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何も銑十郎元帥  作者: 神山
昭和13年 / 1938年 / 紀元二千五百九十八年
37/59

東京帝国大学講義録 / 駐英米国大使の報告書草案・国務省訓令 / サン=ジョン・ペルス回顧録 / ドイツ国ミュンヘン 総統官邸執務室 (1938年9月末)

『何をやっているか知らないことほど、恐ろしいものはない』


ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749-1832)


 9月28日は、ドイツがチェコスロバキア政府に要求した最後通牒の回答期限でした。5月危機以来のヒトラー総統の外交は、1934年以来の集大成とでも呼ぶべきものです。荒唐無稽な要求をベルサイユ体制の民族自決の概念を都合よく抜き出して大義名分にしてしまう、マスコミや声明を通じて相手が受け入れ不可能と思わせる条件を一方的に提示する、交渉に応じること自体をカードにして要求を受け入れさせる、いざ交渉に応じたかと思えば次の段階ではそれを否定してみせる、挙句に前提となる条件が変わったとして要求を吊り上げる。まるでどこかの国の外交のようでありますが(笑)


 さて何事にも因果関係というものは存在します。


 まず1938年9月28日に至るまでの状況を簡単に整理しておきますと、元々はチェコスロバキア国内のズデーデン地方に居住する約300万人のドイツ系住民の自治権問題です。第1次大戦後に成立した同国では、それまで二重帝国においてハプスブルク家と共に支配的な地位にあったドイツ人は、支配階級から有力な少数民族に転落しました。


 有力な少数民族、というところがこの問題の難しいところでありまして、人口の2割から3割を占める彼らに、チェコスロバキアの中央政府は同化政策を実行しました。1920年には言語法を制定してチェコスロバキア語-これはチェコ語とスロバキア語を同一のものとみなしたものですが、これを唯一の公用語としました。この他にも公的な場でのドイツ語使用の規制、公文書におけるドイツ語使用の禁止、あるいは公教育でのドイツ語教育、ドイツ文化の授業禁止、統廃合や行政改革をお題目にしたドイツ人学校の強制的な閉鎖。そしてドイツ語風の地名のチェコスロバキア語への書き換え-同化政策というものはどこの国でも多かれ少なかれ行っていることです。日本でも明治初期には方言の使用が禁止され、学校教育においては国の定めた「正しい日本語」の使用が強制付けられました。国民国家の形成時期にはやむをえないことであります。


 しかし民族自決の概念が声高に叫ばれるようになったこの時代では、同化政策はすんなりと成功しませんでした。自分たちはドイツ民族であり、チェック人、あるいはスロバキア人ではない。これを少数民族の、あるいは敗戦国民の我侭と切って捨てることは出来ません。


 チェコスロバキア政府が融和的な、すなわちドイツ系住民の自治権を早くから認めておけばよかったのではないかという意見もあります。しかしドイツ系住民が集住するズデーデン地方は、基本的には農業国であった同国における数少ない工業地帯であり、多くの軍需工場がありました。また同企業と取引のある銀行や証券などの金融機関も多数支店を構えていました。同地方の独自性を強めることは、独立間もないチェコスロバキア共和国の根幹にかかわる問題でした。連立政権を形成したドイツ系やその他の民族政党を除く諸政党は、ハプスブルグ家の支配下にあった時代から独立運動を続けていた勢力の後継者です。農業党、人民党、国民社会党……例え連立政権がどのような組み合わせあっても、建国間もない国家としての基盤を固めるべきこの時期に、融和的な政策は取れなかったでしょう。


 このようなプラハの姿勢は国際社会、いわゆる人権派の政治家やリベラル派の政党から問題視されていましたが、欧州各国、特に旧連合国においては、むしろドイツ系住民の団結を警戒する向きが強く、それほど大きな潮流になったともいえません。


 チャーチル元首相が「二重帝国を解体したのが誤りであった」という言は、これらの経緯を踏まえれば確かに正しいのです。確かに二重帝国が存在し続けていれば、これらの問題は顕在化、あるいはそれほど大事にはならなかったかもしれません。しかし実際には二重帝国は敗戦により解体されました。無論仮に二重帝国が解体されていなければ、別の問題が全く違う形で吹き出していたでしょうね。


 この問題が深刻化したのは世界恐慌(1929)です。


 いくらズデーデン地方がチェコスロバキアにおける工業地帯であったとしても、それは二重帝国時代の遺産、あるいは新興国であった同国内におけるものです。主要産業である鉱山、あるいは陶器やガラス関連、繊維業は国内より輸出がメインでした。現に二重帝国時代はハンガリーやオーストリーなどの「国内」にまわすことでズデーデンの経済は成り立っていたのです。元来、二重帝国は大国とはいえそれほど工業化が進展していたわけでもなく、よく言えば昔ながらの、悪く言えば淘汰の波に出遅れた中小零細企業が多数を占めていたようです。これらがいきなり世界恐慌という大嵐に直面したわけですね。二重帝国の「国内」に回すことができなくなったため、一説によれば同地域の失業率はチェコスロバキアのほかの地域に比べて2倍以上にまで拡大したとされます。


