あなたを想うと、くるしかった。
久しぶりの投稿な気がします。自分の年齢が上がるので、主人公たちの年齢も上がる今日この頃です。
お時間あれば見てもらえたら幸いです。
※アルファポリスさまにも掲載しています。
「私、この前も言ったよね?なんで、できないの?」
ため息とともにそんな言葉が口から出た。その瞬間、山口真紀ははっとした。目の前の新人が泣きそうな顔をしていたから、ではない。その言い方が大嫌いな先輩にそっくりだったからだ。新人時代、嫌味な言い方に将来こんな風になるものか、と耐えてきた。けれど、今の言い方は先輩と瓜二つだった。
「…ごめん、言い方きつかった。もう、戻っていいよ」
真紀の言葉に新人は泣きそうな顔のまま、頭を下げ席に戻る。周りの目がこちらをちらちら見ているのがわかった。目の先には新人を気遣う同僚の姿が映る。
疲れているのだ、と思った。自分たちの生活は棚に上げ、結婚しろとうるさいおじさん、おばさんに。好きも嫌いもなくなり、ただヤることしか考えていない彼氏に。協力しようとしない職場に。コミュ障の新人に。すべてに疲れていた。
だから、仕方がない。行きつけのバーで、許容量以上のアルコールを摂取し、起きた時にはホテルで、知らない男が裸で隣に寝ていても仕方がないのだ。
「…って、仕方ないで済むかっ!」
自分の考えに真紀は小声でツッコみを入れた。一つ深呼吸をする。自分の姿を見た。布団の下は生まれたままの姿。下半身に感じる痛みに昨日何があったのかを思い知らされる。横を見れば、気持ちよさそうに眠る男性。目を閉じているため、正確ではないが、端正な顔をしている。こげ茶色の短い髪がよく似合っていた。程よく筋肉のついたスタイルの良い身体をしている。
なぜこんな風になったのか思い出そうとしてやめた。もう今年で32歳である。一夜の過ちくらいあってもおかしくはない。それよりも、と散らかった自分の下着を集めた。横に眠る彼が起きる前にこの場を去ることが最重要課題だ。急いで身支度を整える。名前も知らない彼をもう一度見た。小さな寝息が聞こえる。まだ起きる様子は見られない。そのことに安堵し、財布の中を覗き込んだ。色の違う札のどれを出すのか一瞬迷い、ため息をつきながら諭吉を一枚抜き出す。枕元に置き、ホテルを出た。
外に出れば見慣れた光景が広がっていた。家まで無事に帰れそうなことに安堵の息を吐く。空を見上げれば、青い空と白い雲が見えた。日中は暑さが厳しいが、朝の風は心地よい。なんだかとてもすがすがしかった。理由を考えれば、おそらく昨日の行為だろうと想像がつく。
「気持ち…よかったな…」
ほとんど覚えていないが、けれど、それだけは覚えていた。確かに自分は満足していた。
真紀は両腕を空へと伸ばす。筋肉がほぐれる感覚に、ふぅーと息を吐き出した。
「よし、やめよう」
真紀はそう言うと、鞄からスマートフォンを取り出した。彼氏宛にメールを打つ。「別れよう」たった一行のみのメールを送信し、画面を閉じた。惰性で付き合っているのがバカらしくなったのだ。起きていたのか返信はすぐに返ってきた。
「わかった。でも、時々は抱かせてね」
最低という以外なんと言えばいいかわからない最後の言葉。少しだけ考え、本心ではなく、負け惜しみなのだと自分に言い聞かせた。人生、自分の都合のいいように解釈した方が幸せだ。
それでは、この状況はどう幸せに解釈すればいいのか。
「…」
一夜限りの思い出となったはずの端正な顔と会社であうことになろうとは。花村潤也、34歳。真紀の直属の上司であり、総務課総務係の係長として東京から業績不振の静岡支社に来たエリート。
総務課は主に、伝票の処理や備品の確保、文書の保管などの仕事をする部署である。しかし、潤也は総務課の係長という立場でありながら、営業課など他部署にも介入していくようだ。
真紀たちの会社は、海外から輸入したインテリアの卸売りをしている。デザイン性の高いものが多く、価格も比較的安いことから東京本社に加え、大阪、静岡に支社があり、全国に数ヶ所店舗を抱える大きな会社だ。そこでは、40代後半で係長となるのが通常だ。その中で異例のスピードで係長となり、さらに業績不振の支社に救世主として送られているのだから、会社からの期待が大きいことがうかがえる。そんなエリートだった。
「…他人の空似」
小さな声で自分に言い聞かせるようにそう言った。ただ、似ているだけ。だって、朝は目を閉じていた。似ている気がするだけで本人とは限らない。たとえ本人だとしても、憶えているはずがない。
「それじゃあ、山口さんは係長のサポートについてくれ。通常の業務より、係長のサポートを優先するように」
課長からの言葉に真紀は一瞬言葉を忘れた。反応しない真紀に周りが不思議そうに見ている。慌てて「はい」と返事をした。そんな様子を花村は楽しそうに見ている。
「それじゃあ、挨拶はここまでだ。皆、仕事に戻ってくれ。山口さんはサポート、頼んだよ」
課長の一言で集まっていた課の職員が散らばる。
「課長、どこに何があるかくらいは見ておきたいので、山口さんと社内を見てきてもいいですか?」
「そうだな。そうしてくれ。花村くん、期待しているよ」
