中外商業新報 『話題の人』 / 電子掲示板4チャンネル(政治・歴史板)雑談スレ / 東京府牛込区市谷 某居酒屋(1938年8月後半)
『石鹸と教育は、大量殺人ほどの急激な効果はない。しかし長い目で見ると、それ以上の恐ろしい効力がある』
マーク・トウェイン(1835-1910)
- 閣下は東條英機大将に長くお仕えしたそうですね -
「東條大将が陸軍大学校の兵学教官時代に、私は陸大生でした。以来、東條閣下には何かと目をかけて頂きまして、副官としてあるいは参謀として側にお仕えしました。東條流の組織統制をみっちり叩き込まれましたよ。今日の私があるのも、閣下の教育と薫陶の賜物です。陸大生時代には、その癖のあるドイツ語には苦労させられたものですがね(笑)」
「いわゆる戦間期、具体的には第1次大戦直後(1918)の数年間は陸軍では一部の優等組を除けばドイツ留学が主流でした。東條大将もドイツで航空を学ばれたようですが、和製英語ならぬ和製独語がどうにも抜けきれなかったようです」
- 何故、敗戦国であるドイツが留学先として人気だったのでしょう? -
「人気ではありません。早い話がお金ですよ。マルク安で物価も安かったですし、敗れたとはいえ世界大戦を戦い抜いたドイツの工業力は健在でした。折からの世界的な軍縮の流れで陸軍も海軍も予算がありませんでしたから、ちょうど良い留学先だったんですよ」
「海軍の場合はそれでも簡単には人件費は減らせません。艦艇に載せる人員は交代要員を含めた教育体制を維持するためにも、一定数以上はどうしても必要です。それが陸軍の場合には、師団や連隊をまるごと減らせばいいという粗雑な議論がまかり通った時代でしたので、留学する必要などないではないかという意見も根強くありました」
「お金の話をしますと正面装備はともかく、それを動かす指揮官であり参謀であり下士官など、人はそう簡単には育ちません。これではいけないとドイツの保養地であるバーデンバーデンで小畑敏四郎大将(貴族院議員)や岡村寧次大将(陸軍参謀総長)、故永田鉄山中将と集まり、国防体制の一新や総力戦体制の確立について議論を交わしたそうですよ」
- 世知辛い話ですね -
「腹が減っては戦は出来ませんからね。当時のドイツは外国人の-具体的に言いますと旧協商国の日本の軍人の航空関係に関する受講を制限していましたので、閣下は学生に混じり大学に通い、ほとんど独学で学ばれたそうです。しかしドイツ時代は東條大将にとってはよい思い出だったようですよ。下宿先の女将さんにもよくしていただいたと、事あるごとに仰っていました」
- 初代航空総監としての東條大将についてお聞かせください -
「やはりジャガイモの件ですか?(笑)。当時の陸軍航空士官学校長の徳川敏好中将は陸軍航空の生え抜きというプライドのあるお方でしたから、閣下との相性はよくありませんでした。東條閣下が士官学校の視察の際、厨房の屑籠からじゃがいもの皮を拾われて「こんなに食べられる部分が残っておる」と批判されたのですが、反骨心旺盛な徳川中将は「では閣下が食べられてはいかがでしょうか」と言い返されたのは、その頃の話です」
「士官候補生が徳川中将が男爵だったことに掛けて『男爵VS 男爵』だと面白可笑しく言い触らすものですから、謹厳実直で茶化されることを何よりも嫌う東條大将は非常に怒りましてね。これには副官の私も佐藤賢了さん(当時、航空総監部総務部長)も困らされたものです」
- ジャガイモ将軍なるあだ名もあったそうですが -
「まあその点については、いや私がそれを言い出したというのは誤解ですからね。その点だけはお忘れなきように。東條閣下に疑われて難儀させられたんですから……しかしこれは大事な話なのです。たかが芋、されど芋です。『航空優先』というスローガンばかりが先行し、装備や運用体制などの実態が追いついていない当時の陸軍航空の現状を、閣下は憂いていました。閣下は同期の今村均整備局長に何度も掛け合われたのですが、こちらも戦車や工兵装備の近代化や改修リストを提示されるばかりで暖簾に腕押し。昭和12年(1937)の第2次上海事変、翌13年(1938)の張鼓峰事件と国民政府軍、ソビエト赤軍の空軍に手酷くやられ、航空の重要性は誰しもが認識していたというのにです」