 この失業率の格差ですが、これは他の地域がチェコスロバキア国内で完結する農産業かその関連事業に従事していたこともあったのかもしれません。早い話、いくら不況でも人はパンを食べ、ワインを飲むわけですから。しかしドイツ系住民からすればプラハの政権がチェコスロバキア人を優遇することで、ドイツ系を意図的に差別したのだと感じました。これまでの経緯を見れば、ある意味においてそれは正しいところもあるため、それが問題をより複雑にしました。


 これらの不満を背景にズデーテン・郷土戦線、改称してズデーテン・ドイツ人党は1935年には議会第2党に躍進します。これは主流派のチェック人やスロバキア人の支持政党が、政策的な違いによっていくつかに分かれていたためです。連立与党では依然として過半数を占めていました。ドイツ人党の指導者であったコンラート・ヘンラインは非民主的だったと批判されますが、民主的なプラハの歴代政権が多数派の力を背景に少数民族のドイツ人を抑圧していたという前提からすれば、弱い民主的な指導者よりも強力な指導者をドイツ系住民が求めたと考えれば不思議ではありません。


 1937年頃から問題は更に深刻化します。議会第2党がチェコスロバキアの国体を認めていないという状況、あるいは現在の体制変更を公然と主張することは政治不安、あるいは経済的な混乱の長期化につながり、連立与党としては受け入れられませんでした。


 ここで考えていただきたい点は、ズデーデンがチェコスロバキアの西側を、ちょうど玉ねぎの皮のように広く薄くすっぽりと覆うような形にあることです。その背後にはオーストリー、そしてドイツと国境を接しています。ズデーデンのドイツ系住民300万人は確かに同国内の少数派ではありますが、チェコスロバキア政府からすれば国境を無視すればドイツ系住民に包囲されるような形なわけです。


 そのためズデーデン・ドイツ人民党が躍進した1935年、あるいは前年にヒンデンブルク大統領の死去により「ベルサイユ体制の否定」を公然と掲げるヒトラーが政権を完全に掌握した時から、チェコスロバキア軍は防衛体制の再構築を開始しました。


 これは軍事的な同盟関係にあったフランス軍の指導を受けたもので、そのドクトリンは基本的には第1次世界大戦の「防御側は攻勢側より勝る」という戦訓を生かした防御的なものでした。フランスのマジノ線、ドイツのジークフリート線が有名ですね。先制攻撃が国際法により否定されたパリ不戦条約の影響を見ることも出来ます。


 まずは第1段階として国境沿い、あるいは戦略的要所に建設した要塞や基地、トーチカを組み合わせた防衛ラインによりドイツ軍の侵攻を防ぐ、第2段階として要塞で食い止めている間に軍の動員を完了させ、ドイツ軍に対抗する、第3段階として協商関係にあるフランスやソビエトなどの援軍と共にドイツと戦う。おおよそこのような計画であったとされています。


 1938年の段階ではまだこれらの要塞は未完成なところもありましたが、大部分の要塞化には着手していたといいます。チェコスロバキアの強硬な外交の背景には、自らの防衛システムへの自信があったことは間違いありません。無論これはナチス・ドイツ-というよりもかつての支配層であったドイツ人への恐怖の裏返しでもあります。ようやく勝ち取った独立を戦わずして捨てるつもりはプラハにはありませんでした。


 さてこれまでプラハの連立政権と、ヘンラインの背後に控えた因果関係を説明してきました。1937年9月頃から状況の長期化をうけてプラハの政権とヘンラインは折衝を始めますが、これでは上手くいくはずがありません。ヘンラインの背景にナチス・ドイツの支援があると考えたミラン・ホッジャ首相は、自治権要求の受け入れどころか同党の政治活動の禁止、政治集会やデモを警官隊を導入して取り締まらせました。これには国際社会も重い腰を上げ、イギリスやフランスもプラハの姿勢に苦言を呈するようになります。


 ヘンラインは自治権要求にドイツ公使の支持を受けたこともあり、それまでの将来的なズデーデンにおける自治権の要求から「ズデーデンに合わせてボヘミア、モラヴィア、シレジア地方の即時ドイツ編入」を公開書簡で要求しました。ズデーデンはともかく、3地方の中ではドイツ人が多数派でないところも含まれています。自治権要求までならともかく、ドイツへの編入となると話は全く別の問題となります。当然ながらチェコスロバキアの政府としては受け入れられるはずもありません。


 事態は越年し、情勢はさらに緊迫化します。1938年4月にはドイツがオーストリーを併合。こうなるとドイツの思惑がどこにあるのかは誰の目にも明らかとなってきました。ドイツ民族共同体というヒトラーの公約は彼の妄想ではなく、プラハにとって現実的な脅威になったのです。


 ついに5月にはチェコスロバキアが軍の動員に着手。この強硬姿勢を見たヒトラーとヘンラインは一時的にプラハとの交渉に再度乗り出しますが、その4ヶ月後にはみなさんご承知の事態となるわけです。


 1937年9月からのヒトラーは強気一辺倒だったわけではありません。国防軍将軍との会合では「フランスもイギリスもチェコスロバキアのために戦争はしない」と強気の姿勢を崩しませんでしたが、実際には攻めてくるかもしれないと内心迷いながらの行動であったようです。また英仏との戦争になることを恐れた国防軍内部では、緑の作戦-チェコスロバキアへの侵攻作戦の策定と同時に、ヒトラー暗殺も含めたクーデター計画が進行していました-


