満洲日日新聞 / ベルギー王国 ブリュッセル 同国オリンピック委員会事務局 / 東西新聞 / 東京日日新聞(1938年7月-8月)
『きつくても、がまんすること。がまん、がまん』
サムエル・カマウ・ワンジル(1986-2011)
- 満洲国体育協会会長、東京五輪は「個人参加」で -
(中略)…である。前々回のロサンゼルス五輪(1932年)、前回のベルリン五輪(1936年)に続く参加見送りの決定に、関係者の落胆は隠せない。満洲外務局の蔡運升局長は「残念ながら我が国のスポーツ団体の各種競技は未だに国際試合に耐えうるレベルにはなく、各種団体を支援しながら国全体としてのスポーツの振興と選手個人の能力底上げを図っていく」との声明を発表した。日本国内の各種団体から要望が相次いでいた満洲国参加問題に政治決着が図られたことになる。
- 満洲映画協会理事長が選手の支援を表明 -
(中略)甘粕正彦氏は満洲国協和会の理事職と中央本部総務部長を更迭された後、満映協会の理事長に就任された。同氏が満映改革とその振興に尽力された功績は計り知れない。
また甘粕氏はインタビュー当日に発表された満洲体育協会の決定に「無念であろう。選手の気持ちを考えれば、その無念は察するに余りある」と悲嘆の涙を流された。翌日、満映は東京五輪の参加を目指す選手へのサポートを表明し、甘粕氏の言葉が真実であったことが証明された。
- 満洲日日新聞(7月15日) -
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- 東京大会組織委員長の徳川公爵が政府に支援を訴え -
ズデーデン問題やスペイン内戦など国際情勢に暗雲が立ち込める中、東京五輪組織委員会委員長の徳川家達公爵(元貴族院議長)は、政府に対して聖火リレー問題を始めとした諸懸案の解決に向けた更なる努力と財政支援を要請した。徳川委員長によると林総理は財政支援に関して「前向きに検討したい」と即答を避けたという。
(中略)メインスタジアムの建設予定地問題に関しては、明治神宮外苑を管轄する内務省寺社局を総理官邸が押し切る形で決定され、10万人規模が収容可能な大規模スタジアム建設が決済みだ。またボート・自転車・射撃に水泳など専用施設を必要とする競技場の建設と同じく、海の玄関口となる横浜を中心とした主要幹線道路の整備契約やホテル建築も着々と進んでいる。この他にも関係者に対する英語教育の充実など関連事業も合わせて、政府からはすでに組織委員会に55万の補助金が交付されている。
膨れ上がる大会予算を疑問視する声は根強い。政友会の河野一郎代議士が「世界情勢が緊迫しているのに、飛んだり跳ねたりしている場合か」と発言し、懲罰委員会の騒動になったことは記憶に新しい。ただこれは河野代議士個人の見解というわけではない。政友会の北海道・東北選出の議員の間では同年の札幌大会の予算と比較し「関連予算が東京偏重で札幌大会のインフラ整備が後回しになっている」という批判は根強い。永井柳太郎文部大臣(民政党)は連日苦しい答弁を強いられているが、伝統的に財政整理の傾向が根強い民政党内からも「五輪と名前がつけば何でも通るかのような風潮はいかがなものか」と予算の大盤振る舞いを懸念する声が出ている。
同年に晴海で行われる紀元2600年万国博覧会の予算案作成も本格化するなか、大会委員会の一部からは経費削減のために前回のベルリン五輪において著しく拡大した大会規模を縮小するべきだとの声も上がる。ただ徳川組織委員長は衆議院予算委員会における参考人として出席した際の答弁で大会規模の縮小を否定した。次期国会において政治問題化する恐れもあるため、追加補助金については慎重に対応を見極めるものと思われる。
- 東西新聞(7月15日) -
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1830年から70年代のイギリスは、王立海軍を背景にした自由党のパーマストン外相(後に首相)による会議外交の全盛期であった。
