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何も銑十郎元帥  作者: 神山
昭和12年 / 1937年 / 紀元二千五百九十七年
11/59

中央新聞・東京日日新聞 / 第72回帝国議会議事録 / 欧州外電2本 / ドイツ国 ベルリン 日本大使館 / 中華民国 南京安全区 国際委員会事務局『ジョン・ラーベの日記』(1937年9月-11月)

- あの、私ここからどの道を行けばいいのか教えて欲しいんですけど -

- そりゃ、あんたがどこに行きたいかによるわな -


- どこだっていいんですけど -

- ならどの道だって構わんだろう -


- …どこかへ行き着きさえすればね -

- あ?そりゃ行き着けりゃあ。ちゃんと歩き続けてさえいればね -


ルイス・キャロル著『不思議の国のアリス』 アリスと大猫との会話


- 政府が臨時会召集を決定 -


 政府は上海事変に関する補正予算案の成立のため、帝国議会(臨時会)を召集することを決定した。会期は10月1日から1週間を程度が見込まれている。陸軍省と海軍省は大陸派遣軍の関連予算に関して本年度予算の予備費ではまかないきれないとしており、政府は補正予算案の作成に着手した。内閣としては補正予算案の審議を通じて今回の派兵の意義について説明し、6個師団を派遣した政府の対応に国民の理解を求めるものとみられる。


- 中央新聞(9月24日) -



- 林総理『テロとの戦い』を宣言。国民政府に協力を求める -


 林銑十郎総理(外相・陸相兼任)は臨時会冒頭の本会議演説で「テロとの戦い」を宣言した。臨時会における異例の衆院本会議演説を求めた林首相は、冒頭、大陸におけるテロ事件の犠牲者に哀悼の意を評した。呼びかけを受け衆院本会議では異例の3分間の黙祷が行われた。議場には政府の招待により遺族が招かれていた。


 林総理は「遺族の悲痛と犠牲者の無念に思いを馳せる時、私は胸が潰れそうになる」と述べ、遺族には議場の議員から拍手が送られた。また林総理は「今回の上海における武力衝突は、先制攻撃を計画して実行した国民政府軍にその責任がある」と明言。パリ不戦条約の違反を指摘した。


- 東京日日新聞(10月2日) -



第72回帝国議会 臨時会 貴族院予算委員会議事録より抜粋(政府要請により秘密会として開催)


前田利定委員(研究会)「正直申しまして満洲国を国家ではなく、東三省の行政府として認めさせるという政府原案には異論があります。手ぬるいのではありませんか?この際、満洲の国家としての承認を国民政府に求めると、何故要求しないのですか。国際社会の国民政府への視線は極めて厳しいものがあります。日本が厳しい条件を出せば飲まざるを得ないのでありませんか」


徳川頼貞予算委員長(火曜会)「外務省、沢田次官」


沢田廉三次官「現下の情勢でも全ての日本側の要求を国民政府に飲ませることは難しいと考えています。たとえ交渉の過程で国民政府が受諾したとしても、それを実行に移すだけの当事者能力が相手国にあるとも考えておりません。現在、日本政府は満洲国を東三省における国家として承認しております。この事実は揺らぎません。それと同様に、大正時代に東三省における中華民国政府の主権を、当時の日本政府が認めたのも、過去の事実であります。南京政府が21カ条要求の時のように反日宣伝に利用する可能性も考えますと、現状の満洲国の『存在』について否定をさせない。このあたりが限界ではないか。そう考えております」


前田利定委員「委員長、発言を」

徳川頼貞予算委員長「前田利定君」


前田利定委員「満洲国政府を東三省を実効支配している行政府として認めさせる。国民政府は国家として認めないが、日本政府は国家として承認している。玉虫色の解釈ではありますが、一歩前進であると。政府としてはそう考えておられるわけですか?あえて政府内対立を煽るわけではありませんが、陸軍省の梅津次官の見解をお伺いしたい」