「閣下としては、少しでも予算や経費を効率的に運用し、正面装備や教育に当てたいというお考えだったのです。しかしあまりにも口うるさすぎると生え抜きの航空兵には不評だったのは確かですね。徳川中将を更迭しようとする東條閣下と、陸軍航空の看板である徳川中将の更迭に反対する陸軍中央との間で、東條門下の私たちは苦労しました。しかし東條閣下も徳川中将も背負うものがあり、その視線の先には陸軍航空を、ひいては将来の日本空軍は如何にあるべきかという組織論の対立でしたから、相当激しかったですね」
「空地分離方式-これは航空隊から整備や補給などの支援部門を切り離し、航空部隊だけを迅速に前線基地へと展開しようという構想ですが、これなどは実際のところ苦肉の策でした。ソビエト赤軍の航空部隊は機甲師団と共に、質と量の両面で、当時の参謀本部の想定以上のものであり、その差をなんとか埋めようとしたものです。関東軍参謀長として最前線におられた閣下は、満州における所在の空地分離を推進され、航空総監として本土の部隊でもこれに取り組まれました。これも「防空任務を優先するべき本土の航空隊の性格を理解していない」と徳川中将に批判されましたが、東條閣下からすれば「では予算の適正な運用に協力しろ」と反論される始末ですので」
- それはまぁ、なんといいますか。苦労されたのですね -
「当時は確かに色々とありましたよ。しかし今になってようやく当時の東條閣下と徳川中将の背負われていたものの重みというものを感じられるようになりました。先にも述べましたが、閣下も中将も自分たちのやり方でしか将来の日本空軍は成立し得ないという使命感と義務感、そして信念がありました。そして2人共、組織内融和のためだけの妥協など最も嫌う性格なのは皮肉にも共通しておられましたからね。真剣勝負だからこそ互いに譲れなかったのです」
- 中外商業新報『話題の人』 赤松貞雄統合参謀本部副議長インタビュー記事より抜粋 -
*
371 第四帝国 2018/03/14(水) 15:28:28.15 ID:LU8wXDm7
赤松貞雄「あのジャガイモ野郎」
佐藤賢了「ちょ、おまwそれwww」
鈴木貞一「やめろwww」
佐藤空軍中将の回顧録から。あれれーおかしいなー(棒読み)
372 名無しの帝国軍人 2018/03/14(水) 15:29:48.44 ID:DMbIhhaS
赤松の大将、堂々と嘘つきやがってwww
完全に言いだしっぺじゃねえかwww
373 亡命政府副首相代理心得 2018/03/14(水) 15:34:18.62 ID:/mWxwCs4
まああの人も散々苦労させられたんだからいいじゃない。どこに行っても東條閣下の後ろで頭下げてるイメージ。
バロン・徳川に嫌味言われて、永野修身元帥に頭下げて、寺内元帥(子)に背中蹴り飛ばされて…
せっかく空軍幕僚長から、空軍創設以来の統合参謀本部議長になれるかとおもったら副議長だし。永遠のNo.2なんだよなあ。
374 名無しの落ち武者 2018/03/14(水) 15:39:34.59ID:JQRGpHSk
>>373
代行からの出世おめでとう
375 第四帝国 2018/03/14(水) 15:41:24.30 ID:LU8wXDm7
>>374
よくわかったなお前www
376 帝都新聞です 2018/03/14(水) 15:41:39.35ID:xBKuodrc
>>374
全然気がつかなかった
377 名無しの帝国軍人 2018/03/14(水) 15:44:18.54 ID:DMbIhhaS
>>376
そんなことだから国防省の高官人事の特オチするんだよ
378 帝都新聞です 2018/03/14(水) 15:49:27.11 ID:xBKuodrc
>>377
うるせえよハゲ
379 名無しの帝国軍人 2018/03/14(水) 15:50:18.59 ID:DMbIhhaS
>>378
は、禿げちゃうし!東條閣下リスペクトやし!
