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何も銑十郎元帥  作者: 神山
昭和13年 / 1938年 / 紀元二千五百九十八年
12/59

國民新聞号外 / 大阪毎日新聞 徳富蘇峰之上海事変評論 (1937年年末)/ 静岡県静岡市興津 坐漁荘 / 山口県熊毛郡田布施町 佐藤家本宅 (1938年1月)

『信頼はよいものだ。しかし統制はもっとよい』


ウラジーミル・イリイチ・レーニン(1870-1924)


- 【号外】日華停戦成ル!亜細亜ノ安寧ハ保タレタ! -


 日華全面戦争ノ危機ハサッタ。国民政府主席ノ蒋介石ハ11月3日、声明ヲ発表。日本ノ最後通牒要求案件ノ受諾ト、アメリカ大統領ノ和平仲介受入ヲ表明シタ。前日ノ米国ハル国務長官ト英イーデン外相ノ共同声明ヲ受ケタ対応カ。阿部内閣書記長官ハ「蒋介石主席ノ声明ヲ歓迎スル」トノ声明ヲ発表。「英米両政府、特ニ米国政府ノ協力ニ感謝スル」ト述ベタ。


 ジョセフ・アヴェノル国際連盟事務総長ハ滞在先ノ羅馬デ会見シ「極東亜細亜ニ平和ガ訪レタ」トノ歓迎声明ヲ発表。バチカン市国国務省ハ報道官声明デ「正義ガ勝利シタ」ト(略)


- 國民新聞号外 (1937年11月4日) -



 喜ばしいことである。喜ばしいことだ。英米に頼ったという点を除いてはだが。


 南京政府に影響力のある両国政府に依頼した政府の姿勢は、私としては理解出来ないし納得も出来ないが、それはそれで政治的に正しいことであることは認める。事態の早期解決には最も効果的な手段であったのは、急転直下成立した停戦合意を見ても明らかだ。


 しかし、大陸で血を流したるは帝国臣民であり陛下の忠良なる赤子達である。上海郊外で二十万にも及ぶ国民軍を破ったのは日本帝国軍だ。日本軍属を狙った攻撃や民間人を対象とした卑怯極まりないテロ行為に対する責任を蒋介石に認めさせ、これを謝罪させたというのは大きな勝利である。


 であるからこそ我ら国民は、来年の初場所から西の横綱に昇進する双葉山定次の相撲のように、英米という行司がなくとも、誰の目にも「参った!」と言わせるような大一番を期待していたのだ。


 今後は英米が支那において「行司役」としてしゃしゃり出てくるような事態が想定される。都合の悪い時は行司でございという顔をして、いざ場所となれば関取として相撲を取られてはたまったものではない。日本政府には是非とも亜細亜における盟主として、英米を相手にした横綱相撲を期待したい。


- 大阪毎日新聞 徳富蘇峰之上海事変評論(執筆・文責-徳富蘇峰) -



「よくもまぁ、蒋介石があの条件を飲んだものだ」


 西園寺公望は、その痩せがれた老体を年代物の籐製の椅子に預けながら、感心とも呆れともつかぬ声を上げた。


 昨年発覚したゾルゲ事件に嫡孫公一(廃嫡済)が関係していた責任を取るとして総理推薦の辞退を表明し、政界からの完全引退を表明した西園寺ではあったが、だからといって老人の日常が変わるわけではない。


 確かに訪問客は減った。それでも正月早々、現職の総理と元総理からの挨拶を坐漁荘で受ける程度の体力と気力、そして影響力は残されていた。


 やせ衰える一方の西園寺とは対照的に、肉付きのよい体を紋付袴に通した高橋是清内閣参議は「実際に守る気などないからでしょう」と身も蓋もないことを口にする。


 これに珍しく軍服姿の林銑十郎総理がいつものように髭をねじりながら「高橋先生」と困ったような表情を浮かべる。


「先生の懸念も最もですが、そんなことはさせませんよ。であるからこそ彼のスポンサー、その御得意先であるイギリスとアメリカからの支持を取り付けたのです……まぁ、高くつくかもしれませんがね。国民政府としてはドイツが手を切った以上、日本に合わせて、この2カ国まで敵には回せません」

