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何も銑十郎元帥  作者: 神山
昭和13年 / 1938年 / 紀元二千五百九十八年
25/59

タイムズ / ブダペスト経済大学講義録 / 地理学研究所所長室 / イングランド南東部 ケント州 チャートウェル邸宅 / ハンガリー王国 ブタペスト イシュトヴァーン伯爵邸(1938年8月)

『たとえ国家が滅亡への道をひた走っているとしても、われらは紳士のごとく振舞おうではないか』


フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916)


- チェンバレン首相の特使がプラハ入り。各勢力と折衝へ -


 チェンバレン首相の特使であるウォルター・ランキマン子爵がチェコスロバキアの首都プラハに入った。自由党のランキマン子爵は出発前、記者団との会談において「5月危機から続く緊張緩和のため全力を尽くす」と発言した。


 プラハに到着後、ランキマン子爵はエドヴァルド・ベネシュ大統領を始め農業党・国民社会党・人民党ら連立政権の幹部と断続的に会談を重ねた。一方でズデーテン・ドイツ人党のコンラート・ヘンライン氏との会談は折衝中とされるが、実現は危ぶまれている。


- THE TIMES(8月4日) -



 -…という具合に「神聖でもなくローマでもなく、ましてや帝国などではない」と揶揄されながらも、神聖ローマ帝国はドイツ諸侯を纏めるための器として10世紀以上の長きに渡り存続してきました。


 当初はスイスとオーストリー国境の小邦の領主でしかなかったハプスブルグ家は、帝位の世襲に成功すると婚姻政策により勢力を拡大します。ベーメンや我がハンガリーの国王を兼ね、ドイツ人以外の多くの民族をその臣下に加え、ビザンツ帝国滅亡後はイスラム教の尖兵たるオスマン帝国から欧州キリスト教社会を守る東の盾として奮闘を続けました。


 そしてオスマンの衰退と共に、この奇妙な帝国は衰え、ついにはナポレオンによって解体されたわけであります(1806年)。


 最後の皇帝フランツ2世(1768-1835)陛下は帝国解体の後、オーストリー帝国の建国と、皇帝としての即位を宣言されました。しかしその内実はドイツ人が最大の民族であるのと同時に支配層ではありましたが、絶対的な多数派というわけではありませんでした。依然として多くの多民族を国内に従える体制に変化はなかったわけです。公用語や公文書こそドイツ語でしたが、それ以外の言語を選択しようにも選択できなかったというのが正しいでしょう。


 ナポレオン廃位後も、度々欧州に吹き荒れた民主化と統一したドイツ国家を求める声に、ついにハプスブルグ家は帝国の再編を迫られます。帝室は王位を兼ねるハンガリー王国とその国民を支配層へと引き上げ、ドイツ人とマジャール人という新たな支配層によって国内の安定を図ったのであります。オーストリー・ハンガリー二重帝国はこうして建国され(1867年)、先の欧州大戦の敗戦により解体されるまで、国内の少数民族問題に悩まされ続けました。


 そしてハプスブルグという軛がなくなった旧二重帝国の国家では、これまで経験したことのない民族問題の嵐が吹き続けているわけであります。それは我がハンガリーも例外ではなく…時間ですので今日はここまでと致します。レポートを提出しておくように。


- ブダペスト経済大学 経済学部地理学研究所の講義録より抜粋 -



 マジャール人が多数派を占めるハンガリー王国は、先の欧州大戦における戦後処理の失敗例のような国である。


 そもそも王政でありながら国王は不在であり、議会はあるものの伝統的な地主貴族の発言権が強く、なにより議会のすべての党派が摂政殿下への忠誠を誓っているために民主的というわけでもない。その摂政は海軍元帥であるのにハンガリーは内陸国という具合だ。


