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何も銑十郎元帥  作者: 神山
昭和12年 / 1937年 / 紀元二千五百九十七年
10/59

中外商業新報『履歴書で振り返る半生』 / 中華民国 上海 上陸本部内 派遣軍総司令部 / 外交文書アーカイブス / アメリカ合衆国 ワシントンDC(特別市)国務省 長官執務室(1937年9月-11月)

『一番ひどいのは負け戦、次にひどいのが勝ち戦』


初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー(1769-1852)


 父と林さんは陸軍士官学校と陸軍大学校の同期でした。学生時代はそれほど親しいわけではなかったようですが、疎遠というわけでもなかったようです。同期の桜でしたからね。


 林さんが最初の陸軍大臣時代には、父は軍事参事官と教育総監として林さんをサポートしました。でもその時はうまくいかなかったようですよ。その頃の父は夜遅く帰ってきて「銑十郎は腹が据わらない」とよく怒っていましたからね。


 2・26事件の時です。私は自宅の寝室で寝ていたんですが、いきなり玄関の扉を蹴破って林さんが入ってこられたそうです。警護の兵士達は大慌てだったそうですよ。でもあのお髭。あれで何方か判別できたそうです。有名だったんですね。


 しばらくすると父の寝室のほうから怒鳴りあうような声が聞こえましたね。いったい何があったんだろうと寝室に駆け寄りました。仕事中は入ってはいけないといわれてましたので私は大人しく部屋の前で待っていると、寝巻き姿の父が軍服を片手に出てきました。


 「お父さん、何があったの」と私が聞きますと、林さんが「お嬢さん。お父さんを借りていきますよ」と笑いながら片目を閉じたんです。今で言うウィンクですね。父がピストル片手に真顔で「口説くなよ」と迫っていたのが印象的で、私は思わず笑ってしまいました。


 その後のことは皆さんがご承知のとおりです。政治についてはよくわかりませんが……父と林さんの関係ですか?そうですね。娘の私の目からすると『悪い遊び友達』でしょうか。それも年をとってから出来た悪友ですね。憎まれ口をたたきながらも、父は林さんを信頼していましたし、林さんも父の前では大人しかったそうですしね。


- 『履歴書で振り返る半生』より抜粋(執筆者はカトリック系学校法人名誉理事長の(以下略) -



 何故、俺はこんなところにいるのだろうか。


 上海派遣軍参謀長の畑俊六陸軍中将は執務中にも関わらず、そんな埒もないことを考えてしまっていた。


 哲学的な問いかけではない。ただ単純に何故自分が上海にいるのだろうかと考えてしまったのだ。現にこの6月までは台湾軍司令官として台北の司令部にいた。


 それが9月も終わろうとしている今では、上海の海軍特別陸戦隊(通称・シャンりく)の本部にいる。


「どうだね参謀長、貴官も一杯やらんかね」

「結構です」


 自分の苦悩をよそにして、まだ日が高いのにも関わらず上海派遣軍総司令官の松井石根陸軍大将はといえば、顔を赤らめながら茶碗酒を楽しんでいる始末だ。


 黒糖のような甘い香り-これは老酒ラオチューか。司令部がある上海租界においては国民政府軍が爆撃した爪痕が残り、復興作業が続けられているというのに。


 租界住民がこの光景を見れば、いかに上海を国民政府軍のテロによる脅威から解放したジェネラル・松井の名声があろうとも、面白くはないだろう。何より下への示しがつかない。


 そう諫言する参謀長を適当にあしらい、松井は自身の側に置いた子供ほどの大きさはあろうかという甕から、柄杓を使って黒ビールのような色をした老酒を茶碗に器用に注いで見せた。


 器量や見識は認めるが、何故こんな酔っ払いの下で働かねばならんのだ。


 自分自身の境遇や人事に不満を述べるのは畑の軍人としての生き様に反するのだが、それでもこの状況では、どうしても埒もないことを考えてしまう。


 そもそも本来であれば畑は台湾軍司令官の後、陸軍大将に昇格すると噂されていた(実際に内示もあった)。


 それが何故か台湾軍司令官を退任した後、中継ぎの軍事参事官となるも陸軍中将にとどめ置かれる。中央における人事の混乱の余波なのかと思いきや、与えられたポストは陸軍特別大演習の首席監査官という要職ではないが閑職とも言い切れないものであった。


 ところが今年の大演習に参加する師団は例年の2個師団から3倍の6個師団、時期も「より実戦を想定するため」として、農閑期ではなく稲刈り最盛期直前の8月中旬に行うと突如発表され、監察官である畑は頭を抱えた。


