にとって藤山老人が扱いにくい人物であることには変わりがない。
「確かに三井銀行で慶応閥の中上川(彦次郎)と一橋閥の益田鈍翁(孝)は、経営方針の違いや三井の将来像をめぐって差異はあったし、中上川さんの義弟である私は益田鈍翁と良好な関係ではなかった。銀行を退職したのも、中上川さんが急死して居づらくなったからだし。だからといって、益田さんの後継者を否定して喜ぶほど、私は耄碌してはおらんわ」
「いえ、会員は決してそのようなつもりでは」
伍堂が冷や汗を掻かされているこの老人は、明治の三井財閥における巨塔であった中上川彦次郎の衣鉢を継ぐ、数少ない生き字引だ。明治20年代から30年代にかけて三井家は藤山の義兄である中上川彦次郎のもとで大規模な再編を行い、江戸時代以来の主力である両替商から続く三井銀行の不良債権処理を断行した。一口に不良債権といっても、それは三井にとっては江戸時代以来続く大名貸に象徴される腐れ縁のことであり、維新を乗り切るために新政府に献上したものや、維新政府の要人に強要された政治献金まがいの不透明な取引まで、一切合財を含めたものである。三井の癌であったこれらを即座に取りやめて回収しようというのだから、その行動力と政治力たるや半端なものではない。
井上馨を政治的な後ろ盾として、たとえ相手が首相経験者であろうと本願寺であろうと差し押さえをちらつかせて、有無を言わさずバランスシートを正常化した。それこそ歴史があろうが政治的案件であろうがお構いなしだ。回収不能と判断するかどうかは中上川の胸先三寸と高度な政治判断だというのだから、当然ながら反対論は強く、内部で反中上川派も結成された。これに中上川は政官に広がっていた有力私大である慶応閥を利用して三井内部での立場を確固たるものとした。藤山もそのひとりであり、時の総理である桂太郎に「時の宰相が自宅を差し押えられる。新聞はさぞ喜ぶでしょうな」と凄んだのはこの人であるらしい。
それと相対する伍堂会頭の胃痛たるや……。会員たちの言動をとりなす様に言う現会頭に藤山は鼻で笑いながら「象は存在しているだけで他者に脅威を与えるものだ」と応じた。燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんやというが、燕雀の考えもまた鴻鵠にはわからないものだ。それを否定するつもりもない。ただそれがこの死にかけの老人の威を借るように思えるのは気に入らないと藤山は続ける。
三井銀行退職後も各地の企業で自分のやり方を貫いて退職を繰り返し、何度も創業と失敗を繰り返しつつ多くの企業を立ち上げた彼からすれば、いまの2世3世の経営者やサラリーマン社長がもどかしいのだろう。もっともそれは老人の車椅子を押す彼の嫡出子にも言えることなのだがとは、伍堂はあえて指摘しなかった。
「それで、あちらは何をしているのか」
藤山老人が顎でくいっと示した先には、村瀬商工次官が大臣をそっちのけで関西財界の小林一三を始めとした私鉄経営者らと話し込んでいた。関西財界は宇垣新党派で知られる有力財界人がおり、村瀬次官は商工省における反岸派の筆頭と来れば自ずと会話の内容は予想がつく。あえて答えを分かっているのにそれを自分の口から言わせて踏み絵を強いろうとする老人の嫌らしさに、伍堂は辟易とした。
「いくら口八丁の手八丁である岸国務大臣といえども、足が8本というわけにはいきますまい。衛生省問題と健康保険法案の3度目の提出に向けて走り回っておりますし、資本と経営の分離、貿易の統制や業界再編といった持論には着手出来ないかと」
「逆に言えばそれに解決のめどがつけば、着手するつもりがあるということ。今更、岸君に主導権を渡せない村瀬次官やその配下の商工官僚は当然警戒するはずだ。そして小林君の実弟は政友会の有力代議士である田辺七六」
政友会の革新派である田辺七六は山梨選出で兄に劣らず切れ者で知られる。甲州財閥と呼称される山梨出身の企業家は緩やかな資本の連合を組んでおり、山梨のみならず東京府政にも一定の影響力を持っていた。山梨出身の小林は甲州財閥と直接的な提携関係も人的な繋がりもないが、その気になれば連携は可能であるという点を藤山は指摘した。銀行内でも博覧強記で知られた老人にとってはこの程度のことを指摘することは何でもないことである。
「なるほど、敵の敵は味方というわけですかお父さん」
「お父さん」という、余りにもこの場に似つかわしくない情緒的な呼び方をされたことに、藤山は眉を顰める。息子であり現在は2代目総帥として藤山コンツェルンを率いる藤山愛一郎は岸信介国務大臣の友人であり、その復権を素直に喜んでいた。
親の欲目がないわけでもないが、この人の良い息子にはそれに似つかわしくない商才があると藤山は考えている。実際に自分の引退から5年以上が経過したが、主力の大日本製糖を始め主力企業は順調に売り上げを伸ばしているし、いくつか新規事業にも着手した。しかしこの息子の性根にあるどうしようもない人の良さは、苛烈な藤山雷太をしてもほとほと手を焼かされていた。
