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紅葉が深くなった頃、アスファドとマリヴィアの結婚式が執り行われた。
マリヴィアのウェディングドレスの布地はアスファドの会社で扱っているものだが、デザインは彼がサンティの古都に住むデザイナーに発注したものだ。伝統と新しさの入り交じった、洗練されたデザインが女性たちの目を引く。
これでますます、彼の会社は発展するのだろう……と、マリヴィアは頭の片隅で考える。
「どうやってあんな金持ちを捕まえたのよ」
とうらやましがる友人もいれば、
「蛮族との結婚なんて」
と眉をひそめる友人もいた。草原の部族を、文化的な発展をしない野蛮な存在だとして下に見る人間も多かったのだ。
マリヴィアは草原の部族を、古からの伝統を守り自然に寄り添う人々だと考えていたので、アスファドを下に見るようなことはなかった。
目標を決めたら脇目もふらず、たとえ故郷を離れても全力で駆けていってつかみ取る――その野性的ともいえる彼の生き様は、部族で培われた強さから来るものだろう。つかみ取られたのが自分だというのは、マリヴィアにとっては戸惑うばかりだったが、その過程で築き上げたものや関わる人々を豊かにしていく様は、向上心があり頼もしく、好ましい。
(この人の手伝いをしたい、そう思わせるものがアスファドにはあるんだわ。引き込まれる。連れて行ってほしいと思う。そう、私も……)
教会を出て馬車に乗る前に、マリヴィアがそっと顔を上げると、すぐにアスファドと視線が合う。
彼はずっと彼女の腰に手を回していて、そばから離さない。
熱をはらんだ瞳がマリヴィアの胸を高鳴らせた。
「狼みたいだわ……」
寝台の上で――
マリヴィアは気怠げに、自分の胸元にあるアスファドの頭に触れながらつぶやいた。
「ん?」
顔を上げたアスファドに、マリヴィアは謝る。
「いえ、ごめんなさい。あなたの灰色の髪に、初めて触って……狼のたてがみってこんな風かしら、と思ったの」
「そんなに獣みたいだったか? 優しくしたつもりだったのに」
彼はぐっと伸び上がって、マリヴィアの鼻をぺろりと舐めた。
本当に犬か狼に甘えられているようだ、と思いつつ、マリヴィアは「そういう意味じゃないわ」と赤くなる。アスファドは笑って、マリヴィアを抱きしめた。
彼女を抱く彼の右腕には、肘から手首にかけて包帯が巻いてある。彼いわく、
「怪我じゃない。俺の出身部族はこうするんだ。習慣が抜けなくてな」
ということだった。
しかし、彼女はその包帯の下がどうなっているのか、大体のところは知っていた。アスファドとの結婚話が本格化してから、彼女もさすがに草原の部族についての文献くらいは読んでいる。右腕には、部族ごとに違う入れ墨を入れるものらしい。
(サンティの人間にはあまり見せたくないのね。珍しがられるだろうし)
マリヴィアはそう納得していた。
(別に、私には見せてくれてもいいのに)
「マリー。やっと、一日中一緒にいられる」
アスファドはマリヴィアを抱いたまま、広い寝台の上で軽く転がり、マリヴィアを自分の身体の上に載せた。
「お前は俺のもので、俺はお前のものだ。夢の中まで一緒にいられたらいいのにな」
マリヴィアはそのままの体勢でまどろみながら、つぶやいた。
「そうね……あなたなら……夢の中でも、助けてくれそう」
「何から?」
アスファドの声がやや真剣味を帯びたが、マリヴィアは気づかない。眠りに落ちていきながら、ささやく。
「黒い染み……追い払って……」
胸の上で静かに寝息を立て始めたマリヴィアを、アスファドは半回転してそっと寝台に横たわらせた。そして、ランプの小さな明かりにほのかに照らされたマリヴィアの寝顔を、片肘をついて見つめる。
「マリー、お前を絶対に、守る。俺はそのためにいる」
