東西グラフ4月号 / 東京府牛込区 神楽町 某料亭 / 中央公論3月号 / 東京府東京市 三宅坂 陸軍省小会議室(1938年4月)
『反対者には反対者の論理がある。それを聞かないうちに、いきなりけしからん奴だと怒っても始まらない。問題の本質的な解決には結びつかない』
渋沢栄一(1840-1931)
- 揺れる商工省、ミスター・統制VS自由経済の闘士 -
見ているだけならこれほど面白い見世物はない。しかし、付き合わされる国民としてはたまったものではない。商工省が大揉めだ。
商工大臣の町田忠治(75歳)はこの7月で就任4年目をむかえる。これは前身である農商務省時代を含めて最長だ。
町田翁が自由経済の信奉者かつ自由貿易論客であることはよく知られている。新聞記者から日銀幹事、明治30年代には経営不振に陥った大阪の山口財閥に招聘され、中核企業である山口銀行を再建して大阪経済界の世話人に上り詰めた。政治的には大隈侯爵の薫陶を受けて憲政会→立憲民政党(以下民政党)に所属し、農林大臣や商工大臣を歴任。若槻総裁の後を受けて第3代民政党総裁に就任。事実上の副総理として閣内で重きを成す。
対する岸信介(42歳)は帝大法学部卒業後、農商務省に入省。省庁再編による分割後は商工省に移り、現在の統制的な経済政策の出発点となった重要産業統制法を木戸幸一氏らと共に起案した。
革新派経済官僚の雄として省庁の垣根を越えた人脈があり、浜口内閣の官吏減棒案に強硬に反対したこことで名を上げた。その辣腕を見込まれて満洲国に経済官僚として渡り、5ヵ年計画に基づく統制経済を実行。現在の満洲経済興隆の基盤を築いた。今年からは商工省商務と外局の臨時産業合理局の局長を兼ねている。
両氏の対立はイギリス流の自由経済と、ドイツ流の産業統制政策との争いと言い換えることもできる。
町田氏の師である大隈侯爵は、イギリス流の政党政治を主張していたことで知られる。町田翁は明治30年代にイギリスに留学し、政治・経済、そして財政学を学び、帰国後は東洋経済新報を立ち上げた。明治の頃より政界屈指の経済財政政策の論客として確立した地位と自由経済への信念は、確固たるものがある。
対する岸氏は口八丁手八丁の『ミスター・商工省』。敵も多いが、それ以上に熱狂的な同志が多い。現在の産業経済政策の基本は、同氏がドイツ出張中に書いたレポートであるというのは有名な話だ。何れ商工次官となることは間違いない。
まさに水と油の両氏が同じ職場にいるのだから、問題が起きないはずがない。臨時産業合理局の廃止を岸局長が公然と批判した一件は、商工省内部にとどまらない可能性がある。
- 東西グラフ(アサヒグラフより改題)4月号 特集『岸の乱』 -
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牛込区神楽坂付近は、若宮八幡や赤城神社など多くの寺社が点在している。地名にある通りに坂の参道沿いには商店街や住宅街が立ち並んでいる。
そして一歩足を踏み入れれば、料理屋・待合茶屋・芸者屋などが集まる花街としての顔を見せる。いわゆる『大人』の-遊び方をわきまえない下賎な成金はお断りという粋な遊び場である。大正期の関東大震災(1923年)後には、日本橋や銀座から人と資本が流入し、よりいっそう華やかな町へと変貌した。
岸信介の「遊び」がいつの頃から始まったのかは知らない(別に知りたくもないが)。働きすぎて草臥れた馬のような顔をしている男だが、この男は粋な遊び方が出来る大人であり芸者から大いにもてたという。遊びに溺れるようなことはなく、公私の別を峻別した上で大いに遊ぶという質であった。真面目一辺倒長兄や、バンカラ気質でありながら生真面目な部分のある末弟にはない、彼だけの「素質」であろう。
