東西新聞 特集連載記事『ドイツ帝国の行く末』・松岡洋右氏インタビュー詳細 / 大英帝国 イングランド南東部 ケント州 チャートウェル邸宅(チャーチル元蔵相邸) (1938年9月)
『政治学は厳正な科学ではない』
オットー・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン(1815-1898)
*
『何が本当に自分の利益であるかを知ることは容易ではない』
ウィンストン・チャーチル(1874-1965)
9月6日。ドイツ南部ニュルンベルグにおいてドイツ国家社会主義労働者党の党大会が開幕した。ドイツ政府首脳を始め、全国各地より集まった地方政府の代表や党幹部、国内の各種団体が一堂に会する一大政治セレモニーは、今回で10回目を迎える。創設当時は戦後に数多勃興したヴェルサイユ体制を否定する小政党の一つでしかなかった同党は、今やドイツにおける唯一の指導政党にまで上り詰めた。
記念すべき10回目の党大会のスローガンは『大ドイツ』である。「わが党の成功は民族の勝利であり、わが党の失敗は国家の敗北を意味する」というヒトラー総統の開会挨拶に、多くの党員は起立して拍手を送ったが、その中にチェコスロバキアに関する発言がなかったことに、出席した各国の大使や外交官は胸を撫で下ろしたに違いない。もはや同党をドイツという国家と同一視することに、疑問を持たなくなって久しい。同大会中にはズデーデン問題をめぐり、同党高官か政権中枢から何らかの発言があるとみられ、各国政府は動向を注視している。
- 松岡洋右氏「ドイツは戦争を辞さない覚悟」 -
ドイツを訪問している松岡洋右・前満鉄総裁が、東西新聞との単独取材に応じた。同氏は民間人でありながら同党国際局の招きで8月後半からベルリンを訪問。リッベントロップ外相やルドルフ・ヘス副総統との会談に臨んだ。
松岡氏は「ベルリン=ローマ枢軸に、何れモスクワが加わる日が来るだろう」と述べ、ドイツとソ連が同盟を結ぶ可能性を指摘。極東戦略及び同盟国たる満洲国安定のためにも、日本はドイツとの関係改善を推進するべきだと主張した。またドイツの現政権が満洲国の外国人労働者の受け入れ政策に懸念を示したことも明らかにした。
インタビューの詳細は以下のとおり。
- ドイツを訪問された感想をお聞かせください -
「首都ベルリンの再開発は、同党の桁外れの構想力と、それを実行に移せる指導力の賜物であると感じた。一国一党は確かに問題も多いが、日本の挙国一致なる美名で糊塗した官僚と政党の連立政権では、目先の政権支持率や既存の笧にとらわれて、このような大規模な再開発は出来ないだろう。関東大震災後の帝都復興計画の過程を見ればわかる」
「欠点としては同じ閣僚が長期間在職することで、政策転換が困難になることだ。たとえ間違っていると合理的に判断しても、責任追及を恐れて誰も言い出せなくなる恐れがある。時折聞こえてくる政権内部の不協和音は、ヒトラー総統個人の信任を争う宮廷闘争の如き趣も感じられる。しかしこれは政権の安定性と裏腹であるので、一方的な評価は難しい。同党が政権を握るまでドイツでは内閣が1年未満という短期間で交代していた。同党への積極的な支持というよりも、当時に戻りたくないという消極的な支持という側面もあるのかもしれない。しかし欠点を差し引いても、今のところは成功してると評価しても問題はないと思う」
- ヘス副総統、リッベントロップ外相との会談についてお聞かせください -
「両氏ともに流石に人物である。ヒトラー総統との後継者とも目されるヘス氏は、眼光鋭く頭の回転の早い人物であった。同氏は英国との戦争は避けるべきという考えを繰り返していたが、同時にドイツは戦争を恐れてはいないとも強調していた。これはリッベントロップ外相も共通の見解である」
「私が会談で気になったのは、リッベントロップ伯が「戦争の方が解決は簡単なのだ」と述べられたことだ。本来であれば戦争は外交解決に失敗した外交官の敗北なのだが、同氏は外務省の生え抜きではないため、むしろ省益にこだわらず、政権の一員として振舞うように心がけているのだろう。つまりより総統閣下に忠実なのだ」
- リッベントロップ外相は総統閣下の外交顧問との異名もあります。その総統に忠実ということは、すなわちドイツはズデーテン問題解決のためには戦争も辞さないという考えなのでしょうか?先に先生はチェコスロバキアの外交的勝利と評価しておられたようですが -
「君、それはあくまで5月危機直後の情勢を評価した段階の話だ。今、欧州情勢は新たなステージに突入している。そして現段階でドイツの戦争決意をそこまで推し量るのは早計というものだ。この党大会における総統演説を分析してみないと何とも言えない」
- 旧ストレーザ戦線の3カ国、すなわちイギリス、フランス、そしてイタリアはどうでしょうか。ドイツによる中東欧の一方的な現状変更を受け入れるでしょうか -
「機会主義者のローマ人の動向は気にしなくても良いだろう。こちらに来て新聞を読んで驚いたのだが、英仏の世論は明らかに戦争を恐れている。当然ながら政府はこれに配慮せざるを得ない。先の大戦の経験もあるのだろうが、国民の間でチェコスロバキア防衛のために戦争をする大義が見いだせていないのだ」
