三吉義隆退役陸軍少将の回顧録 / 満洲国 関東軍総司令部 大会議室 /『嵯峨浩日記』/ 満洲日日新聞 / 辻政信著『敵中横断三千里』(1938年9月)
『平和を手に入れるより、戦争を始める方がはるかに易しいものだ』
ジョルジュ・バンジャマン・クレマンソー(1841-1929)
荒木閣下は陸相時代の失態から今でこそ評判はよくありませんが、作戦屋としてはきわめて全うな経歴の人でした。日露戦役ではあの「花の梅沢旅団」こと梅沢道治少将の副官として、事実上の参謀長として活躍されましたし、第一次世界大戦では連合軍の観戦武官として第一線を渡り歩かれました。ロシア通としてシベリア出兵にも関与するなど、陸軍省部の両方で要職を歴任されたのですからね。
その荒木閣下が「作戦用兵がもっとも得意」と評価したのが小畑閣下です。確かに敵は多かったです。私もそれで苦労させられましたからね。思い出といいますと、やはり陸大時代の戦術論でしょうか。閣下は常々「百戦百勝は善の善なるものにあらざるなり」という孫子の言葉を好んで引用されました。また「戦わずして而して人の兵を屈するは善の善なるものなり」ともね。これが作戦の要諦と直接何度も教えていただきました。
今から考えると閣下の作戦思想は、当時の陸軍の中では極めて異質なものでした。当時は第1次大戦の後とはいえ、まだドイツ流の-主導権を確立する。すなわち先制攻撃により主導権を握るべきという作戦主流の考えが根強い時代です。それとは対照的に小畑閣下は第1次世界大戦の教訓を踏まえた上で、作戦思想は防衛が第一というのが持論でした。ソ連が出てくるならやむをえないが、こちらがしっかりとした備えをしておれば容易には出てこれない。そのための満洲の要塞化である。閣下は割り切っておられましたね。だからこそ満洲組を始め、敵が多かったのも確かです。
第2次世界大戦冒頭のドイツの電撃戦によるフランス攻略により、小畑流の防衛優先思想は「ペタン流の古びた考え」「ノモンハン事件長期化の戦犯」と批判の対象になりますが、その正しさは-皮肉なことに大戦末期のソビエトの満洲侵攻により証明されることになりましたのは、御承知の通りです。
- 三吉義隆(元陸軍少将)の回顧録より抜粋 -
*
関東軍総司令部が遼東半島の旅順から、ここ満洲の首府である新京に移転してきたのは昭和9年(1934年)のことである。建国直後に建設された関東軍総司令部は、大陸様式と呼ばれる欧州建築と日本の伝統建築を融合させたものであり、中央と左右にある天守閣のような構造物が特徴的である。そのため総司令部は現地在住の人々から「御城」と呼ばれていた。日本人からは親しみをこめて、満洲人などからは「誰がこの国の支配者であるかを証明している」という揶揄を含んだものであったが。
その御城の中央、天守閣の真下にある関東軍総司令部大会議室に関東軍の首脳が集まっていた。議題は満洲国境の防衛に関する基本要綱の策定である。先の張鼓峰事件を受けて関東軍内部でも作戦参謀らを中心に検討されていたが、今回の日満首脳会談の結果を受けて、更なる再検討が求められたからである。これに(事前に予想された事とは言え)関東軍の作戦部門が噛み付いた。
「これこそ政治の統帥への侵略、作戦への干渉ではありませんか!」
植田謙吉・関東軍司令官(関東局長官と駐満洲国日本大使を兼務、陸士10期・陸大21期)が首脳会談の骨子の説明を終えた直後、作戦参謀の辻政信少佐(陸士36期・陸大43期)が立ち上がって異議を唱えた。
会議の進行をまるで無視した言動に、梅津美治郎陸軍中将(関東軍参謀長、陸士15期・陸大23期)が顔を怒気で赤く染めるが、辻は眼鏡を光らせながら、まったく気にしたそぶりも見せない。オブザーバーとして会議に出席していた参謀次長の小畑敏四郎中将(陸士16期・陸大23期)は、その怜悧な眼差しにふさわしい冷たい口調で、関東軍の名物参謀に悠然と切り返した。
「政府の決定であり、および満洲政府からの要請でもある。少佐、何か問題でもあるのかね」
「問題しかありません。失礼ながら、中将閣下は現在の満洲のことがお分かりではないように思われます」
率先垂範、猪突猛進。そこに道がなければ塀を壊せ、家が邪魔なら焼き払えというのが辻流である。丁寧な物腰とは裏腹に、その言葉には中央の高官に対する敬意はまるで感じられない。旧真崎派の最後の生き残りである小畑は、慇懃無礼な態度に慣れているためか、特に態度に変化は見られないが、植田や梅津を除いた少なくない関東軍首脳は顔を引きつらせた。そしてそんな上官達の顔色を窺う素振りすら見せずに、辻は続けた。
「確かに昭和8年の作戦計画を取りまとめられたことは閣下の功績ではありますが、少なくとも現在の国境に関する現状については関東軍こそ当事者であり、誰よりも詳しいのであります。満蒙国境、およびソビエトとの国境警備に関しては、関東軍の作戦部門が現在取りまとめ中の処理要綱で十分でしょう」