アスファドはささやき、マリヴィアに口づけを落とすと、手を伸ばしてランプの明かりを消した。
アスファドはマリヴィアの用事にいつも勝手について来たが、彼の用事にも彼女をいつも連れて行きたがった。
「新婚夫婦って、みんなこんなものなのかしら」
マリヴィアは用意された椅子に腰掛け、ため息をついた。
そこはアスファドの会社が所有している倉庫の一角で、目の前には運ばれてきた荷がいくつも積まれている。大きな作業台の上にいくつかの荷の中身が出されて、アスファドと商人の間で駆け引きが繰り広げられていた。他にも何人もの人々が、保管されている商品の確認をしたり、注文のあった品を運び出したりしている。
「本当に、いっつも、彼と一緒なのよ。彼のことが嫌なんじゃないけど、たまには一人の時間がほしくなるわ」
「お疲れさまです……。結局、学院の理事長も、奥様がおやりになるんですよね」
茶を運んできたリーアムが、斜め後ろからそっと話しかける。彼はマリヴィアに同情し、何かと気を配っていた。
「ええ……まあ、学院長さんが素晴らしい方で、私はほとんど名目上の理事長でよさそうだったから、それなら……と引き受けたのですけれど。人を見る目があるみたいね、彼は」
マリヴィアは商談中の夫に目を向ける。
作業台の上に広げられた見本の布を挟み、アスファドと地方都市の商人は何やら考え込んでいた。そして商人の後ろの方に、肌の浅黒い草原の部族の男が一人、控えている。
袖口と裾に複雑な刺繍の施された草色の上着、背負われた弓と矢筒。皮の手甲と、ひたいに巻かれて後ろに垂らした布は、黒と赤だ。アスファドも昔は、このような服装で草原を駆けていたのだろうか……と、マリヴィアは想像する。
草原を通る者たちは、王国と部族の古の盟約により、部族の決まりに従わなくてはならない。アスファドが彼らと交渉して交易路を開いた一方で、部族はいくつかの利点から、交易隊を護衛すると同時に見張る役目を請け負っていた。
今、倉庫にいる部族の男たちは、また商人を護衛して帰って行く予定だ。
「ちょっと、外の空気を吸ってきます」
リーアムに言いおいてマリヴィアが立ち上がると、アスファドが振り返った。
「マリー、見えるところにいてくれ」
「ええ」
マリヴィアは短く返事をして、外に出る。遠くに行きたいわけではない。
倉庫を出ると、脇の方に馬車がとめてある。その脇に、サンティではあまり見ない太い足をした小柄な馬がいたので、マリヴィアは少し近づいてみた。馬はたてがみを丁寧に編み込まれ、胸のあたりにビーズ飾りを下げている。
(草原の馬かしら……)
すると突然、彼女と馬の間に部族の男が割り込んだ。
「ひゃっ」
「近づくな。草原の馬は、サンティの馬よりも猛々しい」
低い声で、その初老の男はマリヴィアに注意する。
「ごめんなさい、これ以上は近づかないわ。見たかっただけなの。……あ、言葉が通じるのね!」
マリヴィアはついつい話しかける。
「助かります、私、夫が草原出身なのに不勉強で、部族の言葉がわからなくて」
アスファドに教えてほしいと言っても、「必要ない」と軽くあしらわれてしまうのだ。
「……アスファドの妻か」
男は淡々と言った。サンティの人々はマリヴィアを「男爵夫人」と呼ぶが、部族の人々にサンティの地位は関係ない。彼女はそんな風に考えていたため、特に気を悪くすることもなく答えた。
「ええ、そう。よろしくお願いします。夫が何か我儘を言うようなら、私に言ってくださいね」
マリヴィアは愛想よく続けた。
「護衛って大変そうですね、危ない目に遭ったことはあるの?」
「月日が巡り、獣たちが荒っぽくなってきた。そろそろ危ないこともあるだろう」
「そろそろって?」
「冷たい炎が動き始めたからだ」
その言葉を聞いたとき、マリヴィアの記憶の片隅で何かが小さく光った。
(冷たい炎って、何だろう。私、それを知っている……?)