とはいえ流石に百戦錬磨の岸であっても、料亭の密室で古狸と指しで向かい合うという経験は初めてである。
この料亭は岸も何度か利用したことがある。こうした場所は機密保持を目的とした会談場所として利用されることも多いが、だからこそ遊び目的以外で利用する場合には暗黙のルールというものが存在する。「言った言わない」の諍いを避けるために複数で利用するのはイロハのイだ。
ところが部屋に通されてみれば芸者も芸子もおらず、幾つかの膳が申し訳程度に用意されているのみ。自分を招待すると言う名目で呼びつけた立憲民政党総務会長の大麻唯男が、上座を背にして胡坐をかきながら一人で座っていた。
「岸しゃん。すいましぇんが、あーた、辞めて頂きたい」
丸顔の地蔵のような顔をした大麻は、岸が対面に座るなり単刀直入に用件を切り出した。無粋な物言いといい、遊び巧者とされる彼らしからぬ振る舞いだ。
ある程度予想していたとはいえ、岸は一応は驚いたような顔をしてから「何故です?」と尋ね返した。
「岸しゃん、あーたも官僚ならわかるでしょーが。給与の交渉ならともかくね。政策の細部じゃなーて、大本のところで、上司と喧嘩して勝てる理屈も道理もなか。あーたが傷つく前にお辞めになったほうが、あーたの将来のためよ」
熊本弁交じりの妙に気の抜ける話し方をする大麻に岸も毒気を抜かれそうになるが、その内容は自分に詰め腹を切れというものに他ならない。「お言葉ですが大麻先生」と得意の弁論で反駁しようとするが、大麻はそれを手で制して続けた。
「岸しゃん、私はあーたと話に来たわけやなか。あーたがこの話を蹴るのは勝手やけどね、その時はあーたに休職処分が下されることになっとるんよ」
「大麻さん、それは冗談ではありませんよ!」
岸は芝居掛かった調子で大声をあげ、畳をこぶしで殴ってみせた。目の前にある禅の銚子が倒れ、箸が転がって畳に落ちたが、岸はそれにかまわず大麻に食って掛かる。
大麻は幹事長や党の総務も歴任した町田総裁の側近中の側近で。そしてたたき上げの政党人とは違い、内務官僚出身だけに官僚の理屈にも理解がある御仁だと専らの評判だ。キーパーソンたる大麻さえ説得すれば十分に反撃の目はあると、岸は冷徹に算盤を弾いていた。
「絶対的に正しい政策などありえません。雨の日は雨傘を差し、晴れの日は日傘を差す。いついかなる時代、どのような状況でも通用する万能薬などないのです。アダム・スミス流の自由放任政策で昭和恐慌から立ち直れましたか?我ら商工省が統制により企業の無用な競争を避けさせ、資源の無駄遣いをさせなかったからこそ、高橋翁の財政出動も効率的に効いたのですぞ」
「岸しゃん。あーたね。お酒がもったいなかけんね」
大麻がやんわりと苦言を呈するが、岸の長広舌はそれから10分以上も続いた。満洲における経済成長の成果や欧州各国の潮流、日本経済の現状の分析から各国の財政金融政策の比較まで。時折、大麻の反応をうかがいながら語られたその内容は多岐にわたったが、岸は資料も見ずに頭の中の数字だけで全てを説明してみせた。
「日傘だけあれば雨の日でも通用すると町田大臣はお考えのようですが、台風の時は雨合羽も長靴も必要なのです。私の皺首でよければいつでも差し出しますが、私を首にすれば日本には日傘以外の傘はなくなりますよ」
暗に自分の首を切れば省内の自分の部下が黙っていないとチラつかせるが、大麻の表情に変化はない。暖簾に腕押しというか糠に釘というか、どうにも勝手が異なると岸は困惑していた。
「……何も、私とて統制経済が万能だとは信じておりません、しかし今の日本は非常時なのです!統制により一刻も早く重工業政策に取り組み欧米経済に追いつかねば、軽工業中心の日本経済はますます欧米から立ち遅れることになります。大麻さんはそれでも良いとおっしゃるのですか」