- 東京帝国大学『近代欧州史』講義録より抜粋 -



 チェコスロバキアもフランスも、チェンバレン氏の支持を取り付けようと奔走しています。彼の同意がなくば、両国は動員すら行うことができません。チェンバレン氏はロンドンから旧連合国を支配しているのです……確かにイギリスの支持なくともチェコスロバキアは動員が可能でした。5月の段階ではそうでした。しかし協商関係にあるソビエト赤軍の支援がルーマニアやポーランドの領土通行の否定、そしてイギリスの外交圧力により事実上不可能となった以上、プラハが頼りにできるのはフランス軍のみです。


 フランス軍を指揮するべきパリの政府は脆弱です。単独で戦争を決意出来ないのです。勇気がないのではありません。フランス人は依然として勇敢で誇り高い人々であり、政治家にも先を見通すことのできる人材がいます。残念ながら彼ら個人の政治力と、彼らの政治する政党や政治勢力のガバナビリティが欠けているのです。そして政治屋には政治力があっても先を見通すことができません。パリにおいて元気なのは極左の共産党、あるいは極右勢力です。現実を見据えないからこそ彼らは強いのです。現実を見据えることが出来る中道右派勢力は脆弱で、主要政党である中道左派の急進社会党は左右に分裂しています。


 こうした状況で中道派、あるいは中道右派や左派が政権内部で自らに近い左右の両側を引っ張ることで内閣の主導権を握ろうというシーソーゲームを繰り広げています。バランスが崩れた段階で内閣は崩壊します。イギリスの支持すら彼らにとっては政権維持のための材料でしかありません…ダラディエ氏(フランス首相)と面会しました。彼は確かに見識と勇気を兼ね備えた人です。だからこそフランス単独での限界を理解しています。


 18日の英仏首脳会談において、両国はズデーデンのドイツへの割譲で同意しました(チェコスロバキア政府への同意もなしに!)。エドヴァルド・ベネシュ大統領が英仏両国公使からの勧告を拒絶したのは当然でしょう。しかしチェンバレン首相は「受け入れない場合。チェコスロバキアの運命に関心を持たない」という強硬な姿勢を崩しませんでした。この老宰相は戦争を避けることばかり考えていました。チェンバレン首相の決定に、閣議ではチャーチル卿に近いとされるクーパー海軍大臣だけではなく、ドイツ融和派とされるハリファクス外相も反対しました。しかし首相はこれを押し切りました。野党第1党の労働党のアトリー氏も反対しています-それまでの国際協調、平和外交が失敗したと考えているからです。


 英仏を比べるなら、チェンバレン首相の政治力が優っていたと評価できるでしょう。その背景には戦争を嫌う、あるいは傲慢で少数民族!をいじめるチェコスロバキアのために戦争をしたくないというイギリス、あるいはフランスの大多数の国民感情の後押しがありました。国民の支持を受けない政治家ほど弱い者はありません。英国内の反対派は国民の支持を受けていません。


 そしてチェンバレン首相と同様に、ヒトラーはドイツ人の信頼と支持を受けた指導者です。22日の英独首脳会談は、両者の政治力が正面からぶつかり合いました。ヒトラーは将来的な割譲ではなく即時の割譲を求め、ハンガリーとポーランドのチェコスロバキアへの領土割譲要求を理由に、調停を拒否しました。再び盤面をひっくり返したのです。ベネシュ大統領が軍人首相を指名した正しさが証明されました。チェンバレン首相はプラハに総動員を許可しました-


- 駐英米国大使ジョセフ・P・ケネディの国務省への報告書下書き -



 貴君の情報収集能力は評価するが、情緒的、主観的でありかつ冗長である。報告書は簡潔に時系列と事実関係を列挙の上、早期にDCへと打電すべし。以上。


- 発:国務省長官官房 宛:駐英アメリカ大使館宛訓令 -



 ドイツ南部の旧バイエルン王国は、ナチス-国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)の生誕の地であった。敗戦後に多数勃興したベルサイユ体制を否定する小政党のひとつであった同党は、ドイツの唯一の指導政党に上り詰めたのだ。ミュンヘンには同党本部が設置されるなど「聖地」の一つに位置づけられていた。ヒトラーがこの場所を会談の会場として指定したのは彼の自信と、そして不安の裏返しであったのかもしれない。


 1938年9月29日。薄曇りの空はすでにとっぷりと暮れていた。ミュンヘンの総統官邸会議室において、イタリア王国首相のベニト・アミールカレ・アンドレーア・ムッソリーニは、我が世の春を謳歌していた。事前に決まったのは会議の場所と日程のみ。司会も議事進行役もいないという異例づくめの首脳会談は、4カ国がそれぞれの大臣や補佐役、あるいは書記官を無秩序に呼び込むことでさらに混乱した。


 おまけにそれぞれ英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語で自らの主張をしたが、会談場所を提供したドイツ外務省の公式通訳は一人だけというお粗末さ。私も外務事務総長としてダラディエ首相の随行団の一員に加わったが、これではどうにもなるわけがない。お互いがそれぞれの主張を根回しもなくぶつけ合い、おまけに相手の言語がわからないので回答が遅れ、話がとめどなく混線し、誰も全体像を理解出来なかった-ただ1人、4カ国語を理解していたイタリア首相を除いて。