 かつては二重帝国の支配者として独自の政府と議会を持ち、ハプスブルグ家を輔弼したマジャール人は、敗戦により領土をかつての被支配層であったポーランドやチェコスロバキアなどの周辺国に奪われ、その自尊心を大いに傷つけられた。そして国内ではハンガリー革命(1919年)によりソビエト政権が政権を掌握。王党派や保守派を虐殺した。経済失政により内政は混乱し、ルーマニア王国の軍事介入を招いた。


 ここにハンガリーの国家としての命運は途絶えるかに思えた。


 危急存亡の危機を救うために立ち上がったのが、欧州大戦の英雄である海軍軍人のホルティ・ミクローシュであり、彼が率いたハンガリー義勇軍である。


 軍人は政治にかかわるべきではないという考えの下、敗戦後も避難民の保護や受け入れに尽力していた高潔なる海軍軍人は、祖国の危機に「ハンガリー義勇軍」を結成。ソビエト政権を打倒するとルーマニア軍を交渉の末に撤退させた。


 だがハンガリーは領土を大きく削られ、擁立しようとした国王もハプスブルグ家の一族であることから連合国が拒否。これを強行することも出来ず、やむなくホルティ・ミクローシュを臨時に摂政とした上で、国王不在のままハンガリー王国が誕生。こうした経緯もあり旧領回復を悲願とするハンガリーの世論は極度に保守化した。


 この国を国家として纏め上げているのはマジャール人としての嘗てのハンガリー王国の栄光と、摂政ホルティの高潔なる人柄によるところが大きい。


 議会からいかなる判断にも従うというフリーハンドを得たにもかかわらず、ホルティは職業軍人らしくほとんど政治介入を行わず、同時に現実政治と厳しい国際情勢を見据えた上で、国王なき国の摂政として難しい舵取りを担い続けている。


 国の危急存亡の危機を救った海軍の英雄の手腕には、議会のあらゆる党派が信頼をよせており、それは元首相にして現在のイムレーディ内閣の教育相を務めるセーク伯爵テレキ・パール・ヤーノシュ・エデも人後に劣らないと自認している。


 世界的な地理学者であり、政治学者としての顔を持つテレキ・パールは、トランシルヴァニアに起源があるハンガリー貴族であり、父も内相を務めた名門政治家だ。親英的な政治姿勢や学者としての名声と立ち居振る舞いを、摂政殿下は大いに信頼していたが、政治家として大成するには学者としての知性が邪魔したためか、その政権は短期間で終了した(1920-21)。


 その後は学会を舞台に国際連盟の仲裁委員やヨーゼフ・ナーダール技術経済科学大学の学長を務めていたが、イムレーディ首相により教育相として呼び戻され、約17年ぶりに政界へと復帰した。


 ブダペスト経済大学に自らが開設した経済学部地理学研究所での臨時講義を終えたテレキ・パールの元に、元首相のベトレン・イシュトヴァーン伯爵と共に見慣れぬ東洋人が訪問したのは、1938年の8月18日。奇しくも初代ハンガリー国王とされるイシュトヴァーン1世(975-1038)がハンガリー王国を建国したとされる聖イシュトヴァーンの祝日を2日後に控えた日のことであった。


『ふはははははは!まさかかのマジャール人分布図を作成されたという、パール・テレキ氏にお会い出来るとは、まさに光栄の至りであーる!!』


 甲高い笑い声を上げた東洋人は、高ぶる感情を抑えようともせず力強くテレキ・パールの手を握ると、腕が千切れんほどに上下に振った熱い握手を強いた。


 テレキが「如何なる事か」とイシュトヴァーン伯爵を視線で詰問しようとしたが、戦後間もない時期に保守派を纏め上げた辣腕の名門貴族は、さっさと係わり合いにならないように部屋の隅へと移動していた。ご丁寧にパール・テレキの書いた分厚い論文集を手にして、興味もない癖に「ふむふむ」と読むような仕草をしている始末である。


