ドイツ青年訪問団壮行会における首相挨拶(5月) / 東京府麹町区霞ヶ関 外務省次官室 / イリュストラシオン社説 / ドイツ国 ニュルンベルグ ルイトポルトハイン公園近くのホテル(1938年9月)
『ソ連の科学アカデミーがアダムとイブはロシア人であるという言う結論を 出した。理由は以下の通り』
・彼らは食べるものはリンゴぐらいしかなかった。
・着るものはいっさい持たず裸であった。
・エデンの園から出ることを神に禁じられていた。
・にも拘らず彼らは自分達が天国にいることを疑わなかった。
(旧ソ連のアネクドートより)
「大日本青年団、および大日本少年団連盟、帝国少年協会の諸君。今回、君達は日本の青年を代表してドイツを訪問するわけであります。時間だけはすべての人間に平等に与えられた無限の可能性です。およそ1月という長い船旅ではありますが、その間にも互いに研鑽を詰まれることを希望いたします」
「ニュルンベルグにおいては現在の政権与党の党大会にも参加されると聞いております。ドイツの夏は、日本とは違って湿気の少ない、大変過ごし易い環境ではありますが、帝国日本の青年代表として恥ずかしくない振る舞いを希望する所存であります」
「現在ドイツは、ヒトラー総統のもと強力な政治主導の体制をしいております。2年前のベルリン五輪の成功は記憶に新しいところです。開催まで2年を切った東京夏季、札幌冬季の両大会の成功にはドイツの協力が必要不可欠であります。日独関係には様々な問題がありますが、諸君にはドイツにおいて多くのことを学ばれ、現地における青年同士の交流が、将来の日独関係の礎とならんことを期待いたします」
- 大日本青年連合会のドイツ訪問団壮行会における林銑十郎総理の挨拶(1938年5月5日) -
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東京霞ヶ関の外務省事務次官室の自らのデスクで、沢田廉三は駐日ポーランド大使を立ち上がりもせずに迎え入れると、時候の挨拶もなく唐突に主張を突きつけた。
「今回の貴国の行動は、帝国政府としては極めて遺憾といわざるをえません。厳重に抗議いたします」
総白髪になりかけの豊かな髪を五部分けにした彼は、外交官というよりも学者か弁護士のようである。この外務省屈指の紳士として知られる澤田の冷ややかな対応に、タデウシュ・ルドヴィク・ロメルは聊かたじろぎながらも大使としての自らの職責を全うしようとした。
「この問題は一義的に我が国の内政問題。次官の発言は内政干渉であると判断し、本国にも伝えさせて頂きます」
「お好きにされるとよろしい」
「しかし撤回するつもりはない」と短くきっぱりと断言した沢田に、ロメルは怒りを見せつつも困惑していた。外務省屈指の英語とフランス語の使い手である沢田は、今も英語を自国語のように駆使しながら、ロメル大使に説いて聞かせるようにその理由を伝える。
「特定の民族や人種を理由に一方的な制度変更を行うことは、明らかに貴国の独立の根幹となったウィルソン大統領の14カ条の精神に反します。故・ピウスツキ元帥の目指した多民族国家ポーランドという将来像とも矛盾するのではないですかな?」
この東欧の親日国の大使に対して、沢田は相変らず丸眼鏡の下から冷徹な眼差しを向けている。その背後の机では外務大臣秘書官の朝海浩一郎が顔も上げずに手元の原稿用紙に会談内容を速記していた。
あえて他の専門の書記官や秘書官ではなく朝海が記録をしているのは、それだけ重要性が高くまた秘匿性が必要になる会談内容だと判断しているからか。ロメルはそう予想をつけたが、何ゆえポーランドのユダヤ人問題に、極東の日本が関心を持つのか。そしてそこまで重きをおくのかと言う根本的な理由がわからなかった。
「大使。残念ながら貴国の外務省の決定は、現在の欧州情勢を無視したものと言わざるを得ません」
現実を見ていないという批判にロメルの顔が怒気で赤くなるが、沢田はかまわず続ける。
「ポーランド国籍を持つ、それもユダヤ系の自国民のみを対象にした旅券法の改正など、国内外に混乱しかもたらしますまい。まして猶予期間もなく即日施行される予定とか」
「欧州情勢は次官に御教授頂くまでもありません。ソビエトとドイツという脅威に直接対峙しているのは我がポーランドであります故に」
「であるからこそ、無用な混乱を招きかねない一方的な旅券法改正は止めて頂きたいと、こうして申し上げておるのです」
沢田は外務次官としての体面すら取り繕うのを意図的に止め、本心から軽蔑したように告げた。