 ムッソリーニは自ら積極的に仲裁に乗り出し、会談を事実上リードした。国際政治の経験に乏しいドイツの総統はこの年長のファシストを頼りにし、ムッソリーニよりはるかに政治的経験や実績のある英国の老宰相も、言葉が通じないとあっては、それぞれの要求を端的にまとめるイタリア首相の仲裁を待たざるを得ない。我がフランスの首相に至っては会議前から「全てはイギリスとチェンバレン次第」と半ば自らの限界を認識していた。


 ムッソリーニからすれば会談のために集まった全ての首脳や高官が自分の顔色を窺い、自分の言葉を待っているように思えたのだろう。一国を指導する権力者達-フランスを除けば英独もほとんど単独で自分の意思を追求することができる彼らが、自分の一挙手一投足を注視しているのである。


 自分の言動が世界の権力者を動かす。今まさに自分が歴史をつくる、いやその主人公なのだ!


 何者にも例え難い感覚に、彼は酔いしれていたのだろう。かつてこのような感覚をナポレオンやカール大帝も味わったのか。いや、イタリア人ならローマ皇帝か。とにかく彼は得意満面であった。


 そのためイギリスはチェンバレン老首相の、冬の荒れた北海のような冷ややかな、ドイツはヒトラー総統の、全権委任法に反対したSPDの指導者を壇上から眺めるが如き苛立たしげな、あるいはフランスはダラディエ首相の、絶対王政の復古を求めるアンシャンレジームの遺物を眺めるがごとき呆れたような視線を次第に強めていることに、自己陶酔の極みにある55歳のイタリア頭領は最後まで気がついていなかった(あるいは気がついても引き返せなくなっていたのか)。


 この会談の当事者はチェコスロバキアであるが、決定権を有するのはイギリス(+フランス)でありドイツ。当事者能力がないと判断されたチェコスロバキアは、会談への同席すら許されなかった。司会、あるいは通訳以上の役割を誰も求めていないにも関わらず、自分が主役と勘違いしたがごとき振る舞いは英独仏の首脳をいらだたせたし、通訳以上の役割を果たそうとするイタリアの首相に-自分の解釈を含めて勝手に話すことで引き起こされる混乱にうんざりとしていたからだ。


 とにかくそのような混乱があったにせよ、首脳会談自体は順調に進んだ。当たり前である。この場に当事者がいないのだから。


 大国間で話を付け、小国には発言権すら与えない。それは19世紀イギリスのパーマストン外相の議会外交-大筋は大国間で根回しをするとは言え、例えどのような小国であっても当事者であれば会議への出席と発言を許可するという伝統的な外交からの大転換であった。しかし小国に振り回されることに、我がフランスも、イギリスも辟易としていた。チェコスロバキアに同情はしても、これ以上は付き合いきれなかったのだ。「いずれドイツも自ら巻き込んだ中東欧の身の程をわきまえない小国に振り回されるだろう」と、とあるイギリスの随行員が負け惜しみのように言っていたが、それは数年もしないうちに事実となった(実際には最もドイツを振り回したのはイタリアであったのだが)。


 ミュンヘン協定とはつまり、チェコスロバキアを生贄にして欧州の平和を守ろうとしたものである。ドイツと、ドイツが扇動した(あるいは元来からの領土的な野心を発露させる絶好の機会として利用した)中小国、ポーランドやハンガリーにチェコスロバキアを提供した。チェコスロバキア軍と警察はズデーデンからの即時退去が決まり、英独仏伊に当事者をくわえた国際委員会により、新たな国境を決めるとした。「人民投票」により帰属が決められるとも。


 これでは自分で自分の死亡診断書を書かせるようなものである。この後、ベネシュ大統領は会談の結果を拒否して辞任、亡命した。ヤン・シロヴィー首相はプラハに留まった。どちらの道も困難であっただろう。もっとも周辺国と敵対することも辞さない外交を主導したのは外相時代のベネシュ氏である。それが結果的にチェコスロバキアの死亡診断書となったのだ。


 チェコスロバキア共和国は、チェコ=スロバキア共和国へと名前が変わることが決められた。スロバキア人に自治がみとめられたのだ。チェック人とスロバキア人は分断された。チェコスロバキア共和国の解体-つまりサン=ジェルマン条約の否定に、旧連合国-英仏伊が同意したのである。そして誰もそれに同情しなかった。ヒトラーは無論、ダラディエ首相も「友人」のために戦うことは選択しなかった。出来なかったのだ。ムッソリーニ首相は自分の手柄を自慢することにご満悦であった。ただ1人、会議の終了間近に曲球を投げ込んできたチェンバレン首相を除いて。


 その提案と時をほぼ同じくして、イギリスを除いた各国の外交官や秘書官が血相を変えて飛び込んできた。私も秘書官が持参したメモを見て、思わず我が目を疑った。


- ハンガリー王国国民議会と貴族院がオーストリー大公ヨーゼフ・アウグストの国王擁立を全会一致で決議 -


「我がイギリスはハンガリー国民の選択を尊重したいと思うが、総統のお考えはどうか」


 ダラディエ首相は我関せずと目を瞑り、ムッソリーニ首相がそれまでの雄弁が嘘のように黙り込む中、徹夜会議明けの眠たげな目をこすりながら、茫洋とした口調でそう言ってのけた老宰相に、ヒトラー総統はしばらく言葉を返すことが出来なかった。


