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何も銑十郎元帥  作者: 神山
林銑十郎とは(日本の陸軍軍人の項目より移動)
1/59

林銑十郎(フリー百科辞典より引用)-関連項目(昭和の陸軍軍人・日本の内閣総理大臣etc)

『我々の記憶に残るのは規則を守った者では無く、破ったものである』


D・マッカーサー(1880-1964)


林銑十郎  (はやし・せんじゅうろう)


生没年 明治9年(1876)2月23日-昭和32年(1957)2月4日。


(写真)


写真は昭和13年(1938年)東西グラフ6月号の表紙。

社会保障政策の遅れと、その特徴的な髭を皮肉ったものとみられる。


概要


 日本の陸軍軍人、政治家。元帥陸軍大将。朝鮮軍司令官時代に無断で軍を動かしたことから『越境将軍』の異名で知られる。斎藤実内閣と岡田啓介内閣の陸軍大臣を務めた後、2・26事件では軍事参議官として武力鎮圧を主張。内閣総理大臣(第32代・第33代・第34代)として日中戦争と第2次世界大戦に臨んだ。退陣後は枢密院議長(1944-56)。第2次内閣の途中まで外務大臣と陸軍大臣を兼任した。


生涯


 林は石川県金沢市に士族(旧加賀藩士)の子として生まれる。弟に内務官僚の白上佑吉(内務次官)がいる。元々は軍人志望ではなかったという。


 金沢市尋常師範附属小学校から、明治27年(1894年)7月に日清戦争が始まると四高補充科を中退。士官候補生となり陸軍士官学校(8期生)に入校する。明治30年(1897年)に少尉任官。歩兵第7連隊付となる。明治36年(1903年)には陸軍大学校を卒業した(17期)。なお17期において首席で卒業したのが渡辺錠太郎である。


 この経歴からもわかるように林はいわば陸軍における途中入社組であり、私費でドイツに留学するなど欧米通として知られていたが、決して陸軍本流というわけではなかった。また軍におけるイスラム教研究の第一人者でもあり、後に大日本回教協会の会長を務めた。


 日露戦争に従軍し歩兵第6旅団副官として旅順攻撃に参加。乃木希典第3軍司令官から感状を与えられたが、勇猛果敢なタイプというより沈思黙考する気質であったという。


 朝鮮軍司令官時代は最後に聴いた意見に従う「後入斎」とも揶揄されたが、それは無口で説明下手、おまけに派閥の後ろ盾もないと三拍子揃った林が、中央情勢や官衙における権力闘争に疎かったためである。


 相手を机上訓練や論戦において論破することに血道を上げる当時の参謀からすれば、寡黙で威厳がありそうに見える見事なカイゼル髭の林は、格好の神輿であった。何より決断した後の林はあれこれ考えずに問題解決に尽力し、外から何を言われても揺らがない精神力(無神経とも揶揄された)は彼らにとっても望ましいものであった。


 第1次世界大戦の終了後、世界的な軍縮の流れを受ける形で陸軍も山梨半造・宇垣一成両陸軍大臣による組織再編と整理縮小が行われたが、外様であり派閥との関係性も乏しい林は真っ先に予備役編入候補となった。しかし大正14年(1925年)5月の将官演習旅行において歩兵第2旅団長であった林は抜群の成績を見せたことから、現役に留まった。


 この時に陸士幹事として林の現役続行を主張したのが真崎甚三郎であった。口八丁手八丁だが人望のない真崎と、優柔不断で寡黙な林は気があったらしく、後に政治的な立場を違えた後も交流は続いた。


 林は17期の陸軍三長官(陸軍大臣・参謀総長・教育総監)候補として軍大学校校長、教総本部長、近衛師団長を経て朝鮮軍司令官に就任した。


・越境将軍から陸軍大臣に


 満洲事変(1931年)勃発当時に朝鮮軍司令官であった林は、強硬派の神田正種参謀の進言を受け入れる形で、中央の許可(当時は立憲民政党の第2次若槻禮次郎内閣であり、陸相は南次郎・金谷範三参謀総長の大分コンビ)がないままに朝鮮派遣軍を満洲に進めた。


 本人は勅裁を受ける前の国外派兵は統帥権干犯であることから反逆罪も覚悟していたというが、幣原外相の対中融和外交への不満が充満していた本土の新聞は、越境将軍の異名をもってこれを讃えた。金谷範三参謀総長から「命令が出るまで増援はならぬ」と命令されたことに対して「意外なる命令あり」と日記に記したともされ、実際に越境将軍がいかなる心情でこの事態に臨んだのかはわかっていない。


