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何も銑十郎元帥  作者: 神山
昭和13年 / 1938年 / 紀元二千五百九十八年
31/59

京城日報・取材メモ / 林銑十郎首相の朝鮮総督府における訓示 / 京畿道京城府 朝鮮総督府庁舎 /『尹致昊日記』 / 半島ホテル(1938年9月)

『キリストは最高の個性主義者であった。それだけではなく、史上最初の個性主義者であった』


オスカー・ワイルド(1854-1900)


- 南次郎朝鮮総督の着任会見速記おこし(京城日報取材メモ) -


(中略)朝鮮統治の精神、綱領とする所は 畏くも併合の 聖詔に由来して、廟謨早く既に定まり、歴代為政の局に膺る者、皆此の御趣旨を奉体し、不動の信念を以て最善の努力を竭し来ったことは申すまでもない所である。其の結果として、内鮮の融和、官民の一致協力以て諸事態は著々と改善され、始政以来僅に二十有五年にして、内外の斉しく驚異とする程の発達を遂げて今日あるを見るに至ったのであります。


(←注意書き)統治ノ基本ヲ確認、歴代総督ノ成果ヲ強調

内鮮融和→前宇垣総督ヨリ、官民一致協力→挙国一致体制?総動員体制確立ノ事カ


 然るに現下世界の情勢は利害の錯綜甚しく不測の禍機に充満し、東亜の事態も亦幾多の難問題を数えて容易ならざるものあり、此の環境に処する帝国の立場も従って亦重大且困難を加えて来たことは諸君の知らるる通りである。


(←書き込みあり)満洲事変?国際的孤立、現下ノ国際情勢

総督トシテノ職権逸脱?否、客観情勢ヲ述ベタルノミ


 即ち東亜に於ける唯一の安定勢力を保有する国家国民として内に大に物心両面に亘っての国力を培養し、外、敢然平和維持の任に当るの決意を以て挙国の緊張と努力を要するの時期であって、特に益重要その度を加えつつある日満の不可分関係に徴し、広義国防の意義に鑑みるも、我が朝鮮として荷うべき使命亦少なからざるものあるは明かであります。


(←書き込みあり)日満一帯論ト朝鮮半島ノ位置付ヲ確認

(付箋)南大将ノ前職ハ関東軍司令官兼駐満満洲大使

予備役入-同年(1936年)4月22日、総督着任ハ8月5日-粛軍人事?

前任総督ハ宇垣一成退役大将⇒駐英大使。玉突人事?要確認


 幸にして前総督宇垣閣下の在任せられたる時期に於て、或は資源の開発、増殖に、或は農山漁村の更生に、或は又教育の拡充、国民精神の作興等、各般の諸政策に亘って異常の成績を挙揚せられましたことは洵に同慶に堪えざる所でありまして、私としては之等重要方針を継ぐのみならず、更に推移して休まぬ時勢の要求に処し、民利の向上と国力の増進を目途として、不言実行、去華就実の信条を本とし、統治終局の理想に邁往して報効の誠を傾尽するの覚悟であります。


(注意書き・赤のマーカーライン多数)

南次郎=宇垣派ニ在ラズ。

サレド荒木・真崎一派ニモ在ラズ。陸軍主流派ノ代弁者ナリ

前任者ノ成果ト方針継続ヲ強調。特ニ其以上ノ意味無シ?


 唯短才不徳、此の重責に膺り庶政の伸展を期する上に於て、諸君の協力を深く期待するものであります。執務上の事に関しては、現前施政上の美果が諸君の誠心あり、能率ある働きを立証するものなることを念い、敢て絮言を差控えますが、唯だ官公吏として何人に於ても必要なるは忠直、廉潔自らを持するの信念、態度と、時局に処する国民的時務の重点を識り、身を以て難事に当らんとするの気魄とであって、今日飛躍興隆の途上に在る日本国家は痛切に官公吏の自奮自重を要求しつつあるのであります。


 諸君は全鮮官公機関の風潮を此に導き信念と機構とを強化するに就て、不断の工夫を凝らさるる様希望致すのであります。茲に就任の初に当り所見の一端として、諸君の留意に供し、挨拶に代える次第であります。


詰ル所、着任挨拶(特ニ目新シイ方針無シカ?)



 朝鮮は満洲国と内地を繋ぐ、地政学的に重要な位置にあります。


 かつて大陸進出を目指した太閤・豊臣秀吉は、大陸進出への足がかりとして朝鮮に軍を送り込みました。ですが一時的に半島全土を手中に収めたものの、結果的に2度の出兵でも半島南部を維持するに留まりました。仮に太閤の出兵が成功していれば、ひょっとすると日本の首都は京ではなく名護屋か博多にでも移されていたかもしれません。ちょうど大英帝国の首都が大陸に近いロンドンにあるようにです。私としては旧大内氏の城下町たる山口ではないかとも考えますが、ま、これは一種の仮定の話でありますので、この位にしておきましょう。


 現在、満洲は我が帝国の同盟国として北方のソビエト、および内戦の再開した支那と対峙しています。朝鮮の地政学的重要性は高まりつつあります。


 太閤秀吉の失敗の原因は、統治政策の軽視と兵站確保の失敗。後方支援基地を支えるはずだった朝鮮の国力そのものが、あまりにも貧弱であったことに起因しています。軍事物資を現地で購入しようにも貨幣経済が未発達であり、儒教を国教とした李氏朝鮮の歴代政権は商業を賎業として扱ってきました。故に必要最低限の自給自足のための生産しか行われておらず、余剰物資の現地購入など不可能でした。