『我輩は日本の大川周明と申しますのであーる!』


 奇妙な東洋人は、訛りの強いマジャール語で名乗りを上げた。テレキ・パールは本人の性格が話し方に現れているように感じたが、実際にその感覚は正しかった。


『トランシルヴァニア公のご高名はかねがねお聞きしておりました!!』

「それは、はい。あの、オーカワさん?でしたか。私の先祖は確かにトランシルヴァニア公であったことはありますが、それは過去の話でありまして、いまさらその名で呼ばれましても……」

『トランシルヴァニア公の土地と人、土地と社会は密接に結びついているというお考えは実に興味深いのであります!是とも詳しくお聞きしたいのであーる!特に、閣下はツラニズム主義者であられるとか!大東亜の団結が持論の我輩としても実に興味深い!是非ともウラル・アルタイ系民族の人種的な統一性についての閣下の御見解を……」


 テレキ・パールはこの段階で早々に諦めをつけ、この日本人に椅子を勧めた。


「まぁ、オーカワさん。立ち話もなんですのでどうぞおかけください」

『感謝するぞ!トランシルヴァニア公!!』


 ふと部屋の隅で論文集に顔をうずめながら笑いをこらえるイシュトヴァーン伯爵が視線に入り、温厚なテレキ・パールの額に青筋が走った。



 鬱蒼とした木々を潜り抜けた先に広がっていた光景に、ドイツ国防軍のエヴァルト・フォン・クライスト=シュメンツィン大佐は「なるほど、これがイングランドか」と改めて感じ入っていた。


 目の前の石垣と塀に覆われた庭には薔薇の苗が整然と正方形に並んで植えられており、丁寧に整備された石畳が屋敷の玄関へと続いている。そこには枯葉1枚どころか塵一つ見つからない。シュメンツィンにとっては、季節が終わり花のついていない薔薇の枝が延々と続く光景こそが過去の大英帝国の栄華の残滓を並べて悦に入るイギリス人の象徴のように思えた。ましてそれを至高のものとして病的なまでに掃き清めているのだ。


 この屋敷の主であるスペンサー・チャーチル卿は、シュメンツィンに事細かに花のついていない薔薇の種類と品種を説明してみせた。それが正しいのかどうかは彼にはわかるはずもないが、風刺画のジョン・ブル像が現実の存在として飛び出してきたかのような老人の振る舞いは、このドイツ人の大佐に諧謔という概念を伝えるには十分だっただろう。


 もっともそれはチャーチルにとっても同じである。


 イングランド人に変装したシュメンツィン大佐は、雰囲気に立ち居振る舞いから話し方まで、どこからどう見てもドイツ人にしか見えない。むしろそのイングランドの田舎紳士のような服装が全く似合っておらず、田舎であろうとロンドンであろうと目立つことこのうえない。変装というものを本質的に勘違いしているのか、それともドイツ人としての本質を変装程度で隠せると考えたこちらの想定が甘かったのか。


 「ところでシュメンツィン大佐」と屋敷の薔薇についての一通りの説明を終えたチャーチルは、反り返るようにして背筋を伸ばした。


「我が大英帝国の首相プライム・ミニスターとの会談はいかがでしたかな」

「話になりません」


 会談内容を問うチャーチルに、シュメンツィン大佐は表情を曇らせて答える。


「ベルリンの決定権はヒトラーにあり、国防軍にあるのではないというばかり。イギリスが強硬姿勢を示すことでヒトラーの野心を抑えるべきだ、その場合は我らが国内からヒトラーを抑えるという上層部の考えをお伝えしても、無用な挑発に繋がると反対する始末で」

「まあそれはそうでしょうな。反逆者の言い分を鵜呑みにするほど、アーサー(チェンバレン首相)は軽率な男ではない」


 悪し様に売国奴扱いされたシュメンツィン大佐は顔を顰めるが、チャーチルはどこ吹く風と受け流して続けた。


「貴方が反ナチス派であることは十分に承知しているが、事はあまりにも重大ですからな。むしろこの手の話しに軽々に乗る人物を、貴殿は信頼に足る交渉相手と見なせますか?」