 少なくとも事件発生直後の関東軍のみの戦力では、満洲軍閥に数の上で対抗できなかったのは確かであり、満洲事変の成功を決定づけた独断専行であった。



321 名無しの落ち武者 2018/01/8(月) 21:10:40.05 ID:Bipp2MUJi

金谷参謀総長「いくなよ!絶対行くなよ!」

林司令官「え?それフリ?」

南陸相「ちげーよ!」


322 名無しの帝国軍人 2018/01/8(月) 21:11:50.07 ID:+H9qqqTR

コントかよwww


323 第四帝国 2018/01/8(月) 22:38:29.14 ID:t3qapiGI

ショートコント『越境将軍』


324 名無しの首かり族 2018/01/8(月) 22:50:11.18 ID:ewww0Ep

>>323

やめいwww



 直後に陸軍大将。若槻内閣は総辞職し、変わった政友会の犬養毅内閣において陸相に就任したのが、青年将校から圧倒的な支持を受ける荒木貞夫であり、これを真崎甚三郎参謀次長が支えた。真崎は陸軍中央から宇垣閥を一掃したが、真崎との個人的関係や派閥と距離を置いていた林は当然ながら現役に留まった。真崎としては『越境将軍』の名声を利用したい思惑があったと思われる。


 犬養内閣がテロにより総辞職し、挙国一致内閣である斎藤実内閣が成立したあとも荒木貞夫陸相は留任したが、病気により辞職(1934年)。真崎の強引な人事に内外から批判が高まる中、林が陸軍大臣に就任する。


 当初は真崎との個人的な関係もあり荒木-真崎のラインに近いと思われていたが、次第に人事において独自色を強めた。そのため統制派(反真崎派)の永田軍務局長の傀儡であるとも囁かれた。実際には同期の渡辺錠太郎教育総監や、同郷の阿部信行(軍事参議官)らの補佐を受けていたともいうが、個人的な関係とは別に真崎ラインの排除を行った。


 岡田啓介内閣でも陸軍大臣に留任するが、省内の派閥対立悪化に指導力を発揮出来ず、陸軍省内で発生した相沢事件を受けて辞任(1935年9月)。軍事参議官に退いた直後に『脳卒中』を発症する。


 意識回復後に「今は何年か」と記憶の混乱も見られたことから、3ヶ月ほど休養した。療養後の林は以前からは想像出来ないほど積極的になったとされる。また疎遠となっていた弟の白上とも頻繁に面会するようになった。



「……なんでお前、逮捕されてないんだ?!」

「久しぶりに会った実の弟への第一声がそれか!」



・2・26事件における行動


 2・26事件(1936年)の際、いち早く反乱軍の動きを察した林前陸相は、降りしきる雪の中を自ら運転する自動車で帝都を駆け回り、渡辺教育総監を『救出』した。敵前逃亡はしないと移動を拒否する渡辺に、林は拳銃を突きつけて同意を迫ったとされる。渡辺は「なぜ陸相在任中にその度胸を見せなかったのだ」と嘆きながらも、これに従った。


 なお弟の白上佑吉(当時は内務省警保局長)も自ら武装警官を率い、前日に駐日大使ジョセフ・グルーとの映画鑑賞中の斎藤実内大臣(前首相)と高橋是清蔵相を、半ば連れ去るようにして『救出』している。そのため斎藤内大臣などは「林前陸相がクーデターの首謀者」であると考えていた。都内各所を襲撃した反乱軍は、後藤文夫内務大臣を殺害した(鈴木貫太郎侍従長は重傷ながらも一命を取り留めた)他は、ほとんどの主要目標を逃したことで士気が低下していた。


 事態打開のため開かれた軍事参議官会議において、林は即時鎮圧を主張。「貴様は青年将校より逮捕要求が出ている」と批判した真崎に「いつから反乱軍が戒厳司令部になったのだ!」と机を叩いて反論するなど激論を繰り広げ、躊躇する川島陸相を「さっさと鎮圧せい」と怒鳴りつけた。昭和天皇の断固たる姿勢もあり、発生から3日ほどで事態は収束する。


 林の朝鮮軍司令官時代を知る石原莞爾(当時は参謀本部作戦課長)は「張子の虎が本物の虎になった」とこれを評した。


・第1次林銑十郎内閣(1936年3月9日-1939年3月12日)


 直前の総選挙(第19回衆議院選挙)において事実上の与党である立憲民政党が大勝していたにもかかわらず、2・26事件のため岡田啓介内閣は総辞職。政党内閣には軍部が反対であり、良くも悪くも中立と見られていた広田弘毅外相は確固たる与党を作れず大命を固辞した。


 元老の西園寺公爵は「陸軍の綱紀粛正(粛軍)には陸軍を以てあたるしかない」という方針の下、陸軍の重鎮である宇垣元陸相ではなく林を後継総理候補とした。斎藤内大臣ら宮中にも異論はなく、『越境将軍』の実像から、いざとなれば傀儡に出来ると考えた陸軍、および旧岡田内閣を構成した勢力の支持をうけて林は現役の陸軍大将のまま第32代内閣総理大臣に就任した。


 石川県出身者としては初めての総理大臣就任であり、地元では提灯行列が検討されたが、林自身が「非常時であるので遠慮してもらいたい」とこれを阻止させたという。


 陸軍大臣には教育総監の渡辺をあてるとおもわれていたが、林は閑院宮参謀総長に「事件の責任を取るため」として勇退を願い、寺内寿一大将を後任として陸相は自ら兼任とした(渡辺は教育総監に留任)。参謀次長には作戦屋として知られる旧真崎派の小畑敏四郎少将を、宮中も含めた反対を押し切り就任させる。大雑把な坊ちゃん気質であるが基本的には人の良い寺内と、能力はあるが人望は無い秀才肌の小畑のコンビで日本は日中戦争に臨むことになる。