 また半島内の交通網は北からの軍事的脅威に備えるために、特に朝鮮北部では意図的に未整備とされていました。北部朝鮮では東の山岳地帯を除けばほとんどが平野であります。京城まで障害となるものは、ほとんどありません。現代の-特に内地の日本人からすれば馬鹿馬鹿しい限りではありますが、陸続きで大陸と接してきた半島の政権にとっては苦肉の策だったのでしょう。まして彼らにとっては秀吉以来、日本は長年の仮想敵国でもありました。


 日清(1894-95)、日露(1904-05)の両戦役でも、帝国陸軍はこの半島の貧しさに苦しめられました。故に半島併合以来、総督府は朝鮮の経済振興と教育拡充に尽力し、人心の収攬と国力増強に努めてきたわけであります。また鉄道網を整備することで朝鮮北部、および東三省への軍の展開は、日清当時に比べますと明らかに円滑に行われるようになりました……不詳、この林銑十郎が朝鮮軍司令官時代として経験したことなので間違いありません(笑)。


 つまり我らが真に恐れるべきはソビエト赤軍でも国民党でも、まして中国共産党でもありません。夫唱婦随は言うは易く行うは難し……諸君も家庭では奥方との関係には苦労していることと察します(笑)。何を隠そう、この私もそうでありますので(爆笑)


 ……内鮮一体の難しさは諸君は十分に承知の事とは思います。相手に自分の意見を押し付けるばかりでは、夫婦関係はいずれ破綻することは必至であります。しかし夫婦とは違い、内地と半島は必ずしも対等というわけでもない。この兼ね合いが実に難しい……しかしどれほど困難であろうとも、満洲という同盟国がある限りは、後方支援基地である半島の安定は、是が非でも必要なのであります。


- 昭和13年(1938年)9月12日 林銑十郎総理の朝鮮総督府における訓示より抜粋 -



 大分県(旧国の豊後にほぼ相当)というのは、九州の中でも特異な地位にある。


 源頼朝以来続いた名門の大友氏の改易後、この地は豊臣政権によって多くが直轄地となり、これを相続した徳川幕府も大領を有した大名を設置しなかったため、小藩の譜代と天領が乱立した。小藩が乱立したのは日向(宮崎県)も同じだが、特に豊後は日向の内藤氏や豊前の小笠原氏のような比較的有力な譜代大名も置かれず、幕府の直轄地のように扱われていた。そのためか大分県というのは「北九州(福岡・佐賀・長崎)と南九州(鹿児島・宮崎・熊本)、そして大分」「九州人は大分を除く」という、なんとも奇妙な扱いであるらしい。経済的には愛媛や広島といった瀬戸内海に隣接する地域と関係が深く、文化的にはむしろ中央に近いというのだからややこしい。


 南次郎(陸士6期・陸大17期)は、その大分県出身である。素行不良と数学の成績により停学処分になったことを契機として一念発起。陸軍幼年学校に入学した。彼の若い頃の写真を見ればさもありなんという顔をしているが、やんちゃな少年は年月と経験を重ねることで田舎の貧乏寺の和尚のような顔つきへと変わった。


 その南次郎が騎兵科出身といわれても、にわかには信じがたいかもしれない。だがれっきとした事実だ。


 騎兵科は一学年が100から120程度の中では20人未満。南の場合(陸大第17期)では12人だ。つまり全員が顔馴染みである。そして騎兵科のポストは目の色を変えて争わずとも配分されるために、他兵科に比べて結束が強く、出世競争のために他兵科と争う必要もない。自然と先輩後輩の関係性も強固になる。


 この陸軍全体に広がる独自の騎兵科人脈と、南自身の(あくまで軍人としては)温厚な人柄を見込んで、宇垣一成は後任の陸相に指名した。満洲事変という国際的にも、国内的にも大きな転換点の陸軍大臣としては必ずしも成功したとは言い難いのだが、極端な失敗をしたというわけでもない。彼の後任である荒木貞夫と比べれば、陸軍主流派の意見を閣内で代弁するという役割は果たしたといえる。


 その南は昭和11年(1936年)8月以来、京畿道京城府の総督府庁舎を職場としている。第7代朝鮮総督としての職務だ。そして前任者はまたもや宇垣一成なのだが、誰かが取り計らったわけではない。口さがない者は「陸軍中央が2・26事件と粛軍で混乱する中、候補者は南ぐらいしかいなかったからだ」と噂したが、あながち間違いとも言い切れない。


 陸軍において朝鮮半島はもともと陸軍の管轄であるという意識が強い。歴代総督は海軍の斎藤実を除けば、全てが陸軍大将経験者である。単なる行政官以上の政治的な判断が求められる同職は、陸軍においてもほかの役職とは一線を画していた。


 総督府庁舎はかつての大韓帝国の王宮前に建設された鉄筋コンクリート製であり、さながら宮廷を見下ろすかのような威容を誇る。この庁舎の最上階にある最も見晴らしの良い総督府執務室に、南は総理来鮮の歓迎記念式典打ち合わせのために、朝鮮軍司令官や政務総監といった主だった幹部を呼び出していた。


「それじゃ、よろしくたのむよ。それと中村君。すまないが君は残ってくれ」


 会合を終えて大野緑一郎政務総監らが退出する中、南は朝鮮軍司令官の中村孝太郎朝鮮軍司令官(陸士13期・陸大21期)にだけ残るように告げた。何事かといぶかしがる軍の後輩に対して、南は自分のポケットから煙草を取り出すと、自ら勧めた。