いささか強引ながらも話し終えた岸が喉の渇きを癒すために銚子ごと酒を煽ると、それまで沈黙していた大麻は「岸しゃんね」と口を開いた。地蔵のような顔や柔和なしゃべり口調は変わらなかったが、低い声ながらも意図的に気楽な調子で言った。
「私はさっきも言うた通りにね、あーたから政策論を聞くために、ここに呼んだわけやなか。最終決定ばする前に、あーたがどうするかば、確認に来ただけ。それもね、あくまであーたの将来を考えた私の好意でね」
「大麻先生。私は産業政策に対する先生の御見解について、まだお伺いしていないのですが」
「理屈は結構。でももばってんもかかしもなかね。今なら病気療養に取り扱うとくことも出来っけどね。あーたほど才覚があれば再就職には困らんやろうし、なんなら私が口ば効いてやってんよかとよ。ほとぼりが冷めるまでまってから復帰してもいいわけやし」
「大麻先生!」
岸はじれったそうに声をあげた。
縁戚である満鉄総裁の松岡洋右が更迭された次が自分とあれば、何か政治的な意図を感じないわけにはいかない。何より自分が納得するように理非曲直を提示されるならともかく、一方的な処分を受け入れてしまえば、これまで自分と商工省が積み上げてきた統制政策が否定されることになりかねない。自分の官吏生活としての終焉よりも、官僚としての敗北を恐れる岸は重ねて反論しようとしたが、再び大麻が手と視線でそれを制した。
「あきらめなっせ。すでに内閣官房にも政府与党にも話は通っているけんね。あーたのお兄さんに泣き付いても無駄ばい」
降伏勧告を受け入れろという大麻に、岸は屈辱感に顔を真っ赤に染めて下唇をかみ締めた。麻は自分の銚子から岸の杯に冷酒を注いでやりながら言う。
「あーたが満洲に行く3年前とは状況が違うんよ。あーたは確かに偉い官僚ではあっても、政治家ではなか。それがあーたの敗因よ」
「……政治家であることがそんなに偉いとでもおっしゃるのですか」
「そりゃーね、とんでもなく偉いとも」
自身の職責と使命に誇りを持つ岸は、聞き捨てならないと視線を上げる。大麻は地蔵のような柔和な顔つきのまま、阿修羅像のような険しい視線で彼を見据えていた。
「1万4439……あーた、これ何の数字かわかるかね」
「鉄鋼業指数ですか?それともNYの証券の…」
岸の回答に大麻は首を振り「前の総選挙で、私が頂いた票の数よ」と、その正解を伝えた。
「熊本は私の故郷やけどね、最初の選挙は政友本党から出たけん、そりゃもう逆風ん選挙やった。そこから毎年、毎月、毎日ね。雨の日も雪の日も地元を歩いて、私が一人ひとりの有権者と握手して、電信柱にも頭を下げて、地元のために鉄道を引いて橋を作って道路を通して、工場を誘致して、売国奴とそしられて……そうやって前の選挙ん時に、私が獲得した票よ」
大麻はそこで言葉を区切ると、岸の顔を再度見据える。
「あーたら官僚が否定して、新聞で古ぼけた既成政党と批判されても、そんだけの人が私の名前を書いてくれたとね」
柔らかい話し方はそのままに、大麻は政治家としての譲れない一線を明示した。
「あーたはね、行政や経済についてはいささか知っとっても、政治を動かす政治家と言う生き物には、あまりにも無知や。それに岸しゃん。あーたに一言だけ忠告するなら、あんまり政治家をね、ねぶらんでいただこごたることよ(舐めないで頂きたい)」
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現在の陸軍における最大の課題は大陸に派兵中の6個師団の取り扱いよりも、先送りになっている定期人事異動であろう。先の事件から2年を迎えた今、人事の刷新を求める声は三宅坂で根強い。特定の人事の長期化は政策的一貫性が保たれる利点はあるが、次の人材を育てるという意味では次期幹部に様々な役職を経験させておくという意味は過小評価出来ない。