 陸軍省では梅津美治郎を陸軍次官とし「人事は任せる」として粛軍人事を断行させた(→粛軍を参照)。その規模は「17期以降はしばらく三長官候補が出せなくなる」という苛烈なものであり、軍内部には不満が充満したが、宮中やその他の諸勢力の支持を受けてこれを断行した。


 前述した石原莞爾も満洲組(事前計画に関与したと思われる将校や佐官)と共に退役させられ(石原は軍事評論家に転身)、日記において林を罵倒した。



397 名無しの落ち武者 2018/01/8(月) 23:10:00.05 ID:Bipp2MUJi

林元帥の「何もせんじゅうろう」って批判、最初に言い出したの石原莞爾だったっけ?そんなことねえよな。


粛軍人事は梅津か


真崎に宇垣四天王クビにさせて

陸相時代には永田と真崎が勝手に大喧嘩

2・26事件で陸軍の過激派一掃(梅津将軍)


あれ?カイゼル禿なにもしてなくね?


398 名無しの帝国軍人 2018/01/8(月) 23:11:12.00 ID:+H9qqqTR

>>397

何を今更www


最初の出典は当時大阪に本社のあった日刊新聞社に寄稿したコラムだな。満州の軍神(w)様が


399 第四帝国 2018/01/8(月) 23:14:21.11 ID:t3qapiGI

いまじゃ満州は何にも残ってないしな(満州人脈除く)

石原将軍は話は面白いんだけどね。日米最終戦争とか。

それに「何もせんじゅうろう」って、言いえて妙なんだけどさ。基本的に政策は丸投げだし、確かに何もしないで全部持っていきやがったし。


400 名無しの帝国軍人 2018/01/8(月) 23:19:00.05 ID:+H9qqqTR

>>399

愛新覚羅家は未だに亡命政府名乗ってるらしいけど。

石原将軍の書いた新聞コラムを切り抜いて額縁に飾ってから、公邸に招待した話好き

なお、大佐で退役した(させた)軍神を「石原将軍」と呼んだのは林元帥が最初らしい。(ソースは町田忠治回顧録)


401 亡命政府副首相代理心得補佐代行 2018/01/8(月) 23:29:13.05 ID:+HomkiqTR

>>400

あのカイゼル禿はwww



 これに伴い海軍も陸軍との関係もあり伏見宮軍令部総長が勇退し、海相候補であった永野修身が就任した(海軍大臣には米内光政)。こうした軍部大臣人事に合わせ、阿部信行(陸軍大将)を内閣書記官長(後に内閣官房長官に)としたことや、外務大臣と陸軍大臣を首相の林が兼任したことから『加賀幕府』とも揶揄されたが、日中戦争(第2次上海事変)の際にはこれが功を奏した。


・経済閣僚


 林は施政方針演説において自らの経済財政政策を「財政当局と金融当局、そして経済界が三位一体となり経済成長を目指すものである」とした。この三位一体路線(インフレ目標・財政出動・統制経済の緩和)は林内閣の経済政策の柱となった。


 懸案の大蔵大臣には民政党総裁の町田忠治商工大臣を考えていたが、軍内部の反発が強かったことから日本興業銀行総裁の結城豊太郎をあてた。日本銀行総裁に留任した深井英五、商工大臣の町田忠治と共に経済政策を一任したとされる。


 一方で「経済の素人」を自任していた林は、内閣参議に任命した高橋是清を財政金融政策の司令塔として予算編成の主導権も含めて丸投げしていたともされる。高橋は「死ぬまで扱き使われる」と自嘲的に笑ったが、実際に昭和18年(1943年)に89歳で老衰により死去するまで在職し、経済財政政策の舵取りをになった。


 自由主義的な経済観の既成政党の復活は、統制経済緩和を意味していた。そのため商工省を始め、総動員法制定により民間に対する影響力を強めたい古巣の陸軍からも猛反発を受けたが、林は「少ないケーキを分け合うより、ケーキを新しく作って配ろう」という方針の下でこれを押し切り、人事と合わせて反対派を粛清した。


 第1次内閣末期には『本土開発基本計画』の策定を宣言。政権交代に左右されず中長期的な国土開発を計画したものであり、後に内務省から土木部門を建設省として分離独立させた(1939年)。また本土開発基本計画は後の『全国総合開発計画』(全総)の基盤となった。政治的には「鉄道利権と土木利権のふたつで既成政党を黙らせる」狙いがあったともされる。


 経済成長を背景に林内閣は先の総選挙において第1党となった立憲民政党を事実上の与党とし、高橋是清に近い立憲政友会系議員の協力も得たことから衆議院においても安定した基盤を得ることに成功した。


・日中戦争(第2次上海事変)→日中戦争を参照


 日中戦争(1937-38)が中国国民党率いる蒋介石の戦争決意と先制攻撃から始まったことは論を俟たない。蒋介石には満洲事変を始め、冀東防共自治政府(粛軍人事により頓挫)などを許せば、それこそ大陸が分割されるという恐怖があったとされる。しかし先制攻撃は明らかなる国際法違反であるという観念だけがスッポリと抜け落ちていた。