「やっ、これは総督自ら、恐縮であります」

「何、かまわんよ。君には苦労をかけているからね。ま、掛けたまえ」


 陸軍において陸軍大将といえば、戦時となれば複数の師団を統括する司令官になることが求められる階級である。にも拘らず南に対する現役の陸軍大将である中村の態度は、必要以上に畏まったものであった。むしろ中村の振る舞いこそが、陸軍内部における南の存在感の裏返しともいえた。


「ところで君は、林君と同じ石川県出身だったね?」

「その通りですが、それが何か?」


 訝しげに尋ね返す中村に対して、南はこの人らしく闊達に笑うと「他意はないのだ」と、自らの顔の前で手を振った。


「いやなに。石川幕府とは上手く例えたものだと思ってね。林君もそうだが、官房長官の阿部君や永井文相も、そして私のお目付け役である君も石川の出身だ」

「総督、私は決してそのようなつもりで」

「冗談だよ、冗談。そう怖い顔をせんでくれ」


 中村に対して南は再び手を振る。


 新聞が新内閣に対して一方的なネーミングをつける風潮は、今に始まったことではない。新政権や総理の政治的なキャラクターを定義したうえで、それをどう表現するか。記者達のセンスが求められる。そして総理と内閣官房長官(発足当時は書記官長)が揃って石川県出身の陸軍軍人であることから、林内閣は「石川幕府」と名づけられた。


 石川県-つまり旧加賀藩は幕末に佐幕派と尊皇派の間で揺れ動き、さしたる中央での影響を発揮出来ずに、ぎりぎりのタイミングで藩論を尊王に統一した。その組織の巨体ゆえの意見集約の難しさではあったが、維新後に石川県出身者が政府においてさしたる要職を務めなかったことは、江戸時代の大藩意識の残る文化大国のプライドを大いに傷つけた。


 そのため林の総理就任は石川県では大歓迎され「非常時ゆえに提灯行列は辞退してもらいたい」という林本人の呼びかけが、逆に水を差すものとして批判される始末であった。


「それがいきなり総理だ。石川県人のプライドを満足させるには十分だっただろう」


 「あるいは君もそうではないのか」と告げた南は、中村が何か発言するよりも前に続けた。


「加賀藩は幕末維新で大した役割を果たせていない、つまり2流の人材だという皮肉だとすると、エスプリが効いているではないか」


 中村は曖昧な笑みを浮かべようとしたが、内心の葛藤もあり失敗した。同郷の出身である林に思うところがないわけではないが、中村個人はそれほど深い関係にあるわけでもない。今の粛軍人事についても思うところはある。


 そんな後輩の態度をとがめるでもなく、南は灰皿で煙草の灰を落とすと、唐突に「君は戦国時代には詳しいかね」と訊ねた。


「一通りの戦史は陸大で学びましたが、生憎詳しいというほどでは」

「それでも私の故郷の大友宗麟の名前ぐらいは知っているだろう。耳川の合戦の引き立て役としてなら」

「ええ。その程度の知識でしたら。キリシタン大名で九州に覇を唱えましたが、最終的には島津に追い詰められた名門ですね」

「結構。ところで戦史を学んだのなら秀吉の朝鮮出兵についても一通り学んだだろう」


 むしろ朝鮮軍司令官として知らなければ怠慢だ。中村は「はい」と頷いた。


「君は、大友宗麟の馬鹿息子が改易された理由を知っているかね?」

「確か前線からの無断撤退でしたか?」


 中村の回答に南は「そうだな」と禿頭を揺らして頷いた。満洲事変当時も閣議の度に井上蔵相や幣原外相に突き上げをくらいながらも、こうしてのらりくらりと追求をかわしていたのだろう。中村にもその光景が想像出来るようであった。


「大友吉統は前線部隊が全滅したものと判断して引き上げたのだが、これが無断撤退と判断されて改易された。源頼朝以来の名門も、最後はあっけないものだ……皮肉なものだとは思わないかね?」

「と申しますと?」

「無断撤退で改易された大友の子孫が、無断越境した将軍に苦しめられる。挙句、それに顎でこき使われている始末だ」


 軍の大先輩である南の度重なる強烈な皮肉に、中村の表情がこわばる。


「閣下、総理は決して閣下を疎かにしているわけではありません」

「冗談だよ冗談」


 「石川県人は真面目で困る」と南は苦笑する。


「……ま、私としてはだ。陸相時代のことを考えれば、これ位の嫌味は言わせてもらいたいというのが本音だな」


 「それだけは君にも理解してもらいたい」と南は、口調だけは軽やかに告げた。満洲事変当時の陸相として、内閣と現地の板ばさみとなった自分には、それぐらいの嫌味は許されるだろうという言い分である。


 それ自体には頷くところも多かったが、中村としては気が気でない。南本人は予備役だからいいかもしれないが、現役の自分としては中央批判に同意したと思われるのは困る。現状でも粛軍人事は継続中なのだ。かといって総督たる南に、直接苦言を呈することも出来ない。朝鮮総督と対立して朝鮮軍司令官の職責が務まるとは思えない。


 煙草を燻らせながら、中村はそのあたりの配慮に欠けるざっくばらんさが、南の南たる所以なのかもしれないと思考を巡らせた。満洲事変における『越境将軍』の言動に辛酸をなめさせられたのは、間違いなく南次郎だ。むしろただの不満で済んでいるだけましなのかもしれない。