「独ソと軍事力や道義的な優位性ではなく、国父の遺命に反してまで反ユダヤ主義の実行で対抗してどうされようというのですか」
「我が国はポーランド人の国であり、ユダヤ人のためのポーランドではありません!」
ロメルは迸る様な激情のまま言い切った。
「祖国を周辺国に分割分断され、多くの犠牲の上に数世紀ぶりに独立を回復したのです。これを国内ならともかく、国外在住の国籍を持つと言うだけの少数民族のために失うわけにはいかないのです!」
ロメル大使は政治的な師であるロマン・ドモロフスキ元外相の強烈な反ユダヤ主義とは一定の距離を置いていたが、それでもポーランドがカトリック国であることを疑ってはいない。ユダヤ人の境遇に同情はしても、必要以上の関心は持っていない。
むしろ建国の父であるユゼフ・ピウスツキ元帥の多民族平等の国家理念は、国内のドイツ人やユダヤ人などの少数民族はともかく、大多数のカトリック系のポーランド人には独りよがりなものと受け止められていること。そしてクーデターで政権を掌握したピウスツキ元帥の死(1935年)後、彼の部下達は集団指導体制の下で次第に反ユダヤ主義へと舵を切った内情を沢田に説明した。
「所詮、人類の敵は人類というわけですか。崇高な理想を追求するには、手段を選ばぬ独裁者でなければいけないとは」
「そのような御高説を聞かせるために、私を呼び出されたのですか?」
「あくまで私の所感を述べただけです。他意はありません」
カトリックを信仰する沢田は妻と共に自由主義的な理想主義者であり、同じカトリック国の現状を個人的にも憂いている。とはいえ沢田は別に、一国の大使を自分の政治的なロマンチズムに付き合わせるために呼び出したわけではない。
気高い理想を掲げたところで、現実の政治や国民感情を解決するための力と能力がなければ、その看板も下ろせざるを得ないという冷徹な現実についても、ロメル大使に説明されずとも理解していた。
「ドモロフスキ元外相の政敵であったがゆえに批判するわけではありませんが」という枕詞をつけて、ロメルは慎重に言葉を選びながら続ける。
「故・ピウスツキ元帥のコスモポリタン精神は、周辺国を隙あらば併合しようという侵略精神と紙一重でした。ポーランド人にこだわれば領土の拡張はある程度制限されます。今のドイツのように……そして元帥は民主主義を手続き論としてあまり重きを置いていませんでした」
「上から押し付けられた多民族平等の理想など、それではドイツや旧ロシア帝国と差はありますまい」というロメルに、沢田は「貴国の目指すべき国家像について、特に口を挟むつもりはありません」と断ってから、話を旅券法改正問題に戻した。
「繰り返しになりますが、一方的な旅券法の改正でもたらされる混乱を日本政府としては危惧しています。次の6日の火曜からニュルンベルグで行われるナチス党大会において、チェコスロバキアへの最後通牒が行われるのではないかという話はお聞き及びでしょう」
「たまたまこの時期に重なっただけであります」
「あえてこの時期にぶつけたわけではありません」と言いながらも、ロメルの苦しい表情が全てを物語っていた。
「パリやロンドンがそう理解してくれるでしょうか。それともチェシンあたりを分捕る算段が、ベルリンと話がついているのなら話は別ですが」
「……いくら貴殿であっても、それ以上のわが祖国の侮辱は許しませんぞ!」
椅子を乱暴に引いて立ち上がるロメル大使に、沢田は机に両肘を立てて両手を組んで三角形の姿勢をとり、両手で口元を隠した。朝海は原稿に走らせていた手を止め、二枚目俳優のような甘いマスクに冷ややかな色を浮かべて沢田と同じくロメル大使を凝視する。
両者の威に圧せられたか、それとも大使としての自分を思い出したのか。ロメルは自身の激情を必死に押し殺すと、ひとつ咳払いをして再び椅子に腰掛けた。
「……私としても本意ではありません。ですがドイツにおける在留ポーランド人の内、ユダヤ系住民は2万近く滞在していると思われます。ドイツ保安警察がユダヤ人取締りを強化しつつある中、ワルシャワの外務省にも度々抗議があり……」
「自国民を保護しない政府は、独立国とはいえませんな」
「数の多寡ではない、国家としての義務であることは理解しております」
「しかし2万人のドン・パシフィコです」とロメルは苦渋の表情を浮かべた。
「まして彼とは違い、彼らはまとまった資産があるわけでもない。ポーランド国内でも反ユダヤ感情が高まりつつある現状では、政治的なリスクを背負うにしても」
ロメルに対して沢田は相変らず冷ややかなまなざしを向ける。