「特に大陸において陸軍の主力となるべきフランスに、その傾向が顕著である。従来の反英感情に加えて『イギリスはフランスを対ドイツの盾にする気か』という潜在的な不信感は左派でも右派でも共通して見られる。特に保守派や中道右派の政治家や支持者にその傾向が強い印象がある。現在の体制に否定的なアクション・フランセーズなどの極右に至っては親ドイツ派であることを公言する者もいる。人民戦線による左派中心の内閣が続いたことへの反動だと思う」
「当然ながら英仏の反戦世論はドイツも承知している。そしてドイツは国内世論に配慮はしても、媚びる必要がない。それだけの実績もある。問題が多いとは言え、イタリアもそうだ。ドイツは英仏の足元を見ているのだ。それを利用すれば、ひょっとすると戦争なしにズデーテン問題の解決も可能と考えているのかもしれない。実際に今年の3月にはアンシュルス(オーストリー合邦)を成功させ、既成事実化してしまったのだが、英仏は事後承認でこれを認めてしまった」
- 議院内閣制の英仏よりも、一国一党のドイツの政治体制が優れているというお考えでしょうか。松岡先生は政党解消運動を一時期主導されていました。その考えにお変わりはありませんか -
「今の私は一介の素浪人だ。今の日本政治について語れるほど見識や知識があるわけではない。そして両枢軸の政治体制の比較であるが、あくまで今の段階では一国一党の長所が顕著であるというだけの話だ。そして日本には困った隣人であるソビエト連邦という帝政ロシアの継承者がいる。独ソは思想的には真逆でありながら、一卵性双生児のような一国一党である。大粛清により権力の基盤を固め、五カ年計画により国民生活を犠牲にしてまで重工業化を推進。近代化された赤軍の恐ろしさは8月の張鼓峰事件で思い知らされたばかりの帝国日本にとって、ドイツとソビエトが同盟を組むことの恐ろしさは、言うまでもないだろう」
- 会談された幹部から、それに関する発言があったのですか? -
「いや。あくまで私の外交官経験者としての勘でしかない。しかしドイツとソビエトは先の大戦により失墜した国際的地位の回復を目指しているという点では一致している。ベルリン=ローマ枢軸にモスクワが加わるユーラシア同盟とでも言うべき状況が起これば、世界情勢は激変するだろう」
「その場合、日本は極東で孤立しかねない。イギリスは自国のことしか考えておらず、アメリカは孤立主義だ。マッキンダー卿のハートランド論-ランドパワー国家に対して、シーパワー国家が団結して対抗するというイギリス流の地政学は、現実の国際政治においては単なる言葉遊びにすぎない。政権の不安定なブラジルや、白人至上主義のオーストラリアなどと、どうして日本が同盟関係を結べる?縦横家が机上で考えた反秦連合が、始皇帝に各個撃破されたように、シーパワー国家の団結など絵空事だ」
- しかし秦とは違い、ドイツやソ連が主導権争いもなく同盟を結べるとは思えません。大陸に何らかの大同盟が成立したとして、それは同床異夢。日本はそれを信用出来るのでしょうか? -
「無論、先の第2次上海事件におけるドイツ国防軍の行動は私も遺憾とするところである。しかしドイツはすでに満洲を国家として承認し、南京政府との軍事協力関係を絶った。信用出来ないという点では信用出来るだろう。その点をしっかり押さえた上で、両国を逆に利用してやろうというぐらいの政治家が日本外交を主導できれば、世界での地位を確固たるものに出来る。かの鉄血宰相の名言を借りれば、外交は可能性の芸術だ」
- 東西新聞 特集連載記事『ドイツ帝国の行く末』(9月7日) -
*
治天の君(天皇あるいは上皇)とは、文字通り天を治めると書く。古代文明は農耕と切り離すことは出来ず、現代においても農耕は天候や季節と密接に関連している。人類は天に法則を求め、暦を定めた。人類の歴史は己を取り巻く万物の環境の中から法則を導き出して理解することで、これを支配しようとする歴史でもあった。
『天子南面』-天から統治者として認められた皇帝(日本では天皇)が、北-つまり不動の北極星を背にして、南を向いて国家を統治する。北極星の如く天の意は変わらない。政権の正統性を主張するという意味合いもあったらしい。
これは東洋だけにみられる政治思想ではない。
大英帝国の首都ロンドンは北緯51度の東経0度。東経135度の日本とは時差が9時間ある。札幌の北緯は43度。同じ東経にあると仮定するなら、なんと樺太中部-ちょうどソビエトと日本の国境近くになる。そのためロンドンの8月の最高気温は平均で25℃前後。日本に比べると極めて快適-というよりも長袖が必要な気候である。
2度目となるロンドンの陰気な夏の「寒さ」にいささか辟易としながらも、駐英大使の宇垣一成は相も変わらず精力的に活動していた。
海洋国家であるイギリスにとって、正確な地図や海図と並んで精密な恒星図は必要不可欠なものである。不慮の事態により現在地を見失っても、空を見上げれば自分がどこにいるかを理解出来れば、最低でも最寄の港にはたどり着くことが可能だからだ。