 単純に兵員も物資も例年の倍以上の規模になるにも拘らず、通常であれば大演習の際には近隣農家から軍馬を徴用するのだが、収穫前ではそれも期待出来ない。無理強いすれば徴用に関わる農村出身の兵の士気に関わる。ただでさえ大元帥たる陛下が統監される以上、大演習後の地方行幸や寺社参拝に関する警備の手配、自治体との調整に加えて、通年以上に負担が大きくなることが予想された。


 とんだ貧乏籤だと頭を抱えたものの、この時まではまだ「派閥の後ろ盾のない自分にしわ寄せが来たのだろう」と考えていた。昨年のクーデター未遂事件による国民の陸軍への不信感は未だ根強く、より大規模な大演習にすることで新生陸軍の政治的なデモンストレーションとしたいのだろうと。


 ともかく畑が四苦八苦しながら監察官として大演習の準備に奔走していた7月7日。盧溝橋で武力衝突事案が発生した。この段階では現地軍レベルでの武力衝突でしかない。


 近代国家においては、少なくとも片方の戦争決意か動員がなければ、戦争は発生しえない。まして国境における武力衝突がなし崩しに全面戦争に至ることなどありえない。そのため畑は引き続き特別大演習に向けて着実に準備を進めていた。


 7月11日。盧溝橋において現地軍間での停戦合意が成立したその日、畑は特別大演習を管轄する渡辺錠太郎教育総監より呼び出しを受けて三宅坂の総監本部に出頭した。


『大陸への派遣軍結成が決定した。大演習に参加する6個師団をそのまま再編成して第1陣として派遣する』


 渡辺は右側の眉だけが少しだけ吊上がっている。その独特の風貌を見ながら、畑は極めて不穏当ながらも「嵌められた」と理解した。


『上海租界の外において国民政府軍との決戦になるだろうが、表向きは北支への追加派兵である』

『……失礼ですが教育総監』

『現段階において質問は受け付けない』


 問答無用であると言わんばかりに、渡辺は発言を続けた。現役の大将クラスを動かすと問題が多く、内外に目立つ。総司令官は退役陸軍大将の松井(石根)を現役復帰させる。派遣軍総司令部の人事は貴官に一任するので、そのつもりで用意をしておくように等々……


 ここまでくれば畑としても自分に与えられた役割を理解せざるを得ない。


 渡辺は山縣有朋・上原勇作という「うるさ型」の元帥に仕え、参謀も軍司令官も海外赴任も省部の幹部職も全て経験している。経歴だけを見れば、明日からでも陸相か参謀総長が務まる大物だ。しかし2・26事件以前は天皇機関説(国体をめぐる論争で、陸軍主流は対抗する国体明徴を支持していた)に理解を示したこともあり、陸軍の主流から外れた存在であった。


 そして教育総監も、陸軍の教育や教練を監督する要職として表向きは陸相や参謀総長と同格扱いとされてきたが、人事を握る陸軍省や作戦部門を統括する参謀本部にくらべると、どうしても一段下の扱いを受けることが多かった。


 ところが大方の予想に反して渡辺が2・26事件の後も教育総監を続投したことで、陸軍内部の政治風景は一変する。


 人事の混乱は相対的に教育部門の重要性を高める効果をもたらし、今や教育総監部の協力がなければ、訓練はおろか師団や連隊を動かすことすらままならない。内部事情に通じた大物総監は在任2年目を迎え、総監部を完全に掌握。結果として渡辺錠太郎は陸軍の陰の実力者とも呼ばれる現在の地位を手に入れた。


 陸相は総理と外相の兼任。寺内参謀総長は態度と声こそ大きいとは言え、年次や年齢、何より経験の面においても渡辺にはるかに及ばない「小物」参謀総長と来ている。渡辺に嵌められたという畑の考えは、あながち見当違いのものでもないだろう。


 2度目の陸相登板となる林銑十郎総理は、陸軍次官の梅津美治郎陸軍中将に人事を一任したとされる。梅津は多くの政治屋軍人を追放し『純粋』な作戦屋を第一線から遠ざけた。全てを排除することは組織の運営上も難しかったが、それでも「やりすぎだ」との声が出るほど大胆なものであったことは確かだ。


 梅津は若い頃から陸軍三長官候補との呼び声高く、地方勤務をしたことがないとされるほどの陸軍のエリート。いわゆる粛軍人事(2・26事件後の人事刷新)は梅津が主導しているともっぱらの評判ではあるが、畑はそれも疑問視していた。


 梅津は青年将校を増長させた荒木や真崎と異なり、秩序を第一と考える組織人である。極端な人事案を避け、軍内部の状況を勘案した上での落としどころを探ることに定評がある。その反面、組織の序列(年次)や派閥の力関係を無視した抜擢人事などは本人が望んだとしても出来るようなタイプではない。


