二―四章
質問の形で言ってはいるが、明らかに強要だった。
「実践の経験何て、ありませんよ」
それでも、一応はじたばたしてみる。
「まさか」
行斗は一笑に付した。
ただし、目は笑っていない。
恐い笑い方だった。
いくらなんでも、行き成り半殺しにはされまい。
心はそう思って対峙した。
靴下を脱いで床に立つと、冷たい感触が這い上がってきた。
足の指先に力が入り辛くて、動きにくい。
市街地から離れ、高地にあるせいだけだろうか。
「さすがに、良い立ち方をしています」
そう言う行斗に、初めて経験する違和感を覚えた。
心を見る目が、今までに見た事のないものに変わっていた。
瞳が全く動かない。
心の胸の辺りを見ているが、見ていない。
姿形以外の何かを見ている。
見開き、炯と光る目からは、いかなる人の感情も読み取れなかった。
違う生き物、それも肉食の猛獣に見つめられているような錯覚に陥る。
いやな汗が滴ってきた。
いつでも箍を外して行動できる。
そんな雰囲気があった。
行斗について、幾つもの噂がある事を心は思い出した。
〈何人もの武術家が再起不能にされたらしい〉
〈何人もの敵対者が、行方不明になっているらしい〉
自分と歳も体格もそうは変わらない、この上級生が。
噂は誇大になるもの。
そう思っていた。
思っていたが……。
僅かな疑念、注意の拡散。
気がつくと、行斗が目の前にいた。
まるで、始めからそこにいたかのように。
「!?」
驚き、重心が浮いた。
そこを、とん、と軽く胸を突かれて心は尻餅をついた。
「どうしました、注意力が散漫ですよ」
動きが全く分からなかった。
見てはいたのだ。
瞬間移動したとしか思えなかった。
「目を覚まさせて上げましょう」
手を引かれた。
その時。
堂の景色が高速で流れた。
それが止まったと同時に、背中一面に衝撃が突き抜けた。
息が詰まり、背筋が強張って海老反りになる。
床を転げ回って、息ができるようになった後に、心には初めて自分が投げられた事が分かった。
顔を上げ、抗議の声を上げようとして、だが心はできなかった。
何の変化も、行斗は見せなかったからだ。
炯と光る目だけが、自分を見下ろしている。
無表情とは違う。
ただ、それがどういう感情を表しているのか、心には分からなかった。
喜怒哀楽以外の表情を、行斗は浮かべていた。
それが、変わらない。
行斗は、痛みに転げ回る人間を観ても何の感情の揺らぎも見せなかった。
当たり前の事を当たり前のように行った。
そんな雰囲気だけが、何とか読み取れるだけだった。
「立ちなさい」
行斗が近づいてくる。
立ち上がりかけたところで、投げられた。
「やけに重いですね」
投げられる。
投げられる。
投げられる。
投げられる。
立った瞬間に投げられ。
座っていれば投げられまいと立ち上がらずにいれば、座った姿勢で投げられる。
寝ていてさえも、間接を支点にひっくり返されるようにして投げられた。
ふらつく意識の中で、心は愕然となっていた。
自分の意思が通用しない。
そう。
始めての経験だった。
自分以外の何者かに、自分の行動を支配される。
屈辱だった。
その屈辱の奥に、恐怖があった。
その恐怖の中に、衝動が隠れていた。
その衝動の正体を探って、それが歓喜だと分かった時、気がふれたのではないかと、心は自分を疑った。
こんな事があるのか。
こんな事ができるのか。
技が。
人が。
「あなたは、自分の体の重さに気づいていますか」
心はへとへとになって倒れながら、それでも行斗が何を言っているのかが気になった。
こいつは、何を知っていると言うのか。何を見通していると言うのか。
「長年の気功法による体の充実は相当なものです。
後は技を覚えれば、町道場の師範クラスの実力は直ぐに得られるでしょう」
そっちの答えはどうでもいい。
「……興味、ない」
心は、ぜえぜえと喘ぎながらも落胆した。
「やはり、あなたは面白い。
強さに興味がないようですね。いや……」
ついっと、行斗の口の端が持ち上がった。
始めて、心にも分かる感情を浮かべた。
「なるほど、得難い資質です」
行斗を見上げながら、〈達人〉と言う言葉が心の頭をよぎる。
この歳で?
いや、紛れもない。
達人。
しかも、やばい方の。
達人にありがちな、性格破綻者。
いや、違う。
人の形をした、別のもの。
目の前に立っているのは、そう言うものだ。
「では、あなたが興味を持ちそうな話をしましょう」
行斗は心を見下ろしながら、その場に座した。