ロンドン郊外にあるグリニッジ天文台で観測された膨大な観測資料をベースに策定されたのが、グリニッジ子午線である。イギリスが大英帝国として世界各地に拡大していくのに従い、グリニッジ子午線を基準とした海図は世界各地で幅広く使用されるようになった。
大英帝国の威光に配慮するという政治的な意味合いだけではない。古くからの海運国家というだけあり、莫大な情報量が蓄積されていた。それを使うのが最も手っ取り早く、なおかつ確実で安全だという面が大きかった。
「これに最後まで抵抗していたのはどこだと思いますかな?」
素人歴史家を自称するスペンサー・チャーチル元蔵相は、日本の大使の知識を確かめるというよりも自らの児戯に基づく知的好奇心を満足させるための質問を投げかけた。あるいはその解答を新たな著作のネタにするつもりだったのかもしれない。
『ドイツですかな?それともアメリカ?』
大英帝国が誇る著述家は、常に自信満々の傲岸不遜で知られる日本の大使が首を傾げた態度がお気に召したらしい。悪戯が成功した子供のように顔をしわくちゃにして「フランスですよ」と、その正解を伝えた。
「ナポレオン以前から英仏は大陸の主導権を巡って暗闘を繰り広げてきました。サー・マッキンダー流でいうのなら、フランスはランドパワー国家になるのでしょうかな。露仏同盟というのもありましたし…もっともフランス人がドイツ人と手を組むとは想像しづらいですが」
自国を世界標準として平然と主張するだけの傲慢さと、それを担い続けるだけの責任感。その両者が渾然一体となって具現化したようなチャーチル卿に、宇垣は苦笑しながら手土産の葉巻を勧めた。
チャーチルの元上司であるロイド・ジョージ元首相の忠告は正しく、この偏屈な老人は宇垣が自ら厳選した葉巻の土産を大いに喜び、しばらく葉巻談義に花を咲かせつつ話題を続けた。
「フランスがパリ子午線の使用を止めたのは1911年。英仏協商(1904年)締結の7年後、世界大戦の3年前です」
『現在の英仏関係からは想像も出来ませんな』
「かの国はそれだけ我が国との対抗意識が根強いのです」
煙を燻らせながらチャーチルは「兄弟喧嘩はこじれると厄介ですからな」と言う。
「元をたどれば現在の英国王室の祖は、ノルマンディー半島から上陸した……語弊があるかもしれませんが、フランス人でした。実際に宮廷では長くフランス語が主流だったと聞きます。百年戦争(1337-1453)など、世界最大規模の御家相続問題といえるかもしれません。確かに欧州はみな兄弟のようなものです……しかしそれは共通の価値観や文化的背景があってのこと」
『共通の価値観、ですか』
宇垣は先ほどと同じく怪訝な表情を浮かべる。
欧州共通の価値観や文化的背景と口にするのは容易いが、欧州をキリスト教文明と例えることは、亜細亜が中華文明圏、もしくは儒教文明か仏教文明であると例えるに等しい意味のない分類だ。
欧州各国の政治体制は絶対君主制から立憲君主制に共和制、権威主義的な独裁国家から議院内閣制まで多種多様だ。キリスト教と一口にいっても何でもありのプロテスタントから、中央集権的なカトリックとでは水と油。フランス人は革命以来の精神こそが欧州の価値観と信じているが、ナポレオン皇帝から欧州を守ったと自負しているイギリス人からすれば噴飯ものだろう。
政治思想や宗教を列挙しながら指摘した日本の駐英大使に、この偉大なる文筆家は短く答えてみせた。
「簡単なことです。ナチズムを是とするか否とするか。この一点ですな」
これに宇垣は「なるほど、これは予想以上の曲者であり頑固者だ」と内心でつぶやいた。
目の前の人物が最後に蔵相を務めたのは1920年代後半。第一線を離れて10年以上になるというのに、政治的な感覚の鋭さは話しぶりからも感じる。しかしこれでは徒党は組めないし、自分の政治信条を曲げずに政党を渡り歩いたのも頷ける。ロイド・ジョージのような男でなければ使いこなせないというのも納得である。
例えるなら……いつも高い酒を奢らせている人物の悪口を言うのは気が引けるが、基本的に人の理性を信じているチェンバレン首相が、このジョンブルを御している姿は想像しづらいものがある。
『しかしですな閣下。コミンテルンの脅威と対抗するためには、ある程度はドイツに妥協してヒトラーとの関係を重視するべきという意見は保守党内でも多いと聞きます。
宇垣はチェンバレン首相ではなく、保守党の多数派に代表される認識をぶつけて見た。反共主義者として知られる目の前の人物の政治心情からすれば、むしろ党内多数派である「ドイツを反共の防波堤にする」という考えに従うのが当然ではないかと考えたからだ。
『ボールドウィン元首相ら党の主流派は……』
「あの連中はナチスの本質を理解していない!」
チャーチルの強烈な反応は、宇垣の予想を超えたものであり「誰がなんと言おうとも、間違っているものは間違っておるのだ!」とチャーチルは吸いかけの葉巻を握りつぶしてみせた。
「現実的な反共主義者を自称する連中は、コミンテルンの脅威に対抗するためという一見もっともな理由をつけて、ずるずるとドイツへの妥協を繰り返すばかり。単なる自己正当化に過ぎないことに気がついていない!」
憤懣やるかたないと感情を顕わにしながらチャーチルは吐き捨てた。彼に言わせれば現在の党執行部はナチス政権の危険性を無視し続けるどころか、自分の正当化に勤しむ始末なのだという。にも拘らず自分を戦争屋と批判する昨今の風潮が、相当腹に据えかねているらしい。