 実際の人事を見ていれば、その傾向は明らかだ。更迭された高級将校や佐官の後任には序列や年次、年齢すら無視した抜擢が続いている。梅津は「人がいないから仕方がない」と語ってはいるが、陸軍における『別の人物』の意向が反映されていると考えるのは畑だけではない。


 とはいえ実際にこうして自分に影響してくるまでは、それが渡辺であろうと林であろうと畑には大して興味がなかった。


 畑も陸軍においては「作戦屋」に分類されるが、いわゆる作戦屋にも様々なタイプがある。


 かつての日露戦役(1904-05)の児玉源太郎参謀総長(当時)は、現役の陸軍大将でありながら、就任直前まで政府閣僚(内相)であった。そのため何か作戦上の問題が発生すれば、自分で各部署と直接折衝して解決してしまうという、いわば政治家タイプの作戦屋であった。


 一方、現在の参謀本部次長である小畑敏四郎は、派閥の力や自らの閨閥を利用することを厭わないタイプの作戦屋だ。真崎であろうが寺内であろうが、彼にとって良い上官とは自身の提案に対してあれこれうるさいことを言わずに判子を捺す上司の事であり、良くも悪くも自分の仕事を実現する事への関心と意欲が高い。


 では畑俊六はといえば、彼は児玉とも小畑とも異なり、非政治的な軍人であることを誇りとする正統派の作戦屋だ。


 軍人勅諭を素直に解釈するなら、全員が畑のようにあってしかるべきなのだろうが、必ずしもそればかりでは上手くいかないのが組織というものである。


 児玉と小畑に共通するのは、純粋な作戦屋としての能力ではなく「自分の提案(作戦案)は正式採用されなければ意味がない」と考えていたことであろう。司令官に選択肢を提供することが作戦屋の仕事であるとするなら、むしろ自分の能力に自信があるからこそ計画実現に向けて全力を尽くす。そのために児玉は政治家としての権力を使い、小畑は派閥の力や政治家との関係を利用した。


 ならば非政治的な軍人である畑が努力を尽くしていないかといえば、決してそのようなことはない。彼らも自らに与えられた権限が許す範囲内において、職務遂行に全力を尽くしている。


 畑自身、児玉や小畑のようなタイプの作戦屋が組織に必要だとは理解している。しかしあえて自分がそのようになろうとは思わなかった。政治が苦手というのも理由の一つだが、やはり組織の中において児玉を目指した軍人が政治屋に堕落する姿や、派閥や政治家を利用していたはずが逆に利用されて作戦への介入を許した例を見てきたからだ。


 そして畑は政治からは距離を置いたが、無視はしなかった。軍事作戦に関わる各種様々な要因の一つとして政治があることまでは否定しなかった。


 参謀肩章をつけた連中には作戦から政治に関する要素を全部否定し、軍事作戦は作戦として『純粋』であるべきだと考え違いをした連中も多い。


 例えば帝政ドイツのシュリーフェン・プランだ。同計画はフランスを短期間のうちに軍事的に圧倒させるためには効果的だったかもしれない。しかし先の大戦においては、この作戦を実行したことにより中立国ベルギーを『道路』として利用したことで、イギリスの参戦を招いた。また相手陣営を兵糧攻めにすることを目的に行われた無制限潜水艦作戦が、中立国アメリカの参戦を招いた。


 味方を増やして敵を減らすのが戦争の王道だとすれば、作戦の効率を重視するあまりに敵を増やしてしまっては本末転倒という他はない。畑に言わせるならば、まさに純粋培養された作戦屋が陥りやすい典型例だ。


 現実の国際政治を無視して立案された軍事作戦が、世界大戦を招いた-その教訓を真摯に学ぶのなら、現実の政治を踏まえたうえで、上層部の決定に従い非政治的な軍人として行動することが求められている。


 現代から考えれば極めて当たり前のことなのだが、大正期の軍縮の反動もあってか昭和初期の陸軍においては畑のような考え方をする軍人はむしろ希少であった。故に昭和天皇は作戦屋としての畑を信頼していたのであり、畑も政治屋軍人や、純粋な作戦屋が横行する組織の現状を苦々しい思いで眺めていた。


 つまり畑は現状の陸軍について多少の不満こそあるが、ある程度は満足していた。


 政治屋が追放され、純粋ばかな作戦屋が外されたことで、働きやすくなったのは確かだ。もっとも以前よりこき使われるのは閉口したが。


「馬鹿とハサミは使いようというが、あんな男でも使い道があるとはの」


 酒気に閉口する畑を気にした様子もなく、松井石根は相変わらず茶碗酒を片手に、いつの間にか机の上に広げた書類に目を通していた。


 参考資料として付属されているのは、取り寄せられた海外紙の実物。各紙の一面には爆撃により大きく損壊したフランス租界の大世界娯楽センターの写真が大きく掲載されている。