「はい、頑張ります」
花村が頭を下げると、課長は機嫌よさそうに席に戻っていった。
「さて、山口さん、社内を案内してもらえるかな?」
「…はい」
笑顔のままそう言われ、真紀は頷いた。
「それじゃあ、初めに、人がいないところに案内してもらおうかな」
真紀にしか聞こえない声でそう言われた。驚いて勢いよく潤也を見る。含みのある顔に「やはり」と思った。昨日の、いや、今朝の彼と同一人物なのだと。
「承知しました」
真紀はエレベータに乗り、地下2階を押す。そこは、古い文書が保存されている倉庫であり、ほとんど利用者がいない場所だった。
エレベータが到着を知らせる音を立てる。倉庫に入るための鍵を持っていないため、廊下前で説明した。
「ここは、古い文書が保管されている倉庫です」
「ああ。知ってる。昨日、ある程度説明は受けたからね」
「…それならどうして社内を見て回りたいなんて言ったんですか?」
「君と話をしたかったからね。真紀さん」
含みのある笑みに思わず足が一歩引いた。
「…名前…なんで、知ってるんですか?」
「下の名前?部下になる人の名前くらい覚えているよ。…それに、昨日、名前で呼んでとせがんだのは君だ」
どこか妖艶な笑みを頬に浮かべる潤也。それが記憶を呼び戻す。一瞬、昨日の記憶が頭にフラッシュバックした。
『…おねが、…い。真紀って…呼んで…』
『真紀』
真紀は右手で自分の額を押さえた。確かに、昨日言ったようだ。自分の記憶に悪態をつく。忘れるくらいなら、一生忘れていてくれればいいのに。思い出した痴態に身体が熱くなるのがわかる。
「あれ?思い出した?顔赤いよ」
面白がるように顔を覗き込む。そんな潤也の態度にいら立ちを覚えながらも真紀は頷いた。
「…少しだけ」
「昨日、ホテルに誘ったのは俺だけど、きっかけは君だったよ?」
「…」
「女の人一人じゃあ危ないなっていうくらい君はバーでお酒を飲んでたから声をかけたんだ」
会社近くのバーで許容量以上の酒を飲んでいる真紀を見つけた潤也はそっと空いていた隣の席に座った。まだお酒を頼もうとしている真紀に声をかける。
『お姉さん、一人でしょう?そんなにべろべろに飲んでいたら危ないよ?』
突然声をかけられたにもかかわらず真紀はただ笑みを浮かべて潤也を見た。
『じゃあ、あなたが隣にいてください』
そう言って潤也の手に自分の手を重ねた。
「ま、それくらいで煽られた俺も俺だけど。でも、君が煽ったんだよ?」
「……そこは覚えていません」
素直にそう言う真紀に潤也は小さく笑う。
「都合がいいな」
「すみません」
「あ、そうだ。これ返さなきゃって思ってたんだ」
そう言うと潤也は背広の内ポケットから財布を取り出し10,000円を真紀に差し出した。今朝、枕元に置いたそれを真紀は受け取らず見ている。
「お金をもらうのはおかしいからね」
「…ホテル代だと思ってもらってください」
「ふ~ん。でも折半だとしても10,000円はもらい過ぎだよね。じゃあ、残りは、俺の代金ってことなのかな?」
「え?」
「俺、買われちゃった?」
「…何言って…」
からかうような口調の潤也を真紀は睨みつける。その視線すらも楽しいようで、潤也は両方頬を持ち上げた。
「君、面白いね」
「花村さんは悪趣味ですね。こんな風に部下をからかって何がしたいんですか?」
「…何がしたい、か。そうだな、暇つぶしかな」
悪びれる様子もなく潤也が言った。
「あなたみたいな人に軽い人、大嫌いです」
「昨日、あんなに愛し合ったのに?真紀は冷たいな~」
「名前で呼ぶのやめてください」
「あんなにせがんだのに?」
「忘れてください」
「それは、嫌かな」
「は?」
「だって、身体の相性、めちゃくちゃ良かったし」
潤也の言葉に反発しながらも、真紀は確かに、と思った。詳細は思い出せないが、それでも気持ちよかったことは覚えている。それはきっと相性がいい証拠だろう。
「…」
「ねぇ、俺のセフレにならない?」
「…は?」
「俺、異動でこっち来たばかりだし、安全なセフレって探すのに時間がかかるんだよね。君なら大丈夫そうだし。それに相性もいい」
冗談のように言うのに、その目はどこか真剣で、真紀は本気なのかもしれないと思った。そして冗談じゃないとも思った。
「ふざけないでください」
「別にふざけてないけど?俺、セフレとしては結構優良物件だと思うよ?顔も身体も悪くないと思うし、お金もある」
「…」
「それに、昨日の夜だけじゃあ、君も足りないんじゃない?」
潤也が真紀に手を伸ばし、そっと耳に触れた。身体が素直に反応する。振り払えなかった。顔が近づき、耳元で囁かれる。
「真紀の身体は俺を欲しがってるみたいだけど?」
「…っ…」
ゾクゾクする身体を叱咤する。32年も生きているのだから自分の性格など熟知していた。一夜限りの過ちは笑って見過ごせるが、セフレはありえない。付き合うのなら、身体だけではなく心も一緒に通わしたかった。元彼とは上手くいかなかったからなおさらそう思う。自分は32歳だ。結婚や出産を考えたら遊んでいる時間などない。けれど、近くにある潤也の顔に浮かぶ笑みが綺麗で、言葉がすぐに出てこなかった。