身を震わせながら、チャーチルは持論をまくし立てた。
「法治国家であることを放棄した点は論外だが、ナチズムもコミンテルンも他国への侵略性という点では似たようなものだ。今の書記長の一国社会主義なる言葉遊びに付き合うつもりはない。それでもヴェルサイユ体制の打破がドイツ人の団結になり、アーリア人なるわけのわからない人種論に拡大しつつあるナチスのほうが危険極まりない」
『共産主義よりもナチズムは侵略的な傾向があると?』
「現にやつ等はアンシュルスをやってのけたではないか。ドイツ人は中東から東欧にかけて広く居住している。ズデーデンでベルリンの領土要求が終わるという保障がどこにある」
『大英帝国の存続のためにも、ナチズムと対峙しなければならないと』
「無論だ」
チャーチルは一切の躊躇を見せずに断言した。
自由党時代はニューリベラリストのロイド・ジョージ元首相を兄貴分と慕い、今でも敬意を持って接するチャーチルだが、リトル・イングランド(小イギリス主義)を標榜し、植民地政策に批判的なロイド・ジョージとはその点では見解が異なっていた。
「私は祖国がグレートブリテン島の領主に戻れば良いという考えには同意しない。リトル・イングランドなど、単なる敗北主義のすり替えだ……私も植民地政策の放棄が国民の経済的な負担を減らすためには良策であることは理解している。植民地経済が本国経済の重荷であることも……」
「しかしどれほど犠牲が大きくとも、成し遂げなければならない大義がある」
チャーチルの目には狂気ではなく理性の色が垣間見え、それが宇垣の背筋をより薄ら寒いものとした。「帝国主義者のレッテルを張られようとも、最後まで帝国を守り抜く覚悟である」という発言は単なる政治的なメッセージではない。
「その為にも欧州政治の波乱要因たるナチス・ドイツの膨張は、なんとしても防がねばならない。あれの台頭による欧州支配は、先の大戦で帝政ドイツが勝利した世界よりも醜悪なものになるだろう」
『ランドパワー国家たるドイツと、シーパワー国家たる貴国の覇権をかけた戦いというわけですか』
「……大使。忠告しておきますが、あんな三流の政治家の言葉を真に受けては、ひどい目にあいますぞ」
枢密院議員としてサーの称号を与えられた地政学の大家も、この老人にかかれば形無しである。宇垣はかっかと豪快に笑いながらも、この老人の背後の本棚にマッキンダー卿の著作を始めとした地政学に関する分厚い本が何冊も無造作に詰め込まれているのを目ざとく見つけていた。
『その割には、閣下の本棚にマハン教授やハウスホーファー先生の著作が見えるのですがね?』
「アメリカやドイツの世界戦略や考えを窺う上では参考になるし『小説』としては面白いと思いますがね。実際の政治には役に立ちません」
言行不一致の指摘に一々動揺していては、イギリスの政治家は務まらない。チャーチルは平然と嘯きつつ続けた。
「そもそも地政学とは地理学で国際政治を読み解こうとするもの。地理的な環境が一国の政治や経済、軍事に与える影響や制約を研究しようという意欲的な学問ですが、神でもあるまいに、森羅万象を網羅することが出来るわけがない。そのようなことが可能ならばインドの統治をもっと円滑に行える方法のひとつでも教えていただきたいものですよ」
『例えば東方生存圏は今のドイツ政府が頻りに主張している外交目標です。その考えの背景を探るためにも、決して無意味な学問とは思えませんが』
「学問としての価値と、実際の政治に役立つかどうかは別の問題でしょう。ハウスホーファーやマハンは学者というよりも軍人としての戦略家の側面が大きい。サー・マッキンダーは一流の地理学者ではありますが、二流の政治学者。政治家としては三流以下ですな」
国際連盟を初めイギリス外交にも多大な影響力を持つ地政学の大家を、チャーチルは切って捨てた。仮にマッキンダーの考えが正しいとしても、ヒトラーの台頭を防げなければ何の意味もない。膨大な教養や専門知識を基礎とし、後知恵で解釈をしたところで、現状の課題の解決策を提示出来なければ何の意味もないと、チャーチルは自分の考えを述べた。
「世界観や歴史観があるのは大事でしょう。ですがヒトラー総統の東方生存圏はハウスホーファー教授の受け売りでしかないのは、その演説を見ても明らかです。ところがサー・マッキンダーは自由党出身なだけに、グレイ元外相と同じくどこか人間の理性を信じている嫌いがある。軍事的な合理性のみを追求してベルギーの中立を侵犯した帝政ドイツのような、合理的ゆえに不合理な組織を見たにもかかわらずです」
『リベラリストの限界というわけですか。しかしマッキンダー卿の考えは、基本的に英国が如何に大陸の勢力と対峙していくかということでありましょう』
「人類の崇高なる歴史がランドパワーとシーパワーの対立と説くような男です。そんなに単純な二元対立でしか歴史を見れぬから、海洋国家にブラジルを分類するという頓珍漢な解釈をするのですよ」
チャーチルはそういうと、背後の本棚からマッキンダーの著作である『Democratic Ideals and Reality』を手に取った。付箋と折り線が山のようになされ、本の腹や背表紙は手垢で塗れている。
