安倍源基回顧録 / 中央新聞 / 東京府東京市 永田町 総理官邸2階 閣議室 / 東京帝大史学概論 講義録 / ソビエト連邦 ハバロフスク 極東戦線司令部(1938年7月)
『喜劇を解さないことは最も喜劇的である。悲劇を解さないことが、しばしば最も悲劇であるように』
ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(1873-1953)
本来であれば多数派であるはずの被支配層同士を争わせ、統治者に矛先が向かうのを避ける。これを「分断して統治する」と呼ぶ-西欧列強の植民地支配の基本的な政治手法とされるが、その中でも悪名高いのは大英帝国のインド支配であろうか。
最も有史以来、統一インド王朝など存在したことはなく、人種に言語、宗教にイデオロギー、カーストと呼ばれる独自の階層が複雑に入り組んでいたので自然とそうなった側面もある。逆説的だが大英帝国による「インド帝国」が成立したことで、初めてインド・ナショナリズムなるものが、この広大な大陸に生まれたともいえる。
「つまり弾圧ばかりしても芸がない」というのが白上佑吉さんの容共派への対策であった。
コミンテルン日本支部はすでに壊滅状態にある中、特別高等警察や検察当局は次の標的として労農派に目をつけていた。
この労農派とは日本共産党の結党メンバーであった山川均・荒畑寒村らが、コミンテルンの解釈と方針により忠実な党執行部との内紛により分派した勢力であり、雑誌『労農』を舞台に活動を展開していた。
彼らは「現段階での革命は早すぎる」としてモスクワのような革命政党を否定し、大衆政党としての統一無産政党(つまり社会主義政党)と統一した労働組合を重視した。またその一派は学会において無視出来ない勢力となっていた。当然ながら労農派は昭和7年(1932年)に結成された単一無産政党の社会大衆党にも参加し、左派系勢力として国政における合法的な地位を築いていた。
検察当局の中では労農派を「コミンテルンの直接的な指示をうけて日本において人民戦線内閣を作ろうとするもの」と危険視する動きがあった。現に私もその一人である。日本コミンテルンが名前と顔を変え、優しげな顔をして暴力革命を着々と進めていると考えたからだ。
しかし白上さんは「弾圧すれば大衆党左派が強くなるだけだ。彼らが勢力を増したのは不況が大きな要因であり、同時に旧共産党系の支持層が流れ込んだからである。故に下手に手を出すな」という考え方であった。
特高課内の多くのものは「手ぬるいのではないか」と批判的であったが、白上さんは「共産党を支持したからといって、片っ端から殺害するわけにもいかんだろう」「国会にいればむしろ監視がしやすい。選挙事務所に訪ねてくる連中だけでスパイリストが作れるぞ。政治資金法を改正して献金リストの提出義務を作らせるものよいな。手間も省けて一石二鳥ではないか」と反論した。
結局、当時の特高は政治的案件であるゾルゲ事件の摘発などコミンテルン系スパイ網摘発に掛かりきりでもあったことから、いわゆる労農系勢力の摘発は後回しにされた。
この間、安部磯雄委員長襲撃未遂事件(1938年3月)が摘発された。白上さんは、またどこから手に入れたのかわからない情報を元に「必ず阻止するように」と『何故か』私の顔を見ながら何度も繰り返されたが、私は警護を厳重にするように大衆党に申し入れ、実際に武装警官を配置することで襲撃事件を未然に摘発してみせた。
警護の過程で何故か大衆党の党員名簿が手に入ったのだが、それは偶然であることを念押ししておく。
とにかく感謝されてもおかしくないはずなのに、何故か大衆党の左派は「権力に媚びた!」と安部委員長を批判し始める有様。もはや恒例行事のようになった左派と右派のお家騒動のネタにしかならなかった。安部委員長の辞意(後に撤回)などのごたごたを見せ付けられては、有権者は誰も人民戦線内閣なるものを本気で相手にしなくなり、またもや白上さんの慧眼が証明された。
そして6月19日。安部磯雄委員長襲撃未遂事件の後処理に追われる私の元に満洲からとんでもない情報が飛び込んできた。
悪名高き内務人民委員部(NKVD)の極東局長にして共産党中央委員でもあるゲンリフ・サモイロヴィチ・リュシコフ三等国家保安委員が亡命してきたというのである。
- 『昭和動乱から内務省解体まで-安倍源基回顧録-』より抜粋 -
