官報 / 元帥府条例 / 東西グラフ 7月号 / 神奈川県横須賀市 料亭『小松』 / 神奈川県横須賀市 料亭『魚勝』 / 東京市淀橋区西大久保 阿部信行私邸(1938年7月)
『降伏するのであれば、その艦は停止せねばならない。しかるに敵はいまだ前進している。攻撃を続行せよ』
東郷平八郎(1848-1934)
官報 第四一一三號
授爵・叙任乃辞令
昭和十三年 六月十五日
依勲功特叙
正二位男爵 林銑十郎・陸軍大将
正二位男爵 松井石根・陸軍大将
*
元帥府条例
第一条 元帥府ニ列セラルル陸海軍大将ニハ特ニ元帥ノ称号ヲ賜フ
第二条 元帥府ハ軍事上ニ於テ最高顧問トス
第三条 元帥ハ勅ヲ奉シ陸海軍ノ検閲ヲ行フコトアルヘシ
第四条 元帥ニハ別ニ定ムル所ニ依リ元帥佩刀及元帥徽章ヲ賜フ
第五条 元帥ニハ副官トシテ佐尉官各一人ヲ附属セシム
(明治31年勅令第5号制定・大正7年勅令第330号改正)
*
いくらなんでもばら撒き過ぎではないか。
先の満洲事変において動功華族となったのは本庄繁(関東軍司令)・荒木貞夫(陸軍大臣)・大角岑生(海軍大臣)の3氏である。そして今回も陸海の大臣と現地の派遣軍司令官の3名が叙爵される予定であったという。
本紙はこの点を批判するつもりはない。米内光政海軍大臣の辞退した理由はおそらく後述するところにあるのだろうが、上海をテロの脅威から救った松井大将については文句の付け所がない。荒木陸相の先例に従えば、陸相兼任の林大将が男爵を与えられても奇異とは思えない。
問題は元帥杖のばら撒きである。
元帥府に列せられるのは軍功のあった軍人に限られる。経歴や実績を鑑みても、松井大将が元帥となることに異論はないだろう。男爵は辞退しながら元帥杖はありがたく拝命した米内大将にしても、林首相と歩調を合わせただけともいえる。林首相も百歩譲ってこれを認めよう。
しかし寺内寿一大将(陸軍参謀総長)・永野修身大将(海軍軍令部総長)はどうなのか。わずか3月ほどで実質的な戦闘が終結した第2次上海事変が、欧州大戦や日清・日露戦役に匹敵するほどの大戦争だったとでもいうのだろうか。
- 東西グラフ7月号『量産元帥の功罪』 -
(東西グラフはこの記事により陸軍省と海軍省から3ヶ月の出入り禁止処分となった)
*
軍港は艦隊の母港であり、艦隊単位で停泊して行動するために通常の港湾施設以上の広さが必要である。乗組員の住居を始め専門のドックや弾薬庫の用地を考えると、一般の港湾施設とは異なり交通の便はさほど重視されていない場所にあることが多い。必要になれば鉄道を敷設すればいいというのが海軍流だ。
つまり一般社会とは全く隔絶した社会を構成している(その点では陸軍の師団や連隊とは対照的だ)。海軍兵学校の年次と、卒業席次や先任順を絶対の基準とする海軍一家とも呼ばれる体質は、こうした環境で育まれてきた。
全国各地の軍港において影響を営む海軍料亭も、そうした特殊な社会において、気楽に母港を離れることのできない艦隊任務の将校や佐官を相手にしたものであった。
横須賀鎮守府においてパイン(松)といえば小松であり、フィッシュ(魚)といえば魚勝である。共に神奈川県横須賀市内にある海軍料亭であり、長らく横須賀鎮守府長官が次の海軍大臣になる慣習があったことから、海軍内部の政治の舞台としても利用されてきた。
特にパインこと小松は、その傾向が強い。
海軍料亭『小松』は横須賀市田戸の海岸沿いに明治18年(1885年)創業した。創業者の山本コマツが元帥海軍大将の小松宮彰仁親王殿下に気に入られ、海軍との縁が生まれた。そもそも創業の経緯も小松宮殿下らに後押しされ支援を受けたことにある。横須賀鎮守府を初め、神奈川県内の海軍施設と近いことから、海軍軍人の御用達の料亭として利用されてきた。大正時代の海岸埋め立て工事や一時休業を経て現在の米が浜へと移設した後も、多くの海軍軍人がここを訪れた。
庭園の一部を潰して建築された新館の1階。7つある和室には材質の異なる7つの銘木を用いた調度品が惜しげもなく置かれてあり、さながら美術館のようである。