徳川頼貞予算委員長「陸軍省、梅津美治郎陸軍次官」


梅津美治郎陸軍次官「陸軍省といたしましては上海事変解決に向けて外務省と連携して対応する。この基本方針に変更はありません。軍令部及び海軍とも緊密な連携を維持しております。目下の大陸情勢は深刻であり、国民党政府にテロ対策を求めるという点についても異論はありません。国民政府の満洲国承認問題につきましては純粋なる外交問題であり、陸軍次官として答弁は控えさせていただきます」


前田利定委員「引き続き政府において各省庁連携した対応を求めます。そして総理、繰り返しになりますが、もう少し強く要求してもよいのではありませんか?国際的に日本の主張が理解されつつあるこの時期を逃す手はないと考えますが」


徳川頼貞予算委員長「林銑十郎内閣総理大臣」


林銑十郎内閣総理大臣「委員ご指摘の通りであります。ただ満洲を独立した国家として承認するか否かは、最終的には各国政府の判断であります。政府と致しましては、一連の事変を受けて日本の主張に理解が広まりつつあると考えております。引き続き外交努力を続け、満洲国政府が国際社会の一員として受け入れられるように努力する所存であります。尚重ねて申し上げますが、満洲国は独立国であります」



第72回帝国議会 臨時会 衆議院予算委員会議事録より


(黙れ事件の直後。河野一郎代議士は退出させられた)


鳩山一郎委員(立憲政友会)「……と考える次第であります。何れといたしましても政府には毅然とした対応を望むことを付け加え、質問を終わります」(拍手)


斎藤隆夫予算委員長(立憲民政党)「以上をもちまして、鳩山一郎君の質疑は終了いたしました」

芦田均委員(立憲政友会)「委員長」

斎藤隆夫予算委員長(立憲民政党)「この際、鳩山一郎君の残り時間の範囲内で芦田均君の発言を許します。芦田均君」


芦田均委員「政友会の芦田均です。引き続き支那との戦争、まだ法的には正式な戦争ではありませんが、国民政府軍との武力衝突についてお伺いいたします。まず総理。今回の上海租界における中華民国政府軍の軍事作戦はパリ不戦条約違反であり、その精神を踏みにじるものであるという政府の主張は国際社会においてどの程度の理解が得られているとお考えでしょうか」


斎藤隆夫予算委員長「林内閣総理大臣」


林銑十郎内閣総理大臣(外相兼任)「お答えいたします。日本も批准しておりますパリ不戦条約とは、国家間の紛争における武力解決の放棄を宣言した、いわば戦争の非合法化であります。しかし本条約は侵略戦争の否定と同時に、自衛戦争、すなわち上海における海軍特別陸戦隊の作戦行動を否定するものではありません。また上海租界の国際共同管理区域における戦闘行動に関しましては、国民政府軍の空爆や無差別砲撃に対処するためのものであり、イギリスとフランス両国を始めとした各国の現地領事より理解が得られたものと、政府としては理解しております。何れと致しましても日本政府としては国民政府軍におけるテロ行為には、これまで通り断固たる姿勢で望むことに変わりはありません。各国政府と強調しながらテロとの戦い、これを続けていく決意であります」


芦田均委員「委員長」

斎藤隆夫予算委員長「芦田均君」


芦田均委員「国家とテロとの戦い。総理はこうおっしゃいました。ならばお尋ねいたしますが、テロとの戦いとは何を持って勝利とするのでしょうか。極端なことを言えば、私が今こうして手にした鉛筆。これでも技術があれば人を殺傷することは可能です。だからといって鉛筆を兵器として取り締まることは出来ません。対症療法には限界がありますが、検証可能な再発防止策を求めたところで、相手が南京政府では効果的な対策は難しいでしょう。公開の予算委員会の場で話せない事があることは承知しておりますが、政府にはその点について、国民に対してさらなる説明を求めたいと思います」


斎藤隆夫予算委員長「林内閣総理大臣」


林銑十郎内閣総理大臣「芦田委員ご指摘のとおり、テロとの戦いは国家間の戦争とは異なります。かつてのコミンテルン日本支部、あるいは無政府主義者のように組織を背景としない、はぐれ狼としての活動家の存在もありうるわけです。国民政府に対してはテロに関係した公職にある人物の厳重な処罰を求めておりますが、反日教育の禁止やテロを煽る言論活動の取締など、活動家が生まれやすい土壌を変えていく必要があると考えております。他国の教育内容や言論活動に注文をつけるのは内政干渉ではないかという批判があることは承知しておりますが、テロ根絶のために考えられるありとあらゆる手段を、政府としても検討していく所存であります」