「ねぇ、肩の力抜いてみたら?」
「え?」
「そんなに肩に力入れてたら疲れるの当たり前だよ。大丈夫。セフレがいる人なんていっぱいいるよ。ね?」
柔和な笑みを浮かべる。場面によって切り替わる雰囲気。だからこそ出世するのだなと思った。「疲れる」のは、最近の自分を示唆している。昨日、酔っぱらった中で話したのか、周りにも疲れているように見えているのかそれはわからない。けれど、今までなんだかんだ「真面目」で通してきた。だからこそ、肩の力を抜くことが下手な自覚もあった。そして、肩の力を抜くことが今の自分に大切なこともわかっていた。けれど、自分ではどうすることもできないことも。最低な言葉だと思う。そんな風に言う人は嫌いだ。けれど、この甘言に乗れば、変われるのかもしれない、そう思ってしまったのも事実だった。
「えっと、何、それ漫画?しかも、ちょっとエロはいってるやつ」
生ビールの入ったジョッキをテーブルに戻しながら中原つぐみが呆れるように言った。つぐみは真紀の一番仲のいい友人である。つぐみの反応にもっともだと思いながら真紀はため息をつく。
「何なんだろう?」
「あの日、私が一緒に呑みに行けなかっただけで、なんだか急展開すぎる展開になってるわけね」
「…つぐみ、一応関係者だから。そんな無関係みたいな言い方しないで」
「いや、無関係でしょ?」
「…」
「ま、あいつと別れたのはよかったね」
「あいつ?」
「元彼」
「……いろいろありすぎて忘れてた」
「そんな程度の存在だったってことでしょ」
「そうだね」
つぐみの言葉に頷く。いても、いなくても、会っても、会わなくてもどうでもよかった。そんな存在なら、ない方がいいのかもしれない。
「それに、その係長さん、肩の力を抜けって言ったんでしょう?」
「うん」
「ふ~ん。真紀のことちゃんと見てるんだね」
「…たまたまでしょ?」
「私はセフレになってもいいと思う」
「それ本気で言ってる?」
思わぬ言葉に真紀は目を丸くしてつぐみを見た。ビールをのみながらつぐみが言う。
「本気。確かに真紀に必要なのは肩の力を抜くことだと思う。だって、真紀、何にでも真剣に取り組んでんじゃん。それはすごくいいことだけど、オンとオフを切り分けなきゃ大変だよ。すべてのことが自分に繋がってて、それに全部反省して。疲れて当たり前」
「…」
「新人だってさ、確かに教育しなきゃいけないけど、責任を感じるのは指導係の仕事でしょ?関係ないのに、かまうから疲れて怒っちゃうんだよ?ある程度手を抜きながらやらないともたないよ」
つぐみの言葉に反論しようとしたが、言葉が出なかった。確かにそうだと真紀は思う。いつだって完璧でいたい自分がいた。できる先輩でいたくて、気を使える後輩でいたかった。けれど思い描く完璧を演じられるほど器用じゃないから失敗して、落ち込んだ。全部、全部気にして、全部に全力で挑んで、そして疲れている。イライラして、周りにぶつけて、雰囲気を悪くしている。それが今の真紀だった。
「関係ないことは無視してもいいの。自分のためだけに生きていいんだよ」
「…」
「だから、セフレ持つくらいゆるい方が今の真紀にはいいのかもね。あ、でも避妊はちゃんとすること」
「……」
つぐみの言葉を反芻する。確かに肩に力が入っていると言われればそうなのかもしれない。元彼だって、そうだった。愛情などなかったが、「恋人」というだけで会っていた。「恋人」なのだから、せめて月に数回は会わなくては「いけない」と思っていた。そんなどうでもいいことすら義務感が付きまとう。それは自分の性分だ。だからこそ、ゆるい、枠にはまらない関係もありなのかもしれない。
朝の空気は澄んでいた。暖かい風が真紀の黒髪を揺らす。アパートが会社の近くにあるため真紀の通勤は歩きだった。5分しかからないその距離でも、歩けば額に汗が滲む。
早い時間に会社に行くのが真紀は好きだった。いつもは、話し声やキーボードをたたく音、電話の鳴る音が聞こえる事務所も朝にはしんと静まり返っている。
「ん~」
腕を上げ、伸びをする。思わず声が漏れた。
「さてと」
真紀は服の袖をまくる。布巾を濡らし、デスクの上を拭き始めた。部長のデスクから始め、皆のデスクの上を拭いて行く。それが真紀の日課だ。誰に頼まれたわけでもないが入社当初から続けている。10年目の自分がやることではない気もするが、今の若い子たちは、始業時間ギリギリに来るのがセオリーらしい。そこまで思い真紀はくすりと笑った。「今の若い子」なんて、使う日が来るとは思わなかった。
「朝、早いんだね」
声がした。振り向けば、潤也が立っている。
「…おはようございます」
「おはよう」
「花村さん、早いですね」
「山口さんの方が早いけどね。…そういうの山口さんがやるんだね」
デスクを拭く真紀の手を見て言った。もしかしたら潤也も自分と同じように「今の若い子」と考えているかもしれない、そう思うと真紀はおかしかった。
「気付いた人がやればいいかなって」
「…やっぱり、山口さんは真面目だね」
含みのないただの褒め言葉だったと思う。けれど、なぜかひどくバカにされているように真紀には聞こえた。肩の力を抜く、昨日のつぐみとの会話を思い出す。真紀は決心したようにまっすぐ潤也を見つめた。