紅葉の間は歴代の横須賀鎮守府長官が利用したことから「長官部屋」との別名で呼ばれる。
現在の横須賀鎮守府長官である長谷川清・海軍中将(海軍兵学校31期)は、今日ばかりは長官部屋の上座を来客に譲り、下座に並んでいた。
「やっぱりここに来たら女将さんの顔を見ないとね。お元気そうで何よりです」
「やだよ、この子ったら!こんな婆さん口説いてどうするのさ」
あははと笑う名物女将の山本コマツはこの時89歳。すでに隠居の身とはいえ、今の海軍上層部が兵学校に入る前から海軍のお歴々と付き合ってきた。この女傑にかかれば今をときめく元帥海軍大将の米内光政(海兵29期)海軍大臣や、永野修身(28期)軍令部総長も小僧扱いである。遊びなれた米内はそれを楽しむかのように先代女将との挨拶を交わし、彼女を見送ると床の間を背にして座卓に座った。
長身の米内の左隣には、小柄な山本五十六海軍次官(32期)が、大きな口を真一文字に結んだまま、さながら護衛のように控えている。米内の右隣で和装姿でくつろぐ高橋三吉軍事参事官(29期で米内と同期・前連合艦隊司令長官)とは対照的だ。
その高橋の対面には長谷川清・横須賀鎮守府長官(31期)が座り、米内の対面には、彼に負けず劣らずの大柄な小林躋造・台湾総督(退役海軍大将・26期)が、こちらはスーツ姿で胡坐をかいている。
「まずは米内さんの元帥府入りはめでたい限りである」
台湾総督の帰朝報告も兼ねた歓迎会の冒頭、主賓である小林が開口一番で祝いの言葉を口にすると、高橋三吉大将は「もらえるものはもらっておけばいいものを、男爵も受け取っておけばよかったのだ」と明け透けに語る。これには米内も「大角さんの轍は避けたいですからな」と苦笑いで応じた。
日本海軍は山本権兵衛・加藤友三郎両首相の系譜を継ぐ条約派(ワシントン・ロンドンの両海軍軍縮条約に賛成)が主流派を形成してきた。海軍の事実上の創設者とされる山本元首相はその強烈な個性と指導力により海軍を陸軍と対等な組織に育て上げ、軍令(作戦部門)よりも軍政部門が上位の体制を作り上げた。
思想的には海軍のモデルとした親英派であり、欧州大戦後の軍縮条約にも賛成という立場である。これに反対する非主流派は艦隊派とよばれ、軍令部を中心としていた。作戦遂行上、支障が出るとして軍縮条約にも反対した(必ずしも反英派を意味しない)。
ロンドン海軍軍縮条約や満洲事変への対応をめぐって両者の対立は激化。そのためどちらの派閥からも等距離で無色であると思われていた横須賀鎮守府長官の大角岑生(24期)が海軍大臣に就任したのが昭和6年(1931年)のことである。
そして大角は海軍大臣としての人事権を存分に振るい、結果として両派から徹底的に批判された。
大角は軍政畑ではあったが軍縮条約そのものに関心がなく、海軍全体としての意見が艦隊派に傾けば条約派を粛清し、それを批判されれば艦隊派を左遷するという無定見ぶりを見せ付けた。あげく軍令部の権限強化要求に、軍政家として反対するべき最低限のラインを妥協する有様。
そして本人は何もしていないのに満洲事変の功績によるとして男爵を与えられ、陸軍からも「なんだあの男は」と批判される始末であった。
元帥となり生涯現役として海軍に影響力を持ち続けることが可能となったのに、大角と同一視されてはたまったものではない。故に米内は男爵位を辞退した。米内大臣や山本次官はその点で一致しており、艦隊派の高橋三吉参事官ですら、これには同意した。どれほど大角が海軍内部での人望を失っていたかを意味することを裏付けるように、山本が真一文字に結んでいた口を開いた。
「大角さんが人事をかき回さなければ、山梨(勝之進・海兵25期)が順当だったのですがね。岡田さんは立派な人だとは思いますが」
山本次官が怒りをにじませながら呟く。