斎藤隆夫予算委員長「芦田均君」


芦田均委員「6年前の満洲事変当時、私はベルギー大使でありました。当時の国際社会が国民政府に同情的であり、日本の主張に冷淡であったことは否定出来ません。今も6年前も国民政府のテロに対する姿勢には、それほど変化は見られません。現在、ローマ教皇が日本への支持を呼びかけるなど、各国の間で日本の主張への理解や支持表明が相次いでおります。昨日にはアメリカのルーズヴェルト大統領が日中の和平交渉を呼びかけました。鳩山委員との質問と重なりますが、多国間における圧力を国民政府に加える重要性は言うまでもありません。日本の主張に理解や支持が得られていることは喜ばしいことであります。しかし残念ながら、その例外となっている国があります」


「すでに我が党の鳩山議員が再三指摘しているドイツ、そしてソビエトであります」



- ドイツで大規模な内閣改造。政権内部の権力闘争が背景か -


 ニュルンベルグにおける党大会を終えたばかりのドイツのヒトラー内閣において、大規模な内閣改造が行われた。現政権における経済政策の司令塔であるシャハト経済相と、パーペン内閣(32年)より外務大臣を務めたノイラート男爵は大臣を外れたが、無任所国務大臣として閣内には残留した。


 シャハト前経済相に関しては経済政策をめぐり、シュヴェリン伯爵(財務大臣)を初めとした閣僚との対立が深まっていたことが原因であるとされる。ライヒバンク(中央銀行)総裁にはとどまるものの、シャハト氏の影響力低下は避けられない模様。


 ノイラート外務大臣の後任にはヒトラー総統の外交アドバイザーともされるフォン・リッベントロップ卿が就任した。ドイツ政府の外交に、総統官邸の影響力が強まることが見込まれる。


 女性スキャンダルが発覚した国防大臣のフォン・ブロンベルク元帥の交代は確実。陸軍総司令官のヴェルナー・フォン・フリッチュ大将も交代が見込まれているが、同性愛者疑惑報道との関係についてはドイツ政府は否定している。後任の国防大臣についてはゲーリング空軍総司令官の名前が挙がるが、国防軍は後任人事とあわせて大規模な組織改変を行うともされており、ヒトラー総統が国防相を兼任することも検討されている。


- ドイツ フランクフルト新聞(10月18日) -



- リッベントロップ外務大臣、日本の駐ドイツ大使と面会 -


 リッベントロップ外務大臣は、ベルリンの日本大使館を訪問。東郷茂徳大使と会談し、日独関係の改善に向けて協議した。リッベントロップ外相は先のニュルンベルク党大会における近衛秀麿公爵の客演指揮に感謝の意を述べ、東郷大使は両国の文化交流について検討すると述べた。18日に就任したリッベントロップ外務大臣が初の訪問先に日本大使館を選んだことは、冷え込んだ日独関係改善を目指す総統官邸の強い意向が背景にあると思われる。


- ベルリン外電 -



 駐ドイツ大使の東郷茂徳は鹿児島県の朝鮮陶工の家系である。


 彼の先祖は朝鮮出兵を契機に島津氏に『招聘』された。明治維新の後に姓を東郷に改めたが、東郷平八郎元帥と血縁関係にあるわけではない。たまたま改姓したのが東郷であったというだけの話であり、そもそも改姓したのは日本海海戦の遥か前である。そもそも江戸時代を通じて10代以上も鹿児島で生計を立ててきたのだ。東郷としてはいまさら何十代も前の血筋だけでどうこう言われたくないというのが本音であった。


 故に現在の『ナチス』政権のアーリア人なる荒唐無稽な人種論は、東郷からすれば噴飯ものの理論であった。むしろ理論とさえ言えないと考えている。ユダヤ人だろうと『アーリア人』であろうと、切れば吹き出すのは赤い血である。売国奴であろうと犯罪者であろうと愛国者であろうともそれは変わらない。どの両親の子供に生まれるかは選べないが、生き方は選べるのだ。