 北京周辺で陽動をかける一方上海郊外に全土から動員をかけ、ゼークトラインに日本軍を誘引して決戦を強いようとした蒋介石の先制攻撃構想は、確かに第1次大戦の戦訓を十分に活かしたものであった。寄せ集めの軍閥集団も加わっていたとはいえ中国史において有史以来最大の動員を成功させたという点だけは評価に値するという意見もある(*誰の?)。


 小畑参謀次長は北京周辺の宋哲元の動きを陽動と看破。上海周辺における動員を察知し、事前に上海の海軍陸戦部隊に警戒を呼びかけるのと同時に、陸軍大演習を名目に密かに動員をかけた。8月には国民政府軍が上海に積極攻勢を仕掛け、少数の海軍陸戦部隊が孤立。閣議において米内光政海軍大臣からの派兵要請に、林首相は即座に賛成して陸軍の派兵を決定した。


 日本政府は大陸におけるたび重なる反日テロに悩まされており、これは林の言葉を借りるなら「テロとの戦い」であった。上海において孤立させられた陸戦部隊を救出した松井石根大将率いる日本軍は上海郊外のゼークトラインを突破。国民党の軍事顧問団を率いていたドイツ国防軍のファルケンハウゼン中将を捕虜とした。


 林総理(外相兼任)は貴族院本会議の答弁において「国民政府の不戦条約および九カ国条約の原則違反」を批判。先制攻撃をしたのは中国軍であるとして、中国各地に居留民が滞在する欧米各国の大使に、その非を訴えた。


 駐米大使の吉田茂は、アメリカのコーデル・ハル国務長官に和平の仲介を要請。蒋介石が領土の非割譲を前提とした日本側の講和条件を丸呑みしたことから、1938年(昭和13年)3月にはワシントン講和条約が成立した。反日運動やテロ活動の取締には疑問符がついたが、これにより国民政府は満洲国を東三省における行政府として承認することになった(国家としては承認せず)。


 戦後、林と松井石根司令官は男爵となった一方で、米内海相は爵位を辞退した。林・松井と寺内参謀総長、米内海軍大臣と永野軍令部総長はそれぞれ元帥となった。



475 名無しの帝国軍人 2018/01/9(火) 03:11:01.05 ID:+H9amwTR

葉巻の大使「これでノーベル平和賞ゲット出来ますよ」

薔薇大統領「で?」

葉巻の大使「選考委員会が受賞者を発表するのが来年の大統領選挙直前なんですよ」

薔薇大統領「なるほど、もっと詳しく」

ハルちゃん「閣下!」


なお、本当にゲットした模様(1939年)


476 亡命政府副首相代理心得補佐代行 2018/01/9(火) 03:20:03.05 ID:+HottqTR

>>475

林元帥「計画通り」


477 帝都新聞です 2018/01/9(火) 03:11:01.05 ID:+HaoWa8

>>476

嘘吐けwww



 1938年(昭和13年)5月にはイギリス政府が満洲を承認。この日英交渉(1936年より開始)において英国政府ではチェンバレン蔵相-フィッシャー大蔵次官が中心となり、日本側では結城豊太郎、次いで町田忠治蔵相と青木一男大蔵次官がカウンターパートナーとなった。


 イギリスはフィンランドをはじめとした北欧やバルト海の周辺諸国への軍事的圧力を強めるソビエトを極東方面から牽制するのと同時に、日本と協調して大陸における治安維持活動に取り組む狙いがあった。またチェンバレン蔵相はスターリングブロックへの日本の参加を呼びかけ、経済と軍事の両面で対日配慮を示した。駐英大使に抜擢されていた宇垣一成はすぐさまこの動きに呼応。林首相もこれを追認した。事実上の日英同盟への回帰であり、昭和天皇や西園寺はこれを喜んだとされる。


 日中戦争を通じて日本国内ではドイツの国民政府支援工作が周知の事実となり、同時期に摘発されたゾルゲ事件と重なってセンセーショナルに報道されたことから、反ドイツ感情が沸騰。親ドイツ派の元貴族院議長の近衛文麿公爵は政治的に失脚した。松岡洋右や石原莞爾などは逆にドイツへの姿勢が弱腰すぎると批判する有様であり、野党の社会大衆党や世論の多くもテロを繰り返した中国政府に甘すぎるとして批判的であった。


 これに対して林首相は議会答弁において「欧州情勢は複雑怪奇で私の手には余る」という迷言を残した。



【第72回帝国議会 臨時会 衆議院予算委員会議事録より抜粋】


斎藤隆夫予算委員長(立憲民政党)「鳩山一郎君」


鳩山一郎委員(立憲政友会)「総理のドイツに対する外交姿勢を重ねてお伺いします。今回ドイツは、明らかに帝国政府の要請を無視し、南京政府に肩入れしていたのです。これは疑いようのない事実であります。ドイツ軍の前参謀総長の名前のついた要塞。何ゆえドイツ政府に対して直接抗議をなされないのでしょうか。いや、抗議はされているのかもしれませんが、なぜそれを公表されないのです。これでは『なにもせんじゅうろう』と批判されても仕方が無いではありませんか!」(野次多数)