パーマストンは問題が生じる度に全ての利害関係者を出席させた国際会議を主催。同時に内々では大国同士の話し合いにより議論をリードした。こうしてパーマストンは直接的な武力衝突を避けることで、欧州大陸に一定の平和をもたらし、同時に国際政治におけるイギリスの影響力拡大に成功した。
今からおよそ100年前。ベルギー王国のオランダからの独立と永世中立国家化も、パーマストンの議会外交の成果である。
1839年のロンドン条約においてベルギーは初代国王にドイツ系王族を、フランスのブルボン朝から王妃を迎えた。歴史的経緯から経済的にはカトリック諸国(二重帝国や当時のフランス王国)との関係が深いが、王室はプロテスタント。パーマストンは意図的に利害関係者の関係を複雑化させることで、この新興王国を永世中立国とする担保とした。
初代国王となったレオポルト1世自身もそれを理解していた。彼はロシア皇帝の親友であり、ヴィクトリア女王と自分の甥のアルバートを結びつける役割を果たすなど、ベルギーの国際的な地位確立と王国安定のために奔走した。
パーマストンの会議外交は第二次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争(1863-64)においてプロイセンの鉄血宰相の前に敗れ去った。
そして先の欧州大戦において建国以来守られ続けてきたベルギーの永世中立を破ったのも、ビスマルクの作り上げたドイツ帝国軍である。
フランス侵攻のための無害通行権を要求したドイツ軍に対して、当時のベルギー国王アルベール1世は「ベルギーは道ではない!国だ!」とその要求を拒絶。「まだ時間はある。再検討されたし」という更なる通告に「人を何だと思っているのだ」と激怒し、国境沿いのすべての橋や道路を破壊して、徹底抗戦を内外に宣言した。
イギリスはこれを受けて参戦を決定。足掛け4年にもわたる世界大戦の引き金にもなった。
アルベール1世の中立への信念は強固なものであり、文民政府からロンドンに対して事前に要請するべきだという提案に反対し、ドイツ軍が国境侵犯をするまでそれを行わなかった。軍事指揮権の独立にもこだわり続け、連合軍から「どちらの味方なのだ」と苦言を呈されたこともある。それでもアルベール1世は最後までベルギー国内にとどまり続け、このモザイク国家の統治者としての責務を果たした。
故クーベルタン男爵の後を受けて第3代国際オリンピック委員会(IOC)会長を務めるアンリ・ド・バイエ=ラトゥール伯爵はベルギー人貴族である。彼はベルギーオリンピック委員会の創設メンバーであり、1920年のアントウェルペン夏季五輪の組織委員会の一員として大会運営に貢献した。
1916年のベルリン大会が欧州大戦により中止され、ベルギー国内にも戦禍の爪あとが色濃く残っていた時代。ラトゥール伯爵やベルギー政府は、この大会を通じて世界にベルギーの復興と近代オリンピックの再開を高らかに宣言した。
敬愛すべきアルベール国王の下、ベルギー国内は普段の民族対立が嘘のように一致団結。参加国中5番目のメダルを獲得した。サッカー決勝におけるチェコスロバキアの謎の棄権による優勝という白けた展開もあったが、国王陛下はむしろアマチュアらしい大会として、そうした混乱すら喜んでいた。ラトゥール伯爵、そしてベルギー国民にとってまさに一世一代の晴れ舞台であった。
そのため前日のスイスのジュネーブ国際連盟事務局において行われたジョセフ・ルイ・アン・アヴェノル事務総長の会見における発言に、ラトゥール伯爵のみならず全ベルギー人が激高していた。
『アントウェルペン五輪において、旧同盟国5カ国(ドイツ・オーストリー・ハンガリー・ブルガリア・トルコ)の参加を認めるべきであった。近代五輪が平和の祭典の復興を目指すというのなら、少なくともそうしておけば、ここまで国民同士の感情が拗れることはなかっただろう』
「あのフランス人、金勘定以外のことを口に出すと碌なことにならん!」
ラトゥール伯爵とベルギー人にとってアヴェノル発言はベルギーの戦後復興と栄光を象徴する大会の否定でしかなく、直ちに連盟事務局に厳重な抗議を行っている。折悪しく次の五輪の開催国の大使が訪問したことで怒りがぶり返したのか、ラトゥール伯爵は思いつく限りの罵詈雑言を並べ立てる。