 細事にこだわらない大物なのか、これという思想信条がないだけなのか。


 再び沈黙する後輩を尻目に、南はマッチで自らが銜えた2本目の煙草に火をつけながら発言した。


「……正直なところ、私も林君が何を考えているのか、よくわからんのだ」


 茫洋とした風貌からは想像も出来ないが、これでも南次郎は省部の要職を歴任した陸軍の重鎮である。現役を退いたとはいえ陸相経験者であり、関東軍司令官兼満洲大使(関東長官を兼任)という『満洲国王』を経験した人物は彼しかいない。


 南以外にも満洲国王の経験者は2人存在した。武藤信義元帥(陸士3期・陸大13期)と菱刈隆(陸士5期・陸大16期)だ。だが三長官経験者で皇道派(荒木-真崎派)の後ろ盾であった武藤元帥の没後(1933年)、その系列に属していると見られた菱刈も予備役編入となって久しい。


 つまり予備役に編入されたとはいえ今現在-満洲事変後の陸軍主流の意向を、自身の判断で代弁出来る唯一の人物が南だ。


 この南を朝鮮総督としたあたりに、陸軍と政府-すなわち2・26事件後に政権を担う林銑十郎の考えを見ることが出来る。陸軍の代弁者として内鮮一体路線を堅持し、朝鮮半島の権益を死守する。その考えにおいて、今の軍首脳も変わりはないはずだと中村は主張した。


「文治も武断も大して差はない。最終目的とするところは半島の日本化であり安定化だ……しかし林はその日本化に否定的と思えてならんのだ」


 現在の陸軍中央の-つまり林銑十郎の朝鮮半島政策に対する懐疑的な見解を示した南に、中村は息を呑んだ。目の前のこの人物は、自分の発言の意味をどこまで理解しているのか。あるいは自分に対して政治的な同意を求めているのか。


 南は相変わらずのんびりとした口調で、不穏な発言を続ける。


「朝鮮の戦略的な重要性については理解しているはずなのだが、君も知っての通り、内鮮一体については慎重な姿勢を崩そうとしない」


 「最終的にはそこしか着地点がないはずなのだが……」と南は呟いた。なるほど、これは文官に聞かせられる話ではないと、中村は納得した。陸軍内部に半島政策に対する意見の相違が存在すると判断されれば、また内務省や拓務省などの総督文官論に拍車を掛け兼ねない。あるいはまた海軍が総督を押し込んでくる可能性もある。


 韓国併合(1910年)により、日本の国境線は鴨緑江まで北上した。そして投降を拒否した旧大韓帝国軍の一部将校を鎮圧した後、それまでの朝鮮統監府は組織改変されて、現在の朝鮮総督府が設置された。


 そして同じ植民地の行政府である台湾総督府との最大の違いは、朝鮮総督府の職員の多くは、旧大韓帝国政府の「居抜き」であるという点だ。それまで形骸化しながらも存続していた旧大韓帝国の行政組織は、総督府の各組織に組み込まれた。


「朝鮮国王……あぁ、皇帝でしたか。その後継者としての朝鮮総督ですからね」

「それはどうでもよいのだが、畏れ多くも陛下の代理人であるからな」


 南は重々しい口調で続ける。台湾や朝鮮半島は、何れは沖縄や北海道のように組み込まれることが前提とされている。その移行期間の長短こそあれ、あくまで過渡期の行政機構としての総督府という認識であり、南や中村、あるいは陸軍関係者だけではなく日本政府関係者の総意といっても過言ではない。大正期の原敬総理もその1人であり「朝鮮と内地(本土)は同一制度とするべきである」と訓示している。


 こうした後押しを受けて、大正期に旧朝鮮王族と女性皇族が婚姻して以降、「内鮮一体」や「日鮮融和」といった一連の内鮮融和運動は進められたが、同時に日本国内と朝鮮半島では多くの政治的、あるいは経済的な摩擦も生じさせている。


 中村はそれを率直に指摘した。


「安全保障の重要性は国民も理解しています。ですが朝鮮半島を優先する一連の政策への不満も厳然たる事実です。朝鮮半島のコメ農家の経営安定を重視するあまり、東北の支援が後回しになっているという批判。半島の鉄道や港湾施設の事業に金を出すぐらいなら、四国や東北などの内地を優先するべきではないかという意見。そして政治犯に対する対処です」 


 政治的な配慮を理由に半島出身の政治犯の手心が加えられているのではないかという批判は、言論界に存在した。朴烈怪事件では朝鮮半島出身の政治犯の取調べをめぐり、政府の対応が手ぬるいと批判された。


 確かに今の朝鮮半島を見れば『転向』した人物の新聞業界や財界への復帰が相次いでいる。呂運亨(朝鮮中央日報社社長)や、尹致昊(朝鮮体育会会長)などが代表例だが、特に呂社長に関しては共産党に関係した政治犯だ。反共主義者はこの点を厳しく批判している。


「転向した政治犯の優遇策は半島の政治犯に限ったことではない」


 南は淡々とした、しかし確固たる口調で反論した。


「田中清玄や水野などの例もある。一種のアリバイ作り、つまり日本の寛大さを示しながら内部分裂を誘うという手ではあるが、実際に日本コミンテルンは佐野学などの転向が相次いで壊滅状態になったではないか。朝鮮の政治犯に限って優遇している事実など存在しない」