「総帥。こうした場ではそのような呼び方はふさわしいものとは思いません」
「お父さん……いえ先代。失礼しました」
「阪急の小林(一三)君は骨の髄からの自由主義者だ。資本と経営の分離など論外、そもそも商工省がカルテルの指導や、工業規格統一に関する調査会すら天下りをごり押しするためのものとして嫌っているからな…強ち間違いでもないのが困ったものなのだが。それでも岸の復権よりはましと考えているのだろう。あれは政治を嫌っているが、政治が干渉しようとするなら断固として戦う男だ」
「岸君には頑張っていただきたいものです。彼は友人ですが、それ以上に日本には欠かせない人材ですから」
藤山は杖の柄を握り締めながら、後ろを今すぐ振り返って、この息子を殴り倒したい衝動を必死に押さえ込んだ。
あえて突き放すようなそっけない口調で答えたことがよほど堪えたらしく、2代目は最初、あからさまに気落ちしたような声で答えた。人目がなければ実際に殴り飛ばしていただろう。そして取ってつけたような理由で、自らの友人の復権を期待する考えを述べたことを正当化した。それはいい。だが何故そこから、コンツェルンの利益を追求するという考えがすっぽりと抜け落ちているのか。
藤山が杖の柄を握りしめているのが見えたのか、伍堂が恐る恐る声をかけてきた。
「貿易改善協会の件ですが」
「それはいい。商工省との調整がついているのは聞いているし、議事録は先ほど読んだ…私が今知りたいのは日本航空輸送の再編問題だ」
「南京で再び武力衝突が発生したようです。また広西省の政府が近隣に出兵する動きを見せているとか」
伍堂が初代会頭の問いかけに応じるよりも前に、藤山の息子が父の質問に答えた。しかしそれは直接的な回答ではなく客観的な大陸情勢を述べただけであり、父を満足させるものではなかった。しかし客観的な情勢を整理しておかねばこの問題の前提がわからなくなるという点では正しい。落第点ではなくてもギリギリ及第点かと、半ば甘い採点であることを自覚しつつ、藤山はその採点を息子に伝えず、海軍OBである伍堂会頭に問うた。
「蒋介石派の辞任により国民政府、および軍の瓦解が加速している。揚子江経済における重要都市のひとつであった長沙市が灰燼に帰すまで、市当局および省政府は何も効果的な対応が取れなかった。結果的に避難民の救護や消火活動を指揮したのは日英両軍の救助部隊であるが、日本政府、及び南京の国民政府はこれからどう動くと考えているか」
その口調は経済人というよりも、むしろ海軍大学校で教官らにうけた設問試験のように思え、伍堂は内心苦笑しながら答えた。
「南京政府は動けません。政府としての体をなしていないので動きようがないというのが正直なところでしょうが。欠員の穴埋めすら出来ていない状況であり、少しでも地方に地盤のあるものは南京から離れだしています。蒋介石派が下野した以上、軍も保てません。治安がどうにもならないのはいつものことですが、これまでと違うところは彼、あるいは彼の率いる派閥を呼び戻すだけの力が政府に残っていないこと。おそらく蒋介石もそれを承知で下野したのでしょう」
「戦争責任をとり辞任する。これで一応の禊を済ませる。そしてどうにもならなくなれば旧政権幹部や日本、そして欧米も自分に泣きついてくる。そう考えているわけか。あの男ならワシントン講和条約の再交渉ぐらいは条件にするだろうよ」
日本亡命時代の蒋介石を知る藤山は、その頑固で強固な意思が、そのまま頭蓋骨の形になっているかのような知己の顔を思い浮かべ、さもありなんと頷いた。
「今あれはどこにいたか」
「天津か北京か、それともポルトガル租借地の澳門か。行方知れずです」
これは藤山の息子が背後から答えた。4月の軍事委員会主席辞任後、蒋介石は側近の一部とその莫大な財産と共に南京から姿を消した。当初は蒋介石の経済的な基盤があり、有力な支援者である浙江財閥の本拠地・上海に逃れると思われていたが、姿を消して半年以上が経過した今も尚、所在は不明である。なにせ側近中の側近である何応欽大将ですらその行き先を知らされていなかったという具合だ。本人が意図的に姿を消したとあっては探しようがない。
「自身の待望論が出てくるまでどこかで身を隠しているのでしょう。諦めの悪い男です」
「……だが、だからこそあの男は何度も立ち上がって来れたのだ。執念深く時を待ち、乾坤一擲の大勝負を仕掛ける。それに何度も勝ってきた男だからな。今度も同じことをしても誰も驚くまい」
藤山愛一郎がどこか嘲笑混じりの声で続けるが、それこそが最も貴様に欠けているものだと雷太は内心で罵りながらも、努めて冷静な声で続ける。そして「しかし今度は日本の支援は得られないでしょう」と伍堂がこれまでとの違いを指摘した。