- サン=ジョン・ペルス(アレクシ・レジェ)回顧録 『夜明け前』より -



「一体、どういうことだね?!リッベントロップ君!外務省は何も把握できていなかったのかね!」


 会談を中座して総統官邸の執務室に引き上げ、自らの席に座るや否や、天から降るような総統閣下の甲高い声が部屋中に響いた。


 名指しされたリッベントロップ外務大臣は、部屋の中央で雷に打たれたように背筋を伸ばした。それぞれ所管の大臣や高官の背後に控える軍将校や官僚が顔面を蒼白にする中、空軍大臣のヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングだけが杖を手に、無表情のまま総統の右後ろに佇んでいた。しかしリッベントロップの背後で抱えた書類のチェックを続けるワイツゼッカー外務次官は、ゲーリングの顔に微かに浮かぶ嘲笑を見逃さなかった。


「総統閣下、外務省といたしましては、今回の首脳会談実現に向けて各地の在外公館と緊密に連絡を続けてまいりました。ただ状況があまりにも急速に進展したため、対応が後手になった側面は否めません。特にハンガリーは3ヶ月前に政変により内閣が変わったばかりでありまして、テレキ・パール新首相、および与党の国家統一党との関係構築に向けて現地の大使が…」

「言い訳はよい。君はプラハ包囲網を最優先した結果、同国とイギリスとの関係を見抜けなかった。そう理解して良いのだな」

「ハンガリー新首相が親英派であることは誰もが知る事実。にも関わらず新政権に条件をつけることもなく、ハンガリー政府の南スロバキア割譲の要求をただ受け入れたとは!これでは外務省がイギリスの欧州大陸における勢力拡大に手を貸してやったようなものではないですかな!」


 総統の叱責に重ねる様にゲーリング空相の悪意のある指摘が続き、外交の責任者であるリッベントロップは屈辱で身を震わせた。外務省として情報収集が遅れたことは事実であるだけにうかつな反論は出来ないが、唯一の人事権者である総統の前で、沈黙により批判を受け入れることは、政治的な死を意味する。


 リッベントロップはヒトラーに直接反論する様な愚は犯さず、党内序列では自分よりも格上のゲーリングに対して言葉を選びつつ反論した。


「空相にお言葉を返すようではありますが、イムレーディ・ベーラ前首相の失脚は予想できない事態でありました」

「想定外だから外務省の失態が正当化されると?」

「親英派政権の誕生という不測の事態ではありましたが、共同戦線を作ることには成功したと考えています」

「南スロバキアの回復の約束が共同戦線だと?トリアノン条約の否定と国土の回復はハンガリーの国是のようなものではないか!テレキ・パールであろうと、イムレーディ・ベーラであろうと賛成するに決まっておるではないか!」


 子供の使いかと言わんばかりのゲーリングにリッベントロップはさらに反論しようとしたが、沈黙していたヒトラーが手を挙げたのを見ると、口を噤んだ。


「イムレーディの失脚は我がドイツにとっても損失であった。財務大臣経験者でありかつ親英派であった彼の転向は、我がドイツの実力を認めたということだからな。人種政策においても彼は『正しい』道へと進もうとしていた。だからこそ彼がユダヤの血を引いていたとは、誰も想像出来なかったのだが」


 その点では外務省を責める事は出来ないと、ヒトラーは先程までとは対照的に静かに語った。リッベントロップは一言も聞き逃さないという態度で、気ぜわしくハンカチで眉間の汗を拭いている。総統の背後のゲーリングがあからさまに失笑してみせるのが、ワイツゼッカーにはよく見えた。党と政府の人事権を掌握するヒトラーがよく使う手であり、閣僚あるいは党の重鎮の競争心を意図的に煽ることで自らの忠誠心をより確固たるものとするのが狙いである。


 その極端な垂直形の権力構造は、ワイツゼッカーには覚えがあった。かつて自らの父が宰相を務めたヴュルデンベルク王国の宮中における権力闘争である。議会や行政府はともかく、宮中においては君主の信任が全て。現在のナチス政権においても、重臣達がありとあらゆる手段で総統の歓心と寵愛を競い合っている。


 近代国家でありながら、権力中枢はむしろ中世以前の旧態然としたもの。ワイツゼッカーの不満はそこにあった。しかしいくら不満があるとはいっても、ワイツゼッカーは一緒に沈没船に乗り続けるつもりは毛頭なかった。


「総統閣下、畏れながらよろしいでしょうか」

「構わんよワイツゼッカー君」


 ワイツゼッカーの発言にゲーリングが不快げに眉を寄せ、リッベントロップは助かったと息を吐く。ヒトラーはそれらを横目で見ながら、興味深そうな視線をワイツゼッカーに向けた。


 細面の顔に神経質そうな眼差し。整えられた口髭以外にはこれといった特徴もない、髪を綺麗になでつけて分けただけの男が、ドイツ民族の救世主とは!少なくとも王座より市井のビアホールが似合うことは万人が認めるところだ-ほかならぬヒトラー自身がそれを意識して振舞っている。