 人間を歩く糞袋と揶揄したのはいったい誰であったか。少なくとも東郷からすれば根拠のない人種的優位性を、似非科学で取り繕いながら誇示する『ナチス』の連中は、頭蓋骨の中に脳味噌ではなく糞が詰まっているとしか思えなかった。


 ……とまあ、そのようなことを晩餐会での酔った勢いに任せてラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ親衛隊中将に語ったところ、ハイドリヒは思いもがけない言葉を返してきた。


「気が合いますな。実は私もそう考えているのですよ。己が貴族の家系ばかりを誇り、やれ伝統がどうだの、やれ格式に欠けるだの。ここは総統閣下のドイツ国であるはずなのに、彼らの頭は未だに帝政ドイツか、それ以前のプロイセン王国のままなのですよ」


 「これでは『背後からの一撃』がなくとも、先の大戦に勝てるわけがない」とあけすけに語るハイドリヒに、東郷は思わず頷きかけていた。


 内閣改造で就任したばかりのリッベントロップ外相が、刷新した外務省幹部や記者団と共に日本大使館を電撃訪問すると聞き、東郷は冷静を装いながらも戸惑いを隠せなかった。一国の大臣を門前払いも出来ない東郷は止むなく受け入れたのだが、やたらと勿体ぶった大規模な式典を好む『ナチス』らしからぬ行為だったからだ。


 もっともそれは新外相の背後にヴァイツゼッガー外務次官とならんで、ハイドリヒの長身を確認した段階で東郷の疑問は氷解したのだが。前回の会談で「如何なる権限に基づいて外交交渉を行おうというのか」と東郷が問いただしたことへの意趣返しのつもりらしい。やり方が多少大げさで子供じみてはいたが。


 ともあれ「文化交流の強化で合意した」というマスコミ受けはするが、実質的なものは何もないスローガンを発表をした後、リッベントロップ外相らはハイドリヒを除いて帰途についた。


「あなたも随分と嫌われているようですな。お仲間はさっさと帰ってしまいましたぞ」

「彼らは同志ではあっても友人ではありません。私の足を引っ張らなければ、それでよいのです」


 ああ言えばこう言うと、東郷は顔をしかめる。妻のエディは「あんな野蛮人と同じ空気を吸いたくない」と、さっさと部屋に戻ってしまった。そのため大使館内の12畳ほどもある広い応接室には、このハイドリヒと自分しかいない。もっとも妻が不快感を我慢して同席を続けていたとしても、東郷は直ぐに退出を促すことになっただろうが。


 つまりどちらに転んでいたとしても、エディの機嫌が好転することはない。


「ところで今回の対応は、私を貴方のカウンターパートナーとして認めていただいたと理解してもよいのでしょうか?」

「秘書官も随行者もいない、記録する同席者もなし。発言の裏取りもできない会話は、雑談と何が違うのでしょうな」

「なるほど。雑談の相手としては認めていただけるのですね」


 流石にこれには東郷も閉口した。ギリシャ彫刻のような造形美と持て囃されるハイドリヒだが、中身はまるで飼い慣らされていない野生の獣だ。そのくせその気になれば貴族的な立ち居振る舞いも出来るというのだから、敵が多いというのもうなずけるものがある。