「それを最終的に判断するのは陸軍中央である。そして総理であり陸相でもある林元帥が、現行の対処要綱草案では不十分と判断した。参謀次長たる私も、寺内(寿一)総長の判断を仰いだ上で現行の骨子では不十分と判断した。また同盟国である満州政府からも、国境警備に関して住民保護を優先して欲しいとの要望があった。要綱草案を軍政と軍令の判断により差し戻した、これのどこが問題なのか」
如何に参謀肩章をつけていたとしても、普通の佐官クラスの軍人であれば、将官相手-それも参謀本部のNo.2にここまで言われれば、理非曲直はともかく持論を引っ込めるそぶりぐらいは見せるものだ。まして小畑はかつて参謀本部第1部長(作戦部門)として満洲防衛のための昭和8年作戦計画を取りまとめた中心人物である。ハイラル・虎頭の両要塞や、それをつなぐ鉄道支線は現在も着工中である。
その小畑を名指しして「満洲を知らない」とする辻の反論は、勇気というよりも蛮勇とでもいうべきものであった。実際に辻の直属の上司であるはずの作戦主任参謀である服部卓四郎中佐(陸士34期・陸大42期)は顔に不満を浮かべつつも、辻を擁護することなく黙り込んでいる。にも関わらず辻はお構いなしである。
「問題しか見当たりません。大体、これはなんですか。内線作戦-内陸にソビエト赤軍を誘導し、ハイラル要塞を始めとした拠点により包囲殲滅するという昭和8年の作戦計画案の骨子は理解します。ですが、こちらからではなく相手から攻められることを前提とした国境警備のための対処要綱策定など、閣下がここ満洲を舞台にして、タンネンベルクをやりたいがためのものとしか思えません。要塞工事が完了していない今、攻められればどうなるとお考えか」
タンネンベルクは先の世界大戦において帝政ドイツ軍が東プロイセンに攻め込んだロシア軍を殲滅した会戦である。この勝利によりルーデンドルフは大戦後期にドイツの独裁者となり、司令官であったヒンデンブルクは大統領にまで上り詰めた。ドイツ通の多い日本陸軍では、タンネンベルクは日露戦役の奉天会戦以上の成功であると評価する声が大きい。作戦屋としてルーデンドルフ流の名声を得たいがために、満洲を戦場にする気かという辻流の挑発である。加えて「陸大校長として積極攻勢思想の重要性を説いておられた方と同じ人物とは思えませんな」と辻が言ってのけると、小畑が何か発言するよりも前に楕円形の机が激しく揺れた。
「辻少佐!貴官はいったい、何の権限があってそれを言うのか!佐官の分際であまりにも失礼ではないか!」
秩序と規律、そしてなにより陸軍人事年鑑の信奉者である梅津中将が、机を拳で殴りつける。先の粛軍人事を主導したとされ、将来の三長官就任が確実視されているカミソリ梅津の剣幕に、多くの将校が視線を落とす中、辻だけが轟然と胸を張って反論した。
「作戦参謀として日本政府および満洲政府の要請に疑問があるからであります、参謀長閣下。疑問を疑問としたまま作戦計画を策定するような不誠実な態度こそ、参謀次長閣下に失礼であると小官は愚考いたしました。ましてそのようなことでは満洲防衛の責任を担う当事者である関東軍として、満洲国民、および日本国民に申し訳が立ちません」
参謀肩章を意図してちらつかせながら、辻は視線を小畑に合わせたまま言ってのけた。小畑は梅津を視線でなだめながらひとつ息を吐くと、植田司令官に発言を求めた。
「発言を許可します」
植田大将はそのカイゼル髭を捻っていたが、その顔には困惑の色が浮かんでいる。辻の言動は植田も気に入らないが、遠藤三郎少将(副参謀長)や舞伝男少将(関東軍野戦鉄道司令官)を始め、山岡道武中佐(情報主任参謀)、片倉衷少佐(政策主任参謀)など主だった関東軍の幹部を前に、直接叱責することはなかった。辻ほどではないにしても、満洲やソビエトの脅威についてもっとも理解しているのは最前線にいる自分達-つまり関東軍であり、多かれ少なかれ中央からの干渉を快く思わない空気が「御城」にはある。
今の陸軍における現役将官の中では最も実戦経験が豊富といってもよい植田は、決して惰弱な大将ではない。それでも組織全体の大勢に逆らってまで、何が何でも我意を通す性格というわけではなかったし、まして梅津や小畑のように、他者からどう思われようとも平気というタイプでもなかった。
「辻少佐、これは陸軍中央および両国間の政府の決定である。貴官の職責は政府の決定の範囲内で関東軍の作戦計画を練ることであり、貴官の考えた作戦に政府を従わせることにはない…陸軍大学校で学ばなかったのかね?」
「では中央の考えについてお聞かせ願いたい。何を考えているのかわからない政府の決定に従うことなど出来ません」