大角は山梨(元海軍次官)を初めとした条約派を粛清した後、自分の後任となる海軍大臣に長老の岡田啓介(15期)を推薦。岡田が2年近く務めて定年となると、再び「候補者がいない」という理由で就任する。その如才のなさが、2・26事件でみせた優柔不断ぶりと合わせて海軍内では嫌悪の対象になった。何より海軍出身の岡田首相や重臣が襲撃されたにも関わらず、断固とした対応を取らなかったことが海軍一家の怒りを招いた。
言葉の端々から怒気を滲ませる山本に、高橋参事官がそっけない口調で反論した。
「大角さんを一切庇うつもりはないが、山梨さんはどうだろうか。ロンドン条約での民政党の強硬姿勢への反発が彼に集まったのは否めないが、軍政部門として軍令を説得する努力はあってもよかったとは思う」
「政府の決定に海軍が異を唱えては、それこそ政治的ではありませんか」
「誰もそんなことは言ってはおらん。政府が決定する前に海軍軍令部の意見を聴取して置けばよかったと申しておるのだ。相手が加藤(寛治・18期)さんだから難しかっただろうが、決めてから意見を聴取されても、作戦部門としてはどうしようもない」
「友三郎元帥がそうだったではないか」と高橋が指摘すると、山本も黙り込む。加藤友三郎元帥はワシントン会議の全権として随行させた軍令部門の長い加藤寛治と激論を繰り広げたが、決して蚊帳の外には置かなかった。加藤寛治を将来の軍令部門トップとして考えていた友三郎は、議論の過程に引き込むことで共犯とした。
「それが最初から蚊帳の外ではな。浜口と同じく山梨は人格者だが、政治力があったかどうかは疑問だ。宮中から鈴木さん(鈴木貫太郎侍従長)が支援しなければ、もっと問題はこじれていただろう。実際、鈴木さんが国粋主義者に狙われる原因にもなった」
「お言葉ですが参事官。テロリストの言い分を真に受けられるのですか!」
「だからそんなことはいってはおらん!やり方の問題を指摘しているだけではないか!」
連合艦隊司令長官として鍛えた銅鑼声で高橋が反論するが、山本は意に介さず無言で高橋をにらみ返す。両者の剣幕に長谷川と小林台湾総督が黙り込む中で、米内だけが変わらず「まぁ、まぁ」と鷹揚に語った。
「ここで言い合いしたところで仕方がないよ。高橋も落ち着け。山本、お前も言葉が過ぎるぞ」
「……失礼しました大臣、参事官」
山本が素直に謝罪の言葉を口にするのを見て、小林は「やはり米内は人物である」と感服していた。
卒業席次は決して高くはなく、頭の回転もお世辞にも速いとはいえないが、それでも曲者から秀才に奇才まで、あらゆるタイプの人物を統率する器量のようなものを兼ね備えているのが米内である。あの扱いにくいことでは定評のある井上成美(37期)ですら、横須賀鎮守府長官時代に参謀役として幕下に加えたほどだ。非政治的でありながら交友関係も広く、海軍内での人望は非常に厚い。
そのため2・26事件の直後、林総理からの「玉突き人事」による海軍大臣就任の要請に、米内本人は「俗吏にはなりたくない」と消極的だったのだが、高橋や山本を初め、あらゆる人物に「非常時の海軍を率いるのは貴方しかいない」と就任を要請された経緯がある。
「しかし林総理も、よくぞ閑院宮元帥に御勇退いただいたものですな。海軍としてもこの点だけは感謝するべきでしょうか」
「宮殿下は優秀な海軍軍人ではあられましたが、惜しむらくは皇族であられたことですな」
小林台湾総督が玉突き人事の原因となった2・26事件後に「勇退」した宮様参謀総長の名前を挙げ、高橋がその才を惜しむようなことを語るが、米内は茫洋な笑みを浮かべながらも、内心は複雑な感情を覚えていた。
陸軍と海軍は別組織であり、対等であって対等ではない緊張関係にある。山本権兵衛がいなければおそらく日本海軍は他国同様に陸軍の下請けのような存在となっていただろう。そのため陸軍との格というものに海軍は非常に敏感であった。
陸軍において荒木-真崎ラインが閑院宮載仁親王殿下を参謀総長に擁立すると、海軍(大角海軍大臣)も「ならば長面君を」と、長老の伏見宮博恭親王殿下(16期)を軍令部部長(総長へと改称)にした。