「亜細亜主義や東洋の団結を訴える保守派団体は蒋介石に裏切られたという思いが強いですし、孫文以来の長い関係があった団体や個人ほど、第2次上海事変のやり方に激怒しています。陸軍も今は出先機関が勝手な真似が出来ない状況にあるようですし…内閣としては講和条約の内容順守を求めていく姿勢に変化はないようですが」
「長沙市における日英合同軍、どのように統帥部は評価している?」
「少なくとも海軍は成功だったと認識しているようです。内閣としてはシャン陸を向かわせたかったようですが、流石に火災活動での治安出動は経験不足。独自の輜重部隊も脆弱ではとても湖南省までは」
「つまり陸軍が海軍に貸しをつくったと?」
「海軍としては海兵隊の拡充に向けた予算要求の根拠にするつもりだそうです。差し引きすると、どちらが有利とも……」
杖の柄を手の中で回しながら、藤山は同時に頭を回転させていた。航空業界は海運や鉄道貨物より運べる量は限られているが、気象条件を除けば、どの乗物よりも時間が短縮できる利点がある。
そもそも今世紀の初めには人を乗せて飛べるかどうか疑わしいというレベルの代物だったのだ。将来的にはかなりの顧客需要が見込める産業として注目されており、すでに日本航空輸送株式会社(1928年)を始め、日本航空輸送研究所、日本海航空株式会社、東京航空株式会社、安藤飛行研究所など複数の航空会社が乱立していた。しかしやはり初期投資のコストが莫大であり、既にいくつかの会社が吸収合併や再編により消えている。
その中でも日本航空輸送株式会社は逓信省の管轄のもと、日本の航空産業発展のため全てが国産機で運用され、国内の主要航路や、半島、大陸の租界に主要都市などを運行していたことから際立った存在感を示していた。当然ながら欧米に比べて割高で使いにくい国産機を使用するため莫大な補助金が投入されており、これが経営を楽にした側面は否めない。
この高価な国産機を使用するドル箱路線たる大陸航路が、今まさに大陸情勢の急速な悪化により、不採算路線に化けようとしていた。それは大陸問題にある程度関心のあるものなら知っていることであり、実際に藤山コンツェルンの現総帥と日商の会頭は、その件について突っ込んだ話をし始めている。
「しかし会頭。商工省は日本の重工業育成のためには補助金の追加はやむを得ないと判断するかもしれませんが、大陸情勢の安定化が見通せない中で恒常的に補助金を垂れ流すなど、いくら結城蔵相が民間出身大臣とは言え、大蔵省がはいと言いますか?」
「難しいでしょうな。そもそも航空産業は現在、逓信省の管轄。内務省の再編が検討されている以上、この問題の所管官庁が移らない保障はありません」
「逓信省でも商工省でもかまいませんが、しかしいくら不採算部門だからといって大陸への航空路から撤退するわけにはいかないでしょう。欧米の航空会社に空白地帯をいいように食い荒らされるだけでは?これは国防面から考えてみても同じ結論に至るでしょう。日本独自の大陸への民間航空輸送を確保することは必要。こうした理屈で大蔵を説得することはどうでしょうか」
侃々諤々の議論を続けるふたりを置いて、藤山はちらりと会場の隅にいる俵商工大臣をみやる。険しい表情で三菱重工の斯波(孝四郎)男爵や、中島飛行機の関係者らと話し混んでいる。村瀬次官の上司である俵にとっては、岸の復権よりも、自らが所管する重工業の直近の業績に影響しかねない問題の方が大事なのだろう。
「藤山総帥に否定的なことばかり申し上げるのは心苦しいのですが、そもそも日本航空輸送が補助金だよりなのを問題視する声も大きいのです。早い話、安い海外製の航空機を輸入すればよいのではないかという、日本の重工業の発展を考えないのなら至極真っ当な意見もある次第で」
「それでは本末転倒でしょう。航路が残っても、その空を飛ぶ飛行機が海外製ではなんの意味があるのです」
「だからといって航空業界の国主導の強制的な再編など、商工会としては受け入れられませんよ」
そう、だからこそ出てきたのが逓信省主導の航空業界再編構想なのだと、藤山雷太は内心でだけ政府が検討中の答えについて述べた。
まず日本航空輸送株式会社を国策会社にする。既に補助金漬けなので抵抗もしない(出来ない)だろう。あとは国策をお題目に、国内航空便が中心の中小の航空会社を吸収合併させることで日本の航空を新会社に一本化する。そうすれば日本を中心とした航空便は自動的に日本航空輸送を使用せざるを得なくなり、大陸の不採算部門の穴埋めもできるという計画らしい。極めて国家的知見に立った合理的な計画であり、かつ極めて不合理で民間に理不尽な再編案だ。
どちらが正しく、どちらが間違っているというわけでもないのが、この話をややこしくしている。