「ミスター・ウガキ。私は人類の歴史はもっと複雑にして多層的なものだと思うのです。二項対立で物事を解釈するのは簡単ですが、学者の悪いところは当てはまらない事例を意図的か、もしくは無意識に無視するところにある。ゆえに複雑な現実の政治課題を解決するには役に立たない場合が多い。無論、学問としての価値は認めますがね」
「私も文章にはいささかの自信がありますが、これと同じものを書けといわれても無理です」と元蔵相は悪童のように舌を出した。政治家としての学問への疑問か、作家としての嫉妬心か。宇垣にはそのどちらに重きをおいているのかはわかりかねたが『興味深いお話ですな』と相槌を返した。
「ところでミスター・ウガキ。アーサー(チェンバレン首相)の御友人である貴官が、ロンドン政界の忘却者たる私に何のようでしょうかな?この葉巻の御代位の土産をお渡ししたいところですが、残念ながら私は今はこれという仕事もないもので。返そうにも……」
そう言うと、チャーチルは吐いた煙でリングを作ってみせた。
「こうして呑んでしまいました。お望みとあらば私のサイン入りの著作なら贈呈出来ますが」
これに宇垣は笑いながら応じた。
『頂けるのならありがたく頂ますが、その葉巻は気持ちばかりの手土産です。実のところズデーデン問題に関するお考えを、英国屈指の反ヒトラーたる閣下のお考えを聞こうと思っていたのですが、その目的は達しました』
「おや、そうですか。それは残念。もう少し吹っかければよかったですかな?」
『いやいや……実はこれからロンドンに戻り、その足でチェンバレン首相と会談する予定でしてね』
「あんな男のどこがいいのです?」
まともに相手にする価値すら感じていないという口調で言うチャーチルに、宇垣は吸い終えた葉巻を灰皿に置きながら答えた。
『チャーチル卿とは違う考え方ではありますが、チェンバレン首相もまた愛国者です』
「愛国者が必ずしも有能とは限りませんよ?」
『それは否定しませんがね。だからこそ同じ愛国者である私とも気が合うのですよ』
「……しかしわかりませんな」
チャーチルはその短い首を捻る様に傾ける。
「ズデーデン問題に対する貴国の関心はいささか解せません。いや、それが駄目だというわけではありませんが、極東問題以外に日本が積極的に関与するのが意外だと思いましてな」
『それこそ単純なことです』
宇垣はこの文筆家の疑問に、簡潔に応じた。
『極東の憲兵たる日本としては、自分の価値を吊り上げたいのですよ。ドイツにも、アメリカにも。そして貴国にもね。欧州が不安定になれば極東における日本の存在価値が高まりますが、同時にソビエトの火遊びの可能性も高まる』
宇垣はそこまで言うとチャーチルの耳元に顔を近づけて、周囲をはばかるような仕草でささやいた。
『つい先日、2個師団と海軍陸戦隊を除いた上海の日本軍の撤退が完了し、蒋介石が国民政府軍事委員会の委員長を辞任しました』
「チャイナの内戦再開は必至か」
『この状況で極東での冒険主義は困るのです。ソビエトには暫く欧州に目を向けていてもらいたい……つまりドイツが強くなりすぎるのも弱くなりすぎるのも困る』
「……なるほど。米日の間で中国問題や満洲の国際的地位に関しての協議に着手したという話。真実だったようですな」
元蔵相の指摘に宇垣はにやりと笑うと、その肩を叩いた。
『シャイロックほど強欲なことは言いません。しかし精々、稼がせて貰いますよ』
*
エルンスト・フランツ・セドウィック・ハンフシュテングルは、部屋に入ると開口一番「来客でしたか」と訊ねた。
「机の上の灰皿に消し方の異なる二つの葉巻。誰でも思いつきそうなことだ」
チャーチルは当たり前のことを言うなという皮肉で応じたが、このドイツ人は一向に構わず「誰でも思いつきそうなことを、誰よりも早く指摘することに意味があるのですよ」と続けた。
「かのコナン・ドイルが生み出した世界一有名な私立探偵であれば、この葉巻の吸殻から来客の素性に始まり年齢に経歴、個人の性格まで当ててしまうのでしょうが、美術書籍商上がりの私には到底無理な話ですな」
そう嘯きながら自分の対面に座った元ナチ党の海外新聞局長に、チャーチルは来客の招待を告げた。
「ジャパンの大使だよエルンスト君。これから首相官邸に用事があるとかでロンドンに戻った」
「あぁ、あの噂の強面の東洋人ですな」
短く太い特徴的な結びのネクタイを揺らしながら、ハンフシュテングルは声を上げて笑った。強面の彼が笑うと、普段より一層近寄り難い雰囲気を醸し出す。「君だけには言われたくないだろうよ」とチャーチルが言うと、この男は顔に似合わないなんとも愛嬌のある仕草で肩をすくめた。
「いやいや、仰る通り。顔のことでは私も人のことは言えませんな」
ドイツ人でありながらジョーク好きというハンフシュテングルは、ドイツ中部のザクセン=コーブルク=ゴータ公国の出身である。書籍商の父と、アメリカ人の母を持つ彼はハーバード大学卒業後に10年近く、欧州大戦勃発までアメリカで働いた。