かつての二重帝国の下では歴代皇帝がユダヤ人の理解者であり(というよりも多民族国家であったがゆえに特定の民族のみの排斥をすれば国家の根幹に関わる)、各地で広く活躍していた。
だが敗戦後は新興ほ独立国に国境線に従ってユダヤ人は自動的に組み込まれ、その多くの国は特定の民族や宗教を国家の根幹としていたがゆえに、異質の彼らは「はみ出し者」として扱われた。
それはポーランドでも例外ではない。むしろ故・ピウスツキ元帥が例外であったのだ。
彼らの多くは世界大戦で景気が悪化していたとはいえ、仕事が数多くあるドイツに流れ込んだ。ヒトラー政権の誕生後、ドイツ国内では不法滞在のユダヤ人や就職規制が強化されたが、ポーランド国籍を持つユダヤ人は旅券等で自らの身元を証明出来れば、保安警察からの取締りから逃れることができた。
当然ながらドイツ政府は自らの反ユダヤ政策に真っ向から反抗するようなこの振る舞いに激怒し、ポーランドに外交圧力をかけた。
ポーランドはそれに対して、英国籍のあるドン・パシフィコの生命と財産を砲艦を派遣して守った18世紀の英国外相パーマストン流の対応ではなく、外交的な妥協による解決を図った。それは自国の旅券法を改正して、彼ら出稼ぎユダヤ人の国籍を即座に無効と判断しようというものだ。
一挙に数万単位の国籍を無効化すればどうなるのか。火を見るより明らかではないかと沢田は声高に批判した。
「数万単位の無国籍ユダヤ人が発生する事態を、ワルシャワ政府は如何に考えているのか。英仏両政府は無論、貴国の理解者であり独立を支持したアメリカも掛かる人道問題を引き起こした貴国の支援をそのまま続けるとは思えません」
「……そもそもユダヤ人問題を引き起こしているのはベルリンではないですか。我らに批判の矛先を向けるのは、あまりにも」
「その点については同意しますが、自国民の国籍を無効化しようとしているのは貴国の政府でありましょう。19世紀の大英帝国のような国力が貴国にないことは理解しますが、自国民保護の努力を放棄する国に未来があるでしょうか」
「……貴国はユダヤ人問題の直接の当事者ではないから、そのような理想論が語れるのだ!」
度重なる批判と追求にたまりかね、ロメル大使は苛立たしげに吐き捨てた。
日露戦争以来、ポーランド人を支援してきた日本人には感謝しているが、遠い極東の地から高尚なる理想論を語られては、ユダヤ人問題では彼らの立場に同情的なロメルといえども反感を覚えるには十分だった。
しかし沢田は相変わらず口元を隠したまま、ロメルに告げた。
「原理原則を曲げる国に未来はありません。しかし現実を見据えない夜郎自大な国にも同じく将来はない」
「先ほどからくどくどと。次官は何がおっしゃりたいのですかな」
「先ほども述べた通りですよ」
「貴国はあまりにも正直過ぎるのです」と沢田は続けると、突如として例え話をはじめた。
「ドイツやソビエトが設定した土俵で争う必要などない。日本としては新たな土俵を貴国に提供する用意があります」
「土俵ですと?あのスモウ・レスラーの」
ロメルが相撲取りのテッポウらしき仕草をするが、沢田は両手で隠した口元を歪めながら言った。
「そのための満洲国です」
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1938年9月が始まった。ついに始まってしまったのだ。
我らの目の前には瀕死の病人が寝そべっている。数多くの青年の血と献身によって築かれた「戦後秩序」という名前の病人は傷だらけで、自らの膿と腐臭にまみれている。連合国の一方的な線引きは民族を分断し、地域社会を混乱させた。革命と反動の嵐が短期間に吹き荒れ、かつての栄華は僅かに記録に残されるのみ。
しかしそれでも、それこそが我らフランス国民が多くの犠牲と引き換えに勝ち得た平和なのだ。
そして世界は今、あの忌わしい世界大戦を終結させたヴェルサイユ体制が崩壊するか否かの瀬戸際にある。
チェコスロバキアが一体欧州のために何をしてきたというのだろう。二重帝国崩壊後の混乱につけこんで領土を拡大し、国内の少数民族を弾圧。ハンガリーを侵略しポーランドを恫喝。隣国の混乱と混迷の上に、我らが勝ち得た安寧に安住しているだけではないか。
我らフランス人の青年は西部戦線-マヌルで、ソンムで、ニヴェルにおいて、プラハの民族主義者のために死んでいったわけではない。我が愛する祖国フランスを守るために戦ったのだ。便乗して独立した連中のために、再びフランス国民があの苦しい塹壕の中でひもじさに耐えなければならないというのか?疫病と貧困、そして絶望の蔓延する時代に戻れというのか?