結局どの立場に重きを置くかでこの再編案の評価は別れるのだ。国内産業である重工業の保護、国防という観点から見れば賛成となり、民間航空産業の育成や自由主義経済を尊重する立場に就くのなら後者となる。景気の穏やかな回復と共に自由経済派が復権しつつある中、ゴリゴリの統制経済論者である岸信介の復権。両者のバランス、あるいは均衡が崩れそうな状況で、爆発寸前の問題が航空再編問題だ。爆発するのが今か来月か、来年か、それはわからないが、少なくとも短期で大陸問題が解決する見通しは立っていない。それはすなわち在華紡を始め、大陸と関係ある企業や貿易業者が、日本政府に蜂の巣をつついたような陳情を繰り返すということを意味していた。
藤山がそのようなことに思いを巡らしていると、伍堂会頭の独占に業を煮やしたのか、俵商工大臣が秘書官を通じて会頭を呼び寄せた。伍堂は一瞬だけ苦い表情をしてから、一礼して悠然とした足取りで大臣の方へと近寄っていく。その足取りはお世辞にも渋沢栄一より始まる栄光ある商工会の歴史を担うには、いささか覚束無いものに覚えた。
やはり藤山の眼光を恐れてか、挨拶して一応の筋は通したと言わんばかりに近寄るものもいない。これが男にも女にもモテる息子だけならばそうはならなかったはずだ。もっともそれが本業につながるかどうかとはまた別の話だが。
「おと……藤山顧問は航空再編問題についていかがお考えですか?」
咄嗟に言い直したことは、もはや評価にすら値しない。親心としては、このひねくれてどちらが裏か表かもわからなくなったような父親から、よくぞここまで素直な子が生まれたものだと思う。しかしそんなことは関係ない。何か大いなる勘違いをしている……というよりも、自分がなにものであるのかを忘れているようだ。
これではおちおちくたばってもいられないと藤山はため息を漏らしたが、その力のなさに改めて自らに残された時間の短さを感じざるをえない。
しかし今はそれを嘆くよりもするべきことがある。藤山は車椅子を押す自らの息子に、彼の考え違いを冷静に指摘した。
「国家的な大局も大事だが、お前の仕事は本業で儲けて従業員に給与を払うことだ。社会貢献や国家への忠誠も大事だが……少しはどうしたら、航空事業を本業のコンツェルンの利益に繋げられるかを考えろ」
なにせ考えるだけなら元手がいらぬのだからと嘯く父の背に、息子はひとつ遅れて返事を返した。
それが藤山雷太を満足させ得るものだったのか、まして息子の目に父の背中がどのようにみえていたのかは、誰も知らない。
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臨済宗の栄西が伝えたとされた茶の、時代を重ねて幾多に分化していたそれに関する物の楽しみ方を、東山で生まれた書院文化なども踏まえて茶道というあらたなものに洗練して大成させたのは、京や堺の裕福な商人達である。武野紹鴎、千宗易、今井宗久に津田宗及……彼らは本業とは別に、茶道に取り組むだけの時間的、あるいは資金的、そして精神的な余裕があった。金銭的な余裕があるから時間的や精神的なそれが生まれるのではないかという見方もできるが、いくら金があっても、精神的な余裕がいない人間というのも存在する。最もその逆はめったにいないのも事実なのだが、それはともかく。
戦国乱世が終結を迎えつつある中で茶道が成立したように、維新の混乱が終結しつつあった明治末期から大正にかけて、日本で再び茶道が見直されるようになったのは、なんの不思議でもない。欧化政策がひと段落して日本文化が見直されるようになると、もともと人を饗す社交の場としての意味を持ち合わせていた茶道に、時間的、資金的、そして精神的な余裕のある経済人が着目するのは、いわば必然だったのかもしれない。
小田原市近くの板橋にある掃雲台は、三井の大御所である鈍翁こと益田孝男爵の別邸である。政府要人や財界人らが多く別荘を構えたこの地に、益田が屋敷の造営を始めたのは明治39年(1906年)のこと。三井合名理事長としての職務の傍ら、足繁く現地に通い自分好みの庭や茶室を拵えさせ、大正3年(1914年)の引退と同時に移り住んだ。以後は全く三井の経営から退いて、茶の湯三昧の日々を送っている……ということになっている。
酒が一滴も飲めない益田は現役時代から茶の湯により、さながら織豊政権の武将たちのように政府要人や顧客と接待していたが、引退後も個人的な交流は続いた。いつしか「千宗易以来の大茶人」と呼ばれるようになった鈍翁の名声は、その茶席の価値を高め、政財界の粋人がこぞって老人の茶席に招かれることを願った。商人という生き物は情報というものに潜在的に飢えている生き物である。老人はそうした点では引退後も情報に困ることはなかった。
市松模様の襖絵は京都の桂離宮にも現存するが、あえて床の色彩にそれを使用するのが鈍翁好みである。8畳という茶席にしては広めに縄張りをした茶室の床は、白と黒が互い違いにはめ込まれていた。既存の秩序にとらわれない大胆な発想はいかにも鈍翁らしいものであると茶室に招かれた客は評価するのが常なのだが、これを見た三井合名前理事の池田成彬は率直に「目がチカチカしますな」と身も蓋もない感想を述べた。
