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何も銑十郎元帥  作者: 神山
昭和13年 / 1938年 / 紀元二千五百九十八年
19/59

東京日日新聞 / デイリーエクスプレス / 東イングランド ハートフォードシャー州 ハットフィールドハウス / 外交文書アーカイブスより『日米諒解案』原案 / 東西新聞(1938年5月)

『ヨーロッパは歴史によってつくられ、アメリカは哲学によってつくられた』


マーガレット・ヒルダ・サッチャー(1925-2013)


- チェコスロバキア軍が予備役1万7千人を招集 -


(中略)そもそも自治権問題は、昨年9月16日にチェコスロバキア首相ミラン・ホジャ氏とズデーテン・ドイツ人党のコンラート・ヘンライン氏の直接会談において、ヘンライン氏が要求したことに始まる。


 1935年の総選挙で第2党に躍進したドイツ人党は政権への参加を拒否し、ホッジャ氏の農業党(議会第1党)、エドヴァルド・ベネシュ大統領の国民社会党らの弱体化した連立政権を外から揺さぶった。国会運営への協力を求めるための会談であったが、ヘンライン氏のまさかの-予想されたこととはいえ、下手をすればチェコスロバキアの解体につながりかねない自治権要求は、プラハの中央政府は当然ながら拒否した。


 チェコスロバキアの人口はおよそ1200万人。そのうち310万人のドイツ民族がズデーデン地方に集住している。シュコダ財閥を初めとした重工業地帯でもあるこの地域の自治を認めてしまえば、それこそチェコスロバキアは周辺諸国により「解体」されかねない。チェコスロバキア駐在のドイツ公使や、ヒトラー総統もたびたび「ズデーデン問題」の解決を要求しており、一連の背景には明らかにドイツの影がある。


 ドイツの支援に意を強くしたのか、ヘンライン氏は警察幹部による人民党幹部襲撃事件を受けて、ズデーデン自治領から「ズデーテンのみならず全ボヘミア・モラヴィア・シレジア地方のドイツへの編入」を公開書簡によって要求した。


 オーストリー合邦(4月)により、チェコスロバキア政府はドイツへの警戒感をさらに強めた。ドイツによるチェコスロバキアへの軍事作戦が囁かれる中、ついに5月20日。ドイツ国防軍に動員の動きがあるとして、プラハの政府は予備役兵の召集を決定。国軍および内務省に動員令への準備を要求した。


 仮にドイツがチェコスロバキアへの先制攻撃を行った場合、軍事協商関係にあるソビエト連邦、およびフランス共和国は対抗措置を取らざるを得ない。日本政府のある高官は「この動員令が第2次欧州大戦の引き金になるかもしれない」と警戒感をあらわにした。


- 東京日日新聞(5月21日) -



 チェコスロバキアのズデーデン地方をめぐる問題に端を発した現在の国際的な緊張は、2度目の世界大戦へと発展するのか、それとも過ちは防ぐことが可能なのか。欧州情勢は風雲急を告げている。


 緊迫する欧州情勢について、本紙は日本の宇垣一成大使にインタビューをした。


 宇垣大使は退役陸軍大将で日本陸軍の重鎮。ロンドンにも東京にも太いパイプを持つ実力者である。同大使は「国内の問題は国内で、国家間の問題は二国間同士で解決されるのが望ましい」としながらも、チェコスロバキアのズデーデン政策とドイツの介入姿勢を暗に牽制した。


(取材は本紙代表取締役のウィリアム・マックスウェル・エイトケンが行った)


- 大使、本日はお忙しいところありがとうございます -


『何、国民の期待に応えるのが政治家なら、国民の知りたいところに従うのが新聞記者諸君よ。この程度の手間は手間のうちには入らぬ。しかしだ、何か問題が起きた時はお手柔らかに頼むよ男爵』


- お約束はできませんが、その時は国民の知る権利に従うとだけ申し上げておきましょう -


- ではまずチェコスロバキア情勢ですが、4月24日にズデーデン地方のドイツ系民族政党のヘンライン党首がドイツ系の住民の自治と地位向上を求めました。これを受け、英仏公使は5月7日。プラハのチェコスロバキア政府に対して、ヘンライン氏の要求受け入れを要望しました。大使は英仏公使のプラハへの要望についていかにお考えになりますか? -