「……昨日の件ですけど」
「昨日?」
「いや、だから、…その…」
「あ~、セフレね」
あからさまな単語に真紀は思わず辺りを見回した。
「大丈夫、誰も来てないよ」
その言葉に、誰もいないことを確認した上での発言だったのだろうと理解した。目の前にいるのは期待を一身に背負ったエリートだ。それくらいできなければ出世なんてできない。
「……なってもいいです」
意に反して小さな声になってしまった。本当はスマートに言いたかったのに。けれど潤也の耳にはきちんと届いたらしい。
「どうして急に?俺みたいな人に軽い人、大嫌いなんだろう?」
「…それは…すみませんでした」
「別にいいよ。確かに、俺も…急ぎ過ぎたし。それよりどうして気持ちが変わったの?昨日は嫌がってた風に見えたけど?」
「…私、昔からずっと真面目だと言われてきました。だから、なんでも完璧にやりたくて、でもできる人間じゃないからできなくて、失敗して、落ち込んで。そんなことを繰り返していたんです。たぶん、もっと楽にもやってこれたと思うんです。だから、花村さんの言ったように私、肩の力を抜きたくて。…そう言う関係を持つのもありかなって」
「ふ~ん」
「でも、いいんですか?」
「何が?」
「私もう、32歳ですよ?花村さんなら若い子いくらでも捕まえられるのに、私でいいんですか?」
「俺だってもう34だ」
「でも、花村さんはカッコいいし、仕事だってできるじゃないですか」
「…そんなに褒められたんじゃ、仕事頑張らないわけにはいかないね」
からかうように潤也が言う。
「でも、言っただろ?」
潤也はコツコツと音を立て、真紀に近づいた。触れる手前で止まる。耳元で囁くように言った。
「真紀と俺の相性は抜群だって」
近くにある端正な顔と甘い声に真紀の胸が大きな音を立てた。
月日はあっと言う間に過ぎ、夏から秋の終わりに季節は移ろいだ。外に出れば、頬に触れる空気が冷たくなっている。季節の移り変わりを示す木々の葉が赤や黄色に染まっていた。
何も変わらなかったようで、大きく変わった3か月だった。潤也との関係は、あの日から変わらず続いている。会社では上司と部下の関係で毎日会い、男女の関係で週に1回は夜を共にした。それ以外でも他愛ない連絡を取り合っている。会う回数や連絡を取り合う回数は元彼より多かった。けれど、それが多いのか少ないのか、経験のない真紀にはわからなかった。ただ、潤也からの連絡があるたび喜び、そして次の瞬間に落ち込むことが増えていた。
部長に会いに来た客にお茶を入れるため、真紀は給湯室へ向かった。先客の後輩2人がお茶を淹れながら話している。
「それにしても、花村係長ってすごいね」
「本当ですよね。だって、係長が来てからまだ3か月なのに、業績だって回復したし」
「しかも、イケメン」
「優しいし、かっこいいし、仕事できるし。彼女いるんですかね?」
「いや、いないわけないでしょ」
「そうですよね」
新人と2年目の後輩が楽しそうに噂する声。真紀は思わず歩みを止め、廊下で聞き耳を立てる。急がなくてはいけない、そうは思ったが身体が言うことを聞かなかった。
後輩たちの声が頭の中で繰り返される。そして、確かにそうだと思った。潤也の仕事ぶりは確かにすごい。一番近くで見てきた真紀はそれがよくわかった。着眼点が自分たちとは違った。リスクとリターンを天秤にかけ、選択していく。それがまた的確だった。エリートと一般人の違いを見せつけられた3か月だった。
潤也のサポートを優先するよう指示があったため、この3か月秘書のように潤也の背中を追っていた。だからこそ、わかる。潤也は誰よりも努力していた。朝早く出勤し、部下の体調に気を使った。営業先に行く時には、相手先の情報を何度も確認した。忙しい合間を縫って、何度も店舗に顔を出した。人の懐に入るのが巧く、そして仕事の出来も完璧だ。年下の係長である潤也に課長も部長も頼り切っている。おかげで静岡支社の業績はV字回復を果たした。そもそも流通の仕方に問題があったらしい。潤也の指摘どおり変更しただけで仕事がしやすくなったと営業が口をそろえる。
「係長の彼女になりたいです!」
「まあね。でも、なってもすぐに切られるのがオチでしょ。どうせすぐ東京に戻るんだろうし」
一人の言葉に真紀ははっとした。どうして忘れていたんだろう、そんな簡単なことを。少し考えればわかったことだった。潤也が静岡にいるのは、業績不振だから。業績が回復したのなら、潤也がここにいる意味はない。
「山口さん、 打ち合わせをしよう」
不意に聞こえたその声に真紀は振り向いた。目を合わせると潤也が楽しそうに笑みを浮かべた。
「…部長の所にお客様にいらっしゃったので、お茶をいれなくてはいけなくて。…今は手が離せません」
「じゃあ、その後でいいよ。会議室にいるから来てくれ」
「かしこまりました」
「あ、山口さん、すみませんでした。給湯室使いますか?」
潤也の声で真紀の存在がわかったようだ。後輩たちが気まずそうに真紀を見る。その間に潤也は背を向け、離れて行った。