「私は外務次官として、ドイツはこの提案を受けるべきだと考えます」


 「むしろ積極的に後押しをするべき事案です」と続けるワイツゼッカーに会議室の空気がより一層重くなる。他の補佐官や軍将校はこうなると巻き込まれるのを恐れるばかりで、沈黙して部屋の調度品と化した。視線で部下を叱責しようとしたリッベントロップ外相が何か言う前に、ゲーリング空相が顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。


「何を言うか貴様!!自らの失敗を言い訳するならまだしも、開き直るとはどういう了見だ!」


 杖を手にゲーリングが更に叱責しようとしたが、ヒトラーは右手を上げてそれを黙らせる。ワイツゼッカーは僅かな目礼でそれに謝意を示すと、黙り込んだ上司を尻目に自らの考えを滔々と述べ始めた。


「既に経緯はご存知だと思いますが、時系列に沿ってご説明いたします。オーストリー大公ヨーゼフ・アウグストは66歳。かつての二重帝国において陸軍元帥の地位にあった歴としたハプスブルク家の一族であり、ハンガリー宮中伯にしてトスカーナ大公でもあったヨーゼフ・アントン大公の孫にあたります」


 「長ったらしい家系図や閨閥を聞きたいわけではない!」と吐き捨てるゲーリング空相に、ワイツゼッカーは失礼にならない最低限の範囲における敬意-つまり慇懃無礼極まる態度で応じた。ゲーリングはその態度に顔を赤く染めたが、総統の前であるのでそれを杖を握り締めるだけで堪える。ヒトラーは苦笑しながらワイツゼッカーに視線だけで続きを促した。


「先の大戦後、共産革命を乗り越えたハンガリーは、ホルティ摂政が中心となりハンガリー宮中伯の系譜を継ぐハプスブルク家のヨーゼフ・アウグストを国王に擁立しようとしました。結果的にはハプスブルク家の復権を嫌う連合国と旧二重帝国から独立した周辺国から猛反対され、軍事介入をちらつかされたことで諦めざるを得なくなります。このとき反対の先頭に立ったのが当時のチェコスロバキア首相のベネシュです」

「そのため国王不在のまま、ホルティ氏が摂政-事実上の国王として君臨しているのだったな」

「その通りであります」

「では何故その王位継承を、聖イシュトヴァーンの王冠の継承を認めることが、我がドイツ帝国の利益につながると君は考えるのか」


 冷たい口調で淡々と指摘したヒトラーの態度に、リッベントロップはその青白い顔を更に蒼白にし、ゲーリングがにんまりと笑う。


 元々この「オーストリー人」は、第1次大戦前からハプスブルクを腐敗した王朝とみなしており、ドイツ民族としての同胞への連帯感はあっても、まかり間違ってもハプスブルク家への忠誠心などなかった(かといって共和主義者というわけでもなかったが)。


 ナチスが政権獲得を進める中、帝政復古をちらつかせて、「ヴィリー」を家長とするホーエンツォレルン家の協力を得たこともあったが、いざ政権を獲得すると一転して冷淡となり、完全な掌握後はこれを一切無視する。オーストリー併合を目指す中で、ハプスブルク家の利用を計画したこともある。彼からすれば両家ともに高貴な家柄とやらばかりで、まともな戦争指導も出来ずに国を滅ぼした愚か者以外の何者でもない。


 利用出来るなら利用するが、あえて手を結ぶ必要もなければ無視すればいい。その程度の存在でしかなかった。それを知る空相と外相が対照的な姿勢を示す中、ワイツゼッカーは顔色ひとつ変えずに自らの考えを告げた。


「オットー皇太子の策謀を防ぐために、ハプスブルクを分断するのです閣下」


 ワイツゼッカーの発言に出てきたオットー皇太子という単語に部屋の中の出席者がそれぞれの反応を示すが、最も激烈な反応を示したのは他ならぬアドルフ・ヒトラーその人であった。


 彼は両手を打ち鳴らすと「すばらしい!」と叫んだ。


「素晴らしいぞワイツゼッカー君!あの皇太子殿下のメンツを丸つぶれにする、絶好の機会というわけか!なるほど、オーストリー大公がハンガリー国王に即位する。それも本家の後継を差し置いてか!これはいい、これはいいぞ!」


 立ち上がり興奮した様子のヒトラーは「そうは思わないかね、ゲーリング君!?」と背後を振り返って同意を求めた。ゲーリングは咄嗟に反応に迷ったような態度を示したが、彼はこうした場における主君が最も望む態度と回答をわきまえていた。


「は、いえ、その、素晴らしいお考えだと」


 空相の同意する言葉を最後まで聞かずに、ヒトラーは「そうかね!」と再度、ワイツゼッカーと向き合った。返す刀でこの場における反対派-外務省の提案には反対という意味での-の急先鋒だった空相の同意を取り付けたヒトラーの手腕に、ワイツゼッカーは感嘆していた。


 ワイツゼッカーの言うオットー皇太子とは、二重帝国最後の皇帝カール1世(1877-1922)の長男で現在26歳。カール1世は戦後の復辟運動における失敗で醜態を晒したが、その息子であり皇太子のオットー・フォン・ハプスブルグもまた帝政(あるいは王政)復古論者であった。イタリアやスペインを経て、現在はベルギーに居住しているオットーは、1930年に成人年齢を迎えると、復帰の機会を探ろうとドイツやオーストリー、かつての二重帝国から独立した諸国の政治家と交流を始めるようになった。