『他国の内政問題や外交については大使としてはコメントはしない。しかしそれでは新聞記事にならんだろう……そうだな。問題になる前に現実的な落としどころを探ろうといったところかな』


- 問題といいますと? -


『それは私の口からは言えないよ男爵。民族自決の原則はヴェルサイユ体制の根幹をなすものだ。しかしだ。全ての民族が、それこそ少数民族まで含めて独立できたわけではないし、同じ国で独立出来たわけでもない。独立した国家の中で民族問題と無縁な国家などないよ。パリ講和会議に調印した日本としても責任があるので発言が難しいが、それでも当時の連合国は限られた時間で努力したと考えている』


- それはアンシュルス(ドイツのオーストリー合邦)批判と考えてもよいのでしょうか -


『直接の当事者ではない日本の大使としてはコメントは差し控えさせていただく。ただ原理原則を守ることと、パリ講和会議で調印された一連の条約を履行することは矛盾しないと考えている。これは私だけではなく日本政府の立場と考えていただいても結構だ』


- つまりサン=ジェルマン条約の上書きは許されないと? -


『具体的に上書きが何を意味すのかわからないので、その点はお答え出来ない。しかしだ。ここから先はあくまで一般論として聞いて頂きたい。国家とは王政であれ共和制であれ、何らかの国体の下で一体であるべきだ。歴史認識や政治、経済で一体感のない国民など烏合の衆でしかない。仮にそれぞれの出自や身分で政党や分派を作っては、国民国家としての国益など追求できるはずがないからな』


『では国体とは何か?日本においてはそれは皇室であり、貴国にとっての王室である。フランスにとっては革命以来の闘争精神であり、アメリカにとっては国旗と国家、そして国と個人の自立である。国民に対して教育感化するための教育の必要性と重要性は誰しもが認めるところだ。その点に関しては完全なる内政問題である。しかしだからといって国内の少数派民族に対して、猶予期間もなく性急に、それも一方的に同化政策を迫るというのは望ましくないだろう。あくまで一般論だが』


- チェコスロバキアの国民社会党(中道左派)を中心とする現連立政権の、ズデーデン政策には問題があるとお考えなのでしょうか -


『政府がその国民にどのような教育をするか、先にも述べたが第一義的にその国の内政問題である。一般論であるが、たとえばここに大陸があり、内陸の国家があったとする。その国内には3割程度の少数派民族がいたとしよう。その少数民族が、国力では到底かなわない隣接する大国では圧倒的多数であった時の、中央政府の恐怖というものは、島国の私たちには少し理解しがたいものがある。貴国にとっては北アイルランド問題で理解しやすいかもしれないが……』


『チャイナの諺にこのようなものがある「大国を収めるとは、小魚を煮る時のように注意しなければならない」と』


- 申し訳ありませんが大使、不勉強でその言葉の意味するところが理解できないのですが -


『小魚を煮る時に弄り回せばどうなるか。尻尾やヒレが取れ、下手をすれば魚自体が折れてしまう。当然ながら味もおちるわけだ。故に小魚を煮る時は火加減に気をつけて細心の注意を払う必要がある。大国の政治も、大所高所の要点さえ抑えておけば良いという考え方だな』


- 小魚とはチェコスロバキアのことでしょうか? -


『魚の大小問わず、自分の背びれを無理やり引き剥がされるのに抵抗しない者などいない……と言いたいところだが、国と魚とは違うよ男爵。民族自決の原則を尊重しつつ、現行の条約を順守することを求める…日本政府の立場には何の代わりもない』


- 先日、日本政府は旧オーストリー国内の大使館を公使館へと格下げしましたが、これはアンシュルスの現状変更を追認したと考えても良いのでしょうか。それともドイツ政府の満州国承認と何らかの関係があるのでしょうか -


『男爵、後者は満州とドイツの問題であり、私としては関与するところではない。また前者については、私としてはコメントを差し控えさせて頂こう』


- デイリー・エクスプレス(5月21日)『ウガキが吠えた!マックスが聞いた!放言暴言2時間言いっぱなし!』より -



 当代のソールズベリー侯爵(4代)ジェイムズ・エドワード・ヒューバート・ガスコイン=セシルは、父(3代)と従兄は保守党の元首相、弟は国際連盟創設者の一人という政治エリート一家に生まれた。本人もイートン校からオックスフォード大、庶民員議員を経て貴族院議員となり、欧州大戦の前と後の保守党政権において商務大臣や枢密院議長などの閣僚を歴任し、貴族院の院内総務も務めた保守党の重鎮である。