当然ながら人事異動を求める勢力の背景には、粛軍人事により軍の実権を握った林銑十郎陸相(士官学校8期・陸大17期)-寺内寿一参謀総長(陸士11期・陸大21期)-渡辺錠太郎教育総監(林と同期)の三長官体制を崩したい軍内部の反主流派の思惑が垣間見える。
目下、林陸相は「大陸からの撤兵が完了するまでは」という名分で現在の三長官体制を崩すつもりはないと明言している。
例えば専任陸相問題を取り上げてみよう。兼任ではなく専任の陸軍大臣を求める声は大きい。
では適任者が誰かと聞かれると、私(記者)も困ってしまう。
小磯國昭大将(朝鮮軍司令官。陸士12期・陸大22期)であれば役職経験ともに申し分ないが、なにぶん旧宇垣派の幹部であるため、現在の中央とは疎遠で指導力が発揮出来るとは思えないし、そもそも同氏は予備役編入がささやかれている。
小磯大将と同期の杉山元中将は大将への昇格が確実視されているが、教育総監本部長として渡辺総監の信任が厚く、これは渡辺大将が手放さない。寺内参謀総長と陸大同期の中村孝太郎中将は腸チフスから回復され、石川県出身であることから陸相の本命とささやかれたこともあるが、実は大将昇進と同時に朝鮮軍司令官への内示が出ている。
実はダークホース的な存在がいる。満洲組であり、現在は広島の第5師団長として先日の上海攻略作戦にも参加した板垣征四郎中将(陸士16期・陸大28期)だ。
同期には陸軍三羽烏の故・永田鉄山中将、小畑敏四郎中将(参謀次長)、岡村寧次中将(第2師団長)。いうまでもなく満洲組といえば、林-梅津ラインに目の敵とされる一派であり、中でも板垣中将は満洲組期待の星とされ、人事の度に予備役編入の最有力候補と囁かれている。
何ゆえその板垣中将が陸相候補に名前が挙げられるかといえば、実は板垣中将は、同郷である海軍の米内大臣と個人的な友好関係にあるからだ。常に訓示の最後に「陸海の協調」を付け加える林大将としては、うってつけの人材であろう。現在の陸軍主流派からすれば、中央経験の浅い板垣中将ならばお飾りの陸相とすることが出来るし、人事の不満へのガス抜きも可能となる……というのが、三宅坂で実しやかに囁かれる筋書きだ。
軍事評論家の石原莞爾氏は「まさに天の采配。仮に板垣陸相が実現すれば陸軍が大きく変わる」と(以下略)
- 中央公論3月号『粛軍人事の行方とポスト林』より -
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「板垣中将の更迭はやむを得ませんな」
次の高級将官人事を検討するための三長官会議の冒頭、板垣中将の更迭を提案した渡辺錠太郎教育総監に、寺内参謀総長が苦々しい表情で頷いた。林銑十郎はいつもの様に髭をねじっていたが、その表情は2人と同じく芳しいものではない。
「対応が遅い、行動が遅い、何より決断が遅い」
寺内は背後の小畑次長から資料を受け取りながら、上海攻防戦における板垣の失態を具体的に列挙した後、歯軋りをしながら吐き捨てた。
「とにかく指揮が不味過ぎる。第5師団は林中将(林桂陸軍中将。林総理との縁戚関係はない)が鍛えただけあって、錬度は低くない。にも関わらずあれだけ戦死者をだしては、庇い様がない。第2師団の岡村と比べるのは酷かもしれんが」
「予備役編入ですか」
「仕方なかろう。ああも実戦で不手際を出したものを其の侭にしておけば、陸軍全体の士気にかかわる」
「そもそも政治工作にばかりかまけているから、ああなるのだ!」と寺内は怒りに任せて丸テーブルを拳で殴りつけた。
板垣中将は関東軍参謀時代に石原莞爾らと共謀し、中央の若手中堅官僚からの一定の支持と軍高官の黙認の下で満洲事変を起こした人物だ。その後は天津特務機関長や満州国の駐在武官を歴任し、国民政府内部の分離工作にも関与した。