*
- 林第2次改造内閣発足 -
林銑十郎総理は就任以来、2度目となる内閣改造を行った。特筆すべき点は特にない改造というのも珍しい。結城蔵相は続投であるし、陸相と外相の首相兼任は変わらない。米内海相も続投である。町田忠治氏は商工大臣を外れたが閣僚級の内閣参議として内閣に影響力を残しているし、後任の俵孫一氏は町田氏の側近だ。
強いて上げるなら塩野季彦司法大臣が勇退した事であろうか。平沼枢密院議長の直系である同氏は続投が有力視されていたが、蓋を開けてみれば就任したのは宮城長五郎氏である。判事経験もある司法官僚の宮城氏は少年法および矯正院法の制定に尽力した事で知られるが、系列的には司法省の中間派・非平沼系とされる。小原直(岡田内閣)を挟んで小山松吉-林頼三郎-塩野季彦と続いた平沼閥が途絶えた事になるが、政権に対する影響があるのかないのかはわからない。
- 中央新聞(5月13日) -
*
「それにしても勝田市長は大した男だ。不眠不休で復旧作業と被災者救助の陣頭指揮をとり、その足で東京へ陳情に来るとはな」
閣議前の雑談の中で結城豊太郎蔵相(元安田財閥出身)が陳情に訪れた神戸市長の名前を挙げると、同じ造船業界で鎬を削った逓信大臣の内田信也(政友会)が「それはそうでっせ」と我が事のように自慢げに語り始めた。
「自分が言うのもなんですけど、あの気概や気迫は官僚にはありませんな。私は大手の三井からの独立ですが、山下(亀三郎)や勝田君はほとんど裸一貫から自分の会社を立ち上げたんですからな。特に勝田君は戦後の造船不況で破産して、そこからのし上がってきた男。修羅場のくぐり方が違いまっせ」
この5月の内閣改造で入閣したばかりの内田逓信大臣は、経歴だけを見れば切れ者なのは間違いない。だがどこか間抜の抜けた発言とその態度に、閣議の席には妙な空気が漂う。
内田は先の欧州大戦の勃発を受けて事業を拡大。莫大な財を成した船成金である。戦後不況を見越していち早く売り抜け、政界に進出した。同じ船成金の勝田銀次郎は愚直に造船不況に立ち向かった結果、見事に討ち死にした。勝田は文字通り底から這い上がり、神戸市長にまで上り詰めた。いくら賞賛してもし過ぎるということはないのだろうが、勝田市長も内田にだけは言われたくないだろう……言葉にはしなくても、この場にいる誰もがそう感じていた。
永井柳太郎文部大臣(民政党)が咳払いをして「それにしても酷い水害だったようで」と話題を戻す。
この年(1938年)の梅雨前線は例年以上に発達して長期間列島に留まった結果、7月3日から5日にかけて豪雨に見舞われた神戸市を中心とした阪神地区で大規模な水害が発生した(阪神大水害)。
総降水量は六甲山で616mm、市街地の神戸海洋気象台でも461.8mmに及び、阪神間の広い地域で400mmを超えたという。六甲山南麓の急峻な山地沿いに流れる芦屋川・住吉川・石屋川は瞬く間に増水。各河川の流域で決壊や浸水、土石流などの土砂災害が相次いだ。結果として神戸市民約90万人のうち7割近くが罹災し、全家屋の72%が何らかの形で被災するという大惨事となった。
交通網や通信網も寸断され、都市機能が完全に麻痺する中、勝田銀次郎市長は「神戸進軍」と称して不眠不休で陣頭指揮をとり、人心を収攬した。お上に対する評価が厳しい京阪神住民も勝田市長の指導力には感服しているという。
「危機の指導者たるもの、かくあるべきというわけですな」
永井が感じ入ったように頷くが、三土忠造内務大臣(政友会総裁)は渋い表情で応じる。
「六甲山系は江戸時代の乱獲で、そのほとんどが禿山と化してしまった。明治後半から計画的に植林作業が始まったが、今回の豪雨では根こそぎ流されてしまった地域も多い」
「仕方ありますまい。江戸時代の幕藩体制に現在のような治水の概念を期待するのは酷というものでしょう」
「そうではないのですよ結城蔵相」
三土内相は首を振って続ける。
「問題は知識や経験があっても、全国で統一して徹底されていなかったことです。天明の飢饉でも隣の藩では餓死者だらけなのに、藩を越えれば米が余っていたということもあったといいます。つまり……こういう言い方は何ですが、地方分権の弊害ですな。封建体制の残滓とばかりもいっておられんのですよ」