 政治的には反ドイツであり対アイルランド強硬派、植民地の死守を掲げる帝国主義者。自由党のロイド・ジョージ蔵相(当時)が組んだ人民予算に反対したことに象徴される私有財産への課税を「社会主義政策」と批判し、福祉や医療などの社会保障分野での政府支出拡大に反対するという典型的な保守党の政治家である。


 いささか時代遅れとも揶揄されるその政治的なスタンスは、同じ保守党でありながら第2次ボールドウィン政権や、それを継承したチェンバレン内閣の漸次的な内政政策と全くそりが合わず、ドイツへの融和外交も含めて現政権には極めて批判的、もしくは冷笑的なスタンスを崩していない。


 故にソールズベリー侯は相手が誰であろうとも、これ見よがしに東イングランドのハートフォードシャー州にある自らのカントリー・ハウスに招いていた。それは政治的な繋がりを協調するというよりもダウニング街10番への嫌がらせのほうに力点が置かれていたが。


「貴公の御友人は、相変わらず品のない煽りを書くな」


 髑髏に皮膚がぴったりと張り付いたかのような陰鬱な顔に、貴族らしい冷たさを漂わせたソールズベリー侯爵は、忘れ去られるというにはあまりにも存在感のある人物を部屋に招きいれた。そして執事に人払いを命じると、その男と向かい合うように腰を掛けた。


 居並ぶ調度品の数々や本棚に詰まった革張りの稀覯本が威圧するかのように部屋の中の2人を見ろしていたが、迎え入れられたはずの人物は、まるで自室でくつろいでいるかのように椅子に腰かけた。


「何、タイトルと中身の齟齬はよくあることです。私もタイトルを考えてから中身の帳尻を合わせるのはよくあることで」


 猫背気味の上半身を反るようにして、肥えた体を椅子にどっかりと押し付けるようにしながら座るウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル元蔵相は、珍しく葉巻をくわえずにソールズベリー侯爵に笑いかけた。歯をむき出しにして笑うと闘犬用のブルドックに瓜二つである。


 人と思うから腹が立つのである。犬だと思えば腹も立たない。


 陰気な表情でニコリともしないソールズベリー侯が何を考えているか。それを知る由もないチャーチル卿は主人の態度にわざとらしく肩をすくめると「問題はタイトルよりも中身ですな」と続けた。


「やたらと修飾語が多いのがあの大使の癖なのでしょうな。つまり今回のインタビューの肝は、日本の大使が英仏の対応を支持したということです。おそらくトウキョウのカイゼル首相の許可を受けたうえでのことでしょう」

「タブロイド紙で答えたというのが気に入らんがな」

「TPOは確かに重要ですが、今日のような切迫する事態においては必要なのは時機を得た発言と、そのタイミングであります。場所は関係ありません」

「貴公の友人が経営する新聞だからであろう?」


 ソールズベリー侯の嫌味に、チャーチルは「何か問題でも?」と返して見せた。暗に自分の友人が経営する新聞社を紹介したことを認めたことに、ソールズベリーはわざとらしく息を吐いた。


「……あきれた男だな、貴公は」

「褒め言葉として承っておきましょう」


 そう嘯くと、チャーチルは欧州情勢に関する自らの所感を訊ねられてもいないのに話し始めた。


「チェンバレン首相もハリファックス卿(外務大臣)も、ドイツに介入される前にチェコスロバキアに自主的に自治権問題に対応するよう要求しております。しかしヒトラーは、国防軍最高司令部にチェコスロバキアへの軍事作戦の策定を要求したようです」

「コンラートの要求つり上げは、ベルリンと示し合わせたことか」

「ホッジャ首相が要求を丸呑みすれば、今度は国家としてのチェコスロバキアの解体を要求するでしょうな。万が一にでもそれを受け入れたとするなら、今度はチェック人とスロバキア人をプラハから追放しろとでも言うのでしょう」