「全く冗談ではない、冗談ではありません。ドイツにも国民感情があるように、我が国にも国民感情というものがある。2年前までベルギーを道路と見做し、国内で殺し合いをしていた相手と素直に握手出来るわけがない」
『感情の問題ですからな。やむを得ません』
「感情の問題ではない!オリンピック憲章にかかわる問題です!」
とんだトバッチリなのは、ラトゥール伯爵の前で投げ首思案とばかりに首をかしげる駐ベルギーの日本大使の佐藤尚武だ。
佐藤は国際連盟の事務局長やポーランド公使などを歴任した大物外交官である。満洲事変勃発(1931年)当時は駐ベルギー特命全権大使として連盟総会における対応に苦慮した。日本が国際連盟を脱退した後、昭和11年(1936年)に31年間務めた外務省を退官したが、国際連盟への再接近を図る林総理の要望を受け入れ、昨年からベルギー大使として復帰。東京夏季五輪・札幌冬季五輪の開催にむけた国際社会でのロビー活動に従事していた。
その佐藤からすればまさに今回のアヴェノル発言は貰い火でしかない。
自国の要人の発言ならばともかく縁も縁もないフランス人の、それも日本が脱退した連盟の事務総長の発言だ。しかし亜細亜初の東京夏季五輪と札幌冬季五輪の成功のためには、IOCとの友好関係は必要不可欠。同時に次期外相候補の呼び声も高い佐藤は、彼個人として連盟事務局との関係改善の重要性も理解していた。
佐藤は兵士の相談に応じる従軍牧師のごとく、五輪旗とベルギー国旗の掲げられた同国オリンピック委員会の事務局室でラトゥール伯爵の憤懣にひたすら「はい、はい」と頷き返しながら、意図的にフランス人の肩を持つような発言をした。
「それは確かに。しかしですな委員長閣下。オリムピックが古代ギリシャにおける平和の祭典の復興を目指すというのであれば、そうした和解の試みがあってもよかったのではないか。このように事務総長個人の考えを述べられただけではありませんか?」
「オリンピックだよサトゥー大使。それこそ冗談ではない!冗談ではないわ!」
尚武は「佐藤です」と冷静に返したが、ラトゥール伯爵のイントネーションはそのままであった。
「国際政治のためにオリンピックがあるわけではない!万国博覧会の副産物のような扱いからようやく脱し、2週間前後の開催期間や種目も慣例化しつつある。だというのに政治的な和解演出のためのオリンピックなど、それこそ憲章精神の否定ではないか!」
『なるほど。幸いと申しては何ですが、前回の人民オリムピック大会は中止となりました。あまり政治色を持ち込まれては、大会そのものの意義が問われます』
「サトゥー大使、オリムピックではなくオリンピックだ」
人民オリンピックはベルリン五輪(1936年)に開催地争いで破れたスペインの共和政府が、自国での一方的な開催を宣言したものだ。ベルリン五輪に時期を合わせるように各国からの亡命ドイツ人や人民政府に賛成する国など世界22カ国から6000人余りが首都バルセロナに集まったとされる。
スペイン内戦(1936年-)の勃発により開催そのものは見送られたが、一部はそのまま義勇軍として人民政府軍に加わり、国際旅団へと発展した。対する反乱軍にはドイツやイタリアなどの義勇軍が参加し、現在に至る。
その点で言えば、人民オリンピックこそファシズムと人民戦線の最初の衝突とする見方も可能だ。IOCとしてはそのような見解は到底受け入れられるはずもない。
「サトゥー大使、やはり人民政府の崩壊は必至ですかな」
ラトゥール伯爵は2年目を迎えたスペイン内戦の日本政府の見解について尋ねた。「佐藤です」と律儀にイントネーションを訂正してから、佐藤は自らの見解を述べた。
『そうですな。空軍と海軍の実戦部隊はバルセロナ政府に、陸軍は大多数が反乱軍に所属しましたが、4月にはフランコ将軍派の地上軍が地中海岸に到達したことで大西洋と地中海が繋がりました。5月のパロス岬沖海戦では一矢報いたようですが、人民戦線の支配地域が南北に分断された現状には変化ありません』
「7月後半から人民政府軍が積極攻勢に出るとの報道もあるようですが」