テーラーで仕立てたものであろうがこれという特色のない地味なスーツ姿の池田に、あきらかにこの和装姿の鈍翁は笑いながら湯を沸かすための用意を始めた。
「これで中々、使い勝手が良いのだ。茶席で詰めて座れと主人が言うのはいかにも無粋だが、これだと客は自然と詰めて座るようになる。畳の一畳に2人というのは窮屈な印象を与えるが、これだと客はそうは思わないらしい」
「一定の配置や状態にある幾何学的な錯視が続くことによって起こる、生理的錯覚ですな」
「成彬、もう少し、こう何とかならんかね」
「事実を指摘したまでのことですが、なにか問題がありましたか」
その回答にわざとらしくため息をつきながら、鈍翁は釜に水を注ぐ。口髭や顎鬚だけでなく後退した髪まで白く染まった姿は確かに隠居老人を思わせるが、茶器を眺めるが如き目つきで客を見定めるその目は現役時代の空気を残している。池田からすれば益田は自分の2代前の三井の指導者ということになるが、その関係は穏やかなものではない。
益田は明治30年代から大正初期にかけて三井財閥を指導した人物である。中上川彦次郎の急死を受けて財閥の主導権を握ると、改革の継承とともに学閥の一掃を掲げて中上川派の慶応閥を粛清。三井鉱山や三井銀行、三井物産といった中核企業に自ら抜擢した経営陣を送り込み、同時に中上川の推進していた財閥近代化もバランスのとれた形で推し進めた。
池田もその一人であり、中上川の娘婿でありながら益田は彼を三井銀行の経営陣に抜擢。池田は常務取締役として、三井銀行を五大銀行(三井・第一・三菱・住友・安田)における盟主に成長させた。しかし池田は義父以上に豪腕であり、鈴木商店経営破綻では三井の引き上げが原因と批判されたし、ドル買い問題では三井はその矢面に立たされた。池田としては法的な瑕疵も問題もない以上、世評に媚びへつらう必要を認めなかった。
結果として右翼の攻撃対象となり、そのテロの犠牲となったのは三井合名理事長である團琢磨。益田が直接後継者に指名した人物である。しかし益田も池田もその件については公式の場でも、無論私的な場でも触れたことはない。
「成彬は銀行家として何も恥じることはしていない。預金者からの預かりは、銀行にとっては借金であるという原則に極めて忠実なだけだからな。金利という利息を払わねばならない以上、どんな些細な機会でも逃さずに利潤を追求する。何か間違っていますかね」
掃雲台の茶室の主人が、客人に対してそのようなことを言ったかどうか、池田は知らない。ドル買いにしても最も規模が大きい三井がつるし上げられた側面はあるし、鈴木は三井が引き上げなくても潰れていた。ただ池田が銀行経営者として直接の利害関係者以外の感情、大衆の動向に無関心であり、全く価値を置いていなかったのも確かだ。
團理事長が暗殺された後、池田には三井内部から批判が集中した。あれだけ自重しろと言われておきながら銀行のみの利益を追求した結果、財閥全体を危機に晒し理事長は暗殺された。その結果、池田は責任を取るため筆頭常任理事という立場で事態収拾を押し付けられる事になる。
そんな針の筵のような環境にあって池田の合理主義精神は微塵も揺らぐことなく、三井一族の経営からの切り離し、株式の公開による経営透明化、定年制導入等々を談合した。その一環として設立された三井報恩会は、三井の社会貢献をアピールする側面があったが、それが血盟団事件により考えを変えたものとは決して認めないだろう。例え團理事長でなく自分が凶弾に倒れていたとしても、池田は犯人の非合理的な考えや動機に首はかしげても、顔色ひとつ変えなかっただろう。そういう男であることは益田はわかっていたので、あえて尋ねるようなこともしなかった。組み合わせた炭が赤くなるのを見てから、鈍翁はやおら胡座をかくと、右膝に右肘をついて半身を乗り出した。
「それで、だ」
「お断りします」
「まだ何もいってはおらんのだがね」と鈍翁は肘を付いた右手で顎鬚を扱く。卒寿を越えたとは思えない生気漲る眼がぎょろりと客を見据えるが、池田は臆せず自らの考えを率直に述べた。
「十五銀行の後始末を三井がする必要はありません。国家的観点からとおっしゃいますが、松方一族と、自分の財産の管理も出来なかった華族の尻拭いを、三井の顧客や預金者から預かった資金によりすることの、一体どこに国益があるというのです」
相手が誰であろうと理屈に沿わないことは拒否し、自らの義務を履行した上で正当な権利を臆せず主張する。池田は常にそうしてきたし、このやり方で三井銀行を業界1位に成長させた。しかし大御所を動かすとは、大蔵省の銀行局も相変わらず知恵がない。
「確かにその通りだ」
「休業とは言え実質的には経営破綻したもの。底の抜けた瓶にいくら水を注ぎ込もうとも無意味です」