「しかし半島出身者は約2000万あまりですぞ」

「……貴官は半島出身者全員を過激派扱いするというのかね?」


 一転して南が向けた鋭い視線に、中村は慌てて「真意ではない」と否定する。朝鮮総督として、中村が先ほど発言した内容や考えは受け入れられるものではない。


 南は煙草の煙を吐き出しながら、朝鮮軍司令官の顔を見据えつつ、改めて太い釘を刺した。


「君も朝鮮軍司令官という要職にある身だ。先のような満蘇国境での武力衝突が発生すれば、君が後詰として指揮することになる。日本式に改名した半島出身者も増えた。無用な誤解と差別主義者のレッテルを貼られたくなければ、発言には気をつけたまえ」

「……肝に銘じます」


 冷や汗をかきながら、中村は南の指摘していた疑念に思いが至った。


「確かに、今の中央の振る舞いは妙ではあります。意図的に内鮮一体を遅らせるような意図すら感じさせます」

「遅かれ早かれやらなければならないことだ。最善ではないが次善ではある。そのための内鮮一体化なのだがな」


 宇垣一成前総督の内鮮融和運動(朝鮮同化策)をさらに強固に推し進める為に、南は『内鮮一体』を新たな政治スローガンとして推進しようとしていた。内地と朝鮮という区別をなくし、朝鮮出身者を完全な日本臣民とするために朝鮮教育令を段階的に改正しようというものであったが、他ならぬ中央から時期尚早と予算面での課題を理由に「待った」が掛けられている。


「君も聞いているだろう、今度の随行員にあの坊主が参加していることを」

「東洋経済新報の石橋湛山社長ですね」


 金解禁論争で論陣を張った経済評論家として著名な石橋湛山は、同じく植民地放棄論者として知られている。満洲事変にも一貫して否定的な姿勢を崩していない。その彼が総理の満洲訪問に随行するというのだ。南の顔も曇るというものであり、総理にいらぬ入れ知恵をしたのではないかという疑念を持つには十分であった。


 南の反応が特異というわけではない。中村としても自分の職務が軽視されているようで面白くはないし、石橋の同行は朝鮮と満洲政策に関わる軍人や官僚を大いに刺激している。植民地研究の第一人者である矢内原教授が参加しているとはいえ、陸軍の意見と矢内原教授の持論は一致しない点も多い。


 ところが陸軍内部からは、表立った批判や反発の声は聞こえてこない。


「陸相臨時代理が阿部など、宇垣閣下時代には考えられぬことだ」

「5年前ならそれだけで内閣が吹っ飛ぶ案件です」


 中村がハンカチで汗を吹きながら頷いた。


 かつて陸軍大臣の宇垣一成が病気療養のため、陸相臨時代理が問題になった。この時の民政党内閣は、海軍軍縮条約の全権としてロンドンに発った財部彪海相の臨時代理に浜口雄幸首相が事務取扱という形で兼任した前例を陸軍にも適用しようとしたが、宇垣は自分の辞任もちらつかせて強硬に抵抗。阿部信行陸軍次官を臨時代理に押し込んだ。「陸軍人事に他者の介在を許さず」という組織防衛が徹底していた。


 ところが今回の林総理(陸相と外相兼任)の訪満では、総理臨時代理ばかりが問題となり、外相や陸相も阿部が兼任することは話題にもならない。奇しくも同じ阿部が登場人物として登場しているが、いくら予備役陸軍大将とはいえ、この前例を許せば官房長官であれば陸相の臨時代理も可能ということになる。


 つまり内閣官房による陸軍人事への介入の先例となりかねない。にも拘らず表立った反対論が出ない理由を、南が推理してみせる。


「そこが林君の嫌なところだ。政友会の三土内相や海軍の米内大将が臨時代理であれば、当然誰が陸相と外相を兼任するのかと政治問題化しただろう。それを総理臨時代理に『矮小化』してしまった」

「褒めておられるのか、貶しておられるのかわかりませんが」

「その両方だな」


 これでもこの大分県人には最大の配慮なのだろう。陸軍大臣として現地軍や参謀本部の突き上げに苦労した南には、含むところがあるらしい。


「今回の訪問には参謀次長の小畑までついて来ている。対ソ戦略の再構築ということだが、あれでは参謀本部は三宅坂のオマケではないか」


 三長官体制が聞いて呆れると南は毒づいた。今の参謀総長(寺内寿一)を陸大教官として絞り上げたのは、他ならぬ南その人である。


 なぜ自分がこのような事を言わねばならないのかと悲嘆にくれながらも、中村は緊張した口調で言葉を選びながら言う。


「統制強化という点では、総理の対応は悪くないと愚考いたします。一時期の海軍のように軍令部と無用な綱引きをしていては、結果的に国防政策全体における陸軍の影響力が弱まります。陸軍が政治力で海軍に後塵を拝する期間が長く続いた結果、満蒙政策がお座なりにされていたのではないでしょうか」

「その点は理解するが、それだけではなかろう……粛軍人事で、陸軍は牙を抜かれてしまった」


 南は中村が意図的に指摘しなかった事実に触れた。朝鮮総督と朝鮮軍司令官の会話としては危険な範疇に足を踏み入れつつある事を理解していたが、ここまでくれば続けざるを得ない。


「省部の中堅幹部過激派分子の一掃は、誰であろうとやらねばならないことでした」

「そうだ。だが完全ではない。若手ではまだその影響を受けた者が、相当数残っているだろう」


 事実であるだけに中村も反論出来ない。特に外地では未だに旧満洲組や皇道派の残党が幅を利かせているところもあるという。つまり臨時陸相代理に反対する声が上がらないのは黙認しているからではなく、不満があっても口に出せないだけだと南は断言した。