植田大将とは対照的に、小畑中将という人は本人が意図してか意図せざるかはわからないが、自分に向けられる悪意というものには極めて鈍感に出来ていた。そして辻という人は「諦める」という単語を自分の中から意図的に消し去った人である。遠藤少将を始め何人かが頭を抱え、内心では辻と同意見のはずの服部中佐が「こいつは何を言っているんだ」という視線を部下に向けるが、平気の平左という顔をして辻は重ねて説明を求めた。これに小畑は相変わらず感情を表さずに淡々と続けた。
「…貴官らも承知のとおり、パリ不戦条約において先制攻撃が禁止されているにもかかわらず、蒋介石は戦争を決意した。張鼓峰では現地司令官を飛び越えてモスクワが戦線の拡大を図った。わが軍が主導権を握って始められる戦争ばかりではない。こちらにその気がなくとも、相手が戦争を決意すれば戦争は始まるものだ」
「先制攻撃の主導権を敢えて放棄すると言われるのか?それは利敵行為にはなりませんか」
「貴官は敢えて忘れておるかもしれぬが、我国もパリ不戦条約の調印国である。それを差し置いても、最終的に戦争の是非を判断するのは中央であり、現地軍の作戦部門ではない。現地軍が独断で始められる戦争などないのだ。それは朝鮮軍の支援がなければ張学良に勝てるかどうかわからなかった関東軍の諸君には、よくわかっていることだと思うが?」
これを侮辱と受け取ったのか服部中佐が思わず席から立ち上がりかけるが、小畑の眼光に再び腰を下ろした。それを見て上官である服部の不甲斐なさを嗤うように、辻はわざとらしく鼻を鳴らした。
「関東軍には朝鮮軍への命令指揮系統はない。すべては中央の統制に属する。植田大将は日本の満洲国大使を兼任しておられるが、要請は出来ても命令は出来ない。仮にソビエト赤軍が満蒙国境を南下してきた場合、関東軍だけで対処出来るのなら何も問題はないのだが」
「不可能でしょうな」
「つまりはそういうことだ。満蒙国境やソビエトとの国境に兵を張り付かせるわけにも行かない。再開した大陸の内戦への備えも必要だ。繰り返しになるがこちらからの先制攻撃ではなく、ソビエト極東軍およびモンゴル軍から、関東軍と満洲国軍で満洲国境をどのように防衛するか。偶発的-というよりも意図的な挑発が行われた場合はどう対処するか。この点を考えてもらいたい」
「……その期間は朝鮮軍二個師団が援軍に来るまでの間、と考えてもよろしいのでしょうか」
辻少佐がなにか言おうとしたが、それよりも前に遠藤少将が発言する。
小畑はこれに頷くと「或いは内地からのだな」と続けた。即応体制にある朝鮮半島駐屯の2個師団とは異なり、内地の師団は平時の体制である。即応体制に移行するまでの期間を考えるなら、1ヶ月か、あるいは2ヶ月弱か。関東軍(満州国軍を含む)及び朝鮮軍の来援で持ちこたえれればそれでよいだろう。それでも間に合わない場合-より大規模に赤軍が南下してきた場合はどうするのか-遠藤少将が再び問う。
「その場合は昭和8年の計画に従えば良い。国境沿いでの撃退を放棄し、事前の作戦計画に従い満洲内陸にソビエト赤軍を誘い込み、ハイラル・虎頭の両要塞を起点に敵軍を包囲殲滅する。追加予算案についてもすでに中央では検討している。それと満洲国政府から要請のあった住民避難計画も同時に考えなければならないが」
「お待ちください中将」
小畑の国境地帯の住民の避難計画策定に、関東軍野戦鉄道司令官の舞伝男少将が異議を唱える。
「避難計画とおっしゃいますが、満鉄は内線作戦を実施した段階で利用不可能です。事前の動員計画に従いダイヤを統制しなければなりません。追加予算はありがたいですが、支線工事はいまだ継続中で、仮に今、戦端が開かれるとするなら内線作戦はきわめて困難なものとなります。確かに国境沿いの住民避難のための臨時ダイヤの策定は不可能ではないでしょうが、当然ながら軍の動員が遅れることになるかと」
「しかし不可能ではないのだな?」
「鉄道司令官として現段階では確証を持ちかねるということです」
舞少将の発言に続いて、片倉衷少佐(政策主任参謀)が軍帽を脱ぎ、頭の銃痕を掻きながら言う。
「ブリュヘル元帥がモスクワに召還されたという未確認情報もあります。仮にこれが事実だとすれば、極東軍管区において大規模な人事異動は必死であるため、半年から1年は動けないでしょう。時間的猶予はあるわけです。ですが」
片倉は満洲組でありながら辻とともに陸軍士官学校事件を解決し、青年将校を弾圧した立役者であり、それ故に2・26事件で銃撃されたという政治軍人である。その言動は辻とは異なる凄みを漂わせていた。