380 亡命政府副首相代理心得 2018/03/14(水) 15:54:57.39 ID:/mWxwCs4
>>374
いやいや、みなさんのご支援の賜物です。どうもありがとう。
>>379
…ハゲの現役空軍将校って俺、リアルな仕事で心当たりあるんだけど…まさか貴方…
381 名無しの帝国軍人 2018/03/14(水) 15:55:58.10 ID:DMbIhhaS
>>380
おい馬鹿止めてくださいお願いします
なんでも島風!
382 第四帝国 2018/03/14(水) 15:56:27.30 ID:LU8wXDm7
>>381
ぜってー反省してねえだろwww
というか今国会開会中じゃ(ry
- 電子掲示板4チャンネル(政治・歴史板)雑談スレ『昭和の加齢臭スレ』より抜粋 -
*
「汚いところだが、酒が沢山あるのは気に入りましたよ!」
ただでさえ狭いカウンター席の中に報知新聞政治部記者陸軍担当の高木清寿の銅鑼声が響き渡ると、高宮太平は「おい馬鹿!」と口をふさごうとして「邪魔だ」と失敗した。
高宮は恐る恐るカウンターの中の様子を伺う。案の定、大将が包丁片手に此方を殺気立った目でこちらを睨みつけており、高宮は何度も頭を下げるばかりだ。しかし当の高木は知ったことではないといわんばかりに酒を飲み、焼き鳥を頬張っていた。
新聞業界は広いようでいて、意外と狭い業界である。まして同じ陸軍を担当しているとあってはなおさらだ。
東西新聞(旧朝日)の政治部次長兼陸軍キャップの高宮は、当然ながら高木とは顔見知りであったが、どちらかといえば人の懐に飛び込むことが得意で、派閥に関係なく人脈が豊富な政治記者の高宮とは対照的に、高木は相手が誰であれ筋の通らぬことには噛み付くという「血の気の多い」記者である。おまけに取材対象が本音を言いたくないが故にあえて正論で返せば「正論しか返さぬ器の小さな人物」と批判するという手に負えない暴れ者であった。そして今では元参謀本部作戦課長の石原莞爾「将軍」の信奉者として知られている。
水と油にも思える高宮と高木だが、この2人が共通しているのは林銑十郎に批判的であることだ。
高宮は前回の陸相時代の言動から、高木は石原莞爾を陸軍から追放した林を嫌悪しており、自然と会話は「カイゼル禿」(石原莞爾の命名)の悪口へと落ち着いた。
「あのカイゼル禿、読売の斎藤(忠)さんや、陸軍の町野武馬、海軍の水野廣徳ら他の軍事評論家と共に石原閣下を首相公邸に招いたのですがね。その時、わざわざ閣下のコラムを額縁に入れて飾りおったのですよ!公衆の面前で閣下をさらし者としたのです!これが許せますか!あの禿は根性が腐っておるのですよ!」
「それはあれか。例の東京日日の座談会、第2次上海事変の時に国民政府軍が北に来ると自信満々に言っておられた」
「そうです!単に北に来なかったのは結果論に過ぎません!あの時、動員した兵が北進していれば、満洲国は戦わずして瓦解しておりました!それを林はわかっていない!」
「うん、いやそれは……」
さすがに無理があるのではないかと高宮ですら思ったが、高木の剣幕に口にすることは憚られた。林のやり方が如何にも大人気ないのは否定しないが、石原の「予言」が外れたのは事実である。この他にも石原が「日中戦争が長引く!」と月刊誌に投稿すれば早期に終結するし、同じ満洲組の板垣第5師団長を「次の陸相候補である!」と誉めそやせば予備役編入にされるなど、逸話には事欠かない。
高宮は今の参謀本部作戦課長の栗林忠道大佐からは「あそこまで首尾一貫していると、逆に参考になりますね」と皮肉とも感心ともつかぬ言葉を直接聞いていた(さすがに高木には言えないが)。
「それにしても林の人事はけしからん!」と高木がジョッキをたたきつけるようにカウンターに突き出し「お代わり!」と叫ぶ。