斎藤隆夫予算委員長「林銑十郎内閣総理大臣」


林銑十郎総理「お答えいたします。何もしているようでしていない。していないようでいて、している。しかし、していないかもしれない。だけどしているかもしれない。それが外交というものだと理解している、かもしれないし、していないかもしれないわけでありまして(野次多数)」


斎藤隆夫予算委員長「速記を止めてください。速記を止めて……おい河野の小僧、さっきから煩いぞ!黙れ!机を靴で叩くな!!」


河野一郎代議士「黙れとは何だ!黙れとは!この鼠野郎!」


斎藤隆夫予算委員長「貴様こそ委員でもないのに、なぜそこにいるのだ!つまみ出せ!」


「委員長がそんなことを言っていいのか!」「職権乱用だ!」「何を言うか、この!」(野次多数)


林銑十郎総理「……というわけであります、まこと外交というものは人付き合いと同じく日ごろからの関係構築が大事であると考える次第でありまして」


(いわゆる『黙れ事件』である)



・第2次林銑十郎内閣(1939年3月12日-1943年2月3日)


 ワシントン講和条約を議会と枢密院が批准したことを受けて、昭和14年(1939年)2月に林首相は国民の信を問うとして衆議院を解散。(第20回衆議院選挙。ワシントン解散)。結果は好景気を背景に与党の立憲民政党と、分裂した政友会の親林派である昭和会系勢力が大勝した。


 選挙後、林首相は宮中に対して辞表を提出。再度大命降下をうけて組閣した。これが総選挙ごとに辞表を提出する慣例の始まりとされる。


 制度改正により新設した事務方の内閣官房副長官(内閣書記翰長に相当)に、大蔵省三羽烏の一角である石渡荘太郎大蔵次官を任命。省庁再編と都道府県知事公選導入法案を取りまとめさせた。


 厚生省と建設省・労働庁の創設や、警察部門の切り離しなど多岐に渡る再編案は事実上の内務省解体といってもよく、内務省の反発は強かった。しかし林首相の実弟である白上元次官(当時は民政党代議士)を始め「党弊から逃れるためにはやむをえない」という意見もあったことから、これを押し切った。当然ながら大臣ポストの増える既成政党は賛成した。


 また陸相と外相は相変わらず林首相の兼任とし、大蔵大臣に民政党の桜内幸雄。この他にも農相・商工相など経済閣僚の多くが政党出身(民政党と政友会昭和会系)で占められた。官僚出身大臣は数を減らしたが、初代厚生大臣には統制経済緩和をめぐり、町田商工大臣(当時)と対立して更迭された岸信介が就任。国民皆保険制度導入に向けて手腕を振るい、続く労働大臣としても労働関係三法案制定に八面六臂の活躍をした。


 これにより岸は大麻唯男幹事長の仲介により、旧敵であるはずの民政党に総裁候補として三顧の礼を以って迎え入れられることになる。


 昭和14年(1939)3月、林は省庁再編の功績により子爵に陞爵した。


・第2次世界大戦勃発と局外中立


 1939年5月より満州-モンゴル国境のノモンハンにおいて満洲国軍と日本軍が、モンゴルとソビエト連邦軍と衝突。一触即発の状況に陥ったものの、関東軍司令官の植田謙吉大将は林首相兼任陸相と寺内元帥から「動くな」と訓示されていたことから慎重に行動を進めた。


 中でも寺内参謀総長は5分おきに連絡を入れて「動くな」「動くこと林の如く、動かざること林の如く、考えないこと林の如く、不毛なること林の頭の如く」「とにかく動くな」と厳命し、これに抵抗した辻政信参謀は即座に解任された。


 9月には第2次世界大戦が勃発。ノモンハンにおいてソビエト軍とのにらみ合いを続ける日本政府は局外中立を宣言した。モスクワにおいては日本の東郷茂徳・駐ソ特命全権大使とソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣との間で停戦交渉が断続的に続けられたが、一向に折り合いがつかないまま、ソビエト軍の先制攻撃により6月と9月の2回にわたり会戦が発生。日ソ両方共に大損害を受け、翌40年を迎えた。


 3選を果たしたばかりの『平和の薔薇』ことフランクリン・ルーズベルト大統領が仲介に乗り出したが、今回ばかりは林も強硬姿勢を崩さず、一歩も譲らなかった。


 昭和15年(1940)6月に独ソ戦が開戦。これによりモスクワはすぐさま和睦交渉を日本に呼びかけたが、林はソビエト連邦の国家としての正式な謝罪や満洲の承認、北樺太の割譲などを要求してこれを一蹴した。しかしこれは国内的なポーズであり、内々にはアメリカを通じて受け入れを表明していた。


 隣接する中国大陸は、蒋介石が下野した後に南京政府主席となった汪兆銘と、それに反対する国民党軍部、地方軍閥や共産党も入り混じって内戦を繰り広げており、日英両軍は揚子江沿いの居留地や満州などの治安維持で手一杯であり、ソビエトとの対立継続(満洲への動員の継続)は、大陸情勢の悪化をもたらす可能性があったからである。しかし和平の細部で折り合いがつかず、正式な停戦合意となるアラスカ条約が締結されたのは昭和15年末のことであった。