 国民党政府軍とシャン陸との戦闘激化に伴い、上海市の疎開内には避難場所が設けられた。


 大世界娯楽センターは主に婦女子の避難場所として開放されていたのだが、国民党機は容赦なく空爆。1千人以上の死者が発生した。この他にも数え切れない空爆が繰り返され、租界を守るようにして戦わざるを得なかった海軍特別陸戦部隊は、少数であることもあり非常に苦戦を強いられた。


 間一髪で松井が指揮する援軍は間に合ったものの、仮に大演習による動員がなければどうなっていたか。全滅もあり得たのではないかと、司令部要員は肝を冷やしたものだ。


 当時を振り返りながら、畑が微妙な表情で頷く。


「私も彼は好きではありませんが、司令官がおっしゃるように、あれは一種の才能ですね」

「私なんぞ素直に感心してしまったよ。よくもあそこまで口が回るものだとな。どこぞの劇団員にでもなっていれば、今よりよほど高給取りであったろうな」


 松井のいう「あんな男」とは、上海派遣軍報道官なる肩書きで陸軍省より派遣された鈴木貞一大佐のことである。元々は研究者志望であったのに「腕試し」と受験した陸大に合格したので「それならば」と軍人になったという変わり種だ。


 何か戦場において功績を上げたということは一切なく、常に後方にあり「背広を着た軍人」とも揶揄される。陸軍省の初代新聞班長として記者対応に辣腕を振るった弁舌の持ち主であり、巧みな処世術と合わせて、良くも悪くも畑とは対照的な政治的軍人だ。


 あちこちの派閥を渡り歩きながらもそれなりに重宝され、自分だけは生き残るという嗅覚の鋭さは、明治の男である松井石根にも受け入れ難いキャラクターであった。


 とはいえ松井も畑も、報道官としての鈴木の才覚は認めざるを得ない。


 これまで国民党政府関係者は、嘘でも真実でもとにかく自らの主張を国内と海外に訴え続けていた。相手が納得するか、もういいと諦め続けるまで延々とである。正しいことをしていれば何れは理解されるという日本人からは理解され難いが、主張しない人間は存在しないのと同じと扱われる文化圏においては、国民党政府関係者のプロパガンダが効果的であった。


 対する日本はといえば、満洲事変以前からの国内の大陸政策を巡る意見対立もあり、広報体制の1本化すら出来ないまま宣伝戦において後手に回った。


 鈴木大佐のやり方は、これまでの軍の常識からかけ離れたものであった。


 日本の記者団だけではなく海外の特派員の同行取材を認め、軍の護衛のもとに最前線での取材も許可。これには「スパイに情報が漏れたらどうするのか」と作戦部門が激怒したが、鈴木は「漏れて困るような作戦など、この派遣軍にあるのですか」とやり返す始末。むしろ積極的に記者団と交流し、自らが情報提供者となった。


『情報のコントロールとは隠すことではありません。暴きたがっている連中に、こちらが見せたいものを提供してやることです。そうなれば彼らはそれに依存するようになります。飼いならされた猪は、豚になるしかありません……ただし豚とて猪の血を引くことを忘れてはいけませんが。ここさえ間違わなければ、怪我をすることもありません』


 鈴木大佐は悪びれもせずに堂々と宣言した。初代新聞班長という専門家が相手では、専門外の畑も頭ごなしに否定出来ない。


 鈴木は新聞記者とは情報不足になると凶暴になるが、ある程度情報が定期的に与えられていればおとなしくなる生き物であることを経験として理解していた。また戦争報道において記者が求めるものは、インパクトのある写真と見出し、そして話題性に富んだ内容であることも。


 悲劇であればよし、英雄譚がそこに加わるならさらによし。


 背広を着た軍人の本領発揮である。


 鈴木は上海租界の国民党軍機による爆撃を、スペイン内戦において4月26日に発生したゲルニカ爆撃と、意図的にイメージをダブらせた。


 昨年から続くスペイン内戦は、共和政府とフランコ将軍派とのあいだで熾烈な戦いが続いている。欧州各国にとっては最も近い戦場であり、語弊を恐れずに表現するなら、最も話題性のある『娯楽』である。共和政府は各国から記者を受け入れてクーデター派の蛮行を訴え、共和政府贔屓の新聞によりフランコ将軍派とそれに味方する義勇軍の蛮行は、欧州各国に広く伝えられていた(共和政府の蛮行はほとんど報道されなかったが)。


 その中でも無差別爆撃により都市一つが廃墟と化したとされるゲルニカ爆撃(4月26日)の反響はすざましいものがあった。かのパブロ・ピカソは爆撃を題材にした絵画『ゲルニカ』を発表。フランコ将軍派を非難した。