池田は淡々とこれまでの三井銀行としての立場を繰り返した。
「華族銀行」ともあだ名された十五銀行は、薩摩藩出身の元勲で大蔵族として政財界に幅広い影響力のあった松方正義(1835-1924)の長男である松方巌公爵が頭取であったこと、また多くの華族がその財産を運用していたことからも、世間では信頼できる堅い銀行と見られていた。しかしその内実は松方一族と繋がりのある神戸川崎財閥関連の企業や、政治的案件の融資が横行。大戦好況により中小の銀行を多数吸収合併したことで規模こそ五大銀行に次ぐまでに急激に拡大したが、経営危機は早くから囁かれていた。そして昭和金融恐慌(1927年)により休業-事実上の倒産となった。
それでも書類上は存続しており、債権の処理や預金者への対応などを続けていたが、精算するにしても何らかの後ろ盾がなければどうにもならない状況であることに代わりはない。公的資金を導入した処理スキームは「華族の財産を国民の血税で補填するのか」あるいは「薩派の後始末ではないか」という批判から事実上不可能。しかし何らかの対応はしなければならない。
三井銀行に打診は行われなかったが、大蔵省にしても銀行協会にしても暗に期待していたのは確かだ。しかし合理的な理由もないことには三井銀行のドンたる自分が首を縦にはふらない。だからこそ大御所を引っ張り出したのだろうが……池田はひとりごちながら釜を眺めている。
「別れた男女が再び夫婦となる。これはどうか」
「焼けぼっくいに火が付いたところで、いずれ消えるものです。喧嘩別れしたわけではありませんが、半世紀以上、全く異なる文化でやってきたのです。それが一緒になったところでうまくいくとは思えません」
「元は同じ同胞でもかね」
「1+2は3になると大蔵は考えているのでしょうが、対等合併で成功した例を私は知りません。銀行であれ企業であれ、名目は対等合併であっても吸収合併でなければ、主導権争いで3どころか2か1、それ以下にすらなりかねない。相手を完全に屈服させることで主導権をはっきりさせないことには…私であれば出来たでしょうが、向井君ではいささか荷が重いかと」
才を誇るでもなく、単に帳簿の数字を読み上げるような口調でそれを事実であると口にする池田。益田にしても、人づてに何度も繰り返したやりとりであるので驚きはない。業界2位の第一銀行は、その源流を遡れば小野と三井が共同で設立した組合銀行にたどり着く。
確かに同胞であるという指摘は正しいが、別れて50年以上、それぞれの生活がある男女を、しかも愛情ではなくおせっかい焼きの大家の斡旋で無理やり一緒にして、それもこぶ付きではうまくいく理屈がない。その程度のことは益田も理解していた。だからこそ、次の手札を広げて見せた。
「そろそろ2・26の公判が結審するようだ。非公開の軍事法廷にした理由を考えてもらいたい……ということらしい」
「東京陸軍軍法会議に、銀行合併を命じる法的な権限があるとは知りませんでした」
「皮肉を言うでないわ」
「番犬に餌を渡していた責任は銀行ではなく私個人にあります。私が命惜しさに北に金を渡していた。それでよいではありませんか」
眉ひとつ動かさずに自らを切り捨てることで銀行を守るべきであると言ってのけた池田であったが、益田は「それもそうであるな」とそっけない。確かに池田を切り捨てて事が解決するのならそれも選択肢としてはありだが、少なくともそれは今ではないと老人はすでに算盤をはじき終えていた。
2年前の2・26事件直後、憲兵隊や警察当局は、実行犯であった青年将校は無論、軍高官や現役の代議士、民間人も含めて計画の協力者や支援者と思しき人物を片っ端から逮捕、あるいは取り調べた。陸軍省軍務局を中心に早期に処分するべきだとする強硬論が噴出したが、民間人を軍法会議で裁くのは法的に難しいという法務局の指摘により、勅令という形で特設軍法会議を設置した(東京陸軍軍事法廷)。早期解決で軍の威信を回復し、主導権を握ろうという中堅幹部の思惑に待ったをかけたのは、新陸相であり首相となった林銑十郎大将である。
「非公開はやむをえないとしても真相究明を第1にするべきである」という陸軍首脳の方針が示された以上、法務局や軍務局は否定することも出来ない。強硬に反対したものは粛軍人事で軍を追われたこともあり、裁判は長期化した。これに追い討ちをかけたのは裁判記録の非公開期間の設定(30年)であり、こうなるとうかつな取調べも出来ない。これに意を強くした青年将校らは、自らの正統性を示す機会であると徹底的に裁判の引き伸ばしを図った。
三井首脳部としては、被告に北一輝が含まれていることに敏感にならざるを得ない理由があった。