『無理でしょうな。エブロ川周辺で大攻勢に出るようですがフランスで人民政府が崩壊した以上、積極的な支援など見込めますまい。むしろ彼らにシンパシーを持つブルム政権ですら直接的な軍事支援には及び腰だったのです。英国の地中海艦隊も沈黙する状況では、イタリアの支援を受けた反乱軍に勝ち目などないでしょう』
『問題はいつ崩壊するかという段階です』と結論付けた佐藤に、ラトゥール伯爵は成る程と頷いた。
そもそも開催地争いに負けたからといって大会をボイコットし、対抗するような大会をぶつけてきた連中がどうなろうと知ったことではない。また保守的なベルギー人であるラトゥール伯爵個人としても、教会や保守層を弾圧する人民戦線に好感を持っていなかった。
佐藤は委員会事務局のスタッフが差し出したワッフルを齧りながら「次の大会ですが」と続けた。
『おそらく次の東京大会には、フランコ将軍率いるスペイン政府が参加することになるのでしょうな……まさかフランスはボイコットすると?』
「……しないとも言い切れませんな。とはいえ今の段階で次のフランスの内閣の方針を予想するぐらいなら、次のジョッケクルブ賞の全出走馬の順位を的中させるほうが、まだ現実味がある」
ラトゥール伯爵は渋い顔で腕を組んだ。
そもそも前回のベルリン大会ではドイツ政府が旧東プロイセンのメーメル(クライペダ)領有問題を批判してリトアニアの参加を拒否するなど、政治利用の先例が作られてしまっている。仮にフランコ将軍が年内にでも内戦に勝利し、次の東京大会に参加することを表明すれば、人民政府を支援していた欧州の左派政権の間でボイコットが続出しかねない。
逆に言えばスペインの参加を拒否すれば、ドイツやイタリアがボイコットするかもしれない状況が発生しうる。肝心のフランスは次期政権の枠組みすら見えない状況。これではラトゥール伯爵ならずとも安易な回答が出せなかった。
「これ以上、紛争の火種を持ち込まれたくありません。聖火リレーの規模を縮小しようという日本政府の対応を、IOCとしても私個人としても支持します」
『IOCには満洲国選手団の個人参加を認めて頂き、感謝しております』
ラトゥール伯爵の言葉に、まさにわが意を得たりと佐藤が頷く。ラトゥール伯爵は「何ゆえ満洲の選手団の参加問題に、貴国が尽力されているかはわかりませんがね」と皮肉っぽく発言した。
佐藤はこれには直接答えず『あくまで満洲国政府の決定でありますので』と冷静に切り返した。
『開催国として関心を持つのは当然のことだと考えます。満洲国代表として参加する形が日本政府としては望ましいですが、満洲のためにボイコットが相次いでは本末転倒というのが東京の考えです。中華民国での内戦勃発が必至な状況では、亜細亜における最初のオリムピックが戦火の中で行われる状況だけはなんとしても避けたいのです』
「サトゥー大使、オリムピックではなくオリンピックです。ところで満洲は独立国ではありませんでしたかな」
『佐藤です。私はあくまで満洲国体育協会の決定を伝えているだけですので』
平然とそう言い返す佐藤の面の皮の厚さに、ラトゥール伯爵はそれ以上反論せずに話題を変えた。
「では、そういうことにしておきましょう。東京夏季オリンピック、および札幌冬季オリンピックはアジアにおける初めての大会ですからな。平和の祭典としての環境を整備したいという日本政府の考えは、私としても望ましいところです。それにこれ以上、オリンピックのアマチュアリズム精神を踏みにじるような行為はIOCとしても受け入れがたい」
ラトゥール伯爵は内心の嫌悪感を隠そうともせず「ベルリン大会の愚は避けなければ」と吐き捨てた。
オリンピックを平然と政治利用し国威発揚につなげようとする現在のドイツ政府に対して、ラトゥール委員長は開催地変更をちらつかせて、ユダヤ人選手の排除をけん制した。
ベルギーの戦後復興の象徴であるオリンピックが開催されたアントウェルペンは欧州におけるダイヤ取引市場の中心であり、ユダヤ人コミュニティが重要な地位を占めている。モザイク国家のベルギーとしては特定の民族だけを対象にした排除政策など受け入れられるはずがない。