店主がなぜか高宮のほうを睨み付けながらお酌するのを尻目に、高木は林批判を続ける。
「そもそも三長官人事の固定が長すぎる!1年、最長でも2年交代なのは昭和に入ってからの慣例ではないか!宮様総長はやむをえないことだったとしても、いつまでも林と渡辺、そしてビリケンの馬鹿息子と同じ顔ぶればかりで、あれでは陸軍の組織が硬直化してしまう!」
「確かに長期政権の功罪はある。宇垣大将は言うまでもないが、上原元帥の参謀総長も長すぎた。むしろ上原元帥が長すぎた故に宇垣大将が苦労された面もあるわけだし」
高宮が串をしゃぶりながら頷く。
陸軍工兵の父とされる元帥上原勇作(1856-1933)は、大正期に陸相と教育総監を経て、欧州大戦中の大正4年(1915)から大正12年(1923)の7年近く参謀総長を務めた。ちょうど長州の山県有朋の政治的な晩年と同じ時期であり、薩摩出身の上原は反長州派のドンとして参謀本部に君臨。長州派の田中義一・宇垣一成ら陸軍省と対峙した。
今は壊滅した皇道派は上原の流れを組むともされ、実際に作戦屋の荒木貞夫や小畑敏四郎らもこの系列に属していたとされる。
「宇垣さんも今でこそ批判されるが、近代化の必要性を理解しながら『陸軍省が右といえば左』と何でも反対の上原さんと熾烈な権力争いをしながら、宇垣軍縮を進めたのだ。宇垣閥なるものも、単に田中さんのを受け継いだだけではないし」
「高宮さんのお言葉を返すようですが、上原元帥はともかく宇垣は俗物です!あんな男が陸軍のトップであったことが私は許せんのです!」
宇垣はその日記における強烈な語尾とは違い、陸相時代は「聞きおく」という曖昧な言葉を多用していた。上原ら敵対派閥に言質を取らせないためでもあったが、玉虫色の食えない処世術として評判は悪かった。
三月事件の黒幕と批判されながらも逃げ延びたのは、宇垣が断定した支持の言葉や文章をクーデター勢力に与えていないからであったが、その代わりに現役に残って計画に関与した(させられた)宇垣四天王の小磯や二宮、また職務上やむなくクーデター時の政権移譲に関する手続を書いた永田鉄山らは政治的な傷を負った。
政治家としては確かにそれは正しいのかもしれない。しかし陸軍のトップとしてはあまりに政治的だと高木は批判を続けた。
「自分だけ生き延びようという魂胆が許せんのです!石原閣下を見てください!すべて自分の責任と予備役編入も受け入れられたというのに、あの岡山の狸はロンドンで遊んでおるのですよ!」
「うん。石原閣下は責任を取ったというか実行犯であったし……」
「そんなことは些細なことです!」
スパッと竹を割ったような性格の高木には石原の断定的な物言いが性に合ったらしく、今では石原教の第一人者のような存在である。高木がカウンターテーブル何度も叩くたびに、店主の表情が鬼瓦のようになる。高宮が止めようとするが、高木は一向に気にする気配がない。
「そもそもですな高宮さん。軍人というものは-特に幼年学校上がりで外の社会を経験していない連中は視野が狭く、世界観もなく、ましてや歴史観もない。海軍さんはまだ世界観がありますが、それでも目くそ鼻くそです」
そういえばこの男の奥さんは山本五十六海軍次官の姪であったなと高宮が思い出している前で、高木は石原の素晴らしさを言葉を尽くして語り続けている。
やれ歴史観も世界観もある石原は陸軍にはもったいない軍人だとか、満洲の五族協和の精神を汚したのは関東軍であり、もっと満洲人を中心にするべきだったとか、石原の当初の理想は汚されたのであり、本来の精神はどうだとか。
ほとんどを聞き流していた高宮であったが、海軍が兵機一系化に本格的に着手したという話だけは新聞記者としての興味を誘われた。