 林は紀元二千六百年記念式典とアラスカ条約締結の功績により伯爵に陞爵する。駐米大使の吉田茂と駐英大使の宇垣一成も男爵を与えられた。吉田は昭和15年(1940年)に外務大臣に就任。渡辺朝鮮総督と共に、第2次大戦中の極東情勢を差配した。


・両洋経済共同体


 おりしも第2次世界大戦による国家総動員体制がユーラシア大陸全土で続いている中、満洲から朝鮮半島、大陸沿岸部と日本は「日本海経済圏」として好景気に沸いていた。長引く中華民国政府の内戦ですら懸念材料とはならず、むしろ経済成長の糧となった。各勢力に軍事物資から民需品まで、満遍なく売りつけ「幅広く暴利を貪った」とアメリカの新聞に揶揄される。


 また長年の仮想敵国であった米国とは昭和15年(1940年)に締結したハワイ海軍協定により、トラック・グアム・ハワイといった、太平洋における両国海軍の重要拠点の相互訪問が行われ、緊張緩和が図られた(後に日米同盟の基盤となったハワイ海軍条約につながる)。なおこれに反対する海軍省や軍令部の強硬派は米内海相により粛清された。そのため米内は「陸軍の犬」「林の男妾」(全て嶋田繁太郎軍令部総長)と批判され続けた。


 これによって太平洋諸国全体が、東は北アフリカから、中東、インド洋を経て英領インドにインドシナ半島、東南アジア、日本海経済権と太平洋を挟んでアメリカの西海岸までも含めたひとつの巨大経済圏に結ばれた。林はインド洋と太平洋にまたがったこの地帯を『両洋経済共同体』と呼称した。


 アメリカは英国への軍事支援と引き換えに、カナダやオーストラリア、ニュージーランド、そのほかの英国植民地に市場開放を迫った。日本もアメリカ企業に便乗する形で積極的に進出する。また本国政府が敗戦した、もしくは亡命・降伏しているにもかかわらず、仏領インドシナ政府や蘭領東インド政府など東南アジア諸国の植民地政府も存続を認められた。


 これらの政府は権益や資源を切り売りしながら存続を図り、亡命政府を支援した。この巨大経済圏においてはアメリカ・ドルが事実上の基軸通貨となり、戦後のポンド没落を決定付けた。またドルを保障するのはアメリカと日本の圧倒的な海軍力、そして日本海経済圏の円であった。


 一方で単独でドイツとの戦いを続ける英国は、日本と米国による植民地経営の安定(抵抗運動への威圧と不干渉)により、アジアやインド方面の戦力の大部分を引き上げることに成功。陸軍は北アフリカにおいてエジプトを死守し、ドイツ・イタリアの枢軸軍を圧倒。東インド艦隊を始めとした海軍戦力は、ナチスドイツの本土上陸作戦を幾度となく阻止した。


 経済圏で結ばれたとはいえアメリカ西海岸は遠く、自然とその中心地として貿易や工業の中心に位置付けられた日本は空前の好景気に沸いた。昭和14年(1939年)からは年率10パーセント以上の経済成長を5年連続で達成。かつての敵国たるソビエトには高利で資金と武器を提供し、植民地政府と独立派の両方に物資を売りつけながら軍事力を背景に「武力衝突をすれば即座に双方共に鎮圧する」と威圧する様は、イギリスの新聞に『東洋のシャイロック』と揶揄された。


 各植民地の独立強硬派は「日米が新たな帝国となった」と批判したが、被支配層の中でも経済成長の恩恵を就職や給与の面で受けた者から次第に融和派へと傾き、強硬派や共産主義系の勢力は衰えた。


・第2次世界大戦への参戦


 1942年(昭和17年)8月15日。ソビエトとイギリスが、ロシアと北アフリカで大量の出血を伴いながら枢軸国との戦いを続ける中、ハワイ真珠湾において両国の歴史上初めてとなる日米首脳会談が行われた。


 両首脳は1年以上に及ぶ事前交渉において、太平洋憲章の制定と国際連盟に変わる新たな国際機関の設立を共同会見で宣言。20世紀の残された半世紀を、「戦争と貧困に満ちた欧州の時代から、平和と活力に溢れるアジアと太平洋の時代にする」(林首相)と宣言した。事実上、アメリカの覇権(ドルの基軸通貨化とアメリカ軍の優先的な地位)を日本が認めた上での国際新秩序建設の宣言であり、内外でさまざまな反響を呼んだ。


 日本は当然として瀕死の大英帝国やソビエトもこれに賛同。枢軸国の多くはドイツに従いハワイ宣言を無視したが、何故かイタリアがこれに賛成してムッソリーニが解任され、王太子派と頭領派の間でイタリア内戦が勃発する(1942-44)。


 イタリアの北アフリカ植民地政府は多くが王太子派に従ったこと、自由フランスがアフリカに点在するフランス領を制圧したことから、同年10月までにアフリカから枢軸国の勢力は撤退した。またスターリングラード攻防戦も佳境を向かえ、戦局は英ソを中心とする連合国有利に傾いた。


 1943年(昭和18年)1月1日。日米両政府はハワイ宣言を無視したナチス・ドイツを「世界平和と人類への深刻な脅威」と断定。ドイツのメキシコ政府への働きかけを挑発行為として、ドイツおよびその同盟国に対して宣戦を布告した。


