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その日の夜は、アスファドの出席するパーティにマリヴィアも付き合うことになっていた。しかしマリヴィアは、
「昼間、色々あって疲れました。欠席させて」
と申し出た。アスファドは当たり前のように答える。
「じゃあ俺も欠席する。お前が一緒でないなら、出ない」
「何を言ってるの、大事なパーティでしょ? ……それじゃあこうしましょう。私、パーティのあるホテルに泊まるわ。そこで先に休んでいるから。すぐ近くにいるのだから、いいでしょう?」
アスファドはやや不満そうだったが、結局それに同意した。
「わかった。リーアムをお前のそばに置いていく」
日が落ちた頃、アスファドを送り出してホテルの一室に残ったマリヴィアは、
「それでは僕は控えの間にいますから」
というリーアムを呼び止めた。
「屋敷に忘れ物をしてしまったの……私の枕。持ってきてくれない? あれじゃないと眠れなくて。侍女に言えばわかるわ」
「でも、僕は奥様のおそばについているようにと言われていますので。人に頼みますね」
「ダメよ、恥ずかしい。あの枕がないと眠れないなんて、子どもみたいだもの、他の人には知られたくないわ。リーアムに行ってほしいの、お願い」
強引に説き伏せると、リーアムは少し迷ってから、
「わかりました。すぐに戻りますから、眠れなくても横になっていらして下さい。少しは疲れがとれますよ」
と言って出かけていった。
その隙に、マリヴィアはホテルをさっさと抜け出した。
(ごめんなさい、リーアム。夫があんななのに、私までわがままを言って……。でも、一人で行きたいところがあるの)
目指すのは、町のすぐ外。交易隊の護衛についてきた草原の部族が、そこで野営していると聞いていた。
(なぜか、アスファドは隠し事をしている……。彼のいないところで、部族の民から聞き出さなくては。冷たい炎って、何なのか)
まだ宵の口だったので、途中で馬車を拾うこともできたが、そうするとすぐに足がついてしまう。マリヴィアは手持ちの靴の中でもっとも歩きやすいものを選んできており、ランプを手に長いこと歩き続けた。
会社の倉庫のあたりまで来た頃には、靴擦れができ始めていた。
「歩きやすい靴でも、慣らしていないんだから当たり前よね……もっと普段からたくさん歩いていればよかった」
マリヴィアは痛みに顔をしかめながら、倉庫の横を通り抜けて川岸に出た。
川にかかる橋を一本越えると、そこから林が始まっている。林の奥に、交易隊を護衛する者たちのテントがあると聞いていた。
下生えに足を取られながらマリヴィアが歩いていくと、林の奥で何かが光る。
その光は二つ一組になっていて、ゆっくりと移動していた。彼女の方を見ている。
マリヴィアはギクリと足を止めた。
(……狼)
一頭ではなかった。数頭の大きな狼が、耳を立ててマリヴィアの方を見ている。
その時、鋭い声がかかった。
はっとしてそちらを見ると、篝火とテントの影、人影もいくつか見える。かけられた声の内容は、部族の言葉のようで意味はわからなかったが、おそらく誰何されたのだろう。そう予測したマリヴィアは、サンティ語で声を上げた。
「アスファドの妻、マリヴィアです。言葉がわかる方は、いらっしゃる?」
奥に見える篝火から、燃える薪を一本取った人物が、近づいてきた。炎に浮かび上がる顔は、昼間話をしたあの初老の男だ。
「アスファドの妻。何をしに来た」
マリヴィアはホッとして言った。
「今日ならまだあなたがいると思って……その間に話をしたくて来たんです。でもあの、狼があそこに何頭も」
「狼は神の使い。我々に寄り添い、見守っているだけだ」
「そ、そうなのね。あの、冷たい炎について、もう少し教えて下さらない?」
「なぜ、知りたい」
男に聞かれ、マリヴィアは用意してきた言い訳を言った。
「だって、交易隊を襲うんでしょう? 夫の会社に関わることですから、私も知っておきたいの。夫は今日は忙しいので、あなたから聞こうと思って」
たき火のそばに案内され、男は倒木に腰掛けた。マリヴィアも、同じ倒木の端の方に座る。
「冷たい炎は、十数年に一度現れる。自分の片割れである乙女を求めて、草原をさまよう」
とりあえずの基礎知識なのか、男は淡々と言った。マリヴィアはそれをとっかかりにして質問していく。
「片割れ? 炎の片割れが、人間の乙女なの?」
「古の昔、巨大な冷たい炎があった。生命あるものを灰にする力を持っていた。部族の巫師たちが戦い、炎の一部を切り取って巫女の身体に封印することで、大きな炎は力を失った。巫女が死ぬと、大きな炎も姿を消した。しかし滅びたわけではない。巫女は、炎の一部を身体に宿したまま生まれ変わる」