「……たまに貴殿の若さと情熱が羨ましくなるよ」

「それは光栄ですね。わがドイツ外務省を翻弄した大使閣下に賞賛いただけるとは」

「嫌味だ、嫌み!!」


 思わず怒鳴りつけた東郷であったが、ハイドリヒは人を小馬鹿にしたような表情を崩さず、その長い足を右足を上にして組んで見せた。


「大使閣下。血圧が上がりますよ。さて。雑談で結構ですのでお付き合い頂きたい。『掃除』は完了しました」


 東郷はわざとらしく鼻を鳴らして見せた。まず国内の権力闘争があり、その次に日独関係がある。日独関係のために国防大臣を更迭したと考えるほど彼は楽観的ではない。


「国防大臣の後任は置かれないと聞いたが」

「国防軍と総統閣下に代理人など必要ありません。国防軍は閣下の直属となります。当然ながら旧来の方針は全て見直しの対象。例外はありません」


 確かに切れる男だ。それは認めよう。しかし経験が足りないように思える。


 東郷は対抗するかのように足を組んだ。もっとも目の前の男性に比べると明らかに足の短さが目立つため、すぐに足を痛めたフリをして止めたが。


 故にハイドリヒが先ほどの自分に対する嫌がらせのように鼻を鳴らしたような気がするが、東郷は内心はともかく反応を見せずに言った。


「勘違いしていただいては困りますが、貴国が人事を刷新しようと組織を弄ろうとも、ドイツが国家としてチャイナの国民政府を軍事的にも経済的にも支援していたことに変わりはありません。政変により体制が変わったから関係ない-そのような理屈が通るとお思いですか」

「大使、過去は変えられないという貴方の意見には賛成します。欧州大戦に負けたのが我がドイツです。本当はああすれば勝てた、あの時こうしていれば負けていなかったなどと言うのは現実を認めたくない愚か者のすること」


 そこまでは東郷も同意出来たが、そこから先は彼にとっては頷き難い内容であった。


「故に我がドイツは偉大なる総統閣下を選んだのです。過去を脱ぎ捨て、今を戦い、未来へと進むために……大使。私は独日関係の未来について語りたいのです」

「過去に目を閉ざすものに、未来が語れますか。そもそも今が見えているのかという疑問もありますがな」


 総統官邸から直々の密命を受けて交渉に来たのであろう。しかし日本の大使(つまり自分)はそっけない対応を続けている。だというのにハイドリヒの自信あふれる態度と表情は崩れなかった。


 日本大使館といういわば敵地にあり、どうしてここまで堂々と振る舞えるのか。野蛮でいけ好かない人種差別主義者のクソ生意気な若造ではあるが、少なくとも臆病者ではないことは確かだろう。


「チャイナにこんな諺があるそうですね。『間違ったことを知っても改善しようとしない。これが本当の間違いだ』」

「論語ですな。チャイナの古典ですが、かつて日本を支配した武士階級の教養のひとつでもありました」

「私が思うに、これは無能な人間によくいるタイプですね。間違っていることを知りながらも、改められない。しがらみ故か個人の信念からか、とにかく改める事が出来ない。そして国家と民族に損失をかけ続ける。間違っていることを知りながらです」

「つまり、それを改めることが出来たのが、貴国の総統閣下だと貴方はおっしゃりたいわけですな」


 ハイドリヒは口角を吊り上げた。いたずらが成功した時の子供のような笑いだと東郷は感じたが、それこそが『ナチス』の中枢にある邪悪さなのかもしれない。全員が全員だとはいわないが、ハイドリヒが「捨て去るべき過去」とした倫理観や社会的常識がすっぽりと欠如したまま成長した連中。


 確かに彼らはしがらみにとらわれず大胆な政策を実行に移したことで、敗戦後の混乱に終止符を打った。ベルリンオリンピックを成功させ、経済成長はとどまることを知らない。失業者は街から消え、国民は豊かになった。


 自分に彼らに対する偏見があるのは認めよう。


 しかし東郷には彼らが国家を経営し続けることが出来るとは、どうしても思えなかったし、考えたくもなかった。


「何度も言うようではありますが過去は変えられませんが、未来は選べます。今なすべきことは何か。総統閣下は未来のために今の決断を重ねられます。過去の栄光と先祖の手柄しか取り柄のない愚か者どもは粛清され、新たに閣下に忠実な者が内閣に入りました。ドイツと日本の関係も、未来を見据えて、今の課題を一つ一つ乗り越えていかねばなりません」

「未来、未来ですか……」


 この若者が語る輝かしい偉大なる未来の中に、私や妻のような少数派の居場所はあるのだろうか。大使としては失格かもしれないが、東郷はさらに皮肉で応じることにした。


「大義のために犠牲はつきものとおっしゃるわけですな。アーリア人たる貴官はいいでしょう。しかしそうでないものは、私の妻のような少数派はどうすればよいのでしょう。黙って犠牲になれとでも?それとも水晶の夜のように力づくで粛清でもしますか」


