3
結局、リーアム――アスファドの世話係の青年――が馬車を寄せたのは、王都の中心部にあるテラスハウスの玄関だった。貴族たちの暮らすこの高級集合住宅の一番端が、グローバー伯爵邸。つまり、マリヴィアの王都における自邸である。
アスファドが吠えた。
「何してくれてんだリーアム!」
「誘拐はダメだと申し上げました!」
顔を真っ赤にして怒るリーアムに、マリヴィアは同情する。こんな男が主では、日頃どんなに苦労していることだろう。
「俺はマリヴィアを離さないぞ!」
「だったら男爵もここで降りて下さいっ!」
「それもそうだな」
アスファドはふと表情を変え、マリヴィアを横抱きにして馬車から降りた。彼女はもがく。
「自分で歩きます!」
そこへちょうど、マリヴィアの家族の馬車が戻ってきた。
屋敷の前で揉めているアスファドとマリヴィアの姿を見て、グローバー伯爵夫妻が馬車から飛び出すように降りてくる。
「マリヴィア! 無事なの!?」
「お母様! お父様も、信じて、私は本当に何もっ」
「わかっている、その話は中でしよう。さあ、男爵も中へ」
妙に落ち着き払っているグローバー伯爵が、アスファドを玄関に促すのを見て、マリヴィアは目を丸くした。てっきりこの場で追い返すと思ったのだ。
あれよあれよという間に、全員が伯爵邸の居間に収まった。リーアムも隣の控えの間に招き入れられている。
ソファで向かい合い、グローバー伯爵が口を開いた。
「アスファド殿。結婚までは清いつき合いでいてもらわねば困る」
マリヴィアはソファからずり落ちそうになった。
(どうして結婚前提!?)
アスファドはうなずいた。
「わかった。しかし、俺はマリヴィアと離れたくない」
「もちろん会うのは自由だ。しかし夜はお帰りいただこう」
「何だと……?」
(何だと、じゃないでしょう!? 当り前よね!? え? 私がおかしいの?)
だんだん自分が信じられなくなってきたマリヴィアは、ここでかろうじて割り込んだ。
「あの、何の話をしているんです!?」
「運命の二人がようやく出会ったんだ、片時も離れないのが当たり前だ。離れる前提なのがおかしい」
アスファドはそういって、顎をなでる。
「まあいい、妥協しよう。結婚までの間、マリヴィアにおかしなものが近づかないように見張れれば、それでいい。……このテラスハウス、隣はフォルスト男爵邸だったか? 買い取って追い出すか……」
「やめて下さいっ、結婚までの短期間のために、人を追い出して住むつもりですか!?」
うっかり結婚前提のような言い回しをしてしまったマリヴィアである。
「それもそうだな。やめる」
納得した様子のアスファドにマリヴィアがホッとしていると、彼はいきなり立ち上がり、控えの間への扉を開けて言った。
「リーアム。ここから一番近いホテルの部屋を、今日からとりあえず三ヶ月抑えろ。窓から伯爵家が見える位置の部屋だぞ、最上階がいい」
リーアムが何かキャンキャン言い返し、「そうじゃない、もう一回言うぞ」とアスファドが控えの間に入っていく。マリヴィアはそれを呆然と見送った。
「さすがね……」
ぽろっとつぶやいた伯爵夫人の声に、マリヴィアはぐるんと振り向き、飛び込むようにして夫人の隣に座る。
「お母様っ! どうしてこの結婚話が進んでいるのです!? パーセル様はどうしたの!?」
「いえ、それがね……」
伯爵夫人は、頬に片手を当てて首を傾げた。
「あの後すぐにアスファド殿の使いの方がいらして、ハック伯爵一家に何か耳打ちしたとたんに、伯爵が『まあ、望まれて嫁すのが一番ですな。どうぞお幸せに』なんて言い出して。夫人もパーセル殿も黙ってしまったのよ。それで、何となくそのまま食事を続けることになってうだうだしているうちに、執事から知らせが来て、お父様が売ろうとしていた土地にいい買い手がついた、マウレン男爵アスファド殿だって」
(お金で黙らせたー!?)
マリヴィアは脱力する。
そういえば馬車が動く前に、アスファドがリーアムに何か指示を出していた。途中で一度馬車が止まったような気もするので、きっとその時に関係各所と連絡を取ったのだ。ハック伯爵家も、きっと何かアスファドによって利益を得たに違いない。
父伯爵は小さくため息をつく。
「アスファド殿が予約していた、ファルグラのキュヒア卵添えタリャフソース、美味であった……」
(豪華お食事つきー!?)