「国境沿いの住民は精々が数万というところでしょうが、半島からの不法移民や、未登録の日本からの農業移民も合わせると、下手をすると5万から10万程度になる可能性もあります。それが広大な国境地帯に点在しています。それも集住ではない形で。鉄道以外の交通インフラが不十分な状況では、馬か車ということになりますか。仮にそれらを揃えたとしても住民に私有財産を放棄して避難しろとは…」
「そのための国籍法の制定であろう」
「確かにそれはその通りなのですが」
片倉が言葉を濁した。
満洲の実質上の最高権力者は関東軍であるが、満洲国の現内閣が主導した国籍法制定には関東軍も異議を唱えなかった経緯がある。各地で半島からの不法移民の増加が懸念されており、日本主導の満蒙開拓団が縮小、あるいは政府支援の打ち切りが行われていながらも、民間団体が支援して新天地を目指した農業移民は関東軍にとっても頭痛の種であった。日本の影響力が強まることは喜ばしいが、現地の防衛を考えれば関東軍の統制のきかない無秩序な開拓はむしろ負担が大きくなるばかりである。少なくとも満洲組を除けば、多くの関東軍将校もそれは理解していた。
「先ほど公布された満洲国の国籍法では二重国籍を認めているが、日本は二重国籍を認めていない。農業移民は満洲国籍を持つものに限るとか、いくらでもやりようはあるだろう。満洲に残りたければ満洲国籍を取るように政策的に誘導すれば、不法移民の多くは解消されるはずだ。実際に満蒙の地で骨を埋めたいという住人はそう多くはないだろうしな」
「しかし小畑中将。国籍選択の移行期間はありますが、不法移民は文字通り新京の統制に従わない存在です。仮に政府が選択を迫ったとしても」
「そのような住民は保護しなくても良い…というわけにはいかんしな」
小畑はこめかみに手を当てた。仮に不法移民の存在を無視した作戦計画を立てたとしても、戦後の責任追及は免れない。相手は尼港事件を始め数多の虐殺や略奪を繰り返してきた赤軍である。そのような事態が発生した場合、内地の有権者やマスコミはこぞって責任追及を始めるだろう。ロシア畑としてシベリア出兵への世間や軍内部からの風当たりの強さを経験してきた小畑には思い出したくもないことだ。
「それでもリスクは少ないほうがいい。国籍法を厳格に適用し、不法移民を追放。あるいは強制送還する。少なくとも内地や半島からの出身者には、避難計画の周知と合わせて徹底させるしかあるまい」
「しかしそれでは満洲開拓に支障をきたします。単純労働力ですら不足気味の状況が続いている中、満洲における独自の食料自給率向上は急務であります。いつまでも日本からの支援を頼りというわけにも」
「片倉少佐の懸念も尤もだが、だからといってほかにやりようはあるまい」
「そもそも満蒙国境などあってないようなものだからな」と小畑は腕を組んで振り返る。背後の黒板には満洲を中心とした地図が貼られ、周辺情勢などがびっしりと書き込まれている。朝鮮半島の根元であり、中華民国、ソビエト連邦、およびソビエトの強い影響下にあるモンゴルと国境を接しているのが満洲だ。北京とは目と鼻の先のこの地域を日本が事実上の傀儡としたことで、日本はソビエトとアムール川を通じて多くの国境未確定を抱えることになった。延々と広がる草原地帯や砂漠が続くばかりの満蒙国境など、あってないようなもの。これでは国境紛争が発生しないほうがおかしいのだ。
「先制攻撃は政治的にも軍事的にも難しい。しかし防御に徹していては、むざむざ第二の尼港事件を引き起こすようなもの」
小畑の独り言のような発言に、植田大将が苦々しい表情で頷く。関東軍司令官は満洲国王とあだ名され、満洲事変以前の現地の外交官や軍人との対立を緩和するために大使や長官を兼職したが、実際には政治的な自由など存在しない。むしろ東京の顔色を窺い、内部の統制に苦労するばかりで労多く益がない。前任の南(次郎)退役陸軍大将はそれでも生来の呑気さもあってか国王として君臨したが、植田は自分が南のようになれるとも、まして朝鮮軍司令官時代の林元帥のように振る舞えるとも考えていなかった。しかしそれでも現役である以上、全力で職責を全うするという腹はくくっていた。
「難しいからこそ、やりがいがあるというものですよ」
辻少佐のこれみよがしな独り言に、植田大将は髭を捻るのではなく、胃の腑をおさえた。
*
この数年のうちに-少なくとも東京夏季五輪までには、新京の人口は40万を突破することが確実視されていると聞いた。しかし一歩、市街地の外に出れば、そこには荒涼とした大地がどこまでも続くばかりである。旧清朝皇族である主人と結婚し、初めて満洲を訪れた私は、失礼ながら「人の住む場所ではない」と思ったものだ。延々と地平線のかなたまで続いているかのような石と砂漠。その中に忽然と現れる近代的な都市が、この国の歪さを体現している。
この国-私はまだ満洲を自分の故郷と思うことが出来ない。