彼が有名となったのは戦後である。ナチス党大会に参加してヒトラーと意気投合。パトロン兼友人としてドイツの上流階級と党との折衝窓口となり、政権獲得後は党の海外新聞局長のポストを与えられた。そしてこれも顔に似合わない穏健派であることから、次第に党内で孤立。昨年ロンドンに亡命したばかりだ。
ハンフシュテングルが亡命する前、チャーチルは彼の仲介で政権獲得前のヒトラーと面会する機会があったが、チャーチルがナチス党の反ユダヤ主義を批判した事がヒトラーに伝わったことで拒絶された経緯がある。一方で母親が同じアメリカ人という共通点もあり、チャーチルは亡命後のハンフシュテングルとも交流を保っていた。
「ほう……マハンにスパイクマン、チェレンに、これはハウスホーファー教授のですか。いやぁ、懐かしいですな」
机の上に地政学の本が積まれていることを目ざとく見つけたハンフシュテングルは、そのひとつを手に取り、付箋のはさまれたページを開いた。
Lebensraum-生存圏か生空間とでも訳するべきか。チャーチルの癖のある手書きの注釈やマーカーだらけで、逆に読みづらくなっているのはご愛嬌である。
ハンフシュテングルはそれ以上文章を追いかけることを諦めると、本の持ち主と視線を合わせた。
「君も地政学関連の本を取り扱ったことがあるのかね」
「私の本職は美術書籍商です。畑違いも良いところ……しかしハウスホーファー教授とはいささか知己があります。同じミュンヘン出身ですしね」
「ハウスホーファーはナチだったか?」
チャーチルは議会で政府を追及する時のように、自らが知りたい点を訊ねた。ハンフシュテングルは苦笑しつつ答える。
「正式な党員というわけではありません。ミュンヘン大学時代のハウスホーファー教授の教え子がルドルフ・ヘス-つまり今の副総統ですね。彼がアドルフと教授を引き合わせたのです。その政策には影響を与えたのは間違いありませんが、体系だって取り入れたというわけでもないようです」
「学問上の解釈のつまみ食いというわけか。ヴェルサイユ体制の民族自決の概念だけを都合よく利用するヒトラーらしいな」
チャーチルの言葉にハンフシュテングルは再び困ったように笑った。
この強面のドイツ人は古巣の悪口を嬉々として話すような人物ではないが、ナチス党の要職にあり、かつ総統個人と極めて親しい友人関係にあったため、外からはうかがい知れない現政権内部の権力構造を良く知る人物として重宝されている。チャーチルだけでなくチェンバレン首相も彼の語るナチス政権内部の生々しい実像と権力闘争を対ドイツ政策の参考にしていた。
「ヘス副総統は党の創立メンバーであり、アドルフ・ヒトラーが初期の党内で主導権を確立した後は、個人的な秘書役と党における代理人の役割を果たしました。ミュンヘン一揆(1923年)の失敗後もヒトラーに寄り添い、その信頼を高めたわけです……そう、これもそうですな」
ドイツ語版の原書『わが闘争』を本棚から取り出すハンフシュテングル。これだけは他の本と隔離されるように何もない棚に無造作に置かれているあたりに、チャーチルの考えが窺うことが出来た。
「獄中のヒトラーの口述筆記を担当したのがヘス副総統です」
「つまり生存圏に関する項目は、事実上彼が担当したと考えてもよいのかね?」
「そうともいえるかもしれません。しかしそれを了としたのはアドルフです」
ハンフシュテングルは「丸呑みしたわけでもないでしょう」という自分の考えを口にした。
「ハウスホーファー教授は自身の考えを説明する機会を求めたそうですが、アドルフはそれを拒否したそうです。特定の学者の影響下にあると考えられることが望ましくないと考えたのか、単なる学者嫌いか。結局のところアドルフの著作に、どこまで教授の考えが生かされているかは彼しか知りません」
「しかしハウスホーファーはミュンヘン一揆が失敗したあとのヒトラーをかくまったのだろう?」
「私も匿いましたよ」
「その時に……」
チャーチルもその後に思いついた言葉は、自分の腹の中に収めた。ハンフシュテングルは言われ慣れたことなのか、特に気にしたそぶりも見せずに椅子に座りなおした。
「アドルフを危険視するのも英雄視するのも、私は違うと思うのですよ。私の知る彼は勇敢な兵士であり、どこにでもいる一般的なドイツ人でした……いささか思い込みが強いところはありましたがね。ゲッベルス流のローマ人復古運動にも冷ややかでしたし、単なる復古主義というわけでもない。君主制復活にも冷笑的でした」
「どこにでもいる凡人が、あのような奇怪な政治体制を確立出来るというのかね?」
「政治家としてのアドルフ・ヒトラーとしての才能は私も認めます。その功績もね。しかし彼は完全無欠の常に成功を収めてきた政治家というわけではない。ミュンヘン一揆の失敗に絶望して自殺しようとした彼を止めたのは私の元妻です。挫折も失敗もしてきた。そして今の彼と成功がある」
「それだけを聞くと物語の主人公のようではある」
チャーチルは言葉を区切ると、いかにもイギリス人言い回しでそれを否定した。
「しかしヒトラーは物語の中の登場人物ではない」
「閣下はそれが最大の問題と認識されているようですな」
ハンフシュテングルは、チャーチルの発言に対する自身の考えや賛否には直接触れなかった。チャーチルとしてもそれは期待しておらず、自分のヒトラー観を続けた。