粛軍人事により関東軍参謀長を最後に、大陸に関するあらゆる役職を解任されたが、板垣は予備役には編入されず本土に戻った後も、度重なる注意を受けながら政治活動を続けていた。いわゆる支那通軍人の典型例である。
「単に一貫性がないだけだろうな。頭が悪いとまでは言わぬが、大陸に染まった政治屋軍人となり帝国軍人としての本分を忘れてしまったというのなら、どうしようもない」
教育総監として陸軍の教育を総括する渡辺が、文字通り匙を投げる。この手の理念専攻の政治軍人は故・山縣元帥の合理主義精神を体現する渡辺との相性は最悪であるが、それを差し引いても否定するだけの積極的な材料が見当たらない。
「石原あっての板垣、板垣あっての石原ですか」
林は髭を捻りながら影佐秘書官に後任人事の検討に入るように指示をすると、本題へと移った。
「本来であれば陸軍省の人事局で事足りるような話かもしれないが、わざわざ参謀総長と教育総監に来ていただいたのは他でもない。航空本部長人選に関してだ。自動的に初代航空総監になるのだが、私としては関東軍参謀長の東条英機を考えている」
「……大丈夫なのか?」
寺内が首をかしげ、渡辺は無言で林に続きを促した。
「ご存知だとは思うが、この3人の間における共通認識を確認するためにも、これまでの経緯を振り返っておこう。帝国陸軍では明治末期の臨時軍用気球研究会以来、軍用機の統合運用について検討を重ねてきた。各兵科の混合として欧州大戦では臨時に航空隊の編成が行われ、戦後も着々と人員の育成と予算の要求は続けてきた」
「将来の空軍創設のためですな」
「いかにも」
寺内の問いかけに、林が「陸軍主導の」という本音の枕詞を抜いて答える。
陸軍においては大正4年(1915年)には常設飛行部隊としての航空大隊が編成され、その4年後には陸軍航空部が設立。大正14年(1925年)には陸軍航空本部に昇格するのと同時に、ようやく航空兵科が独立した。
当然ながら海軍の航空とは全く別の組織としてだ。
ともかく航空兵科は将来の空軍創設を最終目的に拡大を続け、航空本部は陸軍航空に関する軍政(本来であれば陸軍省の管轄)と、パイロット育成や航空管制など専門教育機能(本来であれば教育総監部の管轄)を保有したまま、陸軍省の外局としての地位を固めてきた。
昭和11年(1936年)11月-つまり粛軍人事が進む中、策定された「軍備充実計画ノ大綱」の中で陸軍は航空兵力の増強を主張した。「航空優先」なる標語が陸軍中央で使われるようになったのはこの頃からだが、歴史の浅い航空兵科には中核機関が存在せず、外局扱いの航空本部もそれほど重視されていなったため、受け皿となる体制の拡充が急務となった。
陸海を統合した航空省案(海軍に突っぱねられた)、陸軍省内の航空局へと組織を改変する案など、多種多様な案が飛び出したが「教育部門は教育総監部の担当ではないか」「陸軍省に移管すれば、将来の空軍創設に差し障る」「そもそも外局扱いなのがおかしい」「三長官と同じく大元帥直属の航空総監部を創設するべき」など反対意見や提案がそれ以上に噴出。一向にまとまる気配がなかった。
潮目が変わったのは、第2次上海事変(1937年)における国民政府軍の上海租界爆撃である。上海海軍特別陸戦部隊は必死に抗戦したものの、ドイツの支援を受けた国民政府空軍に苦戦を強いられたことで、俄かに航空独立論が盛り上がった。
陸軍の影響力が強まる空軍創設に否定的であった海軍も、事変を受けて論調が変化し、「空軍」創設を究極の目標とする陸軍航空本部の独立(もしくは強化)の点で陸海の省部の共通認識が出来上がった。
最大のハードルをクリアした以上、三長官体制の伝統に外れるという理由から航空本部の独立や昇格に反対だった教育総監部も「将来的に空軍として独立するのであれば、陸軍における教育総監部としての地位は下がらない」という論法により矛を収めた。