「え、あ、うん。部長の所にお客様が来たから、先に使わせてくれるかな?」
「はい、どうぞ。私達は片づけだけなので、先に使ってください」
「ありがとう」
どいてくれた後輩に礼を告げ、真紀は無駄のない動作でお茶を入れ始めた。
「あの…山口さん」
「どうしたの?田中さん」
「それ、部長室に持っていけばいいんですよね?」
「そうだけど?」
「山口さん、花村係長に呼ばれてましたし、良ければ私が部長の所まで持っていきます」
後輩からの申し出に、真紀は少し考える。潤也の所にはすぐに行かなければならない、というわけではないはずだ。けれど、と真紀は後輩を見る。彼女がこんな風に自分から申し出たのは初めてかもしれない。
「…それじゃあ、申し訳ないけど、お願いしてもいいかな?」
「はい!」
「ありがとう」
どこか嬉しそうな表情を浮かべる後輩の顔を見て、正解だったと思った。一安心して後輩たちに背を向ける。潤也が待っているであろう会議室に向かった。
会議室のドアの前、真紀は一度深呼吸をする。気持ちを落ち着かせてからドアを引いた。音と同時に潤也が振り返る。
「あれ?ずいぶん、早いね」
「お茶出しを田中さんが代わってくれたので」
「田中ってあの2年目の子だよね?茶髪でウェーブかかってる」
「はい」
「ふ~ん、いい傾向だ」
「そう思います。田中さん、前は、自分のことしか見られなかったのに、やっと周りが見られるようになったみたいで」
「いや、彼女じゃなくて、君の」
真紀の言葉を遮り潤也が言った。その表情はどこか嬉しそうにも見えた。
「え?」
「最近、雰囲気が丸くなった」
「そう…ですか?」
「ああ。肩の力がいい感じに取れてきたんじゃない?だから後輩も声をかけやすくなったんだろ?まあ、彼女自身、少しは社会人としての自覚が付いてきたっていうのもあるだろうけど」
「…」
「俺のおかげだね?」
含みを持たせた笑みを浮かべる潤也。真紀は慌てて視線を逸らした。
「あ、えっと…打ち合わせですよね?」
「あれ?合図に気付かなかった?」
「…」
「わけないよね?」
そう言って潤也は一歩ずつ、真紀に近づいた。そっと手を伸ばし、ドアの鍵を閉める。
「カチャ」という音が静かな部屋に鳴り響いた。
「俺、言ったよね?『山口さん、 打ち合わせをしよう』って」
名前の後に2秒間を開け、「しよう」と断言する。それは、密会の合図だった。潤也の言葉に真紀は小さく頷く。
「今日、夜空いてる?」
「はい」
「じゃあ、この前、真紀が行きたいって言ってたレストランに行こうか?」
「…でも、人気のお店だから今からじゃあ予約いっぱいですよ?」
「大丈夫、予約してあるから」
「え?」
予想外の回答に真紀は目を丸くする。そんな真紀の表情に潤也が満足そうに笑った。
「真紀の話を聞いてすぐに予約した。真紀、月の中ごろは仕事そんなに忙しくないから、行けるかなって思って」
そっと伸ばされた腕。その中に真紀は大人しくおさまった。鼻孔をくすぐるのは、甘い匂い。
「…ありがとうございます」
「じゃあ、6時にいつもの場所で待ち合わせね」
「はい」
「真紀、嬉しい?」
覗き込むように潤也が真紀を見た。そんな潤也に頷いて答える。本当に嬉しかった。だからこそ、苦しくなる。喜ばせるようなことなどしなくていい。自分の立場を忘れそうになるのが怖かった。
「よかった」
「本当にありがとうございます」
もう一度お礼を言う真紀に潤也は触れるだけのキスをした。何度もベッドを共にしているのに、それだけで頬が赤くなる。
「真紀のそういうとこかわいいよね」
赤くなる真紀を見て、楽しそうにそう言うと、潤也は抱きしめる腕に力を込めた。潤也の腕の中は心地よくて、真紀は泣きそうになる。
どうして今までのセフレ達は彼に教えておいてくれなかったのだろうか。セフレに優しくしてはいけないと。どうして言っておいてくれなかったのか。
触れるだけのキスをするたび、潤也に惹かれていくのがわかった。ただ、寝るだけの関係ではなく、食事をし、デートをした。今日のように喜ばせてくれることが何度もあった。セフレについてよく知らないが、それでも思っていたものとは違っていた。身体の関係だけだと思っていた。デートなんてしないと。けれど潤也と何度も2人で出かけた。あまりにも普通に誘うので、断ることもできなかった。
軽い人が嫌いだった。「セフレにならない?」なんて言う人は特に。けれど、彼に惹かれている自分を否定できなかった。優しさに触れるたび、自分は特別なのではないかと錯覚してしまう。けれど、潤也は「セフレ」だと言った。「付き合って」ではなく「セフレにならない?」と。自分は「セフレ」以外の何物でもない。わかっているから、優しさが切なかった。
「真紀、どうかした?」
「え?」
「なんか、泣きそうな顔してるけど」
「…行きたかったレストランに行けるので、嬉しくて」
「そっか」
「そうです」
苦し紛れの言い訳。きっと潤也には気付かれている、自分の気持ちなんて。それでも、気付かれていないふりさえしていれば、この関係は続けられるのだ。