「彼はドイツの指導者であり一般市民ではない。一般市民がユダヤ陰謀論や『背後からの一撃』論者であることは一般人なら問題はなかろう……個人的には嫌悪するがね。しかし指導者としてそれを信じているところが問題なのだ」
「私もドイツ人です。先の大戦を経験したのでその気持ちは理解出来ます。そこを魅力的とするか、指導者としての限界とするかですな。敵対者への苛烈さと親しい者への甘さ。政治家としての彼に、人間としての彼が追いついていない」
「もっともそのおかげで私がこうして生きていられるのですがね」とハンフシュテングルが自嘲するような笑みを浮かべた。
「ハウスホーファー教授の奥方がユダヤ人ということが関係していると考えてもよいのか?」
「閣下。私は何でもかんでもヒトラーが悪いでは理解を誤ると思うのです」
やんわりと否定しつつハンフシュテングルは考えを述べた。
「歴史的にドイツ人は東方殖民という形で、国内余剰人口のはけ口としてきました。現在ではポーランド回廊で東西に分断されている東プロイセンも、元はといえばデンマークより許可を得て入植し、後に購入したドイツ騎士団国であることはご存知でしょう」
「それがプロイセン公国になり王国、そして帝政ドイツへとつながる。つまりドイツ人には先天的に東方への侵略意思があるとでも?」
「チャーチル卿。さすがにその言い方は私としても許容出来ませんよ」
その点に関してはハンフシュテングルはきっぱりと否定した。
「ドイツ人にとって東方殖民という言葉は、アメリカの西部開拓のような意味合いがあります。荒野を開拓して人の住める地にしたのは自分達だという自負がある。ロシア人やポーランド人はその成果を労せずに掠め取ったという認識なのです」
同じアメリカ人を母に持つ2人には「西部開拓」という表現がすんなりと納得出来た。チャーチルは新しい葉巻の口を切りながら「つまり南北戦争で南部連合の勝利したアメリカと考えても良いかも知れんな」と続けた。
南西部を開拓した大地主が支持する南軍が勝利したアメリカ。古きよきアメリカが維持され、今のような経済大国とはとてもなりえなかっただろう。「もっとも英仏が南軍を支援しても勝利できたとは思えないが」とチャーチルが結論付けると、ハンフシュテングルは「仮定の話は小説と変わりませんよ」と応じた。
「それだと私の母方の先祖であるセジウィック将軍は戦死しなくてもよかったかもしれませんしね」
「この距離では象にもあてられないという逸話だったか……いや君の先祖を侮辱するつもりはない」
「かまいません。直接の先祖というわけでもありませんし、これだけジョークの種となれば彼も本望でしょう」
ハンフシュテングルは鷹揚に頷いて、何かに気が付いたように首をかしげて見せた。
「……そうですね。思考実験というのならハプスブルグ家の主導した統一ドイツでもよいかもしれません。ベルリンではなくウィーンがドイツの中心となるわけです。少なくともプロイセン流の軍事優先主義の出る幕はない……繰り返しになりますが、これも仮定の話に過ぎませんが」
「ヒトラーのいないドイツは、いささか興味深い思考実験だとはおもうがね」
マッチを擦って火をつけるチャーチルに、ハンフシュテングルは「それはどうでしょう」と疑問を呈した。
「いずれ彼でなくとも、ヴェルサイユ体制の打破を目指す政党なり政治家が政権を握ったでしょう。ヒトラー以前のドイツはあまりにも混乱がひどすぎました」
「皇帝が去り、残されたのは臆病な将軍達と1人の勇敢なる伍長か」
独り言のようにつぶやくチャーチルに、ハンフシュテングルが「言いえて妙ですな」と肯定した。
「今のドイツの根源をアドルフ個人のキャラクターに求める考えに、私は否定的です。生存圏なる言葉も伝統的な東方殖民の意識を地政学の用語に当てはめたに過ぎません。体系的にハウスホーファー教授の学問を受け入れたわけではないのです」
「ハウスホーファーは退役陸軍少将だ。将校や佐官としての正式な教育を受けていない伍長殿の限界か」
「限界であり、そして可能性でしょう。ユダヤ人が諸悪の根源だとして批判し、排斥しようという世論はそれまでもありました。ヴェルサイユ体制の打破を唱える政党もありました。民主主義よりも全体主義のほうが効率的だという考え方も……しかしそれらを成し遂げたのはアドルフ・ヒトラーという、あの優柔不断で勇敢な伍長ただ一人です。彼にすべてを押し付けた卑怯な将軍達では断じてありません」
強い語尾で言い切った元ナチス党の高官に、チャーチルは煙をふかしながら、まだ目の前の人物がかつての友人と完全には決別出来ていないことを改めて感じた。彼が母から受け継いだ合理主義的な精神は完全なナチ党であることを躊躇わせたが、彼の中のドイツ人としての、一種の正当な(イギリス人としては同意し難い)被害者意識が、ヒトラーとの決別をためらわせているのだろう。
そもそも党内左派や突撃隊の粛清事件などでは、目の前の人物もそれを追認しているのだ。ナチス政権の一員であったことに変わりはない。チャーチルとしては先の大戦におけるドイツ人の被害者意識など受け入れられないが、そうした感情になることだけは理解出来た。
「ハウスホーファーのソ連との同盟論だが、どう思うかね?ヒトラーはそれを受け入れるか?」
「……難しいですな」