名士の中でも一部の人間にしか提供されないという噂のレストラン限定裏メニュー、世界三代珍味が一同に会した一皿を、マリヴィアを連れ出すのに忙しいアスファドは彼女の両親たちにサクッと譲ったらしい。
「ねえ、でも素敵なことじゃない、マリヴィア」
伯爵夫人は両手を合わせてにっこりと笑う。
「多少ふしだらだって噂の流れたところで、ちゃんとアスファド殿があなたをもらって下さるんだし。別にパーセル殿に恋していたわけでもないのでしょ?」
「そ、それはそうですけれど」
「金に苦労しないのは、良いことだ。お前には幸せになってほしい」
重々しくうなずくグローバー伯爵の言葉に、これまでの苦労が滲む。
そこへ、アスファドが戻ってきた。
「失礼した。それで、式の日取りを決めたいんだが」
「早い方がよろしいわね、式を済ませてしまえば噂も早く落ち着くでしょう」
「冬になる前には済ませよう」
伯爵夫妻が答える。
半分魂が抜けたようになっているマリヴィアを、開きっぱなしだった控えの間の戸口からリーアムが気の毒そうに見つめていた。
その日以来、アスファドは本当に近くのホテルで暮らし始め、朝食が終わった頃にグローバー伯爵家を訪れてマリヴィアにぴったり張り付き、夕方になるとホテルに帰るという生活を始めた。
マリヴィアが友人と美術館に行くときも、貴族の務めとして孤児院や病院に慰問に行くときも、彼はいつも後をついてくる(その後ろをリーアムがついてくる)。
「……あの」
何も用事がなかったある日、マリヴィアは自邸のバルコニーで椅子に腰掛けながら、ため息混じりに言った。
「男爵は、お仕事はよろしいの?」
「アスファドと呼んでくれ。俺がいないだけでどうこうなる会社じゃない」
当たり前のように隣に座って足を組み、アスファドはテーブルの茶に口もつけないままマリヴィアを見つめている。
そうはいっても、彼はリーアムを使って手紙のやりとりをしているので、指示を出したり報告を受けたりといった形で仕事はしているようだ。ホテルで朝夕、人に会ってもいるようである。仕事時間と個人的な時間の区別がはっきりしていないところは、貴族らしいといえなくもない。
マリヴィアは横目で彼を睨んだ。
「会社だけではなくて、学院も経営してらっしゃるんでしょう。可愛らしい生徒さんたちが待っているのでは?」
「お前が見つかったから、必要ない」
「えっ……?」
驚いて顔も彼の方に向けると、彼はまたあの、口の端をぐいっと上げる笑みを作った。
「女子学院を作ったのは、十七年前に生まれた女の中からお前を探し出すためだ。まあ、お前は学院ではなく家庭教師から学んでいたようだから、意味はなかったんだな」
「私がその年生まれだと知っていて……?」
「もちろんだ」
アスファドは、ぐっと身を乗り出した。そして、いきなり顔が近づいて驚くマリヴィアの、ドレスの袖口をくいくいと引っ張る。
「お前、ドレスどこで作ってんだ。俺の店に作りに来てれば、もう少し早くお前を見つけられたのに」
マリヴィアは彼の手を振り払うのも忘れ、呆然とアスファドを見つめた。
「女性向けの店を経営していたのも、私を探すため……? あなたは交易でドレス用の布地をよく扱うと……待って。あなたは草原の部族の生まれ。私がサンティにいることも知っていて、この国の国民になったということ?」
声が裏返るのを抑えながら、マリヴィアは言う。アスファドはニヤニヤするばかりだ。
(それではまるで、この人がここまで成り上がったのは全部、私を見つけ出すためみたいではないの!)
アスファドはこれだけマリヴィアのことを知っているのに、彼女は彼のことを通り一遍のことしか知らない。一体どういうことかとマリヴィアは混乱したが、アスファドは先日「覚えていない方がいい」というようなことを言っていた。
せめていつ会ったのか教えてくれと言っても、
「いずれ思い出す時もくるだろう」
というばかりで口を割らないのだ。
「ひ、ひどいんじゃありません? 私を探すために学院を作って、私が見つかったら学院はポイ、ですか?」
勝手なアスファドにせめてもの意趣返しをと思い、マリヴィアは彼を責める。すると、アスファドは「おお」と目を軽く見開いた。
「そうだ、お前に任せようか」
「は?」
「俺だってもちろん、一度始めた学院をいい加減にするつもりはない。経営もうまくいっているしな。お前が理事長になればいい」
「お願いだから、勝手に決めないで!」
マリヴィアは両手を握って立ち上がる。
「だ、だいたいあなた、運命の二人がようやく出会ったなんて言ってましたけど、運命なら最初から同じ国とか同じ部族に生まれているのではないかしらっ!?」
すると、アスファドは彼女を見上げ、少し黙った。
マリヴィアはひるむ。
「な……何ですか」
「いや」
彼は庭園の方に視線を投げた。
「……別の場所に生まれたのは、俺がそう願ったからじゃないかな」
謎めいたことを言った彼は、立ち上がる。そして、そっと彼女の髪を撫でた。
その瞳があまりに愛おしげなので、マリヴィアは動けなくなってしまった。
アスファドはマリヴィアに片手を差し出す。
「これから、学院の様子を見に行くことにする。一緒に行こう。見るだけだ」
「…………」
マリヴィアは黙って、彼の手に自分の手を乗せた。
行かない、と言えば、彼もおそらく行かないだろう。出会って以来、彼は彼女をそばに置いたままほとんど放さないのだ。
その時、不意に彼女の視界をかすめたものがあった。はっ、と彼女は振り向く。
「どうした」
鋭くアスファドが聞くので、マリヴィアはむしろその声に驚いて彼を見た。
「え? いえ、何かいたような気がしただけです。虫かしら」
「そうか」
彼はあたりを見回し、それからマリヴィアの手を引いた。
「行こう」
マリヴィアは少し考えてから。黙ってうなずいた。
二人はバルコニーからいったん部屋に入り、玄関から外へ出た。
サンティの生粋の貴族なら、並んで歩くときは男性の肘に女性が手をかけるものだが、アスファドはマリヴィアの手を握ったままだ。こういう細かいところで文化の違いを感じる。最初は人の目が気になったマリヴィアだったが、徐々に慣れつつあった。
マリヴィアは、そっと視線だけを街路に走らせる。
(あの、夢に出てくる黒い染みが見えたような気がしたのだけれど……きっと気のせいね。だって、あれは夢だもの……)
そんな彼女を、アスファドは歩きながらもじっと見つめていた。