『ハチ物語』 / 東西新聞(国際欄) / アメリカ合衆国 ワシントンDC(特別市)国務・陸軍・海軍ビル 副大統領執務室 / 国務省 長官執務室 / 連邦捜査局本部ビル 長官執務室(1938年8月)
『私は豚が好きだ。犬は私達を尊敬し、猫は私達を見下す。しかし豚は、私達を対等に見てくれる』
ウィンストン・チャーチル(1874-1965)
「あんたの犬かい!うちの玄関にでっかい糞たれやがったのは!」
「いやぁ、これは申し訳ない。これにはしっかり言い聞かせますので、今回はどうか」
「まったく。飼うのは勝手だけど、ちゃんとしつけてくれよ。えーと……?」
「上野です。上野英三郎と申します」
「ハチは待っているんですよ」
「待っている?上野先生をですか。でも先生はすでに-」
「そう。亡くなられました。でもハチの中では、まだ上野さんは生きているんです。『いってきます』と家を出て行った上野さんの帰りを、ああやって待っているんです。帰りが遅くなったご主人様を、ああして迎えにいってやってるんですよ」
「ふん。犬畜生にそんな知恵があるものか。どうせ駅前の焼き鳥屋のおこぼれ目当てなんだろう」
「確かにそうかもしれません。私たちは人間で、ハチは犬だ。実のところ、本当に焼き鳥目当てなのかもしれません。犬の考えることなど、人間にはわかりませんからね。でもね、私たちは人間なんですよ。ハチを馬鹿にすることもできるし、可愛がってやることもできる。でもね、私たちはどうやっても上野さんの代わりにはなれないんですよ。私にはそれが気の毒でね……」
「この犬っころ!さっさと帰れ!お前の主人は死んだんだ!そんなことがまだわかんねえのか!」
「またあの犬が来てるよ、お前さん」
「ふん、知ったことか。おい、この残飯、いらないのなら俺が捨ててくるぞ」
「はいはい、お好きなように」
「では皆さん、大きな声と拍手でお迎えください!忠犬ハチ公像と、モデルとなったハチです!!」
「ハチー!」「可愛い!!」「耳垂れてる!!」
「ふん……どいつもこいつも、美談に酔いやがって。犬畜生に自分の気持ちを押し付けるんじゃねえよ。お前らが何百人集まったところで、上野先生の代わりになれるわきゃねえだろうが」
「……なあ、犬っころ。お前は偉いやつだよ。褒められても、石を投げられても、それでも変わらずにこうやって毎日来るんだからな。人間様には出来ねぇよ……お?なんだお前、初めて俺の顔を見やがったな。へへっ、ぶっさいくな面だなぁ、おい」
「おい!しっかりしろ、おいハチ!!」
「おい、あの犬っころが倒れてるぞ!母ちゃん、獣医だ!獣医を連れて来い!」
「おい、くたばるのはまだ早いぞ犬っころ!お前が迎えにいってやらなきゃ、英三郎さんが帰れなくなるじゃねえか!だから死ぬんじゃねえ!起きろハチ!!起きろ!!!」
『ずいぶん待たせたねぇ……ただいま、ハチ』
ワン!