 チャーチルはこの人らしい批判と皮肉が綯交ぜになった言い回しで、現在のドイツの対応を批判した。


 おそらく今のロンドン政界において最も早く、かつ強烈にドイツの批判を始めたのはチャーチルであろう。保守党において大陸におけるパワーバランスが崩れることを恐れるソールズベリー侯や故オースティン・チェンバレン元外相(現首相の兄)も反ドイツ派として活動していたが、思想的にナチスを罪悪と断定したことがチャーチルの特異な点である。


 当初はチャーチルも他の保守党議員同様、共産主義者への警戒感から共感を示していたチャーチルであったが、長いナイフの夜(1934年)における反体制派の粛清-令状も裁判もなく、ただ政権担当者と側近の「気分」によりおこなわれた人民裁判。そして事後法における正当化のプロセスに激怒し「ドイツは法治国家ではなくなった」と決別を宣言。以来、ロンドンにおける最も強硬な反ナチス論者となった。


 しかしソールズベリー侯爵には、それはどうでもよいことである。


 動機がどうであれ使える駒は多いに越したことがないというのが、この老貴族の考えであった。またチャーチルもそれを知りながらも、自らの復権のためにこの老貴族を利用し、利用される関係にあった。


「そこまで露骨な対応をしても、ドイツはフランスとソビエトは動かないと考えているということか」

「侯爵。イギリスも-であります」


 あえて祖国が侮られている現状を指摘したチャーチルに、ソールズベリー侯爵は「わかっている」と頷いた。この老人は帝国主義者ではあっても、現実を認められない復古主義者ではない。人物を見ずに家柄だけで閣僚に起用するほど、イギリスの政治は人材に困窮していない。


「残念かつ不本意極まりないが、わが国の本土の陸軍だけでは目下の情勢に対応しきれまい。ソビエトは間にポーランドがあるからわからないでもないが、やはりフランスも難しいか」


 ソールズベリーの問いかけに、政権内の同士から得た情報を基にしながらチャーチルは答える。


「ポーランドなどは喜んでチェコスロバキアとの紛争地帯に攻め込むでしょうな。フランスではようやくダラディエ氏の内閣が組閣できたばかりです。そもそもフランス軍の今の首脳陣にはドイツに侵攻する作戦計画を考えるつもりがありません。チェコスロバキア軍と共同しての軍事作戦も、せいぜいが机上演習どまり。国内のマジノ線で迎え撃つことしか考えておりませんからな。仮に戦争になったとしても、ドイツへの抑止力になるかというと」


 チャーチルの語る大陸における旧連合国の醜態と現状に、ソールズベリー侯爵はわずかに眉間にしわを寄せることで、自身の不快感を示した。


 フランス政治の混迷を解決するために結成された人民戦線(共産党閣外協力の左派政党連立政権)は、内政面はともかくとして、期待された軍事外交面においては成果を上げることが出来ずに崩壊した。そして急進社会党において、真っ先に人民戦線に賛成しておきながら、今や反人民戦線の筆頭となったエドゥアール・ダラディエが共産党を排して政権を樹立した。アルベール・ルブラン大統領就任(1932年-)からは15回目の組閣である。


 そしてチャーチルは人民戦線崩壊の原因となったフランスの安全保障環境の変化を指摘する。


「スペイン共和派が7月頃に最終攻勢に出ると陸軍より報告がありました。さながらドン・キホーテですな。人民戦線の崩壊もこれに関係しているのでしょう。さすがにこの状況でバカンス法案を優先するようでは、国防への危機感が問われかねません。フランコ将軍派が勝利すれば、東のドイツと南のスペインに囲まれることになります……イタリアはどちらにつくかわかりませんが」

「コミンテルンと組んだ連中がどうなろうと知ったことではないが、現状すぐさまドイツに対応できるのはフランス陸軍だけだ。ヴォクリューズの雄牛殿はどのような人物なのか?」

「左翼にしてはまともな国防観念の持ち主です」


 「残念ながら個々の優れた能力を発揮出来ないのが、今のパリですが」と、チャーチルは皮肉交じりに続けた。本音では「ロンドンも同じかもしれませんな」と続けたかったのであろうが、この人物にも政治的パトロンの前で自重するだけの理性はあったらしい。