「我らの祖国への愛国心を疑われるのは心外であります。私とその一派が文字通り生命の危険を犯していることを忘れないで頂きたい」

「わかっておりますとも。法ではなくヒトラーとその取り巻きが気分で支配する今のドイツで、そのリスクを背負う危険性はね。しかし他に選択肢がなかったとはいえ、そのヒトラーを指導者に選んだのは貴方の祖国だ。その点だけは忘れないで頂きたい」


 主導権を握るための露骨な牽制とは解ってはいるが、言われていい気がするわけがない。しかしシュメンツィン大佐は「これも国のためだ」と自分の頭を切り替えた。


 ドイツ国防軍陸軍大佐のシュメンツィンはドイツ政府の公式な使者としてではなく、ルートヴィヒ・ベック陸軍大将(陸軍参謀総長)、ヴィルヘルム・カナリス海軍中将(国防軍情報部長)の両名の密命を受けて訪英している。


 目的はドイツ国防軍内部の反ナチスが決起した場合、ロンドンからの支持が得られるかどうかを探ることにあった。


 ドイツ国防軍内部の反ヒトラー運動は、ズデーデン問題をめぐり国際的な緊張関係が高まるにつれて本格化した。ベッグ参謀総長らもズデーデン問題を武力によって解決することには反対ではなかったが、それが第2次欧州大戦につながるのではないかと考え、現段階での実行には反対であった。そのため緑作戦(チェコスロバキア侵攻作戦)の作成と同時に、ベッグ参謀総長を中心としたメンバーは総統暗殺計画とクーデター計画を立案した。


 シュメンツィン大佐はこうした経緯を、イギリス国内の反ナチ派であるチャーチルだけではなく、チェンバレン首相ら現在のイギリスの内閣の中枢にも伝えていた。


 チェンバレン首相はナチス・ドイツ内部で反ヒトラー運動が発生したことを喜びつつも、言質を与えることには慎重な姿勢を崩さなかった。シュメンツィン大佐は落胆しながらもイギリス政界屈指の反ヒトラーで知られる元蔵相とも面会し、ロンドンにおけるパイプ作りに励んだ。


 無論、その為の餌は外部からは窺い知れない現在のベルリン情勢である。反ヒトラー派という色眼鏡を差し引いても、その情報はイギリスにとって貴重なものであることに間違いない。


「ヒトラーが5月28日に総統官邸で語った『チェコスロバキアを地図から抹消する』という決意には、今まで何の変更も見られません。むしろチェコスロバキアの動員により融和に傾いたと報道された事を、自らの政権の弱さと海外通信社に伝えられたことを激怒しています」

「しかし英仏の介入への懸念に対して、ヒトラーはどう考えているのか」

「小協商の足並みの乱れにより、英仏が介入する前に片がつくと考えているようです。実際に先のチェコスロバキアの予備役動員にフランス外相が勝手なことをするなと抗議をしたと聞いています。現実主義的な国防思想をもつとされるダラディエ内閣ですらこの有様なのですから」

「……そもそもチェコスロバキアをドイツが制圧しても、こちらは動けぬし動かぬと考えておるわけか」


 「舐められたものだな」とチャーチルは舌打ちをした。


 かつてフランスはドイツ帝国に対抗するため、帝政ロシアと露仏同盟を締結(1894年)。欧州大戦を共に戦い抜いた。しかし帝政ロシアはソビエト連邦となり国際政治から排除。フランスが新たな同盟相手として選択したのは旧二重帝国や帝政ドイツから独立したポーランドであり、チェコスロバキアであり、ユーゴスラビア王国だ(小協商)。