 日本は大陸や大東亜共栄圏の治安維持を担いながら、陸軍からは畑俊六大将率いる4個師団を、海軍からは連合艦隊第2艦隊(派遣艦隊司令官・小沢治三郎中将)を派遣した。駆逐艦を中心とする護衛艦隊が米大西洋艦隊と共に、欧州までのシーレーンを護衛。「無駄飯ぐらい」と米内海相が自嘲した大和と武蔵を中心とする連合艦隊は、アフリカ希望岬を越えてグレート・ブリテン島の沖合いに布陣。その威容は、ほとんど単独でナチスドイツと戦い続けてきた英国人を奮い立たせた。


 畑大将はアイゼンハワー将軍率いるアメリカ軍と共にカレー上陸作戦(1943年2月)を実施。6月にはパリが陥落。7月までにフランス全土をほぼ解放した。西と東、そしてアフリカで4年近く激戦を続けてきたドイツ軍に、質量共に旺盛なアメリカ軍と日本軍に抵抗する方法は残されていなかった。


 自由フランスはヴィシー政府の降伏受け入れに抗議したが、日米はこれを無視した。インドシナ政府は両洋経済共同体において目覚しい経済成長を続けており、戦後には植民地政府と日米両政府、そしてベトナム・ラオス・カンボジアの3王国の当事者の間で分離独立が内々で検討されており、ヴィシー政府がこれを黙認していたためである。


 フランス政府は戦後、残されたアフリカ植民地をめぐり熾烈な内戦を続けた。


 ヴィシー政権の正式な連合国への降伏と同日の7月20日。国内予備軍司令部のフォン・シュタウフェンベルク大佐がヒトラー総統暗殺に成功。元参謀総長のルートヴィヒ・ベック上級大将とフォン・カナリス海軍大将は親衛隊幹部をはじめとした政権中枢を一斉拘束し、キールに臨時政府を発足させる。キール臨時政府はベネルクス3国を米軍が解放した9月3日に日米両政府に停戦を呼びかけた。


 日米両首脳は電話会談の後、これを基本的に受け入れることを表明。英国もこれを追認した。なおチャーチル首相はスターリンと自由フランスの抗議を無視、日米両政府に至っては「大統領閣下は食後の昼寝中であるのでかけなおして頂きたい」(ハル国務長官)「時差を考えろ時差を」(日本政府高官)と電話にも出なかったという。


 イタリアは相変わらず内戦を続けていたが、王太子派(臨時政府首班のディーノ・グランディ伯爵)が連合国への支持を表明していた。


 ここに事実上、第2次世界大戦はドイツ-ソビエト間を除いて終結した。


 10月4日。カサブランカにおいて連合国首脳会談(アメリカ・日本・イギリス)が行われ、ドイツとの停戦合意とソビエトとの仲介に一致して当たるとした。ドイツ・ソビエト間の戦闘は断続的に1944年4月まで続いたが、キール臨時政府の激しい抵抗と日米両政府の軍事圧力により、ソビエトも停戦を受け入れ、オーデル川沿いで自然休戦が成立した。


 ドイツ国内は帝政復帰派や共産主義者が各地で蜂起し、これに独裁政権を続けようとする軍事政権が威圧的に対応したことから、米軍が駐留しても60年代までドイツの情勢は安定しなかった。イタリアやハンガリーなど枢軸側の王政国家はそのまま存続したが、東欧やバルト三国、ポーランドなどはソビエトが勢力圏として傀儡国家を建てた。



488 亡命政府副首相代理心得補佐代行 2018/01/9(火) 03:39:22.11 ID:+HottqTR

カイゼル禿「傀儡政府なんて野蛮ですな」

☆書記長「貴様だけには言われたくないわ!!」


なお実話の模様


489 帝都新聞です 2018/01/9(火) 03:47:09.47 ID:+HaoWa8

>>488

どうしようもねえなあwww


490 名無しの帝国軍人 2018/01/9(火) 03:49:39.05 ID:+H9amwTR

やはりフサフサは無能でハゲは有能なんだな。


491 亡命政府副首相代理心得補佐代行 2018/01/9(火) 03:50:19.11 ID:+HottqTR

>>490

その光る頭…いや涙拭けよ



 日本は国際連合発足の創設メンバーとなり、アメリカ・イギリス・フランス・ソビエト(当初欠員扱い)と共に常任理事国に就任。満洲事変により失った日本の国際的地位を完全に回復した。


 林内閣は前年の総選挙で勝利し、第3次内閣(1943年2月3日-1944年4月3日)を発足させていたものの、カサブランカ会議への出席の後、体調が悪化。自分の内閣で経済閣僚を歴任した副総理の町田忠治を後継首相に推薦して辞任した。前後して死去した斎藤内大臣の後任に推す声もあったが、林は若槻禮次郎元首相を推薦。自らは枢密院議長に就任した。


 林は第2次世界大戦と国際連合結成の功績により侯爵となる。



511 名無しの帝国軍人 2018/01/9(火) 06:19:01.25 ID:+H9amwTR

林枢密院議長「まったく現地の軍人の暴走には困ったものですな」>越境将軍

若槻内大臣「…ひょっとしてそれはジョークのつもりですかな?」>満州事変当時の首相


なお実話の模様(若槻禮次郎回顧録)


512 亡命政府副首相代理心得補佐代行 2018/01/9(火) 06:20:33.05 ID:+HottqTR

>>511

ええかげんにせいよ、あの禿www


513 帝都新聞です 2018/01/9(火) 06:39:01.05 ID:+HaoWa8

>>512

知ってる。これ天丼っていうんでしょ?



