幼女趣味と弛緩主義 02
「あのう。これからどこに行くんですか?」
ガタガタと揺れる車内。結局あれよあれよと言いくるめられて後頭部座席に乗り込まされた僕の声にぐるん、と同じタイミングで前の二つの首が振り返った。ホラーだ。というか金髪の方はちゃんと前を向いて欲しい。事故が起きる。
そんな思いが通じたのか、二人はまた同時に前を向き、今度はルイスさんだけが地図を手にこちらを振り返った。
「国境を超えます。貴方の故郷に帰るにはこの大陸を西に横断、その後に船で隣の大陸に渡り、北西の方へ向かえば着きます」
丁寧に指で指し示しながらルイスさんは説明をしてくれる。相槌を打っていると、しかし、とルイスさんは今僕たちがいる大陸の中頃を大きく円を描くように指を滑らせた。
「ここは死の砂漠地帯の上、非常に勢力の強い軍事国家がど真ん中にあるんです。そこを横断するとなると、命がいくつあっても足りません。故に、この砂漠地帯を大きく迂回して」
ぐる、とその円の上に今度は黒い手袋に包まれた指が滑る。とん、と軽く指先で叩いた箇所には小さく文字が書かれている。
「北部を通ります。尚、私たちはお尋ね者なので人目を忍んで森の中を通る必要性があります。それがこの『スルドの森』。内部に遺跡がある為人目を完全に遮断できるわけではありませんが、馬鹿正直に往来を通るよりはマシです。そして、森を抜ければそのまま海に……」
突如、激しく揺れる車体。飛び跳ねた紙袋から服が飛び出し、それに飲み込まれる。間抜けな声が出た。
慌ててその海から顔を出そうとすれば、もの凄い力で後頭部を抑えられ、布の海にさらに沈む羽目になった。息が苦しい。窒息してしまいそうだ。
「なんですか」
「軍警だね。見つかったみたいだ」
「なるほど。迎え撃ちます。運転は任せますよ」
「あいよ!」
くぐもった耳に届く会話。今軍警に追われているのだろう。ぎゅ、と無意識に服を掴むと、ルイスさんの声が静かに降ってきた。
「今から揺れます。頭を打たないように、できるだけその中に顔を埋めていなさい」
その声がしたと思ったら響く何かが破壊される音。車に何か当たったのだろうか。くぐもった金髪の「おれの車ー!」という絶叫が聞こえる。
そこからはもう何が何だか分からなかった。
前後左右、下手したら上下にも動いていたかもしれない車体。飛び交う銃声と硝煙の臭い。時々遠くに聞こえてくる悲鳴に余計恐怖心が煽られる。
そして一回、大きく揺れる車。思わず服の海の中から放り出された僕は車外の光景が目に焼きつくようだった。
並走する軍警の車。中には切羽詰まった表情の男がハンドルを握っている。その男の隣に座る銃を片手に持った男は、黒い機械を握って何かを叫んでいる。口の形でわかった部分は一箇所だけ。
「子供が人質にとられている」
「ルイス頭引っ込めて!」
金髪の声と、黒い影の面積が急激に増える視界。ルイスさんは天井の窓を閉めながら銃を持った左手でもう一度僕の頭を服の海に沈めた。天井に窓なんかあったんだ、なんて呑気なことを考えながら大人しくもう一度服の中に沈み、今度は横殴りの重力を感じた。
ぎゃりぎゃりと金属と何か硬いものが擦れる音をさせながら車がガタガタ揺れている。もしかして斜めになって狭い道を無理やり進んでいるのだろうか。まるで小説の中だ。
「裏路地四丁目、右角曲がってすぐ!」
金髪の大声とともに、遠心力がかかる体。服ごと跳ねてあちこちぶつかった。そして今までで一番大きな衝撃と破壊音。車が大破したのだろうか。何かが完全に壊れ切った音をさせながら車が完全に停止した。どこかにぶつかったのだろう。早く車から降りて逃げないと。
無様に服の中で溺れるようにもがき、なんとか外に出ようと試みるが、左手にぴり、と鋭い痛みが走った。思わず引っ込め、傷口を見ればどうやら割れた窓ガラスか何かで切ったようだ。血がどくどくと溢れてくる。後から後から、真っ赤な絵の具みたいに非現実的だ。せっかく綺麗になった肌がもったいない。
傷口の血を舐めて止血していると、不意に視界がひらけた。ぱら、と少しだけガラスが落ちてくる。
骨張った手に腕を掴まれ、服の中から引きずり出される。その手の主人は少し髪や服が乱れているルイスさんだった。頭から血が垂れている。怪我をしてしまったのだろうか。
引きずり出され、ようやく地面に足がついた。車は完全に横転しており、酷い有様だ。窓ガラスは完全に割れ、タイヤは破れているのか萎びている。
ふと、自分の足元が想像していた石畳ではないことに気付く。どこかで見た木製の床だ。
「もー。急に入ってこないデって何回も言ってるデショ! ビックリしちゃったわヨ!」
つい最近聞いた声に肩が跳ねた。横転している車の向こうを回り込むようにして覗くと、そこにはワインレッドのドレスをたくし上げて怒っているエレーニさんがいた。
「え、エレーニさん?」
「あら? あらアラ? アナタ、ルイスの新しいガールフレンドかしラ?」
「えっ、違いますけど」
「まアそうなノ。こんなに可愛いの二……」
たくし上げていたドレスを下ろし、車から一歩離れたエレーニさんはにこにこと笑いながら僕に近付く。怒りはどこかへ行ってしまったのだろうか。