 一時期はヒトラー自身もオットーを利用してオーストリーを傀儡化しようとしたことがある。しかし彼は君主制復帰論者であったが、同時にオーストリーの独立を支持しており、アンシュルス(独墺合併)に反対の立場からナチス政権を批判した。さらに保守派としての立場からナチズム的なものにも反対していた。


 そのためアンシュルス後も彼はナチス政権批判をやめるどころか一層激化する有様で、ヒトラーの神経を逆なでしている。王位継承者がアンシュルスを否定することは、ヒトラー個人の政治的な成果を否定するばかりではなく、アンシュルスの正当性と、また少数とは言え旧オーストリー国内に残る反対派を刺激しかねないなど様々な危険性を孕んでいた。いかにしてオットーを政治的に無力化するか。国内の安定化を図るナチス政権にとって未だに無視出来ない問題であった。


「ご賢察の通り、ハプスブルクの苔むした一族の序列に手を突っ込むことで相手を分断出来るのです。王政復古を目指すオットー皇太子からすれば、分家に先を越されたと考えるでしょう。当然ながら穏やかではいられません。旧オーストリー国内の帝室財産のいくつかの相続を新国王に認めれば、両者は相続問題で和解不能となるでしょう。ハプスブルク王政復古論者はハンガリー派とオットー派に分断され、中長期的な影響力はさらに弱まります」

「素晴らしいなワイツゼッカー君。特に我がドイツが、ほとんど手を汚さずに済むというのがいい」

「この他にもいくつかの利点が考えられます」

「まだあるというのかね?」

「ヨーゼフ・アウグストの妻は旧バイエルン王家出身。ご存知のようにヴィテルスバッハ家は反ナチ派です。ドイツ国内のナチス政権に懐疑的な君主制支持者や旧王室を取り込める、あるいはこちらも分断する効果も見込めます。更に母方は東欧のブルガリア王家と繋がります」

「それは確かに魅力的だな。アウグストの国王即位を認めるだけで、それだけの副産物がついてくるのなら」

「総統閣下、総統閣下、しばらく、今しばらく!」


 身を乗り出さんばかりのヒトラーに、ゲーリングが慌てて食い下がる。


 ゲーリングは確かにナチス党の古参幹部ではあったが、元々ヒトラーとは別に上流階級コネクションを築き上げるなど独自性の強い側面もあり、腰巾着という見方は必ずしも正しくない。利点ばかりを列挙して強調する外務次官の対応はさすがに看過出来なかった。


「畏れながら申し上げます。ハンガリー王の擁立は明らかに現政権、親英派政権によるもの。かつて同一人物の即位に強硬に否定したのは確かに周辺諸国ですが、イギリスも反対していました。つまりこれはイギリス主導の王政復古ということになります。中欧にイギリスの楔が王室という形で打ち込まれようとしているのです。我が国がこれを追認したところでイギリスほどの影響力が保てるとは思えません」

「ゲーリング君。つまり君はヨーゼフ・アウグストの即位に反対なのか」

「決定されるのは総統閣下であります。確かに我がドイツが介入することでハプスブルクの残党を分断することは不可能ではないと考えますが、それ以上に私は考えられる問題点を率直に指摘することこそ、我が忠誠と考えています」


 問題点のあたりを強調してゲーリングはワイツゼッカーを睨んだ。これにワイツゼッカーではなくリッベントロップが反論をした。


「それは違うのではありませんか。保守化したハンガリー国民はヨーゼフ・アウグストの即位を歓迎するでしょう。何より人望篤いホルティ摂政が後押しをするのです。領土を取り返し、敗戦国という理由から我らの王を否定された屈辱を20年ぶりに晴らす。これをドイツが否定すれば、ハンガリーが反ドイツ、親英派に傾く恐れがあります。それは避けなければなりません。ハンガリーはこの他にも本来の領土を回復したいと考えています。この先、ドイツと共同歩調を図ることも可能なことを考えますと、尚更です」

「イギリスの勢力拡大に手を貸すというのか!中欧に、欧州のど真ん中に英国諜報機関の出先が出来るようなものなのだぞ!」

「最初からわかっていれば何の問題もないでしょう。それとも秘密国家警察ゲシュタポの長官殿にはその程度の防諜活動にすら自信がないとでも?」


 ゲーリングが言葉につまって顔を歪め、リッベントロップはしてやったりと口角を上げた。ワイツゼッカーはヒトラーと視線を合わせると、上司の考えを補足する。


「これは大英帝国が意図的に伏せたカードでもあります。独英海軍条約や、国際委員会とは別の形で、ドイツがミュンヘン体制を継続するならハンガリーを通じて話し合う余地がある。彼らはおそらくそう言いたいのかと」

「ワイツゼッカー君。私はハンガリーの中立国化など認めるつもりはない」

「無論です。しかしハンガリーの政権と王家が親英派であることが、ドイツ帝国の直接的な国益とぶつかることもないと愚考いたします」


 感情を務めて出さないようにしていたとはいえ、帝国の国益という自らの言葉に、ワイツゼッカーは内心苦笑した。敗戦国というだけで押し付けられた余りにも不条理なベルサイユ体制の否定、その延長線上にある欧州大陸におけるナチス・ドイツの覇権。それはワイツゼッカーも否定はしないが、では覇権を握って何をしようというのか?行き当たりばったりのこの政権に長期的な国益の展望などあるものか。ドイツ民族の団結だの連帯だの、耳触りの良い言葉ばかりが並ぶ。少なくともあの忌々しいコルシカの悪魔にはフランス革命の正統な後継者たらんとする理想があった。では第3帝国は?