- 『ハチ物語』(英題:Hachi story)より一部抜粋 -
*
- 米大統領、秋田犬にエイトと命名。吉田大使が『表敬訪問』 -
昨年末に全米で大ヒットした『ハチ物語』の主役であるハチ(1935年3月死去)と同じ秋田犬の子犬が、ルーズヴェルト大統領夫妻に送られた。秋田犬保存会名誉会長である佐竹義春侯爵と共に太平洋を横断し、北米大陸を横断するという長旅にもかかわらず、子犬は元気いっぱいである。
『エイト』と命名された子犬を、大統領はエレノア婦人と共にホワイトハウスの玄関まで出迎えた。エスコートを担当した吉田茂大使は「日本語で数字の8は末広がりの縁起がいい数字。日米関係も末広がりになることを希望します」と述べたが、エイト君は吉田大使の足元に早速「粗相」をして、大統領夫妻を大いに笑わせた。
- 東西新聞(8月15日) -
*
アメリカ合衆国の副大統領は、大統領継承順位1位であり連邦議会上院議長を兼任する。厳格な三権分立を採用し、招聘がなければ大統領であっても連邦議会への立ち入りすら許さないというアメリカらしからぬ兼任にも思える。
では上院議長以外に純粋な副大統領の職務というものが他にあるのかといえば、これが特にない。万が一の事態があれば大統領を継承する副大統領のオフィスが大統領官邸内に存在しないことがそれを象徴している。
つまり副大統領がいなくとも、政権は運営可能なのだ。
当然ながら閣議に出席する資格はあるが、実働部隊である官僚組織を有する国務省(国務長官)や財務省(財務長官)とくらべると見劣りは否めない。日本の副総理がハム印のない筆頭国務大臣でしかないのに比べるとましともいえるが、当の本人からすれば政権運営の蚊帳の外に置かれている状況では「大統領継承権第1位」という肩書きや扱いが余計に空疎に響いた。
故に初代のジョン・アダムズは「人類の作った最も不要な職」と嘆き、現職の副大統領は「痰壷ほどの価値もない」と、文字通り吐き捨てた始末である。
ホワイトハウスの西棟から小道を挟んだ国務・陸軍・海軍ビルの副大統領執務室において「サボテン・ジャック」こと第32代アメリカ合衆国「副」大統領のジョン・ナンス・ガーナーは、今日も今日とてホワイトハウスからお呼びのかからぬことを、同じ民主党保守派であるウォルター・フランクリン・ジョージ上院議員(ジョージア州選出)を相手に愚痴っていた。
「あの男は結局のところ、自分の選挙と己の名声にしか興味がないのだ」
ガーナーは吸いかけの葉巻を右手に、左手をポケットに突っ込んだまま、灰が床に落ちるのもかまわずに、いらだたしげに執務室の中を歩き回っている。
「自分の地盤であるNY州と東部の有権者という大票田の意向ばかり気にして、オールドサウス(中西部)はアメリカではないかのように思っておる」
そう語るガーナーはテキサス生まれのテキサス育ち。テキサス州選出の下院議員から院内総務、下院議長まで務め上げたという究極の叩き上げである。民主党の大統領候補の指名を勝ち取ったNY州知事のルーズヴェルトは、相伴者としてガーナーを副大統領候補に指名した。民主党はこの東部の名門エスタブリッシュメント一族と中西部の保守派党人という対照的なコンビによって、フーヴァー大統領(共和党)の再選を阻止した(1931年大統領選挙)。
そしてガーナーは以来7年近く、政権から干され続けている。
性格的にも政治的にも典型的な南部男のガーナーと、ニューヨーカーの裕福な家に生まれたルーズヴェルトは水と油。大統領の革新的な政策に、民主党保守派やオールドサウスを代表する「サボテン・ジャック」は悉く反対。昨年には上院議長として最高裁改革に反対し、ホワイトハウスとの対決姿勢を鮮明にした。