「1つ付け加えるとするなら貧乏人のロシア人と、まだましな貧乏の日本。どちらがましかという選択ですな。おまけに極東シベリアは不毛地帯ときている」


 西園寺が「国共合作の破綻はそれが原因かね」と問いかけると、林と高橋はそろって頷く。


 まず治安の問題から、現在の大陸では国内市場の担い手たるべき中間層の安定的な増加は大して期待出来ない。そのため国民政府の財布である揚子江経済は貿易と金融を生命線としていた。浙江財閥は英米企業との関係があるからこそ(信用を借りる形で)初めて国際市場と取引が可能である。


 取引先でありお得意先、おまけに融資先でありながら借金の保証人であるのがイギリスであり、アメリカだと高橋は西園寺に説くと「両国から圧力をかけられては、これはどうしようもありませんな」と言いながら文字通り両手で万歳をして見せた。


 浙江財閥の有力は宋・孔・陳・蒋の四家である。それぞれの当主が宋子文であり、孔祥煕であり陳果夫、そして蒋介石だ。


 蒋介石が浙江財閥に支えられているのではなく、蒋介石が浙江財閥そのもの。つまり政府の主席でありながら自ら企業連合の経営者でもあるのが、今の国民政府の主席である。


 そして俗に「宋3姉妹」と呼ばれる閨閥を通じて宋・孔・蒋は縁戚関係にある。残る陳果夫は蒋介石と義兄弟の契りを結んでおり忠誠心という点では申し分がなく、彼自身も党務の重職にあった。


「その陳ですら、今回は蒋介石にノーを突きつけたわけですな」


 瓶ビールの蓋を栓抜きで外す高橋に、林がグラスを用意しながら応じた。


「高橋先生、考え方次第では蒋介石を守るためでもありますよ。このまま突き進んで政治生命の致命傷となるよりは、影響力がまだあるうちに撤退するべきとでも説得したのかもしれません」

「……まるでイタリーのマフィアの抗争を聞いているかのようだな」

「西園寺公爵、それはいくらなんでも…確かに否定出来る要素もありませんが」


 親指についた海老の汁を舐めながら苦笑する高橋に代わるように、林が引き継いだ。


「あながち間違ってもいないのですがね。清朝、あるいはそれ以前からの伝統ですな。政府は治安の維持が出来ない。故に商人達が武装する。自衛しなければ誰も自分の財産など守ってくれません」


 日本とは違い歴代王朝は旧王朝に銃口なり槍刀を突きつけて権力移譲を迫ってきたと林は総括した。いささか話を単純化しすぎる嫌いはあるが的外れではあるまいと西園寺が頷く。


「そして共和制になれば、建前上は誰もが大総統なり主席になれるわけです。武装商人が権力を握ろうとした行きついたのが浙江財閥であり、南京国民政府だった。日本で言う政官財の癒着どころの騒ぎではありませんな。何せ、全てが同一なのですから」

「かの国にはかの国の事情があるのだろう。海外移民する華人も多いが、それでも故郷に戻り起業する商人も多い。宋子文がそうだ。愛国心がないわけではないのだろう」


 西園寺の疑問にビールを飲み干した高橋が「大陸の王朝は伝統的に税率が低いのですよ」と、その理由を説明した。


「無税国家とまでは言いません。ですがあれだけ広大な領土です。皇帝専制の中央集権体制を唱いながら、実際に農村のすみずみまで監視の目が届くわけではない。そうなると国土の広さが仇になります。人口は都市部に集中しているし、やろうとすれば莫大な行政コストと人件費が必要になります」


 高橋老人は指を折りながら「少しでも経費を軽減しようと地主だの豪族だの商人だのをかませた結果、実際のそれより税率は下がる。政府は治安維持などの権限を民間に委託して行政コストを下げようとする」と数え上げるように説明していく。


「結果、地方にアンタッチャブルな存在が出来る。治安が悪くなり、さらに税収が下がる…この繰り返しです。その代わりに自分の身を守れる財力や能力のある商人からすれば、これほど魅力のある国もありません」


 「水は高きから低きに流れるものです」とグラスのビールを傾けて見せる高橋。ハンカチでカイゼル髭についたローストビーフのタレを拭いながら、林は軍事的な問題点を指摘した。


「広大な国土が陸続きでいつも異民族に脅かされていた歴史でしたからな。結果、内乱と外患で衰えた王朝が後退。結局、中原諸侯の表現に従えば北狄ほくてきたる満洲人が漢民族を征服することで、外敵の憂いはなくなりました。しかし今度は征服王朝としての弱点を抱えることに」


