裏路地四丁目 01
ふわりと、優しいパンの匂いとわずかな温度が風に運ばれて来る。目を瞬かせ、少し薄暗い店内を見回した。
「何をしてるんです、閉めますよ」
木製の重そうな扉を抑えながらルイスさんが少し眉間にしわを寄せ、怪訝そうな顔をする。あわや扉に挟まれそうになり、慌てて店内へと体を滑り込ませた。一層パンの匂いが深くなり、じわり、と包帯越しに暖かい空気が触れてくる。その温度の正体は店の正面向かって左奥で燃える暖炉の火だろうか。
きぃ、と軋む音を立てながら閉じた扉と共に再びベルがからんと鳴った。店内は瓶や箱などが陳列された棚が壁沿いに並んでおり、正面には無人のカウンターが無言で佇んでいた。妙なことに、強く香るこの匂いの元であるはずのパンが、何処にも見当たらない。それを除けば、何を売っているかは見当もつかないが、ごく普通の店に見える。
かつんと足音が一つ、無音の店内に響けば、次いで足音が連続する。僕の横を通り抜けた黒づくめは無人のカウンターに近寄り、少しだけ身を乗り出して奥の壁に収まる、あめ色の「STAFF ONLY」と書かれた扉に声をかける。
「エレーニ、いますか?」
女性の名前らしきものをルイスさんが呼ぶと、少し遅れてからくぐもった声で「はーい」と聞こえてきた。そのすぐあとに物を落としたりつまづいたりしたような物音がしばらく続き、ようやく扉ががちゃりと開いた。
「いらっしゃいマセ! ご用件はなんでショウか?」
訛り気味の言葉と笑顔を伴って出た顔は、非常に印象深かった。
白い長い髪を頭の高いところで無造作にくくられた後ろ髪と、サラサラの目の上で切りそろえられた前髪とのコントラストが妙な髪型。優しげな緑色のタレ目の瞳に、柔らかい笑顔を湛えた薄い唇の口元。しかし、奇妙なことに、彼女の顔は目元、それも左目のみと口元を除き、全てが包帯に覆われていた。見え隠れする肌は所々黒ずんでおり、何かの病気なのだと見て取れた。知らず、唾を嚥下する。
「あラ! ルイスだったノネ。また何か壊したノ? 嶺上がまた怒るワヨ?」
自らが身につけた深いワインレッドのドレスのシワを伸ばしながら、女性がルイスさんに声をかける。知り合いのようだ。
「壊してません。今回はマダムに用があるんです」
「……とうとう取る気ニ……」
「取りません」
ごくり、と効果音が付きそうなほど神妙な顔で呟いた女性に、すかさずルイスさが否定の声を上げる(取る、とは一体どう言う意味なんだろう)。なんだ、と力の抜けた顔で笑ったその人は、じゃあマダムに用があるのはこの子? と僕に視線を滑らせた。暖かな緑色に尻の辺りがむず痒くなった。
「珍しいワネ! 貴方が斡旋なんテ」
「しばらく行動を共にすることになったので、こんな目立つ格好だとこっちが困るんです。途中でアレも拾わなくちゃいけませんし」
はあ、と大袈裟に溜息を吐いたルイスさんがちら、と僕に非難がましく目線をよこした後、再びカウンターに寄りかかるようにして彼女に顔を近づけた。側から見ればまるでナンパしてるようだ。
「マダムへの斡旋と、アレが来る時間はどうなってます?」
「マダムは今日は予約が無いらしいからすぐ行けると思うけド、あの子はどうかしラ。よく時間が変動する子だカラ.……」
「それならそれで放っていきます。先にマダムのところへ行きたいので繋げていただけますか」
「お安い御用ヨ!」
そう言ったその人はにっこりと笑った。よく笑う人だ。
とん、と軽く自分の胸を叩いたその人は、カウンターの横の壁に付いている磁石式電話機に手を伸ばした。こんな高価なものがあるということは、僕が思っているよりこの店は繁盛しているのかもしれない。
ぎいぎいと、少し錆びついた音を出すハンドルを回しながら女の人は受話器を取ると、僕にはわからない言葉で話し始めた。彼女の訛り方からして外国人なのは明らかだったから、特段驚きはしなかった。その人は僕たちと話すときと同じように穏やかかつにこやかに話しをしている。
どれほどそうしていただろうか、しばらくしてようやくその人は受話器を元の場所に掛け直した。
「繋がったワ。気をつけていってらっしゃイ」
にこ、と笑ったその人が行儀よく手をひらひらと振った。
繋がった、とはどういう意味なんだろうか。そう疑問に思った瞬間、ドアのベルがからんと一つ鳴った。来客だろうかと振り返れば誰もいない。
首をかしげる僕に声をかけることもなく、横をすり抜けた黒い細い背中。慌てて女性にお辞儀をして、その背中を追いかける。あの二人が何を話しているのかはよく分からなかったし、マダムという人に僕がなんで用があるのかも分からないが、取り敢えずはこの男に着いていくしかない。我ながら思考停止にも程があると苦笑する。
からんとベルが鳴り、ドアが開かれる。ルイスさんが出た後に続くように僕もドアを潜った。
外に出た、はずだった。
「あら、ルイス。いらっしゃーい」
そこは白い石でできた部屋だった。
部屋の中は香水の甘い匂いに満ちていて、さっきのお店とは種類の違う清潔感がある。
慌てて振り返って銀ノブをひねり、ドアを開く。
そこには何もなかった。
路地裏の無機質な石畳も、さっきの温かみのある木造の部屋も、何もなかった。
ただぽっかりと、漠然とした黒い闇が口を開けているだけだ。
僕が闇の前で呆然としていると、借り物のコートのフードをぐい、と引っ張られ、バタンと乱暴に目の前でドアを閉められた。言わずもがな、ルイスさんの手である。
顔を上げると、面倒なことしやがってと言わんばかりの目つきで睨まれる。まるで蛇に睨まれた蛙だ。
「今日のお客さんはその子かしら?」
緊張が走った僕とルイスさんの間に割って入るようにこの部屋に入ってきたときと同じ声がした。しかし、口調は女性なのに声が随分野太い。不思議に思い振り返ると、
「あら、綺麗な頭の形してるわねえ」
おじさ……、おばっ、おじ……?