なんて、呑気なことを考えていると、ひょい、とエレーニさんに担ぎ上げられる。
目を点にする間も無く数歩車から離れたエレーニさんは木製の簡素なスツールの上に僕を座らせた。怪我をしてるのね、と僕の左手を優しく撫でたエレーニさんはちょっと待っててね、と踵を返し、カウンターを軽く飛び越えて奥に引っ込んでしまった。思ったよりアクロバティックな人らしい。
「おれの車……」
「諦めなさい。もうどうしようもありません」
「また嶺上にどやされるよ……」
「……お疲れ様です」
二人の会話をBGMに、ぐる、と辺りを見渡す。どう見てもさっきルイスさんと入ったパンの匂いがするお店だ。カウンターの横の磁石式電話がそれを物語っている。改めて車の大きさとドアの大きさを見比べる。明らかに車の方が大きい。それなのに、ドアの方は無傷で車の方が重症だ。
「どうなってるんだ……」
思わず呟いた言葉にルイスさんが振り返る。真っ赤な目が爛々と輝いており、顔には「聞きたいですか?」と書かれている。どうやらこの秘密を知っている人らしい。意外と表情豊かな人だ。
「このエレーニの店には私が手がけたマドールの力が適用されていて、それもマドール一体だけの力ではなく、空間制御、施錠、魔導粒子操作、移動システム、その他諸々の能力を持った複数のマドールたちの複雑な百を超える組み合わせを絶妙なバランスで配合して」
「要するに魔法だよ。魔法」
長々と喋り出したルイスさんに割り込むように金髪が口を挟む。正直とても助かった。あのまま話されても一ミリも理解できる自信がない。
「自己紹介が遅れてごめんね。おれ、ウィフレッド。ルイスの弟だよー」
にこ、と軽薄そうに笑ったその男、ウィフレッドはルイスさんの弟だという。言われてみれば口元や鼻の形が似ている気がする。目元は前髪で隠れていて比べようがないが。
よっこらしょ、と座り込んでいた体勢から起き上がったウィフレッドさんはどこかのっそりとした熊を思わせる動きで車をがん、と蹴った。その衝撃で耳障りな金属音を響かせながら、車はもとのあるべき体勢へと元どおりになった。恐ろしい脚力だ。その金髪の青年はそのままトランクをあけ、中の物を整理しているようだった。
その様子をため息混じりに見つめていたルイスさんは、もう一度僕の方を向いて話し始めた。
「端的に言えば、ウィフレッドの言うように魔法の効果でこの店は成り立っています。仮に軍警が私たちが車ごとこの店に突っ込む姿を目撃していたとしても、もうこの店はその場所に存在しないので半永久的に身を隠すことが可能です」
「す、すごいですね……?」
「凄いですよ。凄いからこそ、世界から忌避されるんです」
正常な形に戻った車のドアを無理やり素手でこじ開けたルイスさんは、中に積んでいた旅行鞄や買った物を引きずり出しはじめる。黒い鞄は相変わらず重そうな音を立てて床に降ろされた。色取り取りな服を取り出しながら、これはもう着れない、これはまだ着れる、と二つに仕分けしている。なんとも言えない複雑な気分だ。
「おまたセー! さあ腕を見せてちょうダイ」
突如、エレーニさんが飴色の扉から箱を持って飛び出してきた。彼女は車が邪魔で横の通り道を使えないからかそのままカウンターを飛び越える。……少し下着が見えて居た堪れない。
救急箱だと思われる箱を開けたエレーニさんはどこかこなれた様子で僕の左手の傷を手当てし始める。出血は派手だが傷は浅かったらしく、痛みはさほどない。消毒液は流石にしみたが。
手早く僕の処置を終えたエレーニさんは、未だ服の仕分けをしているルイスさんを流れるように立たせ、足で椅子を引き寄せ、その上に座らせて額の手当てを始めた。非常に慣れている。今までのルイスさんの傷の数が伺える。
「車がああなったら嶺上の所に行かなくては。エレーニ、後で構いませんので繋げていただけませんか」
「いいワヨー、でもその前に手当てネ」
「はい……」
ぴしゃり、と言い返されたルイスさんが心なしか元気のない声で返事をする。まるで妻の尻に敷かれている夫か、母に頭の上がらない子供のようだ。
「あの、さっきから言ってるリンシャンさんって誰ですか?」
「ああ、エンジニアです。車のカスタマイズやその他諸々の武器の改造等を担ってくれています」
「へえ……」
「しかし、その為には報酬を調達しに行かなくては。私はこの通り動けないのでウィフレッドに頼みたいのですが」
「えー、おれ一人? またなんかやっちゃいそう」
「……トラブルメーカーなので。貴方も同行願います」
「……それ、僕が付いて行ってどうにかなる物ですかね」
「多少は緩和されます。多少は」
二回言った。大事なことなのか。
やったー、デートだね、ウィフレッドさんはトランクから一つの鞄を取り出しながら笑った。少し草臥れたカーキ色の柔らかそうな布製の鞄を肩にかけながら、ウィフレッドさんはポケットから出した手袋を手にはめる。ルイスさんの物と色が同じだが形が変わっており、こちらは指が出ていて手首まで保護されているものだ。
もう一度にこり、と僕の方を見て笑ったウィフレッドさんはじゃあ行こっか、と店の扉に手をかけた。慌てて椅子から飛び降りてその人についていく。開かれた木製の扉の向こうの光がとても眩しい。