こうした一連の行動はジョージ上院議員のような党内保守派の支持を集める一方、大統領の強力な政権支持層である革新派や労働組合、あるいは中道派からも政権内部において足を引っ張る行動として批判の対象となっていた。仮に自分が次期民主党大統領候補指名争いに出馬する場合は、これが枷となるであろうとガーナー自身も考えている。そのため党内情勢の分析に余念がないが、聞こえてくるのは自分にとって不利な材料ばかりだ。
「ロングの残党も、デラノの小僧に降伏してしまったしな」
勧められた葉巻を片手にジョージ議員が応じると、ガーナーのただでさえ厳しい顔がさらに険しいものとなる。
「不甲斐ない連中だ。あれでも南部の男か」
テキサス州に隣接するルイジアナ州知事であったヒューイ・ロング(1893-1935)は、ポピュリズム的な政治手法と敵対勢力への苛烈な対応によりルイジアナ州をロング党で支配。当初はルーズヴェルトの支持者であったが、「待ち」の政治家である慎重居士なルーズヴェルトと次第に敵対。民主党を離党すると、より強力で革新的な「富の共有運動」を掲げてルーズベルト再選を阻止しようとした。
その人気は絶大であり、暗殺されていなければ「もしも」がありえたかもしれない。
保守派のガーナーからすれば革新色の強いルーズヴェルトよりも、共産主義まがいの個人資産への課税を掲げるロングのほうが耐えられない存在だった。ましてルイジアナはテキサスの隣だ。そのためガーナーは内心の不快感を押し殺してルーズヴェルトの再選に協力し、より危険なロングの台頭を阻止した。
しかし一世を風靡したロング党も、頭目亡き後は汚職追求や政敵への違法な迫害が発覚したことから分裂。ロング党の後継者であるリチャード・レッシュ州知事はニューディール政策の支持を表明。公共事業プログラムの受け入れという中央政府への服従と忠誠を明らかにしたばかりであり、反ルーズヴェルト陣営からは「現代のルイジアナ買収」と嘲笑を浴びている始末だ。
ロング党が崩壊したことは好ましいが「ビック・アップル」の権威が高まることはガーナーとして受け入れられない。まして一部でささやかれている3選などもっての外だ。ところが自分が支持基盤のオールドサウスを固めれば固めるほど、現政権を支持する労働組合などの大票田は自分を支持しない。中道派は「勝てない候補」と見なすだろう。他の候補も似たり寄ったりだ。
しかし実際にルーズヴェルトが出馬を表明すれば、間違いなく選挙戦の構図は一変する。
サボテン・ジャックの複雑な胸中と葛藤を見透かすかのように、ジョージ議員が確認する。
「一応お聞きしますが、本当に大統領は3選に出馬されないのでしょうな。仮に出馬されれば私としても対応を考えざるを得ません」
その言葉にガーナーは目を剥いて「当たり前だ!」と怒鳴り返した。
「いくら憲法に規定がないとはいえ、国父たるワシントンですら3選を辞退したのだぞ!あの車椅子男が、ワシントンよりも偉大だとでも言うのか!合衆国民と民主党員はそれほど愚かではないわ!」
力強く断言しながらも、ガーナーの視線は左右にせわしなく動いた。ジョージ議員はそれに気がつかなかったふりをして続ける。
「偉大であるかどうかはともかく、民主党員の間では依然として根強い人気はあります。共和党が本命候補不在の分裂気味である以上、客観的に出馬して勝てると判断してもおかしくはないでしょう。それに先の日中和平交渉の仲介で得点を挙げました」
「あれはヨシダの勝利であって、あの男の勝利ではない!」
感情的に怒鳴り返すガーナーに、ジョージ議員はそれ以上強く言うことを控えた。
ジャパンの駐米大使であるシゲル・ヨシダは、着任以来、ワシントンDCにおいて精力的に人脈作りに勤しんでいるが、むしろルーズヴェルトよりもガーナーと性格的に相性がよい。時折、副大統領執務室で葉巻談義を行う仲だ。先ごろ和平合意が成立した日ソ両国の衝突問題も、ガーナーは国務省よりも先に正確な情報をヨシダ大使から聞いており、閣議の席で得意げにそれをアピールしていた。