そして1936年は一時的にドイツの現政権の人種政策が緩和された年でもあった(終了後は直ぐに元へ戻ったが)。
ラトゥール伯爵はそうした経緯を語りながら、自嘲するように続けた。
「確かに私のしたことは徒労だったかも知れません。最終的にはドイツ政府のオリンピックを認めたわけですからな。しかし意地は見せたつもりです。あの時、1916年大会に続いてドイツから開催権を取り上げていれば、近代五輪はまさしくその瞬間に死を迎えていたでしょう」
『オリムピックの政治利用は宿命的に避けられないと?』
「サトゥー大使、オリムピックではなくオリンピックです。如何にアマチュアリズムを掲げたところで国別対抗である以上、国威発揚という考えが入ることはやむをえないでしょう。残念ながら、いや幸いといってよいのかわかりませんが、前回の五輪は商業的に見れば大成功でありました。ブランデージなんぞはナチスの下請けのように成り下がる始末で……」
ラトゥール伯爵が心底忌々しげに名前を挙げたアベリー・ブランデージは、アメリカ代表として近代五種競技と十種競技に出場した経験をもつ米国財界人であり、現在IOCのアメリカ代表の理事を務めている。
全米体育協会(AAU)会長、アメリカオリンピック委員会(USOC)の会長、国際陸上競技連盟(IAAF)の副会長を兼ねる国際スポーツにおける重鎮であり、ユダヤ人選手排除に反発してベルリン五輪ボイコットを掲げてIOCを追放された前任者とは対照的に、ベルリン五輪の成功と現在のドイツの政権を賞賛するような言動を繰り返していた。
「ボイコットなど論外です。しかしあえてナチスの提灯持ちをする必要がどこにあるのか」
『私としては何とも……』
「別に答えていただかなくても結構。ただの雑談ですので……しかしサトゥー大使。オーストリー合邦を見るまでもなく、このままナチス政権が続けば、どんどん参加国が減っていくのではないかという懸念すら覚えるのも事実です」
『欧州における唯一の代表たる第三帝国ですか?』
「ナチスによる平和か、笑えぬ冗談ですな」
ラトゥール伯爵はジョークとして笑い飛ばそうとしたが、それが引きつった笑みしか成らないことを自覚した。
故クーベルタン男爵の言葉として有名となった「重要なのは、参加することである」という発言は、実際には別人のものである。
1908年のロンドン夏季五輪に参加したアメリカ人選手団は、当時の英米関係の悪化に伴いロンドンで嫌がらせを受けた。辟易した選手団はセント・ポール大聖堂で受けた説教が「参加することに意義がある」というもの。この言葉でアメリカ人選手団は奮起し、最後まで参加を続けた。これに感銘を受けたクーベルタンが演説で引用したため、彼の言葉として広く伝わっている。
ラトゥール伯爵とは異なりクーベルタン男爵(1937年死去)はベルリン五輪の成功をひどく喜び、ベルリン大会を後続の大会は規範にするべきだと発言している。アベリー・ブランデージを初めその考えに賛同する委員は多い。
ラトゥール伯爵は前出のクーベルタン男爵の発言として広まっているそれをもじり、次のように述べた。
「重要なのは大会が継続されることだと思うのです」
『失礼ながら委員長、アマチュアリズムと平和の祭典という精神を失った大会を継続して、何の意味があるのでしょうか』
「サトゥー大使。開催国の大使としてはいささか不穏当な発言ではないかね……大使の言いたいこともわかる。しかしだ。例え明日死ぬ定めにあっても、人は生き続けなければいけない。人も組織も、そして国もだ……例え後世、私の名が第三帝国の宣伝マンとして残ったとしても、ベルリン五輪で活躍した選手の輝きだけは本物だと、私は信じたいのですよ」
佐藤大使は『感傷的に過ぎますな』と返したが、その表情は実に柔らかいものであった。
アルベール国王は山岳事故により落命したが、独立を守るためにいかなる犠牲をも覚悟するという国王を支持した精神はベルギー国民に受け継がれている。そしてラトゥール伯爵はようやく自然な笑みを作ると、次の開催国の大使に向かって、IOC委員長としての決意を宣言した。