「優しくしないで」と言ったらこの関係は終わりだ。何かを彼に求めたら終わり。だから、言えない。彼から切られるならともかく、自分から切るなどできないのだ。彼といる時間は幸せで。だから失いたくなる。だから今までのセフレ達も何も言わなかったのだろう。それが今の真紀には痛いほどわかった。やはり自分に「セフレ」など無理だったのだと思う。惹かれてはいけないはずの人をこんなにも、好きになってしまっている。
窓から空を見た。雲一つない晴天で、なんだか胸が苦しかった。深呼吸をし、自席に戻る。いつもの職場とは少し違った雰囲気が流れていた。
「香織、なんかあったの?」
不思議に思い、真紀は隣の席に座る同期の香織に声をかける。
「あれ?真紀、打ち合わせ終わったの?」
「あ、…うん。今さっきね。えっと…それで?」
「ああ。田嶋さんの娘さん、赤ちゃん産んだんだって。さっき生まれたってメールが入ったみたい。それで、みんなに幸せ伝染してる感じ」
香織の言葉に真紀は周りを見渡す。確かに人だかりの中心にいる田嶋の手にはスマートフォンが握られていた。田嶋を囲む人たちの口元には笑みがこぼれている。幸せな雰囲気が流れていた。
「田嶋さんってまだ若いよね?」
「うん。50歳だって」
「それでおばあちゃんって早いね」
「でも、娘さん22歳だから」
「若いね」
「そういえば、真紀は結婚しないの?」
突然の香織の問いに真紀は一瞬考えて、首を横に振った。
「…私は…いいかな、そういうの。今は考えられないや」
「今はって、…適齢期でしょ、今が」
呆れたように香織が真紀を見る。1つしか違わない香織にはすでに2人の子どもがいた。
「旦那はどっちでもいいけど、子どもはつくっておいた方がいいよ。やっぱね、自分の子どもはかわいい」
「そっか。…でも、私はやっぱいいかな。このまま一人でも」
誰かと一緒にいて哀しくなるなら、一人でいた方がよっぽどましだった。手を伸ばしても手を取ってもらえないなら、一人でいたい。忘れたはずの胸の痛みがぶり返す。けれど、そんな真紀の思いは届かないようで、香織がなおも続けた。
「諦めるのまだ早いよ。大丈夫、いい人見つかるって。一度くらいはしておいた方がいいよ」
「…」
「結婚はしなくても、子どもはいた方がいい、絶対」
そう断言して香織は笑う。確かにそれは幸せそうな笑みだった。
結婚や子どもについては、今まで何度も言われてきた。友だちに言われ、職場で言われ、家でも言われた。「結婚して子どもを産め」と何度も。
どうしてそんなことが言えるのだろうか、と真紀はいつも不思議に思う。どうしてこの人たちは考えないのだろうか。もしかして不妊かもしれないと。同性愛者だという可能性だってある。好きな人がいて、どんなに頑張ってもその人が手に入らないのかもしれない。どうして、人のバックグラウンドを知らない癖に、自分の幸せを押し付けることができるんだろう。自分が正解、みたいな顔をして。そのくせ、不平不満をバラまく。それなのに、どうして他人には自分と同じ人生を歩むよう言うのだろうか。何も知らないのに、どうして口が出せるんだろう。
潤也を思うと、泣きたくて、けれど泣いたら終わりだから必死に耐えている。そんなことも知らない癖に。もう少しすれば、きっと彼は東京に帰ってしまう。そんな当たり前が怖くて、そんな日がいつくるのかとびくびく怯えているのに。どうして、結婚しろと言えるのだろうか。結婚しなくても子どもだけつくれなんて。私のことなんて、何も知らない癖に。どうして、それが私の幸せだと疑いもせず、言えるのか。
もう32年もこの世界で生きているのだから、自分のことくらい自分で決められる。だから放っておいてほしい。これ以上、惨めにさせないでほしい。
「そうだね、ありがとう。頑張ってみるね」
心の中を黒いものが占める。叫びそうになるのを必死でこらえ、真紀は笑った。
「そうだよ、子どもは本当にいいよ」
「そっか。…そろそろ、仕事に戻らないと係長に叱られるよ」
大きな声で言ったわけではないが、真紀の言葉に雑談の声がだんだんと小さくなる。田嶋を中心に集まっていた同僚たちが席に戻っていった。止まっていたキーボードをたたく音が再開される。
見上げれば、空はすっかり暗くなっていた。頬を触る風が冷たくて、冬の訪れを身近に感じる。職場から信号を2つ越えたところにある公園が2人のいつもの待ち合わせ場所だった。見慣れたシルバー車が公園に横付けされる。真紀はそれに乗り込んだ。
「お疲れ様」
「お疲れ様でした」
「じゃあ、行こうか」
「お願いします」
真紀の言葉に車が前進を始める。
「そう言えば、今日さ…」
車を運転する潤也を見るのが真紀は好きだった。安全運転を心掛ける潤也は基本的に運転中には横を見ない。だからまっすぐ前を見ながら他愛ない話をする潤也の横顔をずっと眺めていられた。そして、信号で止まるたび、潤也は真紀を見た。その顔が優しくて、大切にされていると勘違いしそうになる。だから真紀はあえて信号の時は前を見た。自分が傷つかずに済むように。
車から出れば、外の空気は冷たかった。空は暗く、けれど街の明かりで星は見えない。
「人気ってだけあるね」