『見たかね記者諸君、この有様を!上海がゲルニカになってしまった!』


 今だに焦げ臭い匂いが立ち込める爆心地の中心に立つや否や、突如として鈴木は前述の台詞を英語で叫んだ。


 ゲルニカ爆撃で実際に犠牲となったのは300人ほどではないかという説がある。それに比べると爆撃の規模こそ小さいものの、犠牲者の数は大世界娯楽センターだけでも3倍以上に上る。あっけにとられる日本の記者とは対照的に、海外特派員は飛びついた。


 そこからはもう鈴木の独壇場である。


 臨場感たっぷりに爆撃の悲劇を語れば、実際の被災者の取材を放り出して泣き出す記者が出る始末。そこに「少数でありながら、民間人を守るために大軍の国民政府軍と戦った日本の海軍陸戦隊」という英雄譚を付け加えれば、もう言うことはない。


 その成果が今、松井の手元にある海外紙である。


 ゲルニカと共に上海の名前が並び、犠牲者の名前が名簿のように列挙されていた(当然、名簿の作成に協力したのは派遣軍だ)。今や国民政府軍はフランコ将軍と同じ扱いを受ける存在にまで成り下がった。


 プロパガンダとはそれ自体は何も生み出さない。にも関わらず対抗しようと思えば相手以上の努力と気力を持って反論し続けるしか手段がない。その労力から少なからず解放されたのだ。司令部として評価しないわけにはいかない。国民政府軍の虚実入り乱れたプロパガンダに苦しめられ続けてきた松井は無論、参謀長として派遣軍を事実上取り仕切る畑も大いに溜飲を下げた。


「この期に及んで、国民党系の新聞社は日本軍機による爆撃と主張しているようですが」

「意図的に情報を混乱させるのは、大陸の軍閥連中がよくやる手だよ。相手が情報にとらわれて混乱したところを狙う。もしくは逃げて体制を立て直す。信用など紙切れほども重視していない連中だからな。頼れるのは身内と『コレ』だけだよ」


 右の掌を上に向けて、親指と人差し指で丸を作る松井。その俗っぽい振る舞いがなんとも言えぬ愛嬌を醸し出しているが、松井石根はいわゆるシナ通と呼ばれる日本陸軍の大陸専門家の中でも最も高位にまで到達した軍人だ。


 平時の、それも軍縮化における将官人事で無能な人間を陸軍大将にするほど帝国陸軍は寛大ではないし、金銭的あるいは人材的な余裕がない。まして彼の場合は士官学校(9期)次席卒業、陸大(18期)首席卒業という「銀時計組」である。欧州駐在経験も豊富でジュネーブ軍縮会議の陸軍代表を務めた経験もある松井は、欧米人の考えが理解出来る人材であった。


 しかしそれ以上に日中の連携を重視する大アジア主義者でもあり、孫文や蒋介石といった革命家とも交流があった。


 現役軍人でありながら政治活動に携わってきた松井は、畑からすれば苦手なタイプである。


 そもそもシナ通とされる連中は、大陸のことを知らぬと言いながら大陸の流儀に染まり、軍規を軽んじる傾向がある。「上に方策あれば下に対策あり」というお国柄、朝令暮改は当たり前。法律を守る方がおかしいという考えが軍閥にも民間にも染み付いている。


 こうした環境でテロの脅威にさらされ続けては「どうして自分達だけ戦時国際法を堅苦しく守って戦わねばならないのだ」とシナ通が考えてしまうのは無理はない。畑自身、国民政府軍のテロ行為には腸が煮えくり返っていた。


 だからこそ畑は派遣軍が捕虜とした数万の国民党兵士を、戦時国際法はおろか帝国陸軍の定めた規則や内規すら無視して扱おうとした連中に激怒した。相手がそうだからといって、こちらが捕虜を意図的に虐待してよいわけがない。軍人を軍人たらしめているのは、軍規であり法だ。それがなければ軍は軍でなくなる。仮に何か問題が発生した場合、責任を問われるのはそれを黙認したり追認した上官や組織ではなく、兵士個人の責任となりかねない。


『軍は命をかけて戦う兵士を守らねばならない。だからこそ敵兵のためではなく、味方の兵を守るため、戦時国際法に則り、捕虜を取り扱わねばならない。兵に政治的な危険性を背負わせて戦わせるべきではない』


 畑は作戦会議において国民党政府軍による便衣兵のテロ行為に激怒する将校を宥めながら、口が酸っぱくなるほど同じことを何度も何度も繰り返し、その考えを徹底させた。


 松井石根は優秀な指揮官ではあるが、どちらかというと細かなことにまで干渉しないタイプだ。もし自分が参謀長でない時に大規模の捕虜が発生して、なおかつ便衣兵が大量発生していればどうなっていたか-畑はぞっとした。