 しかし3カ国とも国内に問題を抱え、ましてや軍事力は帝政ロシアとは比べ物にならないほど弱体である。そして個別の関係も良好ではないときている。


 チャーチルはあえてこのドイツ軍人に具体的に伝えるつもりはなかったが、5月危機の際にはヒトラーが指摘した通りの深刻な齟齬がフランスとポーランド、チェコスロバキアの間で発生している。


 チェコスロバキアの動員に対して、フランスのボネ外相はパリに通知せずに行われた動員を批判し、外務省内部ではプラハとの同盟廃棄が公然と検討された。ボネ外相とパリ駐在のポーランド大使の間では、ポーランドの戦争決意について「われらがドイツを攻撃した際に、本当にポーランドはドイツを攻撃するのか」と確認して論争になる始末。


 そしてユーゴスラビアはアレクサンダル国王が訪問先のフランスのマルセイユで暗殺(1934年)された後は国内問題の解決に力点を置き、フランスとの関係は冷え切っている。とてもではないが共同軍事作戦はおろか、政治的な共同歩調を望める体制になかった。


「チェンバレン首相は『仮に戦争を止められるとすれば、それはヒトラーしかいない』という考えのようです。確かにそれは正しいでしょう。今のドイツで戦争を始められるのも、止められるのも、あのオーストリー人しかいません」

「ただひとつ、その実現が不可能であるという点を除けば、まさに完璧な答えでしょうな。最良の防御は最良の攻撃という諺もある。傷つけられたプライドを回復しようとするならば、相手のそれをへし折るのが最も容易いやり方ではありますからな」


 あえて皮肉っぽく続ける英国きっての反独政治家の口調に、シュメンツィン大佐は生真面目な口調で返した。


「チャーチル卿。茶化さないで頂きたい。仮に再度の欧州大戦になった場合、英国とて多大なる被害を受けることでしょう。そうなった場合、大英帝国は自らの植民地を維持出来ますか?」

「ほう、君は私を脅すつもりかね?」

「事実を指摘したまでのことです。これを脅しと受け取られるということは、インド情勢は相当厳しいようですな」


 「ドイツ人に心配していただかなくとも結構だ」とチャーチルはそっけなく応じたが、実際に内情は厳しい。英印関係はすでに拗れきっていたが、それを解消するために成立した1935年インド統治法により、英領インドは連邦制の導入と州自治制度への移行が決められている。


 しかし権限を取り上げられることに自治制度の枠組みを支持する藩王国が反発。昨年に各地で実施された州議会議員選挙では、反英派のインド国民会議が過半数を獲得。即時独立と気勢を上げる始末であり、強硬派のウィリングドン侯爵から総督を受け継いだリンリスゴー侯爵(在1936年から現職)は強硬策と融和策の間で揺れ動くばかりで、有効な対策が取れていない。


 スエズ運河を擁するエジプトでの反英運動も沈静化する動きが見えず、『安定』しているのは南アフリカ連邦を筆頭に、ローデシアなどの南アフリカの植民地ぐらいのものである。


「チェンバレン首相は日本と組むことで、インドを始め東南アジアの植民地経営の安定を図りたいようですな。ヒトラーも将来的なソビエト政策を見据えて日本に秋波を送っています。なかなかどうして、あのカイゼル髭の宰相は内心を見せませんね」


 先ほどの意趣返しのつもりなのか、それとも率直に軍人としての見解を述べているのかわからないシュメンツィン大佐に、チャーチルは「貴官は己の国の心配をするべきだろうよ」と仏頂面で応じた。


 再度の欧州大戦と、それによるドイツへの影響を危惧してはいても、ズデーデンの軍事解決を否定しない点はヴェルサイユ体制を否定したい現政権とさして代わりはない。ようやく再起した国防軍の体制さえ維持出来ればよいという考えが言葉の端々に滲み出ている。


 この様子ではヒトラーを除いても出来上がるのは総統フューラーのいないだけの醜悪な軍事政権であろう。政治的な意思決定の出来ないドイツのほうが危険だとするアーサー(チェンバレン首相)にも一理あるとチャーチルは己の思考を纏めながら、目の前のドイツ軍人にその見解を質した。


