鏡の中の王妃
リリィが宿で休んでいる間、ギリアンはどうやら冒険者ギルドとやらで仕事をもらい、日銭を稼いでいたようだ。
二日ほどだったが、わりと懐が暖かくなったようでホクホクした表情をしていた。
この王子は、京介よりはるかに素直だ。
なぜこれほど似ているのかは分からないが、ギリアンと京介は他人なのだから、少しは歩み寄らねばという思いもある。だが、長年の京介との確執は、ゆり本人が思っていた以上に根深かったようで、なかなか一歩を踏み出せない。
初対面の時の暴言を謝ることも出来ていない。あれは今振り返るとひどかった。
そんなやきもきした思いを抱えたままに旅を再開することとなった。
ギリアンは、初日で学んだのか、リリィとは必要最低限の会話しかしなくなった。それでも旅のペースや休憩のタイミングなど、リリィへの気遣いが感じられ、それがますます申し訳ない気持ちにさせる。
自分が謝罪もうまく出来ないようなダメ人間だったなんて、知りたくなかった。
そんなことを考えながらも、あまりきつい態度にならないよう注意しながら、日々を過ごした。
毎日、夢を見る。
それはリリィ・ベル・グレイスの百年前の記憶だと、直感的に悟っていた。
初めて魔法を使った日。
王妃カリーナと母の確執。
王の愛人である魔女たちの憎悪。
母の死と父の涙。
そして、十五歳の誕生日に起きたこと。
夢として見せられたその記憶は、すんなりと自分の中に入ってきた。
それは説明できないような、不思議な感覚。
ゆりとリリィは、夢を見るたびに溶け合い、同じ一人の人間になっていく。
そして、ゆりとリリィが完全に同一化した時、魔法や呪いの知識が戻るとともに、理解してしまった。
ギリアンは、間違いなくリリィの「運命の王子」だ。
あの城の茨は、その条件を満たすものしか通さない。
そして、呪いを終わらせるための条件は、正確には「婚約」ではない。
それが果たされなければ、自分は。
「はあ…、最悪」
生きてほしいと望んでくれた母の想いに、リリィはきっと応えられない。
旅を始めて十日ほどたった頃、ギリアンはかなり早めに宿に入った。
「リリィ、悪いんだけど、そろそろ仕事しないと路銀尽きるから、ここ二、三日滞在な」
「あ、そう。…私も何かしたいんだけど」
ギリアンばかりに働かせることにも罪悪感がある。
姫とはいえ、ゆりだった頃は一般家庭で育ったいわば平民である。アルバイトをしたことはないが、多少なりとも出来ることはあるのではないか。
だがギリアンは、目を丸くしたあと首を横に振った。
「いや、リリィの容姿は目立つし、妙な輩に目をつけられないとも限らない。退屈だろうけど宿にいてくれ」
そう言われるともはや足手まといにしかならないと、嫌でも自覚する。
リリィは小さくため息をつくと、頷いた。
「…わかった。何か、ごめん」
自然と謝罪の言葉が出たことに、自分でも驚いた。目の前のギリアンはもっと驚いていたが。
本当に素直な王子だ。
調子が狂う。
翌日は、荷物の整理や衣類の洗濯などで時間をつぶすことにしたが、午前中には終わってしまう。
ギリアンは夕方まで戻らないし、早くも手持ち無沙汰だ。
部屋の窓辺に置いてある椅子に腰掛けると、日差しが暖かくてついうとうとしてしまった。
目が覚めると、もう日暮れ前だった。
「…百年も寝たのに、どれだけ寝られるんだ、私」
何となく呟いた言葉だったが。
「ふふ、全くね。昔から貴女はいつも怠惰だったわ」
リリィは飛び起きた。今の声に聞き覚えがあった。艶のある女の声。リリィの、大嫌いな声。
蒼白になり部屋を見回す。そして目に留まったのは、入口近くにある姿見だった。
鏡の中に、女がいた。
けぶる様な金の髪に、エメラルドの瞳。古めかしいデザインのドレスに包まれている、豊満な体。
記憶にあったものと、寸分違わぬその姿。
「王妃…!」
「まあ、お母様とお呼びなさいと、いつも言っているでしょう」
リリィはぎゅっとこぶしを握ると、ゆっくり寝台から下り、姿見に近づく。
王妃と呼ばれた女は、艶やかな笑みを浮かべてリリィを見つめる。リリィが王妃の正面に立つと、王妃は笑みを深めた。
「逃がさないわ、リリィ・ベル」
そしてリリィを指差す。
「何をしても貴女は死なない。他の誰かを犠牲にするくせに。けれど、国を出たならもう、呪いの進行は止まらない」
リリィはスカートの裾を握り締めた。体の震えを止めようとするように。
「震えているのね、かわいそうなリリィ・ベル。ふふ、楽しみね。とっても楽しみ」
その瞬間、リリィは鏡を叩き割った。王妃の笑顔がひび割れる。そしてゆっくり姿が消えたが、癇に障る笑い声だけが、いつまでもリリィの頭の中に響いていた。
ギリアンが宿屋の部屋のドアを開けると、すぐ目の前にリリィが座り込んでいた。
「うわ! 何してんの…」
そこでリリィの様子がおかしいことに気がつく。
リリィはギリアンの方を向いているわけではなく、姿見の方向を向いていた。そしてその姿見にはひびが入り、座り込んでいるリリィの右手には血が付いていた。
「え、ちょっと、何してたんだお前」
慌てて暗くなった部屋の明かりをつけ、リリィの手の具合を見ようとかがみ込み彼女の手を取ると、弾かれた様にリリィが体を震わせ、ギリアンの手を振り払った。
彼女の顔は真っ白だった。全身に冷や汗をかいている。ギリアンの顔を驚いたような顔で見つめたまま、しばらく呆然としていたが、ややあって口を開いた。
「おか、えり」
リリィのその言葉が、その場にあまりに似つかわしくないので、ギリアンは一瞬言葉に詰まった。
「え、あ、ただいま。…いやいや、そうじゃねえよ。お前どうした。大丈夫か」
リリィは額の汗を拭った。
「大丈夫。あの、喉が渇いたから、何か下にもらいに行こうとしたんだけど、めまいがしてよろけて、…鏡に手をぶつけたの」
リリィの目が合わない。声もわずかに震えていた。
これは嘘だと、ギリアンは悟った。
よろけて手をぶつけるとすれば、怪我をするのは手の平のはずだが、怪我は手の甲だ。そして、すでに血は乾いているから時間は随分前のはずなのに、ずっとそこに座り込んでいるのもおかしな話だ。
だが、リリィはひどく怯えていた。今の状態で何を聞いても、きっと答えないだろう。
結局ギリアンはそうか、とだけ返事をし、怪我の手当てをした。
あれから、リリィはすぐいつもの様子に戻ったが、ギリアンは密かに彼女を見ていて、リリィが一切鏡を見ようとしなくなったことに気がついた。
ただ、出会って二日やそこらなので元々見る習慣がなかった可能性もあるが、一国の姫君が鏡を見ずに日々を過ごすとは考えにくい。
だが、ギリアンはリリィの恋人ではない。
どうせ聞いても何も答えてくれないだろう。
そう思って、ただ見るだけに留まっていた。