- イリュストラシオン 8月(第4週)版 社説より抜粋 -
*
『これはこれは、東郷大使。珍しいところでお会い致しましたな』
『……ハイドリヒ長官。貴方をお招きした覚えはないのですがね』
『冷たいことを。私と貴方の仲ではありませんか』
ミュンヘン市内のルイトポルトハイン公園では開催が明日に迫った国家社会主義ドイツ労働者党第10回党大会の用意が進められている。東郷茂徳大使は公園に隣接するホテルにおいて、党大会に共に来賓として出席する大日本青年連合会の青少年を招いた非公式の昼食会に臨んでいた。
そして乾杯した直後に乱入した招かれざる客である保安警察長官のラインハルト・ハイドリヒに、東郷は顔を顰めながら立ち上がると、青年連合会の青少年と向き合った。
「すまないが、急用が出来た。君達はここへの食事を楽しんでくれたまえ」
「はるばる日本からようこそいらっしゃいました。東洋のサムライ達よ」
いきなりハイドリヒの口から飛び出した流暢な日本語に東郷がぎょっと驚いたような表情を浮かべると、ハイドリヒはその顔を見て「してやったり」と言わんばかりに舌を出す。
ギリシャ彫刻が人間に化けたかのような容貌と肉体、そして洗練された立ち振る舞いに、日本から来た青少年は忽ち魅了され、歓声を上げて先を競って握手を求めた。ハイドリヒはそれにまったく嫌な顔を見せず1人ずつと握手を交わし、随行させたドイツの記者団に写真を取らせている。おそらく明日にはドイツの新聞各紙を飾るのだろう。
ようやく記者団と青少年を振り切ると、東郷は自室にハイドリヒを招き入れた。どこであってもゲシュタポの盗聴器にまみれたホテルとはいえ、少しでも『清掃』を終えた自室を場所に選んだことは東郷なりの意地である。
どこにでもある木製の椅子にハイドリヒがその長い足を組んで腰掛けると、さながら王侯貴族の用意された椅子のように思えてくる。自らの考えに苦笑しながら、東郷は一本足の丸机を間に挟んでハイドリヒの対面に座った。
「随分と舐めた真似をしてくれたものですな」
先ほどまでのにこやかな表情を一変させ、北欧神話のディースの如き威圧を漂わせるハイドリヒに、東郷はまだ青いなという感想を覚えた。それははったり染みた余裕だったのかもしれないが「ディースは女だが、不思議とこの男だと違和感がない」と思考をめぐらせるだけの余裕が東郷にあったのは確かだ。
相手国への不満を外交官や指導者個人の怒りとして相手に直接ぶつけるやり方は、ビスマルク流の軍事力を背景にしたドイツ外交によくある手だ。
だが怒りをそのままぶつけるだけでは、いかにも芸がない。
こうした手は政府高官-それもドイツのような政治体制の場合は政府首脳-それもヒトラーかそれに近い幹部が行ってこそ意味がある。ヒトラーの代理人でしかない今のハイドリヒでは猿真似にしかならない。
「長官閣下。満洲は独立国でありますので、わが国の干渉するところではありません」
「そのような建前論はよろしい」
ハイドリヒはニコリともせずに告げた。
「ベルリンにおける満洲国大使館のふざけた行動を即座に止めさせるように、外交圧力をかけていただきたい。これは保安警察長官としての正式な要請であります」
東郷は「困りましたな」と首を傾げて見せる。
ミュンヘンから北に約580キロの位置にあるベルリンは、ベルリン建設総監アルベルト・シューペアによる「ゲルマニア」プランに従い再開発が進められている。日本大使館もティーアガルデン通り25番地という一等地に土地を与えられて、昨年には移転を完了していた。この厚遇はソビエト戦略も踏まえた上での日本に対する配慮に他ならない。
そして旧日本大使館公邸は満洲国公使館となり、検察庁や民生局で役職を歴任した王允卿が初代公使として赴任した。これも当然ながらドイツ側の配慮だ。
この満洲公使館が新たな日独間の火種になった。
王公使は着任早々「満洲は優秀な人材を求めている」と表明し、一定の保証金(それもベルリンで一週間程度働けば可能な程度)を納めれば労働査証を交付する事を表明。「ろくな審査もせず」(保安警察の調査)にビザをばら撒き始めたのだ。同じく満洲国立法院(議会)では複数国籍を認める国籍法が即日採決。