大規模な組織改変や人事異動が避けられない問題に海軍一体となり着手を始めたということは、非政治的な海軍がますます政治的に内向きになることを意味している。林の対抗馬として米内海相に期待していた高宮にとっては、残念極まりない話だ。
そして高木が東京代表を務める東亜連盟への参加を高宮がやんわりと固辞したあたりで、高木の長広舌はようやく終わり、完全にぬるくなったビールを喉に流し込んだ。
それを見計らって高宮は本来の情報交換を始めた。
「それで次の陸軍省人事だが、やはり梅津次官の移動は確実か」
「……っぷはっ!えぇ、石原閣下のシンパである陸軍省関係者にも確認しました。第1師団長あたりではないかと思っていたのですがね」
人脈の広い高宮も満洲閥はお世辞にも関係が深いとはいえない。その為にわざわざ石原教の高木を呼び出した。店主の機嫌を損ねるという代償はあったが、その甲斐はあったと高宮は内心ほくそ笑んだ。
「まさか関東軍参謀長とはね」
「時計の針を逆回転させるのが林人事の特徴ですな。大物司令官に大物参謀長、結構ですな!」
まったく結構ではないという表情で高木が言い切る。
陸軍士官の中でも騎兵というのは独特のつながりがあり、同期の人数は精々が10人程度。つまり軍の中でほかの兵科と争うことなく将来の将官へのコースが確定しているため、兵科内で団結しやすい利点がある。
つまり陸軍における勢力争いでは有利になりやすい。
前任の関東軍司令官である南次郎元陸相や、柳川平助元陸軍次官がそうであり、現在の関東軍司令官の植田謙吉大将(士官学校10期・陸大21期)植田も騎兵畑としてキャリアを重ねた。植田は参謀や司令官を歴任し、2・26事件の後に適任者がいないことから関東軍司令官に上り詰めた。
関東軍司令官は関東局長官(行政部門)と駐満洲日本大使(外交部門)を兼務する『満洲国王』であり、植田の就任は羨望を持って受け止められた。
しかし植田が適任者かといわれると、高宮や高木だけではなく陸軍内部でも首を傾げるものは多い。
「陸相経験者のあとに植田さんとなりますと。軍事参事官ではありましたが三長官経験者でないとなると……」
高宮が植田のカイゼル髭を思い浮かべながら親指の爪を噛む。まさか同じ髭のなりをしているから選んだわけではないだろうがとつまらぬ考えにふけっていると、高木が「しかし高宮さん」と珍しくとりなす様に言う。
「植田大将も参謀次長や朝鮮軍司令官を経験してはいます。張鼓峰事件では無難に乗り切ったのではないのですか」
「あれは参謀長代理の磯谷(廉介)中将の功績だろう。それに関東軍司令官のポストは、朝鮮軍や台湾軍司令官とは違い政治的なポストだ。植田さんは優秀で勇敢な軍人だとは思うが、では優秀な政治家であり優秀な外交官かと聞かれると困るよ」
「そもそも、その3職を兼任している体制に無理があるのです!だから石原閣下が……」
再び石原閣下の素晴らしさを滔々と語り始める高木に酌をしながら、高宮は自分の思考を記事にするために頭の中で内容を取りまとめ始めた。
航空本部長に転進した東条英機(士官学校17期・陸大27期)の後の関東軍参謀長は、磯谷(士官学校16期・陸大27期)の代理の後、梅津美治朗(士官学校15期・陸大23期)が内定したという。本来であれば磯谷の就任が普通なのだが、異例の大物参謀長だ。
梅津は23期の首席で何をしなくても三長官間違いなしという陸軍のエリート。林体制の基礎を固めた粛軍人事は陸軍の内外から怨嗟の対象となっているが、それを陸軍次官として実際に担当した梅津は「梅津のやることであれば」と反対派ですら諦めさせてしまう切れ者でもある。
「それだけ陸軍中央が北方を懸念しているということであろうが」
「懸念しているのはむしろ関東軍の暴走でしょう。勝手にソビエトと戦端を開きかねないので、梅津中将を送り込むと考えれば辻褄が合います。時計の針を巻き戻してもおつりが来る計算でしょう。カイゼル禿らしい人事ですな!」