民間の政治活動家であり国家社会主義者として名高い北一輝は、昭和初期からカリスマ的な存在感を発揮しており、皇道派と呼ばれた青年将校らに強い影響力を持っていた。そのため2・26事件後に逮捕されたのだが、三井財閥は「右翼対策」として、この活動家に毎月の生活費を手渡していた。その額は大卒初任給が80円弱という時代に10万前後であったという。仮に裁判でこれが明らかになれば、いやもし一部でもこの金が青年将校に流れていれば、その時点で三井はアウトだ。
池田は対策として個人として北に渡す形をとっており、いざというときに三井と無関係であると主張出来るようにしていた。自分自身も三井の歯車として考え、いざとなれば取り外して交換すればよいと本気で考えているのが池田成彬という人物である。だからこそ北一輝の問題と、十五銀行の処理については彼にとってはまったく別の問題であった。
泰然たる様子で座り続けている池田を見ながら、益田は彼に中上川をだぶらせていた。
三井が手を汚すのはこれが初めてではない。中上川や益田も、幕末の番頭である三田村利左衛門もそうであった。幕府から朝廷に乗り換えたことから始まり、三井は常に時代の変化に緩やかに、あるいは果断に対応することで生き残ってきたのだ。益田としては経営や将来像に関する違いこそあれ、三井改革の同士であった中上川と対立していたかのように捉えられるのは心外である。生きていれば自分の代わりに彼が慶応閥を整理、あるいは粛清していただろうが、今となってはそれを確かめる術もない。もし居座るようであれば、おそらく目の前にいる男が義父に引導を渡していただろう。そういう男に娘を嫁がせるのが中上川という人物であった。
益田の沈黙を肯定とみなしたのか、池田が首を横に動かす。
「金銭を人より多く有している存在は、それだけで何らかの感情を呼び起こすようです」
子供でも飴玉の数で喧嘩をするものだ。その程度のことを長年の苦闘の末にようやく見出した真理とでもいわんばかりに厳かに口にする池田に、益田はあきれた様に再び顎鬚をしごいた。
「君が国家や政治を嫌うのは自由だ。しかし三井はそうもいかない。これぐらいの理屈はわかるだろう」
後発の資本主義国家である日本において、「官」である政治と「民」である経済界の関係は極めて近しいものだ。国家が産業界を強力に後押しし、あるいは官営の国有企業という形で創業から経営まで関与もした。長州出身の元老であり数々の企業創設に関わった井上馨(1836-1915)、薩摩の元士族で関西財界の重鎮・五代友厚(1836-85)、元幕臣で明治政府でも高級官僚を歴任し、下野後は実業界で活躍して財界世話人と呼ばれた渋沢栄一(1840-1931)……江戸時代から続く三井や住友も、三井は井上馨を政治的な後見役としたし、住友宗家は西園寺元総理の実弟を養子として迎えた。土佐の郷士から成り上がった岩崎家の三菱財閥は言うまでもない。
明治初期の大規模な疑獄疑惑とされる開拓史官有物払い下げ事件に象徴されるように、政官財の癒着構造打破は自由民権運動家率いる民党にとって大きな政治課題であった。故に民党が体制内政党として再編され、勢力を拡大していくに従い財界と関係を深めていくのは、いわば当然の流れとも言えた。政友会は三井の、民政党(憲政会系)は三菱から支援を受けているのは公然たる事実であり、マスメディアに批判されながらも両者は衆議院で圧倒的な勢力、有権者からの支持を得ている(これからも得られるかどうかはわからないが)。
故に欧米と日本における経済界のあり方が異なるのは当然なのだ。三井とともに歩んだ益田からすれば、その関係性は当たり前のものである。しかしアメリカで経営を学んだ池田としては、そのような不合理な財界のあり方が、本質的に許容出来ないのだろう。彦次郎もやっかいな男を残したものだと、益田は内心呟きながら、布巾で軽く拭った茶器を置くと、茶杓で粉を入れた。
それを見た池田が思わずといった調子で呟いた。
「ずいぶんと不恰好な茶器ですね」
「確かに不恰好だ。だかそれがいいのだよ」
「それに大金をつぎ込む益田男のお考えが知れません」
「そうだろうな」と鈍翁はそれに茶杓で湯を注ぎながら、喉の奥を鳴らした。表千家6世の覚々斎の手による黒楽茶碗の名品「鈍太郎」。天下に名高いこの鈍太郎も、成彬にかかっては形無しである。物の価値を知らないわけではなく、知ってもなお価値を認めないというのだから徹底している。
擂鉢型の椀に黒の釉薬が掛けられているが、わざと胴の部分に大きく穴を開けるようにして釉薬のかかっていない土見せがあるのが特徴なのだが、この男からすれば、唯の掛け損じたゆがんだ茶碗ということになるのだろう。
「茶聖・千利休は、利を休めると書く。居士号を考案したのは誰かわかっていないが、その本質をもっとも的確に表現して諌めたものだったのだろう。利休の言行録を読めばわかるが、抜き身の日本刀のような鋭さがあり、いつも慄然とさせられるものだ」