「『自己を知る、自己を律する、自己に打ち克つ、これこそがアスリートの義務であり、最も大切なことである』-これは実際のクーベルタン男爵の言葉です。私は国も人も同じことだと思うのですよ。例え政治的なアマチュアリズムといわれようとも、私は負けん。最後まで足掻いて見せますよ」
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- 林総理、芸術競技を「素人喉自慢じゃないんだから」と発言。直後に撤回 -
五輪を迎えるホスト国の総理としてはありえない暴言だ。林銑十郎総理は大日本体育協会の年次総会の冒頭挨拶で「芸術競技がスポーツの祭典たる五輪競技である意味がわからない。素人喉自慢大会じゃないんだから」と発言。続けて「いくらスポーツをテーマにしたものとは言え、絵画や作曲をどう評価すればよいのか。万人が納得する芸術作品などあるはずがないではないか」と述べた。
発言当初は列席していた徳川組織委員会委員長も大笑するなど、緊張感に欠けていたが、林総理は挨拶の最後に「不適切な発言であった」として撤回を表明し、陳謝した。
そもそも東京五輪の23競技は前年のワルシャワでのIOC総会で決定されたものであり、IOC委員でもある徳川公爵の態度は軽率のそしりを免れ得ない。林総理の態度にいたっては論外だ。元帥大将となり男爵に叙爵されて気が緩んでいるとしか思えない。
阿部内閣官房長官は会見で「総理は問題意識を共有するために発言したものであって、東京五輪から芸術競技を削除するべきという意味合いのものではない」と発言したが、記者団から「意味がわからない」と集中砲火を浴びた。
- 東西新聞(7月16日) -
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- 日本放送協会、『素人喉自慢大会』を8月15日より一部地域を除いて全国放送へ -
これも林総理様々であろうか。第1回「のど自慢素人演芸会」が石川県の金沢放送局で開催され、書類審査や県内の予選を勝ち抜いた20名が歌に漫才に浪曲と思い思いの芸を披露した。倍率23倍という驚異の難関を潜り抜けただけあって、各出演者ともに非常にレベルが高い。
特別賞には地元出身の林総理の物まねを披露した石川県内で酒場を経営するAさんが選ばれ、会場は大いに盛り上がった。石川県内では放送の新規契約が続出。放送協会としては濡れ手に粟の大もうけである。
記者団から演芸会の感想を尋ねられた阿部内閣官房長官は「ラジオ放送が活発になることは日本経済にとっても望ましい」とのコメントを読み上げた。
- 東西新聞の文化面(8月16日) -
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- 満蘇国境で日本軍とソビエト軍が衝突?死者多数との報道も -
これほどまでに大規模な会戦があったのなら、現在まで報道されていないのはいったいどうした理由か。張鼓峰は満洲国の領土が朝鮮とソビエト連邦領の間に突き刺すようにある標高150メートルの丘陵であり、西方には豆満江が南へと流れていく国境線未画定地域である。ここでソビエト極東戦線軍所属の機甲師団と関東軍が衝突したとの報道が入った。数は不明であるが戦死者も出た模様である。
- 東京日日新聞(8月16日) -
(同日付けの東京日日新聞は、新聞紙法27条適用により販売差し止めとなった)
・幻の東京五輪(1940)。(開催)でっきるっかな、(開催)でっきるかな。はてはて~
・幻の16代将軍が組織委員長。こう、床の間のすわりがいい人なんですよね。家柄でしょうか。
・40年の五輪に反対した河野一郎が64年大会を取り仕切る歴史の皮肉。
・幻の明治神宮外苑スタジアム建設決定
・オリムピックか、オリンピックか。それが問題だ。
・便乗商法ってすてきやん?アニメ化おめでとうございます。
・外務大臣にはしなかったけどこき使われる佐藤尚武。実はシベリア出兵の強硬論者だったかもという話あり。
・IOCさんご苦労様です。
・失言には気をつけましょう。
・なんだよ芸術競技って(真顔)
・素人のど自慢大会の歴史が10年近く繰り上がりました。
・ブリュヘルさんがアップを始めました