昨年末に全米で大ヒットした「ハチ・ストリー」も、ヨシダがガーナーに持ち込んだものだ。オールドサウス出身のガーナー老人はこの手の話が大好物であり、ワシントンDCだけではなく地元テキサスでも積極的に布教して廻った。ルーズヴェルトはむしろそれを冷ややかに見ていたのだが、ヒットするや否や「人間と犬とのすばらしい友情物語である」と手のひらを返す始末。ますますガーナーとの関係はこじれた。
「そもそも私が最初に目をつけたものを。あの腐ったリンゴ頭が……」
「ヨシダ大使も中々強かですな。見え透いたお世辞とはわかっていても、あそこまで露骨なことは中々出来ないものです。しかし米日友好の美名と子犬の可愛さで、そのきな臭さを見事に覆い隠してしまった。それを平然と政治利用する大統領閣下のほうが政治的には上手やもしれませんが」
「汚泥にまみれながらも砂金の粒を見つけ出す執念深さと、それを取り繕う如才なさというわけか。確かにヨシダがやり手なのは認めるが、ルーズヴェルトはそれに乗っかっただけであろうよ」
面白くもなさそうにガーナーは顔を顰めた。現職の副大統領としては政権の成功は痛し痒しだ。失敗すれば副大統領たる自分の責任も問われるが、成功すれば政権内部で自分が埋没しかねない。何より中間選挙を前に政局的に動きすぎれば、党内の反発はむしろ自分に集まりかねない……
業腹ではあるがルーズヴェルトの政局手腕を認めないわけにはいかない。同時に自分の立場も。それを理解しているからこそ、ガーナーは苛立たしげに続けた。
「あの子犬はアキタイヌというジャパン独自の犬らしい。かわいい見掛けをしているが、ああ見えて中々にしつけが難しい犬種らしい。主には忠実で敵対者には苛烈……」
ガーナーは突如「っは!」と鼻で笑った。
「古今東西、独裁者は犬がお好きらしい。あの男、アメリカ国民にもエイトと同じような忠誠を自分に求めるつもりなのか」
「……国家と星条旗ならともかく、大統領個人にですか」
「自分でなければアメリカを救えぬと抜かした男だぞ。それぐらいの思い上がりと思い違いをしていてもおかしくはなかろう。しかしだ」
ガーナーは吸いかけの葉巻を力任せに握りつぶした。
「この私がロングの残党のように尻尾を振ると思ったら、大間違いだ!」
*
ちょうど同時刻、ヘンリー・モーゲンソウ財務長官は国務省長官室でコーデル・ハル国務長官と面会していた。
「実を言うと国務省とホワイトハウスはヨシダ大使より事前に正確な報告は受けていたのだ。それをあまりにもガーナー副大統領が得々と話すものだから……」
閣議の席上におけるサボテン・ジャックの得意げな顔を思い浮かべたのか、モーゲンソウは思わず噴出していた。
「それでは大統領閣下は、既に報告を受けた情報をさも初耳という仕草で聞いておられたわけですか」
「そして『ガーナー君。ありがとう』と締めくくられるわけだ」
まったく性格も意地も悪いとハルは苦笑した。
先に締結された日中和平条約(ワシントン条約)の仲介交渉をアメリカ側で取りまとめたのはハル国務長官とモーゲンソウ財務長官である。実務は前者が、経済面からの締め付けは後者という役割分担で行われた。そしてこの2人がアメリカの極東アジア外交の責任者としての地位を固めるのとは対照的に、大統領肝いりの仲介外交に反対した政権内部やホワイトハウスでの対日警戒論者は、その発言力を低下させていた。
目下この2人の話題はソビエトと満洲、そして日本領朝鮮の3カ国の国境未確定地域で発生した武力衝突であり、それが大陸に及ぼす影響に向けられている。
「国境未確定地域である豆満江沿いの件の丘陵に、日本軍は紛争を避けるために部隊を配置してはいなかった。それはソビエトも同じであり、この地域を諜報活動の拠点としていた。それをソビエト軍が先制攻撃により実効支配しようとした」
「あくまで日本の主張に従えばだ」とハルが付け加える。ハルとしても日本側からの情報提供は重宝していたが、それを鵜呑みにはしない。そして他の情報と比べた結果、モーゲンソウは「極端な解釈の乖離があるとは思えません」という認識をハルに示した。