 説明の途中もせっせとハンカチで髭を拭う林に、西園寺も高橋もそちらに気を取られそうになる。そんなに気になるのならば剃ればよいものをと思うが、あえて無駄な労力をすることはあるまいと2人とも黙殺した。


 この軍人宰相は経済政策では融通無碍(持論があるかどうかすら疑わしい)なのに、その髭のスタイルだけは頑なであることは、あまりにも有名であった。


「税率が低い利点は理解出来た。だが武装した商人では治安維持にも限界があるだろう。にも拘らず国内に残る民族資本があるのが意外と言えば意外だ」

「いや公爵。もっと単純な話です」


 したり顔でビールを飲み干す林。せっかく拭いた髭が直ぐに泡だらけになる。


「革命後の大陸では権力さえ握れば、自分で税率が決められるのですよ。考えようによっては純粋な民間経済しかないとも言えます。故に命がけて相手をけり落とす。民があって公がなし。公共という概念があるのかどうかも疑問です。まして国家など」

「究極の市場経済国家か」


 腕を組みながら西園寺はその続きを言おうとしたが、うまく言葉にならずに閉じた。


 しかし高橋にしても林にしても年の割にはよく食べ、そしてよく飲む。「西園寺公の料理人が3年続けば大したもの」と言わるほどに、食への注文とこだわりが強い老人が選んだ料理人が特別に拵えた御節である。不味いわけがないのだが……


「今の中華民国政府は党あっての国家、蒋介石あっての党です。しかし蒋介石からすれば自分の指導力があるからこそ党があり、そして国家があるのだと考えていても不思議ではありますまい。そうでなければ、あの自己主張の強い大陸の人間を統治など出来ませんよ。もっとも彼以上のカリスマ性のある指導者が他に国民党の中にいるのかというと、それも疑問ですが」

「総理のおっしゃることはわかりますが、しかし私は今でも信じられませんな。あれだけ執拗で頑迷な蒋介石が敗北を受け入れるとは」

「高橋先生、停戦合意こそ結ばれましたが、まだ正式に和平会議が開かれたわけでもないのです」

「おぉ、そうでしたな。総理のおっしゃるとおり、まだ油断は禁物」


 などと言いながら高橋は綺麗に飾られた茹でた車海老を、頭から殻ごと齧り付いた。確かそれで3本目だった気がするが。


 林はと言えば、西園寺家自家製の親指の太さほどにも厚く切ったローストビーフを3枚もまとめて箸でさらい、日本酒と共に流し込んでいた。


 西園寺は年齢だから節制しようとしていた自分に何だか腹が立ち、負けてなるものかと鮭の西京焼きに箸を伸ばした。


「……まあ、その。何です?総理としては不適切な発言ですし、公爵は不快に思われるかもしれませんが、正直私は、初めて日本外交において満洲国が役に立ったと思いましたよ」


 林の言葉に、西園寺が顔を怒気で赤くしながら年不相応な力強さで机を叩いた。


「国際連盟の常任理事国の指定席を犠牲にしたのだ。役に立ってもらわねば困る!この私が態々、パリまで赴いて日本の国際的立場を法的に担保させたというのに、どいつもこいつも……」

「公爵のお怒りはごもっとも」


 また杖を振り回されてはせっかくの正月料理が台無しになる。林は老人を宥めつつ自説を述べた。


「ですが満洲で関東軍がにらみを利かせていたからこそ、ソビエト極東軍も国民政府への直接的な軍事支援は出来なかったともいえます。最後通牒という形でお尻を区切られた蒋介石が英米両政府に泣きついてみれば、日本が根回しを終えている。ドイツからは絶縁宣言。蒋介石も身内でもある浙江財閥との関係性を破壊してまで、国共合作にこだわり続けることは出来なかったということでしょうな」


 西園寺からすれば陸軍の代弁にしか聞こえない。 朝鮮が満洲となり、先に進出したのは日本であるという違いはあるが、このまま日本が満洲に留まれば第2次日露戦争もありうると西園寺は見ていた。


 だからといって今手を引けば、満洲は間違いなくソ連か国民党政府の属国に成り下がる。さすれば満洲事変そのものがなんだったのかという話になりかねない。つまり現実的には不可能という結論になる。