町田忠治総裁が内閣参議として閣内から外れた今、事実上の副総理なのが内務大臣である三土である。勘のいい閣僚はこの段階で-林総理や阿部内閣官房長官、米内海軍大臣ら軍部出身者がまだ到着していないこの場において、三土が何を主張したいのかを察した。
そして勘のいいのか悪いのかわからない内田は「さすがは鉄腕市長でんな。同じ造船業者出身として私も鼻が高い」と勝田への賞賛を続けている。
ビスマルクがドイツ諸侯領を強引に再編縮小したことを、明治維新以降の日本はわずか20年足らずでやってのけた。300近くあった藩をすべて廃止した上で府県制を導入。広域行政単位として幾度かの再編を経て、現在の46府県(+北海道)が成立した。明治維新が日本の中央集権化の歴史であるとするなら、西郷隆盛が破壊して大久保利通が基盤を作り、山縣有朋が完成させた内務省こそ象徴的な省庁なのだ。
内閣官房では阿部内閣官房長官をトップに陸軍から提案された衛生省構想が議論されており、それに伴い建設局や労働局などの内務省からの分離独立案が検討されている。その規模は鉄道省や逓信省など他省庁との再編も合わせた大規模なものになることが予想されている。
将来の行政的な需要増に対応するためというお題目なのだが、その実は内務省の解体以外の何物でもない。
首相の実弟である白上次官が省内の反対派を強権を持って粛清したとはいえ、事実上の省解体に対する省内の反発は相当なものだ。内務大臣としての三土からすれば、安易に物分りのよい態度を示していては、鼎の軽重が問われかねない。しかし事実上の連立内閣に参加する政党の総裁としては、内閣の重要政策に表立って反対も出来ない。
賛成もしないが反対もしないことを閣議の席上で強調することで、少しでも自分の政治的な地位をアピールしたい。党総裁の葛藤を知ってか知らずか、内田逓信大臣が三土に尋ねる。
「関屋延之助兵庫県知事から甲南地域の治水・砂防事業の国への移管が要望されたと聞きましたけど?」
「六甲砂防事業所は9月に設置の予定だ。しかし甲南地域の治水事業は10年や20年単位で完成するものではない。政府が主体となった一貫した治水計画の策定と、大規模かつ長期的な事業が必要になると考えている」
「そうでっか……あ、これは失礼。そうですか。それにしても難儀な話ですな。今年は例年以上に大雨や集中豪雨が多いと聞きます。これから台風シーズンですし、列島全域で同じような被害が起きないとも限りませんしな。そういえば、総理はこの間『本土開発基本計画』なるものを提言していましたな。あれも列島各地を鉄道と高速道路で繋ぐという大規模な開発が主眼でしたが、治水や砂防も考えておかないといけませんな」
「お天道様に文句を言っても始まりませんよ」
内田の長広舌を他の閣僚はほとんど聞き流していたが、永井文相だけが軽口で応じる。ところが内田はそれに「永井はん」と真面目腐った顔で続けた。
「中央気象台は永井さんのところ(文部省)の管轄ですやろ。他人事みたいにしとらんと、軍機に関わる以外の長期予報とかの早期開示を、軍に掛け合いなはれや」
「あ、あぁ、それは、そうですかな……」
「そうも何もないでっせ。このままやったら8月から9月にかけては列島各地で水害の多発は間違いおません。あんまり当てにならん予報でも、ないよりはまし。高台に逃げるぐらいの時間はできますやろ」
「しかし外れた時は……」
「そん時は永井さん、あんさんが腹切るなり、気象台の役人に腹切らせるなりすればよろしい」
「それがあんさんの仕事でっしゃろ」と言われては永井もぐうの音が出ない。時折、奇妙な冴えを見せる内田に他の閣僚がどうしたものかと困惑する中、本人は閣議室の戸に視線を向けた。
「おや、総理が来たようでんな」
内田の発言に閣僚達はそろって起立する。直後に官房長官と海軍大臣を引き連れて内閣総理大臣が入室した。三土はとっさに応じたものの、これでは誰が副総理なのかわかったものではないと、内心憮然としていた。
閣僚達の綱引きを知る由もない林は、いつもの調子で発言した。
「いや、皆さんご苦労様。じゃ、始めようかね」
*
1938年は梅雨前線の発達により例年以上に水害や集中豪雨の多い年でありました。阪神大水害と同じ7月には関東地域でも那珂川・桜川・利根川・江戸川・印旛沼と関東各地で決壊・氾濫・水害が発生しています。また7月28日から8月1日にかけては同様の集中豪雨が四国から東海地域にかけて発生し、8月末から9月頃には台風による水害被害も重なりました。