 残虐なテロ行為に対する怒りそのものは正しいが、それをぶつける相手を間違えては駄目なのだ。喧嘩をしたければ軍服を脱いでやればいい。蒋介石がどう考えているかは知らないが、これは『戦争』なのだ。


「これは戦争だからな」


 一瞬考えを悟られたかと、畑は内心動揺したが、そのようなことがあるはずがないとすぐに否定した。


「その通りです。宣戦布告こそなされておりませんが、これは紛れもない戦争です」

「不戦条約か」


 松井が顔に嫌悪感を浮かばせる。


 パリ不戦条約(1928年)では欧州大戦を繰り返させないことを目的として、国際紛争の解決手段としての戦争行為を放棄した。しかし欧州はともかく、ここ極東においては常に戦火が絶えない。現に今がそうではないかというのが松井を初めとした多くの陸軍主流派の考え方だ。


「あれだけの戦火を経験しておきながら、いかにも欧州人らしい空論だ。条約を結べば、この世から戦争が消えるとでも言うのか。馬鹿馬鹿しい」

「条約を批准した以上、日本もこれに従わざるを得ません。私の個人的意見はともかく、計画殺人と正当防衛による結果としての殺人行為に差があるように、戦争も定義付けをしようということかと。釈迦に説法ではありますが、近代国家における戦争は事前の用意がなければなしえません。侵略戦争という計画殺人の否定に意味はあると考えます」

「計画殺人か。ならば計画的な正当防衛は許されるのかね」


 言葉に詰まる畑に、松井は「蒋介石にもそれが通じればよいがな」と皮肉っぽく続けた。


 畑はその言葉に、礼を欠くとは知りつつも松井の顔を凝視していた。陸軍有数のシナ通であるはずの松井から、蒋介石を揶揄するかのような発言が出たからだ。


 松井は茶碗の中身を呷りながら続けた。


「……貴官は私を政治活動に奔走する政治屋軍人だと思っているのだろうな」

「司令官、それは」

「よいのだ。事実だからな」


 松井は茶碗を置くと、両手を机の上で組んだ。


「日清戦争の頃だ。当時の川上操六大将は帝政ロシアの南下を不可避だと判断し、これに日支連携してあたるべきだと訴えられた。私もこれに賛成した」

「つまり閣下の支那善隣外交のそもそもの動機は、対ロシア戦略を考えた両国の連携だったと?」

「少なくとも清の頑迷な体制が改革されなければ不可能だとは考えていたがね。結局最後まで変わらなかったが」


 「孫中山先生ならばと期待して裏切られ、蒋介石ならと期待して。そして裏切られるの繰り返しであった」と、松井は組んだ手を弄りながら数え上げていく。


 「自分ではない他人を勝手に期待するほうが間違っているのかも知れぬ。それはわかっている、わかっているのだが……」


 松井は空になった茶碗を手に取ると反対にして机に伏せた。赤焼けた顔とは裏腹に、その目に先ほどまでのような酔いは見られない。


「かつて抱いた夢と希望、半世紀以上もその実現に向けて努力してきたのだ。その結果が今の様ときている。日本国民はおろか、大陸の人民にも租界の外国人にも不幸な結果しかもたらさなかった。私の半生をかけてやってきたことがすべて無意味だったということになる」

「……恐れながら総司令官。仮にその信念を通されるのであれば、やはり閣下は軍服を脱がれるべきだったのでは」

「まったく。貴官は本当に、本当につまらぬ男だな」


 「だからこそ信頼出来る」と呟きながら、松井は軍刀を握りながら席を立つ。そのまま老酒の入った甕の前に歩み寄った。


 何をするのかといぶかしげに畑が視線を向けるが、松井は甕をじっと見つめながら再び語り始めた。


「これは蒋介石から貰った老酒だ。あれが浪人時代、当時の田中(義一)総理との面会を斡旋した礼としてよこしたものだ」


 糯米(もちごめ)などの穀物と薬草を原料とした醸造酒である老酒は、古いものほど風味が慣れてくることから珍重される。甕の色からして相当古いものだろう。それを御礼として渡したということは、それだけ蒋介石が松井の協力に感謝していたということだ。


「若い頃の夢に酔い続け、彼らを中国人で一絡げにあつかい、目の前の彼らを個人として見ていなかった。彼らは日本人を理解した。しかし私達は……いや、私は何もわかっていなかったのだろう。彼らの愛国心や考えを、日本のために利用しようとしていただけなのだ。だから私も利用された。ただそれだけのこと……」