マリヴィアはつぶやく。
「生まれ変わる……」
部族の男は続けた。
「巫女が成長すると、大きな炎が気づく。どこからともなく湧き出してきて、巫女の中の片割れを取り戻そうと巫女を探し始める。交易隊がそれに遭遇すれば、被害が出る可能性がある」
昼間のように、交易隊の人々や荷物が灰にされてしまうのだろうか……とおびえながら、マリヴィアはつぶやいた。
「そうなの……。でもそれでは、巫女はいつも危険にさらされているのね」
「部族に今、巫女はいない」
「えっ」
「この十八年、部族に巫女は生まれていないのだ。しかし、数年前から冷たい炎が姿を現し、草原をさまよっている」
(十八年……前の巫女は、私が生まれる少し前に亡くなっているということね)
マリヴィアは首を傾げた。
「でも、さまよっているということは、どこかに自分の片割れがいるのに気づいたからでしょう? 違うのかしら」
男は首を振る。
「わからない。部族に巫女が生まれないのも初めてのことだ」
「そう……」
少し考えてから、マリヴィアは質問した。
「交易隊の護衛についているあなた方は、もし冷たい炎が現れたらどうするの?」
この質問に対する返事が、『入れ墨のある腕で追い払う』であれば、アスファドは嘘をついていることになる。
(あの黒い染みこそが、妖精などではなく冷たい炎で、入れ墨も妖精に対する護符ではないということに……)
しかし、男は答えた。
「部族の巫師が、炎のおおよその場所を感じ取ることができる。その場所を避け、交易隊を誘導して道を変える。巫女がいなければ、炎を消すことはできない」
(それなら、アスファドの腕で消すことができたあの黒い染みは、冷たい炎ではない、と思っていいのかしら。彼の言うとおり、草原のいたずらな妖精なのかも。いたずらな妖精なら、人間の夢に入り込むこともあるわよね)
自分のおかしな夢は、そういうことなのだ。マリヴィアはようやく、少しホッとすることができた。
(そうよ、昼間は妖精に触れたとき、服は灰になったけどアスファドの腕は何ともなかったもの。妖精はきっと、身体に傷をつけることはできないんだわ。それなら、そんなに怖くない)
マリヴィアは立ち上がり、男に礼を言った。
「よくわかったわ、ありがとう。ごめんなさい、こんな時間におしかけて」
「馬車が拾えるところまで送っていく」
男は身を翻し、テントの向こう側に一度姿を消すと、馬を引いて戻ってきた。
ふと思いついて、マリヴィアは言った。
「それにしても、巫女に生まれた人は大変ね。成長して、冷たい炎が彼女に気づいてしまったら、それからずっと逃げ回らなくてはいけないのでは?」
「巫女は、恐れぬ。逃げぬ。そのように育てられる」
男は言った。
「巫女の死によって、それから十数年、草原の平和が保たれるのだから」
「……えっ」
マリヴィアは息を呑む。
男は続けた。
「冷たい炎が巫女と一つになった瞬間、巫女は炎とともに、巫師の手によって死ぬのだ」
その言葉の意味を理解した瞬間――
マリヴィアの胸が、大きく一つ鳴った。
(生贄)
急に、マリヴィアの脳裏を不思議な光景がよぎった。
一頭の巨大な狼が、目の前に横たわっている。まだ若い狼のようだが、頭部が血に染まっていた。
手が――おそらく彼女自身の手が、狼の首のあたりを撫でる。
『もう少し一緒にいられると思ったのに……先に死んじゃうなんて』
声が、喉をふるわせて通り抜けた。まだ幼い声。
知らないはずの知識が、マリヴィアの脳内に浮かんだ。
野生の狼の寿命は五年ほどだが、神の使いの巨大狼は十数年生きること、そして――
巫女が生贄として死ぬのも、同じくらいの年であること。そのため、生贄となる巫女は狼と共に育てられるのだ。神に仕える者は、人も狼もそのくらいの寿命で死ぬのが当たり前なのだと、それが自然なのだと、巫女が思うように。
しかし、目の前の狼は、怪我によって天寿を全うせずに死んでしまったらしい。
『神様の使いも、生まれ変わる? いつかまた、会えるかしら。それは私が生まれ変わった後かしら』
狼を撫でていた人物は、ふと空を降り仰ぐ。
『どうせなら、私のところに早く来て。私の命を奪う、冷たい炎よ』
ダメだ、と、何かが警鐘を鳴らした。
その先の言葉を、口にしてはいけない、と。
しかし、彼女は言った。マリヴィアの唇も、それに合わせて勝手に動いた。
「《ゾブーグォルブ》」
遠く遠く、林を抜けた先の草原で、黒い影がうごめき――
マリヴィアに、気づいた。