「定期の人事異動も遅れがちだ……宇垣さんを見ればわかるが、人事の恨みは怖いよ?」


 黙り込む朝鮮軍司令官に配慮してか、南はそれ以上は言葉にすることなく、煙とともに吐き出した。



 人間に優劣はない。私はそう信じてきたし、今でも疑っていない。


 しかし今は亡き我が祖国の現状を想う度に、私は暗々たる気持ちにとらわれてしまうのだ。


 確かに人間に優劣はないのだろう。同時に自らに纏る環境や属性を選べる人間はいないのだ。


 運命を否定する人間は生き方は選べると賢しらに語るが、果たしてそれがお釈迦様の掌で飛んだり跳ねたりしていただけの孫悟空と同じく、神の定めた運命に沿っていないと、いったい誰が証明出来るというのであろうか。


 朝鮮の歴史上、最初にして事実上最後の皇帝である高宗が死んで、来年で10年になる。


 3・1独立運動……独立?あの時の民衆運動は正気の沙汰ではなかった。あの時に流された血に果たして意味があったのだろうか。多くの民衆は生前の皇帝を、その治世を批判していたはずだ。自らの保身のために清を引き入れ、ロシアに媚び、そして最終的に日本に国を売り渡した。挙句に自ら結んだ条約の有効性を否定しようと国際社会に訴えて、誰にも相手にされず、日本に外交と内政の主導権を奪われた。


 当時の国民の多くはそれを知っていたはずだ。しかし彼の死によりそれらの愚行は全て忘れ去られ、大韓帝国への殉教者に祭り上げられた。馬鹿馬鹿しい限りである。


 そう、馬鹿馬鹿しいのだ。この国は。いや、かつて国であったこの半島は。


 私もかつて祖国の現状に失望し、いっそ文明国の植民地にして欲しいと願ったこともある。願うだけではない。実際にその実現に向けて運動もした。


 いわば私はあの愚かな皇帝と同罪というわけだ。


 それに対する後悔はない。あの時、朝鮮半島に住まう1500万人程の同胞のためにはそれが最善の策だったのだと、私は今でも胸を張って断言する。独立国たるべきあらゆる資格にも意思にも欠け、文明国として生まれ変わるには併合はやむをえざる手段だったのだ。


 にもかかわらずあれ以来、私の心は鬱々として晴れることがない。


 念願の文明国の一員となり、東洋の楽園たる日本帝国の臣民となれた。


 それなのに、この気持ちはなんなのだ?


 大衆は愚かである。歴代政権の衆愚化政策により、大衆は情念の赴くままに行動する動物に成り下がった。あれと同じ存在であると想像するだけで身の毛がよだつ。


 それでも彼らは、彼らは私の同胞なのだ。


 同じ言葉を話し、同じ歴史を共有し、同じ文化をもつ同じ朝鮮人なのだ。


 念願の日本臣民になれても、我らは所詮は外来の異物であった。融和だの一体化だのと繰り返される度に、あの愚かしい大衆と自分が同じ存在であることを否応なしに突きつけられる。


 尹致昊という個人は、そこにはない。


 あるのは日本帝国の臣民たる朝鮮人としての私だけだ。


 馬鹿馬鹿しく、実に愚かだ。手の施しようがない。


 しかし真に愚かなのは、そんな祖国への思いに遅まきながら気がついた私自身かもしれない。


 若い頃はこの国が嫌いで嫌いで仕方がなかった。すべての点で海外列強に、あの清にすら出遅れており、つまらぬ因習と風習、そして閨閥やコネがまかり通る腐儒の国。金弘集先生を始め、この国で改革を進めようとした人物はことごとく身内により潰された。


 あの時の私は確かに祖国を愛していた。独立を維持するために、自強自立の国にするために。その理想を実現するために非力ながら尽力した。その足を引っ張り、寄ってたかって潰したのは、あの愚かな皇帝であり、何も知らず学ぼうとしない大衆だった。


 にも拘らず今の私には早まったという思いが残る。たとえ苦しくても日本を頼らず自分の足で立ち続けるように努力するべきではなかったか?そして同時に、あの当時の状況では朝鮮の独立が維持出来なかったことも、私には理解出来てしまうのだ。


 正しいことを正しく順序立てて説明出来れば、誰でも真理について理解出来る。昔の私ならそう信じていたことだろう。


 しかし人間は情念の生き物なのだ。正しいからこそ受け入れられないということもある。現に今の私がそうだ。日本帝国臣民の尹致昊としては日本の考えも理解出来る。しかし朝鮮人の尹致昊としては、どうしても受け入れられないと叫ぶ自分がいる。


 ベルリン五輪の孫基禎の塗りつぶされた日の丸写真を見た時の私の胸中は、日本人としての悲しみと、朝鮮人としての慟哭で溢れていた。経済的にも政治的にも優遇されているのはわかる。しかし、このやり場のない感情をどうすればいいのかは、誰も教えてはくれないのだ。これはあの時併合に賛成した私が背負い続けていかねばならない十字架なのだろう。


 自らは血を流さずに、遠い安全な場所で煽動を続ける卑怯者がいる。何が臨時政府だ。彼らが大韓帝国時代に何をした?日清・日露前後の最も苦しい時代にはどこにいた?何も知らないアメリカ人に適当なことを吹き込んで、情けをもらっているだけではないか。あのような連中と同じ存在と考えるだけで身の毛がよだつ。


 しかし行動に移さない言い訳ばかりをしている私に、あの卑怯者を批判できる資格があるのであろうか?