この論法により部内を説得したのは渡辺総監自身である。
渡辺は総監部としての要求事項に、自身の見解を付け加えながら発言した。
「機甲兵科や歩兵科、兵站など装備と教育の近代化に着手している部門は数え切れません。特に航空教育は専門的であり、技術革新は日進月歩ときています。正直なところ、総監部で全ての要求に応える事は困難。独自にやっていただけるなら、負担が減るので助かりますな」
「特に航空兵科は金が掛かる。宇垣軍縮の理由のひとつが航空部門の近代化と充実であったし……ところで初代航空総監だが東條で本当に大丈夫なのか?」
目の前で喧嘩があれば酒の肴になるではないかという気質の寺内が、珍しく組織内部の融和の点で憂慮を表明した。
「実働部隊の航空兵団を率いるのは、あのバロン・徳川だろう?」
寺内の言うバロン・徳川こと徳川好敏陸軍中将は、その姓からもわかるように徳川一門である。だが生まれの高貴さ反して、その経歴は波乱万丈である。
伯爵家の嫡子であったが、父親の先代が資金問題で爵位を返上。そのため御家再興を悲願として、一平民として陸軍に入隊。フランスで飛行技術を学び、陸軍航空部隊の創成から関与した。
大体、新しい分野に挑戦しようとする集団には型にはまらない人材が集まるものである。発明家の奇人肌である日野熊蔵、技術は徳川より優れていたが人に好かれぬ質の滋野清武男爵など、これまた見事に曲者揃いの中、飛びぬけて優秀ではないが特に癖もない徳川を、陸軍は「陸軍航空のパイオニア」として扱い、徳川もそれに応えるために働いた。
昭和3年(1928年)、徳川好敏は男爵に叙爵され、念願を果たした。
とはいえ比較対象の個性が強烈なだけ相対的に人格が温和に思えるが、徳川も創成期から関わってきたプライドと自負があることは間違いない。
つまり細部までコントロールしたがる東條英機のようなタイプとの相性は最悪である。
「貴種流離譚は結構だが、あの何でも型にはめたがる東條と徳川は喧嘩をしないか?東條は責任感が強いだけに独断専行型を嫌う。関東軍参謀長としては跳ね返りを抑えて統制を保った功績があることは認めるが、これから新たな組織を発展解消的に立ち上げようという時には、どうであろうか」
「参謀総長の見解に同意する。能力があるのは認める。しかし適材適所という言葉がある。杉山君ではどうか?彼ならば徳川中将と喧嘩はしない」
渡辺総監が名前を挙げた杉山元は第2航空大隊長や陸軍省軍務局航空課長(初代)を歴任し、陸軍航空隊育ての親とされている。またその肥満体には似合わない緻密な仕事により渡辺の信頼を得ていた。良くも悪くも神輿としては悪くないはずだという渡辺に、林は「確かにそうだが」と続けた。
「東條総監を指名した場合、徳川中将は新設の陸軍航空士官学校の校長に転出させるつもりである」
「いや、むしろそこまでして東條を総監にしなければならない理由などあるのか?」
「まさか旧永田派の後継者として、それなりの地位を与えたいという邪な考えからではなかろうな。永田は大臣の無策により殺されたようなものだからな。東條を優遇して永田の忠誠に報いるつもりか」
渡辺が呆れたように体を椅子に倒し、寺内が露骨な皮肉で林を批判したが、林は顔色を変えることなく続けた。
「まず前提として航空本部長が、実働部隊の親補職である航空兵団司令官よりも格下である問題は解消しなければいかん」
「だからこそ航空総監職を新設としたことは、教育総監部としても理解している。ならばいっその事、徳川中将を総監にしても問題はないと考える。能力実績ともに瑕疵はない」
「まあ、渡辺。俺の話を最後まで聞け」
さらに反論を重ねる渡辺を手で制した林は、秘書官らを下がらせると「ちょっとこい」と手で寺内と渡辺に顔を近づけさせると、声を潜めて続けた。