「予算案の関係上、16度目の組閣になりそうな気配が濃厚であります。おそらくその場合でもダラディエ氏が第4次内閣を組閣するでしょうが」

「……この期に及んでフランス人は、度し難いな」


 ソールズベリー侯爵は吐き捨てたが、チャーチルは「反共をお題目にヒトラーのような犯罪者の提灯持ちが横行する今のロンドンも似たようなものだ」と内心で呟いた。


「思えば2年前のあの時、フランダン外相に協力しておくべきだったか」


 悔いると言うよりもしくじったかとでも言うべきソールズベリー侯爵の発言に、チャーチルは「死んだ子供の年齢を数えるようなものです」と応じる。


 ドイツ国内の非武装地帯と定められたラインラント(独仏国境)にドイツ軍が進軍したのは2年前の1936年3月である。


 当時のフランスの第2次サロー内閣は軍事制裁を求め、フランダン外相をロンドンへ派遣。イギリス政府に協力を要請したが、反戦世論によりイギリス政府は介入を断念せざるを得なかった。「たとえ条約で禁止されていたとしても、ドイツの領土にドイツ軍が駐留すること自体はおかしくないではないか?」という、一見するともっともな-チャーチルからすれば現実を糊塗するだけの美辞麗句な意見が大勢を占めたからである。


 それでもフランダン外相はウェストミンスターにおいて全議員を前に「今がドイツを食い止めるチャンスなのです」と訴えたが、返されたのは冷笑だけであった。


 その時のフランダンの悲痛な表情を、チャーチルは今でも鮮明に思い出すことが出来る。


 そして歴史はかのフランス人が予言したとおりに動いた。


 ……いや、そのまま動かせるわけにはいかないとチャーチルは自分自身の脳裏をよぎった考えを否定した。たとえフランス全土が焦土と化し、大英帝国が崩壊しようとも、あの野蛮なナチスの支配する欧州大陸は受け入れられない。少なくとも自分自身は。


 まともな考えでないことは自分自身が一番承知している。しかしたとえどれほど困難であろうとも、必ずナチス政権は打倒されなければならない。その為には例え相手が悪魔であろうとも手を結ぶべきであると彼は考えている。


 チャーチルが自身の考えをまとめていると、ソールズベリー侯爵は話題をかつての大英帝国の同盟国へと移した。


「それで日本はどこまで使えるのだ」

「閣下はウガキ大使とお会いになられたことは?」

「あのお調子者の言葉を聞くぐらいなら、貴公の率直な見解を聞いたほうが、まだましというものだ……で、どこまで同意を得ているのか?」

「そうですな……チャイナに関しては問題ありません。マレー半島やブルネイ……さすがにインド大陸まで治安維持軍の派遣を期待するのは酷というものでしょうが、それでもアドミラル・トーゴ―の子孫がインド洋に鎮座すれば独立主義者共もおとなしくならざるを得ないでしょう」


 海軍大臣の経験もあるチャーチルは、端的に日本海軍の実力を評してみせる。


 宇垣大使を窓口に始まった日英交渉は、前ボールドウィン内閣のチェンバレン蔵相が首相になった後も継続中である。スターリングブロック(ポンド経済圏)への日本の参加を認める対価と引き換えに、上海や香港など大陸における英国の権益を守るための日本軍の協力を確約させつつある。


 今はさらにステージが上がり、インド洋にかけての広範な協力関係を築くために、日英の外交・軍当局の間で断続的に協議が進められている。ドイツ政策ではチャーチルと見解が異なる現政権も、大英帝国の存続のためには日本の協力とアメリカの支持が必要不可欠であることは理解しているらしい。その点はチャーチルも率直にチェンバレン首相を評価していた。


「せっかくポンドによる保護貿易圏が出来たというのに、そこに円を参加させるとはな」

「侯爵閣下。閣下も先ほどおっしゃられたように、使えるものは使うべきです。連邦加盟国のオーストラリアやニュージーランドは日本海軍を仮想敵としているようですが、むしろ日本を味方につければ極東や中東においてイギリスの仮想敵はいなくなります。その分を本土防衛に回すことも可能になるかと」