しかし、すぐにその光は消えてしまった。マリヴィアは質問する。
「冷たい炎って、何?」
「近づくものを飲み込んで、灰にする」
男はやや話し方がたどたどしく、細かい内容は伝わってこない。しかし、マリヴィアにはとても不吉な話に聞こえる。
もう少し聞こうとしたところへ、「マリー!」と声がかかった。振り向くと、アスファドが倉庫の入り口に立っている。
「お話をありがとう、帰り道もお気をつけて」
マリヴィアは男に言うと、夫に近寄った。
「商談は終わったの?」
「ああ。……彼は、サンティ語が話せるのか」
「ええ、上手だったわ」
二人は倉庫の裏手に向かって歩き出す。彼らの馬車はそちらにとめてあった。
マリヴィアは続ける。
「それで、聞いたんだけれど、護衛って強盗や獣から荷を守るためではないの? 冷たい炎、とかいうものが現れるって」
「……交易隊を襲うものを、総じてそう呼ぶだけだ。あまり気にするな。それと」
馬車の陰に入るなり、マリヴィアは頭をがっちりと捕まれ、引き寄せられた。深く、長く口づけられる。
ようやく解放されて大きく呼吸する彼女に、アスファドはニヤリと笑って言った。
「あまり他の男と会話するな」
その言い草に驚くやら、誰かに見られていなかったか気になるやらで、マリヴィアはあわててあたりを見回した。
その時、彼女の視界を、見覚えのあるものがかすめた。
「あ」
「どうした」
「……いえ」
マリヴィアは馬車の後方を見つめたまま、動けないでいた。あれは夢だと思ってきたが、やはり黒い染みが見えたような気がする。しかし、そちらを覗き込む勇気もない。
「マリー。言ってくれ」
アスファドが、戸惑う彼女の顔をのぞき込む。
「俺に教えろ。何が見えた?」
「……たぶん、鳥の影か何かだと思うの……黒いものが、さっと横切っただけ。本当よ」
マリヴィアは言う。
アスファドは彼女の手をつかみ、自分の背中側に回しておいてから馬車の後方に回った。マリヴィアも、彼の背にぴったり身を寄せ、肩越しにそちらを覗く。夫がそばにいると、不思議と恐ろしくない。
馬車の後ろには、何も異常はなかった。
「……ほら、何もいないわ。やっぱり影ね」
マリヴィアはホッとしてアスファドから身体を離し、振り向いて――
「ひっ」
小さく悲鳴を上げた。
すぐ目の前を、再び黒いものが横切ったのだ。彼女の頬に、チリッ、と冷気のようなものが感じられた。
同時に、アスファドが唸り声を上げて振り向きざま、凄まじい速さで右手を大きく振り抜いた。
黒い影を、彼の腕がかすめる。
影はそのまま、すっ、と宙に溶けるように消えた。
「……っ、あなた!」
マリヴィアは衝撃を受けて、アスファドの腕にすがりついた。黒い影に一瞬触れた腕は袖がぼろぼろになっており、生地が灰のようにさらさらと地面に落ちる。
「大丈夫だ。心配ない」
アスファドの声は落ち着いていたが、腕に巻かれていた包帯も一部が崩れ落ちており――
入れ墨の一部が覗いていた。
「これは……何なの? 文献で見たのと違うわ」
マリヴィアはアスファドの手首に触れ、彼を見上げた。
アスファドの右腕には、びっしりと文字のようなものが描かれていたのだ。
「部族の紋章が、絵のように入っているだけだろうと思っていたのに、これは……いえ……私、これをどこかで」
「マリヴィア」
アスファドはいきなり上着を脱ぐと、右腕を隠すようにして持ち、左腕で彼女を引き寄せた。
「この入れ墨は護符のようなものだ。お前は俺が守ると言っただろう? 愛する者を守れるように願をかけて入れた、それだけだ」
「じゃあ、さっきのは何? 知っているのでしょう? 冷たい感じがしたわ、あれが冷たい炎……」
「商隊の馬車が草原を通るときにくっついてきた、いたずら好きの妖精の一種じゃないか? 初めて見て驚いただろう。大丈夫だ、俺が追い払ってやる」
「でも……」
「腹が減った。食事に行こう」
アスファドはマリヴィアの手を引いて馬車の前まで出ると、近くで煙草を吸っていた御者を呼んだ。御者が急いで走ってくる。
「ほら、乗れ。そうだ、家から上着を届けさせないとな」
抱き上げられるようにして馬車に乗ったマリヴィアは、アスファドの顔と、入れ墨の覗く腕の間で視線を往復させた。
(きっとあれが、『冷たい炎』だわ。冷たいのに、アスファドの服を炎のように灰にしてしまった。でもおかしいわ、アスファドと会うまで草原の部族の人とは会ったことがないはずなのに、どうして私の夢に出てくるの? どうして、入れ墨に見覚えがあるの?)
「マリー。大丈夫だと言ったぞ」
アスファドが顔をのぞき込んでくる。
「……ええ、そうね」
マリヴィアは答え、そしていかにも不満そうに続けた。
「びっくりしたんですもの、そんなすぐに落ち着くことなんてできないわ」
「わかったわかった、お前の好きな甘いものを食って落ち着こう」
アスファドは甘やかすように、マリヴィアの頭を抱き寄せて額に頬をすり寄せた。