裏路地四丁目 02
「力を抜いてね」
そう言われ、簡易的なベッドに寝かされる。
薄暗い廊下の先にはタイル張りの病院を彷彿とさせる部屋が広がっていた。白い電気的な光源と、同じく白い数々のベッドや机に椅子。病院を彷彿とさせる、ではなく病院そのものだ。
簡易ベッドに寝そべりながら、服を脱がされる。体に纏うのが包帯だけになった時、僅かながらマダムの息を飲む声が聞こえた。
包帯は一分の例外なくびっしりと巻かれ、薬品の臭いと膿んだような臭いが混ざっている。薬品の臭いはルイスさんが塗ったと言っていた薬だろう。
包帯が右手の指先から解かれて行く。するすると解けるところもあれば、皮膚が張り付いてぺりぺりと音を立てる部分もあった。少しばかりの痛みに耐えながら、自分の肌が外気に晒されていくのを感じる。
どれほどたったのか、体のほとんどの包帯が解かれ、遂に顔の包帯に手をかけられる。あの業火でも辛うじて残った瞼を閉じ、されるがままになった。
最後の包帯が解かれ、完全に僕のあらゆる部分が隠されることなく晒される。
白いライトが眩しく、醜い姿を見られるのも耐え難く、瞼は閉じたままだ。
マダムの、ゴツゴツしている手が僕の体を触る。額、鼻、頰、口元、喉、鎖骨、胸、腹、腕、手、太もも、脛、足。
隅々を触られ、時折何か紙に書く音がする。
しばらくそうしていると、うん。とマダムが声を出す。
「これくらいなら何とかなるわ。全身だから少し値は張るけど」
目を見開いた。横目で椅子に座るマダムを見上げる。胸中は信じられないような気持ちでいっぱいだ。これ程まで醜くなってしまった体を治せるのかと、疑うような目で見上げれば、マダムは苦笑した。
「信じられないわよね」
そう言ったその人は困ったように笑いながら、カルテのような物を取り上げながら口を開いた。
「信じられないだろうけど、貴方にとってもこれが最善のはずよ。
貴方の焼かれる前の顔が分からないし、前の顔に戻してしまったらまた軍警に追われやすくなるわ。だから、全く新しい顔になってしまうけれど、良いかしら?」
真剣な顔で見下ろされ、決断を迫られる。最善だと言われるならそうなのかもしれない。でも、僕はつい最近まで普通の少年だったはずだ。その思いが捨てきれず、躊躇してしまう。中々頷けず、黙する僕を見かねてか、マダムはもう一度、口を開く。
「平和だった頃の記憶が邪魔をしているのかもしれない。でもね、もう戻れないのよ。分かるでしょう? 理不尽に家を焼かれ、理不尽に捕まえられ、理不尽に死刑にされる。そんな理不尽の円に貴方はもう奥の奥まで引きずり込まれてるの。
……諦めた方が身のためよ」
少し、瞠目した。どうしてこの人は僕の身の上を知っているのだろう。
それと同時に、この人もかつて何かを諦めたような、そんな気配がした。とても厳しいことを言っているようだけれど、でも、それは説教なんて声音じゃなくて、どこか端的に自分のことを話しているようだった。
諦めた方がいい。その言葉に目を伏せる。確かにそうかもしれない。
暖かい木の家も、キラキラと光る窓ガラスも、朝食の失敗作の臭いも、優しく笑う父の姿も、今ではもう、酷く遠いところに行ってしまった。あるいは、僕が遠いところまで来てしまった。今、目前に広がるのは赤い火の記憶と、漠然とした死の気配のみ。そこから逃れ、再び優しい記憶の中に戻るには、彼の言うように、顔を変え、己を変え、過去の自分を殺すほかないのかもしれない。
再び諦観が体を支配する。脱力して、どうしようもない。もう何もかもがどうでも良くなって、目を閉じて、もう一度開いて、頷いた。
「変えてください」
悲しそうな笑顔を、向けられた。
すぐに別の薄暗い部屋に運ばれ、注射を打たれてまたベッドに寝かされた。そうすればすぐに眠気が襲ってくる。注射は麻酔だったのだろう。その眠気に逆らうことなく、手術用の白く眩しいライトの中、意識を手放す。
ーーレオ。
雪が降る。
ーーおいで。
しんしんと、静かに。
ーーほら、こんなに積もったよ。
その中に佇む、金色の影。
ーー雪だるまでも作ろう。
微笑みかける影。でも、顔は見えない。
ーーレオ。
伸ばされる手。赤くかじかんだ手。
顔は見えない。
見えないけど、誰かは分かる。分かるから……。
光が遠のく。金色が、伸びて消えていく。
「おはよう」
声がかかる。
瞼を開けた。
目線をずらせば、厚化粧の顔と目が合う。顔は、柔らかい笑顔をたたえている。
瞬きをすれば、自分に睫毛が復活していることに気がついた。随分長いのか、瞬きをすれば少しだけ目の下に当たる。前は知らない感覚だ。
手を借りて起き上がれば、僕の体は真っ白な肌を纏っていた。焼けただれ、黒ずみ、腐ったような臭いがする皮膚は影も形もなく、まるで赤ん坊のようなまっさらな皮膚だ。腕も、足も、腹も、胸も。全部真新しい白い肌だ。
裸では寒いだろうという計らいか、同じく白いシーツを手渡される。有り難く頂戴し、頭からかぶる。その際に柔らかい毛が手に当たった。
髪の毛だ。久方ぶりの感触に感動すら覚える。とても柔らかく、指通りがいい。視界の端でチラチラ見える限り、金髪のようだ。長さもそこそこある。
髪を触っていると、はい、と手鏡を渡された。顔を確認しろという意味だろうか。ありがたい。鏡を受け取り、顔を映した。
そこには、少女が映っていた。
サラサラの金髪に、髪と同色の睫毛。長いそれに縁取られた緑色の両眼は見慣れたもののはずなのに、全く違うものに見える。薄く桃色に色付いた豊頰と小さな唇。肌は白磁と呼ぶに相応しく、まさに美少女というような風貌だ。
しかし、
「あの、僕。男なんですけど……」
鏡の中の美少女が顔を引きつらせた。どうやら本当に僕の顔らしい。
「知ってるわよ。隅々まで見たもの」
ふふ、と笑ったその人は腕を組みながら言う。ならば尚更、と口を開きかけた時。
「でも、『可愛い女の子』の方が色々都合がいいのよ」
そう言ってばちん! とウィンクを飛ばされた。何故か少し背筋が冷たくなった。
ーーーーーー
「お、お待たせいたしました」
マダムからお借りした(本人曰くあげた)大きいシャツの袖を捲りながら、ルイスさんの待つロビーに行く。
暇を持て余していたのか、ルイスさんは椅子の上に立ち、何故かトランプタワーを天井に着きそうなほどの高さまで積み上げている。一体何をしているのだろうか。
ぐりん、と僕の方を高速でルイスさんの首が向く。軽くホラーだ。
しかし、僕の姿を視認した瞬間、凶悪な顔つきをしていたルイスさんは、その一切の気配を消し目を見開いた。かなり間抜けな顔である。
「…………幼女?」
たっぷり間を置いて、小さく間抜けな声がルイスさんの口から漏れた。ついでにその言葉とともにトランプタワーが崩れ落ちた。
……幼女?
疑問符を頭に浮かべていると、こそ、とマダムが耳打ちをして来た。
「ルイスね、ロリコンなのよ」
意識が遠のいた気がした。