 満洲には同胞たる朝鮮からの移民が多数存在している。満洲の安定が半島の安定のために重要だとする総督府の主張も理解出来る。日本が支配しなければ、いずれ半島はロシア領となっていただろう。


 ロシアの異民族支配の苛烈さは旧帝国でも今のソビエトでも大して変わらない。むしろ共産主義という神が支配する今の方が厳しいかもしれぬ。私も日本かロシアか選択するのなら、迷うことなく日本を選択する。そして私の選択が正しかったことは、この20年以上の経済成長と国力増強がそれを証明している。


 私は確かに売国奴である。そして売国奴だからこそ断言出来る。


 朝鮮は「道」ではない。どんなに馬鹿馬鹿しくとも、この愚かな私のたった一つの、そして失ってはならない「故郷」なのだ。


- 『尹致昊日記』 -



 東洋経済新報社長の石橋湛山は、この訪満に同行するつもりはなかった。陸軍の大陸政策を批判し続けてきた石橋としては「あの石橋ですら満洲と陸軍の政策を認めた」といわれかねない取材旅行など願い下げだったからだ。しかし旧知であり長年の同士である高橋亀吉の度重なる要望や、最後は内閣参議の高橋是清元総理の依頼により、しぶしぶ承諾した。


 すると今度は、石橋の記者としての本能が騒ぎ始めた。


 経済的に植民地経営は日本経済の足かせになるという経済評論家としての立場、また陸軍のやり方が許せないというリベラリストとしての矜持と反発もあり、現在の植民地からはどのような形であれ手を引くべきだとするのが石橋の立場である。しかし実際に満洲や朝鮮の現状がどうなのか、総理同行という立場を利用して、一般の取材では立ち入れない中枢部まで取材して、本の1冊や2冊も書いてやろうと、意気揚々と取材手帳を買い込んだものだ。


 そして同行取材で得られた人脈の中でも、ある教授との出会いは、この頑固な新聞記者に大きな影響を与えることになる。


 半島ホテルは2年前に日窒コンツェルンの野口遵が建設した鉄筋8階建ての高層洋式ホテルである。総督府から1キロほど離れているが、半島では初めて米国式の大型ホテル運営を取り入れたことから、一流のサービスを求めて、京城駐在員や朝鮮を視察した日本の政財官の要人の多くがここを使用することで知られており、今回の総理の同行団や随行員もこのホテルを利用していた。


 そしてへそ曲がりな石橋は、政府からのホテル代支払いの申し入れを拒否して自腹を切っていた。


 遅い夕食を終えた後、石橋は最上階の談話室で、東京帝国大学教授の矢内原忠雄と向かい合っていた。


 四角いフレームの黒縁眼鏡に白髪交じりの頭をきっちりと七三分けにした矢内原は、紳士という言葉が背広を着て歩いているような人物である。がらっぱちの石橋とは良くも悪くも対照的であった。そんな両者が即座に意気投合したのは、共にリベラリストだったからだろう。


「そもそも歴史的には植民地の定義にも色々あるわけです」


 矢内原教授の専門分野である植民地政策に関する話を聞きながら、石橋は談話室に用意されていた半島産の煙草に火をつけた。


「文字通り入植地としてのもの、あるいは海外領土-つまり本国の延長線上としてのもの。歴史的経緯についてはともかく、現代の国際法では……信託統治など分類の難しいものもありますが、基本的には本国の憲法や諸法令が原則として施行されない、つまり本国と異なる法的地位にあり、かつ従属する領土を植民地であると定義しています。その定義に従えば確かにその点では台湾や朝鮮は日本の植民地である」

「……つまり教授は同化政策の進捗状況に関わらず、台湾や朝鮮の法的位置づけを帝国憲法下の、内地の行政組織に組み込むのが先決だとおっしゃるわけですな?」

「代表なくして課税なし。衆議院の選挙区を割り当て、そこに住まう住民を日本国籍を持つ国民として扱う。北海道や沖縄のように、台湾や朝鮮を取り扱うということです」

「いや、しかしそれは。あまりにも拙速ではありませんか?」


 強気で知られる石橋も、さすがに矢内原の主張には俄かに賛否を表明出来なかった。しかし矢内原は「これは現状の内鮮融和路線の論理的な帰結です」と躊躇いなく断言して見せた。


 現状において台湾や朝鮮、南洋諸島などの植民地行政を総括する省庁は拓務省とされているが、朝鮮総督府は当初から管轄外であり、満洲事変後は満鉄などへの監督権も実質的に関東軍へ移譲させられている。矢内原はこの「二重行政」についても、石橋がたじろぐほどに厳しく批判した。


 植民地行政に関しては2大政党である政友と民政の対立が知られている。政友会は積極政策を掲げて拓務省を設立すれば、民政党は財政整理と外務省の監督権を重視する立場からこれに反対して局へと格下げ。政権交代の度に混乱が続いた。


「これは植民地に関する一貫した国家方針の欠如に問題があります。そもそも日本臣民に組み入れるというのなら、行政機構も一元化するべきなのです」

「先生の理論に従えば、植民地行政を監督する官庁など不要ということになりませんか」

「その通り。必要ありません」


 これには金解禁論で世論や学会の多数派に媚びずに持論を貫いた石橋ですら、政治的に不可能ではないかという反論が口から出てしまっていた。


「矢内原教授。台湾で貴方の先輩である新渡戸先生が行われたように、物事には何事にも段階というものがあります。いくら栄養があるからと言って、赤ん坊にステーキを食べさせる親がどこにいます?順番的にはまず本土化するのなら台湾からでしょう、それも1年や2年で出来ることではありません」