「ここだけの話ですが、最後通牒の要求項目もリットン調査団報告書とあまり変わりませんからな。蒋介石や松岡(洋右)満鉄総裁には悪いが、脱退だの何だのと大騒ぎした割には、結局落ち着くところに落ち着いたと考えるべきでしょうかな」


 お屠蘇を呷りながら嘯くのは、現在の内閣総理大臣である。


 ところで満洲事変当時に『越境将軍』と新聞でもてはやされ、得意げにカイゼル髭をねじっていたのはどこの御仁であったか。西園寺はさすがに嫌味のひとつでもぶつけてやろうかと思ったが、孫の事件もあるので自重した。


 高橋是清も西園寺と同じく何も言わなかった。


 ローストビーフを口に運ぶのに忙しかったからである。



「何だい兄貴。いつ満洲から帰ってきたんだい」

「そういうお前こそ、いつ欧州から帰って来たんだ」

「一体、兄貴はいつの話をしてるんだよ。兄貴の満洲行きよりも前、一昨年にはもう帰ってたよ」


 田布施の実家に顔を見せた後、満洲国国務院前産業部次長の岸信介は実家である佐藤家を訪問した。


 自分の妻や姉妹など女衆が話に花を咲かせるのもそこそこに、奥の部屋に逃げるように入ると、そこには堀炬燵に足を突っ込んだまま、上機嫌に御銚子を傾ける末弟の姿があった。


 いつもより饒舌だと思ったら……岸は顔をしかめながら同席していた長兄に問いただした。


「兄貴かい、下戸のこいつに酒を飲ませたやつは」

「俺じゃない。俺が来る前からこうさ。こいつが勝手に飲んでるんだよ」


 「何せ酒は売るほどある」と語る長兄に、岸は面白くもなさそうに続ける。


「造り酒屋なんだから当たり前じゃないか。大体止めなかったら同じことだろうが」

「自己責任だよ、自己責任」


 三兄弟の長兄たる佐藤市郎海軍中将は、ニコニコしながら手酌で酒を飲んでいた。


 酒の強さと頭の良さなら兄・自分・弟と順番通りになる。だが普通の仕事ならともかく少なくとも口喧嘩において、この海軍始まって以来の秀才とされる長兄に岸は勝てる気がしなかった。


「兄貴もどうだい」

「おい、お前はもう飲むな。蜜柑でも食ってろ」


 末弟はその言葉に机の真ん中で山積みになった蜜柑をむんずとつかむと、なぜか岸に手渡した。


「……何だこれは」

「剝いてくれ」

「兄貴にやらせるやつがあるか!?」


 長兄はそれを見て愉快気に手を叩いて笑い出した。


 「まったくこいつは」とブツブツ言いながら岸はコタツに足を突っ込むと「結局は剝いてやるのか」という長兄の突っ込みを無視して蜜柑の皮に爪を立てた。


 奇麗に向き終えたそれを手に「筋はどうするのか」と岸が聞けば、弟はそのままむんずと蜜柑をつかんで、房にも分けず固まりごと口の中に放り込んだ。


 そのままむしゃむしゃと蜜柑を咀嚼する末弟。この奇行には、さすがの長兄も岸もあっけに取られるしかない。


「この方が早い」


 そりゃそうだろと岸が何か言うよりも早く末弟は再び炬燵の天板に顔をうつぶせにして、大きな鼾をかき始めた。下戸な癖に偶に発作のように「俺は飲める」と挑戦して酔いつぶれる。そんな末の弟にため息をつきながら、岸は再度長兄に挨拶をした。


「久しぶりだな兄さん。確か今は海軍大学校の教頭だったか?」

「商工省の元エースのお前ほどではないよ」


 嫌味な言い方をするのは相変わらずか。なまじ地頭が優れているだけに性質が悪いと、岸は舌打ちをした。


 兄弟3人の中で性格が悪いのは下から順番などと揶揄されるが、真ん中の岸に言わせれば、この長兄にはある程度の見識があり、それなりの長い付き合いをした人間にしかわからない性格の悪さがある。


 東京帝大法学部でもまれに見る秀才だった岸が、卒業後に当時のエリートコースであった内務省や大蔵省ではなく、二流官庁とも言われた農商務省を選択したときは誰もが驚いたものだ。長兄からもあれやこれやと嫌味を言われた記憶がある。


 しかし周囲の懸念を実力でねじ伏せるように岸はすぐさま頭角を現すと同期のリーダー格に上り詰めた。大正14年(1925)農商務省が農林省と商工省に分割した後は、商工省に移動する。