この2人は陸海の違いこそあれ日露戦争において戦塵を潜り抜けた歴戦の軍人であり、例え皇族でなくともそれなりの地位につくだけの実力があったともされる。しかし宮様総長は陸軍においては真崎派に、海軍においては艦隊派に皇族の権威を悪用される形になり、弊害が目立つようになった。
米内は誰にも-それこそ腹心の山本にすら他言をしてはいないが、宮様総長に勇退を願い出たのは、林銑十郎その人である。
2・26事件(1936年)をうけた人心一新のためとして「やんごとなき」筋まで巻き込んで説得した末に、海軍大臣候補として米内を組閣本部に呼び出した林は、そのカイゼル髭をねじりながら「海軍はどうされるのですかな?」とだけ告げた。海軍の体面を立てながら、あくまで海軍主導で-それも海軍の主流派が賛成しやすい形で「勇退」の状況を整えた。この政治的な借りを返すためには、俗吏であろうとも引き受けざるを得ない。米内は業腹ではあったが、その場で海軍大臣の受諾をその場で伝えた。
「林さんも妙なお人ですな。私はてっきり大角さんと同じく、優柔不断の後入斎だと思っていたのですがね」
「いや、小林さん。実際に前の陸軍大臣の時はそうだった。まともに陸軍省内も統制出来ずに、逃げるように辞めていったしな」
高橋三吉が指摘するように、2・26事件まで海軍内部での林大将の評価は決して高くはなかった。
強行鎮圧論において海軍と歩調を合わせた林は、首相就任以来も一貫して陸海協調を掲げ、新設した初代総理補佐官に現役の海軍中将である佐藤市朗(海兵36期)を指名。閣議の席においても常に米内の顔を立てるように振る舞い、海軍一家の自尊心を大いに満足させた。
そして今回の元帥杖のばら撒きである。
元帥はいわば政治における元老に匹敵し、大元帥たる天皇個人に責任を負う形で生涯現役に対する影響力を持ち続けることができる超然的な立場だ。
大角人事によりかき回された海軍内の秩序を再構築するためには、米内と永野を元帥とすることで長期的な発言権を持たせ、現役人事を調整し続けるしかないという点で海軍首脳は再び意見の一致を見た。そもそも現状では陸海ともに元帥府には皇族軍人しかいない。どうせなら主流派の意向を代弁させる元帥が欲しいと思うのが人情というものである。
「しかしですな。問題は何をやるかだと思うのですが」
小林台湾総督が探りを入れるように米内に水を向けたが、当の本人はすっかり普段の愛想のよさを取り戻して、それに応じた。
「人事の清算にあわせて、積年の課題を解決するにはよい時期でしょうな」
「ついに兵機一系化ですか」
興奮気味に身を乗り出す長谷川横須賀鎮守府長官に、米内は歯を見せて笑った。
*
「条約派には海軍があって国家がない。いや海軍こそが国家だと自惚れているのだ。そして艦隊派は艦隊こそが海軍であり、海軍省はそのおまけだと見ている。目糞鼻糞ではないか」
同じ横須賀市内のフィッシュこと海軍料亭「魚勝」において、海軍参事官の大角岑生(前海軍大臣)は、佐藤市朗総理補佐官を相手に酒を飲みながら愚痴をこぼしていた。
その大仏のような下膨れの顔には苦悩と不満と屈辱が入り混じった感情が宿っており、佐藤は「なぜ私がこんな男の相手をしなければならないのだ」と思いながらも、年次が10近く上の海軍大臣経験者を無下にも出来ず、表面上はにこやかに接していた。
「谷口尚真(19期)を軍令部長から更迭したのは私だが、あれが何をしたのか知っているのか。政府から艦隊の派兵を要請されたにも関わらず『日米戦争になる』と拒否したのだぞ。日頃は政府の言うことには従うべしと金科玉条のごとく唱える条約派の癖に、いざという時に命令に従わぬなど」
「東郷元帥も谷口部長を批判されましたね」
「貴様は何のために給与を頂いておるのだと一喝だよ。それでもあの谷口の馬鹿は、戦争になると繰り返すばかり……そもそもそれを考えるのは政府の仕事であって、軍令部長の仕事ではないわ!」
いわゆる大角人事の中でも、現役の米内海相を初めとして最も条約派から批判された谷口部長更迭批判がよほど腹に据えかねていたのか、大角は不満をぶちまけた。