レストランに入ると潤也は周りを見渡しそう言った。2人が来たのは、ホテルの中にあるレストランだった。中に入ると豪華なシャンデリアが存在感を放っている。キラキラしていた。レストランの中も、そこにいる人たちも。こんなに輝いている場所で自分たちは会っていいのだろうか、真紀は自問する。
「本日のデザートになります」
出されたマロンのムースを口に運ぶ。甘すぎないそれは食後のデザートにちょうどよかった。雑誌で紹介されるだけあって、出された料理はどれもおいしかった。口に運ぶたび、2人で「おいしい」と言い合った。
「本当に料理、おいしかった。真紀が教えてくれたおかげだよ。ありがとう」
ワインを口に運びながら潤也が言った。車で来ているのにワインを飲む潤也は「上の部屋も取ってあるから」と笑う。当たり前だと思った。自分たちはそういう関係なのだから。
ふと、潤也の肩越しに別のカップルが見えた。「おいしい」と笑い合う彼ら。自分たちはと圧倒的に違うのに、一見しただけでは、何ら変わらない。雑誌で紹介された人気の店に来て、食事をして、2人で「おいしい」と言い合う。
そんな風にしなくていいと真紀は思った。優しくされるたび、苦しくなる。けれど真紀は何も言えず、ただ潤也の言葉に頷いた。
エレベータに乗り、部屋に向かう。エレベータから外が見えた。空は暗いが街のネオンが光っている。山の上で見れば綺麗なのだろうが、近すぎるそれらは「夜景」ではなくただのネオンだった。
部屋につくと、コートとバッグを置き、ソファーに座る。真紀に合わせるように潤也もソファーへ腰掛けた。
「えっと…あ、飲み物」
腰を上げようとする真紀の腕を潤也は握った。
「気を使わなくていいよ」
「えっと…」
「まだ慣れないね」
「…すみません」
「謝らなくていいよ。そういうところが真紀のかわいいところだから」
どこか楽しそうに笑う。掴んでいる真紀の手を引っ張った。バランスを崩した真紀が潤也の腕の中にすっぽりとおさまる。潤也が真紀の黒髪を撫でた。ゆっくりとソファーに背をつけていく。抱きしめられている真紀は潤也の上に乗る形となった。耳を潤也の胸に付ける。リズムよく刻まれる音が心地いい。
「料理おいしかったね」
「え?」
「おいしかっただろ?」
「はい」
「また一緒に来よう」
その言葉に真紀は顔を動かし、潤也の目を見た。その瞳の中に自分が映っていた。デートをして、抱きしめられて、キスをして、次の約束をする。それはただの恋人同士のように真紀には見えた。どうせなら強引にしてくれればいいのにと思う。デートなんてしなくていい。優しい言葉もかけなくていい。ただの身体の関係でいい。そう思うのに潤也は真紀の髪に優しく触れた。身体だけではだめだ、とでも言うように。
「…やめて」
思わず声が出た。戸惑いを浮かべる潤也。けれど、止まらなかった。
「え?」
「やめて…ください」
「真紀?」
「…お願いだから、…優しくしないで」
面倒くさい女にはなりたくなかった。けれどどうすることもできなかった。ずっと思っていたのだ。この3か月ずっと。優しくされるたび、愛されている気になった。そう思うたび、セフレという今の状況が苦しくなった。潤也は東京から来たエリートで自分は後輩に八当たりをしてしまうような三流社員だ。どう考えても隣には並べない。潤也の都合で抱かれるセフレくらいがちょうどいいのに、それでも潤也は一緒にいる時間を楽しんだ。それが嬉しくて、苦しい。
浮かぶ涙をどうすることもできなかった。だからせめて、流れないように必死に耐える。
「真紀?」
「セフレなら、セフレとして扱ってください。こんな風に…優しくしないで」
「…」
「次の約束なんかしなくてしなくていいです。…期待しちゃうから」
潤也の腕から離れようと潤也の胸を押した。けれど、真紀の背に回る潤也の腕はびくともしない。それならと、涙を見られないよう、真紀は潤也の胸に顔を押し付けた。
「都合のいいセフレでいたいんです。面倒くさい存在にはなりたくないの」
「…」
「花村さんが東京に戻っても、静岡に来た時には声をかけてもらえるように。でも、このままだと…私、面倒くさくなっちゃう。好きになってほしいって思ってしまう」
真紀の告白は終わりの合図と同義だった。「おしまい」を告げられるのが怖くて、真紀は純也の腕から逃れようともう一度もがく。けれど代わりに抱きしめる腕に力が込められた。
「面倒くさくなっちゃだめなの?」
「…何言って…」
「面倒くさくなればいいよ」
「え?」
「真紀、ものわかりよすぎだし。俺も少し、意地になっちゃった」
そう言って潤也は起き上がる。自分の上に乗っていた真紀をソファーに降ろした。
「…花村さん…何言って…」
「俺のこと好きなら、好きって言えばいいのにって、ずっと思ってたよ」
「え?」
「俺は、初めから真紀が好きだよ」
「何言って…?」
突然の言葉に、思考が追いつかなかった。今、何と言ったのだろうかと真紀はまっすぐ潤也を見る。その目は真剣で、からかっているようには見えなかった。だからこそ、何を言っているのか真紀には理解できなかった。
「花村さん…何言ってるんですか?」
「ひとめぼれ」
「え?」