この水害を契機に内務省に治水・砂防事業を残すべきだとする意見と、新たに建設省を設置して逓信省や農林省から一部業務を移管し、一貫した土木行政を行うべきとする意見が内閣審議会で行われました。
- 『省庁再編の歴史』東京帝国大学史学概論の講義録より抜粋 -
*
ヴァシーリー・コンスタンチノヴィチ・ブリュヘルは、名前こそドイツ系だがれっきとしたロシア人だ。モスクワの農奴出身で劣悪な労働環境に抗議してストライキを起こし、三年間服役したこともある。
欧州大戦に徴兵され、勇猛果敢な戦いぶりを評価され下士官に上り詰めた。戦傷により一時退役したが、ボリシェヴィキに加入してロシア革命にも参加した。内戦時代では犠牲を恐れぬ戦いぶりから、赤旗勲章の最初の受賞者になったほどである。その後はコルチャークら白軍を追って極東管区を転戦。内戦後は極東方面における総司令官に抜擢され赤軍の元帥となった。
ブリュヘルがこれまでスターリンの大粛清も逃れることが出来た理由は、内戦時代の功績と合わせて彼に代わるだけの人材が赤軍内部にいなかったことが原因である。
ブリュヘルは勇敢であり部下を従わせるだけの器量の持ち主であった事は確かだが、優秀な司令官であったかどうかと聞かれると評価に困る。何せ正規の軍高官となるための教育を受けていない叩き上げなのだ(それはほとんどの赤軍幹部に共通していたが)。
とはいえ中華民国の蒋介石(当時は第1次国共合作)の軍事顧問となり、北伐に協力したのはブリュヘルであり、国民政府要人と個人的なパイプを築いていた。1929年には満州北部の中東鉄道を巡り、現状を変更して国有化しようとする国民政府軍と衝突。これを蹴散らした。極東における赤いヒグマの「代理人」であった。
彼の転落の契機となった。のは、ひょっとすると満洲事変(1931年)かもしれない。
忌むべき極東の帝国主義国家である日本の迅速な対応にソビエト極東軍は介入の隙すら見つけられず、気づけば隣接する満洲には、ブルジョア日本による傀儡国家が成立していた。国民政府は一致結束して戦うのかと思いきや、中華民国では国共合作が崩壊して内戦が勃発。
日本の侵略激化により再び国共合作を成立させたはいいものの、第2次上海事変(1937年)でコテンパンに叩きのめされ、再び国共合作は解消された。今や内戦の主体は国民党の分派同士であり、共産党の影響力は縮小する一方である。直接支援しようにも満洲という障害が物理的にも立ちふさがる為に思うようにも行かない。
苦悩を深めるブリュヘルをさらに追い詰めたのは、自分の監視役としてモスクワから派遣されてきた(NKVD)の極東局長である。
リュシコフ三等国家保安委員は大粛清の一環として37年7月31日に就任してから10ヶ月の間に25万人を強制収容所に送り込み、その内7千人を銃殺した。無論これにはブリュヘルも関与している。
自らの監視役であるリュシコフに逆らうことなど、ブリュヘルは考えてもいなかった。彼の頭の中にはどうにかして現在の地位を保ち、極東アジアにおけるモスクワの代理人としての地位を守ることしかなかった。保身のためばかりというわけでもなく、自分以外に極東を知る人間がいないではないかという自尊心とプライドがあったためだろう。
結局、それが仇になったのだが。
「……同志シュテルン。すまないが、もう一度いってくれないかね?!」
グリゴリー・ミハイロヴィチ・シュテルン大将は冷ややかな態度で上官を見下ろしながら、もう一度同じ内容を繰り返した。
「ゲンリフ・サモイロヴィチ・リュシコフ三等国家保安委員が亡命しました。多数の軍事機密を携え、満洲へと入った模様です。つまり現在、わが極東軍の体制は日本に丸裸というわけです」
「……が、ば、馬鹿野郎!!」
ブリュヘル元帥はたたき上げの軍人とは思えない狼狽ぶりを露にすると、机の上の書類を床に払い落とした。そのまま頭を抱えるように机に伏せると「何故だ」とヒステリックな怒鳴り声を上げた。
「何故だ!何故亡命した!!あれは俺の監視役だろうが!何故監視役が、監視対象をほっぱらかしにして、亡命するのだ!!」
「私には解りかねます」
「こんな馬鹿なことがあってたまるか!」
ブリュヘルは顔を上げると机をこぶしで殴りつけた。天板が割れて破片が突き刺さるが、痛みを感じないのか何度も何度も殴りつける。