「渡辺総監。私は空軍には陸軍の言う事を聞く存在でいてほしい。つまり統制を求めているのだ。時期はともかく将来的には陸・海・空の三軍体制になるだろう。ここまではよいだろうか」
「当然ですな」
「……しかしだな、ここで別の問題が出てくる……今の憲法のどこに、空軍の存在が書かれている?」
「あっ」と寺内が声を上げ、あわてて周囲を見渡した。林は声をさらに潜めた。
「大元帥たる天皇陛下が陸海を統帥する。ならば空軍だけが統帥権の枠外だとでもいうのか。これは都合が悪い。バロン・滋野を考えてみればわかるが、戦闘機乗りには陸海のそれとは違う独自の気質がある」
「法的に問題なしという解釈や結論が出たとしても、納得はしないだろうな」
寺内が渋い表情で自分の頭をなでる。あえて空軍のみを名指しして違憲だと騒ぐ手合いもいないだろうが、同じ命を懸けるのに自分達だけがそこに書かれていないとあっては面白くはないだろう。
大げさな反応を見せる寺内とは対照的に天皇機関説問題で批判を受けた渡辺は「その問題には触れたくない」といわんばかりに腕を組んで黙り込んだ。
2人の反応を伺ってから、林はさらに続けた。
「まず最初が肝心だ。だからこその東條だ。とりあえずは航空総監という形で様子を見ようと考えている。跳ね返りの戦闘機乗り上がりの幹部を抑えられるのは、東條ぐらいのものだろう。無論、将来的な空軍創設を取りやめたわけではないというのは理解してもらいたい」
「陸相の見解を否定するわけではないが型にはまらないからこその戦闘機乗りではないのか?東條流のやり方によって航空部隊の実力と士気をそぐことになっては、本末転倒ではないか」
「参謀総長の懸念は理解するが、陸軍中央の意向に従わない空軍こそ意味がないと考える。海軍の連中を包囲して国防方針の策定や軍事作戦において陸軍の主導権を確立するという、当初の目的にも反する……ということではどうだろうか?」
「陸軍の利益」を前面に打ち出す林に、寺内は一も二もなく賛成を表明し、黙り込んでいた渡辺は苦笑を浮かべた。この男、いつの間にこんな立場の使い分けが出来るようになったのやら。
「陸相……いや、総理。貴方は将来的に憲法改正を視野に入れておられるのか」
渡辺の問い掛けにぎょっとした表情で目をむく寺内とは対照的に、林はにこやかな表情で髭をねじるだけで応じた。
・大麻唯男「闇に飲まれよ!(おはようございます!)」…さすがに自重w
・東條の茶坊主と呼ばれた大麻唯男。あんな顔してしゃべりはうまかったとか。でしゅ、ましゅ、ござりましゅるとかいう謎の語尾。熊本弁にそんな言い回しあるんですかね。こういう知名度はないけど実力者っていいですよね。
・年次とか史実の大臣を見ながらあれこれ人事を考えるのは正直楽しい。
・腸チフスと診断されながら復活した中村大将。仮病説もあるらしい。
・板垣さんをdisった書き方になったのは残念だけど、史実でも林彪相手に苦戦したそうなので。まあ…昭和天皇に発言の整合性が問われて「お前は頭が悪いのではないか」といわれたとか。石原を御するだけの器はあったと聞きますが、軍政のトップとしてはふさわしくなかったのかもしれない。
・便所のドアってさすがにひどいあだ名の杉山元。顔の割に緻密という、ほめてるのかほめてないのかわからない評価。
・バロン・徳川。実際には日野大尉が先に飛んだんだとか、滋野をイビッておいだしたんだ!とかいろいろ言われるけど、組織の中で生き残るだけの処世術があったのがこの人だけだったんでしょう。良くも悪くもね。政治活動に入れ込んで破産した親父さんの一件で苦労してきたみたいだし。なおこの徳川さんは御三卿の清水徳川家。
・割と早い時期からある空軍構想。だけど権限争いでなかなか軌道に乗らず仕舞い。さてどうなるか。
・おかしい。林の出番が多い…これはコミンテルンの陰謀に違いない。