ソビエト軍の先制攻撃計画を日本の朝鮮軍が諜報活動により察知。高地占領を目指すソビエト軍を日本軍が撃退した(7月末)が、奪還を目指してソ連軍が攻勢を仕掛け(8月初頭)、激しい争奪戦が展開された。
期間だけならわずか1月にも満たないが、ソビエト連邦国防人民委員のクリメント・ヴォロシーロフ(国防大臣相当)が極東戦線以外の第一沿岸軍や太平洋艦隊に動員を発令するなど、本格的な戦争に発展しかねない状況にあったという。
「隠忍自重した-あるいはその能力がなかった日本軍とは対照的に、ソビエトは虎の子の空軍も出して相当激しい爆撃を行ったようだ。問題はこれが極東戦線の司令部の独断によるものなのか、モスクワの意向を受けたものなのかということだが……ヘンリー、君はどう考える?」
年長の国務長官からの問いかけに、モーゲンソウは一度沈黙してから自らの考えを伝えた。
「ブリュヘルはトゥハチェフスキー元帥の粛清に賛成したと聞きます。スターリンの踏み絵と見るべきか、軍内部のライバルをけり落とす好機と考えたと見るべきか。監視役だった人民委員が日本に亡命したことで状況は悪くなっていたと考えるのが自然。あえて軍事的冒険に出るだけの政治的な力があったとは思えません」
「つまりはモスクワの意向による攻勢というのが君の見解か」
「今の赤軍は現地軍の独断専行を、今の赤軍は許容しないでしょう」
「それはそうであるな」とハルは頷く。ソビエト国内の実情は報道統制により海外には伝わってこないが、公式発表や軍幹部の人事を見るだけでも異常事態が進行していることは旧同盟・旧連合を問わず各国情報機関の共通した認識である。
特に昨年のミハイル・トゥハチェフスキー元帥の粛清は、周辺諸国を震撼させた。欧州大戦以降、ロシア帝国を継承したソビエト連邦は国際政治からまったく無視され、ポーランドによい様にあしらわれるなど、かつての大国から一転してまったく存在していないものとして扱われ続けてきた。トゥハチェフスキー元帥の粛清は、その異質さを内外に存分に見せつける結果となった。
「しかし日本軍も、ソビエト機甲師団や空軍を相手に中々持ちこたえたようだな」
「国務長官はソビエトに打撃を与えたという日本の報告を信じられるのですか?実際、件の丘陵からは追い払われているようですが」
「かといって日本軍の一方的な敗退というわけでもなかったようだ。それはこの停戦合意を見ればわかる」
ハルは机の上に広げた停戦合意書を右の人差し指で差す。
ソビエト軍の本格的な攻勢が始まりつつあった8月10日。モスクワにおいて日本の駐ソ連大使の重光葵が、マクシム・リトヴィノフ外務人民委員(外務大臣相当)と会談。翌日には停戦に合意するという急転直下の解決を見た。
その条件は張鼓峰頂上の日本軍の確保を認めたうえで、両軍を後退させて非武装地帯とするというものであり、つまるところの現状維持。手厳しく言うならソビエト軍の攻勢による軍事的な成果を全て放棄するに等しいものであった。
「赤いヒグマが一度咥えた餌を、何の理由もなく吐き出すわけがない。モスクワが一度、様子見もかねて殴ってやろうと考えたのだが、思ったより手ごわかったので引いたと見るのが自然だろうな」
「ではこのソビエト軍の明らかな戦力の逐次投入は」
「ブリュヘル元帥が積極攻勢に消極的、もしくは反対であったということの裏づけとなるだろう。極東戦線の司令として長年、日本と対峙してきたのだ。その実力は誰よりも理解していたはずだ。だが残念ながら、戦争を始める決定権は彼にはなかったということだ」
ハルはそう締めくくると杖を片手に立ち上がり、壁に貼り付けられた地図へと歩み寄った。
北米大陸が中心となったメルカトル図法の地図では、日本はまさに極東である。ハルはこのユーラシア大陸がインドを境に東西に切れた地図とは別に、日本やハワイが中心にある地図の前に立った。同じ世界地図が極東太平洋を中心にすると、まるで異なる世界に見えるのが、ハルには妙におかしかった。