「わかっている。だから私も貴族院で骨を折っているのだからな……しかしアメリカはどうなのか」


 帝国主義者であり植民地は必要悪であると考えているチャーチルやソールズベリー侯爵にとっては、日本の大陸政策や満洲国建国などは優先順位が低い。むしろ大陸の治安維持活動に日本が責任を持つというのであれば、理性的な取引や交渉の相手になると考えている。


 しかしアメリカは違う。英国の植民地から独立した経緯から、そもそも植民地というものに生理的な嫌悪感を持っている。ならばフィリピンやキューバ、パナマなどはどうなるのかとチャーチルは反論したくなるのだが、今のルーズヴェルト政権は何を考えているのか(それとも何も考えていないのか)、合法権益を維持しつつも中南米の植民地から撤退。フィリピンにも将来的な独立を約束して見せた。


 そしてワシントン会議以来(あるいはその以前から)アメリカは伝統的に日英接近を警戒している。日本(太平洋)とイギリス(大西洋)、そして隣接するカナダとアメリカを包囲するような形になるからだ。日本政府は「アメリカを対象とした日英交渉ではないと」必死に説得を続けているが、ワシントンDCの感触はお世辞にも良いものではないと、チャーチルはウガキ大使から報告を受けている。


 「日英の植民地帝国を守るための帝国主義同盟」という嫌悪感からアメリカが反対に回るのであれば、イギリスとしては交渉の継続そのものを諦めざるを得ない。


 先の欧州大戦によりポンドの国際的地位がドルに取って代わられつつある中、ドイツとの対立を続けながら新興国のアメリカ(もしくは日本)と対立する自力は大英帝国にはない。この点ではソールズベリー侯爵とチャーチルは共通した見解をもつ。もっともチャーチル自身は母親がアメリカ人ということもあり、個人的に大西洋の連携を重視する立場ではあったが。


「英日の大陸政策の最終合意としての満洲承認か。そう考えるとドイツも嫌な手を打ってくる」

「おそらくは日本はあえてドイツに餌を与えたのでしょう。国民政府があの体たらくでは、ドイツも対ソビエト政策の関係上、日本を重視せざるを得ませんからな」

「ドイツの後追いになるのは気に入らんが、先にも述べたとおり問題はアメリカだ。いまの大使ジョセフ・ケネディは親ドイツ派だが、貴公の観測ではどうなのだ。日英の協調に理解は得られそうなのか」

「ホワイトハウスの今の住人は、彼の言うことになど耳を貸さないでしょう。判断の材料にはしても、最終的には恐らく自分で判断するかと。それももっとも選挙民に受ける形で」

「やれやれ、情けないことだ」


 ソールズベリー侯爵は苦りきった表情で顔をしかめて見せる。


 大英帝国はその巨体を守るためには他国の支持と協力を必要とせざるをえない-その現実は分かっていたつもりであったが、こうも露骨に現実を見せつけられてはイングランド人としてのプライドが大いに傷つけられる。まして最終的には植民地人に大英帝国の命運が握られているとあっては。


 息をつくソールズベリー侯爵に、チャーチルは慰めとも何ともつかぬ言葉を続けた。


「考えてもみてください。ウェストミンスターで泣きついたあのフランス人よりは、わが祖国は恵まれた環境にあるではありませんか。いざとなれば国王陛下の下で一致結束できる。それが大英帝国イギリスの強みでありますからな」



 日本国政府及び米国政府は両国間の伝統的、友好関係の回復を目的とする全般的協定を交渉し且之を締結せんが為茲に共同の責任を受諾する。


 両国政府は両国国交の疎隔の原因に付いては特にこれを論議することなく、両国国民の友好的感情を悪化するに至りたる事件の再発を防止し、その不測の発展を制止することを衷心より希望する。


 両国共同の努力により、太平洋に国際法に基づいた平和を樹立し、両国間の懇切なる友好的諒解を速やかに完成することにより、文明を覆滅せんとするテロリズムや無政府主義などの悲しむべき混乱の脅威を一掃せんこと、もしその不可能なるに於いては速やかに之を拡大せしめざらんことは両国政府の切実に希望するところなりとす。


 前期の決定的行動の為に、長期の交渉は不適当にしてまた優柔不断なるに鑑み、茲に全般的協力を成立せしむる為両国政府を道義的に拘束し、その行為を規律すべき適当なる手段として文書を作成することを提議するものなり。