「だが夢はいつか覚める」


 あっ!と畑が声をあげる前に松井は軍刀を振り上げて、その柄で甕を叩き割った。嫌な甲高い音がもれ、破片とともに中に残った老酒が辺りに飛び散った。


 軍服に老酒の染みがにじむのにもかかわらず、松井は内心から溢れんばかりの感情押し殺したような低い声で断言した。


「王道と覇道、亜細亜のための亜細亜、そんな言葉遊びはもうたくさんだ。私の名前が歴史の汚泥にまみれようとも、必ずここで終わらせて見せる」


 畑は老いたるかつての日支友好の闘士の後姿に、最敬礼で応じた。



 大日本帝国政府(以下日本政府)は、昭和12年(1937年)11月1日正午。中華民国政府(南京政府)に対して以下の要求を行った。


・日本政府および日本の国民に対する憎悪・軽蔑を扇動する出版を取り締まること。またテロ行為を奨励する言動を禁止すること。


・藍衣社とそれに附属するテロ団体を解散し、宣伝のための手段や資産を没収すること。三民主義力行社(中華民族復興社)、中華民国国防部軍事情報局は帝国政府に対するプロパガンダを即時停止すること。同様の目的を持って結成された組織も同様にすること。


・昨年7月の日本人民間人殺害事件(萱生事件)の徹底調査、また同月の日本領事館警察銃撃事件に関与した警備兵と責任者の解雇(中略)、広西省政府の日本人追放令に関与した省政府の幹部と職員、軍人を解雇すること。


・テロ行為に関与した犯人、および支那領で見つけられる可能性のある共犯者を法廷尋問すること。一連の裁判は公開とすること。


・日本政府に対するプロパガンダを助長しているもしくは助長する恐れのある全てを(教師と教材を含む)中華国民政府の公教育から速やかに削除すること。


・日本人へのテロ行為を主導した中国共産党の関係者(党籍のある人物)の公職からの追放。党籍がなくても日本政府が行った予備捜査により浮かび上がった人物は関係者であるため即時に追放すること。リストは次のとおり(省略)


・武器と爆発物の違法売買の取り締まり強化。ならびに流通を効果的な方法により抑制すること。


・満洲国政府を、東三省(遼寧省・吉林省・黒竜江省)を代表する『行政府』として承認すること。また満洲国政府と中華民国政府との間で速やかに『領域』の確定交渉を始めること。


・国内国外を問わず、帝国政府に敵意を示した中華民国政府高官の陳述書を届けること。


・全てについて実行する手段を、遅滞なく日本政府に知らせること。


以上


これら全ての要求が48時間以内に受け入れない場合、日本政府は自由行動を宣言する。


11月3日の午後6時までに解答されたし。


- (日付空欄)川越茂大使(駐華大使)が、国民政府外交部長の王寵恵に渡す -


  (書込みあり)受け入れるか?駄目だろこれは!

      戦争! 戦争!  


- 日本国政府外務省 外交文書アーカイブス 『発 帝国政府 宛 中華民国政府 最後通牒最終草案』 -



『これで大統領閣下の史上初の3選は間違いなしですな』


 傲慢で鼻持ちならない英国趣味丸出しで知られる駐米大使の吉田茂は、葉巻をくわえながら自分の「ありえるはずもない」発言にガハハと大きな口をあけて笑って見せた。コーデル・ハル国務長官はそれを妙なものを見る目で見ていた。


 上品なのか下品なのかよくわからないこの東洋人は、その毛の生えた心臓を武器に縦横無尽にワシントンDCを飛び回り、いつの間にか個人的な人脈をあちこちに広げている。連邦捜査局長官-あの忌々しいフーバーの調査によると、連邦議会の民主・共和両党の上下両院の有力者、軍部に財界、マスコミ業界まで手を伸ばし、出席した会議は数知れず。下手をすれば国務長官に専念せざるを得ない自分よりも、顔だけは広いかもしれない。


 日本の歴代駐米大使はどちらかという、英語力はともかく自己主張に乏しかった。そのため吉田のキャラクターは、良くも悪くも政界で受け入れられた。彼のチャイナ観は時に物議をかもし、人権派や国際協調主義者と猛烈な論争にもなったが、黙して語らずを美徳とする日本人の本音を率直な英語で語る吉田はきわめて貴重な存在であり、その性格には皆が辟易しながらも、討論会や座談会ではなくてはならない存在となった。


 その吉田が上海における武力紛争の和平仲介を依頼してきた時、肝心のフランクリン・デラノ・ルーズヴェルト大統領は乗り気ではなかった。


 もともと孤立主義を維持してきたアメリカにおいて、外交は政治的な得点にはつながらない=選挙の投票行動に影響しない。日本もチャイナもアメリカにとっては同じ顧客でしかなく、あえて仲裁をすることでどちらからも恨まれたくはなかったし、仮に失敗すれば中間選挙を前に共和党の攻撃材料となりかねない。ルーズヴェルト個人としては、余計な外交事案に手を出して失敗したくはなかったのだ。