「おまけに後任次官が、元の第5師団長の林中将か」
露骨過ぎるなと、高宮は熱燗を煽りながら顔をしかめた。
林桂(士官学校13期・陸大21期)という、どちらが苗字か名前かわからない彼は、宇垣派の後継者とも目された男であり、参謀本部や陸軍省のエリートコースを歩んだ。特に昭和5年(1930)には陸軍省整備局長に就任。直後から宇垣閥凋落が始まったが「余人を持って代えられない」ということで、3年と言う異例の長期間、同職を務めた。第5師団長を経て軍事参事官。後は予備役編入かと思いきや、再び陸軍人事年鑑を逆行する人事である。
これほどまでの強引な人事でありながら、陸軍内部からはほとんど批判が聞こえてこないのはどうしたわけかと高宮は考えてみたが、結局のところは粛軍人事に落ち着く。過激分子を粛清した結果、それまでの序列は徹底的に破壊された。順送り人事などというものは贅沢品と同義語になり、各所で予算と同じく人員が不足。本来であれば予備役入りの過去の人材でも使わなければ軍の組織自体が動かないのだ。
高木も高宮と同じ点を指摘して、これを高宮より強烈に痛罵した。
「教育総監部にばかり人員を集めて、参謀本部や外地などは穴あきチーズのようになっています。次の人材を集めるのは大事でしょうが、だからといって今の現場を軽視してよい理由にはならんでしょう!それでも林や寺内の馬鹿息子は元帥になって、まだ居座る気なのですよ?!」
「渡辺(錠太郎)大将もね」
「あんなのはどうでもいいでしょう!あれこそ過去の遺物ではありませんか!」
「そもそも林が」と三度、林の悪口を始める高木の演説を聞き流しながら、高宮は 茫洋としてつかみどころのない渡辺大将の顔を思い浮かべていた。
かつての日本陸軍のドンである山縣有朋元帥の元帥副官を務め、そして唯一現役で生き残っている陸軍大将。そして穴あきチーズと化した陸軍を、教育総監部を率いて必死に支える苦労人。
しかし実際はどうであろうか。いずれは林は陸相を降りざるをえない。長閥の長男である寺内参謀総長は続投しても、渡辺には経験という面で敵わない。
いくら林元帥が時計の針を巻き戻したところで、人は永遠には生きられない。高齢化した軍高官がそろって引退した時、次にそのポストに就任するのは、渡辺の影響下にある教育総監部で指導を受けた次世代の陸軍指導者である可能性は非常に高い。その時こそ渡辺は……
いや、そうなった時、陸軍は果たしてこれまでの陸軍と同じと言えるのだろうか?
「……と石原閣下もおっしゃっていました!そうでしょう高宮さん!」
「あ、ああ、そうだな」
「目くそ鼻くそとはいえ、まだ海軍のほうがましというもの!石原閣下を追放した陸軍に将来はない!」
こみ上げた感情をそのまま言葉と熱にして吐き出す高木とは対照的に、高宮は荒木とも林とも、ましてや真崎のような手合いの連中とはまったく肌合いの異なる陸軍のドンの誕生に、酔いが一気に醒める思いであった。
・東條閣下の副官こと赤松貞雄さん。あの神経質な東條に気に入られるだけの素直な人だったんだろうなあと。
・元ネタをネタにしたキャラをネタにしてまた元ネタを書く。なんのこっちゃ
・東條閥を航空総監部に送り込みました
・久しぶりのネット掲示板形式。正直一番時間がかかった(ry
・高木清寿。石原将軍の信奉者。まだ報知新聞在職
・オー人事、オー人事
・満洲事変以降の関東軍司令官という知られざる貧乏くじ(後知恵だけど)。3職兼任はいくらなんでも無理だって…
・でもばらばらにしたらたぶん権限争い。わー素敵だな(棒読み)
・上原元帥ってどう評価したらいいものか困る。
・林桂。どちらが苗字かわかるかな?
・ラスボス渡辺錠太郎