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馬車に連れ込まれてしまったマリヴィアは、あまりの出来事に気が遠くなりそうだった。座席の上で後ずさる彼女の顔をのぞき込むように、半分覆い被さるような格好で、アスファドが言う。
「俺のこと、わからないのか……?」
その切なげな表情に、マリヴィアはうろたえた。
「わ、わから、ない?」
わかるといえば、わかる。マリヴィアの脳内を、この国の貴族なら誰でも知っているマウレン男爵アスファドの基礎知識が流れた。
草原地方の部族出身だという彼は、このサンティ王国辺境部隊の一兵士から手柄を立てて国民となり、中央に取り立てられた。
王国の領土は、まるで月が欠けたようにえぐれた形をしており、そのえぐれた部分には先住の部族が支配する草原がある。アスファドは自分の出身地であるその草原を通る交易ルートを整備し確立、離れた二つの都市を短い距離でつないだ。そして自ら商売の才を発揮し、サンティを発展させたことが認められ、一代限りではあったが男爵の爵位を得たのだ。
そんな彼は、常に女性に囲まれている、と有名だった。扱う商品も女性の好むレースや布地が多く、店にもよく顔を出すらしい。最近では、その財力で女性だけが通う学院まで設立し、入学式には必ず顔を出して若い娘たちを物色しているという。
草原の部族であることがひと目でわかる顔立ちに長い髪、しかし服装はサンティの貴族風という出で立ちをあざ笑う者も多かったが、それでも金のあるところには人が集まるのか、一部の人々には人気があった。女性にもだ。
「あなたのことは、存じ上げてますけど、でも」
「でも、わからないんだな」
アスファドは辛そうに眉根を寄せ、それからふと馬車の窓の方を見て舌打ちをした。
「リーアムのやつ、何やってんだ」
ふと気づくと、馬車はまだ動き出していなかった。レストランの前に止まったままである。
そこへ、バタバタと足音がして馬車が揺れた。誰かが御者台に座ったらしい。
前の小窓が開いて、さっきの青年が顔を出す。
「グローバー伯爵に、マリヴィア様は必ずお返しすると言ってきましたからね!」
「勝手なことすんな、マリヴィアはもう俺のもんだ」
「未婚のご令嬢はご両親のものです! ちゃんと手続きを踏んで下さい、手続きを!」
キャンキャンと吠えるリーアム青年。
アスファドはマリヴィアの手をつかんだまま身を乗り出して、小窓越しにリーアムにいくつか指示を出した。「まったくもう!」という声と共に小窓は閉まり、鞭の音がして馬車は動き出す。
「ど、どこへ」
「とりあえず、俺の屋敷かな」
「嫌、下ろして!」
涙目で後ずさるマリヴィアは、逃げ道を探して視線をさまよわせた。広い馬車のため、扉がずいぶん遠くに思える。
アスファドが、抑えた声音で言った。
「怖がらないでくれ……頼む」
ハッとなった彼女は、おそるおそる彼の顔に視線を戻した。
先ほどまでは強引すぎるほど強引だった彼が、懇願するように言う。
「お前の嫌がることは決してしない。俺がそんなことするはずないって、知ってるだろう? って、ああ、覚えていないのか……くそっ」
一瞬彼が、しょんぼりと耳を伏せしっぽを垂らす、イヌ科の動物のように見えた。マリヴィアもようやく、声の震えを抑えて会話を試みる。
「私を、どうするつもりですか」
「そんなの、決まってる」
手を握られて、一瞬「ひっ」と声を上げてしまったマリヴィアだったが、アスファドは真摯な声で続ける。
「一生お前のそばで、お前を守り、幸せにする」
その黒い瞳に引き込まれそうになったマリヴィアは、どうにか視線を外した。
「お、おかしいです。どうしてあなたがそんな……私、婚約者が」
自分を幸せにするのは夫となる人、つまり婚約者パーセルのはずだと言いたかった彼女だが、アスファドはまた舌打ちをした。
「ああ、それがあったな」
そして、すぐに一つうなずく。
「そっちの婚約は破棄していい。俺がおさめておく」
「え、え、ええ?」
「遠慮するな。お前は俺の妻になるんだから、夫になる俺がそうするのは当然だ」
(だからそういうことではありませんってば!)
もはや何を言っていいかわからず、くらくらしてきたマリヴィアである。アスファドは眉を寄せ、低い声で言った。
「本当に全然、覚えていないんだな。もちろん、その方がいいが……」
「……?」
この男性について、自分はやはり何か忘れているらしい、と考えたマリヴィアは、申し訳なく感じ始めた。基本的に彼女はお人好しだ。
「あの……ごめんなさい、忘れっぽくて。ちょっと思い出してみますから……そうしたらまた、改めてお話を」
どうにかこの場を納めようとして、マリヴィアはぎこちなく微笑んだ。
すると、アスファドは軽く目を見開いた。
大きな手のひらが伸びてきて、彼女の頬を包む。
「笑った……可愛いな。やっぱりお前は可愛い。……そうだな、話は改めて、ゆっくりしよう。先に結婚だ」
「はぁ!?」
「リーアム、行き先を変更する。教会に向かえ」
今すぐ結婚するつもりだと悟り、マリヴィアは思わず小窓に向かって叫んだ。
「待って、やめて行かないで! 教会なんて無理です!」
「心配しなくていい。俺はサンティの国民になった時に改宗している」
「あなたのことじゃなくて!」
はっきり言わないと話が通じないということを、遅まきながらマリヴィアは理解した。勇気を奮い起こして言う。
「あなたとの結婚を、私は受け入れません!」
(い、言ったわ!)
胸を押さえ、達成感に震えながら荒い息をついていると、アスファドはさらりと言った。
「しかし、もう俺以外と結婚できないだろう。さっきの様子じゃ」
「えっ」
一瞬ぽかんとしてから、マリヴィアは顔から血の気が引くのを感じた。
先ほどの、レストランでの一幕が脳内を横切っていく。
『俺と彼女は強く結ばれている』
『成り上がり者の蛮族と付き合った過去』
「そ、そうだった! あなたがあんなこと言うから、私が結婚前にそんな、何もしてないのに、ふしだらだってことに……!」
「あきらめろ」
アスファドはマリヴィアを引き寄せ、悲鳴を上げる彼女を膝に乗せてしまった。そして、口の端をくいっと上げるような微笑み方で、彼女を見つめる。
「お前がふしだらかどうかは、俺だけが確かめればいい」
「だからどうしてそうなるのー!」