 ハルは極東におけるアメリカの存在感を示す好機であると考え説得にあたろうとした。ところが大統領の説得のために順序立てた手続きを踏んでいる間に、なんと吉田はホワイトハウスに日参を繰り返し、何をどう口説いたものやらルーズヴェルト大統領をその気にさせた。ノーベル平和賞だの日系人の票だの、とにかくありとあらゆることを耳元で毎日のように吹き込んだらしい。


 ハルとしては大統領がやる気になってくれたのはありがたいのだが、それが他国の大使によってもたらされたというのは、いささか-というかかなり業腹だったのも事実だ。


『しかし国民政府軍もずいぶんと思い切ったまねをしましたな』

『着の身着のままの数万の兵士-いや、元兵士ですか。軍閥出身者や馬賊も混じっておりますからな。無理もありますまい』


 9月17日の深夜、日本の上海派遣軍は上海郊外の通称ゼークト・ラインを突破。各地で孤立した国民政府軍が次々と降伏。日本軍は武器弾薬を没収とした上で、その多くを解放した。


 戦時国際法の捕虜取り扱いに関する条項から考えると異議の残る対応ではあったが、日本軍は数万単位の捕虜を念頭においておらず、派遣軍が東京の陸軍省と参謀本部の裁可を仰いだ上で「人道的にやむを得ない緊急手段」としてこれを選択した。


 ところがここから相手側の国民政府軍の混乱が始まる。


 8月頃から蒋介石は敗北の理由は国内の「漢奸」に責任があるとして、スパイの取締りを強化。国民政府の支配下にある都市や村落においては毎日十数人単位が処刑され、その中には政府官僚も含まれていた。


 いくら戒厳令を布告しているからといっても情報の秘匿は難しい。噂はたちまち広がりをみせた。


 そんなところへ日本軍の捕虜から解放された元国民軍兵士数万が帰還し始めたのである。南京に戻り軍の立て直しと体制の引き締めに躍起となっている蒋介石には悪夢であり、漢奸狩りを担当する諜報機関にとっては、格好のいけにえであった。


 結果、南京の治安は悪化の一途をたどる始末で、再度の決戦を唱える蒋介石の意気込みは空回りする始末である。


 そして日本軍は上海とその郊外の治安維持に取り組むばかりで、不気味な沈黙を保っていた。


『して、本日はいかなる御用で』

『そうそう、実はこちらをお渡ししようと思いましてな』


 日本軍の意図を確認しようとしたハルを手で制した吉田大使は、ご丁寧に鍵のかかったドイツ製の鞄からファイルに閉じられた褐色の書類を取り出した。


 それを手にして表題を見た瞬間、ハルの顔から血の気が引いた。


『帝国政府は11月1日、日本時間正午をもって中華民国政府に対して最後通牒を通告いたします。48時間に回答が受け入れられない場合、自由行動に出ることを宣言いたします。どうぞご確認ください』


・お亡くなりになられたのが2016年。またひとつ、昭和は遠くなりにけり。

・松井石根は超エリート軍人。というか蒋官とかいう単語が出来る前に陸軍大将になった人なんですしね。当たり前といえば当たり前なんだけど

・鈴木貞一さん大活躍。なお上陸の活躍をアピールすることで鈴木個人が海軍に恩を売るように動いている如才のなさ

・非政治軍人の畑ですら、実際陸相になったら米内内閣倒閣の引き金をひかざるをえなくなったという。阿南さんが閑院宮総長の書簡を書き換えて出した疑惑があるそうな。畑「宮様への配慮もあるので一旦辞表を出すけど、却下してくれ。そしたら留任するから」米内「わかった」だけど実際には受理した米内首相(あくまで畑の主張)。あちらもこちらもわけわからん時代

・蒋介石は恩知らず。「だけど一方的に期待した日本人もおかしいんですよ」(東西新聞のグータラ記者風に

・テロリストを甘やかしちゃいけないという教訓。なお他のはもっとひどかったりする。どうすりゃいいんだ。

・相手がえっげつないやり方平気でしてくるのに、こちらは手足縛られて戦えって。そりゃ不戦条約違反なのはわかってるけど「一激論」が出てくるのも仕方がない。

・なお、上陸の司令官より老酒で汚れた部屋の清掃代を要求された模様

・吉田さんが楽しそうで何よりです

・ハルちゃん頑張れ

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― 新着の感想 ―
[良い点] 畑俊六陸軍中将の何処までも有能な野戦指揮官ぶりを丁寧に書いて頂けて大満足です。 この方は、政治に関わらない限り有能かつ誠実極まりない職業軍人でいられる 鈴木大佐宣伝戦巧妙すぎる。こんな人も…
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