「ひとめぼれだったんだ。俺、真紀と初めて寝た日、部長への顔合わせで少しだけ会社に行ってたんだ。後輩に怒っている君がいた」
潤也の言葉に、その時のことを思い出す。確か、コミュニケーションが苦手な新人の態度に怒りをあらわにした時だ。
「なんだかひどく惹かれて、思わず足が止まったんだ。そのまま見ていたけど、どう考えても、あの新人の態度が悪かった。真紀が正しかったと思う。けれど、真紀はそのあと後悔していた」
「…」
「それじゃあ疲れてしまうと思ったんだ。何とかしたいと思った。部長との話が意外に長くて、部屋を出たら終業時間だった。会社から出ていく真紀を見て、追いかけたんだ。そしたら一人でバーに入って行ったから俺も後をつけた」
「…」
「そして声をかけたんだ。ひとめぼれだったんだと思う。…何に惹かれたのかわからないけど、でも、俺、そういうの間違えないから」
「じゃあ…どうして、セフレなんて」
真紀の問いに潤也は苦笑いを浮かべる。
「肩の力を抜いたほうがいいと思ったんだ。ほんの少ししか知らなかったけど、でも真面目な人なんだろうなって思ったんだ。真面目すぎるんじゃないかなって。だから、少しは不真面目な関係を持った方がいいと思った。あと、純粋に真紀を抱きたかった」
「…何、それ」
「だってあそこで付き合って、なんて言ったって、真紀は取りあってくれないだろう?それならセフレになっての方がいいかと思って」
「…」
予想もしていなかった潤也の言葉に、涙が引くのがわかる。そして次にこみあげてきたのは怒りだった。
「なんで、…なんでそんな風に人のこと振り回すんですか?」
「…ごめん」
「…私が、どれだけ泣いたと思って…」
いいながら涙が込み上げてきた。ゆっくりと頬をつたう。流れる涙を潤也がそっと拭った。
「ごめん。確かに話をややこしくしたのは俺だ。そこは謝るよ。でも、真紀だって悪いよ?」
「え?」
「ずっと、好きだって言えばいいのにって思ってた。好きだって顔するのに、俺に抱かれても何も言わない。ただ、セフレを受け入れてた。…こんな関係嫌だって真紀の口から言わせたくて。だから少し意地になってた」
そう言って潤也が笑う。その顔が楽しそうで、反省していないことがわかり、余計にいらついた。きっと自分の気持ちなどわかっていない。
「そういうところ、大嫌いです」
「俺は好きだけどね」
「…」
「不謹慎だってわかってる。真紀が怒るのも当然だって。でも、俺、今、多分何言われても嬉しいから。真紀がこんなに泣くほど俺のこと好きだってわかってからね」
「…」
「だから、大人しく、俺の腕の中におさまって」
ギュッと抱きしめられた。まだ言ってやりたいことがたくさんあった。殴ってやってもいい。そう思うのに、腕の中が心地よくてその温度にほだされる。
「真紀、好きだよ」
初めて囁かれた愛の言葉はシンプルだった。けれど「好きだ」の一言に胸が熱くなる。抱きしめる力が強くなった。
「あ~やっと言えた」
心底幸せそうな声。真紀はゆっくりと自分の腕を潤也の背に回した。
「まだ、許してわけじゃないですから」
「うん」
「…だから、あと100回言ってください」
「何を?」
「好きだって」
悔しかった。けれど、どうしたって自分はこの人がたまらなく好きなのだと思い知らされる。
真紀の言葉に潤也が小さく笑った。
「100回でいいの?」
「…1000回」
「1000回でいいの?」
その問いかけと共に潤也は真紀に小さなキスをした。キスは徐々に深いものになり、真紀の口から甘い声が漏れる。
「…んっ…」
「真紀が望んでくれるなら、許してくれるまで何回でも言ってあげる」
「そんなこと言ったら、……一生許してあげません」
「望むところだね」
そう笑って潤也は真紀を軽々と持ち上げ、ベッドの上まで運んだ。大切なもののようにゆっくりと降ろされる。潤也の手が服に伸びた。じらすようにボタンが外される。
「許さなくていいよ、一生。だから、ずっと俺に好きだって言わせて」
「…はい」
これからのことを考えれば問題は山積みだった。潤也はエリートで真紀はただの平社員。不釣合いなのはわかっている。それに、もうすぐ潤也は東京に帰ってしまうだろう。
言葉遊びのように簡単には「一生」なんて約束できない。自分たちはそれくらい大人だった。けれど、今は、今だけは、目の前の幸せを素直に受け入れようと思った。
許さなくていいと言ったのは潤也だ。それならこの先何年も、何十年もずっと許してなんかあげない。その間ずっと、「好きだ」と言ってくれるなら、許すはずなどないのだ。
「絶対、許してあげませんから」
「わかったよ。…わかったから、真紀も言ってよ」
「…潤也さん、大好きです」
真紀の言葉に潤也は幸せそうに笑った。愛おしそうに全身にキスの雨を降らしていく。
あなたを想うと、くるしかった。けれど、想うことをやめられなかった。もし本当にこのままずっと一緒にいられたらいいのに。いつか子どもができて、その子にいつか今日の話ができたらいいのに。そう思いながら真紀は潤也のキスを受け入れた。
読んでいただき、ありがとうございました!なかなか、難産でしたが、UPできました。
もしよければ、感想等いただけたら、幸いです!!