大角も最初はそれほどまでに大規模な人事刷新は考えてはいなかった。山梨前次官を始め何人かを艦隊派と合わせて両成敗の形で処遇すれば片がつくと考えていた節がある。
状況が一変したのは満洲事変(1931年)だ。
当時の政権が現状を追認して朝鮮軍の行動を追認すると、海軍にも黄海への艦隊派遣を要請した。ところが谷口軍令部長は前述のように「大陸に権益を持つ欧米を刺激する結果となるため、受け入れられない」とこれを拒否。東郷元帥だけではなく、条約派や艦隊派の対立を苦々しく見ていた物言わぬ多数派の中間派がこれに激怒。あまりにも条約派は政治的に過ぎるとして、海軍大臣に就任した大角の粛清人事を後押しした。
大角からすればあくまで海軍内部の多数派の意向に従っただけであり、そこまで批判される筋合いも所以もないという考えである。そもそもなりたくて引き受けた大臣ではなく横須賀鎮守府長官であった自分が持ち回りで引き受けただけ。無用な混乱を組織に引き起こしたのは条約派ではないかという大角の言い分を、佐藤は辛抱強く聞き続けていた。
「実際に私の人事で条約派が一掃されたのか?米内だの山本だの、あっという間に条約派の系譜を受け継ぐ連中が中央に舞い戻り、中間派もそれには異を唱えない。つまり命令違反をした谷口や、あまりにも政権と密着して政治的に動いた条約派の幹部連中への反感であって、政治的な、まして政策的な批判ではなかったのだ。伏見宮殿下の軍令部総長人事にしても、陸軍が宮様参謀総長である以上、誰であってもやらざるを得なかった。それを、何ゆえ私だけがいつまでも批判されねばならんのだ……」
「岡田大将を後任大臣とされたことにも批判がありますが」
「それは岡田さんぐらいしか引き受ける人材がいなかったからだろうが!お前がかき回した後の海軍は嫌だと、どいつもこいつもそっぽを向いて。私に嫌なことを押し付けて後は知らぬで、私にどうしろというのだ!」
大角は何度も机の天板を手のひらで叩く。その顔は赤く染まり、転がる銚子の数からかなりの酒量を飲んだことがわかる。佐藤はいっそ酔い潰したほうが楽かとも考えながら話を続けた。
「しかし考えてみれば不思議な話です。政府の方針に忠実である条約派であれば、政府の要請には従うのが自然でしょうに」
「そこがあいつらの傲慢なところだ。私も海軍軍人なので気持ちはわかるがな。私の時は30名足らずであったが、兵学校卒業者は200名足らずの選ばれたエリート。その中から更に選ばれた幹部候補生として育てられてきたのが条約派の幹部連中だ。下品な代議士や、テロリストの集まりの陸軍ではなく、自分達こそが国家を正しく導くことができると考えているのだろう」
「間違ってはいないが、大いなる間違いだ」と兵学校24期を3番目の成績で卒業した大角は矛盾する言を吐く。
国際協調(対英協調)にしても政府の方針に忠実足らんとする姿勢にしても、英国海軍を手本とした帝国海軍としては、ごく自然なことである。しかし兵学校卒業の20歳になるかならないかという海軍の新米尉官は、練習航海において将校(艦における絶対の権威者である艦長も含む)は同じ場所で食事を取り、軍務以外においては対等に話すことを許されるという特権をいきなり与えられる。これでは勘違いするなというほうが無理な話だ。
「テロリストであり国際法違反の陸軍の行動に賛成できない気持ちはわかる。私だってそうだ。だからといって実際に命令が出された段階で、作戦部門のトップが拒否してよい理由にはならぬ」
大角が頭を抱えるようにして深い息を吐いた。
佐藤からすれば男爵を辞退しておけば、そこまで批判されずにすんだものをと感じる。しかし大角には陸軍との共同歩調を崩してまで拒否するだけの信条があるわけでもなく、まして自分こそが人事において綱紀を粛正したのだという考えもあり、あえて断るだけの理由もなかったらしい。
やりたくもない人事権を振るわされた結果、それが今に至るまで批判されていることが我慢ならないらしい。大角の嘆きは続く。