 ワイツゼッカーがそのようなことを考えている間、総統は部屋の中を二度三度往復した。調度品と化していた官僚たちが慌てて動き出し、指導者の道を作った。ゲーリング空相とリッベントロップ外相が指導者の行動をかたずを飲んで見守っている。ちょうど3回目の往復の途中、部屋の中央でヒトラーは立ち止まると、ゲーリングの顔を確認してからリッベントロップに向き合った。


「確かにフランスはともかく、イギリスと対立することは私の本位ではない…リッベントロップ君。ドイツはハンガリー国民の意思を尊重するという声明を発表したまえ。あくまでハンガリー国民の意思であって、ヨーゼフ・アウグスト個人への祝意ではない。そこをはっきりとしておく様に…」


 ヒトラーはそこで一旦息を吐くと、首を抑えて感心したような声を出した。


「あの老人がロンドンに帰る前に、もう一度、フランスやイタリアを抜きに会談をしておくべきかもしれない。それにしてもチェンバレンめ、とぼけた間抜けな平和主義者の顔をして、曲球を投げてくるではないか」

「自分の手を汚さず相手に手を汚させる、あるいは汚さざるを得ないように仕向ける。仮に失敗しても元の敵国が潰れるだけで英国本土には直接的な影響はないのです。まさに大英帝国らしい外交と言えるかもしれません」


 リッベントロップはヒトラーの反応を窺うように、言葉を選びながら続けた。


「イギリスは大陸における一強勢力を認めたことはありません。果たしてイギリスは欧州における我がドイツの覇権を認めるでしょうか」

「私はチェコスロバキアの友人であることを放棄したイギリスが、フランスの友人であり続けるとは信じられない。それにリッベントロップ君。それは心得違いというものだよ。イギリスが認めるかどうかではない。我がドイツにそれにふさわしい実力があるか否かが問題なのだ」


 先程までの醜態が嘘のように自信にあふれた態度で語るヒトラーに「さすがは総統閣下」とゲーリング空相が追従を続ける。ワイツゼッカーと何人かの国防軍高官が、冷ややかな視線を向けていた。


・困った時の授業形式!

・困った時の内部文書方式!

・困った時の回顧録!

・困ったときのスペイン宗教裁(ry

・いやね。ぐだぐだと会話形式の形で状況説明やるよりはいいかなと。

・誰が悪いってわけじゃないんだけどね。二重帝国存続していればいいというわけでもない。仮に第1次世界大戦がなくて存続していたら独立紛争という形で吹き出していたでしょうし。暗殺されたフェルディナンド皇太子のスラブ民族をドイツ人とマジャール人と並ぶ支配階級に引き上げるドナウ連邦構想なんて、どう考えてもうまくいくわけないし(そもそもスラブ民族の定義で揉める)。

・「あの人が生きていれば」とか「あの国が続いていれば」「あの政権が続いていけば」というのは結局のところ、あんまり意味がないんですよね。IFもの書いていて身も蓋もないかもしれませんが。亡くなれば美点ばかり強調されて欠点は忘れられる。甚だしい場合には欠点すら「あばたもえくぼ」扱いされるんだから。どんな人物でも欠点と長所があるように、どんな問題でもプラスの側面とマイナスの側面があるだけという話で。

・メタなこと言いますと、ちょっと肌合いの違う歴史もの書きたかったら王道のIFを疑うところから始めればいいんですよね。あの人が生きてた!よかった!…あれ?!こんなはずじゃなかったのに!とか。その人の長所を欠点として書くとか(慎重居士は優柔不断に、勇猛果敢は猪武者にとか)。

・王様のいない王国に王様が出来ました(蛙の王さまとかいわない)

・カール1世。フランツ・ヨーゼフ1世が事実上、最後の皇帝として扱われて殆ど無視されている気の毒な人。勝手に停戦交渉をやって権限を剥奪されて帝国崩壊。王政復帰を目論んで流刑になったりとまあ。気の毒というかなんというか…

・なんか宮廷政治を見ているかのようなナチス内部の権力闘争。5世紀ぐらい時代が早ければ宮廷絵巻になったんだろうけど、そうなると風采の上がらないオーストリー人は登場の舞台にすら上れないことになる。

・嫌味な器の小さい地位の高い高官をやらせたら右に出るものがないと巷で評判のゲーリング閣下。いやもう少し違う書き方したかったんだけど、やっぱりこういう役回りが似合うんですよね。この他にも国会議長とかを兼職。

・ワイツゼッカーがアップを始めました。

・5、4…2、馬鹿な!まだ下がるだと!(主人公の出番)

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― 新着の感想 ―
[一言] ムッソリーニってなんだかんだめっちゃ優秀なんですよね。
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