「確かに英仏の世論は軍事介入には否定的だ。しかし一線を越えた場合、いつでもそれを行う用意だけはあることは貴官やベック参謀総長閣下が理解しているとおりだ……ズデーデン問題の『解決』があるとすれば、それは9月初頭の党大会の前かね?それとも後かね?」

「そればかりはなんとも。しかしドイツ国内の報道ではズデーデンにおけるドイツ系住民の弾圧とプラハにおける『騒乱』ばかりが聞こえてきます。どれだけ遅くとも年内には決着をつけるつもりかと」

「オーストリー併合と同じ手を使うか。進歩のないことだ……しかし」


 チャーチルはそこで言葉を区切ると、肺の中の空気をすべて吐き出すかのような深いため息をついて続けた。


「あれに成功体験を与えたのは我々のほうか」



 東京帝大文学部を卒業した大川周明は天下の才人であり、かつ奇人である。法学博士の資格を持ち、法政大学や拓殖大学で教鞭をとった当時有数の思想家であり学者であることは間違いないのだが、同時に「脳の思考にその肉体と言動が追いつかない」タイプの奇人でもあった。そのため日本改造論を唱えた北一輝と親交を交えながらも、その方針をめぐって後に決裂している。


 南満洲鉄道時代のインド植民地研究が後藤新平の目に止まり、陸軍や政府高官との伝が出来た。日本主義者であり、一般的には社会主義者の大アジア主義者とされているが、漢学の素養をベースに社会主義やキリスト教を独自に研究したという思想遍歴は余人が遡及出来るような単純なものではない。


 5・15事件に連座して5年間の禁固刑を終えて娑婆に戻った大川の後見人となったのは、当時は陸相を外れた病み上がりの林銑十郎陸軍大将であった。


 これは林から申し入れたことではなく、服役中にイスラム教に関心を持った大川が大日本回教協会の会長であった林の下に「研究したい」と捻じ込んだものだ。林は表面上はこれを快く受け入れ、大川は莫大な研究資金を得て研究に没頭。コーランの日本語への翻訳を「我が人生における最高の仕事にする!」と意気込んでいる。


 そのため林総理からの「ハンガリー王国への使者として赴いてもらいたい」という依頼に、大川は即座に快諾した。


 大川の持論からすれば林の満洲政策は全く持って怯懦の極みであり、その対英外交も鼻毛ほども評価してはいない。だが自分の話をよく聞く林を何れは説き伏せてやろうと意気軒昂なものであり、まったく気にしていなかった。


 それにパトロンであることを差し引いても、かの高名な地理学者でありツラニズム主義者でも知られるパール・テレキと面会できる事は、大川にとっては願ったり適ったりであった。


 そして念願の対面を果たした大川は、この希代の地理学者と大いに話を弾ませていた。


『なーるほど!つまりトランシルヴァニア公はツラニズムをテュルク系民族のみに適用するというジヤ・ゴーカルプ氏の考えに否定的なのですな!これは実に興味深いですぞ!!』

「いかにも。そもそも汎ツラン主義の祖であるフィンランドのマティアス・カストレン氏の主張された中心的なイデオロギーはウラル・アルタイ系民族の人種的な統一性と将来的な統一にありました。それをテュルク系民に限るという考え方は、汎トルコ主義への堕落であると考えます」

『ほうほうほうほう!なるほど!では汎スラブ主義との関係はどのように整理されますか?』

「その点に関してはまずはスラブ民族とは何かという-」


 聖イシュトヴァーンの聖日だというのに、ハンガリー元首相のベトレン・イシュトヴァーン伯爵は統一党の大会や記念式典に参加することなく、ブタベスト市内の邸宅において東洋からの客人と教育相との談義につき合わされていた。