「海軍一家のお仲間意識が、これほどまでに厄介なものだとは、正直私も大臣になるまでは想像していなかった。これでは陸軍を笑えぬ。ハンモックナンバーと卒業年次ばかりを遵守し、新聞記者ですら予想のできる人事しかせぬ。私の人事が手放しで賞賛出来るものであったとはさすがに言わぬが、ではどうすればよかったというのだ。外部の介入を嫌うのは官僚組織の常だが、代替案もなく不満ばかりぶつけおって!」
「しかし今の米内大臣は席次で言えばそれほど上位というわけでもありません。大臣のような方をトップとして許容する今の海軍は、むしろ閣下の懸念からすれば好ましいものではありませんか?それに対英協調は現在の内閣の基本方針でありますし、政府の方針に忠実であらんとする姿勢も」
佐藤がやんわりと反論すると、大角は「面従腹背と職務に忠実なのとは、似て非なるものだ」と応じた。顔こそ赤く酒臭い息を吐くが、その目は酒色には染まりきっていなかった。
ようやく本音を聞き出せたとするべきなのか、酒の力を借りなければ本音を吐き出せぬ弱さと受け取るべきなのか。佐藤には判断しかねた。
「問題はだ、米内は誰が担いでいるのかということだ。山本や井上成美をみてみろ。あれが素直に政府の決定に従うタマか。米内なら統制できるというが、米内以外が大臣になればどうなるというのだ」
「少なくとも従順に政府の意向に従う人物ではありませんね」
「極端なところ、別に面従腹背でもかまわんのだ。しかし、いざという時に谷口のように気骨と反骨を勘違いして命令を拒否されては、軍隊としての根幹が崩れかねん」
「それゆえの元帥府入り……と政府や官邸は考えているようです」
佐藤の言を聞くと大角は目を丸くし、そして今度こそ顔を怒気で赤らめて机を叩いて激高した。
「そもそも、貴様の上司であるあのお調子者が、政府と参謀本部の許可なく鴨緑江を越えたから、こんなことになっておるのだろうが!!!」
佐藤はそれこそ自分に言われても困ると、肩をすくめた。
*
「物事は何事もシンプルに考えるべきだ」というのが、海軍省軍務局長の井上成美(海軍少将)のモットーである。
近代合理主義精神の塊のような彼は浮ついた精神論や筋の通らぬ横紙破りを蛇蝎のごとく嫌い、それを弁舌によって排撃することを一切ためらわなかった。軍令部の権限改定問題では海軍省側の代表として伏見宮殿下に噛み付き、辞表を叩きつけた。上官であろうと部下であろうと井上の毒舌の対象外ではなく、海軍省内における自分の後見人とされる米内ですら平然と批判することもある。
この井上と阿部信行内閣官房長官(退役陸軍大将)は、義兄弟の関係にある。井上の妻はすでに病没しているが、彼女は阿部の妻の妹であった。
林内閣の発足以来、内閣の大番頭として活躍し、その如才のない処世術と能力をやっかんで「処世の将軍」とも揶揄される阿部と、ラディカル・リベラリストを自認する井上が義兄弟とはいかにも奇異な感があるが、親族同士の付き合いを嫌う井上も阿部とは不思議と気があったらしく、井上の一人娘が女学生時代には、東京西大久保の阿部の自宅から通わせていた。
その井上は阿部の私邸を訪問するや否や、時候の挨拶もそこそこに今回の論功行賞に対する批判を始めた。
「松井大将はともかく、林首相や寺内参謀総長は論外、米内さんや永野総長が元帥とはおかしいではありませんか。本来ならばシャン陸(上海海軍特別陸戦隊)の司令官として奮戦した大川内(傳七)だけが賞賛されてしかるべきでしょう」
「うん。まあ……貴様の言うとおりではあるかもしれない。しかし満洲事変の前例もあるし、それを完全に無視は出来ないだろう」
「あんなものが何の参考になりますか。むしろ最も前例としてはいけないものではありませんか」
いつもの調子で批判を始めた義弟に、阿部はいささか辟易しながらも茶を喫した。本来であれば酒のひとつでも飲みたいところなのだが、ほとんど酒をたしなまない井上にそれを勧めるのは阿部もさすがに気が引け、まして自分だけが飲むことは躊躇われた。
「しかしな成美。皇族元帥ばかりでは大元帥閣下の軍事顧問である元帥府の意味がなくなるだろう。いずれは補充しなければならないのなら、どうせなら人物を入れたい」