ピンク色の髪。バッチリ決めてるメイク。ばさばさの睫毛。ぷるっぷるの唇。
だがしかし、その顔立ちと体格は完全に男性のものだ。190cmはあるかという身長に服の上(寧ろパツパツ)からでもわかる筋肉がしっかりついた体。ゴツい顔。
男、いや、女……? どっちだ……?
じー、と見てるのがバレたのか、そこそこ強めの力でルイスさんに後頭部を叩かれた。脳が揺れて視界に軽く星がチラついた。
「このクソガキの火傷跡を消して欲しいんですけど、できますか?」
ふ、と響いた声に一瞬理解が追いつかなかった。
ーー火傷跡を消す、と言ったのか?
この、目も当てられないほど醜くなってしまった顔を? そんな事が実現するのか?
思わずマダムと呼ばれる彼(彼女?)を凝視した。それに気づいた密度が高い睫毛に縁取られた青い瞳がすう、と細められる。品定めをされている気分だ。あまり良いものではない。
「まずは傷の具合を見なくちゃ……何とも言えないわね」
左手を頰に当てながら、少し困ったように言われた。それもそうだ。牢獄で見た自分の姿は、かつて幸せに満ちていた能天気な少年の姿から程遠く、酷く醜いものになっていたのだ。
ーー期待はしない方がいいかもしれない。
きゅ、と借り物のコートの裾を握りしめた。ファーが少し潰れてしまったから、また睨まれるかもしれない。
「ねえあなた、名前を教えてちょうだい?」
大きな体躯を縮めるようにかがみ、僕に視線を合わせたマダムと呼ばれるその人は、優しげな笑顔で問いかけた。
「え、あ……。えと、レオ、です」
長らく声を出していなかったからか、声が一瞬喉に引っかかった。吃音も酷くなってしまい、少し恥ずかしい。
「レオ、ね。わかったわ。じゃあ、奥の部屋に来てくれるかしら」
「え……」
す、とその人が指差した先には、ぽっかりと壁に開いた穴、薄暗い廊下だ。
怖い。
知らない人も、暗いところも。今覚えば、僕の周りには知らない人しかいない。この黒ずくめの男を信用してもいいのかもわからない。頭を掻き乱して、喚いて、逃げ出したいほど怖い。
じり、と踵が後ろにずり下がった時、とん、と背中を押された。
「……傷が痛みますか」
背中に触れるのは、男の掌だった。
手袋と、コートと、囚人服と、包帯に阻まれて体温なんて感じないはずなのに、触れられている場所がじんわりと暖かい。不思議と、不安と恐怖が気味が悪いほどすんなりと僕の奥へと引っ込んだ。震えもずり下がった踵も止まった。
思わず少し高い位置にある男の顔を凝視した。相変わらず澄ました無表情だ。気遣うような台詞を言っておきながら、その顔には気遣いなんて言葉は微塵も載っていない。なのに、触れられた手が嫌に暖かい。不本意ではあるが、ほっとする。
視界の端にひら、と何かが舞った。
黒い蝶だった。光を反射しない黒々とした羽を優雅に揺らめかせながら、霧のように空中に消えた。
ーーあのキャシーという人形だろうか。
ふと、『マドール』という存在を思い出す。
可愛い人形の中に、悪魔を内包しているという。兵器と呼ばれる人形。もしそんなものをこの男が本当に作っているのだとしたら、この男は魔法使いなのだろうか。
ーー魔法使いなら、どうせ逃げられない。
不意に、諦観にも似た囁きが僕の耳奥をくすぐった。
その声を聞いた瞬間、肩の力が面白いほど抜けた。ずり、と足を引きずってマダムと呼ばれる男に近付いた。
逃げられないなら、仕方ない。
不思議なほどに脱力した体と心に、投げやりな気持ちが芽生える。足を引きずりながら、奥の部屋へと案内された。
後ろで赤い目を細め、蝶を手にしながら、僕を見つめる男のことなど露ほども知らず。