 谷正之・駐ハンガリー公使を『引き連れた』大川周明がイシュトヴァーン伯爵を訪問したのは8月の初頭にさかのぼる。連れてきたはずの谷公使は「係わり合いになりたくない」といわんばかりにさっさと引き上げたため、イシュトヴァーン元首相はこの奇怪にして奇妙な東洋人と付き合わされることになった。


 本来であれば即刻追い返すところなのだが、遥々と東洋から一国の総理の親書と紹介状を携えているとあっては無下には出来ない。谷公使ですらその内容は知らされていないという内容に、イシュトヴァーン伯爵は仕方なく大川との会談に臨み、そして大いに後悔した。


 パール・テレキにその相手を押し付けてようやく厄介払いが出来るかと思えば、よくわからない論議に花を咲かせる始末。こうなると自分の手には負えないとイシュトヴァーン伯爵は完全に匙を投げた。


 しかしこの不毛な会談につき合わされるだけの価値はあった。イシュトヴァーン伯爵は親書の中身と、国家統一党の自らの側近に調べさせた報告書を念頭に置きながら自分の考えに没頭していた。


 ハンガリー・ソビエトからの政権奪取後、イシュトヴァーンは議会でひしめく保守派や右派の小政党を糾合して国家統一党を結党。過激派を嫌うホルティ摂政の信任を得て10年近く政権を担当した。


 しかし現在、国家統一党を率いるイムレーディ・ベーラ首相は親枢軸の姿勢を見せて、党長老たる自分のコントロールを離れつつある。


 蔵相経験者の彼は親英派だったものが、首相に就任するや否や隣接するドイツやイタリアとの関係を重視する政策に転向した。リアリズムといえば聞こえはいいが、実際には他国の力を当てにした国境問題の解決と自分の権力確立に他ならない。国内においては与党以外にも「ハンガリー人の生命」なる新たな右派勢力を自らの権力基盤にしようと試みる一方、党内ライバルを徹底的に弾圧。また全体主義的改革を志向し、国内におけるユダヤ人を取り締まる法案作成に着手している。


 パール・テレキを教育相として十数年ぶりに政界に復帰させたのもイムレーディである。あえてライバルになりそうなものを閣内に取り込むことで監視しつつ押さえ込む。また教育相としてユダヤ人法案に関与させることで、仮に政変があったとしても自分の路線を維持させるつもりなのだろう。


 そこまで理解していても、イシュトヴァーン伯爵もパール・テレキも何も出来ない。その流れに抵抗しようとしても、権謀術数に長けた野心家のイムレーディ首相には付け入る隙が見えない。また皮肉にも自ら結党した国家統一党の強い支持が、その政権基盤を確固たるものとしていた。


『ほうほう!つまりトランシルヴァニア公はツラニズムにそれほど政治的な価値はないと、現実的な政策課題になりえるものではないと思われておるのですか!?それは意外ですな!』

「まったく政治的な価値がないというわけではありませんよ。しかし現実に国境がある以上、ハンガリーの政治家としてそれを無視するわけにはいかないと考えているのです」


 大川とパール・テレキの会話は、イシュトヴァーンの理解の範囲を当に越えていた。


 ツラニズム(汎ツラン主義)とは、中央アジアを起源とするとされる様々な民族の民族的・文化的統一性を、ペルシャ語で中央アジアを意味する単語「ツラン」を用いて政治的な統合にしようという考えであるとされる。


 汎スラブ主義や大アジア主義と似たようなものであり、言語学や民俗学的な成果をベースに様々な考えが検討されている。


 パール・テレキはハンガリーにおけるツラニズムの第一人者であり、現在でもツラニズムを主張する東洋協会の名誉会長を務めている。リベラルな政治手法と学者としての業績からすれば奇異にも写るが、パール・テレキからすれば、それらは何の齟齬もなかった。