「不凍港を目指して南下する伝統的なロシアの政策は、ソビエトとなった今でも変わりはない」
「生物としての本能でしょう。寒いのは誰でも苦手です」
「あれだけ広いのだから国内で我慢していろというのは酷というものか……」
ハルは手にした杖で、ソビエト連邦周辺の国を東から西にかけて順番に指していく。
「フィンランドにバルト3国に、ポーランド、ルーマニア王国。帝政イランにトルコ、アフガニスタン王国、英領インドに中華民国、満洲と日本。そしてベーリング海を隔てて、わがアメリカ合衆国のアラスカ州と国境を接している。このほかにもスウェーデンとも国境があるが、どれひとつとしてソビエトと友好関係にある国はない」
モーゲンソウは反論を挟まず黙って聞いていたが、「チャイナ」に怪訝な声を上げた。
「つい先日までチャイナはソビエトの友好国であったと記憶していますが」
「北伐までは断言出来るだろう。張学良が国民政府に帰順(1928年)するまではな。それ以降は国民党とコミンテルンは友好関係にあったとはいえ、鉄道利権をめぐって争いが耐えなかった。皮肉にも満洲事変(1931年)によって張学良が追放されたことで、南京の国民政府とモスクワとを隔てる『障壁』がなくなった」
地図のほうを向いたままの国務長官がどんな表情をしているか、モーゲンソウには容易に想像出来た。弁護士としての性根が抜け切れぬあたりが、この老人の限界である。それを弁えているからこそ大統領の忠実な閣僚として振舞うことが出来るのだろう。
ハルは「つまりだ」と満洲のあたりを指していた杖を、ポーランドへと向けた。
「日本にとっての満洲というよりも、チャイナにとっての満洲と考えたほうが理解しやすいかも知れんな。ドイツにとってのポーランドのようなものだ。大国間の緩衝地帯としての役割はあるが、それ以上のことは出来ないし、仮にそんなことを実行に移せば国家の命取りだ……根幹を日本に押さえられている満洲はともかく、ワルシャワの政府がその点を理解出来ているとは思えないが」
ドイツの名前が出た途端、モーゲンソウの顔色が曇る。
父親がドイツから移民したユダヤ人である彼にとって、現在のドイツの政権の民族政策は決して好ましいものではない。父から受け継いだ不動産業を経営する身として、また閣僚であるモーゲンソウは自らの感情を優先するような真似こそしないが、あえて好き好んで手を結びたいとは思わない相手だ。
ハルもそのことは十分に承知している。しているが故にモーゲンソウの声が強張ったのを意図的に無視した。
「大統領閣下にとっては、ポーランドは東部の民主党支持層であるポーランド系住民の出身国以上の意味も、そして関心もないだろう。ましてやチェコスロバキアの運命になど関心はないはずだ」
「確かに閣下は国内政治よりも国際政治を優先されることはないでしょう。日中和平交渉の仲介も外交的な得点として考えられておられるようですし……ところでモスクワの極東における軍事的な冒険政策は、欧州政治がヒトラーに掛かりきりの状況を見越してのものと考えるべきでしょうか」
「さて、そればかりは書記長閣下に聞いてみないことには」
ハルはそういうとモーゲンソウのほうを振り返り、肩をすくめて見せた後、チャイナの本土を掌でたたいた。
「日本軍は上海に現在6個師団を駐屯させているが、この9月からワシントン講和条約に従い順次撤兵させる予定である。最終的には海軍の陸戦隊と陸軍の2個師団を除き、全て撤退するつもりだそうだ」
「つまり力の空白が生まれるわけですか……」
起こりうる事態は容易に想像可能だ。今度はモーゲンソウがハルに見解を尋ねた。
「長官はチャイナの内戦が再開される可能性は何パーセント程度だと考えておられますか?」