結果「どこからともなく」ポーランド政府のユダヤ系国民の国籍剥奪の噂が広まったことで、満洲公使館前にはポーランド国籍のユダヤ系住民が連日連夜引きも切らずに列をなす始末である。よい金儲けになると満洲公使館員が夜のベルリンで騒ぐ様は、保安警察長官ハイドリヒの神経を逆撫でするには十分であった。
面子をつぶされたハイドリヒは激怒して満洲国公使館へと乗り込もうとしたのだが、彼の上官である全ドイツ警察長官のヒムラーに止められた。ヒムラー長官からすればズデーデン問題の最終解決をしようという時期に、無用な外交問題を引き起こせば総統官邸の逆鱗に触れる可能性はなんとしても避けたかった。
無論、ドイツ外務省は満洲国に外交ルートを通じて厳重に抗議したが、内閣改造により外相を兼ねた張景恵総理はのらりくらりと言葉を交わすばかり。そのためハイドリヒは事態収拾と抗議のために、満洲の後見人である日本の大使である東郷を訪問したわけである。
「まぁ長官。落ち着きなさい」
「落ち着いておりますとも。私はシベリアの大地のように冷静です」
「それは落ち着いていると言えるのですかね」
東郷は一呼吸おいて続けた。
「本来であれば他国の問題ですのでコメントはいたしませんが、他ならぬ、貴方と私の仲ですので一般論であればお答えしましょう」
東郷は丸机の上で手を組みながら、怒りと苛立ちを滲ませるハイドリヒに視線を合わせた。
「ある国が自国の国籍の、それも特定の民族や特定のハンディのある国民だけを対象に差別的……失礼。区別する政策を行っていたとします。私個人としてはあまりに目に余る場合は内政介入をして是正を要求してもよいのではないかと言う考えなのですが、基本的には他国がその問題について介入するのは内政干渉とされます」
ハイドリヒはそっけなく「その通りですな」と応じる。
「同じくある独立国が、複数国籍を容認する国籍法の改正をしようとも、外国人向け労働ビザを緩和しようとも、それはその国の問題であります」
「我がドイツ国内で労働するポーランド系ユダヤ人をどう取り締まるかは、わがドイツ政府の問題でありましょう」
「長官。彼らはまだポーランド国籍のあることを忘れずに。それにズデーデン問題では、ポーランドは貴国の一方的な主張に理解を示す貴重な隣人ではありませんかな?」
ハイドリヒの白い顔がより一層青白く染まる。ドイツの栄光を全世界に知らしめる党大会を明日に控えているのに、その威光をまったく無視したかのような東洋人への怒りが内心から滲み出ていた。
赤鬼ならぬ白鬼であるなと東郷が考えていると、ハイドリヒは足を組み替えて身を乗り出した。
「……ドイツを虚仮にするのも大概にして頂きたい。貴方の奥方を取り調べることなど、わが保安警察には容易い事なのですぞ」
東郷は「今の話は聞かなかったことにいたしましょう。貴方と私の関係に免じて」とだけ応じた。ハイドリヒは期待していたほどの反応が得られなかったことに、面白くもなさそうに鼻を鳴らす。
「私としてはあのような連中に、貴国が政治的なリスクを犯してまで擁護する必要性が見出せませんな。ユダヤ人シンジゲートに媚を売らねばならないほどに、貴国の経済は追い詰められているのでしょうか?」
「さて、それはどうでしょうか……あくまで私個人の見解でありますが、ユダヤであろうとロマであろうと、ハンディのある国民であろうと、同性愛者であろうと、私としては国籍のある自国民は差別的なく扱うべきと考えます。とはいえ国家を転覆せんとする思想犯だけは別ですが」
東郷の発言に、ハイドリヒが露骨に侮蔑の表情を浮かべた。
「弱者が如何に集まったところで、強者には勝てる道理はありません。子供にも理解出来る理屈と考えますが、東洋のご老人には理解できぬようですな」
「老婆心ながら忠告しておきますが、追い詰められた鼠は猫の首を噛み千切りますぞ」
「その前に踏み潰せばよろしい」