 その言葉に一瞬だけ眉を上げたハイドリヒであったが、直ぐにあのいやらしい笑みを、犬の調教方法について考え直す調教師のような表情を浮かべた。


 そして組んだ足を外し、わざとらしく肩を竦めてみせた。


「今の結果は過去に戦わなかったから。今を戦おうとしない者に未来はありません。国も、人もです。違いますかな?」



- ジョン・ラーベの日記(現代語訳版) -


 私の祖国であるドイツは今、党と国とが一体化している。国家社会主義ドイツ労働者党-国家社会主義によるドイツの労働者のための党。今の私はその南京支部副部長という肩書きを持つ。


 祖国。果たして私にとって今のドイツは故郷ではあっても、帰るべき祖国といえるのだろうか?



 私が専門工業学校レアルシューレを卒業した当時、ドイツはまだ帝政であった。●●●を卒業した後、ドイツでも1、2を争う重工業企業シーメンスに入社。私がヒーナ勤務として30年近くの時間を過ごす中、祖国では先の大戦により政変が発生。共和制となった。


 私がヒーナの総責任者に上り詰めるころ、祖国は総統なる人物が全権を握る独裁国家となった。


 私自身、ドイツよりもヒーナで過ごした時間の方が長くなり、子供達も母国語よりヒーナの言語に親しんでいる。正直我が祖国のことながら、まるで実感がわかない。遠い祖国の政治よりも、目の前の現地法人の社員達をどうやって守るか。私にとってはそれだけが重要であった。


 国家社会……ナチスでよいか。差別的呼び方だと熱心な党員は怒るが、噂に聞く親衛隊がヒーナにまで目を光らせているわけではない。


 ナチスの現地支部の副代表ジョン・ラーベ。


 だからどうした。私は私なのだ。再度祖国の体制が変わろうとも、ジョン・ラーベという人物が変わるわけでもないし、今の会社が続く限りここでの総責任者は私なのだ。


 その点でいえば中国国民党というこの国の政党もナチスとよく似ている。SPD(社会民主党)やカトリック中央党などの議会政党ではなく、党と国家を同一視している。


 辛亥革命当時は、国民党も議会政党であった。


 それを変えたのは孫文であり、蒋介石だ。


 彼らは国家のために党があるのではなく、党のために国家があると考えた。自らの能力に自信があったのか、混乱する国を立て直そうとする責任感の強さ故か、それとも私利私欲によるものか。


 日本の軍人はよく「大陸は難しい」としたり顔でヒーナについて語っていたものだ。しかしその実、都合の悪い事実を糊塗するための言い訳でしかない。解らない事は解らないと正面から認めようとせず、大陸だからと最もらしく理由を付ける。人間が人間であるための思考を放棄したに等しい。


 その国民党は日本に戦争を仕掛け、大敗した。


 9月の上海郊外での一連の戦いで捕虜になった兵士は10万以上ともいわれる。蒋介石は南京に逃げ帰り、軍の立て直しに奔走した。当初は市民も「日本が攻めてくる」と恐慌状態に陥った。


 私は仕事上どうしても必要な人員を残して、残る社員には避難を勧めた。私も家族を脱出させ、持病の糖尿病に必要なインスリンを蓄えて篭城戦に備えた。


 しかし日本軍は南京に攻めて来なかった。上海郊外の国民政府側の要塞を修理し、空爆で破壊された街の修理に取り組んだ。道路と鉄道を復旧させ、揚子江経済の心臓部たる上海の都市機能と経済機能を再開させた。軍事教練を繰り返して国民政府への威圧を続けていたが、それだけである。


 蒋介石はむしろ日本軍に攻めてきて欲しかったのかもしれない。日本軍のスパイ扱いされ、毎日罪もない市民を殺害し続けた。日本軍が攻めてくるという恐慌状態の中では、その凶行も支持された。


 しかし攻めて来ないとなると話が異なる。


 おまけに日本軍は大量の捕虜を解放したため、彼らが一斉に南京郊外に流入した。スパイ狩りは続き、治安は極度に悪化。私たち南京在住の外国人は、当初の予想に反して日本軍から身を守るためではなく、国民政府軍から避難民や自分達の身を守るため、南京に難民のための区画を設定した。