「蒋介石が党の軍事委員会主席を辞任せずに踏ん張っているが、日本軍が撤退をすれば辞任せざるを得ないだろう。その段階になれば、後はもう転げ落ちるだけだ。すでに政権を離脱した共産党系勢力は不穏な動きを見せている。火薬庫の上でコサックダンスをしているようなものだ」
「いっそのこと、日本軍の撤退を遅らせるように依頼してはどうでしょう。日本軍が上海に居座る現状では、浙江財閥も党内の主導権争いには資金を出さないでしょうし。日本軍を仮想敵として、チャイナを団結させるのです」
モーゲンソウ財務長官の提案に、ハルは皮肉っぽい笑いを浮かべて「それで日本に何の利益があるのだね」と応じた。
「かつての日本軍ならいざ知らず、今の東京はやたらと国際的な評判を気にする政権だ。それにわが合衆国政府が仲介した条約案を露骨に無視されてはな」
「それは確かにそうですな。素人考えでした」
「……ひょっとするとモスクワの挑発行動の目的は、チャイナで内戦を再開させることにあるのかもしれないな」
ハルの呟きにモーゲンソウは「それはいかなる意味でしょう」と尋ね返す。ハルは再び杖を手に地図を向き合うと、満洲と欧州を交互に指しながら説明を始めた。
「ソビエトにとっては日本軍の北上を防ぐ狙いがある。日本軍が介入せざるを得ない状況を大陸で作り出すことで、結果的に満洲国境は手薄になる。欧州情勢が決着する前に、極東においてソビエト有利の局面を作り出す……むしろ日本軍が上海から撤退する直前の今だからこそ、仕掛けたのかもしれない」
「では戦線拡大に反対したブリュヘル元帥は」
「ホワイトハウスの宮仕えも大変だが、クレムリンよりはましだろうな」
再度振り返ると親指を立てた右こぶしを下に向けながら語ったハルの言葉に、モーゲンソウは黙って頷いた。
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アメリカ連邦捜査局(FBI)のクライド・トルソン副長官は、捜査局時代にジョン・エドガー・フーヴァーが見出した人材である。
大学卒業後に3人の国務長官の秘書官を務めたトルソンは法学の学位があり、次のキャリアステップのための腰掛として捜査局(後のFBI)の採用試験を受けた。そしてフーヴァーはトルソンの能力は無論、職務への勤勉さと組織への忠誠心、そして何より長官個人に忠実であることを評価。入局わずか2年で副長官に抜擢(1930年)した。
そのトルソンは今、長官執務室においてフーヴァーと席を挟んで向かい合うように対面している。職務中は職務以外のことを考えないとされるトルソンが珍しく時間を割いてほしいと要望したため、フーヴァーは快くそれを受け入れたのだ。
だが肝心のトルソンは膝の上でこぶしを硬く握り、唇をかみ締めながら何度もハンカチで汗をぬぐうばかり。そんな部下を見かねたのか、それとも単に次の予定の時間が差し迫っていた為か。フーヴァーの方から声を掛けた。
「クライド君。何か私に尋ねたいことでもあるのかね?」
フーヴァーは、普段の彼を知るものからすれば信じられないような柔らかな声で、自らの半身と公言して憚らない部下に語りかけた。
この2人の関係は実に奇妙であり、下世話なものは同性愛の関係にあったと噂したが(フーヴァーは生涯独身であった)、それを裏付ける証拠は何一つない。しかし親しい友人というにはあまりにもいびつな関係であることは誰の目からも明らかであり、上司と部下というには、あまりにも私生活で結びつき過ぎていた。
おそらく他者の介在を許さないだけの何かがあったのは確かだろうが、それは2人以外には理解出来ないものだったのだろう。
そのトルソンはしばらくの逡巡の後、意を決したかのように口を開いた。
「何ゆえ閣下はイワクロ・ファイルのメンバーを放置しておかれるのでしょう。すでに何人か、特に大統領側近の数人は確実な物証を確保してあります。いつでも逮捕は可能です」