 商工省は商業・工業・鉱業や貿易などを管掌し『統制』するのが職務であるが、このグランドデザインを書いたのは岸信介である。ドイツ留学中に大戦後の混乱するドイツ経済界の実情を調査した産業政策レポートを提出し、これがたたき台になった。


 商工省の生みの親である岸からすれば『自由放任経済』など百害あって一利なしだ。


 外貨準備ですら乏しいのに、経済界に好き勝手に貿易をやられては支払いすらままならない恐れがある。また無秩序な経済競争により生まれる「無駄」。資源に乏しい日本にとって、その無駄の積み重ねこそが致命傷になりかねない。


 岸は統制こそが日本の生き残る道だと信じていた。満洲の地で自らの経済構想を実現させたことで、岸はその自信を深めた。あの満洲の苛酷な環境でも基本計画を作り上げ、効率的に人と金と物資を注ぎ込めば経済成長は可能なのだ。本音を言うのなら、あと1年ぐらいは満洲で自由にしていたかったのだが、本省から呼び戻されたため、岸はやむなく約2年ぶりに日本の地を踏んだ。


「お前、大陸臭いぞ」


 にも拘わず久しぶりに会った長兄はといえばいうに事欠いてこれである。岸も流石に気分を害し、これに直接答えずに筋をきれいにとって房ごとに分けた蜜柑を一つずつ口に運んだ。


「海軍でもお前は評判だった。満洲のお山の大将とな」

「冗談ではない、冗談ではないよ兄さん。新京で私がいったいどれだけ苦労したか。関東軍は好き勝手言うし、満鉄の松岡君はいつもの調子。鮎川さんを招聘して、ようやくこれからだというのに」

「信介、お前ね」


 佐藤家の長兄は呆れたように言う。


「今の日本の政治状況、わかっているのか?」


 長兄が語るように林内閣発足以降、経済統制派には逆風が吹き続けている。既成政党の復権は着実に進んでおり、内務省では反対する勢力に粛清が加えられた。役所の権限を拡大して民間企業への統制を強める-数年前までは「革新」としてもてはやされていたのに、ゾルゲ事件や近衛文麿元公爵の失脚事件が重なり、今では危険思想扱いだ。


 中でも閣内において反統制の論陣を張り自由経済と自由貿易の閣内における旗振り役となっているのが、閣内最年長でもある町田忠治商工大臣-岸の直属の上司となる人物だ。


 岡田内閣発足当時から商工大臣を務め、今年で在任4年目の75歳。農林大臣在任中には米価の統制に苦心し、商工大臣としては商工組合中央金庫の創設にこぎつけるなど、必要だと判断すれば規制作りであろうと規制緩和であろうと熱心に仕事をするが、自分が納得しないことには絶対に判を押さないことで有名な大臣である。


「お前はその町田大臣の下で働くんだろ?しかもだ…」

「商工省商務局長だよ。外局の臨時産業合理局の局長兼任で」

「何で町田さんもそんな人事をするかなぁ」


 よりにもよって衝突が免れないポストではないか。佐藤家の長兄は天を仰いだ。


 昭和恐慌(1929年)に対応するため、産業合理化政策を推進するために設置されたのが臨時産業合理局である。ほとんどの役職は本省の課長や係長の兼任だが、官民一体としての産業合理化を目的としている。国家主導での産業整理や統制、生産技術・管理方法の改善(製品の規格統一、従業者教育、科学的管理法の徹底)、産業金融の改善、国産品愛用運動……これらに関して常設、もしくは臨時の委員会を設け、具体的方策の決定・実施にあたる。


 つまり臨時産業合理局は、町田商工大臣の統制緩和(規制緩和)路線と真っ向からぶつかる役職である。


「それは違うよ兄さん。町田さんの人事じゃない」

「じゃあ誰が決めたんだ。いや最終決定したのは大臣だろうが、官房か?人事局か?」

「誰も引き受けたがらなかったから、僕が引き受けたんだ」


 今度こそ佐藤の長兄は開いた口がふさがらなかった。


 町田大臣が産業合理局を廃止、あるいは縮小する意向であることは、新聞報道や国会審議でもあきらかだ。これまでのような腰掛大臣ならば、商工官僚もどうせ口だけだと安心出来たかもしれない。