「林総理や寺内参謀総長が、その人物ですか」
「……その点については貴様と私では見解が違うとだけ申しておこうか」
露骨に嫌味をぶつける義弟に苦笑しつつも、阿部は直接的な反論を避けて話題を変えた。
「しかし貴様の持論である兵機一系化の解決には、むしろ今の状況は好ましいのではないか。米内大将もそうだが、今の軍令部総長の永野大将もその点については理解があると聞くし」
「問題を認識してることと、実際に問題を解決できる能力があるのかとはまったく別の問題でしょう」
海軍内における評価の声を阿部が指摘するも、井上の回答はにべもない。
「失礼ながら永野部長は兵学校長時代のダルトン・プラン導入のように、理念ばかりが先行して理屈倒れのところがあります。米内大将については言うまでもありませんし」
「理念も理想もない陸軍将校よりはましかもしれませんが」と井上は更なる陸軍への皮肉を付け加えることも忘れなかった。
海軍機関科問題は明治以来、帝国海軍において問題となり続けている機関科仕官の待遇改善問題である。
帝国海軍はイギリス海軍をモデルに兵科士官と機関科士官を区別したが、そもそも19世紀に蒸気推進機関が導入されるまでは、世界各国のどの海軍にも機関科のような部署は存在していなかった。そのため機関科は艦艇の心臓部を担当しながら、その仕官は階級制度や給与に養成課程、とくに指揮権継承の有無について通常の兵科とは異なる扱いを受けており、差別的待遇であると問題になった。
動力機関の重要性が認識されるに従い、同種の問題は各国海軍で噴出した。イギリスとアメリカは欧州大戦前後にこの問題を何とか解決する目処をつけたが、日本海軍は制度改正を試みながらも、未だに解決出来ていない。部隊指揮に関して兵科が優先されれば、機関科としては「何も知らないよそ者が大きな顔をするな」と反発するし、人事体系が別であるためにポストが制限されることで「いつまでも下働きか」と不満はより一層高まりを見せた。
これを解決するために教育制度の統合を根幹とする兵科時兵科の制度統合(兵機一系化)が検討されていたが、これに大正デモクラシーの民主化運動が結びついたことで事態はさらに混迷を深めた。
「民主的な軍隊などありえません。投票で行動を決めている間に軍艦ごと漁礁と魚の餌に成り果てるのが落ちでしょう。だからといってこの問題の解決を先延ばしにしてよい理由にはなりませんが」
井上が珍しく嘆息したが、そもそもこの問題は明治以来延々と海軍が悩まされ続けている宿題のようなものだ。
制度改正により機関科の待遇改善は行われてるとは言え、根本問題は先延ばしにされた。兵科出身の将校からすれば自分達のポストが機関科に奪われる可能性があるので解消には消極的であるし、機関科からすれば差別的待遇以外の何物でもない。ゆえに海軍内部では一時期、この問題の検討や意見交換ですら禁止されたこともある。
「たしか教育の能率低下をもたらすであったか。以前、大阪毎日新聞がすっぱ抜いた、一系教育を否定した教育制度調査会の議事録にはそうあったと記憶しているが、実際のところどうなのだ?あれも態々機関科の将校を退出させてから審議したということで、相当問題になったはずだが」
「3ヶ月から半年程度、在学期間を延長すれば可能というのが私の考えです。戦時であれば混乱するという理屈はわかりますが、今は平時であります。むしろ今やらねば兵学校と機関学校の統合は永遠に不可能となります。問題はやるか、やらないかであります」
井上はすっぱりと言い切った。
軍務局長に就任する直前、井上は軍令部出仕兼海軍省出仕という形で、米内海相・永野軍令部総長の特命を受けて兵科機関科将校統合問題研究に従事している。教育畑の永野はこの問題への関心が深く、何度要望しても「能率を低下させる」という回答しか帰ってこない現状に業を煮やし、人物に問題は多いが切れ者で知られる井上に白羽の矢を立てた。