『しかし閣下は現在の国境線に不満なのでしょう?!』

「答えにくいことをお聞きになる……確かにマジャール人の現状を無視した現在の国境の引き方には問題があると考えています。それは私の策定したハンガリーの民族分布図をご覧になられたオーカワさんにはわかられるでしょう。ですがそれを武力によって解決するだけの力は、我が祖国にはないのですよ」

『なんたること!だからイギリス人はろくでもないのです!インドでの悪辣な統治を、ここ欧州でも行おうとは!!』


 大川が声高にロンドンの現政権を批判するのを、親英派であるテレキ・パールは苦笑しながら黙って聞いていた。


 思うところはあるにしても、最も現実主義、かつハンガリーの理解者なのはイギリスであるというパール・テレキの持論は一貫している。国家統一党内や野党には伸張夥しいナチス・ドイツと組んで国境問題を解決する意見が勢力を拡大しているが、北ハンガリー問題はともかく旧連合国の賛成なしにそれらを解決するという考えにもパール・テレキは批判的であった。


 故にイムレーディ首相の反ユダヤ政策にも内面では否定的であったが、それを否定してハンガリーの領土を回復するための代案がないために、渋々従っていた。領土は回復したいがナチス・ドイツに政治的な借りを作りたくない。ましてやベルリン=ローマ枢軸に参加する事は断固として避けたい。しかし正面から敵対することも避けたい。


 そのためパール・テレキはハンガリー国内で並ぶ者がない権威の持ち主であり、誰もその言葉を否定できない摂政の言葉で、大川に応じた。


「マジャール人やユダヤ人である以前に、皆がハンガリー国民なのです。先のソビエトとの戦いに貢献した愛国的なハンガリー国民をユダヤ人というだけで排除することは出来ません。イムレーディ首相のお考えはわかりませんが」

『おや?!ユダヤ人ですと?それは妙な話ですな!』


 大川周明は奇矯な声を上げて疑問を指摘した。


『では何ゆえイムレーディ首相が反ユダヤ政策を推し進められているのかがわかりません』

「それはドイツとの関係を重視しているからでしょう。民族政策で共通する姿勢を見せることでベルリンの歓心を買おうという……」

『そうではありませぬ!ありませぬぞトランシルヴァニア公!』


 大川はパール・テレキの態度に『なるほど!ご存知ないのですな!』と一人で得心した様に何度もうなずく。この男の人も無げな振る舞いにはいい加減慣れてきたが、それでもその態度は奇妙なものであり、さらにイシュトヴァーン伯爵が口元だけを吊り上げて笑っているのが不気味であった。


 そして大川は決定的なことを口にした。


『トランシルヴァニア公はご存じないのですね。イムレーディ首相の曾祖父は、ほかならぬユダヤ人なのですよ』


・高潔にして完璧な人っているんだなとおもわせるホルティ摂政。二重帝国の軍人さんには尊敬できる人が多い。フランツ・ヨーゼフ帝への敬愛を生涯語っていたとか。

・林さんは大川さんのパトロンです。たかられているとか言ってはいけない。

・カナリスさんはドイツを書く場合には高橋是清並みに便利な存在になると思う。どこにでも顔を突っ込んでくるし違和感がないという。ホルティ摂政とも個人的に親しかったとか。

・反ヒトラー運動。そりゃチェンバレンもうかつなこといえんわな。

・チャーチル「こんな諺を知ってる?」…いろいろ怒られるなw

・平沼「だから複雑怪奇だといっただろう?」

・王様はいないけど王政とはこれいかに?

・北一輝はその精神性とか思想とかは差し引いても、どう考えてもタカリ屋だよなあ。そりゃ基本的にはインテリな大川も怒るわなと。


(追記)ツラニズムに関する記述はウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典より

 https://ja.wikipedia.org/wiki/ツラニズム2015年8月11日(火)10:03‎(UTC)から引用です。


(再追記)ツラニズムとチラリズムって似てませんかね(真顔)

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