 右の如き諒解は之を緊急なる重大問題に限局して会議の審議に譲り、後に適宜両国政府間に於いて確認しうるべき付随的事項は之を含ましめざるを適当とする。


 両国政府の関係は左記の諸点につき事態を明瞭にし又これを改善し得るに於いては著しく調整し得べしと認めらる。


①日米両国の抱懐する国際的観念並びに国家観念。

②欧州情勢に対する両国政府の態度

③満洲事変および上海事変に対する両国政府の態度

④太平洋に於ける海軍兵力及び航空兵力並に海運関係

⑤両国間の通商及び金融提携

⑥南西太平洋方面に於ける両国の経済的活動

⑦太平洋の政治安定に関する両国政府の方針


 前述の事情により茲に左記の諒解に達したり。


 右諒解は米国政府の修正を経たる後、日本政府の最後的且公式の決定に俟つべきものとする。


①日米両国の抱懐する国際観念及び国家観念


 日米両国は相互に対等の独立国にして相隣接する太平洋の強国なることを承認する。両国政府は恒久の平和を確立し、両国政府の尊敬に基づく信頼と協力の新時代を画さんことを希望する事実に於いて両国の国策の一致することを闡明せんとす。


 両国政府は各国は等しく権利を享有し、相互に利益はこれを平和的方法により調節し精神的並びに物質的の福祉を追求し之を自ら擁護すると共に之を破壊せざるべき責任を容認することは両国政府の伝統的確信なることを声明する。


両国政府は相互に両国 固有の伝統に基づく国家観念及び社会的秩序並びに国家生活の基礎たる道義的原則を保持すべく之に反する外来思想の跳梁を許容せざるの強固なる決意を有す。


②欧州情勢に対する両国政府の態度


(中略)


③満洲事変および上海事変に対する両国政府の関係


 米国大統領が左記条件を容認し且つ日本国政府が之を保障したるときは米国大統領は之により満洲国を承認し、国交樹立に向けた交渉を開始することを約束する。また日英両政府の同盟再交渉に向けた協議を黙認(承認)する。


A:支那の独立

B:ワシントン講和条約に基づく日本国軍隊の支那領土撤退(ただしD条項に関するものを除く)

C:支那領土の非併合(ただし日支両政府がこれまでに調印した現行の日本政府の租借地や駐屯の権限はこれを除く)

D:支那領土におけるテロ防止にむけた日支両政府の緊密なる協力。租界地に関する日本軍の防衛についての協議及び、治安維持に向けた協力体制の確立。

E:支那領土における門戸開放方針の復活。但し之が解釈及び適用に関しては将来適当の時期に日米両国に於いて、又満州国に関しては米国と満洲行政府が協議せらるべきものとす。

F:支那領土への日本の大量的または集団的移民の自制


(中略)


*附則*


 本諒解事項は両国政府間の秘密覚書とす。


 本諒解事項発表の範囲、性質及び時期は両国政府に於いて協定するものとす。



- 合衆国が満洲承認へ交渉を開始。国務省報道官声明 -


 国務省は22日。満洲国との国交樹立に向けた交渉に着手するとの報道官声明を発表した。満州事変を9か国条約違反と批判し続けてきたこれまでの方針からの転換であり、議会共和党からの激しい反発が予想される。


- 東西新聞 (5月23日) -


・鉄の女もやっぱりイギリス人なんだなあと

・タブロイド紙は大衆紙…といわれても日本人的感覚じゃピンとこない。東○ポ?

・新聞社の社長に爵位をばらまいたロイド・ジョージ。やり方が上手い

・その新聞社の社長と友人となり閣内に招き入れたチャーチルのほうがエゲツナイ

・信念と狂信は紙一重。みんな大好きチャーチル御爺さん。

・みんなご存じソールズベリー侯爵。まあなんというか、経歴だけ見ているとコテコテの悪役。息子さんは輪をかけてそうときている。そしてバトラーとマクミランならマクミランに軍配を上げるのが保守党

・フランダン外相。個人的に最も同情するフランス人。

・ヴォクリューズの雄牛。やたらにかっこいい綽名を政治家につけるのはフランス人の伝統なのか

・どうしてホワイトハウスは受け入れたんだろうね(棒読)

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