傲然と言い放つ親衛隊中将に、東郷は意図的にゆっくりとした呼吸をはさんでから続けた。
「先例は単なる因襲である場合も多いことは認めます。ですが今もなお続けられている先例にはそれなりの理論や理屈がある。止めさせるにはそれ以上の新たな秩序なり法的根拠を持って上書きするしかありません。しかし契約は違います」
「契約ですと?」
その言葉にハイドリヒは嘲笑を浮かべた。
「紙に書いていないからと、満洲という傀儡国家に好き勝手なことをさせる日本にそんなことを言われる筋合いはありません」
「鉄血宰相以来、いや、シュレジェン泥棒の大王以来の伝統を誇る貴国ほどではありませんよ……ま、あくまで一般論として聞いていただきたい。聖書は当然ながらご存知でしょうな」
「貴方は宗教論争をするというのか?」
心底呆れたような表情を浮かべるハイドリヒに、東郷はかまわず続けた。
「旧約聖書の創世記によれば、最初の人類たるアダムとイブは、神との約束である契約を破り、禁断の果実を口にしたことで、楽園を追放されたそうです。そして……」
東郷はそういうと背後の鞄に手を伸ばし、小さな青い林檎を取り出して丸机の上に置いた。ころころと感情の変わるハイドリヒは、先ほどとは一転した興味深そうな視線を林檎に向けるが、東郷はそのまま続けた。
「禁断の果実にもさまざまな説があるそうですな。ユダヤ人は小麦、スラブ人は葡萄やトマトではないかと考えているそうです。或いは石榴や梨ではないかとも言われますが、西欧においてもっともポピュラーな解釈は、やはりこの林檎でしょうか」
「何かと思えば聖書の解釈ですか」
現在のドイツの政権とローマ・カトリック教会は政治的な緊張関係にある。ヒムラーの神秘主義に基づく反カトリック思想には冷笑的なハイドリヒも、基本的にワイマール体制と古いドイツを支えた教会を快くは思っていない。その感情を言葉の端々に滲ませながら続けた。
「禁断の果実がなんだというのです」
「知恵の樹に生っていたこの果実を食べたアダムとイヴは、神の逆鱗に触れて楽園から追放されました。彼らと彼らの子孫は限られた寿命の下で苦役にまみれ、短い生涯を過ごすことになります。契約とはそれほどに重いものなのです……」
「つまり国民が国家を選べないように、国家も国民を選べないのですよ」と東郷は含むところのある視線を目の前の若者に向けて言った。
「恣意的に国民を選別するものは、必ずや神の逆鱗に触れるでしょう」
「なるほど神ね。それが貴方の信ずるものというわけか」
ハイドリヒは嘲笑すると丸机の上の林檎を取り、手で弄び始めた。
「アダムとイブが楽園追放と引き換えに手に入れたのは知恵というではありませんか。蛇に唆された愚か者とはいえ、与えられた楽園で神の家畜であることを彼らは拒否したのです。結果論ではありますが、私としてはその点だけは評価します」
「……君は神の怒りが恐ろしくないのかね?」
「少なくとも私は目に見えない神など恐れません」
ハイドリヒは鋭い口調で自らの信念を言い切った。
「彼らの子孫である人類は、幾多の苦難を乗り越え、今の文明社会を築き上げました。いずれは神なる概念を殺して、その楽園をこの手に入れてみせましょう……この林檎のようにね」
そう言い切ると、ハイドリヒは手にした林檎に噛付いた。
・何かと縁の深いポーランドと日本。ピウスツキ元帥も来日経験あり
・いくら気高い理想を掲げても国民が支持しなければそうなるわなと。
・沢田次官。朝海さん共々、地味に登場2回目。
・沢田「ナチスには通常の戦い方では意味がない」…まあ少々やりすぎた感はある。けど私は反省しない。
・パーマストンさんは当時党内からも反対政党からも猛批判されたけど選挙で圧勝。本来の自由主義者とはどうあるべきかということを体現した人物。
・英仏の反戦世論。まあそりゃそうだわなあ。
・東郷さんとラインハルト君(4回目)すでに様式美。いやー書きやすい。
・久しぶりにいっぱい食わせた東郷。でもそう簡単に引き下がるような男ではないラインハルト君
・ヒムラー!後ろ後ろ!