「その点はすでに先日議論した通りだ。中間選挙を前に無用な政治的混乱を避ける。また逮捕するよりも、泳がせてアメリカ共産党の組織やコミンテルン系の団体や人脈を探るほうが効果的だとな。最後は君も反対しなかったと記憶しているが」
「反対はしておりません。しかし賛成もしておりません」
トルソンが彼にしては珍しく強い口調で反論するが、フーヴァーは気分を害するでもなくニコニコ笑いながらそれに応じた。
日本陸軍の諜報機関からもたらされたイギリスとアメリカの両政府に浸透しているソビエトのスパイリストは、持ち込んだ中佐の名前を冠して「イワクロ・ファイル」と呼ばれている。FBIの調査の結果、少なくともリストに名前のある人物のほとんどはスパイの裏づけがとれた。
問題なのはその中に財務省や国務省の現役高官、さらには大統領の友人として補佐官となっている人物が含まれていることである。
FBIは首脳会議の結果、財務省や国務省には長官に直接「注意喚起」をする一方、ホワイトハウスには監視をつけるだけで直接的な接触は避けることを決定している。フーヴァーは共和党員ではあったが、ホワイトハウスと敵対することや、ましてや政権を打倒することを目的としているわけではない(無論それが必要とあれば、この怪人は一切の躊躇なくそれを実行していただろう)。あくまでフーヴァーはFBIをアメリカ政治における神聖にして不可侵な存在にすることが目的なのだ。
トルソンにとってフーヴァーの意向は絶対である。
だからこそ「知りながら泳がせる」という行為は、かえってフーヴァーを政治的なリスクにさらすのではないかという危惧を持っていた。そうした懸念を率直に諫言するトルソンの態度と忠誠心に、フーヴァーは大いに満足しながらも、にこやかに告げた。
「クライド君。君の気持ちはうれしく思うよ。だがそれは心配ないと断言出来る」
「長官、これはマフィアから献金をもらうのとはわけが違う話であります。いくら現場が奮起してスパイや諜報員を取り締まったところで、国家の中枢部の意思決定過程に情報提供者以上の直接的な工作員が関与していては、失われる国益は計り知れません。せめて1人か2人でも逮捕し、アリバイ作りをするべきではないでしょうか」
「ふむ……確かに君のいうことにも一理ある。だがねクライド君。この件に関しては心配は無用なのだ。何故なら」
フーヴァーはそういうと椅子から立ち上がり、緊張して身を強張らせるトルソンの傍にまで歩み寄ると、その耳元で囁いた。
「……大統領閣下は『全て』ご存知だからね」
・え?チャーチルは萌え豚?!(違う)この爺さんも大分拗らせてるよなあw
・冒頭のやつはオリジナルで私が書きました。昔はなんとも思わなかったのに、こういうシンプルなのが段々と涙腺に来るようになるんですね。
・ファラの先輩エイト君。ちなみにメス。
・薔薇おじさんは犬がお好き。なお政治的な意味合いがあるかどうかは不明。
・サボテン・ジャックのあだ名の由来は、ガーナーがテキサス州下院議員時代に、州花を決める際にウチワサボテンを熱心に主張したことから、それを揶揄してついたそうな。そして選ばれたのはブルーボンネットw
・レット・ステイトの今からは想像も出来ませんが、当時のテキサス州は当時民主党の一党支配。なんでだって?そりゃ選挙制度いじって少数派を締め出して(ry)つまり当時の民主党保守派は今の共和党保守派と似たような感じの政治主張と立ち位置。アメリカの選挙地盤はころころ入れ替わるからややこしい。
・ブリュヘルがアップを始めましたといったな。あれは嘘だ。そしてまた戦闘シーンなし。
・スターリン「人は城(で一網打尽に)、人は石垣(の下敷きに)、人は堀(に埋めろ)、情けは無用、仇は敵なり。というか全て56せ♪」
・なおブリュヘルさんはモスクワ召還後、「自白」を断固拒否して壮絶な拷問の末に獄死。アカとはいえさすがに気の毒だわな。
・ホモの嫌いなアメリカ人なんかい(いろいろ危険なので自粛