政治的な必要性や建国の理念という理屈は理解しているし、覚悟はあるつもりだ。しかしどこか心の奥底では他人事なのだ。幸いにして主人は良い人であり、子宝にも恵まれた。そして女子を続けて2人出産した私に向けられる視線は、極めて冷ややかなものである。仮に男子であってもそれは変わらなかっただろう。皇帝陛下-主人の兄にはまだ嫡出の親王がいない。日本と満洲…いや、満洲と日本の帝室の結び付きをなんとか強めたいとする関東軍の将校連中は「男子を産め」と公然と口にした。そして日本との関係強化を喜ばない保守派の満洲人の皇族や官僚は「女子でよかった」と秘密裏に祝杯を上げていたという。「こちらの水に体が合うまで気をつけてください」という忠告の真意に、毒殺への警告だと気が付いた時、私は慄然とした。皇帝陛下の御心は誰にもわからない。娘達の誕生を素直に喜んでくれたのは、主人と工藤(忠)、そして先の忠告をしてくれた豆腐先生ぐらいのものである。
嵯峨の父上は、この結婚は「日本の為だ」と私を説得した。満洲は日本の生命線、満洲にこそ日本の将来と未来がある-さんざん日本で聞かされたこの標語も、この国の実情を見た私にはつまらない言葉遊びにしか聞こえない。私がそうであるように、日本人は結局のところ満洲人を信じておらず、満洲人は日本人をどこか冷ややかに見ている。それ以外の少数民族、白系ロシア人やユダヤ人にはこの国を利用しようとするばかりで帰属意識などない。国家としての理想であるはずの五族協和は言葉ばかりだ。日本の資本と官僚、そして軍事力に頼り切ったこの国の繁栄がいつまで続くのか。砂漠の中の蜃気楼のように、いつかは消えてしまう泡沫の幻ではないのか。
そのような取留めもない考えにふけっていると、ぐずる娘達を乳母があやす声が聞こえてきた。例えこの国が泡沫の幻のような存在であったとしても、娘達には罪はない。国を追われた白系ロシア人やユダヤ人には忠誠心はなくとも、この国に居場所を見つけている。何より義兄上-皇帝陛下自身には「皇帝」としての居場所が必要であったと、亡くなった鄭総理(鄭孝胥・前満洲総理)は語っていたという。治めるべき国のない皇帝。それがどれほど惨めな境遇であったかは、血を分けた兄弟であるはずの主人にも理解出来ないという。ひょっとすると陛下御自身も理解しておられないかもしれない。陛下を始め、そうした多くの人間の思惑と野望と野心が絡み合い、寄木細工のようにして出来上がったものが、この国だ。そしてこの国を新天地と信じて、今もなお内地や半島から多くの人間が流入してきている。
「統一した政府がある、まともな裁判を受ける権利がある、理由もなく税を徴収されない。そしてなにより理由もなく殺されることがない。このありがたさは日本人である貴女にはわからないでしょうな」
いつものように「ご機嫌伺い」という名目で茶を飲むために我が家を訪問した張景恵総理は、自らの薄い頭を撫でながら、私の緊張を解すかのように笑って見せた。清朝末期の混迷した時代に東三省の数ある武装自警団という名の馬賊から頭角を現し、中華民国の陸軍総長にまで上り詰めた御仁である。もっとも今の茫洋とした風貌からは想像が出来ない。それと同様に、この老人の語る清朝末期の治安と秩序の崩壊した世界は、華族として乳母日傘で育てられてきた私には想像すら出来ない。張総理の淡々とした口調が、私には逆に恐ろしく感じられたものだ。
「まぁ、よくある話ですよ。清朝のまともな軍は義和団事件(1900年)で消滅してしまいましたからな。その後は北洋軍閥を頼るしかなかったわけです。その後はもうなんでもありですな。我が義兄弟の張作霖と私は、東三省の総督として着任した趙爾巽先生に帰順して、革命軍という名のテロリストと戦いました」
総理には悪いと思いながらも、私は呆れて言葉も出なかった。馬賊を政府軍に組み入れる。それでは沖仲仕を税関職員にするようなものではないか。私の困惑を見てとったのか、豆腐先生は「褒められた話ではないでしょうな」とあっさり頷く。この人はいかにも淡白であり、自分の意見にすらこだわりがないように見える。豆腐先生とはいいえて妙だ。
「無政府状態よりも、馬賊の支配するほうがよいと趙先生は判断されたのでしょう。ちょうど日露戦争の時期です。帝政ロシアと日本軍が東三省を舞台に戦争を繰り広げている中、他に治安を維持するためには手段はなかったのです。それに漢の高祖も元をたどればゴロツキの親玉だったそうですしな。馬賊が中原の覇権を握って何が悪い。張作霖は酒を飲むたびによく言っていましたよ」