・昭和大震災と吉田内閣発足(民自党体制)


 鳥取地震(1943)、南海地震(1944)、三河地震(1945)、南海地震(1946)を総称して昭和大震災と呼ぶ。一連の震災と津波により、40年代初頭から急速に進められていた列島各地のインフラや交通網は甚大な被害を受けた。


 高齢の町田首相は指導力を発揮出来ず、高橋是清死去後の民政党は、元来の市場経済に介入することを望まない姿勢に回帰したことから震災復興事業が停滞。外交面ではソビエトが第2次ノモンハン事変(1946年)を引き起こし、現地軍の奮戦により持ちこたえたものの、本土や朝鮮半島の混乱から後方支援に失敗。已む無く満洲を放棄せざるを得ない状況に追い込まれ、関東軍は旅順にまで退いた。


 高まる失政批判にクーデターがささやかれる政局に、町田内閣は昭和21年(1946年)に総辞職。後継首相には林内閣から外務大臣を務める吉田茂子爵(第2次大戦中の功績による)が就任した。吉田は同時に立憲政友会の総裁に就任し、翌年の選挙では10年ぶりに政友会が第1党に躍進した。


 結局吉田首相は7回組閣し、その政権は10年近くに及んだ。この間に政界再編により既成政党は民主自由党を結党。民自党政権が冷戦崩壊まで続いた。


 吉田は豪腕なワンマン体質のために政敵が多かったものの、駐日大使となったダグラス・マッカーサー元帥との個人的な友好関係や、駐米大使時代に作り上げた人脈を背景にアメリカから莫大な経済支援を引き出し、遅れていた震災復興を強力に推し進めることで日本を再度経済成長路線に乗せることに成功した。また満洲問題では、鴨緑江を事実上の停戦ラインとしてソ連と妥協した。


 李王家を再興させて半島を高麗王国として再独立させ、財政負担を軽減することも検討されたが、満洲を占領したソビエト軍との最前線となることから、半島独立は冷戦終結後まで先伸ばしされた。


 軍事面では膨張した陸海軍を整理し、空軍を創設した上で国防省を設置。軍政を一元的に管轄する制度改革を断行する。半島併合は明治天皇の遺産とされ反対も根強く、軍制改革反対派と共に幾度と無くクーデターが計画されたが、吉田内閣の後見人とされる林枢密院議長を始め、寺内と畑、米内と小沢の陸海の元帥全員が吉田首相を支持したことから、すべて失敗した。


 初代国防大臣には前田利為陸軍大将が就任。軍令の一元化を図った統合参謀本部長(初代は小沢治三郎元帥海軍大将)人事と合わせて、陸海空3軍のたすき掛け人事が繰り返された。そして吉田内閣以降、帝国日本においてクーデターは発生していない。


・枢密院議長辞任と死


 吉田内閣総辞職の直後、林は枢密院議長を辞任。伊豆に隠居した翌年に死去した。享年80歳。死去に際して当時の内閣は公爵への陞爵を検討したが、遺族により辞退された。


 国葬を以って送られたが、前年の渡辺元帥の国葬と比べるまでもなく参列した人数はまばらであり、山縣元帥国葬以来の税金の無駄遣いとも揶揄された。


 林の故郷である金沢城に建てられた騎乗姿の林の銅像の碑には、林の名前どころか元帥や総理大臣といった肩書きもなく、ただ『何もしなかった男』と刻まれている。揮毫をしたのは石原莞爾であり、林の遺言であったという。


 故郷鶴岡で隠遁していた石原は、この依頼を快諾した。真崎甚三郎は「なぜ俺ではないのか」と激怒したとされる。


・陸軍大臣辞任までは大体史実通り

・林と白上兄弟の正体はいったい何なんだろう(棒読み)

・日本が局外中立を貫いたWW2書こうとしたけど、戦後に東西両陣営から恨まれて殴られる未来しか想像できなかったので諦めた。中立いくない。

・大英帝国の本気(ただし日米の全力支援)見せてあげる!

・独立したきゃ自分の血を流せよというスパルタ日本。だけど旧植民地政府との橋渡しはするよ?

・だって行政担当能力が備わってないのに勝手に独立されたら、混乱して商売の相手にならないでしょ?

・え?それでも独立したいって?残念ながらそんな人とは商売したくならないなー(経済制裁+武力制裁カード)

・林「みんなで幸せ(金持ち)になろうよ」


不定期にこの世界観を前提にしたもの書いていきたいと思います。

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― 新着の感想 ―
[一言] 結局満州を失ってしまうのは悲しいですね。圧倒的な戦力差があるので仕方がないのですが。
[良い点] 高橋是清を本当に老衰までこき使う小説を初めて読ませていただきました(笑
[気になる点] 「軍事参議官」が「軍事参事官」になっています。
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