 南京安全区国際委員会-私はその委員長に選ばれた。


 押し付けられたと言ったほうが正確かもしれない。私としては知らんぷりも出来ないので仕方がなくこれを引き受け、そして後悔した。


 国民政府は混乱しており、南京市はさらに混乱していた。日々絶え間なく避難民が流入し、瞬く間に市のインフラは破綻した。私たちの企業も懸命に対処しようとしたが、揚子江の流れにこぶし大の石を投げこんだ程度の影響しかもたらさなかった。疫病が発生し、人心は更に乱れた。


 蒋介石は責任感の強い指導者であった。自分でなければ混乱する祖国を救えないと信じていたし、当時の彼は必ずや日本に打ち勝つという強い信念を有していた。さすがに上海で負けた時には意気消沈したようだが、直ぐに軍の再建に取り組んだことからもそれはわかる。


 しかしその信念が仇となった。自分以外にチャイナは救えない。自分以外にはそれは出来ない。故に敗戦の責任を他人に押し付けようとした。


 しかしチャイナの歴史に残る大動員を計画したのは蒋介石なのだ。ドイツ国防軍の軍事顧問団が無能だったから負けたのだと批判したのを聞いた時は、祖国に対する感情が薄れつつあった私も気分が悪かった。よく戦った者に対する指導者の言葉ではないと感じたからだ。


 そんなある日。思いもがけない大物が南京安全区の委員会事務局を来訪した。

 

 宋子文。私でも名前を知っている-いや知らないほうがおかしい浙江せっこう財閥の大物である。


 浙江省や江蘇省出身者からなり上海を本拠地とした彼らは、租界を通じて海外商社や金融機関の代理人として成長。ヒーナにおけるほとんど唯一の民族資本であり、金融資本家として華南に君臨した。


 大陸近代化において最も利益を得た存在であり国内において最も海外を知る彼らの中でも、宋子文は別格の存在である。


 ハーバート大学で経済学を学び、アメリカにおいて銀行員として働いた彼は、帰国後は革命後の祖国において実業界で活躍した。彼の姉妹は孫文と蒋介石というヒーナの歴史に(良くも悪くも)残るであろう人物と結婚したこともあり、政府の財政部長や中央銀行総裁を歴任。どの分野においても多大なる功績を残している。英米との協調派ではあるが日本をライバル視しており、それが原因で政府の役職を退いた。後任には自分の妹婿である孔祥煕を推薦し、再び経済界で重きをなした。


 排他的な国民政府にありながら、世界を知る国際派経済人。浙江財閥と国民党政府を影から支配する男。それが宋子文だ。


 まかり間違っても、このような南京の外れにある薄汚れた事務局にいてよい人物ではない。宋子文は流石に大物である。挙動不審な私の態度にも、大して不快そうな表情を浮かべたりはしなかった。


『ご無沙汰いたしておりますな、ラーベさん』


 何年か前に上海で会っただけだというのに、その時のことを覚えているという。もしくは優秀な秘書官が記録していたか。私がそんなことを考えていると、宋子文は東洋的な大人らしく感情と表情を表に出さずに切り出した。


『本題から申し上げましょう。国民政府は日本政府の要求をすべて受諾する。それを貴方から日本政府に伝えていただきたいのです』

『日本政府の要求?なにか要求されたのですか?』


 今から考えれば頓珍漢な答えであったと思う。しかし仕方がないではないか。


 たかが一民間企業の総支配人に、まさかそのような大役が回ってくるとは思いもしなかったのである。


 宋は全く表情を変えずに、淡々と事実を口にした。


『最後通牒です』


 私は驚きのあまり椅子から立ち上がってしまった。最後通牒ということは、それを受け入れない限り日本が戦争を仕掛けるという意思表示に他ならない。つまりこの南京が戦場になるという事だ。


 しかし宋子文はたった今「要求を全て受諾する」と言った。つまり戦争は避けられたのか?