「鈍翁」の号が、この鈍太郎からとったものであるということは池田も聞いている。目の前の不恰好な茶碗のどこに自分との共通点を見出したのか。口さがない者は金持ちの道楽者が名物を買いあさり、利休居士の猿真似をしているだけだというが、そのようなことに池田は特に興味がない。しかし鈍い翁と自称する老人の本質は、彼が千利休を評したものと相違はないであろうということは疑う余地がない。
「人間、鋭すぎるのはよくない。利休のように腹を切らされてしまっては適わない。鈍いぐらいでちょうどいい。しかし人間の本質とはそう簡単に変えられないものだし、偽ってもすぐに襤褸が出る。偽らずに鋭さを鈍くする、そうありたいものだ」
誰にいうとでもなしに呟きながら、視線の先にある鈍太郎の中で茶筅を回していた鈍翁であったが、思いついたように付け加えた。
「内閣参議、引き受けてはくれんかね」
「男爵、私は」
内閣参議は国務大臣待遇の内閣の公的な顧問であり、今は高橋是清と町田忠治の2人がその任にある。大臣を任せるのには高齢だがその経験を見込んだと林総理は国会答弁で述べているが、当然ながら純粋な顧問というわけがない政治的なポストだ。池田が反論するよりも前に、鈍翁は左の手のひらを突き出すことでそれを押しとどめた。
「内閣調査局を格上げする話がある。総理直属の調査機関だが各省庁からの出向組、それも革新かぶれの統制経済論の連中がそろっているところだ。例の日本航空輸送の件も、どうやらそこが言い出したことらしい。正確には出向中の商工官僚のようだが」
「組織いじりが問題の本質に結びついた事例を、私は知りません。組織とは、あくまで目的達成のための基盤であり構成要素のひとつであるのに、往々にしてそれに手をつけるのが目的化することがあるからです」
「高橋(是清)君から、是非とも君の力を借りたいという申し出があった」
高橋元総理を君付けで呼べるのはこの御仁と、高橋の日銀における上司であった山本達雄ぐらいのものであろう。もっとも益田が勝手にそう呼んでいるだけかもしれないが。池田は何度となく否定してきた十五銀行の話を、再び持ち出したのが誰なのかを理解した。
考えるまでもない。たとえ統制経済かぶれの陸軍であっても、華族銀行の話に興味があるわけがないのだ。立て終えた茶の入った鈍太郎を、池田の座る正面に滑らせるように置くと、鈍翁は静かな口調で言い放った。
「若い者が過激に流れるのはよくあることだ。それは否定しない。理想も意欲もない人間は鍛えようがないからな。だからこそ君の仕事のやり方と考え方を、現実を叩き込んでほしいそうだ…断っておくが、これは要請ではない。それくらいのことは、いかに君でもわかるだろう?」
「……どうしようもないと判断した場合は、助けるような偽善をするつもりはありません。それでもよろしければお引き受けいたしましょう」
「ひとつ長い目で頼むよ」
池田はそれ以上はなにも答えずに、茶で満たされた鈍太郎を手に取る。不恰好なそれが妙に手になじむ気がしたが、おそらく気の迷いであると判断したのは、いかにもこの人らしいことであった。
・蒋介石を探せ!
・長沙大火。実際には日中戦争中のこと。いや内乱書こうとしたんですが、なかなか話が作れなったので引用。堂々と嘘掛けるのが仮想戦史のよいところ(おい)
・しれっと出兵、しれっと撤退。小さな出兵こそ難しい。
・三井銀行の歴史は日本近代経済史そのもの。
・銀行員時代はリアル萬田銀次郎こと藤山雷太。バブル崩壊後のややこしい不良債権処理に政治案件とアングラマネー案件の処理を10年足らずでやってのけたと例えれば、中上川の豪腕さがわかると思う。もっと乱暴に例えると、バブル前後の住友と三和と第一勧銀のあれやこれやの案件や事件が合体して濃縮されたような(略)史料的制約であんまり注目されていないが、これ個別の事例を小説仕立てでかいたら、下手な経済小説よりも絶対に面白いと思うw
・なんで藤山雷太と中上川のDNAを受け継いでいるのに愛一郎さんみたいなのが出来たのか。宇喜多秀家並の遺伝子の不思議。すくなくとも政治家向きではなかった。
・伍堂卓雄。ちなみにこの人も石川県出身でその辺が林総理の悪評に…というのを書きたかった。いずれやる(積極的に主人公をdisるスタイル)。
・益田鈍翁。ギャラリーフェイク(美術館のお家騒動の回)じゃ「金持ちの道楽」とさらっと流されてたのがちょっぴり悲しかった。あの話は動物園OBの爺さんがいいキャラしてたw
・オーベルシュタイン風の池田成彬。本当はメルカッツ提督みたいな古武士タイプで書こうと思ったんだけど。個人的に付き合うのは難しいかもしれない。
・松方巌。不肖の息子というにはちと気の毒。薩派の政治資金源だったのかもと考えると妄想捗る
・2・26裁判いまだ継続中。当然ながらカイゼル髭の意向
・魔王北一輝。昭和初期の政治史はこんなのばっかりかよ
・そして暗躍する高橋是清
・前回、文末で書いた飢狼つながりで??で登場させた足柄姉さんに誰も気が付いてくれなかったのが悲しい。しくしく(チラ)