 しかし町田の場合は衆議院の第1党の総裁であり、かつ閣内において副総理格として扱われる政界の長老である。つまり中長期的に腰をすえて取り組むことが可能なのだ。


 肉親に対する情が薄いとも揶揄される長兄も、さすがにこれは聞き捨てならないとばかりに言い返す。


「お前、それババをつかまされただけじゃないか。省内の連中は町田大臣と喧嘩したくないから、お前に押し付けたんだろ。今からでも遅くないから満洲に帰れ。それが駄目なら、仮病でも何でもいいから休職しろ。お前の将来のためにならんぞ」


 眉をひそめる長兄に、岸は首を横に振った。それは違う、違うんだよと言わんばかりに。


「違うね兄さん。僕はあえて引き受けたのさ。今の流れを変えるために」

「お前、変えるって」

「僕は満洲で体験してきた」


 岸はその出目金のような眼ともされるどんぐり眼を剥きながら、熱っぽい口調で持論を語った。


「国家とはね。どんな貧しく厳しい環境でも資源がなくても、きちんと計画して、ちゃんと規制と統制をしてやれば経済成長は可能なんだよ。領土と国民、そして優れた官僚と政府さえあればね。今の満洲がその証左さ。東京や本土でぬくぬくしていた官僚が何を言っても、ノントウは受け入れないだろう。だけど僕はやってきたんだ」


 長兄に向かって力説する岸は酒を飲んでもいないのに顔が赤い。佐藤の長兄は「わかった、わかった」と手を振った。


「お前の考えはわかった。しかしな、ひとつだけ忠告しておいてやる。今の霞ヶ関は2・26事件以前とはまるで違うぞ。統制や革新というだけで、危険分子扱いされるからな」

「だから兄さん。それを僕が変えるのさ…おっと。悪いね兄さん、かみさんが呼んでるみたいからちょっと行ってくるよ」

「……あぁ、行って来い」


 岸は食べ終えた蜜柑の皮と筋を綺麗に整えると、炬燵から立ち上がり部屋を退出した。


 佐藤市郎はその後姿を苦い表情のまま見送る。自信家なのは結構だが、慢心と自信は履き違えやすい。あの弟はそれをわかっているのだろうか。


「どう思う?愚弟よ」


 その言葉に炬燵の天板に伏して寝ていたはずの末弟が、むくりと上半身を起こす。


「……ありゃ駄目だろ。新京で苦労したとは言うけど、東京での苦労はしていないということだからね。それに気がついてない」


 佐藤家の末弟は、いつの間にか手にした蜜柑の皮を剥き始めていた。彫りが深い顔立ちは兄弟共通だが、3人の中でも顔の部位が全てハッキリとしている。端正な顔立ちなのに、どこか、こまっしゃくれたような雰囲気があるのは男兄弟の末だからか、それとも当人の性格によるところが大きいのか。


 大きな目に太い眉と鼻、意志の強さをあらわすかのような結んだ口。


「官吏減俸問題に暴れたときの成功体験があるんだろうけど、ノントウはそんなに甘くないよ。まぁ、最初からケチをつけるのも何だし、ここは兄貴のお手並み拝見といこうじゃないか」


 鉄道省陸運監理官の佐藤栄作は言い終えると、皮を剥いた蜜柑を再び丸ごと口の中に放り込んだ。


・蒋介石降伏。ワンチャンあるか?

・たくさん食べることはよいことだ。

・西園寺公望が相当料理にうるさかったのは実話。家庭内でも細かなことまで注意する神経質だったそうな。おまけに癇癪もちの病人(持病多数)。少なくとも家族にいるとしんどいだろう

・高橋是清を先生と呼ぶ林首相。敬うのはタダ。

・西園寺「おまえがいうな!」高橋「大蔵大臣として後処理がどれだけ大変だったと…!」林「…てへ!」

・『最も成功した社会主義国家』のグランドデザインを書いた男。過大評価かもしれないけど、その中心にいたのは間違いない。

・経済には詳しくないので事実誤認があったらごめんなさい(予防線

・古くて新しい問題。どこまでが必要な規制でどこまでが過剰なのか。そんなのわかったら苦労しねえって?そりゃそうだ。

・本来ならすでに廃止されてる臨時産業(略)局。

・自分が一番次男(次男)…やばいのでこの辺で。戦前から怪物。戦後は妖怪

・兄さん思い…か?この3男

・長兄は弟達を愛しています(棒読)

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