 たしかに今すぐというわけではありませんと矢内原は肯定したが「50年や100年後では永久に本土化しないのと同一です」と指摘することも忘れない。


「長期的な政策目標をはっきりさせずに、目先の弥縫策で誤魔化す。政友や民政に原因がないわけではありませんが、現在の植民地行政の混乱の根本原因を無視してはなりません。新渡戸先生が台湾で行われたアヘンの一時的な黙認も、中長期的には廃止するという政策目標があったからこそ、他産業への転換を促すという産業政策を行うことが出来たのです。それがなければ台湾はアヘンの巣窟のままだったでしょう」


 熱意に押されたように頷くばかりの石橋に「比較と検証を行わなければ学問ではない」と矢内原は続ける。


「現在の朝鮮や台湾での臣民化政策も、つまり仏領北アフリカのように海外県として内地化を推進するのか、それとも豪州やニュージーランドのように将来的には自治領とするのか。まずはそれを決めなければなりません」

「いや、しかしその2点では前者しかありえないでしょう」


 なぜ自分が陸軍の代弁のような真似をしなければならないのか。石橋は嘆きながらも公式的な、日本社会における一般的な理解と解釈を口にした。


「台湾と朝鮮は明治大帝の業績とされています。内地と異なる一定の行政的な裁量を認める自治領構想はその否定であり、政治的に不可能。ですがフランス海外領土のような一元化した制度設計をするには、台湾はともかく朝鮮は早急ではないですか?」

「新渡戸先生のアヘン政策も政治的に不可能といわれましたよ」


 まさか目の前の紳士が自分以上の過激な言説を披露するとは思ってもいなかった石橋は、一貫して押されっぱなしである。


 矢内原はにっこりと笑い、断言する。


「政治的な困難さゆえに、最適解を選択肢から排除していては行政は成り立ちません」


 内村鑑三の薫陶を受けた矢内原は、恩師である新渡戸と同じくプロテスタント系キリスト教徒である。そして無教会主義の内村の元で聖書を学んだ自分の解釈は、カトリックとプロテスタントをベースにしながらも独自に解釈したものであると彼は石橋に語った。


「私は国家が目的とすべき理想は正義であると思うのです」

「正義ですか」


 石橋は目の前の人物の顔を改めて観察する。その目には狂信的な色合いは見られない。むしろ学者や研究者としての深い学識と経験に裏打ちされた深い理性の下に、静かに燃え盛る理想の炎がうかがえた。


「正義とは弱者の権利を強者の侵害圧迫から守ることです。この原則さえ押さえておけば、大きな間違いを致さずにすみます」

「なるほど。それはわかりました」


 自分のような付け焼刃の植民地行政で反論しても、この教授に適うことはないだろう。石橋は別の角度から切り込んだ。


「現実をいたずらに無視して正義を追求することは可能なのでしょうか。米国のウィルソン大統領の14カ条と国際連盟のように、かえって現実の政治に不正義をもたらすことを許す結果になるのではありませんか」


 新渡戸が事務次長も務めた組織の問題を指摘した石橋に、矢内原は微笑みながらも静かに反論した。


「神の創造した人は、神に挑戦する塔を作ろうとして言葉を違えられたといいます。人種、宗教、国家。仰ぐものは皆異なるでしょう。しかし正義という理想があれば、人は団結出来ます」

「理想では飯は食えませんがね」

「そのための学問であり政治です」


 矢内原は闊達に笑う。


「魚を与えるよりも、魚の釣り方を教えろ、魚の釣り方よりも魚の養殖を教えろ。つまりはそういうことです」


 ここに至って石橋はようやく目の前の人物の本質を理解した。


 この紳士は学者ではない。理想主義者の行政家であり、それを実現するためにはあらゆる手段を使うことをいとわない政治家という新渡戸の正当なる後継者たらんとしている。


 それを踏まえたうえで、石橋は改めて自分の質問をぶつけた。


「それでは先生は朝鮮半島については、どのようにお考えですか?」

「日本人が朝鮮人にはなれないように、朝鮮人は日本人にはなれません」


 ばっさりと日本の朝鮮政策を否定した矢内原に、豪胆でなる石橋も思わず周囲を見渡していた。


・ただでさえ面倒な話なので、ややこしいことはいいっこなしで。ね?(懇願)

・朝鮮の諺を最初にもってこようとしたんですけどね…

・南次郎着任挨拶。内鮮一体に関する直接の表現というより宇垣路線の継承のみ。

・しれっと問題を摩り替える。それがカイゼル禿。

・政治犯には割りと甘い戦前日本。というよりも分断して懐柔するのは当たり前か。

・秀吉の時代から進歩していないとされる李氏朝鮮。だけどね、じゃあどうしろと。

・だからといって李氏朝鮮末期の外交はもうどうしようもないんだよなあ…

・尹致昊。近代朝鮮の生き字引。なんともやるせない経歴。

・石橋先生に翻弄される矢内原先生を書こうとしたんだけど、どうしてこうなった。

・おかしい。すでに本来なら満洲入りしていたはずなのに…

・ウェー、ハッハッハ!アッハッハ!(元ネタを最初に見たときの衝撃)

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