私はそれには答えず曖昧に笑ってみせるしかない。確かにその言葉の通り、張作霖と豆腐先生は天下を獲った。袁世凱死後の北京政府において奉天派を率いて巧妙に立ち回り、自分を除く全ての軍閥が疲弊したあとに北京に入り、中華民国大総統と大元帥への就任を宣言した。豆腐先生は陸軍総長-事実上の軍のトップに上り詰める。しかしその頃には南京国民政府が北伐を進めており、彼の天下は長く続かなかった。満洲利権をめぐり張作霖と対立した関東軍は彼を爆殺し、その息子は蒋介石と組んだが、満洲事変により追放された。豆腐先生の義兄弟を殺したのは関東軍なのだ。
「総理は、日本を恨んではいないのですか」
「……随分と直截な聴き方をされますなぁ」
質問してから私はしまったと、自分の迂闊さに臍をかんだ。しかし張作霖とともに列車ごと吹き飛ばされて重傷を負ったという豆腐先生は、困ったように笑うだけであった。たしかにそうしていると豆腐屋の親父にしか見えない。
豆腐先生のあだ名の由来は、総理の実家が豆腐屋であったからと聞いた。仮に東三省の治安が安定していれば、彼は馬賊にならずに家業を相続し、毎日商売に励んでいたかもしれない。しかし彼は馬賊となり、張作霖の義理兄弟として清朝の武官となり、北京政府に主を代え、張作霖と共に天下を目指した。彼の死とともに張学良に仕え、南京政府に帰順。満洲事変が発生すると、関東軍とのパイプを使い要職を歴任。鄭孝胥前総理が関東軍と対立して更迭されるに従い、ついには一国の総理にまで上り詰めた。
豆腐はよほど使い方を間違えなければ、大方の食材と合わせることが出来る。そう考えるとなんと嫌味な渾名だろうか。そして当の本人は、私に気を使わせないためか、何も気にしていないかのように振舞う。
「豆腐屋の息子が何もせずに総理に上り詰めたのですからな。殺されかけたのと差し引きすれば、おつりが出るかもしれませんな」
「何もしていないということはないでしょう」
私は言葉では否定しながらも、確かに何もしていないという総理批判は、政治から意図的に遠ざけられている私の耳にすら聞こえてくる。「好好先生」-日本風に言うなら、さようせい様と呼ぶべきか。日本にも厳しいことを言いながら自主路線を目指した前任者とは違い、総理が関東軍と対立したという話はまるで聞かない。清朝から北京政府、南京政府に満洲国政府と主を変えてきたことも、この老人の自主性のなさの顕れのように受け取られている。しかし張総理は「それでいいのですよ」と顔の前で右手を振った。
「何もしないのが私の仕事ですからな。決定するのは日本人の仕事、判を捺すのは私の仕事、実行するのは日本人の仕事…いや何、嫌味や皮肉で言っているわけではありません。給与を支払っても碌に働かない連中が多いこの国では、給与分はしっかりと働く日本人は貴重です。それにソビエトとの最前線で、主導権争いをしている暇などありません」
周辺を仮想敵国に囲まれた中では、日本の支援がなければこの国は立ち行かない。ソビエトの名前を出した張総理の表情は真剣であり、嘘偽りを言っているようには私には思えなかった。
「御自身が軽く見られてもよろしいのですか?」
「軽くもなにも、私は張作霖がいなければ馬賊で終わった人間ですからな。一時とは言え北京の陸軍総長にまで上り詰めました。東三省へ帰還して捲土重来を期することはかないませんでしたが、それでも私にとっては十分過ぎるかもしれませんが」
張作霖なくして張景恵なし。しかしそれは逆もまたしかりなのだという。切れ者だが人望に欠ける張作霖を、茫洋とした豆腐先生が補佐していた。「仮に張作霖がいなくとも、張景恵はそれなりの地位に上り詰めていただろう」とは主人の評価だ。
「しかし彼が死んだからこそ、わかったこともあります…私はね、この土地を愛しているのですよ」
「それは、愛国心という意味ですか、それとも帝室への忠誠心という意味でしょうか?」
「日本が作り上げた満洲国がどうなろうと、私の知ったことではありません」
豆腐先生の言葉に私は思わず叫びそうになり、慌てて開きかけた口を抑えて周囲を窺った。鄭孝胥先生どころの騒ぎではない。彼の真意はわからないが、少なくともそのような発言を誰かに聞かれただけでも更迭は免れない。それに仮にも一国の総理が、自らの国をどうなろうと構わないと発言することなど、あってはならないことだ。そんな私の動揺が面白かったのか、豆腐先生は声を上げて笑った。
「何も難しいことではありません。製造者が関東軍であれば、後始末の責任も関東軍でしょう」
「それはたしかにそうかもしれませんが、では何故、総理を引き受けられたのですか。私が言うのもなんですし、総理の私ども夫婦への御好意には感謝しておりますが、仮にも一国の政治の責任者の発言としては、あまりにも無責任では」
「……私はこの国は愛していませんが、この土地は愛しています。私の生まれ育った土地ですからな」
呟くように漏らした総理に、私は自分自身の浅はかな考えに恥じ入り、顔を伏せてしまった。荒涼とした大地が延々と続き、まともな産業がなく治安を維持するのが難しい社会であったとしても、ここには人の営みがあるのだ。それを無視して白紙の地図に線を引くように国境を引いた関東軍への怒りが、豆腐先生の言葉には感じられた。