ハンフシュテングルは暫く考えてから言った。
「黒い共和国計画のように、国防軍にはソビエトとの水面下のつながりがあります。退役将官である教授は当然ながら承知しているでしょう。しかし東方生存圏を掲げる政権としては……」
「国防軍内部の反ヒトラー運動は難しいとおもうかね。ヒトラーを排除しての独ソ連携という意味も含めて聞くのだが」
「いざという時にリスクをとらなかった連中に何が出来るというのです?」
ハンフシュテングルの解答は、かつての祖国の軍人達に対して極めて厳しいものであった。
「軍人としては正しいのでしょう。しかしそれだけです。実質的には簒奪だとしてもヒンデンブルグ大統領から権力を委譲され議会の手続きを経て独裁者となったのはヒトラーであり、国防軍ではありません。仮にクーデターをしても党がついていくとは思えません。特に……ゲッベルスあたりは」
「顔が怖いよ。エルンスト君」
「おっと、これは失礼」
政敵であった宣伝大臣の名前を口にする時は、さすがのハンフシュテングルも顔が引きつる。悪鬼羅刹の如きその表情に、チャーチルもいささかたじろいだ。
「ヘス副総統やハウスホーファー教授は、イギリスとの関係を重視すると言う立場です」
「その代わりに欧州におけるフリーハンドを認めろというのだろう?」
チャーチルはうんざりとした表情で顔の前で手を振った。
「そんな虫の良い考えを受け入れられると思うのかね。そもそも曲がりなりにも大革命の後継者たるナポレオンが失敗したのに、人種差別主義者のヒトラーが成功するわけがない」
「成功か失敗かの予想ではなく、その2人はそのような考え方の持ち主だということです」
ハンフシュテングルはどこかそっけなく聞こえる口調で答えた。
「そのヘス副総統は政権内部で棚上げされつつあります。リッベントロップ外相らヘス派は独立性を高めて、総統と直接結びつきました。何か特定の官庁を統括しているわけではないし、党内ではボルマンが台頭しつつある」
「つまりヒトラーに対英政策の重要性を説く人材がいないというわけかね」
「そもそも欧州でのフリーハンドが前提という点で閣下はご不満かもしれませんが、そういうことです」
「旦那様。ご歓談中申し訳ありません」
チャーチルの執事がひとつ断りを入れる。許可を得ると執事は机に駆け寄り、メモ書きを主人に渡すと、踵を返して退出した。ハンフシュテングルがその優雅な立ち居振る舞いに感心していると、異様な音がした。
慌てて音源のほうに振り返ると、チャーチルが手にしたメモを握りつぶしていた。
「あの糞ったれが」
釣り上がった眼に震える頬と赤く染まった顔は、獲物を前にしたブルドックのようだとハンフシュテングルはどこか的外れな考えをめぐらせた。
「どうされましたか?」
「ズデーテン・ドイツ人党がチェコスロバキア政府との交渉打ち切りを通告しおった。吊り上げた条件を政府が承認したにも拘らず。これでは交渉を壊すための交渉と考えざるを得ない」
「アドルフは英仏が戦争が出来ないと考えているのでしょう。しかし、それでは戦争になりますか?」
「それはフランスというよりも、ダウニング街10の住人次第だろうな……ウガキめ。アーサーに何を吹き込みにいったものやら」
チャーチルは感情に任せて、苛立たしげに葉巻を噛み千切った。
・おかしい。松岡先生が一見まともそうなこと言ってる…
・口ではぼろくそに言いながらも読み込んでるチャーチル卿。汚い。さすがイギリス人は汚い。
・ちゃうねん。地政学という学問を悪く言いたいわけとちゃうねん。
・ちゃうねん。話の展開で学問としての限界を書こうとしたらこうなってしまっただけであって。つまり私は悪くないねん。
・ちゃうねん。マッキンダー先生の落選経験とか書いたら面白いかなってのが最初で、なんでかしらんけどこうなってしまってん。せやからちゃうねん。
・ちゃうねん。なんかわからんけどシーパワーVSランドパワーと書けば説明できる的なのはおかしくない?ってわけで。地政学という言葉だけで全部を説明した気になるのはちゃうやろ?ってなわけで。せやからちゃうねん。
・まじめな話、個別具体的な政治課題や外交問題を解決するのに、学問的な地政学がどこまで役に立つのかと。中長期の外交戦略を考える上でのベースにはなるかもしれないけど。その点では物理とかの基礎的研究に似てるかもしれない。でもそれなら個別具体的に歴史学とか政治学とか専門分野もあるわけで。いくらなんでも総合的というか総花的すぎるんじゃね?総合科学ならぬ総合政治学というか。総合地理学でもいうべきか(しつこいようだけど地政学という学問を否定しているわけではない)
・そもそもイギリスの地政学はイギリスの国益(対独・対ロ)を前提にしているわけで。ドイツはドイツの、アメリカはアメリカの国益がある。じゃあ日本で仮に教えるとした場合、そもそも日本の国益って何?で百家争鳴で収拾つかなくなる未来しか思い浮かばん(教えなくてもいいんじゃね?という意味ではない)。必要だとは思うけど、そこに至るまでの過程が果てしなく遠い…
・ちゃうねん。だから地政学という学問の悪口言いたいわけとちゃうねん。でもなんか知らないけどこうなってしまってん。
・ちゃうねん
・さて何回「ちゃうねん」と書き込んだでしょう?