井上は期待に見事に応え、昭和12年(1937年)には「兵科将校と機関科将校の両方の勤務をこなす少尉候補生の育成には現在の兵学校・機関学校の修業年限4年でも不足である」という結論から、一系化を促進するべきであるとする答申書を、山本五十六次官に提出した。
井上が軍務局長と兼任で将官会議(海軍の重要政策を討議する海軍省の外局)の議員に就任したのはこの直後であり、米内-山本ラインが何を考えていたかを窺わせる。
「議会でも民政党を中心にこの問題を取り上げる動きがある。衆院の牧山代議士だけではなく、貴族院の政務次官や参与官経験者の間でもだ。一定の方針や目処だけでもつけてもらわねば、政府としても答弁の仕様がない」
あくまで一般論を述べたつもりの阿部であったが、これに井上が再び噛み付いた。
「陸軍とは異なり、海軍は政府の決定に異など唱えませぬ。しかし海軍の教育問題は海軍が決着をつけます。ようやく状況が整ったというのに、内閣や議会に干渉されては大正期の二の舞。どうぞ無用に願いたい」
言下に口出し無用と切って捨てる義弟に、阿部も流石に顔を顰めた。
大角前海軍大臣のいう「海軍一家」の体質は聞き及んでいたが、内閣官房として政府内部の意見を調整する過程で阿部は独自性を主張する海軍に散々苦労させられた。海軍からすれば満洲事変を初めとした陸軍の冒険主義に従わないためにも独自路線を死守するべしという気概のつもりなのだろうが、それでも言い方というものはあるだろうと阿部は内心だけで零した。
「成美、貴様もう少しその物言いはなんとかならぬのか。同じ軍人として気持ちはわかるが、それでは無用な敵対者を増やすばかりだぞ」
「付和雷同して時代の潮流に追従する軍人が、戦場で役に立ちますか」
「それは金鵄勲章を持っていない私への嫌味か?それくらいのことは私にでもわかる。しかしだ、日本政府があっての海軍だ。海軍あっての日本政府ではない。その点だけは履き違えてくれるなよ」
阿部が茶をすすりながら「義兄」として忠告すると、井上は相変わらず仏頂面のまま即座に「海軍軍人」として言い返した。
「陸軍にだけは言われる筋合いはありませんね」
こうも立て続けに嫌味をぶつけられては、さすがの阿部も鼻白むしかない。
「……わりゃくさん、本当にうっざくらしい男やの、このだらすけが」
「今、なんとおっしゃいましたか?」
「自分で調べたらどうだ……おい、茶を入れてくれ……おい、聞こえんのか。お茶だ、お茶!」
「私は『おい』という名前ではありません!」
阿部の妻のミツの怒鳴り声に、2人はそろって首をすくめた。
・兵機問題調べなおすだけで、やたらと時間かかりました。
・陸軍以上にキャラの濃い海軍。なお本文では触れられなかったので今の連合艦隊司令長官は山本と同期の吉田善吾です…あとで変えるかもしれないけど(おい)。
・陸軍以上に複雑怪奇な派閥対立。でも根幹のところでは海軍という共同体意識があった。その点は戦前から戦後まで対立派閥の悪口を言い合う陸軍とは違うところか。戦後の海軍善玉論は海軍が一貫して動けたからだろうなあ。陸軍の場合ばらばらだったし…
・そもそも戦後に陸軍の人的系譜はほとんど解体されて直接的な陸自との関係性はないことになってる。その点が帝国海軍の後継者であると自認している海自との違いか。ようするに「うまいことやりやがって」
・空自はアメリカ軍の申し子だし…というわけで↓戦前も含めてのような標語が出来上がる
・「用意周到・動脈硬化」な陸自、「伝統墨守・唯我独尊」の海自、「勇猛果敢・支離滅裂」な空自…狙って考えたとしか思えんけど、よく出来てると素人目にも感じる完成度w
・東郷元帥の真骨頂は前書きの一言だとおもう(日本海海戦での一言とされる)。7年にも及ぶ英国留学で付け焼刃ではない英国式の思考と国際法を身につけた。高陞号事件で狼狽する山本権兵衛(無理もないけど)とある意味好対照。谷口軍令部長の一喝は批判されるけど、どう考えても東郷元帥のほうが理がある(満洲事変への賛成という意味ではない)。
・それでも米内のようなエリート臭のしない一味違う人物が人望を集め、組織として守り立てるあたりが、陸軍との差なのだろうなあ。