しかし同時に私は「日本人」として、どうにも釈然としない思いが湧き上がるのを感じていた。確かにこの土地で生まれ育った住民には悲劇であったのかもしれない。それでも日露戦役で血を流したのは私の祖国である日本人の兵士なのだ。彼らが今、満洲を故郷と出来るのは、日本海で、黄海で、旅順で、奉天で屍を晒した同胞の犠牲があるからだ。関東軍の鼻持ちならない傲慢さには私もうんざりしていたが、豆腐先生の独白に私は素直に同意することは出来なかった。
「張作霖は死にました。私が天下を獲ろうと誓った義理兄弟は死んだのです」
言いたいことはあったが、そこで張作霖の名前を出されては私は何も言えない。黙り込んだ私の顔を窺うように覗きこんで苦笑すると、張総理は続けた。北京から撤退する特別列車の中、張作霖は部下達に北京への復権への意欲を饒舌に語り、満洲に帰ればなんとかなる。日本や欧米の協力を得て必ず復権すると繰り返していたという。しかし他の側近が下がり、張総理と二人きりになると、その本音を語ったという。
「あの特別列車の中で、彼は言ってました。故郷に帰りたいと。あの岩と砂ばかりの何もない荒涼とした大地が恋しいとね。その時の私は、なんと女々しいことを言うのだと彼を怒ったものですが、あれは何も言わずに笑うばかりでした…そして彼が死んで、私も吹き飛ばされました。ですが再び故郷の風景を見た時、私は何故かあれの言葉を思い出してしまいました」
豆腐総理は一旦言葉を止め、茶を喫した。馬賊出身でありながら礼儀作法はしっかりしていると関東軍の将校は口さがなく噂していたが、私の目の前にいる人はどこにでもいる仕事に疲れた市井の老人に見えた。そして安手の白茶碗の中に視線を落としながら、豆腐先生は、その真意を続けた。
「満洲国民など永遠に生まれることはないでしょう。ですが私はこの土地で生まれ、育ちました。その将来には無関心ではいられません。たとえこの国がどうなろうとも、故郷を守るためならば、私は変節奸にでも売国奴にでもなってみせましょう」
「張作霖先生の意思を受け継ごうというわけですか?」
私の問いかけに、豆腐先生は「私はそこまでうぬぼれてはいません」と笑みを見せた。なぜかそれが私には、なんとも寂しいものに見えた。天下を獲ろうと誓った盟友は死に、夢は頓挫した。人生の終わりにこの老人は何を成そうというのか。
「私も所詮、地位と自分の財産が惜しい俗物です。ですが俗物だからこそ、売国奴だからこそ出来ることもある。そう思わねば、関東軍の下請けなどやっていられませんよ」
「……何故それを私に言うのです?日本に告げ口するかもしれませんよ」
「さて、どこまで本気だと?ひょっとするとただの老人の自己弁護でしかないかもしれませんよ」
そういうと豆腐先生は三度苦笑してみせる。豆腐は味がないという人がいるが、豆腐は豆腐の味がしっかりとあるものだ。無いようで確かにある。誰がつけたか知らないが、豆腐先生とはつくづく因果な渾名である。そして張総理は茶碗の中身を飲み干すと、立ち上がりながら続けた。
「おそらく貴女には、ここではない故郷があるのでしょう。だからこんなに饒舌になってしまったのかもしれませんな」
帰るべき故郷という言葉に、私の脳裏に浮かんだのは嵯峨の家ではなく、主人と娘達の顔であった。
- 『嵯峨浩日記』 -
*
- 林総理『満洲国との同盟関係は不変』と宣言。満蒙防衛への日本の関与を強調 -
満洲日日新聞は来満中の林銑十郎首相に単独インタビューを行った。林首相は張総理との首脳会談により、両国の政治経済面での関係強化と、軍事連携の強化に合意したと語った。また林首相は「満洲防衛への日本の積極的な関与」を繰り返し発言し、日本は防衛義務を果たすとして「満洲への侵略は日本への侵略行為である」と明言した。インタビュー詳細は以下の通り(敬称略)。
(中略)
(記者):日本国内では満洲国の外交安全保障政策に関して「安保ただ乗り」という意見があると聞きました。満洲防衛に関する日本側の負担ばかりが大きく満洲国は相応の負担をしていないのではないかという批判です。閣下のお考えについてお聞かせください。
林総理:愚問ですな。日満議定書により日本と貴国は同盟関係を締結しました。軍事的側面のない同盟など、空証文に過ぎません。そもそも建国間もない貴国とわが国の国力には圧倒的な差があるわけです。完全に対等な国力の国家などありえません。かつての日英同盟がそうでしたが、日本は英国に頼りきっていたわけでも、英国は日本を臣下のように扱ったわけでもありません。
(記者):英日同盟と満日関係を同一にみなすのはさすがに無理があるのではありませんか?