 私の疑問に答えるかのように、宋は続ける。


『確かに私は日本と日本人を好んではいません。しかし残念ながら状況は国民政府にとってよろしくない」

『アメリカ大統領が和平の仲介に名乗りを上げているではありませんか』

『上海租界爆撃への批判が各国で根強いのです。イギリスにフランス、アメリカ。そしてドイツ。ドイツの新しい内閣は国民政府との関係を完全に精算すると、先ほどトラウトマン大使より通告がありました。ドイツに見捨てられ、英米の支援も期待出来ない。揚子江経済が支えている国民政府には、今の現状が続くことは致命的です』


 揚子江経済とはすなわち上海。上海とは浙江財閥であり、浙江財閥とはすなわち彼自身のことである。


 まさか現代においてその国の経済を体現して語れる程の人物が現れるとは。ヒーナの後進性ともいえるが、私は素直に感動していた。


 それと同時に「何故自分が」という疑念が湧くが、宋はその疑問をあらかじめ予測していたかのようにすらすらと答えた。


『私個人の伝はありますが、協力は期待出来ません。そもそも英米人は今回の件で国民政府には批判的。ドイツ大使は今回の件にタッチすることを禁止されていますし、日本が信用しないでしょう。国民政府と友好関係にあったドイツの、それなりに知名度のある貴方-おあつらえ向きに今のドイツ与党の現地の副支部長の肩書きもお持ちだ。建設機械や通信敷設事業など、こちらに滞在されて長い貴方なら国民政府にも知己が多い。そして日本も戦後を考えれば無下にはしない……何より貴方は民間人だ。軍人ならば」


 「どうなるかおわかりでしょう」宋子文はそこで言葉を区切り、私の顔を見る。


 国防軍の将校が上海で捕虜になった件は私も聞いている。祖国とヒーナの関係が深まるのは歓迎するが戦争開始の責任者として批判されては、私としては閉口するしかない。


 ドイツから来た同僚や部下は「東洋人は何を考えているかわからない」というのが口癖になるが、30年以上もチャイナで働いてきた自分はその例外であるというのが私の密かな自慢であった。その私でも今の宋子文が何を考えているのか、本心がどこにあるかは見当がつかない。


 利用したいだけなのか、それとも本気なのか。


『普通に考えれば門前払いされるのがオチでしょうな。私が日本軍でもそうします。あなたは第三国の民間人であり、当事者ですらない』

『それでしたらヘル……あえて宋さんとお呼びしますが、宋さん。貴方が日本人と接触すればよいではないですか。私など挟まずに直接やり取りされたほうが交渉は円滑に進むでしょう。そもそも貴国の外交部は何をしているのです?』

『いろいろあるのですよ。いろいろね』


 私の疑問には直接答えず「それに仮に国民政府が、あるいは日本が要求を蹴り飛ばした場合を考えれば、あなたの利用価値はますます高まりますからな」と宋は含みを持たせた言い方をした。このヒーナ上流階級独特の迂遠な言い回しに我慢出来なくては、大陸における商売は不可能だ。


『仮に南京が戦場となった場合、国際委員会の委員長を務める貴方を日本軍は無視出来ません。つまり貴方の発言に、日本軍は耳を傾けざるを得ないということです……肝心なのは内容でしょうが、それも問題はないでしょうな』

『といいますと?』

『最後通牒を受け入れない場合、私は国共合作を続ける蒋介石をこれ以上支持しません』


 嫌な予感とは往々にしてあたるものである。宋子文は私の理解と反応を確かめるかのように少しだけ頷くと、続きを述べた。


『孔祥煕だけではなく陳果夫もこれに同意しています。浙江財閥としての共同の見解を是非とも日本軍にお伝え願いたい』


・帝国議会は平常通り。こちらの世界線の黙れ事件については1話を参照して下さい(セルフ宣伝)。

・新聞形式って実は書くの結構しんどかったりする。国会審議とかのほうが正直書きやすい。

・外務省と国防軍は少しだけ早く総統閣下に忠実な組織に生まれ変わりました(棒読)

・大人気(?)により再び金髪の野獣さん。決してリッベントロップ外相のキャラクターを考えるのがめんどくさかったとかそういうわけでは(ry

・主人公?誰だったけ?

・ラーベさん。どんな世界でもこんな星回り。責任感が強いと大変ですね(他人ごと

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