「いったい俺が、あの男のために何人の部下を、何人の同僚を、何人の友人を犠牲にしたと思っているのだ!すべてはあの男の点数稼ぎのためだ!この極東軍が弱体化しないように、俺がどれだけ苦労してきたとすべては祖国のため、そう言い聞かせてやってきたのだ!その上、軍事機密を調べつくして亡命だと?!ふざけるのも、大概にせい!!」
狂乱ともいえる上司の態度を、シュテルン大将は表面上の冷静な態度を崩さずに接していた。どこに密告者の目があるか解らない状況では、安易な同情を見せる言動は命取りになりかねない。故にシュテルン大将はあえて現実だけを上官に提示した。
「同志司令官。残念ながら事情はきわめてよろしくありません。このままでは…」
「黙れ、小童!!」
ブリュヘルの投げつけたインク壷がシュテルンの額に傷をつける。シュテルン大将は一瞬だけ顔をしかめるが、すぐさま冷徹な仮面を付け直すと後ろ手で組みながら、上司を見返した。
血走った目で自分をにらみつけるブリュヘルは、とてもではないが冷静とは思えなかった。
「貴様にここの何がわかる!モスクワでぬくぬくと、人の生死をグラフの数だけで見てきた連中に、ここの何がわかるというのだ!!人が立ったまま凍死する環境で、極東軍の将兵がどんな気持ちで戦い続けてきたのか、あの日本帝国と、どんな気持ちで対峙してきたか、貴様らにわかるのか!!!」
「わかってたまるか!!」とブリュヘルは座っていた椅子を蹴り倒した。しかしすぐさま頭を抱えると、床にうずくまるように座りこんだ。
「いったいあいつらに、どんな顔をすればいいのだ。革命の大義を信じて、このシベリアの地で死んだ連中に、俺の保身のために差し出した連中に、こんなことで、こんな馬鹿なことが……」
シュテルン大将は老いた英雄に敬礼をすると、何も言わずに部屋を退出した。
司令官質の前の廊下にはNKVDの将校がたむろしており、すぐさまブリュヘルを取り調べようと押し入らんとしていた。
「待て」
シュテルンはその中でも最高位と思われる将校の肩に手をかけた。即座に「邪魔をするな」とでも言いたげな厳しい視線が返されるが、つい先日までスペイン政府軍の軍事顧問団として修羅場を潜り抜けてきたシュテルンには、蚊に刺されたほどの痛みも感じなかった。
「司令官閣下はお疲れだ。明日にして頂こう」
「同志参謀長閣下。ブリュヘル同志に同情されるお気持ちは理解しますが、邪魔立てされるのでしたら貴方も同罪として取り調べなければいけません」
「……どうも諸君は何か勘違いをしているようだね」
自分を取り囲むNKVDの将校に、シュテルンは何故か同情するかのような視線を向けると、パチンと指を鳴らした。
すぐさま完全武装した極東軍司令部の憲兵が、かつての『リュシコフの部下』達を拘束する。「何をする」と叫ぶ彼らに、シュテルンは現実を突きつけた。
「明日にして頂こうというのは、君達の取調べの事だ。取り締まる側から、取り調べられる側に転落したというわけだよ。君達に少しでも愛国心が残されているのなら、素直に取り調べに応じることだ」
「ちょ、ちょっと待っていただきたい!私たちは何もしら……」
シュテルン大将は拳銃を取り出すと反論する将校の顔を銃握で殴りつけた。歯と血が噴出してシュテルンの軍服にも飛び散るが、シュテルンは将校の顔に自らの顔近づけると、先ほどまでのブリュヘル元帥に対するものとは異なる、どこまでも冷ややかな声で宣言した。
「安心するがいい。私達は君達と同じようにやるだけだ……君達がこれまで容疑者に対して接してきたようにね」
・いやあ同士☆さんは説得力ありますね(棒読)
・…本当に現代日本に生まれてよかったと思います(真顔)
・安部さんの関与は不明なんですけど、じゃあ何で実行犯が訪問するんだと。うん。仮に事実なら白色テロだし
・(野党を)分断して統治する。これは今のロシア流(検閲されました
・船成金の内田信也。いわゆる教科書にある「どうだ、明るくなっただろう」の元ネタ。なんかもうよー解らん人。解りやすそうで解りにくい。勝ち馬に乗りそうで乗りづらい。東條内閣に入閣してたのに、なんで更迭されたのかもよくわからない。なのに吉田内閣にも入閣。何なんだこのおっさんw
・三土さんは苦労人。
・鉄腕市長こと勝田銀次郎。こんな偉い人がいたんだなあと。
・ブリュヘルさんは気の毒すぎる…気がしないでもないけどアカだしまあいいか(おい)