林総理:そのようなことはありません。国力に差があったとしても貴国は独立国でありわが日本の同盟国であります。この点は何の違いもありません。確かに日本は貴国と集団防衛の関係に入ったわけでありますが、それは貴国を傘下としたわけではありません。あくまで独立国である貴国の同盟国として、日本は条約を締結したわけです。確かに満蒙に関する日本の権益はありますが、そのために同盟関係を結び、一方的に防衛義務負担を負うことなどありえません。
*
私は憤慨しながら会議室から出た。その日の会議は私にとって非常に不本意なものであった。現場を知らない中央の高官が、一方的に結論を押し付けるために、現状を無視して理屈をこねているようにしか思えなかったからである。そもそも昭和8年作戦計画の根幹である両要塞も鉄道も完成していないのに、内線作戦が出来るわけがあろうか。子供が考えてもわかる理屈である。文句があるなら予算のひとつでもつけろと言ってやればよかった。
普段の饒舌さはどこへいったのか。蛇に睨まれた蛙のように黙り込んでいた服部主任参謀にあきれつつ、嫌味のひとつでもぶつけてやろうかと考えていると、見慣れぬ顔が声をかけてきた。これが三吉少佐といい、あの忌々しい中央からやってきた旧真崎派の残党である小畑の副官だという。何用かと聞けば小畑次長がお呼びだという。私は士官学校教官時代に真崎大将と因縁があるだけに警戒したが、相手はエリート中のエリート。私は一介の少佐に過ぎない。そもそも大将だろうが中将だろうが間違っているものは間違っているのだと開き直り「連れて行け」と命令した。
小畑中将の部屋に立つと、私はわざと殴るようにドアをこぶしで殴りつけた。三吉少佐は顔を青くしていたが知ったことではない。入室を許可され、さてどうやってやり込めてやろうかと考えていた私の目に、ここ最近、新聞でよく目にする禿頭のカイゼル髭がソファーに据わっているのが目に入った。
「貴官が辻少佐か」
こんなふざけたなりをした軍の高官といえば、植田大将をのぞけば、私の故郷である石川の大先輩である林銑十郎しかいない。
小畑閣下が仏頂面で林大将の後ろに立ち尽くしており、こちらを冷ややかに見つめているのを見て、私の反骨精神に再び火がついた。小畑め、首相を引きずり出せば私が黙ると思ったかと、その時の私はそれぐらいにしか考えていなかった。私は権威を振りかざすのは大好きだが、相手が権威を振り回すのは大嫌いなのだ。エリートだの何だのといわれながらも、これはどうしようもない私の業である。
掛けたまえと林大将が言うので、机をはさんで林大将の対面に深く腰を掛ける。小畑中将の仏頂面は代わらなかったが、林大将は顔を引きつらせながら苦笑いのようなものを浮かべて見せた。やはり噂どおりの肝っ玉の小さな男であると私が考えていると、林大将は小脇に挟んだ鞄から10枚ほどの紙の束を取り出して机の上においた。極秘の赤判がこれ見よがしに押されたそれのタイトルに、私は見覚えがなかった。
「失礼ながら閣下、何ですかこれは」
「何だと思う?」
「拝見してもよろしいので」
ふざけた問い返しを無視すると、林大将は軽々しいまでの重々しさを装って頷く。満蒙国境に関する対処要綱参考資料。関東軍作戦参謀である私が見た記憶のない表題ということは、これは中央の書いたもの。少しでもふざけた内容があれば論破してくれると表紙を開いた私は、その内容に絶句した。
たっぷり20分近くを費やして中身を熟読し終えた私が顔を上げると、そこには入室したときと変わらず林大将が髭をねじっていた。
「そういうわけだ……協力してくれるね、辻少佐」
これには私も黙って頷くしかなかった。
- 辻政信著『敵中横断三千里』より -
・白黒はっきりさせる小畑さん。まあ組織じゃ嫌われるタイプですよ。
・荒木大将はなんかこう、残念なんだよねえ…高橋蔵相相手じゃ誰がやっても分が悪いとは思うけど。
・上海天長節爆弾事件で左足を吹っ飛ばされたのが植田謙吉、右足を切断したのが重光葵、右目を失明したのが野村吉三郎退役海軍大将。死去したのが白川義則。錚々たる面々で、一歩間違ったら昭和初期の政治史どうなっていたか、良くも悪くもわからない。
・辻政信。キ○ガイ…とだけ簡単に切って捨てられたら楽なんだけど。自己表現(自己弁護)はむちゃくちゃうまいから新聞記者受け抜群。同様に悪評プンプン。行動力抜群なのは否定できないけど…
・なおこの世界線では『敵中横断三千里』のタイトルで、辻は山中峯太郎に訴えられましたという使いどころのないネタまで考えています。といいますか『敵中横断三百里』を明らかに意識してつけてるよなあ。『潜行三千里』って。出版社がタイトルつけたのかもしれないけど。
・豆腐先生。どうしてこうなった(おい)